7月31日(金)
あの堺屋ちゃんを経済企画庁長官にした小渕首相だが、今日の総理就任記者会見で、こんなことを言っていた。
「
全知全能を傾け難局を乗り切っていきたい」
なあんだ、小渕ちゃん全知全能だったのかあ。そうとは知らず心配して損してしまったぜ。これなら日本の将来は安泰だなあ<それを言うなら
全身全霊。とほほ、やっぱり不安(笑)。
一方、文部大臣の有馬朗人は元東大総長という肩書だけが強調されるけど、本職は原子物理学者、バリバリの理系である。理科教育の軽視にちょっとは歯止めがかかるとうれしいなあ。教える内容を削減しさえすればゆとりが生まれる、という単純な発想を、そろそろやめるべきだと思うのだけどな。今日の新聞によれば、今の小中学校では、親の世代に比べると教育内容がほぼ半分になっているそうだ(何をもって半分とするのかが不明だが)。これは、日本の学問の危機なんじゃないだろうか。
ついでにいえば、減税しさえすればその分消費が拡大するってのもあまりにも単純過ぎる発想だと思う。政府の広告で、主婦やらお父さんやら子供やらの笑顔の写真が並んでいて、減税されたら「おいしいものを食べに行きたい!」「幻の銘酒を……」などと台詞が入っているのがあったが、減税分をそんなふうにして使ってしまう家庭があるとは私にはとても思えないのだけどなあ。
しかし、有馬さん、初立候補でありながら自民党比例区名簿第一位という絶対当選確実のポジションをもらっていたということは、これは最初から文部大臣にする狙いだったな>自民党。
「朝まで生テレビ」を見ながら。
キレる、ということが「突然頭が真っ白になり、まったく理性を失い、その間のことを覚えていない」ことであるとするならば、それは精神医学でいう「解離性障害」ということになる。「解離」というのは、解決困難な葛藤にさらされた人が、それにまつわる感情を精神から切り離す結果、記憶の連続性や同一性が失われてしまう状態。今流行りの「多重人格」も、やはり記憶の同一性が失われる状態なわけで、この「解離」に含まれる。つまり、乱暴に言ってしまえば、「キレる」ことは、軽い「多重人格」なのである。キレる子供の増加と、最近の多重人格の増加は、どこかでつながっているんじゃないだろうか。
なお、「解離」とほぼ同じ意味で使われるのが「ヒステリー」という言葉(いわゆる日常語の「ヒステリー」とは違います)。このヒステリー、19世紀のヨーロッパではよくあった病気で、記憶喪失(心因性健忘)とか、ヴィクトリア朝の淑女たちが些細なことでよく気絶していたのも、ヒステリーによるもの。重要な病気としてフロイトやクレッチマーといった有名な学者も研究しているのだけれど、不思議なことに、20世紀になるとぱったりと姿を消してしまったのである。社会の変化によるものとも言われているが、理由ははっきりとはわかっていない。それが、20世紀末の現代になって、また息を吹き返しつつあるのだ。
21世紀は再びヒステリーの時代になるのかもしれない。
黒崎政男
『となりのアンドロイド』(NHK出版)、ジャック・ケッチャム
『隣の家の少女』(扶桑社ミステリー)の、「隣」二部作(嘘)購入。
7月6日の日記で書いた「風流」の入手ページだけど、以前のリンクは、直接プログラムをダウンロードしてしまうという凶悪なリンクだったので、修正しました。ベクターさんの
ここのページから入手できます。ジョークではなくテキストユーティリティに分類されています(笑)。
7月30日(木)
「玩具修理者」でのデビューが強烈だった小林泰三初の長篇は、「新本格ホラー推理」(って何?)と銘打たれた
