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2月10日(火)

 テレビを見ているとどうも気になる言葉がある。などというとジジイになった証拠だと言われそうだが、高校の頃から「汚名挽回」などの表現が気になっていた記憶があるので、私は高校生にしてすでにジジイだったということか。
 きのうオリンピック番組を見ていて気になったのは、「番組はまだまだ続きます」という一言。最近多いでしょ、この台詞。この台詞のあとCMが入り、続くのかと思って待っていると、いきなりエンディングである。ひどいときには、CMが終わってみると提供のスーパーの後ろで出演者が手を振っているだけで終わり、という場合すらある。全然続いてないではないか。
 つまりこれは、番組は終わり間近だとしても、視聴者がチャンネルを変えず、ちゃんと最後までCMを見るようにしてほしい、というスポンサーの要請から考えられた言葉なんだろうなあ。それはわかるのだが、なんとなくキモチの悪い言葉だ。本当に番組がまだまだ続くときには決して口にされず、もうすぐ終わるときにだけ口にされるというあたりが、特に。
 しかし、視聴者もだんだん「まだまだ続きます」は「もうすぐ終わります」のことだと気づいてきているだろうに。そろそろこの言葉も効力を失ってきていると思うのだけどなあ。

 きのう入手した『幻視の文学1985』だが、ある古書店の目録を見たら、私が買った値段の2倍の値がついていた。ラッキー。この本、澁澤龍彦と中井英夫という豪華選考委員に選ばれた応募優秀作と、竹本健治、菊地秀行といった作家たちが寄稿した幻想短編で構成された作品集なのだ。寄稿作品の中には山尾悠子の「眠れる美女」という作品があるが、ここのリストを信じるなら、これは彼女の最後の作品らしい。今はどうしてるんだろうなあ、山尾悠子。
2月9日(月)

 きのう書いた化学物質DHMOについての警告は、むろん冗談だ。Dihydrogen Monoxideを日本語にすると、酸化二水素。つまりH2Oというわけ。よくできたジョークである。4月1日の日記に書けばよかったのだけど、それまで待てなかったので、きのう書いてしまった。
 ジョークついでに、専門誌に載っていたある論文の紹介をしよう。といっても、この論文の内容は別に冗談ではないのだが。

 『精神療法』という雑誌に、「海外文献抄録」というコーナーがある。毎号依頼を受けた何人かの精神科医が、適当な海外精神医学雑誌の論文を無断で抄訳して載せてしまう、というおそるべき著作権無視のコーナーだ。私も何回かやったことがあるのだが、論文の選択権は全面的に訳者に任されているので、本当にいいかげんに選んだ論文をやっつけ仕事で訳してしまった。それでも文句など全然言われない。こんなコーナー、いったい誰が読んでるんだろう。
 それはさておき、1992年9月号のこのコーナーに、「抑圧と分裂――言語構造論的端緒に基づく神経症と精神病の境界設定に関する考察」という、やたらと長ったらしいタイトルの、ドイツ語の文献の抄訳が載っている。この論文ではドイツの患者が紹介されているのだが、これが実は非常に貴重な症例。なんと「ペリー・ローダンを神とし、ついにはペリー・ローダンと自分とを同一視するようになった」という症例なのである。
 患者は20歳で、10歳のときからペリー・ローダンを読み始めたので、「人生の半分はペリー・ローダンのことばかり考えてきた」。「友達と会うでもなく、ペリー・ローダンのことにだけ専心するようになった」。ついには、入院していた病棟を去り、ちょうど行われていた講義に侵入し、マイクを奪って「ペリー・ローダンは私の精神の父です。電波をかわし合う相互関係が、私とローダンとの間にはあるんです。私は過去、現在、未来です。私は3次元で神のようなものです。自分は神だと思います」と叫んだという。

 いやはや(笑)。いるんじゃないかとは思っていたが、ドイツには本当にいたんですね、ペリー・ローダンと同一化してしまう患者が(なお、訳文では「ローダン」ではなく、「ロダン」と表記されている。この論文の訳者はペリー・ローダンを知らないらしい)。
 この患者は「15歳のとき女の子と恋愛関係を持ったことがあるが、その後学校へ行けなくなり、ますますSFにのめりこむようになった」(ふられたんだろうな、たぶん)と言っているし、何かを飲み込むような動作をして「情報を飲み込んでるんです」と言うなど、これはどう見ても「発病したオタクの一例」としか思えない。
 それなのに、この論文ではそういう方面の考察は一切なくって、「情報」は「父との原初的同一化に関する情報」とラカン流に解釈し、父がどうの母がどうの、という方向に持っていってしまう。何でも父か母に結びつければいいというわけではないと思うんだが。いやですね、分析の人は。

