3月31日(火)
久しぶり(1ヶ月以上のブランクになってしまった)に、
本読み千年王国に書評を追加。西村京太郎
『おお21世紀』、アンダースン&ビースン
『イグニション』、ウィルキー・コリンズ
『夢の女・恐怖のベッド』の3作。
書店では、ジェイムズ・カウアン
『修道士マウロの地図』(草思社)、火浦功
『大ハード。』、唐沢なをき
『怪奇版画男』購入。いやー、『怪奇版画男』はすごい。表紙から奥付けまで、全編手彫りの版画。こんなマンガ描こうと思う人間は、唐沢なをき以外いないだろう。この馬鹿馬鹿しいまでの苦労を思えば、いつもと比べてギャグの切れがないなんてことは些細な問題(か?)。
――この日記って特定の読者を想定して書いてるの?
同居人にそう訊かれたので、私は胸を張って「もちろん」と答えた。「私は、ある少女に向けてこの日記を書いているのだ」
――はあ?
同居人は露骨に眉をひそめる。
その少女は、不治の病に侵されて入院中なのである。自由に外出することができない彼女にとって、モバイルパソコンでウェブを散策することだけが唯一の楽しみなのであった。
――ちょっと待った。病院でどうやって通信してるの。病室にモジュラージャックがあるとは思えないし、病院内じゃ携帯は使えないでしょ。
う、それは……えーい、そんなことはどうでもよろしい。とにかく、あるとき、彼女がいつものようにあてどもなくウェブをさまよっていると、偶然『サイコドクターあばれ旅』というページに行き当たったわけだ。どんなページなのかしら、と興味を惹かれた彼女は、そのページの日記を読んで、そのあまりの面白さに心奪われてしまったのだ。それ以来、彼女は毎日私のページを訪ねてくるようになり、いつしかこう思うようになっていた。
……この日記が更新されなくなったときに、私の命も終わるんだわ。
だから、私は彼女のために毎日欠かさず日記を更新しているわけなのだ。
――はいはい、そうですか。勝手にしなさい。
私は感動的な話を終え、自分の語った物語の余韻にひたっていたが、同居人は呆れたように首を振るだけであった。ロマンを理解しない現実主義者め。私が憮然とした表情でいると、同居人はにんまりと笑い、こう言ったのだった。
――でも、明日からは更新できないよ。ハワイに行くんだもの。
私はぎょっとした。そうだ。そうなのだ。我々は明日から日本を離れ、ハワイで結婚式を挙げるのであった。オアフ島のカワイハヤオ教会……ではなくカワイアハオ教会ってところで家族のみで小ぢんまりとやることになっている。なんか最近海外挙式が妙に流行ってるので、流行りに乗るのが嫌いな私としてはちょいと不本意なところもあるけど、まあ一生に一度(にしたい)のことだしねえ。
てなわけで、明日からしばらく更新を休みます。帰ってきたらまた更新を再開しますので、私の日記を毎日楽しみにしてくれている薄倖の美少女は、生きる望みをなくしたりしないように。
3月30日(月)
関東・東北地方以外の人は知らないだろうけど、最近、JR東日本では、車だと渋滞はあるし、運転大変だし、鉄道で旅行しましょうよ、というキャンペーンをやっている。
TRAiN
+ iNG
―――――――
TRAiNG
というのが、そのキャッチコピー。この計算式、CMにも出てくるし、駅に行ってもいたるところに書いてある。これは「トレイング」と読むんだろうなあ。TRAiNINGじゃあトレーニングになっちゃうから、TRAiNGにしたんだろうけど、なんだか意味不明のコピーである。しかし、それ以上に気になるのは、
これでは覆面算として解が不定だということ。i=N=0はすぐ決まるけど、あとは不定。私は、これを見るたびに気になって仕方がないのだが、誰も気にならないのか? まあ、どう考えても「覆面算って何?」という人の方が多数派だろうけど。
SEND+MORE=MONEYとか、算数でやりませんでしたか?