『密室・殺人』(角川書店)。短篇の名手の初長篇だけに、けっこう期待して読み始めたのだが、読み進めるとどうもおかしい。キャラクターはわざとステレオタイプをなぞっているとしか思えないほど実在感がないし、展開もどうもぎくしゃくしていて読みにくい。単に部屋の中を描写するときですら妙にもったいぶった書き方をしていていらいらするし、同じ家の中にいるはずの重要な容疑者が後半になるまで姿すら見せないのも奇妙だ。これはわざと下手に書いているのか、それとも新本格のパロディを意図しているのかとも思ったが、パロディにしても出来がいいとは思えない。これがあの才人の作品なのかと首を傾げてしまう。結末では、このぎくしゃく感には、いちおう理由があったことがわかるのだが、その真相にしてもそれまでの悪い印象を覆すほどの力はない。お約束のクトゥルーネタも出てくるのだけれど、これも全然意味がないしなあ。
推理小説としてはつまらない物語だし、ホラーとしても失敗作としか思えない。これは、変化球を投げてみたのだけれど、大暴投してしまった作品なんじゃないだろうか。
でも、長篇第一作くらいは、ホラーの直球ど真ん中で勝負してほしかったなあ。短篇はきわめて水準が高いのに、長篇がこの出来とは、根っからの短篇作家なんでしょうね、この人は。
当直中、野田昌宏さんの番組を見る。「SFは科学の教科書」ってのは違うと思うがなあ。SFの未来予測という側面ばかりを強調しているのはひっかかるが、テーマがヒューゴー・ガーンズバックということなら仕方ないか。
7月29日(水)
7月13日の日記で募集した、ジェフリー・A・ランディスの"Great Shakes"に出てくる言葉遊びの日本語訳なのだけれど、3人の方からのメールがありました。どうもありがとうございます。
まずは
もとはしみほさん。
「『○くび』で、ヒントは『出すと恥ずかしいから隠す』といえば?」
「おくび」
女性らしく上品なのだけれど、ちょっとお下劣度が足りないですね。それに、「あくび」でもいいような。
日笠薫さんからは四作品のエントリーがあった中から一つ。
「女の子の間で流行ってるフェ○○○ってなんだ?」
「フェラガモでしょう」
「なるほど」
うまい。ただ、小説の翻訳としては、流行りものを使うと風化しやすいのが難点ですね。
続いて、
眞田則明さんの作品(なんか、欽ドンでハガキを読む萩本欽一のような気分になってきたな)。
「人体の一部で、ワレていて、周りに毛が生えていていつも濡れていて
マではじまってコで終わる三文字の言葉は?」
「まなこ」
これは見事ですね。でも、これは眞田さん自身が考えたものではなく、1974〜75年ごろに流行したナンセンスなぞなぞにあったものだそうな。そういえばかすかに聞いた覚えがあるような。
最後に、エキジビジョンとして伊藤典夫御大による試訳を。この作品はアマチュア規定(そんなものあったのか)に反するので審査対象外。
「『オ××コ』で、ヒントは『おおっぴらにできない』といえば」
「オフレコでしょう」
「なるほど」
うーん、さすがはプロ。
さて、第1回"Great Shakes"翻訳大賞なのですが、大賞は日笠薫さんの作品に決定。優秀賞はもとはしみほさん。眞田さんの作品は自作ではないということなので参考作とさせていただきます。賞品はありません。そして、第2回もありません(笑)。
あの
『平成三十年』の堺屋ちゃんが経済企画庁長官就任! まあ、経済に関してはプロなんだろうけど、ああいう未来像しか描けない人が閣僚とは、日本の将来が不安になってくるぞ。オワリコンのインターネットとかパソエンとか言ってる人だからなあ(笑)。なお、『平成三十年』の連載は7月26日で終わった(打ちきり?)そうな。
朝日新聞に、
「米マイナーリーグでピッチャーとナマズのトレードが成立」という記事が。移籍先のグリーンビル・ブルースメン側の条件は選手1人と金銭、それにナマズ4.5キロだったという。うーむ、わからん。ナマズをいったいどうしようというのか。このチームは昨年、ブルースの珍品レコードとキジ肉23キロで二塁手を獲得した実績があるとか。どういうチームなんだ、いったい。
7月28日(火)
F・ポール・ウィルスン『ホログラム街の女』(ハヤカワ文庫SF)読了。最近のエンタテインメントはだらだらと長いばかりで中身が薄いとお嘆きの貴兄にお薦めの一冊である。いや、ウィルスンといえば、ホラーから医学サスペンスに転向した転びバテレン(笑)だとばかり思っていたのだけど、ここまで見事なSFの佳品も書ける作家だったとは思わなかった。しかも、あの怪作ホラー
