栗本薫『修羅』(ハヤカワ文庫JA)読了。急展開の巻で、なかなか読み応えあり。しかし、1900年代最後に読む本がこれになってしまうとは。
午後から鎌倉へ帰省。実家が近いと、交通機関の予約もせずにふら〜っと帰れるのが楽。横須賀線はがらがら。明日はむちゃくちゃ混むんだろうけどね。
深夜になるとどこからか聞こえてくる除夜の鐘の音。静かな年の暮れ。
『シェンムー』は飽きてしまったので途中でほうりなげ、いっしょに買ってきた『東京バス案内』にはまり中。このゲーム、ひとことでいえば都バス版『電車でGO!』。ビッグサイト前とか六本木とか新宿駅前とか、見なれた街をたらたらと走るのが妙に楽しいんだよなあ。レーシングゲームみたいなスピード感はないし(最高でも時速60キロ。バスだから)、走れるコースが少ないのが難点だけど、妙にくせになるおもしろさ。ウィンカーを出さなきゃならないドライビングゲームってのは初めてなのでは。
さて今年も押し迫ってきたので、私的映画ベストテンといきます。
1.マトリックス
2.ファイト・クラブ
3.アインシュタインの脳
4.恋に落ちたシェイクスピア
5.ガメラ3 邪神覚醒
6.オープン・ユア・アイズ
7.ハムナプトラ 失われた砂漠の都
8.シャー・ルク・カーンのDDLJ ラブゲット大作戦
9.交渉人
10.シックス・センス
やっぱり『マトリックス』だよなあ、今年は。『ファイト・クラブ』は「傑作、と言い切るのはちょっとためらわれる」と以前書いたけど、ほかの作品と比較してみると、やっぱりこの位置に置くしかないんだよなあ。『マトリックス』と並び、今年もっとも刺激的で世紀末的な映画でした。3位の『アインシュタインの脳』は、映画として、というより杉元助教授のキャラクターでこの位置に。
今年の更新はこれでおしまい。では、みなさん、よいお年を。
『シェンムー』を買う。別に全然期待はしてないのだけど、いちおうドリキャスを持ってる以上話のタネにやっておきたいじゃないですか。
確かにリアルな3Dグラフィックの街を自由に歩きまわれるのは驚異的で最初は驚いたのだけど、しばらくやっていると、街の人との会話は定型的だし、ゲームの内容も一本道のフラグ立て以上のものではないことに気づいてがっかりしてしまった。街の生活を楽しむゲームであるとすれば、これではあまりにも自由度が小さすぎる。箱庭ゲームとしてならば、『ワールドネバーランド』や『どきどきポヤッチオ』の方がはるかに優れている(私としては、あれでも自由度が少ないと思うけど)。
それに、シナリオがあまりに単純で、キャラクターの感情も底が浅く、物語としての魅力に欠けるのも気になる。今どき「……アルヨ」とか「……ヨロシ」などと喋る中国人なんてのは、ほとんど人種差別に近いのでは。
ゲームの中の世界のリアルさは、グラフィックのリアルさとは、まったくとはいわないまでも、あまり関係があるとは思えない。それこそキャラクターが"@"であったとしても、「ゲームのリアル」はまったく損なわれはしないものだろう。
現在、二枚目の旧倉庫街まで進んだものの、何度やっても失敗してつまっている。どうも、私の考える「おもしろいゲーム」と制作者の考える「おもしろいゲーム」はかなりかけ離れているようだ。
まあもともとまったく期待していなかったゲームなので何とも思わないのだけど、第二章以降はたぶん買いません。
今日で仕事納め。でも当直なので帰れない。
当直中に栗本薫『豹頭将軍の帰還』(ハヤカワ文庫JA)読了。考えてみればこの巻の感想を書いたところで「お、そうか読んでみようかな」とこの巻だけを買ってくる読者などいるはずもないわけで、長大なシリーズものの途中の巻の感想を書くという行為に果たしてどれほどの意味があるのか疑問を感じないでもないのだが、まあそれを言っては始まらない。
以前からその傾向はあったのだけど、この巻で特に顕著なのは、シルヴィアやイシュトヴァーンといった登場人物の心理描写がきわめて現代的なこと。ふたりともきわめて見捨てられ不安が強くて安定性を欠いた人格として描かれてるし、シルヴィアに至っては、これは完全に境界型人格障害ですね。きわめて心理分析しやすいキャラクター、というよりこれはもう、作者がかじった心理学の知識から逆に作られたキャラクターなんでしょうね(以前はレムスが多重人格者のように描かれてたこともあったし)。