算数といえば思い出したことがひとつ。小学校では、3年生くらいのときに九九を覚えさせられる。九九の表を暗記するよう強制され、「四七二十八」とか、「五八四十」などと唱えるわけだ。当時から無駄なことが大嫌いだった私には、「三五十五」は覚えてやってもいいとは思ったが、「五三十五」は覚える価値があるとは全然思えなかった。だって入れ替えれば同じなんだもの。
というわけで、小学3年生の私は九九のうち覚えるべきものはほぼ半分しかない、という結論に達し、「六四二十四」などとは、頑として唱えようとはしなかったのである。当然先生には怒られましたよ。なんで唱えないんだ、とね。でも、私には何で怒られるのかわからなかった。「六四二十四」など覚えなくても計算にはまったく支障がないのだから。
数学にしても、覚える必要があるとされている「公式」があまりに多いのが、不思議でならなかった。最低限覚える必要のある公式だけを覚えて、あとは計算で導き出せばいいわけで、たとえば「sin(A+B)=sinAcosB+cosAsinB」の公式を覚えたら、「sin2A=2sinAcosB」とか「sin(A-B)=sinAcosB-cosAsinB」の公式なんて覚える必要は全然ないではないか。
暗記ものが大嫌いだった私にとっては、歴史とか生物の試験前はほんとに地獄でありました(もちろん、医師国家試験前も(笑))。それに対して物理や数学は、あんまり覚えるところがなくて楽、と思ってたのだが、最近の受験マニュアル本なんかを見ていると、物理や化学、果ては数学までが暗記科目だと言われたりしているようで、なんだか哀しくなってくる。そういう勉強の仕方では、絶対に物理や数学を好きになることはありえないだろうなあ。そもそも数学や物理ってのは、膨大な暗記の手間を省くためにできあがったような学問だというのに。
私としては、暗記なんて、本かコンピュータに任せればいいことで、人間のやるべきこととは思えないのですね。どこを検索すれば求める情報が得られるかを知っていれば、その情報を覚えておく必要など全然ないと思うのだけれど。
そうか、だから私は語学がいつになっても上達しないのか。
3月29日(日)
池袋リブロに行ってみると、話題の新刊がどっさりと出ていてしばし呆然。昨日に続いて今度は新刊を買いあさらねばならんのか(いや、別に買わねばならないわけじゃないけど)。
「小説のあらゆる可能性と魅力を極限まで追求した世紀の大作/畢生の超大作1600枚」(『グランド・ミステリー』)と、
「あらゆる小説の魅力をかねそなえた驚異の大作3200枚」(『五輪の薔薇』)という、なんだかよく似た惹句がついた2作の前でしばし悩み、奥泉光
『グランド・ミステリー』を買う。
その次は佐藤と酒見の二人の賢一の新刊の前でしばし悩み、結局、佐藤賢一
『赤目』を購入。
19世紀ロシア文学の世界がいきなりスプラッター・ノヴェルになってしまうというウラジーミル・ソローキン
『ロマン』も買ってみる。ああ、私は国書刊行会にいくら貢いでいるんだろう。
ようやく出た京極夏彦
『塗仏の宴 宴の支度』に、ジョージ・パルの映画が懐かしいワイリー&バーマー
『地球最後の日』、ニコラ・グリフィス
『スロー・リバー』はデフォルトで買い。『スロー・リバー』の解説は小谷真理さんなんだけど、この人の解説はいつも、前もってある方向(つまりはフェミニズム方面なんだけど)に読み方を誘導してしまうところがあるので、慎重に読む(あるいは読み飛ばす)必要がありますね。私など、小谷さんが解説を書いている、というだけで「ああ、そういう話ね」とわかったつもりになってしまうことすらあるぞ(笑)。なるべく予断を持たずに作品だけを読むようにしたいなあ……と、これは、自分に言っているのである。
最後に買ったのが、
野尻さんのページで話題になっていた
御米椎『TEXTURE HEROINE』とSFマガジン5月号。
SFマガジン5月号は『スターシップ・トゥルーパーズ』公開にあわせてハインライン特集。未訳作品なんてよく見つけてきたもんだ、と思ったら、牧眞司さんの著作目録によると、けっこうあるのね、未訳短編。オリジナル短編集の1冊や2冊、できるのでは。