『黒い風』と並行して書いてしまうとは(笑)。短い作品だけに、展開はスピーディで緊密、そして一気に物語のスケールが広がるラストの感動ときたら、最近の上下巻エンタテインメントよりもはるかに濃いぞ。やっぱり、SFはこれくらいの長さがちょうどいいなあ。
同日、城平京『名探偵に薔薇を』(創元推理文庫)も読了。きわめて猟奇的な事件の起こる第一部もなかなかの出来だが、一見きわめて地味に始まる第二部がそれ以上にすばらしい。今まで見ていた絵ががらがらと崩れていく快感。いや、ミステリで心底から驚かされたのは何年振りかである。
一旦は完結した第一部が、実はそれ以降の伏線になっている、というのは『ホログラム街の女』にも共通している構成だが、物語がそれまでとはまったく違った様相を呈してくるこの結末もまた、ある意味で共通しているところ。ラストで初めてタイトルの意味がわかる仕掛け、魅力的な名探偵像。うまい。うますぎる。1974年生まれの著者にこんな作品を書かれてしまっては、それより遥か年上の私はいったいどうすればいいのか(泣)。
本年度ベストテン級のSFとミステリの傑作2冊を読めて、大満足の一日である(両方とも本が薄いのもいいぞ)。
諸星大二郎
『夢の木の下で』(マガジンハウス)、羽生生純
『ワガランナァー』(アスペクト)、「まともな訳で読める、長編としてはとりあえず最後のクーンツ作品」((c)茶木則雄)
『ドラゴン・ティアーズ』(新潮文庫)を買う。
7月27日(月)
病院に入院するときの入院費がどんなふうにして決められているか知っているだろうか。
実は、入院費ってのは、長く入院すればするほど安くなる仕組みになっているのである。
「入院環境料」(部屋代みたいなもの)とか「看護料」、それに「検査料」や「投薬料」は、入院期間が長引いても変わらない。入院が長くなるにつれて減っていくのは、「入院時医学管理料」と呼ばれている費目である。
精神病棟の場合、入院から2週間までの入院時医学管理料は1日533点だが、2週間から1月までの間は341点、その後もどんどん下がり続け、1年半を超えると入院当初のわずか1/4の131点になってしまう。一般病棟でも、多少点数が違うが、入院期間が長くなると下がるのは同じである。
つまり一人の患者さんを長く入院させておけばおくほど、病院の収入は減っていくことになるのだ。これは病院にとってはかなりの痛手である。もちろん、これは患者さんをむやみに長期間入院させ、検査や薬ばかりをどかどかと大量に出して薬づけにさせないようにするために作られた規定である。
それから、私の勤める病院でも採用されているのが、包括医療点数というもの。業界用語では「マルメ」などと呼ばれている。これは看護料や検査料など、診療にかかわる費用はすべて含んだ、マクドナルドのバリューセットみたいなもの。たとえば「療養型病床群」として登録すれば、入院が短くても長くても同じ点数を取ることができる。この点数、当初の入院時医学管理料よりはかなり安いが、6ヶ月くらいすれば普通の病棟より高くなるように設定されているので、長期療養患者ばかりを集めるのであれば、こちらにした方がお得(あくまで病院側にとって)なのである(厚生省が定めた施設基準をクリアしなければならないが)。
こうなると、今までの病棟とはまったく逆の問題が持ちあがってくる。こういう病棟では、薬代検査代もすべてコミで一定料金なのだから、薬を出さず、検査をしないほど病院は儲かるのである。これでは、脳腫瘍が疑われても、病院の損になるからCTなど撮らない方がいい、ということにもなりかねない。これはこれでかなり問題が多い制度だと思うのだけれど、現在、厚生省は一般病棟から療養型への転換を進めているところである。
同じ「マルメ」でも、「精神科急性期治療病棟」になると、「療養型」の2倍近くの点数がとれるが、こちらは「患者さんの5割以上が3ヶ月以内に退院しなければならない」という厳しい規定がある。これも、在院日数を短期化するための厚生省の政策の一環である。