 谷甲州『凍樹の森』(徳間文庫)、それに森英俊編著『世界ミステリ作家事典[本格派篇]』(国書刊行会)購入。こういう事典は読むだけで楽しい。値段は高いけど。でも、作家の選択にちょっと疑問が残るなあ。ハーバート・レズニコウの項目がないのはまあ許せる範囲だが、ピーター・ディキンスンがないのは、許せないと思うのだが、どうか。
 SFでもこういう事典があれば便利だ。今まではサンリオ文庫の『最新版SFガイドマップ』を使ってたんだけど、今じゃ古くなってしまい、載ってない作家の方が多い始末。どっかで本当に最新版のSF作家事典を出してくれないものか。
 しかし、そういう事典が出たとしても、まだ10年たてば古くなって使い物にならなくなってしまうんだよなあ。ということは、とっても失礼な言い草だが、こういう事典が出せるのも、本格推理がほぼ「終わってしまった」ジャンルだからかもしれない。SFはまだ終わってないってことだな。よしよし。
 古本屋で、『幻視の文学1985』(幻想文学出版会)購入。竹本健治の短篇「闇に用いる力学」が載っている。「現在執筆中の大長篇幻想ミステリのプレリュード」だそうだ。この頃から書いてたのか。
2月8日()

 DHMO(Dihydrogen Monoxide)という物質をご存知だろうか。
 けっこう昔から一部では話題になっていたようなので、知っている人は知っているだろうけど、私は最近、NIFTY-Serveのサイエンス・フォーラムでようやくこの物質のことを知った。
 DHMOは人体や環境にさまざまな悪影響を及ぼす化学物質である。どうしたわけか日本ではほとんど問題にもされていないのだが、infoseekで"DHMO"をキーに検索してみたところ、全部で178件もヒットした。代表的なのが「DHMOを禁止せよ」と訴えるこういうページドイツ語版もあり、DHMOは全世界で問題になっているらしい。中でももっとも充実しているのが、アメリカのNEWC(National Exposure Warning Center: アメリカ被曝警告センター?)の、DMRD(Dihydrogen Monoxide Research Devision: DHMO調査局)という部門のページ。
 このページでは、さまざまなDHMOの悪影響が説明されているのだが、その一部を紹介しよう。
 事故によるDHMO吸引により、毎年何千人もの死者が出ている。DHMOを大量に摂取すると、発汗過多、嘔吐や体液電解質異常を引き起こす。固形のDHMOとの長時間の接触は、重篤な組織障害を引き起こす。さらに、環境面では、酸性雨の主成分になり、温室効果に関与し、金属の腐食を促進し、自動車のブレーキに悪影響をもたらす。DHMOは原子力発電所や工業用の溶媒としても使われており、しかも企業は使用済みのDHMOを川や海に流しているのだという。
 DHMO汚染は世界規模で広がっていて、アメリカ国内のほとんどすべての池や川で見つかっているほか、南極の氷の中からさえ発見されているという。
 これらのページでは、政府に対し、DHMOの生産、供給、使用を禁止するよう訴えているが、アメリカ政府は「国民経済にとって重要」という理由で拒否しているとのこと。

 これほど危険な化学物質のことが、今まで日本国内では話題にのぼらなかったとは驚くべきことである。環境保護団体のみなさん、これ以上の汚染を防ぐため、DHMO使用の即時禁止を求めましょう。
2月7日()

 今日は長野オリンピック開会式。土俵でもなんでもないところで行われる曙の土俵入りは、なんだか洋画に出てくる「変なニッポン」の中の相撲取りのよう。てっとりばやくいえば、まるでエドモンド本田
 浅利慶太の演出は、手堅いというか新味がないというか。きっとこういうのを「子供から老人まで誰もが楽しめる開会式」っていうんだろうな。もっと徹底して妖しく和風でもよかったと思うんだけど。まあ、誰もが度肝を抜かれたであろう伊藤みどりの聖火点火シーンがあっただけでもよしとするか。