しかし、舞台はあくまでファンタジー的世界なわけで、その中に現代的な人格が配置されてることにどうも違和感を感じてしまうのですね。現代的人格はあくまで現代的な社会環境によって生み出されるものであり、ファンタジー的世界には現代とはまた違った人格の人間が生きているはずでは。ただし、ファンタジーの作者がそのような人格を想像しうるかどうか、さらにはそのような人格に現代の読者が感情移入できるかどうかは、また別問題だけど。
そこらへんをつきつめて考えるときわめて読みにくい代物になってしまうので、別にその必要はないと思うのだけど、キャラクターがあまりにも現代的すぎるというのはちょっと興ざめだと思うな。
今さらながら草上仁『東京開化えれきのからくり』(ハヤカワ文庫JA)読了。SFマガジンに連載されて読者賞を獲った作品だけど、意外にSF味は薄い。SFというよりは、架空の明治時代を舞台にした冒険ミステリですね、これは。とにかく、キップのいい江戸っ子たちの活躍と文明開化のダイナミックな雰囲気が、理屈抜きに楽しめる作品である。
江戸っ子のキャラクターたちのテンポのいいやりとりを読んでいるだけで楽しくなってくるし、「ぷろぺー」とか「いんぐりす」とかいう独特の外来語表記がまた、なんとなく明治っぽいんだよなあ。このあたりの雰囲気づくりがとてもうまい。この世界での明治時代は、史実よりもはるかに国際都市になっているらしくて、アメリカ小唄を歌う黒人のおいらんがいたり、電球のフィラメントに使う竹を探しにエジソンが自らやってきたりしているといったディテールもおもしろい。物語はけれんなくまっすぐつきすすみ、大仕掛けの大団円にまでなだれこむ。今どきめずらしい愛と勇気と正義の物語である。
『ファイト・クラブ』を観る。傑作、と言い切るのはちょっとためらわれるけど、問題作であることは確か。テーマ的には確かに裏『マトリックス』かも。閉塞した現代社会からなんとかして抜け出したいという焦燥感の行きつく先に待っているのは、やっぱり暴力しかないんだろうか。
不眠症に悩む主人公が、難病の自助グループを渡り歩いて癒しを得るあたりのブラックな笑いや、殴り合いのクラブがだんだんとカルト的なテロ組織になっていくあたりの不気味さは大好き(北欧家具にこだわりインテリアに凝りまくる主人公の描写は、真に迫っていて妻のツボにはまったそうな)。前半だけなら文句なく傑作だと思うんだけど、思わずおいおい、とツッコミを入れたくなるぎゃふんオチの後はちょっと失速気味なのが残念。ああいうラストにもっていくには、ヒロインの扱いもどうも中途半端に思えるし。
ともあれ、今までのフィンチャー監督の4作のうちでは『セブン』を超える最高傑作。観るべし。
続けて『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』も観ました。気持ち悪くなりました。いや、映画の内容にでなく、手持ちカメラの映像に。私は3Dゲームやると必ず気持ち悪くなる体質なので、わざわざ後ろの方に座ったんだけど、それでも気持ち悪くなってしまった。ううう。まあ、それはともかく、私は、この映画を全然評価しません。いや、別に気持ち悪くなったからというわけではなく。思わせぶりな謎を放り投げるだけで終わりというタイプのストーリーはもうエヴァだけで充分です。こういう話はもう飽きたよ。
古本屋で鮎川哲也編『下りはつかり』『急行出雲』『見えない機関車』(カッパノベルス)購入。3冊で200円。