実は、私が来週から勤務することになるのはそういう病棟なのである。上の先生はハードな職場であることをしきりに強調していたが、あいにく私は忙しさに満足感を見出すような価値観を持ち合わせてはいないし、私としては、精神科の場合、いちがいに在院期間を短縮すればいいとはいうものではないと思っている。そりゃ大量の向精神薬を投与すれば患者を鎮静化することくらい訳はないが、患者にはそれぞれ自然の治癒ペースというものがあるわけで、それを無理に速めたり、時期尚早なうちに退院させたりすることは、その患者にとってマイナスにしかならず、結局は何度も入退院を繰り返す患者を作り出すだけだろう。まあ、その方が病院の収入は上がるのだが。
つまり現行の制度では、在院日数を短くし、回転率をよくすればよくするほど、病院の収入は上がるようになっているわけで、私ら医師も回転率を上げることが至上命題であるかのごとくに圧力をかけられている。しかし、そんなものに汲々として患者個々のペースを無視するようになってしまっては精神科医失格というものだろう。まあ上には睨まれるかもしれないが、どうしても譲れないポイントというものがあるのだ、私のようにだらけた人間にも。
7月26日(日)
医学生時代には寄生虫学という講義があって、「バンクロフト糸状虫」とか「アメリカ鉤虫」などという寄生虫の名前を覚えさせられたものである。寄生虫といわれても、小学生の頃の蟯虫検査の想い出があるくらいで、まったく実感が湧かない。それでも、国家試験には出るというので、「日本住血吸虫」という虫の名前も、中間宿主である「ミヤイリガイ」という貝の名前とともに暗記したのだけど、それは私にとってはまさに実感を伴なわない「名前」に過ぎなかった。
今回、小林照幸
『死の貝』(文藝春秋)を読んで、ようやくそれが実態としてイメージできた。これは、日本が「日本住血吸虫症」を克服するまでの、150年にも及ぶ苦闘の歴史を描いた作品。人の命を奪うような感染症や寄生虫病は、後進国のものだと思っている人もいるかもしれないが、致命的な寄生虫病との闘いは、日本でもほんの少し昔までは続いていたのだ。
まだ死体解剖など一般的ではなかった時代に、病気の原因を解明するため自分を解剖してほしいと遺言を残して亡くなった老婆の物語や、自らを実験台にして感染実験をした医者など、興味深いエピソードも次々登場。まさに日本版『ホットゾーン』とでもいうべき、無類におもしろい医学ノンフィクションである。
日本住血吸虫は、山梨や岡山、福岡などの一部に生息する寄生虫で、水田や小川などに住み、経皮感染で人体に進入する。血管の中を通って肝臓の門脈にまでたどり着き、大量の虫卵を体中に撒き散らす。そうすると、患者は肝臓や脾臓が腫大し、、腹部が膨れ上がり、徐々に衰弱して死に至ることになる。また、卵が脳に侵入すれば、手足の痙攣や失語症を発症し、一生障害が残ることもある。
当初、原因も治療法もまったくわからず「水腫脹満」「マンプクリン」などと呼ばれていたこの病気だが、吸虫が発見され、さらにミヤイリガイという中間宿主になる貝が発見されたことから、研究が進んでいくことになる。日本住血吸虫は、卵から孵ったあと、まずはミヤイリガイの体内で成長してからでないと、人間には感染できないのである。
ということは、ミヤイリガイさえいなければ、吸虫症にはかからないことになる。ここから、大規模なミヤイリガイ駆除計画が始まる。水田の溝はコンクリートで囲い、小川や溝には殺貝剤を撒き、ミヤイリガイを徹底的に駆除することによって、日本はようやく日本住血吸虫症を克服することができたのである。
寄生虫病を克服する、ということは、つまりは種を絶滅させる、ということである。ミヤイリガイを殺し、日本住血吸虫を殺すことは、別の側面から見れば立派な環境破壊である。感染症との闘い、というのは、常にそういうことだ。天然痘ウィルスを撲滅した、とWHOが高らかに宣言するとき、それはひとつの種を絶滅させた、ということなのである(ウィルスが生物かどうかという議論はさておき)。
