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3月31日(水)

 最近、本屋の科学書新刊コーナーに行くと、並んでいるのは環境問題関係の本ばかりである。まあ、今の時代仕方がないのかもしれないけれど、環境本ばかりがやたらと幅を利かせていて、恐竜本とか宇宙本とかの昔ながらの正統派科学書は隅っこに追いやられてしまっているのはなんとも寂しい。『電磁波が危ない』とか『環境ホルモンの恐怖』とか『クローンの悪夢』とか(タイトルは私が適当に考えたもの。でも、こういうの、よくあるよね)、恐怖をあおりたてるようなタイトルを見ただけで、私などげんなりしてしまって読む気をなくしてしまう。それに、そういうふうにタイトルでいきなり決めつける姿勢は、科学的というには程遠いと思うんだけどなあ。いっそのこと、科学書と環境本は売り場を分けてくれないものか。

 唐沢なをき『電脳炎ver.1 ウィン版』『電脳炎ver.1 マック版』(小学館)購入。しかし、いくらなんでも「マック版・ウィン版は、どちらのユーザーにも楽しんでいただけるように90%同一(当社比)」はないよなあ。違うのは巻末の4コママンガ7本、しおり(版画男1号か2号か)、カバーの色と扉、裏表紙のみ(巻末の「今さら誰にも聞けなかったコンピュータの全て」という記事も違うが、これは別にどうでもいい)。まあ、『ハザール事典』みたいなもんである。唐沢なをきなので仕方なく両方買ったが、2巻以降もこうなのか。ちょっと勘弁してほしいなあ。
 田中聡『ニッポン秘境館の謎』(晶文社)、池田晶子『魂を考える』(法蔵館)購入。
3月30日(火)

 いまさらながら、「だんご3兄弟」の話題である。
 今まで「およげたいやきくん」、スピッツの「青い車」「ラズベリー」とさまざまな歌に新解釈を提出してきた私だ。「だんご3兄弟」にも何か隠された意味がないかと考えてみたのだが、どうにもつかみどころがない。この歌、だんごの日常(?)を淡々と描いているだけで、ドラマ性がない上にオチもないとくる。こういう歌は考察がしにくいのだ。
 試しにいろんなサイトを巡ってみたところ、どこかで、この歌の3兄弟の順番がおかしいのではないか、という疑問が提出されていた。ふつう串だんごを作るときには串の先端から刺すはずなので、いちばん下が長男になるはずではないか、というのである。確かにその通りだが、だんごの誕生が串に刺さった瞬間であるという前提には疑問を感じてしまう。
 だんごってのは全員がクローンみたいなものだし、兄弟の順位は簡単には決められないのではないだろうか。それでは、何をもって彼らは兄弟順位を決めているのだろう。単に串の一番上だから長男という単純な理由なんだろうか。

 しばらく「だんご3兄弟」の詞を熟読玩味した結果、私はついにその理由を発見した。この兄弟順位は、だんご社会独自の宗教に由来したものなのだ。「だんご3兄弟」に宗教のことなんて出てきたか、と思った方は重要なところを読み落としている。
 ポイントとなるのは、「こんどうまれてくるときも/ねがいはそろっておなじくし」という一節である。ここから、だんご社会の宗教観が読み取れる。だんご社会ではキリスト教的な死生観ではなく、仏教的な輪廻思想が信仰されているのだ。
 「こんどうまれてくる」とは、まず「一旦死ぬ」ことを意味している。それでは彼らの死とはいったいどんなものなのか。言うまでもなくそれは「食われる」ことだろう。しかし、彼らの宗教においては「食われること」は永遠の死ではなく、次の生への新たなる出発なのだ(たいやき社会にはこのような「輝かしい死」の宗教がなかったために脱走者が出現したのだと思われる)。
 ここまで考えれば、なぜ「いちばん上が長男」なのかという理由もわかってくる。だんごの社会においては、長男、次男の順位というのは生まれた順番ではなく、食われる順番を意味しているのだ。だんごは「食われることによる死」を常に意識しながら生きているのである。
 このようなだんごの死生観を考えに入れれば、一見なんでもないように思えた「きょうはとだなでひるね ひるね/三にんそろってひるね ひるね/うっかりねすごしあさがきて/かたくなりました」という節が重要な意味を持ってくる。食われずに捨てられることこそ、だんごにとっての永遠の死。輪廻転生の環から永久に放逐されることを意味するのである。
 最後の「はるになったらはなみ はなみ/あきになったらつきみ つきみ」のリフレインは、ひからび捨てられ、死に瀕しただんごたちが、ついにかなわなかった幸せな生活を妄想しているのであろう。