スティーヴン・バクスター「コロンビヤード」は早速読んでみたけど、この作者にしてはちょっと物足りない作品。
実は、今号で私がいちばん興味深く読んだのは、香山リカさんのエッセイなのですね。ナイフ少年と多重人格との関連を扱った先月のエッセイもそうだったけど、このところの香山さんの文章は、同じ年代の(とはいっても9歳も離れているけど)の精神科医としていちいち納得のいく部分が多い。
香山さんの書いているとおり、確かに、日本の精神医学界で多重人格の症例報告が相次いだのは、ジャーナリズムによる多重人格ブームのあとなのだ。以前、幼女連続殺人の犯人を多重人格だと診断した鑑定報告書を読んだことがあるのだが(報告書は大部なものなのでパラパラと斜め読みした程度だけど)、その中の多重人格について説明する部分で『24人のビリー・ミリガン』が取り上げられていたのには、ちょっと待てよ、と思いましたね。もちろん、多重人格をわかりやすく説明するために、わざわざベストセラーになっている作品を例として取り上げたのかもしれないし、鑑定医の方たちはM君と何度も面談を重ねた上で、自信を持って多重人格と診断したのだろう。でも、やはりその判断の中に、ブームの影響がなかったとはいえないと思うのですね。
多重人格ブームがなかったとしたら、果たしてM君はやはり多重人格と診断されただろうか?
私としては、これは精神科医のアイデンティティに関わる重大な問題だと思うのだけれど、一般の人にとってはどうでもいい話かもしれないなあ。
3月28日(土)
朝から部屋の掃除。2年間住んだ柏崎の部屋も今日で引き払う。鍵を返し、両手いっぱいの荷物を抱えて柏崎駅へ。電車が来るまで1時間以上あるので、バスで長岡に向かうことにする。
バスは田んぼの中をひた走る。ふと道の脇を見ると、コック帽をかぶった鉄腕アトム(無断使用だろうなあ)の看板。絵はかなり下手。店の名前は「レストラン・アトム」だそうな。いったいなぜにアトム? と店の先に目をやると、丘の向こうには
柏崎刈羽原子力発電所が。なるほど(笑)。
しかし、せっかく柏崎に来ていたんだから、一度原発にも見学に行きたかったなあ。見学したら、係の人には当然
「原子ってやつを見せてもらえませんか」と訊くのだ(星新一追悼ネタ)。
バスは
メーソンネーラン前なる停留所を通過。メーソンネーランというのは会社の名前らしくて、新幹線の長岡駅にも大きく看板が出ているのだが、何をやっている会社なのかまったく不明。メーソンネーランというのはいったい何語なのだ。フリーメーソンとの関係は? うーむ、怪しいぞ。これも謎のまま。
長岡に着いたときは昼過ぎで腹も減っていたので、以前は毎週のように来ていた「ナカタ」で最後の昼食を食べる。店は古くて汚いけれど、ここのカレーは絶品。長岡を訪れた際にはぜひどうぞ。
さて、すでに抱えきれないほどの荷物を持っているというのに、今日で長岡も最後と思うと、どうしても行かずにいられないのが古本屋。荷物はコインロッカーに入れて早速古本屋めぐりに。本当はあんまり期待していなかったのだが、2軒目の遊書房が大当たり。あまり荷物を増やせないと思いつつも、ここで買っておかなければもう手に入らないというジレンマ。いやあ、悩んだ悩んだ。
ハヤカワSFシリーズから
『ニュー・ワールズ傑作選No.1』、
『SFマガジン・ベストNo.3』、オールディス
『虚構の大地』、シェクリイ
『人類の罠』。ポケミスからガイ・エンドア
『パリの狼男』、異色作家短編集のロバート・ブロック
『血は冷たく流れる』。キム・スタンリー・ロビンスン
『荒れた岸辺』も安いので買っておく。
そして意外な作家のSFを3冊。まずは企業小説の大家邦光史郎の
『1980年の恋人』(浪速書房)。出版されたのが昭和44年なので、これは未来小説なのである。西村京太郎
『おお21世紀』(春陽堂)。これも昭和44年刊。そして極めつけは獅子文六
『ロボッチイヌ』(文藝春秋新社)。獅子文六がSFを書いていたとは。ロボット犬の話かと思ったらそうではなく、「ロボッチイヌ」は「ロボット」の女性形(?)だそうで、要はセクサロイドの話。短編集の中でSFはこの1篇だけであとは諷刺小説のようだけれど。昭和34年刊。
