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5月31日()

 気持ちよく晴れた日曜日なのだが、何の因果か朝から当直。明日まで病院に軟禁状態である。当直中は『グランド・ミステリー』をちびりちびりと読み、VAIOで精神保健指定医の資格を取るためのレポート書き。このレポート、本来は厚生省に提出するものなのだが、不合格者を少なくするため、前もって東京都の方で集め、都の担当者が法律的に不適切なところをチェックしてまた返してくれることになっている。まったくありがたいことである。
 私のレポートは先週戻ってきたのだが、いたるところ赤ペンだらけ。中には重要な指摘もあるのだが、ほとんどは「指定医」ではなく正確に「精神保健指定医」と書けだの、「法○○条」ではなく「法○○条」と書けだの、どうでもいいようなことばかりである。まったくありがたいことである。「第」の一文字がそんなに大事なのか。まったく、お役所仕事というのは嫌になってしまうが、これを直さないと資格がもらえないのかと思うと呆れつつも直すしかないのだな、これが。こんな馬鹿馬鹿しいことをしないと本当に資格がもらえないかどうかは知らないが、あえて試してみる度胸はない。入社面接に、まるで制服のように紺のリクルートスーツを着ていく大学生も同じ心境なんだろうな。こうして愚かしい慣習は肥大し、膨張し、バルンガのごとく(トリブルのごとく、でも可)世の中を覆い尽くしていくわけだ。やれやれ。
5月30日()

 有楽町へ『スターシップ・トゥルーパーズ』を観に行く。これはやはり事前情報なしで観たかったなあ。前もって「お笑いスプラッタ」だとわかっていたので、主人公のバカぶりを笑うことができたけど、何も知らずに行ったらヴァーホーヴェンの意図を測りかねて、森下先生のように戸惑ったかも。しかし、喰えない人だなあ、ヴァーホーヴェン。
 ハインライン好きでヤマトファンの妻は「燃えるぜ!」と喜んでいたが、そういう映画なのか、これは。だって、虫の大群に何の策もなしに突っ込んでいく主人公たちはまるっきりバカではないですか。こんなバカに感情移入できるのか(妻はしっかり感情移入したようで、「古代進だってバカなんだから、それでいいの!」と言っているのだが)。まあ、二通りの見方ができてしまうところがこの映画の企みなんだろうけど。
 というわけで、私も妻もけっこう満足した映画でした。おもしろいと思ったポイントが私と彼女では違うんだけど。

 プレストン&チャイルド『マウント・ドラゴン』(扶桑社ミステリー)、アンダースン&ビースン『終末のプロメテウス』(ハヤカワ文庫SF)、日野啓三『砂丘が動くように』(講談社文芸文庫)購入。
5月29日(金)

 今日の「驚き桃の木20世紀」のテーマは星新一。うーむ、星新一も歴史になってしまったか。内容は、SFファンからすれば周知のことばかりでまったく新味はない。今度は広瀬正とかやってくれ。それにしても、小松左京、老けたなあ。

 続いてNHKにチャンネルを回し(死語)、NHKスペシャルを途中から見る。今日のテーマはADHD。注意欠陥・多動性障害と訳されている子供の病気である。この病気の子供は、注意の持続時間が短く、落ち着きがなくじっとしていられない。注意されても聞いていないし、すぐかっとなって衝動的に他人のじゃまをしたり物を壊したりする。授業に集中できないため、学校の成績は悪いことが多いし、万引きや喧嘩など行為障害をともなう場合も多い。
 それが病気なの? と思う人もいるだろうけど、れっきとした病気である。しかも、脳の微細な障害が原因だという説が濃厚である。心理的なものではなく、生物学的な原因のある疾患なのである。
 番組では、アメリカのADHD専門の学校の様子が紹介されていたのだけど、そこの教育方針というのが、まさに露骨なオペラント条件づけ。課題をクリアできたたびにカードが配られ、カードが少ない者は校庭で遊ぶことができない。確かに治療の基本は「どのように振る舞えば周囲から見て好ましい行動になるか」を具体的に教えることなので、これがもっとも有効な治療法なんだろうけど、日本だと、こういう割り切り方はなかなかできないだろうなあ。
 私も以前、一人だけこの病気と思われる患者さんを診たことがあるのだが、本人をどう治療するか、というよりも、家族や周囲にどのような病気でありどのように接すればいいのか理解してもらうことに多大なエネルギーを費やさなければならなかった。この病気に関しては、家族や学校の協力が絶対に必要で、医療のできることはごく限られているのだ。
 番組は、こんな病気もあるんだよ、という紹介の域を出ていなかったけれど、病気自体がほとんど知られていない現状では、こういう番組も意味があるだろう。

