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12月20日()

 だらだらとすごす土曜日。プレステの「風のクロノア」をやるが難しくて投げ出す。同居人はこういうのが得意らしく、どんどん先へ進んでいく。ううむ、悔しい。

 ニュースでやっていたのだが、東海道新幹線から飛び降りて即死した男がいたらしい。なんでも車内で痴漢行為をしていたため車掌室に連れて行かれ、車掌が目を離したすきに車掌室の窓から飛び降りたとのこと。これは恥ずかしい死に方だなあ。
 そういえば、スリでつかまりそうになって車内に催涙ガスを撒いたあげく、列車を止めてしまった迷惑なやつらもいた。犯した罪に見合わない行為という意味では好一対である。しかし、新幹線から飛び降りたかどうなるかくらい、わからなかったのだろうか。まさか、痴漢の罪を死をもって償うつもりだったとも思えないのだが。
 折原一『冤罪者』読了。いつもの折原節に比べ、ひねりが足りないし、どうもアンフェアな描写もある気がするのだが、私が読みきれていないのだろうか?
12月19日(金)

 早瀬優香子『TOMORROW MOON』ついに発売。
 これが喜ばずにいられようか。
 これはすごいことなのである。
 といっても、早瀬優香子など知らないという人も多いに違いない。
 早瀬優香子は、10年ほど前に活動していたアーティストだ。1986年「サルトルで眠れない」でデビュー。けだるげで、一種病的な歌い方に特徴があった(歌い方は今でいえばカヒミ・カリィによく似ている)。デビューアルバム『躁鬱』こそプロデュースの秋元康の色が濃厚だが、後半のアルバムでは作詞作曲も自分で手がけるようになり、独特の言語感覚で幻想的な世界を作り上げていった。
 ところが1989年、5枚目のアルバム『薔薇のしっぽ』発表後、早瀬優香子は活動を停止してしまう。2年後、ニューアルバム発売の予告が出てファンは期待に胸を膨らませたのだが、結局アルバムは出ず、彼女は完全に姿を消してしまった。
 一説によると、彼女はそのとき健康を害しており立って歩くことすらできない状態だったともいう。そして、出るはずだったアルバムは、プロデュースを担当した女性アーティストが自分のアルバムとして発表してしまい、もうマスターすら存在しない、といわれていた。
 そしてその幻のアルバム、もう決して出ないと思われていたアルバムこそが、『TOMORROW MOON』なのだ。
 少しは、私の興奮がわかっていただけただろうか?
 聴いてみると、早瀬色よりもプロデュースの上田知華色の方が強いのがちょっと残念だが、この舌足らずな声は紛れもなく早瀬優香子の声だ。彼女の声が聴けただけでも私はうれしい。これを期に活動を再開してくれるともっとうれしいのだが。
 瀬名秀明『BRAIN VALLEY』読了。賛否両論あるだろうけど、私は今回は絶賛派。ここまでのSFはなかなかあるもんじゃありません。詳しくは、感想ページへ。
 本日のお買い物は、ファンタジーノベル大賞受賞作の井村恭一『ベイスボイル・ブック』(新潮社)と、ジョン・ディクスン・カー『仮面劇場の殺人』(原書房)。
 おお、カーの未訳四長編のうちの一冊"Panic in Box C"がついに翻訳されたか。
 これが喜ばずにいられようか。
 これはすごいことなのである(以下略)。
12月18日(木)