昭和40年代といや政治の時代である。大学紛争やらなんやらで盛りあがっていた時期だけど、精神医学界も大揺れに揺れていた時期だってことはあまり知られていない。昭和44年の精神神経学会は、左翼系若手医師と執行部の間で激しい討論(というか吊るし上げに近い)が行われて紛糾したし、たとえば東大では、昭和43年10月、精神科医局が自主解散し、左翼系の医師たちが「東大精神科医師連合」なるものを結成。翌年には保守派の人たちが「教室会議」を結成し、東大の精神科は二分されてしまう。「精神科医師連合」は病棟をテリトリーとして彼らのいう「自治」を行い、一方「教室会議」は外来をテリトリーとして対立していたので、外来で診た患者を自分のところの病院の病棟に入院させることはできなかったし、病棟から退院した患者は別の病院の外来で診るしかなかったのである。
これだけなら、やれやれ、紛争の時代だからねえ、と嘆いていればいいのだけど、驚いたことに、この状況はつい最近まで続いていた。当然ながら、患者にとっちゃきわめて不便である。東大精神科の外来と病棟がようやく統合されたのは今からわずか二、三年前のことなのだから驚きである。
「精神病質」の話だった。昭和40年代ってのはこういう時代なわけで、当然ながら「精神病質」も左翼系の人たちの批判を浴びることになる。なんせ、その頃には、医学的というより保安上の理由によって、常習的に犯罪を繰り返す困った人たちを「精神病質」と名づけて入院させたりロボトミーをしたりしてしまうってことが普通に行われていたわけだから。
昭和47年の精神神経学会では、「いわゆる精神病質について」というシンポジウムが行われ、保守派の先生方が、左翼系医師や学生によって吊るし上げられている。かわいそうにここで吊るし上げられているのは今もテレビでおなじみの小田晋先生。あくまで学問的な見地から「精神病質」という用語の価値を認める小田先生は、若手医師や学生からの厳しい追及に遭っている。ただ、吊るし上げる側のロジックがいかにもサヨク的で「オルグ学入門」にある議論の仕方そのまんまなので笑ってしまうのだけど。
まあ、こういう経緯で、「精神病質」という概念のあやふやさと、その医学的と言うよりも保安的な意味合いが追及され、昭和50年代以降はこの言葉はほとんど使われなくなったわけである。
ただ、「精神病質」という言葉は使われなくなったが、当然ながら、きのう書いたような、習慣的に犯罪を繰り返す人がいなくなったわけではないのですね。というわけで、精神病質は社会病質、反社会性人格障害と名前を変えながらも、今でも精神医学用語の中に生き延びている。頭に穴を開けることこそなくなったものの、いまだに「精神病質者」が精神医学の大問題であることは変わっていないのだ。
さて、最後になったけど、この「精神病質」という用語について。この言葉、ドイツ語からの翻訳なのだけど、原語では"Psychopath"。つまりは「サイコパス」である。精神病質は聞いたことがなくても、サイコパスなら知っている人も多いはずだ。今でもサイコサスペンスなんかでよく使われているし、『診断名サイコパス』なんて本も出ていた。
こないだ読んだ『BH85』からの引用になるが、「名前というものは大切です。名付けることは規定することですから。そしていったん名付けられたならば、名前そのものがその対象に対する感情を左右します」。
「困った人」をサイコパスと名づけることは、自分たちとは違う存在と規定することだ。違った存在であれば、極端に言えば、収容所に入れても、頭に穴を開けても我々の良心は痛まない。
常習的に犯罪を繰り返す人もいるだろうし、殺人を犯してもまったく反省しない人も確かにいるだろう。そういう人をどうすればいいか、ということについては、もちろんいろんな意見があっていいと思う。でも、少なくとも、サイコパスという言葉を使う人は、この用語がこれまで書いてきたような歴史を経て今では使われていない言葉だということくらいは認識しておいてほしいなあ。そしてサイコパスの診断が極めてあいまいだということも。
あー、クリスマス・イヴですな。妻は東山紀之ディナーショーに行ってしまったので、私はひとり寂しく外食である。『グラン・ツーリスモ2』を買ってみたが、単にレースをしたいだけで車にはまったく思い入れのない私にはあまりに敷居の高いゲームだったみたい。レースに参加するはるか手前、ライセンスを取る段階でつまり中。あと、bio_100%ファンとしてはやっぱり買うしかないでしょ、『戦国TURB Fanfan I(はーと)me Dunce-doublentendre』。予想通りつまらないというかゲームですらないが、これは世界を楽しむものだからこれでいいのだ。本は、ようやく出たレイ・ブラッドベリ『二人がここにいる不思議』(新潮文庫)。