 ナイフ犯罪に対しては、文部省では相変わらず持ち物検査とかナイフを売らないようにするとか、小手先の対処でお茶を濁している。「ナイフの出てくるゲームやマンガを法律で取り締まれないか」などという発言もあったらしい。何考えてるんだか。ナイフが問題なんじゃなくて、子供たちの短絡思考が問題だというのに。
 新聞によれば、岐阜県関市の岐阜県関刃物産業連合会では、バタフライナイフの刃先を丸めるなどの対策を申し合わせたとのこと。そんなのが対策になるのか? 刃先を丸めれば、研いでとがらせて持つのが流行るだろうに。
 そんなことより、私がこの記事で驚いたのは、岐阜県関市が国内唯一のバタフライナイフの生産地だというところ。国内で販売されるバタフライナイフの約九割は輸入品で、関市内の業者は残り約一割の年間約四万三千本を製造しているのだそうだ。子供の頃の学習地図には、新潟県燕市のところには洋食器と書いてあったけど、関市のところににバタフライナイフとあった覚えはないなあ。しかし、意外な名産品があるものである。バタフライナイフ饅頭とか、バタフライナイフせんべいとか売り出して観光客を呼べるかも。
2月6日(金)

 東京に戻ってみると、講談社ノベルスからメフィスト賞受賞作が3作同時発売されている! 講談社、なぜ3冊も同時に出す!? 『コズミック』のようなのを続けて3冊も読まされるのではうんざりだなあ、と思いつつも、苦い顔で3冊ともレジに運ぶ私であった。せめて1冊ずつ出してくれればいいのになあ。そんなに嫌なら買わなきゃいいのに、と思うのだが買わざるをえないのが本好きの悲哀というもの。これはほとんど「血を吐きながら続ける哀しいマラソン」といえよう(笑)。読前予想では◎『記憶の果て』、△『歪んだ創世記』、▲『Jの神話』と見たが、さーて実際はどうか。でも、優先順位が低いので、いつ読めるのかは不明。

 NIFTY-Serveの推理フォーラムを見てたら、なんと、幻冬舎の編集者が本格・新本格推理の原稿を募集している。「小社は、本当に小社で」とか「急募」とかいうあたり、なんだか哀感を誘う。フォーラムで原稿をつのる出版社なんて初めて見たぞ。山田正紀の大作を連続して出すは、荒巻義雄の『新・紺碧の艦隊』をはじめるは、とけっこうがんばっていると思っていたのだが、ほんとは玉数が少なかったのだなあ、幻冬舎。しかし、今さら新本格もないと思うのだが。これからはやっぱりSFでしょ、SF(本気だぞ)。あの難解な『BRAIN VALLEY』が売れたんだから、売り方さえうまくやればSFだって売れないわけがないのだ。SFを募集するなら、私は書くぞ(半分本気)。
2月5日(木)

 某メーリングリストで教えてもらったのだが、アクトン・テクノロジィという会社がトーキングハブというものを開発したらしい。ハブがしゃべれば異常の原因がすぐわかるから便利というのだが、私はハブがどういうものなのかよくわかっていないので、便利なのかどうかさっぱりわからない。便利なのか、本当に。うるさいだけじゃないのか?
 ネットワークの負荷や混雑の状況が声で簡単にわかる、というのだが、その声を担当するのが宮村優子!(爆) 300台限定! ページにはどこが便利かいろいろと書いてあるのだが、これはどうみても単に趣味で作ったとしか思えない。「ハブをしゃべらせよう」という発想が先にあったのではなく、「みやむーの声で何か商品ができないか」というところから発想したのだと邪推するのだが、どうだろうか(笑)。「システム起動を確認」とか「3番ポート、接続遮断!」などとしゃべってくれるのだそうだが(アクトンのページで一部聴くことができる)、こういう台詞は宮村優子ではなく長沢美樹の担当だと思うのだけどなあ。
 ともあれ、これは、みやむーファンは買いか。300台限りのレアアイテムだしな(なんせ、ハブのことがわからんので、あいまいなことしか言えんですまん)。