5月28日(木)

 妻はソニー製品が好きである。彼女が持ってきたステレオもソニーだし、昔使っていた電話もソニー製品である。私は、ソニー製品ってけっこう故障しやすいと思うのだが、彼女はそれでもソニーがいいという。ほとんど信者といってもいいくらいだ。
 半年前にテレビを買ったとき、東芝BAZOOKAを強力に勧める店員に乗せられて、ちょっと割高のWEGAを買わなかったことをいまだに後悔していて、「思想のないテレビを買ってしまった!」とことあるごとに嘆いている。テレビに思想などいらんと思うのだが、確かに今思えば私もWEGAにすればよかったような気もする。いいよな、平面ブラウン管。5、6年したら画面が歪んできそうな気もしないでもないが。
 その彼女が、発売されたときから狙っていたノートパソコンは、当然ながらVAIOである。妻によれば、デザインが「さすがはソニー様」であるらしい。私もそろそろもう一台ノートがほしいとは思っていたのだが、Let's Note miniとかAMITYがいいなあ、と考えていたのだ。だってあのタッチパネル使いにくそうだし(私が今まで使っていたのは超薄型で一世を風靡した486/50Hz、Windows3.1搭載(笑)のDigital HiNote Ultraなのだが、妻的にはこれは全然かっこよくないらしい)。
 しかし、VAIO発売以来、彼女のモバイル熱は高まる一方。昨年末あたりから、モバイル雑誌を買ってきてはVAIOの記事をながめているし、秋葉原に行くとモバイル館に行ってVAIOをいじっているという始末。
 ほぼ半年の間、こんこんと彼女にVAIOの魅力を説かれるうちに、なんということだろう、私もVAIOはいいなあ、と心から思うようになってしまったのだ。洗脳されたのである。ああ、VAIOがなければ幸せはなく、VAIOがなければ喜びもない。
 そして今週、ついに、私は買ってしまった。バイオノート505EX/64である。一緒に専用CD-ROMドライブとELECOMのUSBマウスも買う。USBマウスはこれしか出ていないので、選択肢がないのであった。
 これで当直中でも思う存分パソコンが使えるぜ。VAIO様万歳。ソニー主体思想万歳。
5月27日(水)

 6、7年前のことだ。現在よりも古本収集に情熱を燃やしていた私は、友人から今は亡き「BOOKMAN」という雑誌の古本屋特集のコピーを手に入れ、毎週のように古本屋通いを続けていた。記事の中で特に目を引いたのが、「幻想文学を徹底してコレクションしている」という某古書店の紹介文。「編集部では実際に行って確かめていないのだが」とも書いてあるが、「幻想文学」を「徹底してコレクション」とあっては、ちょっと遠いがこれは行かねばならぬ。私は早速中央線に乗り、その店を目指すことにした。
 雑誌に載っていたのは店名と住所だけ。駅を降り、住所を頼りに歩いていくと、どんどん住宅地へと入っていく。昼下がりの住宅街はとてものどかで、到底古本屋などありそうな風景ではない。道を間違えたか、と困惑していると、忽然と店名の書かれた看板が現れた。その建物も一見普通の家にしか見えないが、間違いない。ここらしい。しかし、扉は閉ざされている上に、窓はカーテンが閉められていて電気もついていない。どう見ても営業していないようだ。しかも、たまたま今日は定休日、というよりは、このところずっと閉店中といった面持ちである。
 仕方ない、帰るか、とため息をつき、何気なしにカーテンの隙間からのぞいてみると……これは! そこには小栗虫太郎やら久生十蘭やらのほこりをかぶった本がぎっしりと棚に並んでいるではないか。これぞ、まさに宝の山である。
 ああ、窓の中には宝の山。しかし店には入れない。しばらくその店の前をぐるぐると行ったり来たりしたあと、私はすごすごと帰ってきたのであった。