誰か昭和40年代にSFを読んでいた人物が蔵書を売ったんだろうか。おかげで異様に重い荷物を抱えて東京に帰ることになったが、満足満足。
3月26日の日記で書いた綾子舞のページを発見したので紹介しておきます。
柏崎市のページと
個人のページ。
3月27日(金)
転勤のときはいつもそうなのだが、なんだか患者さんたちを見捨てるような後ろめたい気分になる。2年間ずっと診つづけてきた患者さんも多いし、診た期間は短くてもまだまだ治療途中だった患者さんもいる。何度も家族面接を重ねて家族調整をするつもりだった患者さんもいるし、退院直前だった患者さんもいて、最後まで診られなかったのはとても心残りだ。
患者さんにとっては、いきなり途中でほっぽり出されたような気持ちになっても不思議はないわけで、転勤を告げてから新しい担当医に替わるまでの期間は要注意。精神状態が不安定になりやすいのだ。おかげで、今週はこの2年間でいちばん忙しい1週間だった。
おもしろい(というと語弊があるが)のは、患者さんによって、転勤を告げたときの態度が全然違うこと。「どっか行っちゃわないでよぅ」と悲しそうにすがりついてきた人懐こいおばさんもいるし、「長い間どうもお世話になりました」と表情も変えずに礼儀正しく頭を下げた男性もいる。「そうですか」とただひとこと言ってそそくさと席を立ってしまった患者さんもいるし、「転勤するんですか、今度はどこの病院に行くんですか」とにらみつけるようにして訊いてきた人もいる。この人はずっと被害妄想を持っている患者さんだから、私の転勤も彼の妄想の中に取りこまれてしまったかもしれない。「ずっと先生に診てほしかったなあ」とため息をついた女の子。私も退院まで見届けたかった。
考えてみれば、2年間入院患者を診つづける、などというのは精神科以外の科ではまずないわけで、こういう後ろめたさも精神科医ならではのものだろう。学校の先生に近いかもしれないけど、先生だって学期途中で転勤することはあまりないだろうしなあ。
心残りはいくつもあるが、柏崎の病院での仕事は今日ですべておしまい。
3月26日(木)
病院に通う途中の道ばたに、にょきにょきと土筆が顔を出している。場所によっては、道路脇に露出した土の一面にびっしりと土筆が生えていて、まるで森のようである。都会育ちの私にとってはとても珍しい光景で、歩くのを忘れてしばらく見入ってしまった。長い冬が終わって、柏崎にもようやく春が来たのだ。
午後に山間部の老健施設と診療所に行くのも今日が最後。たまたまこんな仕事が舞い込んで来ることがなければ、絶対に行くことがなかったようなひなびた土地である。まだ1メートル近くも雪の残る高柳町石黒地区の老健施設は、集落に子供がいなくなってしまったため、不要になった小中学校を改造してつくられたもの。診療所のある鵜川という集落では、400年前に京から来た旅の一座が伝えたという踊り「綾子舞」が今に至るまで受け継がれている。これは、歌舞伎の原型である阿国歌舞伎に近い舞であるらしい。これも一度見たかったなあ。どこの伝統芸能もそうだが、ここでも過疎化による後継者難に苦しんでいて(昭和30年代には3000人以上いた集落の人口が、今では500人足らずになってしまったそうだ)、いつまでこの舞が受け継がれるかはわからない。
ああ、もっとこの土地のさまざまなものを見ておくんだったなあ、と、満天の星空を見上げて思った。見ておくべきものはたくさんあったのに、私は今まで早く東京へ帰ることしか考えてこなかったのだ。今になって後悔するのではなく、ここに来た当初から積極的に歩きまわっていろいろなものを見ていたら、さまざまな発見があったに違いない。
4月からは東京に戻るが、また何年かしたら地方に行ってもいいな。
ただ、ビブリオフィリア患者の私としては、本が手に入らないのには耐えられないだろうけど。
3月25日(水)
かつて、某病院に勤務していたときのこと。
昼休み、売店で買ってきた弁当を食べ終わってお茶をすすっていると、年上の内科医M先生が声をかけてきた。
「ゼクを見に来ないか」
ゼク?