 2月3日の日記について、成田恵さんから掲示板に書き込みをいただいた。成田さんのご意見は、女性(ですよね?)の立場からみれば当然の意見だと思うのだが、私は別にギャルゲーをやってる人をキモチワルイとも思ってないし、ギャルゲーを批判するつもりもない。私だってけっこう楽しんでやってるわけだし。願望充足ってのもいいもんです。Hゲーム(ギャルゲーよりもっと過激な鬼畜ものなんかだとしても)を規制する動きが出てきたとしたら、断固反対の立場をとるだろう。
 実際の女の子に満足できずにゲームのキャラに恋をするのだって、全然かまわないと思う。それも恋だもの。ただね、ゲームの女の子に対する態度で、現実の女の子とつきあっちゃいかんわな。現実の女の子とつきあうやり方でゲームをやってたらいつになってもクリアできないのと同じで。ゲームと現実との違いは、簡単に好きになってくれるってこともあるだろうけど、やっぱりいちばんの違いは、ゲームならやり直しがきく、ということですね。現実ってのは基本的にリニアでおまけにカオスだったりして、一回起きたできごとはもう二度と起こらない。でも、ゲームなら失敗しても何度でもやり直せる。これを混同して、ダメとなったあとも未練がましく電話したりする男の無様さときたらもう(泣)<なぜ泣く?
 これは、別に「現実と空想を混同するな」という(私の大っきらいな)言いぐさとは違うのだ。ゲームは別に空想なんかじゃない(おとといも書いたように、最近のリアルなゲームには、「空想」する余地なんて全然ないのだ、味気ない現実と同じように)。ゲームの中で恋愛するのも、アイドルに恋をするのも、本当の恋愛だと、私は思ってる。生身の女の子との恋愛をリンゴだとすると(なんか唐突な比喩だな)、ゲームの恋愛はリンゴの偽物だと思ってる人が多いようだけど、現実とゲームは、リンゴとミカンみたいな関係なのだ。どっちを選んだってかまわないし、両方を同時に選ぶことだってできる。つまり、どっちも現実なんだからどっちも大切にしろ、ってこと。
 このへんをわきまえてない人が多くて困ってしまうのですね。パソ通の会議室で迷惑なことばっかり書き散らす奴とか。パソ通もインターネットも、別に架空の世界なんかじゃないんだってば。れっきとした現実だというのに。ちょっと(だいぶ?)ルールは違うけどね。
 ご意見、いちゃもん、ラヴレターなどありましたら、掲示板かメールでどうぞ。

 ボーダーライン文庫『恐怖のポルターガイスト』『ヒトラーとロンギヌスの槍』購入。エヴァあやかりタイトルが多い文庫である。この文庫、いつまでもつのかな。
2月4日(水)

 おととい、きのうと書いてきたことは、実は、最近少年たちのナイフをつかった犯罪が頻発していることに呼応している。あんまり気づいてもらえなかったかもしれないけど。

 少年による凶悪犯罪が連日のように大きく報道されているので誤解されやすいのだが、実は、『エゴパシー』で影山任佐が書いているように、殺人、傷害といった若者による凶悪犯罪は戦後から今に至るまで、減少の一途をたどっている。特に殺人の件数は激減といってもいいくらいだ。それなのに、なぜ少年犯罪が増えているかのように錯覚されているかというと、ひとつひとつの例が凶悪化していること、そして何より、その動機が大人たちには理解しがたいことが原因だろう。
 このへんを間違えると、少年の凶悪犯罪を減らすにはどうしたらいいのか、というような見当はずれの方向に行ってしまうので要注意だ。心配しなくても凶悪犯罪は減っている。暴力がさほど珍しくなかった社会から、暴力性が極度に少ないが、ナイフ事件や酒鬼薔薇事件のようにときどき突発的に噴出する社会に移ってきただけの話だ。これ以上少年たちの暴力性を封じ込めたら、そのうちもっとすさまじい形で噴出することになるぞ。だからナイフ狩りとか暴力コミック狩りはやめた方がいいと思うんだが。