 それっきり、その店のことは忘れていたのだが……。
 昨年、意外なところからその店の話を聞いた。古本マニアとして知る人ぞ知るマンガ家の喜国雅彦さんが、NIFTY-SERVEの推理小説フォーラムでこの店のことを書き込んでいたのである。
 私と同じように、カーテンの向こうに見える宝の山に狂喜した喜国さんだが、そこからが行動力のない私と違うところ。さっそく携帯電話を取り出して店に電話したのである。
 喜国さんが「もしもし、今店の前にいるんですけど」というと、なんとガチャンといきなり切られてしまった。気を取りなおしてリダイヤルし、「もしもし、今日は休みなんでしょうか」と訊くと、今度はおばさんが小さな声で「……休みです」
「明日はやってますか」
「……やってません」
「じゃ、いつやってますか」
「……」
「もうお店やってないんですか」
「……」
「待ってればいつか開くこともあるんですか」と訊くと、
「わからないんです、ガチャン」と切られてしまったそうな。
 結局、喜国さんもやはりすごすごと帰ってきたらしい。

 いったい何なんだろう、この店。どんな事情があるのかは知らないが中に宝の山が見えるだけにもどかしいんだよなあ。また今度行ってみようかな。どうせやってないんだろうけど。

 今日はマンガを山のように購入。諸星大二郎『栞と紙魚子と青い馬』(朝日ソノラマ)、トニーたけざき『岸和田博士の科学的愛情11』(講談社)、ねこぢる『ねこぢるだんご』(朝日ソノラマ)、とり・みき+ゆうきまさみ『土曜ワイド殺人事件』(徳間書店)。
 ここからは、SFマガジン7月号を読んで買おうと思ったもの。蜈蚣Melibe『バージェスの乙女たち〜ディノミスクスの章』(三和出版)。うーん、私もまだまだ鬼畜になりきれないのか、こういうのはちょっとなあ。『キングダム・カム』がなかなか面白かったので、アメコミも。『バットマン:ダークナイト・リターンズ』(小学館プロダクション)と『サンドマン1』(インターブックス)。アメコミはオールカラーなので高いのが難点だけど。おお、サンドマンは掲示板にも何度か書きこんでくれた海法紀光さんの訳書ではないか。買ってから初めて気づきました。バットマンの方は柳下毅一郎訳だというのに、表紙に訳者表記がないのが不思議。
5月26日(火)

 ふと思い立って、朝日文庫『オウム法廷』上下、『オウム法廷(2)』上下を一気に買う。私にとってオウム事件は他人事ではないので、事件に関する事実をきちんと押さえておきたいと思ったのだ。
 現実のオウム裁判の方はさらに進行していて、地下鉄サリン事件の実行犯である林郁夫被告は無期懲役になった。「無期懲役」という量刑は私としてはまあ妥当なところだと思うのだが、気になったことがひとつ。判決理由の中に、「医師であるにもかかわらず」という言葉が使われていたことだ。医師は人を助ける仕事なのだから、殺人などもってのほかなのだ、という論理なのだろうが、殺人がいけないのは医師でなくても同じだ。なんでまた医者を特別視する必要があるのだろうか。
 事件が発覚したときも、「医者なのにどうして麻原なんかを信じたのか」などという反応があったが、医者だから知性が優れているはずだ、という思いこみからの発言だとしたら、それは間違いとしかいいようがない。医者だってバカは多い。そもそも受験勉強的知性と合理的批判能力にはそれほど相関がないような気がする。医者だというだけで尊敬されるような時代はもうとっくに終わったし、医者よりも収入が高い職業はいくらでもある。今後は医者余りが進み、医者になりさえすれば将来は安泰、などとは決して言っていられない時代だ。それなのに、いまだに医師ってのはいやおうなく特別視されてしまう職業なのだ。なんだか不公平な気もするぞ。