 以上、「だんご社会における兄弟順位と死生観」をお届けしました。
 うーん、なんかいまいちだったな、今回は。
3月29日(月)

 今日は病院医局の歓送迎会。会場は神楽坂のフランス料理店。わざわざ高い会費でこんなとこでやらなくてもいいじゃないかと私などは思うのだが、なんだかんだ言っても見栄っ張りなんだよね、医者ってのは。やれやれ。
 会が終わった後は先輩医師と一緒にタクシーで帰宅。私の家の方が近かったので先に降りたのだが、この時点でメーターは約2000円。先輩の医師は「払わなくてもいいよ」と言ってくれたのだが、まったく払わないというのも悪いので、1000円を払って降りることにした。降りてから疑問に思ったのは、この場合、私はいったいいくら払えばよかったのか、ということ。
 私の目的地までの料金をA、相手の目的地までの料金をBとする。タクシー代をA:Bの比率で分担することにすれば、私が払うべき金額Xは、
 AB/(A+B)
相手の払うべき金額Y
 B^2/(A+B)
ということになる。A=2000、B=3000とすれば、X=1200、Y=1800ですね。しかし、私が降りる時点では、最終的な料金であるBは明らかになっていないことが多い。翌日以降に精算すればいいんだけど、それも面倒くさい。だいたいの料金を払いたい、という場合にはどうしたらいいだろうか。
 X=AB/(A+B)を変形すると、
 X=A-A^2/(A+B)となる。
 私が先に降りるのだから、A≦B。
 これらの条件からすると、
 A/2≦X<Aとなる。
 X=AとなるのはB=∞のときだから現実的ではない。
 A≦B≦3Aくらいまでの範囲(2000円から6000円くらい)に限定すれば、
 A/2≦X≦3A/4となる。
 つまり、私が払うべき料金は1000円から1500円くらいまで。だいたい1200〜1300円くらい払えばいいんじゃないかなあ、というのが私の結論。1000円はちょっと少なかったですね。

 しかし、よく考えてみれば以上の議論は、私の目的地が相手の目的地への道の途中にあった場合の話である。もし遠回りして私の目的地に寄ってもらっているとなると話はまた違ってきてしまう……のだけど、いい加減面倒になってきたので、今日はこのへんで。続きは明日書くかもしれないし、書かないかもしれない。

 歓送迎会の前に、飯田橋駅前のブックス・サカイにて吉田戦車『油断ちゃん』(講談社)、しりあがり寿『弥次喜多 in DEEP(2)』(アスペクト)、浦沢直樹『MONSTER 11』(小学館)、火浦功『奥さまはマジ』(角川スニーカー文庫)、重松清『舞姫通信』(新潮文庫)購入。
 しかーし、家に帰ってみると、なんということか。『弥次喜多 in DEEP』の帯が完全に破れてしまっているではないか(『油断ちゃん』もちょっと破れてる)。これは明らかに店員が紙袋に入れたときにやったとしか思えない。あまりにも初歩的なミスである。許すまじブックス・サカイのバイト店員。二度とここでは本を買うまい、と固く誓う私であった。
3月28日()