 柏崎の朝日新聞は、今日になってようやくポケモン騒動を報道。
 今日は天声人語と社説でもこの事件を扱っているのだけれども(これはさすがに一日遅れではないよね?)、これが「わかってないおやじ」の書いた文章の典型で、頭をかかえる。
 天声人語は、「ポケモンと聞くとまずポケットモンキーを想像する」と、全く内容のない書き出しで始まり、コンピュータ内部での冒険というストーリーを紹介、「年輩の人の多くは、筋書きにアレルギーを起こしてしまうだろう」と続く。結論部では、昔の子どもはメンコを友だちと交換していたのに、今はゲーム機で怪物を交換している、と昔を懐かしみ、「起こるべくして起こった事件のような気もしてくる」としめくくっている。
 社説の方は、前半は研究者の発表をまとめていてまだましなのだが、後半は例によって「電子映像や電子音が飛び交う電脳社会」の批判になってしまう。
 やれやれ。
 つっこむ気にもなれない。
 やれやれ。
 さて、同じ新聞に、日本てんかん協会の見解が載っている。光刺激によって発作を起こすてんかんはまれであり、今回の子どもたちが光過敏性てんかんであるかどうかは医師による正確な診断を待つ必要がある、というもの。正論であろうが、なんだか、てんかんと今回の事件の関係を否定しようとしているようにもとれる。病院に運ばれた子どもたちの中に、てんかんの子どもが含まれていたのもまた、確かだろうに。
 私のように精神科で仕事をしていると、てんかんという言葉は日常よく使う言葉なので差別的な意味あいはまず感じないのだが、てんかんは、今でも社会的、心理的な苦しみをもたらす差別の対象(これをスティグマという。もともとは聖痕という意味)であるようで、「てんかん」という病名に拒否反応を示す人も少なくない。「うちの子どもがてんかんであるはずがないので、薬などいりません」という親もいる。癩がハンセン病になったように、てんかんという呼称をやめてエピレプシーと英語で呼ぼうという動きもあるほどだ。
 私が診療をするときには、患者に「てんかん」と告知することにはまったくためらいは感じない。てんかんの患者には、てんかんとはどういう病気なのか、どうすれば発作を予防できるのか理解してもらう必要があり、そのためには病名を知ってもらわなければならないからだ。それよりも神経を使うのは「精神分裂病」の告知だ(ちなみに、精神分裂病にも、ブロイラー病と呼ぼうという動きがある)。
 新聞もテレビも、今回の事件については「てんかん」という名前を出すのをためらっているようだが、むしろ、この機会にてんかんとはどんな病気なのか、どのような刺激が発作を誘発する可能性があるのかなど、正確な情報を伝える必要があるのではないか。

 それにしても、こういう事件があるといつも、新聞やテレビに登場する「識者」の人選には首をひねってしまう。あいもかわらず高橋紳吾に、香山リカ。なぜ、てんかん学の専門家に頼まない。高橋も香山も、精神科医ではあるが、別にてんかんを専門にしているわけはない。ある程度の知識はむろんあるだろうが、あまり症例を診てきたわけでもない彼らには通りいっぺんの答えしかできないはずだ。SF界で例えていえば、伊藤典夫や浅倉久志に最近の日本SFについてコメントを求めるようなものだ。大熊輝雄(脳波学の大家)とか、高橋剛夫(光過敏てんかんの権威)とか、聞くべき相手はほかにいるだろうに(高橋剛夫は、その後研究班のメンバーとして登場していたが)。
 おそらく、マスコミは、誰に聞けばいいのかわからないのだろうな。だから結局、手っ取り早いいつもの面々が新聞やテレビをにぎわすことになってしまうのだ。マスコミに近い医者に、誰に聞くのが適当なのか聞いてから取材すればいいのに、と思うのだが、それでは遅すぎるのでしょうね。
 ついでに言っておくと、テレビに出てきて事件の原因や加害者の心理について述べ立て、病名までつけて断言するような精神科医は信用できません。
 実際に患者を、それも相当長い時間をかけて診たのでなければ、その病理や診断について、断言などできないからだ。いや、長い時間診察してきても、まだ診断が揺れ動く患者も、決して珍しくはない。
 実を言えば私も、てんかんを専門にしているわけではないし、実際のポケモン事件の患者を診たわけでもない。すなわち、昨日得々と事件の原因について語った私も、つまりは信用のならない医者だということだ。みなさん、ご注意を。
12月17日(水)