さてきのうの続き。昭和34年の精神神経学雑誌に載っている加藤雄司「前部帯回切除術に関する研究 特に精神病質症例について」には、ロボトミー手術を受けた精神病質患者が何人か紹介されている。
まずは昭和8年生まれのA(男性)。中学に入ってからほとんど登校せず盛り場で遊んでいて、2年で中退。その後工員をやったが半年でクビ。家族が仕事を探してきても全然就職しない。昭和26年から覚醒剤を打ち始める。以前から遊ぶ金ほしさに両親を脅迫することがあったが、昭和30年になるとますます激化。両親に殴る蹴るの暴行を加え、家具を壊し、放火するぞと言って脅す。
昭和30年5月29日、精神病院に入院。自己の非行に関する批判、反省はまったく欠如している。病棟内では他の患者をいじめたり暴行を加えたりし、看護者にはまったく従おうとせず、心理療法は無効。そこで7月1日チングレクトミー(ロボトミーの一種である)施行。すると「温和従順となり、看護上の扱いは容易となった」。術前は両親に不平不満を漏らし脅迫的になることが多かったが、術後はそのようなこともなく、家人もたいへん喜んで昭和32年4月退院となった。その後は父親とともに家業に励み、その仕事ぶりは積極的で勤勉であるという。
次は、昭和8年生まれのB(男性)。中学生の頃から動機のはっきりしない家出があり、高校に進学するとそれが頻繁になってきた。高卒後、小学校教員を2年間やり、成績良好だったが、生徒から集めた金を持って同僚の女教師とともに出奔、金を使い果たしたあと自殺未遂事件を引き起こす。教員を辞め、地方の新聞社に勤めたが、ここでも社の金を横領し、昭和29年末、再び自殺未遂。最後に寿司屋の出前持ちになったが、昭和31年3月、またも店の金を持ち逃げ。その1週間後の深夜、酩酊して街を歩行中、通りかかった警官に「これから犯罪を犯すから今のうちに逮捕してくれ」と要求。警官には冗談と思われまったく取り合ってもらえなかったが、その直後、通行人をバールで殴りつけて逮捕された。
昭和31年4月、この事件をきっかけに精神病院に入院、「他者に対する思いやり、人間的な温かさ、寛容さに全くかけており、入院前の非行に対する反省も不充分」ということで、10月にチングレクトミー施行、その後は素直に自分を反省するようになり、堅実な将来への計画を抱くようになったという。
ほかにもたくさん例が載っているのだが、どれも似たり寄ったりだ。精神病質ってのは、まあ、こういう人たちである。病人というより犯罪者だよなあ、これは。きのう挙げた症例とは全然違うような気がするのだが、当時はどっちも「精神病質」ということでまとめられていた。当時は、こういう人は「精神病質」という病名をつけて精神病院にでも入れちまえ、という時代だったのだ。でも、受け入れた病院の方でも困りますね、これは。治療は難しいわ、他の患者に暴力を振るうわ、脱走するわ。まさに問題患者である。当時、病院で精神病質患者をどう扱うかが大問題だったのもよくわかる。実際、病院にとっても、こういう人をかかえた家族にとっても、ロボトミーはまさに福音だったんだろう。
要するに、反省のない犯罪者は精神病院に入れて頭に穴でも開けちまえ、というわけ。そうすると怒りっぽくて暴力的なところもなくなってとってもハッピー。病院もハッピー、社会もハッピー。
でも、本当にそれでいいんだろうか? もともと「精神病質」という診断自体あいまいなのに、そんなものに基づいて不可逆的な脳外科手術をしてしまっていいんだろうか。そして、性格が正常から外れているということだけを理由に「精神病質」なんて病名をつけてしまっていいものなのだろうか……などと、徐々に「精神病質」に対する批判が高まってくる。昭和40年代のことだ。
以下明日?