 最初に、オウム事件は、私にとっては他人事ではないと書いたけれど、これは比喩でもなんでもなく、非常に私に近いところで起こった事件なのである。どれくらい近いかといえば、大学時代に何度も勧誘され、事件後には私のところに二人組の刑事が聞きこみに来たくらいの近さだ。
 大学ではオウム服を着た信者たちの姿をときおり見かけたし、大学祭ではオウムがイベントを行い、幸福の科学のサークルは大川隆法を呼んで講演会を行っていた。学生運動華やかなりしころが「政治の時代」だとしたら、私が大学生だったころは「宗教の時代」だったということになる。
 私はSFという認識の道具をすでに持っており、はなから人生に普遍的な意味だの目的だのはないと思っていた(だから、自分の責任で目的を決めなければならないのだ。それはとても苦しいことだけれど)ので、宗教にはまることはなかった。しかし、私にはオウムに走った友人たちのことを嗤ったり責めたりすることはできない。彼らの行き詰まりは、私にも理解できるのだ。
 驚いたことに、大学では「医の倫理」に関する講義はごくわずかしかなかった。講義で教えられ、覚えることを強制される(覚えなければ国家試験に通らない)のはまるで前世紀の博物学の残滓のような、細かい器官や病気の名前の羅列である。そこには、一本筋の通った論理もなければ、人間の全体像を俯瞰する視点もない。4年間これを続けて医学に疑問を抱かないのは、よっぽど鈍い人かきわめて頭脳明晰な人かのどちらかだろう。私はあまりにも細分化された医学に疑問を抱いたからこそ、わりとおおざっぱでマージナルな精神科に進んだわけだが(もちろんこれだけが理由ではないけど)、大学で全体的な人間の見方を教えられない以上、その補完をてっとりばやい宗教に求める人がいても不思議はないと思う。
 オウム事件によって宗教すらなんだかうさんくさいものになってしまった今、医の倫理も教えられず、宗教という逃げ道も封じられてしまった医学生たちは、いったい何をよりどころにして医者をやっていくんだろう、というのが気になるところ。もちろん、何物にも頼らないのがいちばん強いのだけど、世の中そう強い人ばかりではないからね。
5月25日(月)

 今日は病院の新人歓迎会。私は一応主賓なので出ないわけには行かず、伊藤典夫師匠の例会は前回に引き続き欠席。出席した妻によれば、例会にはなんでも溝口さん@書物の帝国も来たそうだ。会えずに残念。お茶大SF研OGの阿部さんは、例会で実物の私に会っており、このページも読んでいたにもかかわらず、しばらく両方の風野が同一人物だとは思っていなかったそうだ。こんな珍しい名前で、しかもSF者で精神科医なんて人間、そういるもんじゃないと思うのだが。そんなに実物と文章とではキャラクター違いますかね、私は。
 歓迎会の会場は、築地にある聖路加タワーのてっぺんにあるイタリアン・レストラン。眼下には月島から銀座、遠くは新宿ビル街にいたるまで、大東京が一望に見渡せる。いや、絶景かな絶景かな。最高のデートスポットじゃないでしょうか、ここは。やるなあ、聖路加。にょきにょきとビルがつらなる夜景はなんだかシムシティかA列車……って、かなりゲームに毒されてますな、私も。

 鯨統一郎『邪馬台国はどこですか?』(創元推理文庫)読了。これがなかなかおもしろい。「ブッダは本当は悟りを開いていなかった」「邪馬台国は東北にあった」「聖徳太子と推古天皇は同一人物」など、無茶苦茶な説をアクロバティックな論理で証明してしまう。歴史の論証といっても、「ついに歴史の真実を発見したのだあ」などと妙に肩肘張ってないところが、これまでの歴史ミステリと違って現代的なところ。
 荒俣宏『エキセントリック』(集英社文庫)、丸山工作編『ノーベル賞ゲーム』(同時代ライブラリー)、諸田玲子『まやかし草紙』(新潮社)、井波律子『中国的大快楽主義』(作品社)、赤城毅『帝都最終決戦』(C NOVELS)購入。SF率は……10%くらいか?
 近所の古本屋でウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト』(新潮社)を入手。
5月24日()