 プレイステーション版『街』とりあえず終了(というかピンクのしおり出現)。サターン版の評判は聞いていたけど、なるほどこれは出色の出来のアドベンチャー・ゲーム。あっけないエンディングもあるし、理不尽なバッドエンディングも多いけど、まあ過程を楽しむゲームなので、それほど傷にはなっていない。
 なんといっても、複雑怪奇な人間関係のからみあいをうまくさばいているのが見事。もうちょっとお互いのシナリオに有機的なつながりがあればもっと面白かったようにも思うけど、それはないものねだりかな。シナリオの中では、桂馬シナリオの、かの怪作ミステリ『思案せり我が暗号』を思わせる多重暗号連発には脱帽(かなり強引なものもあるけど)。
 テレビドラマの名が「独走最善戦」だったり、二谷英明が演じた「神代恭介」という名の警視総監が登場したり、一ヶ所だけ「特捜」のテーマ曲そっくりの曲が流れたりという、「特捜最前線」ネタの遊びもたまらんのだけど……これって「特捜」を見てた人にしかわからんだろうなあ。
 しかし隠しシナリオ含め9つのエンディングを見たのに、最後のシナリオ「青ムシ抄」が出ない。おかしい、と思ってウェブで情報を収集すると、どうもバッドエンディングを100以上見なければならないようだ。しかも、EASYモードだとバッドエンディングの数が少なくなるので、隠しシナリオは見られないらしい。うーむ、私は1日目だけEASYで始めてしまったんだよなあ、大丈夫かなあ、と思って残りのエンディングの数を数えてみると……足りない。これからでは、どうやって集めても100にはならない。途中からモードの変更はできないようなので、これはもう一度最初から始めくちゃならんのか。がーん。
3月27日()

 「メールを打つ」の話題については、いくつかの日記で反応をいただきました。
 のわきさんによれば、「メールを投げる」っていう用法もあるみたいですね。技術系の方面では使うようだけど、私はこれは使わないなあ。  一方、冬樹蛉さんの考察はなかなか鋭いところをついている。
 詳しくは、冬樹さんの日記を参照してほしいのだけれど、こちらでまとめると、「メールを打つ」という言葉の含む意味には、
(1)人間としての相手とのコミュニケーションを重視していない場合に、「出す」の意味で(郵政省メールでも使う)。
(2)技術系の人々が使うジャーゴン。
(3)「キーボードを叩く」という意味。主に初心者が使う。
 の3つが混在しているのではないか、という。
 「メールを打つ」には複数の意味がある、というのは、きのうの私の分析とも重なるところがありますね。冬樹さんの分類では、きのう最後の例として挙げた「ダイレクト・メールを打つ」は(1)ということになる。私は手紙や葉書について「打つ」という使い方はしたことがないので、どうもぴんと来なかったのだけど。
 でも、そうすると、CMの「さびしかったら、メール打ってこい」はどうなるんでしょう。「出す」という意味だろうけど、(1)とは違い、これは明らかにコミュニケーションを意図した表現である。これは(3)から派生した、第4の意味かもしれない。
 また、日本語では「書く」というだけで「書いて出す」という意味も含むことがある。
 もし私が引っ越しするとして、別れ際に女の子から「手紙、必ず書いてくださいね」と涙まじりに言われたとしたら(残念ながらそんな経験は一度もないのだが)、それは暗黙のうちに「書いて出す」ことを意味しているだろう。しばらくのち、電話で「なんで手紙書いてくれないの?」となじられたとき、「ちゃんと書いたよ。出さなかったけど」と答えたら、嫌われることは必定である。
 これと同じように、もともとは「(キーボードやポケベルのボタンを)打つ」の意味から、いつのまにか「出す」の意味も含むようになったとも考えられる。
 いずれにせよ、「メールを打つ」という表現は、いくつかの意味を重ねて用いられているのは確かなようだ。しかし、使用している人はそのことにはあまり自覚的ではない。
 「メールを打つ」というのは、単純なようでいてけっこう奥が深い表現なのだ。
3月26日(金)

