猫の尻尾も借りてきて  久米康之 ソノラマ文庫(1983年6月30日発行)

 広瀬正の『マイナス・ゼロ』にはまって以来、ロジカルな時間SFが大好きである。複雑なタイムパラドックスが展開するロジカル時間SFを探しているのだが、これがなかなか見つからない。たぶん、物語を矛盾なく構成するのが非常に難しいせいだろうと思うのだが、ハインラインの「時の門」「輪廻の蛇」があるくらい。最近、高畑京一郎の『タイム・リープ』を読んだときには「まだこんな作品を書く作家がいたとは!」と感動したものだ。
 そんな探索の中で見つけたのが、今回紹介する『猫の尻尾を借りてきて』。実はこの作品は、70年代の『マイナス・ゼロ』と90年代の『タイム・リープ』をつなぐ、80年代のロジカル時間SFの代表的作品なのである。

 1995年7月20日は、村崎史郎にとって最悪の日となった。史郎が勤める東林工学の中央研究所で早朝、泥棒騒ぎがあるゴタゴタした。史郎が開発した新製品の説明会に遅刻して叱責された。想いを寄せている同じ研究室の矢野祥子に昔からの恋人がいると、人工知能のニタカから知らされた。でも、これらは取るに足らないことだった。その日の午後、その祥子が死体で発見されたことに比べれば。祥子は22歳の誕生日に殺されたのだ。祥子の面影が忘れられない史郎は、研究所長の林と酒を飲んでいるとき、思わずつぶやいた。「タイムマシンがあればなあ」。林は史郎の顔を見返し、短く答えた。「あるよ」。そして、史郎は祥子を救うため過去へと旅立つことになるのだが……。

 とにかく、タイムマシンが縦横に活躍し、複雑な時間ロジックが展開する作品。その複雑さは『マイナス・ゼロ』や「時の門」の比ではない。それでいてリリカルで暖かい結末をもってくるあたりは、時間SFの伝統なのだろう。『マイナス・ゼロ』に見られるような時代や人物描写の深みは望むべくもないが、SFとしての面白さでは決してひけをとらないと私は思う。

 この本があまり知られない幻の作品になってしまっている原因はいくつかあると思う。まずは出版元。当時のソノラマ文庫のラインナップを見ると、夢枕獏の『幻獣少年キマイラ』と菊地秀行の『魔界都市〈新宿〉』が出たばかり。そのほかは清水義範のエスパー・コネクション、風見潤のクトゥルー・オペラ、仁賀克雄のスペース・レインジャーという具合。申し訳ないが、真面目なSFファンがチェックするような文庫ではなかったように思う。
 それにタイトル。謎のタイトルの意味は結末近くで明らかになる。なかなかしゃれたタイトルだと思うのだけれど、全然内容をあらわしていない。なんせ、本書には猫は一匹も出てこないのだ。短篇ならともかく、長篇ならもう少し内容に即したタイトルをつけた方がよかっただろう。まあ猫SFだと勘違いして買う人もいたかもしれないが。
 表紙も悪い。ソノラマ文庫だというのに、青い海の上にひたすら青い空が広がっていて、そこにリアルタッチの巨大な猫の顔がぼんやりと浮かび上がっているという、まるでサンリオSF文庫のような表紙なのである。これまた全然内容とマッチしていない。

 このような三重苦を背負った作品だったこともあり、この作品はSFファンの間ですら知名度があまりない。だが、前述したような時間SFの佳作である上、ひたすらロジカルに、ユーモラスに、殺人の謎を追うという物語の展開は、現在の西澤保彦の先駆といってもいいんじゃないかと思う。新本格の下地の上に、架空の論理を積み重ねるスタイルの西澤作品が広く読まれている今なら、この作品も受け入れられやすいと思うのだが、どこかで復刊してくれないかなあ。

 著者の久米康之は1955年11月21日生まれ。「宇宙塵」の出身だが、商業作品はこれ一冊しかないようだ。複雑なロジックの作品を指向していたため、完全主義のあまり作品が書けなくなったのだろうか。もったいない話である。

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