 なんだか妙にSF的な事件が起こったので、緊急更新。例のポケモン事件である。のちにこれを読む人のために書いておくと、テレビ東京系で放映されている「ポケットモンスター」を見ていた全国の子どもが、次々とけいれんを起こしたり気持ちが悪くなったりして病院に運ばれたのである。その数およそ500人。
 精神医学的には、これは光過敏てんかんといわれる状態。こうした患者が閃光刺激によって異常脳波を誘発され、けいれんを起こすことを、光突発波応答、あるいは光けいれん反応という。この症状自体は、古くから知られているもので、朝日新聞がいうような「電脳時代の落とし穴」なんかでは、まったくない。ものの本によると、光過敏性を示すのはてんかん患者のうちの5%なのだけれど、(1)点滅幾何学図形、(2)赤色点滅を組み合わせると、その確率は18%にまではねあがるとのこと。ポケモンで放映されたのが、まさにその赤色の点滅だったのですね。
 脳波検査のときに隠れた異常脳波を発見する方法を脳波賦活法といって、睡眠賦活とか過呼吸とかいろんな方法があるのだけれど、その中にストロボの光を使って脳波の異常を誘発する光刺激賦活法というのがある。今回の放送での光の点滅は、まさにその光刺激賦活になってしまったわけだ。
 ただ、もちろんけいれんを起こした子どものすべてがてんかんだというわけではなく、症状の軽い子どもの多くは、光筋原応答という状態だったと思われる。光けいれん反応と混同されやすいのだが、これは正常者にも見られるもので、脳波上には異常はなく、顔面や手足だけにけいれんが起こり、閃光刺激を中止すると消失する。
 しかし、朝日新聞の頭の悪さには、あきれ返る(なお、病院でも朝日新聞をとっているのだけれど、柏崎の朝刊にはこのニュースは載っていない(涙)ため、以下はインターネット版の記事を見て書いている)。たまたまタイトルが「電のうせんしポリゴン」で、電脳世界に入り込むというストーリー(サイバーパンクもすっかり浸透してしまったものだねえ)だったこともあり、コンピュータやゲームを悪者にしたいという意図がありあり。「電脳時代の新たな現象なのか」って、まずかったのは閃光でしょ。この事件のどこが電脳と関係あるのか。もちろん「ポケモン」それ自体ともまったく関係がない。ストーリーに緊迫感があって子どもが食い入るように見ていたことは確かに被害を増やす一因になったかもしれないが、それがいけないというのなら、子ども番組ではおもしろい話を作ってはいけないのか。
 きのうのニュースでは木村太郎も、「サブリミナルと似ていますね」などと間抜けたコメントをしていた。全然違うぞ、太郎。
 ワイドショーのコメンテーターも、わからないことについては黙っていることがどうしてできないか。
 まあ、とにかく世界的にも類をみない大規模な事件であるのは間違いない。今後の光過敏てんかんの研究は、この事件を抜きにしては語れなくなるのだろうな。今までもこうした例はきっとあったに違いないが、今回は視聴率が高かったこと、けいれんを起こしやすい子どもが多く見ていたことが、これだけ多くの被害者を出した原因だろう。しかし、視聴率17%だから1000万人くらいが見ているわけで、そのうちの500人ということは0.005%。そう考えればたいした数字ではないともいえるけれど。
 ひとつだけ確かなことは、これでこの回はもう決して再放送されないわけで、「幻の38話」として高値で取り引きされるだろうということ。録画してた人、ラッキーでしたね。
  12月16日(火)

 今日からまた柏崎。
 小林泰三『玩具修理者』読了。古典的ながら一読して忘れられない印象を残す表題作と、独創的な時間SFである「酔歩する男」。タイプの違う作品ながら、どちらも高水準の作品で、今後を期待させるデビュー作。比較してみると、アイディアは「酔歩する男」が優れているが展開がややぎくしゃくしており、完成度は「玩具修理者」の方が上。でもわざわざクトゥルーものにする必要はなかったのでは?
 これを今まで読まなかったとは不覚であった。『人獣細工』も読まなければ。
 さて、「酔歩する男」には、手児奈という奇妙な名前の女性が登場する。主人公とライバルに同時に愛される謎めいたヒロインである。これを読んだとき、私はおやっと思った。手児奈というヒロインが出てくる小説をほかにも読んだことがあったのだ。このページに掲載されている、ゐんば氏のショートショートに登場する女性キャラクターが、すべて手児奈という名前なのだ。
 こうして見ると、手児奈という名前は、単に作者の気まぐれでつけたとは思いにくい。おそらくなにかの出典があるのだろう。
 そこで、Infoseekで「手児奈」をキーにして検索をかけてみた。すると、即座に40件を超すページがヒット。インターネットの便利さを痛感するのは、こういうときだ。
 検索結果を見ると、市川市関係のページが多く、なんと手児奈食品という食品会社まであるらしい。手児奈が誰なのか知りたい人は、このページへ。
 これをみて、私は初めて、小林氏がどうしてヒロインを手児奈と名づけたか理解できた。

12月15日(月)

 銀座で大学医局の忘年会。行きがけに、交通会館地下の古本市を覗く。今日も収穫なし。
 しかし、医者の忘年会というのはなぜにこんなに会費が高いのか。医者だって当然ながら不景気の波をかぶっていないわけではないのだが、医者という人種はよほど見栄をはりたいとみえて、毎年のように高級店で忘年会をする。幹事も自分の代でレベルを落としたくないのだろうな。
 『宇宙塵傑作選I』(出版芸術社)購入。柴野拓美さんがあとがきで、宇宙塵全巻を読み通した編集者溝畑康史氏にお礼を述べている。『妖異百物語』のときも相当数の雑誌を読んでいたはずだから、これは好きでなければできない仕事だなあ。溝畑氏といえば、編集者兼評論家兼名探偵(笑)として知られる名物編集者だが、実は私の高校時代の同級生だ。高校のころから古本コレクターで、特に山田風太郎と香山滋については彼の右に出る者はなかった(高校生で風太郎や香山を読んでいる人自体まずいなかったんだけどね)。今はSFセミナーで一年に一度会う程度だが、好きな道をそのまま仕事にしている彼を見るといつも羨望を感じる。
12月14日()