私が、環境保護を訴える人々の主張をうさんくさく感じるのは、そういう問題があるからだ。ムツゴロウとかクジラとか、そういう生き物に生きる権利があるとすれば、寄生虫や、有害な細菌にも生存する権利があるんじゃないか? 環境保護の立場からすると、ミヤイリガイを駆除することも、体内の寄生虫を絶滅させることも許されないことになってしまうのだろうか。
私としては、他の生物を殺したり、絶滅させても全然かまわないと考えている。その生物が人間に害を及ぼすのなら。私は人間なんだから、人間中心主義で別にいいのだ。他の生物の生きる権利なんて、考える必要はない。権利なんてのは人間が考え出した概念であり、他の生物に適用できるはずもない。私はクジラに絶滅してほしくないと思っているが、それはクジラがいなくなると寂しいと感じるからである(「喰えなくて寂しい」も含む(笑))。生態系が乱れるのがイヤなのは、まわりまわって人間――ひいては私個人――に害を及ぼすとも限らないからだ。「ムツゴロウより人間の方が大事」という某大臣の言葉はまったく正しいと思うぞ、私は(ま、あの干拓がそこまで必要だったかは疑問だけど)。
私も環境保護は必要だと思うが、それは人間が快適に生きていくために必要である限りにおいてのことである。
なんか、すっかり話題がずれてしまったな。とにかく、『死の貝』はおもしろいのでお勧め。著者小林照幸氏は30歳の若きノンフィクション作家。今後の活躍が大いに期待できる作家だ。
そろそろ、自分でも日記のどこでどの話題を書いたのかわからなくなりつつあるので、
読冊日記話題別インデックス(暫定版)というのを作ってみた。こんなに医学ネタを書いてたとは。私もけっこう医者らしいではないか(笑)。
7月25日(土)
キネカ大森で、念願の
『プルガサリ 伝説の大怪獣』を観る。
舞台は貧しい農村。ヒロインは実の父親との間に不義の子供をもうけ、最初は育てるつもりでいたものの、結局育てきれなくなって心中を図るが、死にきれず自分だけ助かってしまうという話(笑)。いや、別に嘘ではないぞ。かなり歪んだ要約だけど。
いや、特撮はチープだし、退屈なところも多いのだけれど、話のタネに見てみるのも一興かと。特撮の中でも、クライマックスの王城の破壊シーンなどはさすが入魂の出来。民衆の英雄として活躍したプルガサリが、平和な世の中になってみると、際限なく鉄を食べつづける巨大な厄介者でしかないわけで、もう殺すしかなくなってしまう、という物語のひねりぐあいも意外とうまい。
しかし、国王は兵器作りに血道を上げ、農民は飢えている、という設定は、まるで北朝鮮そのもののことのようなのだけど、よくこんな映画作ったものだなあ。
ダン・シモンズ『エデンの炎』(角川文庫)読了。版元はモダン・ホラーとして売ろうとしているようだが、こりゃどう読んでもホラーじゃないでしょ。これはハヤカワ文庫ならFTに入るような、正統派のファンタジー。
舞台はハワイのリゾートホテル。宿泊客は次々と失踪し、火山は噴火し、封印を解かれたハワイ神話の古い神々が甦る。旅行者である主人公はハワイ神話の神々の戦いに巻き込まれていく……というシモンズ版『地球暗黒記』みたいな話(といってわかってくれる人がどれだけいるか知らんが)。
オフビートで、つねに期待を少しずつ裏切ってくれる展開がなかなか通好み。結末もうまく決まっていて、読み終わって満足感の残る作品だ。個人的には、今のところ今年のベストテンに入るな。ハワイ神話ファンタジーというのは、今までありそうでなかったジャンルなのではないかなあ。
ただ、ハワイの神々が現代に甦る物語を書くのなら、ハワイが白人に奪われた島であるという事実を無視することはできないはずなのだけれど、そのへんはちらりと触れられているだけで、最後にはうやむやにされてしまっているのが残念。そのあたりを掘り下げて描いていれば、もっと奥の深い作品になったと思うんだけど。まあ、このへんは、アメリカ人としてはあんまり触れたくない問題なのかもしれないなあ。
7月24日(金)