 きのうの「メール打ってこい」の話について、掲示板でかぐらさんから次のような意見をいただいた。
私は、あれは「電報」を意識したんじゃなくて、
タイプライター → ワープロ → PCのキーボード
・・・って、筆記のためのツールの流れがあるから「打つ」んだと思ってます。
 うん、確かに、「メールを書く」という意味でなら「メールを打つ」という表現は使いますね。きのうは言葉が足りなかったけど、私もこういう意味なら、特に違和感は感じません。でも、「寂しかったら、メール打ってこい」という場合、「メールを打つ」は「メールを送る」の意味で使われているんじゃないだろうか。
 そこで、「黄色い救急車」のときと同じように、検索エンジンを使用して用例を集めてみることにした。引用元については特に記載しません。
BちゃんはPメールを打つのがとても早く、こちらが返信しようとして文字を入れている最中にもどんどん次のメッセージが入ってきます。
電車に乗っている時など、たまに本を読む代わりにメールを打っている事もあります。
皆さん、メール打つのに何をお使いです?ワープロソフト? エディター?・・・・ふむふむ、
みんなでメールを打っているところです。シンプルテキストを使ってみんなもう慣れた手つきでメールをどんどん書いています。
一度ご自分に向けてテストメールを打って、それをご自分に向けて返信してご覧になると手がかりが得られるかと思います。
 このあたりでは「打つ」=「書く」という意味で使われている。検索結果ではこういう例がいちばん多かった。最後の例は、「打って、それを……返信して」ということはこれも「書いて」という意味だろう。このあたりは私にもごく自然な表現のように思える。
 しかし、少数ながら「打つ」=「送る」という意味で使われている例も見られた。
……と電子メールを打っていただければ、入会手続きは完了です。
 書いただけでは完了しないわけで、これは「打つ」=「送る」という例だと思われる。
また蓄積されたデータベースを使用し、顧客をメグメントして同報メールを打つことができます。
幾らメールを打っても返事はなく仕方ないので電話で『なぜ返事をくれないのか』と聞くと『俺も何度となくメールを打っている』と言われ……
以上のようなメールを打ったところ、西山さんと成見さんと三輪君と小宮さんから返事が来た。
千葉県の越後さんへメール打ったのですが、メールが戻ってきてしまいます。
ひょっとしたら好きな俳優さんにメールが打てて、返事までもらえるかも?
 ちょっとはっきりしない例もあるけれど、このあたりの例は、私は「メールを送る」の意味で使われているように思う。
ここでAさんが、あるテーマについてメールサーバーと書かれているパソコンに電子メールを打ったとします。
 これはメーリングリストについての説明の一節。これは明らかに「メールを送る」の意味で「メールを打つ」が使われていますね。
係りの人のアドレスを借りてメールの設定もしていなかったのにしてもらってメールを打てるようにしてもらいました.で,大学の方にメイルを打って,発表は無事終わったという事をタダで連絡しました.
 これはどっちなんだろうなあ。この場合の「メールを打つ」は、書くことと送ることの両方を含んでいるような気がする。
追加セミナーを開いたり,説明会を開いたり,ダイレクト・メールを打ってみたりする。
 これはなんと、郵政省メールについて「メールを打つ」が使われている珍しい例。こういう使い方もあるんですねえ。ただ、これは「ストを打つ」とか「芝居を打つ」みたいに「決行する」という意味なのかも。

 結局、大半の人は、「メールを書く」という意味で「メールを打つ」を使っているようだが、少数ながら「メールを送る」という意味で使っている人もいるようである。
 つまり、「メールを打つ」という表現には、2種類の意味があるのだ。

 きのう書いたように、私は「打つ」=「送る」派はポケベル、携帯電話文化から来た表現だと推測している。一方、「打つ」=「書く」派は、かぐらさんが書いているとおり、タイプライター、キーボード文化の表現なのだろう。これって、けっこう紛らわしいような気がするんだがなあ。

「好きな人にメールを打ったけど、結局出さなかった」
 上の文を読んでどう思いますか? 妙だと思った人は「打つ」=「送る」派ってことになりますね。

 アン・ルール『テッド・バンディ』(原書房)購入。まあ、内容はともかくこの本は翻訳者に注目。あのミステリ評論家権田萬治が、満を持して翻訳に挑戦した作品なのであった。
3月25日(木)

 「寂しかったら、メール打ってこい」というCMがありますね。このCMを見るたびになんとなく違和感を覚えていたんだけど、何度か聴いたあとでようやく気がついた。
 メールって、打つものなのか?
 何を当たり前のことを、メールは打つに決まってるじゃないか、と思う人もいるかもしれないけど、私にとってはメールというのは打つものではなく、送るとか出すとかするものだ。メタファーとして郵政省メール、つまり手紙をイメージしてるわけだ。「メール」とは手紙のことなのだから、私としてはこれが自然だと思う。
 「メールを打つ」という表現も、今ではかなり一般的になっていると思われる(検索エンジンで調べるとこの表現を使ったページが山ほどヒットする)のだが、私はどうしても違和感を感じてしまう。だって「メール=手紙」だぞ。手紙は打たないではないか。昔のパソコン通信時代には、「メールを打つ」なんて表現はなかったと思うんだがなあ。
 「メールを打つ」ってことは、手紙ではなく電報のイメージなのだろう。しかし、電報を打つことなんて、今では祝電とか弔電以外めったにないというのに、なぜメールに電報のイメージが採用されることになったのだろうか。
 おそらく、「メールを打つ」という表現は、もともとポケベルとか携帯電話のユーザーの間で使われていた表現なのではないだろうか。あの小さい画面に収まるくらいの短く簡潔なメッセージは、確かに手紙よりも電報のメタファーでとらえた方が適切だろう。ポケベルや携帯電話の文化においては、メールは「出す」よりも「打つ」方が自然なのだ。
 その文化が流入したことにより、メールの元祖であるインターネット文化にも「メールを打つ」という表現が広まったのではないか、と私は推測しているのだけれど、どうだろう。
 ま、旧弊な私は「メールを打つ」などという気持ち悪い表現は使うつもりありませんが。