精神医学に「精神病質」という概念がある。
この言葉、今じゃほとんど使われないけれど、かつては広く使われていた概念で、昭和30年から40年代ごろには「精神病質」と診断されたおかげで長いこと精神病院に収容されたり、ロボトミー手術を受けたりした人は数知れない。古い精神医学雑誌をめくれば、「精神病質」の文字は至るところに登場する。
これほどまでに、精神科医の間では広く使われていた「精神病質」だけど、不思議なことにその定義がはっきりしないのですね。いくつかの論文に目を通してみたが、精神病と正常の中間、という人もいれば、そうじゃない、という人もいる。ドイツの精神医学界の大物シュナイダーの定義によると「生まれつき性格が正常から逸脱していて、その人格の異常性に自ら悩むか、あるいはその異常性のために社会が悩む異常人格」なんだそうだ。なんだかわかりにくいが、実際には、性格の偏りによって暴力や犯罪を繰り返して社会の迷惑になる人を精神病質と呼び、精神病院に収容していたのである。
当時この「精神病質」について常識だったのは、生まれつきのものであること、そして治療は絶望的だということ。実際、病院に収容して社会から隔離するか、ロボトミー手術を施すくらいしか治療法はなかった。この「精神病質」患者にどう対応するかが、当時の精神医学界では大きな問題だったのである。
さて、それではどんな患者が「精神病質」なのか。昭和33年の精神神経学雑誌に発表された辰沼利彦「親に対して攻撃、依存性を有する精神病質人格者について」という論文にある症例をみてみよう。
まずは20歳の男性の例である。
彼は中卒後菓子会社に入社したが、しばらくすると、仲間が学校では禁じられていた猥談を平気でやっているとか、政府が博打を禁じながら競輪や競馬をやっているなどという、学校教育と実社会の矛盾に思い悩むようになる。親に相談してもまったく悩みを聞いてくれない。自分で解決しようとしたが考えれば考えるほどわからなくなる。しまいには、ちょっとしたことでも無性に腹が立つようになり、親を殴ったりものを壊したりするようになる。
すると、親はなんと彼を精神病院に入院させてしまうのである。昭和26年、彼が16歳のときのことである。昭和20年代の精神病院がどういう場所なのかはだいたい想像がつく。おそらくは暗く不潔で、16歳の少年にとってはきわめて苛酷な環境だっただろう。彼はここに4ヶ月間入院していたが、退院したときには「俺はこんな病院に入ってしまったんだ」と、入院前よりもさらに強い劣等感を感じ、人と会うことすら嫌になっていた。かといってこのままでは将来の生活をどうすればいいのかもわからない。どうすることもできない彼は、また以前のように親に暴力を振るうようになり、退院後4ヶ月で再び入院させられてしまう。
ある日診察を受けているときにカルテに「異常性格」という文字を見つけ、彼は絶望する。昭和27年10月、彼は2度目の退院を果たし、仕事を始めるが、1年後には交際がうまくできない、という理由で会社へ行かなくなり、また家に閉じこもって親に乱暴するようになったため、今度は1年間精神病院に入院。入院中はおとなしく過ごしていたが、退院後半年でまた両親への暴行が始まったという。暴力の理由は「なぜ小さい頃俺を殴ったり飯を食わせなかったりしたんだ。そのせいで俺の性格はこんなに陰気になり、ひねくれてしまったじゃないか」という幼少期の親の育て方への不満で、精神病院退院後は、それに「なぜ精神病院なんかに入れたんだ」という理由が加わっているという。