 ただ、私には最近のナイフ犯罪と、酒鬼薔薇事件とを単純に同列におくことはできないように思う。酒鬼薔薇君の気持ちなら、私にはなんとか理解の範囲内である(そりゃ彼の心中のすべてが理解可能とまで思い上がってはいないが)。学校の正門前に生首を置いて、マスコミに挑戦状をたたきつけるなんてのは、ほとんど乱歩正史の世界でとってもわかりやすい行為だ。私だってそういうことを空想したことはある(やらないけどね)。異様に完成された文章力からもわかるように、酒鬼薔薇君は、幻想文学とか猟奇ノンフィクションに親しんだ私たち活字世代に近い心性の持ち主のように思われる(だから彼は同世代の中では浮いていたのかも)。
 それに対して、最近のナイフ犯罪はというと、これはもう完全に私の理解を超えている。ニュースを聞くたびに、お前らもうちょっとは考えてやれよ、と言いたくなってくるのだ。捕まらないようにする努力が全然見られないことにはあきれるばかりだ。恨んでいる先生を殺すのなら、私だったら絶対に自分に疑いがかからないように工作をする。偽アリバイを作るとか、密室にするとかね(笑)。拳銃を手に入れるにしても、偽の通報で警官をおびき出すとか、暴力団に渡りをつけるとか、いくらでも計画はたてられるだろうが。私ならそうするぞ。
 つまり、非常に幼稚で短絡的なのですね。考えてやっていることとは思えない(実際考えてないのだろうが)。そして、彼らは「普通の子」であって、彼らの行動を、同じ世代の子供たちは理解できるという。私には理解できない。「変な奴」と見られていた酒鬼薔薇君の方がむしろ理解しやすいのである。

 とはいっても、普通の子の行動が理解できないこと自体については、私は全然気にしていない。若者なんていつだってそんなもんだ。私たちだって、上の世代からは新人類だ何だと言われて理解できないと嘆かれていたものだ。そうやって世代は交代していく。なべて世はこともなし。
 私が心配してるのは、最近の若者の想像力の欠如と短絡性だ。なんにも考えずに暴発してしまうのも、彼らが豊かな空想世界を持っていないからなんじゃないかと思うのだ。こんなつまんない世の中、空想でもしなきゃ楽しく生きられないと思うんだが。少なくとも私は、空想をすることによって自分はこれまでなんとか生き延びてこられたと思っている。それに想像力がなきゃ、立派なオタクにはなれないぞ(別になりたかないんだろうけど)。
 「最近の子供は現実と空想の区別がつかなくなっている」というありがちな言いぐさとは逆に、むしろ私としては彼らの空想力の欠如を心配してしまうのだ。

 で、ここでようやくきのうおとといの話に戻るわけだ。コンピュータ・ゲームは空想誘発装置になれるはずなのに、プレイヤーの感情を強く刺激し、プレイヤーが空想をめぐらす余地のある作品がほとんどないのはどういうわけなんだろう、と。その答えもすでにきのう出ている。プレイヤーがそれを望んでいないから。

 じゃあ、どうしたらいいか、というわけなんだが、その答えはまだ私には見つけられない。ということで今日の日記は終わり(まだ続くのか?)。
2月3日(火)

 きのうに引き続き、ゲームの話である。
 ゲームをプレイした体験ってのは、もちろん現実の捉え方に影響を与える。ゲームの中で心理的な体験(たとえば愛する者の死とか激しい恋愛とか)をすれば、それは現実世界でも生かされることになることになるだろう。そういった感情の疑似体験は、現実経験の減ってきている子供たちにとって貴重な体験になるはずだ(私がかつて「ウルトラマン」のジャミラに強い衝撃を受けて相対主義を学んだみたいにね)。でも、「バイオハザード2」では、そういう展開にする要素は充分にあるにもかかわらず、無感動に撃ちまくることが求められていて、衝撃的な展開はなんだか避けられているみたいだ、という話をしたのだった。

 さて、現実世界において心動かされる体験といえば、なんといっても恋愛だろう。だから、恋愛シミュレーションゲーム、いわゆるギャルゲーってのは、プレイヤーの心を揺さぶるような恋愛を体験させることが目標になるはずだ。でも、実際のギャルゲーはそういうゲームでは、ない。
 私はそれほど多くのギャルゲーをやっているわけではない(「ときメモ」と「Noel」と「同級生1、2」と「下級生」と「To Heart」と……、え、充分多いって?)が、少なくとも私は、ギャルゲーに深く心を動かされたことはいちどもない。ギャルゲーの中での疑似恋愛は、すべてハッピーエンドが約束されていて(パラメータを上げさえすれば、フラグをたてさえすれば)、予定調和的なエンディングが待っているだけだからだ。
 エルフの「同級生2」に、難病で入院中の女の子(名前忘れた)のエピソードがある。主人公は病院に忍び込んでは彼女を元気づけ、深夜の病院の中庭で一回だけのデートをする。しかし、ある日主人公が病院を訪れると、病室はきれいに片づけられ、彼女の姿はない。ありがちなストーリーだが、プレイヤーが主人公と同一化しているだけに、衝撃は強い。
 ここまでで終わってくれれば美しい物語で終わったものを、このゲームでは、このあと「実は退院しただけでした」という興ざめな落ちがついている。主人公は再会した彼女とセックスをし、そして彼女は主人公のステディな恋人になるのである。彼女が再登場したときから、私はすっかり冷めてしまったのだが、それでもプレイヤーの間ではこのキャラはけっこう人気があるらしい。
 私がこのゲームで不思議に思ったのは、なんで美しい物語を壊してまで、ハッピーエンドにこだわるのだろう、ということだった。