今日は、ときどき発作的に書く古楽ネタである。みんな、引かないでついてきてね。
十三世紀スペインのカスティーリャ王フェルナンド3世は、イスラム教徒からの国土回復、いわゆるレコンキスタ(歴史で習った覚えがあるでしょ)を進めた名君だったのだけれど、その息子であるアルフォンソ10世(1221-1284)はというと、これが政治や軍事には全然関心がなく、父親に大きく見劣りする暗君だった。
統治者とは失格だったアルフォンソ君なのだけど、そのかわりにのめりこんだのは学問の世界。法律、歴史、天文学、宝石、チェスなどなど、あらゆるジャンルの書物を編纂し、「学者王」という異名があるほど。言ってしまえば道楽息子、というか元祖オタク王なのだが、この王様のおかげで、後世には膨大な学問的知識が伝わることになったのだから、ありがたい話である(いいよな、オタクの王様は国家予算で思いっきり道楽にはまれて、しかも歴史に名を残せて。まあ、ルードヴィヒ2世みたいにこれで国を滅ぼした王も多いけど)。
このオタク王が最も情熱を持って収集したものは何かというと、これが音楽なのであった。彼の編纂した
「聖母マリアのカンティーガ集」は、全427篇というべらぼうな量の曲を集めた、当時の音楽の一大集成。側近の楽師や文人たちに集めさせた曲や詩のほか、中には自分で作詞作曲した曲もある。
当時のスペインは国土を奪い取ったばかりで、後の時代のようなイスラム教徒への弾圧も行われていなかったらしく、スペインはまさに文化のるつぼ状態。王は、スペイン各地やフランスからのキリスト教徒のほか、イスラム教徒、ユダヤ教徒の詩人や音楽家を宮廷に集めていた。そういうわけで、西洋的なものと非西洋的なものが交じり合ったユニークな音楽集ができあがったのである。
420曲というあまりに膨大な量のため、「聖母マリアのカンティーガ集」の全曲録音はいまだに存在しない。どうも全曲録音に挑戦しているらしいエドゥアルド・パニアグア古楽団の
『マリアの生涯』というアルバムでは、イスラムっぽさを強調するために西洋楽器のほかアラブの楽器を使ったり、もともとは単旋律の曲にノリのいいリズムをつけて演奏したりしていて、エキゾチックな雰囲気がとても楽しい。繰り返しを全部省略せずに律儀に演奏しているので、冗長でかったるいのが欠点だけど。日本のリュート奏者つのだたかし率いる中世嬉遊楽団
タブラトゥーラの演奏もいいですね(つのだたかしは、つのだじろう、つのだひろ、の兄弟である。何番目かは忘れたけど。この兄弟は全部で8人いるらしいぞ)。
この曲集とかグレゴリオ聖歌のような音楽を聴いていて感じるのは、クラシックの源流は、後のクラシックよりはむしろ民族音楽に共通点が多いな、ということ。クラシックファンの中には、クラシックこそが普遍的な音楽であるようなことを言う人がいるが、それは大きな間違いである。
クラシックなんてものは、所詮はヨーロッパのある時代の民族音楽にすぎないのである。ガムランもボサノヴァもクラシックも、同列のものとして楽しめばそれでいいと思うのだけれど。妙に権威化するからとっつきにくくなるのだ。
さて、学者王アルフォンソ10世は、1246年、アラゴン王ハイメ1世の娘を妻に迎えた。姫の名は
ビオランテ。姫の母君の名前もやっぱり
ビオランテ・デ・ウングリア(ハンガリーの
ビオランテ)。だからなんだといわれても困るが、きっと薔薇か沢口靖子のように美しい姫君だったに違いない。オタク王にふさわしい王妃である。
ちなみに、ヘロドトスの『歴史』には
ゴルゴという名前の頭のいい姫君が登場する。だからどうした。
7月23日(木)
どういうわけだか知らないが、日本ハムの打線を「ビッグバン打線」と呼ぶらしいのだけれど、今日のスポーツニュースによれば、実はこのネーミング、以前から長嶋監督が、いつか巨人の打線に使おうと温めていたものだったらしい。長嶋監督曰く「ビッグバン。これは知り合いの天文学者に聞いたんですけど、
1億5000年前にね、宇宙が爆発したんですよ」。おい、その数字はどこから出たんだ。