え、これが精神病質? と思った人も多いと思う。今ならアダルト・チルドレンとでも言われて、カウンセリングを受けているはずだ。三度も入院しなければならないほどの病気とはとても思えない。
要するに、この頃の精神医学界の常識では、親に暴力を振るえば「異常性格」で「精神病質」だから、精神病院に入院が必要、ということになっていたわけだ。なんともいいかげんな診断としかいいようがない。
長くなってきたので、続きは明日。
なんで、そんな昔の概念の話を延々と続けるんだ、と思っている人もいるかもしれないが、実はこの「精神病質」、古いようでいて、実は現代社会とも密接に関わる概念なのだ。
e-sekaiで『ロボトミー殺人事件』なる本(なんつータイトルじゃ)を注文してみたら、しばらくしてメールが来た。
ご利用ありがとうございました。
下記のご注文商品のお届け予定日が決まりましたのでご連絡いたします。商品は下記予定日に倉庫を出荷いたします。出庫後3営業日以内にお届けの予定でございますが、しばらくしても商品が届かない場合は弊社サービスセンターまでご連絡下さい。
おお、絶版かと思っていたらまだ在庫があったのか、さすがはe-ショッピングだぜ、と感動していたのだが、しばらくして、「出庫予定日」のところに「弊社都合」と書いてあるのを見つけた。これはいったいどういうことなんだ、と思ってよく見ると、
「弊社都合」とはメーカーの欠品もしくはお客様の2重注文により、ご注文を
キャンセルさせて頂いた場合の表記になります。
と書いてあるではないか。要するに絶版もしくは品切ということらしい。
いや別にそれほど期待してなかったからいいんだけどさ、それならそれで「お届け予定日が決まりました」なんてメールじゃなく、別のスタイルのメールを出してくれよ、紛らわしい。
井波律子『中国のグロテスク・リアリズム』(中公文庫)、志村有弘編『怪奇・伝奇時代小説選集』第2巻、第3巻(春陽文庫)、井上雅彦編『世紀末サーカス』(廣済堂文庫)、鈴木博之『日本の〈地霊〉』(講談社現代新書)、ルイス・ウォルパート、アリスン・リチャーズ『科学者の熱い心』(講談社ブルーバックス)購入。
本日当直。
表紙、挿絵が吾妻ひでおとくれば、これは読まないわけにはいくまい。日本ファンタジーノベル大賞優秀賞受賞作、森青花『BH85』(新潮社)読了。ファンタジーの賞を取った作品ではあるものの、これはまぎれもなくSF。ひとことで言ってしまえば、毛生え薬版『ブラッド・ミュージック』である。すべての人類がどろどろに溶け合って群体へと進化する話、といえばSFファンならたちどころに数作の名前を挙げることができるんじゃないだろうか。
私も読み始めたときには、またこのテーマかいな、と多少げんなりしないでもなかったのだけど、古い素材を扱っていてもその料理法は現代の作者ならではのもの。見事に、今までの同テーマの作品とは一味違った作品に仕上がっている。
それじゃ、今までの作品といちばん違うところはどこかというと、融合を破滅とはとらえず、さりとて福音ともとらえないというニュートラルな姿勢ですね。怖がらない。歓迎もしない。勝手な意味づけをせず、ただ単なる変化としてとらえる。このクールさがまさに現代的。本書の主人公たちは、諸星大二郎の「生物都市」のように、固い意志によって融合を拒否したわけではなく、ただ偶然に融合できなかっただけ。彼らはそれぞれ、五者五様のスタンスで事態に対処するわけだけど、共通するのは、融合体を敵視しないこと。作中の天城教授の台詞が象徴的である。