ゼクというのが何なのか、とっさに思い浮かばなかったが、M先生は私の返事など聞かずに医局を出ていってしまう。私はあわてて彼についていくことにした。
私が医局を出ると、M先生はちょうど角を曲がろうとするところ。小走りに追いかけると、M先生はあるドアの前で立ち止まっていた。ドアの上のプレートには「男子シャワー室」とある。シャワー室? 二人でこれから仲良くシャワーでも浴びようというのか。
M先生は何も言わずにドアを開ける。中は脱衣室である。私が入ると、背後でカチャリと鍵を締める音が響いた。振り返ると、M先生と目が合った。心なしかM先生の瞳はこれから起こることへの期待に輝いているようにも見える。私はぞくりと身をふるわせた。
「先生?」私はおそるおそる訊いた。
すると、ほらそこだよ、というようにM先生は顎をしゃくってみせた。シャワー室の中を見ろ、と言っているようである。いったいそこに何があるのか。こわごわ中をのぞき込んだ私は息をのんだ。まさかそんなものをシャワー室で見ることになろうとは、予想だにしなかったのである。タイルの上に据えつけられた解剖台。そして、その脇には手術衣とマスクに身を包んだ男がいて血のしたたる電動ノコギリを構えていた。解剖台の上に乗っているのはもちろん、ミシンでもこうもり傘でもなく、人間の遺体なのであった。
思わせぶりな描写はこのへんでやめときましょう。ゼクとはドイツ語の
Sektionの略で「解剖」のこと。医者でありながらドイツ語にはうとい私は(第2外国語ではフランス語をとっていたのだ)ぴんとこなかったが、医者の世界ではよく使う言葉だ。
手術衣を着ていたのは病理医の先生で、彼は電動ノコギリで頭蓋骨を切り、脳を取り出そうとしているところだったのだ。死因が脳腫瘍ということで、詳しい死因や病名を調べるため、腫瘍部分から標本をとろうとしていたわけだ。私が妙な書き方をしたおかげで異常な行為のように見えるかもしれないが、やってること自体はごく普通の病理解剖である。
というわけで、我々は病理解剖を見学し、有意義な昼休みをすごしたわけである。
しかし、いくら専用の部屋がないとはいえ、シャワー室を解剖室がわりに使ってるってのもすごいよな。まるでアウ……。いやいや、いまの発言はなかったことにしてくれたまえ。
3月24日(火)
津島誠司『A先生の名推理』(講談社ノベルス)読了。カバーには「超絶トリック」とあるんだけど、こういうのは超絶トリックとはいわないでしょ。謎の設定は確かに超絶だけど、解決はあまりにも腰砕けで全然超絶じゃないんだから。つまり、誰も予想できない解決なのではなく、誰もがあまりにつまらないので予想から外している解決なのですね。まあ、こんなことはウェブ上のあちこちですでに言われていることですが。
思わず力が抜けるような真相ばっかりなのはあんまり評価できないのだけれど、少しだけ可能性を感じたのは、「宇宙からの物体X」。これは、宇宙から飛来した卵からエイリアンが孵化し次々と人間を襲うという、SFの論理で考えればまるで矛盾のない事件を、強引に本格推理の領域に持ち込んで解決してしまうという作品なのですね。SFの論理と本格推理の論理とでは、同じ論理ではあっても前提がまるで違うわけで、中盤で二つの論理がせめぎあっているあたりが、なかなかスリリング。惜しむらくは、SFの方の論理をもう少し精緻に組み立ててほしかった。二種類の論理が交錯する酩酊感を醸し出してくれていたら、傑作になっていたのになあ。考えてみれば「叫ぶ夜光怪人」もほぼ同じ構成なのだけれども、こちらはSFの論理があまりにも杜撰で話にならない。
もうひとつ興味深いと感じたのは、この作品におけるSFと本格推理との関係が、ある種のSFにおけるファンタジーとSFの関係とパラレルだったこと。ファンタジーとSFはどこが違うの? という古くから問われてきた問いの、これまた古くからある答えのひとつに、魔法や妖精の存在に理由を求めないのがファンタジー、なぜ存在するのか(疑似)科学的理由を考えるのがSF、というのがある。現に、一見ファンタジーのように始まるが、結末ではSFの論理が支配しているという作品も数多いのですね(ファンタジーファンには評判がよくないみたいだけど)。これは、SFで始まって本格推理で終わる「宇宙からの物体X」に似てないですか?