ふと思ったのだが、SFドラマやSF映画に異星人(あんまり善良ではないやつ)が登場すると、必ず
あれは日本人だという声が出てくるのはどうしたわけなんだろう。
有名なところでは『猿の惑星』の猿。『グレムリン』に出てくるギズモが、昼はおとなしいが、夜になって酒が入ると集団であばれる日本人を揶揄したものだ、という話も聞いたことがあるな。
『スタートレック』では、クリンゴン人は日本の武士がモデルだという話がある上に、フェレンギ人はエコノミックアニマルの日本人だとか、ボーグも集団主義で個性がないからやっぱり日本人だという意見まである始末。一つのシリーズで、そんなに日本人をモデルにした異星人ばかり出しているとはとても思えないのだが。
そういや、エイリアン日本人説ってのもあったような気がする。じゃあ何かい、集団で登場すればみんな日本人なのか。『スターシップ・トゥルーパーズ』のバグズもベビーゴジラの群れもみんな日本人かい。
そりゃ、一部には確かに日本人を念頭に置いて作られた異星人もあるのだろうけど、そうなんでもかんでも「日本人だ!」と決めつけるというのは、私には被害妄想としか思えない。「これは日本人を揶揄している」と映画評なんかで語っている人々ってのは、アメリカ人の日本人への偏見をあげつらっているつもりなのだろうが、実は自分の持っているアメリカ人への偏見を露呈させているわけで、とてもカッコワルイと思うのだけど、どうですかね。
音楽業界は、一部の売れるCDと、売れないCDとの二極化がはなはだしいらしいのだけれど、私に関していえば、どうしたわけか「売れている」曲はまったく聴く気がせず、買うCDといったら遊佐未森とか鈴木祥子とか、売れているとはとてもいえないものばかりである。すでに私は音楽業界のメインターゲットから外れてしまったということか。まあ、それもまたよし。平岩英子
『VESTA』購入。
7月22日(水)
夕食を食べ、傘を差して雨の中を帰る途中、妻が歩きながら「泳げたいやきくん」を歌い出した。
「まいにちまいにちぼくらは鉄板の上でやかれていやになっちゃうよ……」
そこまで聴いたとき、ふと疑問が湧いた。
「『いやになっちゃう』というのはおかしいのではないか。〈ぼく〉にはどうして毎日焼かれていることが認識でき、しかもいやになったりするんだろう。1枚のたいやきが焼かれるのは1回だけのはずじゃないのか」
考えてみれば、今まで奇妙に思わなかったのが不思議なくらいだ。
妻は歌をやめると、私の方を向いて答えた。
「たいやきはきっと集合知性体なのよ」
なるほど。私は、心の中でぽんと手を打った。
この歌の謎を矛盾なく説明するにはそれしかあるまい。
つまり、
たいやきはボーグだったのだ。
たいやき集合体は、きっとたいやき発祥以来すべての焼かれた記憶、人間に食べられた記憶を保有しているに違いない。いやになるのも道理である。
そのため〈ぼく〉は集合体から分離したわけだな。そのあとの歌詞を見ると、どうやら〈ぼく〉には個体としての人格が芽生え、集合体とのつながりは断っているらしい。スタトレでいえば、ブルーかセブン・オブ・ナインみたいなものか。となると、〈ぼく〉がおじさんのもとに戻ったとき、たいやき集合体には個の概念が生まれ、変革のときを迎えるに違いあるまい。でも、残念ながら、確か〈ぼく〉はラストでは釣り人に喰われちゃうんだったっけ。
たいやき界の革命はまだ遠いようだ。
ダン・シモンズ
『エデンの炎』(角川文庫)、日本版『ホットゾーン』(?)小林照幸
『死の貝』(文藝春秋)、北村薫編
『謎のギャラリー特別室』(マガジンハウス)購入。北村薫の解説なんかどうでもいいので、『特別室』しか買わなかったのだけど、これって邪道ですか?(笑)
7月21日(火)
当直中である。
今夜は時間外の入院が1件に、患者さんからの電話が数件。眠れないのだけど、寝る前の薬を2回分飲んでもいいですか(いけません!)とか、不眠時頓用という薬をもらったんだけど、それを飲んでもいいですか(これはいいんです)とか、そういう電話に答えるのも、当直の医者の仕事のうちだ。