 また、以前も書いたことのあるリーフの「To Heart」というベストセラーゲームには、長岡志保というキャラがいる(このキャラのことも前に書いたな)。ヒロイン格のあかり(主人公の幼なじみという設定)の友達で、さばさばした性格の女の子である。いろいろと彼女の悩みを解決したりしていくと、冗談まじりのような雰囲気の中で、彼女と肌を重ねることになる。しかしそのあとはまったく志保との仲は進展することなく、以前と同じ悪友に戻ってしまう。そしてエンディング。数年後、あかりと一緒の大学に通っている主人公は、真っ赤な外車を颯爽と運転する彼女に再会する。彼女は今では海外でジャーナリストとして活動しており、一時的に帰国したところだという。彼女は、あのときは本当は主人公のことが好きだったのだけれど、あかりと主人公の仲を壊すまいと思って身を引いたのだ、と言い残して去っていく。主人公は、もう戻らない高校時代を思いおこし、夢を実現させた彼女をまぶしげに見送る、という結末。
 なかなかいい物語だと私は思ったのだが、アンケートの結果でもNIFTY-SERVEの特設会議室でも、このキャラの人気は最悪だった。なぜなら、結局、主人公とは結ばれないから。プレイヤーたちは、自分の思い通りにならなかったこのキャラを嫌ったのである(一番人気は、文字どおり主人公の「所有物」になるメイド型アンドロイドのマルチだった……)。
 長岡志保は、このゲームで唯一(そして、ギャルゲー全体としても珍しく)、主人公と対等な立場に立っているキャラなのである。主人公とセックスをするのも、主人公の所有物になったということの象徴(ギャルゲーでのセックスってのは、たいがいこれ。一回セックスしただけで女の子が自分のものになったと思うなんておめでたい話ですね)ではなく、彼女にとっては少女時代と訣別するための儀式。セックスしたあとも、主人公に束縛されることなく自分の道を歩んでいく。そして、結局主人公の所有物にならなかった、ということこそが、このキャラが嫌われた原因なのだろう。ギャルゲーのプレイヤーってのは、意外にナイーヴで保守的なのだ(別に意外ではないって?)。
 そりゃ、私だってわかってる。ギャルゲーってのは、女の子とつきあったことのない(あるいはつきあった現実の女の子に満足できない)男の子たちが疑似恋愛として楽しむものなんだから、すべからくハッピーエンドであることが求められるのだ。このキャラはそうした条件を満たしていなかった。
 長岡志保は、「To Heart」というゲームの中では異端の存在であり、プレイヤーに心理的な衝撃(プレイヤーといえど、決してゲーム世界において万能ではない、ということを知らしめる)を与えるキャラだ。しかし、プレイヤーたちはこの衝撃を拒絶した。主人公と対等な志保よりも、主人公の所有物になるマルチを選んだわけだ。

 きのうは、なんで心理的な衝撃を与えるようなゲームがないのか、と嘆いたのだが、こういうことを考えてみると、プレイヤーがそのような衝撃を望んでいない、というかプレイヤーたちの間に衝撃を受け入れる土台ができていないのかもなあ、と思ってしまう。だとすれば、ほんとに衝撃的なゲームを作って、それが受け入れられるようになるまでには、土台を作るところから始めなければならないわけで、これは大変気の長い話だ。
 でも、単純な願望充足もいいけど、こういう深みのある女性の方が実際つきあうにはいいと思うんだがな(結局、志保が気に入った、ということを言いたかったのか?>自分)。

 今日は異様に長々と書いてしまったが、これでけっこうギャルゲーオタクを敵に回したかも(笑)。

 喜多哲士さんにこのページをリンクしていただきました。ありがとうございます。こちらからもリンクしました。でも、ここを読んでるような人ならみんなすでに喜多さんのページのことは知ってますね。
 それから、久しぶりに「私家版・精神医学用語辞典」を更新。ロボトミーの項目を追加。
2月2日(月)