とすると、ファンタジーの論理、SFの論理、本格推理の論理と三段構えになったミステリも書けるはずだな。でも、ファンタジーファンにもSFファンにも喜ばれないだろうし、この順序ではだんだん話が尻すぼみになっていくばかりかもしれないが。いや待てよ、『ループ』の続編を本格推理にすれば……(笑)。
3月23日(月)
今日で大学での診療はおしまい。外来患者さんたちにお別れの挨拶をして、カルテに次の医師への申し送りを書く。私は今は外来しかやっていないし、担当患者も10人程度なのでそんなに大変な作業ではないが、中には私が研修医だった4年前からずっと診つづけてきた患者さんもいて、これでもうお別れかと思うとなかなか感慨深いものがある。私がまだ駆け出しのころからのつきあいだけに、治療してきたというよりも、私のほうが彼らに教えられ、育てられてきた、という思いの方が強いのだ。
4年の間、規則正しく4週に1回の割合で病院を訪れ、薬をもらいに来ていた患者さんもいた。その患者さんは何を聞いても無表情に決まりきった返答しかせず、最初のころの私はなんとか彼から感情を引き出そうと苦労したものだ。きまりきった返答だけでも別にかまわない、と開き直ったころから、私も彼も楽に診察に臨めるようになったと思う。それから毎回、診察はほとんど同じやりとりの繰り返しだが、4年間の間に私と彼との間には、確かに言葉にならない何かがかもし出されていたように思う。思い過ごしだ、と言われても否定できないほどの微妙な何かなのだが。「ただともにそこにいることの重要性」といったようなことは木村敏ほか多くの精神科医が書いていることだが、私はそういった文章よりも、この患者さんからより印象深くそのことを学んだのだった。
定期的に訪れる患者さんばかりではなく、忘れたころにたまにやってくる人もいた。何度か来ただけで来なくなってしまった患者さんも多いが、これはよくなって通う必要がなくなったからだと信じたい。あの患者さんはどうしているんだろうなあ、とたまに思い出す顔もある。
ともあれ、これで私を育ててくれた患者さんたちともお別れである。ありがとう、と言っても戸惑われるだろうから何も言わずにいたけれど、心の中では感謝してました。
どうもありがとう。
さて、この前行ったばかりなのだが、また池袋の高野書店と、それからちょっと足を延ばして平和堂書店へ行く。平和堂書店は一見普通の古本屋だが、文庫や人文書の新刊がなにげなく特価で並んでいたりするからあなどれない。でも今日は収穫なし。高野書店では妖精文庫のレオノーラ・カリントン
『耳らっぱ』とイルゼ・アイヒンガー
『より大きな希望』を買う。妖精文庫は今まで集めるともなく集めていたが、本格的に収集を始めようかなあ。世界幻想文学大系もコンプリートしたことだし。家に帰ってみると、『耳らっぱ』には「日本ユニ・エージェンシー資料」なる判が押されているのを発見。何の資料だったんだ?