さて、患者さんからの電話を受けると、当直の医者は、応対の内容と時間を記録しておくことになっている。なんでこんなことをするかというと、
再診料が算定できるからである。
これは国の診療報酬点数表で決められているのだが、「電話による再診」といって、患者さんやその家族から電話で意見を求められて指示をした場合、再診として料金を請求することができるのである。しかも、通常の再診料は59点だが、午後6時以降午前8時までは時間外加算が65点、午後10時以降午前6時までは深夜加算でなんとプラス420点なのだ(休日だとプラス190点)。
1点につき10円だから、電話でちょっと患者さんからの質問に答えただけで、病院にとっては時間外なら1240円、深夜なら4790円もの収入になるというわけ(だから電話に出た時間もちゃんと記録しなければならないわけだ)。以前は、電話での患者さんへの応対をサービスの一環と考えていた病院も多かったけど、最近ではほとんどの病院が「電話による再診」を保険請求しているはず。一人につき4790円は、経営難の病院にとっては大きい。
患者さんの負担は、普通の科なら、その2割から3割程度。これも、決して小さい額ではない。ただ、精神科の患者さんの場合、公費負担制度があるのでほとんど払わなくていいことが多いんだけど。
というわけで、病院に電話をしただけでお金がかかるわけである。知ってましたか? 知らない人の方が多いと思うんだけど、どうでしょうか。
こういうことは、当然患者さんに知らせるべきだと思うんだけれど、外来診察のとき「何かあったら病院に電話してくださいね」とは言うけれど「でも再診料と深夜加算が取られますよ」とはいいにくいし、まさか深夜に電話をかけてきた患者さんに「これだけお金がかかりますが」とも言えないだろう。というわけで、私も再診料のことなどは何も言わずに、電話での質問に答えているような状況だ。
念のため言っておくけれど、これは別に過剰請求とかそういう問題ではなく、まったく正当な診療報酬の請求である。正当な報酬と認められているわけだから、請求して当然、請求しない方が損なのである、病院の立場からすれば。
とはいっても、こういう診療費の問題というのは詳しくは知らない患者さんの方が多いわけだし、患者さんの側からすれば、最も訊きにくい話題だと思う。医者に行っても「この検査はいくらかかりますか」とはなかなか訊けないものだろうし、明細書をもらって初めて「こんなに取られるのか」と驚く人が大半だろう。いまどきこんな商売は、時価ばっかりの寿司屋かぼったくりバーくらいのものである。
でも、患者さんも医療保険制度についてよく知らないけれど、実を言うと、当の医者の方もあまりよく知っちゃいないのだ。大学の医学部では、内科外科小児科眼科……とあらゆる科の知識がつめこまれるのだけど、どういうわけか、保険制度のことは教えられない。日本ではほとんどすべての患者さんが保険制度を使って医療を受けるわけで、日本で医者をなりわいにしていく以上、保険制度についての知識は絶対に必要だと思うのだが、大学では(少なくとも私の大学では)保険についての講義はひとつもなかったし、研修医期間にも全然教えてもらえなかった。経済的なことなど、医療の本質とは関係ないというのだろうか。
医が仁術であり聖職であると思っている人にとってはショックかもしれないが、病院だって商売だ。コストと無縁ではありえない。特に国からの締めつけが厳しくなり、経営難の病院が多くなっているこのごろでは、医者だって自分の技術がどんなふうに収入に変換されるのか知らないですますわけにはいかないと思う(私だって経済的なことは大の苦手なので、よく知っているとはとてもいえないのだけど)。
まあ、将来は、何をすればどれだけコストがかかるか、すべて患者さんに伝えるようになるんだろう。医者の裁量権は狭まるだろうけど、私としては、その方がクリアでわかりやすいと思うな。たぶん、これからはそういう病院しか生き残れなくなるんじゃないかな。高級寿司屋より、回転寿司の方が入りやすいわけだし。