 高校生のころはヒマだったもので、山のように本(ほとんどSF)を読んだし、休み時間にはいろいろバカな遊びを考案しては友人とともにそれを試していた。ほかに楽しいものがいくらでもある今の高校生は、こんなことしてないだろうなあ。
 まずはしりとり。たかがしりとりとあなどるなかれ。「しばり」を加えることにより、しりとりは高度な知的ゲームになりうるのである。SFセミナーでも死闘が繰り広げられた書名しばり、人名しばりあたりは基本中の基本。書名しりとりでは「る」で始まる本が極端に少ないのが狙い目だが、人名しりとりの場合は、ルイ1世〜ルイ16世という返し技があるので「る」はかえって不利なのであった。
 その後に考案したのが、「同文字しばり」。つまり、「あ」で始まって「あ」で終わる単語だけでしりとりをするのである。アジア→アリア→アッシリア→アンダルシア→アフターケア……という具合。「あ」の場合は外来語ばっかりになってしまう。「い」だと、まず先手が「胃」といった瞬間から、両者の頭の中で3文字の単語の五十音順検索が始まる。いあい、いいい、いうい、いえい……と単語になるものを検索し、居合い→遺影→異界……と進んでいくわけだ。3文字の単語がすべて終わったところから、真の戦いが始まるのである。「い」はかなり長くかかったが、「ぬ」のように、先手が「ぬれぎぬ」と一手指しただけで終了してしまう場合もあったりする。
 私と友人の二人は、これを「あ」から「わ」に至るまですべての音で実行した。今思えば、あきれるほど不毛な情熱である。いったい、どれくらいの時間がかかったんだろう。たぶん、一月以上かかったんじゃないだろうか。ついに「わ」に到達したときには、我々は何か偉業を成し遂げたような達成感を感じていた。あの情熱はいったい何だったんだろうなあ。ああ、あのころの情熱をもういちどほしいものだ。そんなもの手に入れたら社会生活が続行不可能になるだろうけど。

 同じ友人とともに何度となくやったのが、紙将棋名人戦(本当にヒマだったんだなあ)。将棋盤などないし、細切れの休み時間で戦わなければならないので駒がバラバラにならないよう、生徒手帳の桝目のあるページにボールペンで将棋盤を書き、鉛筆で駒を書き入れる。そして手を進めるときには、消しゴムで消して駒を動かすのであった。いつのまにか歩が一個増えていたりすることもあったが、そんなことは気にしてはいけないのである。
 さて、当時チェスの指し方を覚えたばかりであった私は、友人に紙チェスをやろうと持ちかけたことがある。しかし、友人は将棋の方がいいといってなかなか首を縦に振らない。そこで、私はあることを考えついた。君がそんなに将棋の方がいいというのなら、将棋とチェスとで戦って、どちらが強いのか決めようではないか。将棋盤は9×9、チェス盤は8×8だから、中をとって8×9にする。片方の香車と歩は仕方ないのでなかったことにする。もちろん、チェス側はチェスのルールに従うので相手の駒を取っても使えない。持ち駒を使えるのは将棋側だけである。
 このルールに従って、私と友人は史上初の将棋対チェスの異種格闘技戦に臨んだのだが……そのあとのことは覚えていない。どっちが勝ったのかすら記憶にない。ただ、その後異種格闘技戦はもう2度とやらなかったことだけは覚えている。
 つまり、全然面白くなかったのだ。
5月23日()

 シェイクスピアとほぼ同じ時代のイギリスの作曲家、ジョン・ダウランドの曲に「涙のパヴァーヌ」というのがある。リュートの伴奏つきの独唱曲という簡素な構成なのだが、メランコリックなメロディラインが人気を得て、ヨーロッパ中で爆発的に大流行した。ダウランドはフランス、ドイツ、イタリア、デンマークと全欧ツアーを敢行、デンマークでは王室リュート奏者に迎えられる。
 今なら作曲者ダウランドは、印税だけで大金持ちになっているところだが、当時は著作権など影も形もない時代。ヒット曲と見るや、同時代の作曲家たちがよってたかってこの曲を器楽用に編曲して出版しているし、もっと臆面もない作曲家になると、特徴ある冒頭のテーマだけを使って似たような曲を作ったりもしている。恥も外聞もない時代ですね。
 当の原作者であるダウランドは、毅然たる態度を取る。すなわち、自らこの曲を器楽用に編曲して出版し、特徴ある冒頭のテーマだけを使って似たような曲を(6曲も)作ったのだ(笑)。これが「ラクリメ」という曲集で、同じ曲集には「つねに悲しむダウランド」などというよくわからないタイトルの曲まで収められている。一曲メランコリックな曲でヒット曲を出すと、つねにメランコリーを売り物にしなければならなくなってしまうという現代にも通ずる哀しみを描いたもの……と私は勝手に思っているのだが、本当は全然違うかも。
 さて、このヨーロッパ最初の大ヒット曲「涙のパヴァーヌ」の歌詞はこんな感じ。