夜になってから渋谷に出て伊藤典夫師匠と会う。
3月21日のところで書いたメフィスト賞受賞の友人も来たので一気にお祝いムードに。今日は祝賀会だ! とはいっても飲み会はいつものように「天狗」なので、食べきれないほど頼んでも一人3000円以下。
今度はもう少しいい店でやろうや。
3月22日(日)
4月にはハワイへと出かける予定だ。私としてはリゾート地としてのハワイにはさほど魅力を感じないし、海外旅行だったらトルコとかアイルランドとかもっと渋いところに行きたいのだが、とある事情のためにが行くことになってしまった。事情ってのはつまり結婚式。実は、私と同居人とは、一緒に住んではいるものの、肝心の結婚式をまだ済ませていなかったのであった。婚約指輪も結婚指輪も入籍、同居後に買ったわけだし、つくづく順序がむちゃくちゃな二人である。なんでハワイかというと、理由は簡単。日本だと親戚を呼んだりなんだかんだと面倒だから。すいませんね、根がいいかげんな人間なもんで。
ハワイはそんなに好きではないとはいえ、旅行する以上は少しでも現地についての情報を仕入れておこうと思い、今日は池澤夏樹
『ハワイイ紀行』(新潮社)を読む。メインは著者がハワイを旅して書いた紀行文なのだが、ハワイ諸島形成のプロセス、ハワイの歴史、生物の進化、農業経済、言語学から人々の生活まで、およそハワイに関するあらゆるテーマが取り上げられている。随所にみられる理科系的な視点が池澤夏樹の面目躍如たるところ。池澤夏樹の作品は、SF的設定の作品こそほとんどないが、視点や思考法はまぎれもなくSFであり、SFファンにはすんなりと読める。ハワイを訪れるすべてのSF者の必読書だ。名作である。
同居人はパラパラとめくって「男のハワイって感じ」と言っていたが、どうかなあ。男も女も関係ないと思うのだけど。女のハワイがショッピングやビーチだけだとしたら、貧しすぎると思うのだが。
(しかし、きのうといい今日といい、本来なら書評ページに書くべきことまで日記に書いてしまってますね……だから、書評がなかなか更新できないのか。まあ、こういうスタイルもけっこう書きやすいので、いいか)
同居人と些細な原因から喧嘩になり、駅前のラーメン屋で一人寂しく夕食をとるはめになる。やれやれ。
3月21日(土)
某ワークショップの友人が講談社のメフィスト賞を受賞した、という。メフィスト賞! 森博嗣も清涼院流水も受賞した新本格系のあの賞である。いやめでたい。さっそくお祝いの電話をかける。
友人が大きな賞を受賞したのはうれしいが、同じ小説を書く身としては複雑な気分。素直に喜べない自分を恥じる気持ちもあるものの、一方で嫉妬を感じている自分にほっとしてもいる。嫉妬も感じずにただ喜ぶだけになってはおしまいだからね。有名になった知人の自慢話ばかりするような人間にだけはなりたくないものだ。私も精進するしかないな(そう思ってるのなら、こんな日記など書いてないで小説を書けばいいのだけど)。
アストロ・テラー
『エドガー@サイプラス』を半分まで読む。コンピュータの中に偶然誕生した知性という小説は『ヴァレンティーナ』などいくつもあるし、一見目新しい全編電子メールという構成も古くからある書簡体小説の変形にすぎない(コンピュータとの書簡といえば、ゴードン・R・ディクスンの「コンピュータは問い返さない」という作品もあったっけ。ストーリーは全然違うけど)。
アイディアは別に新しくないのだが、著者が専門家だけに、近未来人工知能SFとしてなかなか読ませる。本書のSFとしてスリリングなところは、「現実」に一切触れずにテクストのみによって世界を解釈する人工知能の思考を掘り下げて描いているところ。ソシュール的にいえばシニフィエのないシニフィアンだけの世界ですね。でも、本当に「現実」との対応づけのない辞書的知識だけで言語が使えるようになるものなのか、という根本的な疑問についてはごまかしてあるのがちょっとずるい。
ジョン・ミシェル
『シェイクスピアはどこにいる?』(文藝春秋)、ロバート・M・エヴァーツ
『シューティング・エルヴィス』(ハヤカワ文庫)購入。