「名前というものは大切です。名付けることは規定することですから。そしていったん名付けられたならば、名前そのものがその対象に対する感情を左右します」
そこで彼らは「黒キメラ」という怪物めいた呼称をやめ、融合体を「生物の記憶の集合体」=「ネオネモ」と呼ぶのである。そして彼らは、それぞれに態度は違うものの、ネオネモと共存して生きていこうとする。
世界は変わるけど、それでも人生は続く。
からりと明るく、そして美しいイメージに満ちた物語である(特に天城教授の語る妻との別れの物語は詩情豊かで絶品!)。『終わりなき平和』と併読してみるのもいいかも。今年はもう締め切りを過ぎてしまったけど、来年のSFベストには絶対入れなくちゃ。
でも、たぶん作者はわかった上で書かなかったのだろうと思うのだけど、テロメア同士の子どもが必ずしもテロメアになるとは限らないよね……。
99年12月中旬 恋愛妄想、ルートビア、そして阿修羅級の功徳兵器の巻
99年12月上旬 君は近視、セブンス・ヘブン、そしてカリスマ精神科医の巻
99年11月下旬 投込寺、お受験、そして田の巻
99年11月中旬 カムナビ・オフ、古本市、そして定説の巻
99年11月上旬 @nifty、マラリア療法、そしてまぼろしの市街戦の巻
99年10月下旬 スイート・ヴァレー・ハイ、口呼吸、そしてクリスタルサイレンスの巻
99年10月中旬 少年隊夢、笑い反応、そしてカムナビの巻
99年10月上旬 2000円札、カエル、そして日原鍾乳洞の巻
99年9月下旬 イギリス、怪文書、そして臨界の巻
特別編 英国旅行の巻
99年9月中旬 多重人格、オークニーに行きたい、そしてイギリスの巻
99年9月上旬 家族、通り魔、そしてもてない男の巻
99年8月下旬 家庭内幻魔大戦、不忍道り、そしてDASACON2の巻
99年8月中旬 コンビニ、液晶モニタ、そしてフォリアドゥの巻
99年8月上旬 犯罪者ロマン、イオンド大学、そして両生爬虫類館の巻
99年7月下旬 ハイジャック、あかすばり、そしてさよなら7の月の巻
99年7月中旬 誹風柳多留、小児愛ふたたび、そして動物園の巻
99年7月上旬 SF大会、小児愛、そして光瀬龍の巻
99年6月下旬 小此木啓吾、上野千鶴子、そしてカルシウムの巻
99年6月中旬 妄想、解剖学標本室、そしてパキャマラドの巻
99年6月上旬 睾丸握痛、アルペン踊り、そして県立戦隊アオモレンジャーの巻
99年5月下旬 トキ、ヘキヘキ、そしてSSRIの巻
99年5月中旬 鴛鴦歌合戦、星野富弘、そして平凡の巻
99年5月上旬 SFセミナー、ヘンリー・ダーガー、そして「てへ」の巻
99年4月下旬 病跡学会、お茶大SF研パーティ、そしてさよなら日記猿人の巻
99年4月中旬 こっくりさん、高い音低い音、そしてセバスチャンの巻
99年4月上旬 日記猿人、生首、そして「治療」は「正義」かの巻
99年3月下旬 メールを打つ、『街』、そしてだんご3兄弟の巻
99年3月中旬 言語新作、DASACON、そしてピルクスの巻
99年3月上旬 サマータイム、お茶の会、そしてバニーナイツの巻
99年2月下旬 バイアグラ、巨人症、そしてドッペルゲンガーの巻
99年2月中旬 クリストファー・エリクソン、インフルエンザ、そしてミロクザルの巻
99年2月上旬 犬神憑き、高知、そして睾丸有柄移植の巻
99年1月下旬 30歳、寺田寅彦、そしてスピッツの巻
99年1月中旬 アニラセタム、成人、そしてソファの巻
99年1月上旬 鍾乳洞、伝言ダイヤル、そして向精神薬の巻
97-98年の日記