 今日はSFセミナーの打ち合わせ会。チラシを折って封筒に入れる作業。チラシを制作したのは妻である。イラストは私をモデルにしたそうだが、単なる小太りの男にしか見えんぞ、もっとかっこよく描いてほしかったなあ。
3月24日(水)

 アカデミー賞を受賞した映画『恋に落ちたシェイクスピア』が女性作家に盗作だとして告訴されたという記事が新聞に載っていた。へえ、女性作家ねえ。いったい誰なんだろ。どうせ聞いたこともない作家なんだろうなあ、と記事を読んでも作家の名前は書かれていない。作品は、えーと、『クオリティ・オブ・マーシー』ねえ、ふうん……って、これは去年創元から出た『慈悲のこころ』ではないか。ということは、女性作家というのは、フェイ・ケラーマンってことになる。確かにあれもシェイクスピアが冒険をして恋に落ちる話だったけど(いや私はまだ読んでないのだけど)、まさかそれだけのことで告訴したわけじゃないよなあ。これは読み/観比べてみるしかないかな(物好きだね、私も)。
 それにしても、アカデミー賞を受賞してから告訴するってのがあざといなあ、ケラーマン妻。告訴するなら公開直後にしろよ。
 しかし、些細なところにクレームをつけてくる女性作家っているもんですねえ、洋の東西を問わず。
3月23日(火)

 文春文庫の新刊でジェイムズ・エルロイの『ホワイト・ジャズ』が出ていたのだけど、この解説を書いているのが馳星周。これがほとんどエルロイへのラブレターみたいなもので、情念と狂気の作家エルロイを熱っぽい文章で称える一方で、『ブラック・ダリア』以降のエルロイの構成の巧さや精緻なプロットを語る連中を罵倒して「くそくらえ」とまで書いているのですね。
 しかし、その前に出た『ビッグ・ノーウェア』の解説を読むと、エルロイといえば情念とか暗黒小説といわれがちだけど、実はプロットは精緻だし計算し尽くされた書き方をしているんだよ、と賞賛しているではないか。書いたのは法月綸太郎。言ってることまったく逆。
 馳星周、法月綸太郎に喧嘩売ってるんでしょうか?

 でも、新しい読者を開くという意味では、馳より法月の方が解説としてふさわしい文章なんじゃないかと思うんだけど。馳星周の熱い解説を読んで共感を覚えるような人は、もともとエルロイくらい読んでいるでしょう。それより、法月のクールな解説なら、なるほど、今までなんだかねちっこそうで敬遠してきたけどエルロイも読んでみるか、と思う新本格読者も多いと思うぞ。実際、以前ホプキンズ・シリーズにはまったくはまれなかった私も、法月解説を読んだときには、暗黒のLA4部作を読んでみようかと思ったからなあ。馳解説を読んで、やっぱりやめようと思いましたが(笑)。
3月22日(月)