Flow my tears, fall from your spring,
Exil'd for ever: let me mourn
Where night's black bird her sad infamy sings,
There let me live forlorn.

 シェイクスピア時代の英語なのでよくわからないところもあるが……とにかく、ディックの『流れよ我が涙、と警官は言った』という奇妙なタイトルはここから取られているわけだ。
 このほかにも、ディックの小説を読んでいると、ときおり古楽関係の記述がひょいと出てきたりして(忘れてしまったので具体的にどことは言えないけど)、ディックという人は、意外にルネサンス・バロック音楽が好きだったのだなあ、と思うことがある。まあ、古楽に限らず、ヴェルディのレクイエム(『ヴァリス』)とか、モーツァルトの交響曲40番(『火星のタイム・スリップ』)とか、ディックの作品ではクラシック音楽が効果的に使われていることが多いのだが。ディックとクラシック、という視点でディック作品を読みなおしてみると面白いかもしれない。
 そういえば、『流れよ我が涙』の主人公の名前はジェイスン・タヴァナーだけど、それとよく似たジョン・タヴァナーという名前の作曲家が、ダウランドの100年ほど前のイギリスで活躍していた。たぶん、これは偶然ではないのだろうな。
5月22日(金)

 あまり知られていないことなのだがタリーという単位があって、これは人間の総合的な頭のよさを表している。普通は10タリーとか23タリーなどと表すのだけれど、大規模な調査を行ったところ、驚いたことに、1タリー以下の数値を示す例も次々と見つかり、特にある職種の人々に対しては、タリーでは単位が大きすぎるということで、タリーの1000分の1の単位を使う必要があったという。
 その新しい単位を、ミリタリーという。

 というわけで、ある職種の人々が活躍するSF『戦闘機甲兵団レギオン』(ウィリアム・C・ディーツ)読了。いや、さすがに1ミリタリーの頭脳しかない人々が大挙して登場するだけあって、頭が悪い話である。
 タイトルにもなっているレギオンは、なんでもフランス外人部隊の直系の末裔らしいのだが、この時代には、死刑になった殺人犯だの殺人事件の犠牲者だのの脳を機械の体に移植したサイボーグ(表紙の「太ったエヴァ」がそれです)が主力になっているらしい。大量のロボコップが配備されているようなものだ。かなり悪趣味な部隊である。兵士の脳ならともかく、こんなんで本当に強いのか。しかも酷使されるくせにサイボーグは上級士官にはなれないらしい。反乱起きるぞ、絶対。
 どうしたわけか解説の牧眞司さんは異星人の異質性を強調しているけど、宇宙の彼方から攻めてくるフダサ人も、惑星アルジェロンの原住種族ナー(これはインディアンそのまんま)も、どうみても妙に人間くさいとしか思えなかったなあ。
 さて、攻めてくる極悪なフダサ人に対し、レギオンが立ち向かう! という話なのかと思っていたのだが、これが全然違うのだった。詳しくは言えないが、おいおい、敵が攻め込んできているというのに、味方同士でそんなことしてていいのか、という展開。殺人者のサイボーグとその被害者のサイボーグとの間の緊張関係とか、惑星アルジェロンを勝手に本拠地にしてしまったレギオンと原住種族ナーとの葛藤とか、いろいろ面白くなりそうなネタはあるのに、あろうことか、すべて腰砕け。
 しかも、驚いたことに、レギオン軍は本拠地に陸上部隊がいるだけで、自前の宇宙艦隊をまったく持っていないとくる。たまたま本拠にしている惑星に敵が攻め込んでくれたからいいようなものの、そうでなければどうやってフダサ軍を迎え撃つつもりだったのだろう。帯にも書いてある「レギオン対フダサ軍の壮絶なる戦い」がいつ始まるのかと思って読んでいたら……いや、驚きました(笑)。
 私にはこの話、レギオンが面子にこだわるあまり内戦を引き起こし、人類の危機を招いてしまった話と読めたのだけど、違うのか?
 これだけけなしといてなんだけど、読んでいるうちはけっこう楽しめました。SFとしてはともかく、エンタテインメントとしてはけっこうよくできているのでは。ミリタリーもの特有の軍隊賛美的メッセージにはどうしても馴染めなかったが。