 「バイオハザード2」には、グロテスクなシーンがばしばしと出てくる。ゾンビからどくどくと流れる血とか、体にボウガンの矢が突き刺さるシーンとか、そういう視覚的な恐怖を煽るシーンがやたらと多いのである。こんなもん、子供にやらせていいのか、と心配になるくらいだ(いちおう、「このゲームには暴力シーンや、グロテスクな表現が含まれています」とパッケージには書いてあるけどさ)。
 それなのに、心理的な恐怖を感じさせるような演出がまるでないのは不思議としかいいようがない。たとえば、自ら怪物と化してしまった科学者が登場するのだが、ただ殺戮機械となって襲ってくるだけ。ここは、人間と怪物のはざまで葛藤するような演出がほしいところだ。幼い少女も登場するが、死体がそこらじゅうに転がっているというのに、怖がっている様子もない。どうにも不自然なのだ。
 また、ゾンビものでは定番のシチュエーションである、愛する恋人や親がゾンビと化して襲ってきて、主人公は撃つべきかどうか葛藤する、というようなシーンのひとつでもあれば、感情移入度は格段に違うのに、そういった演出は一切ないのである。
 つまり、ストーリーで怖がらせる、ということが全然できていないのだな。これは映像によりかかりすぎたシナリオライターの怠慢としかいいようがない。
 最後の(ゾンビ化した恋人を撃つというやつね)は、ちょっとゲームとしては刺激が強すぎる、という意見もあるかもしれないが、私は全然そうは思わない。まったく無感情にゾンビをひたすら撃ちまくって、死んだ(?)ゾンビが赤い血を流してぴくぴく動くようなゲームより、感情的に強い揺さぶりをかけるゲームの方がよっぽどいいと思うんだけどね、教育上も。恋人を殺してしまった、とクリア後も一週間悩みぬくようなゲームなら、立派に教育的効果があると思う。それに、ゾンビを撃つということの意味、死者とはいえ人間を撃っているのだ、ということを認識したほうが、プレイヤーの恐怖はより高まると思うのだ。
 ほんとに、映像や音で怖がらせるゲームは山ほどあるのに、心理的に深い衝撃を与えるようなゲームってのは、ほとんど見当たらないのはどうしてなんだろう。
 今までで私が感動したといえるゲームは、「DESIRE」と「EVE」の2本だけだ。このふたつのゲームについてと、あとギャルゲーはなぜみんなハッピーエンドでなければならないのか、ということについてもいろいろと書きたいことがあるのだけど、それはまた今度。気が向いたら明日書くかも。
2月1日()

 リモコンでザッピングしながらつらつらとテレビを眺めていたら、とんでもない番組にぶちあたった。午後11時からやっていた「未来科学への招待」というNHK衛星第1の番組だ。反重力からテレポーテーション、ヴァーチャル・リアリティまで、SFのネタがどこまで実現するかについて、SF作家や科学者に聞くという、今どき珍しい科学礼賛番組なのだが、登場するメンバーがやたらと豪華。ロバート・L・フォワードにラリイ・ニーヴン、ニール・スティーヴンスン("Snow Crash"はいつになったら訳されるんだ?)、物理学者ではミチオ・カクにキップ・ソーン。おまけに案内役はX-FILESのジリアン・アンダースンと来る。見事にツボを押さえたキャスティング。制作はBBCだ。やるな。見直したぞ、BBC。
 今回は第3回で、次回は3月1日の放送らしい。それにしても、第1回から見なかったのは一生の不覚だ。NHKだから全部終わったあとにまとめて再放送するよね。ね? それにしても、ラリイ・ニーヴン、老けたなあ。

 感想ページ「本読み千年王国」の旧刊コーナーに『猫の尻尾も借りてきて』追加。ああ、あれかと思ったあなた、けっこう濃いSFファンですね。実はこの作品、あまり知られていないが時間SFの佳作なのだ。

過去の日記

98年1月下旬 肥満遺伝子、名前厄、そして大阪の巻
98年1月中旬 北京原人、アンモナイト、そして織田信長の巻
98年1月上旬 さようならミステリー、星新一、そして日本醫事新報の巻
97年12月下旬 イエス、精神分裂病、そして忘年会の巻
97年12月中旬 拷問、ポケモン、そして早瀬優香子の巻
97年12月上旬 『タイタニック』、ノリピー、そしてナイフで刺された男の巻

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