 例の「黄色/緑色の救急車」のアンケートなんですが、いつになったら中間報告じゃなくなるんじゃい、と思ってる方もいるかもしれませんが、3ヶ月が過ぎ去った今でもポツポツと回答が来ているので、少しずつ更新しております。
 今まで200以上もの回答が寄せられ、色の分布はだいぶ明らかになってきたのだけれど、わからないのがこの伝説の由来である。戦前から伝えられている、親の世代から存在する、などという回答があったが、黄色い救急車の伝説が存在するためには、まず救急車自体が存在しなければならないはずだ。では、そもそも今のような救急車ができたのはいつごろなのか。まずはこれを調べなければなるまい。  消防大学校編著『救急実務』(ぎょうせい)なる本によれば、日本初の救急業務が行われたのは、昭和6年10月、日本赤十字社大阪支部でのことらしい。最初の救急車は民間のものだったのである。初めて救急車が配置された消防機関は横浜市中区山下消防署。昭和8年のことである。戦前には、消防機関に救急車があったのは横浜、名古屋、東京、京都、金沢、和歌山の6市のみなので、戦前から「黄色い救急車」の伝説が広まっていたとはどうも考えにくい。
 救急業務が法制化されたのは時代をはるかに下って昭和38年のこと。119にかければ救急車が呼べるようになったのはこの年からということになる。意外に新しい。それまでは各市町村や赤十字、病院などが独自に救急業務を行っていたらしく、なかには霊柩車を救急車代わりにしていた地方もあるらしい(病院に搬送した患者が亡くなった場合、帰りは本来の目的で使用するわけである)。法制化されたあとも救急車はなかなか普及せず、昭和47年ごろにもまだ霊柩車が使われているところもあったとか。
 つまり、全国的に救急車が普及したのは昭和40年代以降ということになる。ということは、消防署の救急車が普及する以前ならば、どこかの精神病院で実際に、黄色や緑の救急車が患者搬送用に使われていたとしてもおかしくないわけだ。
 果たして「黄色/緑色の救急車」は実在したのだろうか?

 ちなみに、この『救急実務』なる本、なかなかおもしろくて「留意事項」という項目には「搬送中のサイレンは、安全にスムーズな運行を図るためのものであって、救急車のスピードを上げるために用いるものではないことを理解する」などと書いてある。やっぱりいるんですね、サイレンを鳴らすとついついスピードを上げたくなるやつが。
3月21日()

 医局の同僚や看護婦さんとの飲み会で趣味を訊かれ、「SFとかよく読むかな」などというと、「毎日の臨床が大変だから、それとは逆の空想の世界にひたるんですか」などと言われることがある。
 そんなとき、私は「うーん、ちょっと違うんだけど」と首を傾げてしまう。
 SFは私にとって、幼い頃から親しんできたものであり、ものの考え方の基本というか、思考を柔軟にするためのツールであって、SFと精神医学が逆だとは私は全然思っていない。精神医学をSFの眼で見たり、SFを精神医学の眼で見たりと、そんなふうに私はSFと精神医学を相補しあうものとして考えているんだけど。……などと言おうとするのだが、結局うまく言葉では説明できなかったのだった。
 私に会ったことのある人はお分かりだろうと思うけれど、私は無口である。自分からはあまりしゃべらないし、何か訊かれてもうまく答えられないことが多い。自分を言葉で表現するのがきわめて苦手なのですね。このへん、なんとかした方がいいと自分でも思ってるんですがね。

 今日はプレステの『街』をやって過ごす。サターン版をやってた人は今さら何をと思うだろうけど、これはなかなかいいゲーム。『EVE burst error』をもっと複雑にした感じ、というか『街』の方が先だっけ? 言わずもがなの註釈がちょっとうるさいのが欠点だけど。

 久しぶりにスーパーチャンネルのDS9第4シーズンを見る。オドーがキラに失恋して荒れる話。DS9は戦争の話か政治の話か地味な話(今回はこれ)の三つに一つになってますな。SF度は下がる一方。

 明日は祝日なのに朝から当直。火曜日の夜まで家に帰れません。『街』の続きもできません。しくしく。

過去の日記

99年3月中旬 言語新作、DASACON、そしてピルクスの巻
99年3月上旬 サマータイム、お茶の会、そしてバニーナイツの巻
99年2月下旬 バイアグラ、巨人症、そしてドッペルゲンガーの巻
99年2月中旬 クリストファー・エリクソン、インフルエンザ、そしてミロクザルの巻
99年2月上旬 犬神憑き、高知、そして睾丸有柄移植の巻
99年1月下旬 30歳、寺田寅彦、そしてスピッツの巻
99年1月中旬 アニラセタム、成人、そしてソファの巻
99年1月上旬 鍾乳洞、伝言ダイヤル、そして向精神薬の巻

97-98年の日記

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