 そうそう、冒頭に書いたタリーなどという単位は実在しませんので。為念。
5月21日(木)

 ワイドショーは今日も安室出産の話題で持ちきり。しかし、「安室出産」という字面だけ見ると、まるで霊安室で出産したかのようである。生まれたのは男の子だったようで、これが本当の「サムの息子」(このネタもう誰か使ってそうだな)。

 時事ネタを続ける。ドリームキャストなるセガの次世代機が公開されたけど、あまりゲームに濃い人ではない私には、それほどの感慨はない。確かにハードの性能はすごいのだろうが、あの社長の生首が飛び回るというあまりにもセンスの悪いデモですべて帳消し。あれはまさに、いくらハードが優れていても、いいソフトがなければどうしようもないっていう事実を証明するようなデモであった。それとも、あれは社長が首を賭けているということを言いたかったのか。

 もう一発時事ネタ。ちょっと取り上げるのが遅れたが、ついに全体像が明らかになったあのアメリカ版ゴジラについて触れないわけにはいくまい。新聞の写真を見た限り、なんかただの巨大なイグアナのようで、デザインからは怪獣のもつ哀愁が全然感じられないのが残念。やっぱりアメリカ人(いやエメリッヒはドイツ人だったな)には、破壊者であると同時に犠牲者でもあり、人類に審判を下す神でもあるという、怪獣のもつ多義性が理解できなかったのだろうか。しかし、怪獣の哀愁ってのは、もとをたどればキングコングだし、そのさらにルーツをたどればフランケンシュタインのモンスターに行きつくわけだから、別に国民性とは関係ないはずだ。ああいうふうになってしまうのは、つまりはエメリッヒのせいなんだろうなあ。
 ああ、テリー・ギリアムかティム・バートンのゴジラが見たかったなあ(ヤン・デ・ボンのゴジラは別に見たくもないが(笑))。

 え、雛形あきこ結婚だって?……って、最後まで時事ネタかい。

過去の日記

98年5月中旬 おそるべしわが妻、家具屋での屈辱、そしてジェズアルドの巻
98年5月上旬 SFセミナー、WHITE ALBUM、そして39.7℃ふたたびの巻
98年4月下旬 エステニア、エリート医師、そして39.7℃の巻
98年4月中旬 郷ひろみ、水道検査男、そして初めての当直の巻
98年4月上旬 ハワイ、ハワイ、そしてハワイの巻
98年3月下旬 メフィスト賞、昼下がりのシャワー室、そして覆面算の巻
98年3月中旬 結婚指輪、左足の小指の先、そしてマンションを買いませんかの巻
98年3月上旬 ポケモンその後、心中、そして肝機能障害の巻
98年2月下旬 フェイス/オフ、斉藤由貴、そしてSFマガジンに載ったぞの巻
98年2月中旬 松谷健二、精神保健福祉法、そしてその後の男の涙の巻
98年2月上旬 ナイフ犯罪、DHMO、そしてペリー・ローダンの巻
98年1月下旬 肥満遺伝子、名前厄、そして大阪の巻
98年1月中旬 北京原人、アンモナイト、そして織田信長の巻
98年1月上旬 さようならミステリー、星新一、そして日本醫事新報の巻
97年12月下旬 イエス、精神分裂病、そして忘年会の巻
97年12月中旬 拷問、ポケモン、そして早瀬優香子の巻
97年12月上旬 『タイタニック』、ノリピー、そしてナイフで刺された男の巻

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