 お茶の水に出て明治大学へ。刑事博物館で開かれている「ヨーロッパ拷問展」が今日で最終日なのだ。半年以上やっていた上に2ヶ月も会期が延長されていたというのに、最終日にならないと足を運ばないあたりに、私のだらけきった性格がよく現れている。
 おなじみの貞操帯や鉄の処女といった拷問具も、実物を目にするのはもちろん初めて。でも、噂ばかりが耳に入っていたせいか、それほどの恐怖は感じない。  むしろ、そうした大げさで芝居がかった道具より、指や膝をつぶす万力や、乳首や舌をつぶすためのペンチの方が、直接痛みが体に迫ってくる分、背筋が寒くなる。それらは、まったく飾り気のない「実用」一点張りの道具で、あまりにも「日常的」でありすぎるのだ。罪人の舌を切ったり膝を締め上げたりすることは、当時はまさにごくありふれた日常だったに違いない。
 ちなみに、中国の拷問については、今年読んだ王永寛『酷刑』(徳間書店)が詳しくてお勧め。中国の凌遅は、ヨーロッパの拷問よりはるかに残虐。なんせ人豚をつくってしまう国ですからね。西欧の拷問について書いた本は多いが、中国のものは類書がほとんどないだけに貴重。あとは日本ものが出てくれればいいんだけど。

 帰りに三省堂に寄ったら、神経質そうなおばさんのまわりに人だかりができている。何だろうと思ったら、高村薫のサイン会だった。『レディ・ジョーカー』は評判がいいようだが、どうしたわけか、高村薫は私にとってまったく読む気になれない作家のひとりだ。一応、デビュー作の『黄金を抱いて翔べ』だけは読んだのだが、ねちねちした男の描き方に嫌悪感を覚えた。男の友情がどうしてもホモにしか見えないのだ。それに、(これはこちらの先入観がいけないのだが)『クイーン・メリー襲撃』とか『摩天楼の身代金』みたいな知的な強奪ものだと思って読み始めたら全然そうでなかったという期待外れ感もあった。
 しかし、いちばんの理由はもしかしたら、妙にねちっこい登場人物たちの中でも、最も情けなくなよなよしたキャラの名前が春樹だったからかも。

 日曜洋画劇場で『ストリート・ファイター』をやっている。あれが春麗とは納得いかん! ベガとバイソンの名前が入れ替わっているのは何故?
12月13日()

 あまりにも前髪が長くなってきてうっとうしいので、引っ越して以来初めて散髪に行く。初めて入る床屋で髪を切ってもらうと、懸念していた通り、なんだか学生のような妙な髪型にされてしまった。やれやれ。
 傷心のあまり池袋に出て本を買う(またかい)。まずはヒライストの同居人に頼まれていた『幻魔大戦3』『死霊狩り1』。アスペクトは平井和正と心中でもするつもりなのだろうか。ルイス・シャイナー『グリンプス』と再読用の『果しなき流れの果に』(ハルキ文庫)。科学書コーナーでは、佐倉統『進化論の挑戦』とサベージ-ランバウ&ルーウィン『人と話すサル「カンジ」』。そして、細川ふみえ『Gallant』。ここ数作の写真集では群を抜く露出度だが、細川ふみえはすっかりおばさん顔になっていて顔のしわが目立つ。からみまであるのもちょっとなあ。もはやこういう売り方しかないのか、とため息。
 工作舎『ジュール・ヴェルヌの暗号』に心惹かれるが、値段を見て断念。ジュール・ヴェルヌがフリーメイソンやら薔薇十字団やらと関係していて、レンヌ・ル・シャトーの謎を知っていた、ということを論証した本(笑)。なんでもモーリス・ルブランと秘密結社の関係を書いた本もあるとか。この業界は、ほとんど何と何を結びつけるかの順列組み合わせの世界に入ってますね。
12月12日(金)

 今日の入院患者さんはなかなか強烈だったのだが、守秘義務を破らずには書けないので、紹介できません。あしからず(これまで書いた例は、特定できないように少しずつプロフィールを変えて書いている)。
 東京へ帰る途中、長岡で降りて、きのう発見した古本屋に行ってみる。ハヤカワ文庫NVのモダンホラーが安かったが別にほしくもない。結局、収穫なし。
 東京ではすっかり廃れたルーズソックスだが、長岡の女子高生の間ではいまだに現役だ。テレビによって流行はあっという間に地方に広がるが、流行の終了の情報は伝わりにくいのだろう。「冷やし中華始めました」の張り紙はよく目にしても、「冷やし中華終わりました」は見ないのと同じである。
 しばらく見ていると、東京では見たためしのない、異様な変種を発見。紺のルーズソックスである。なんと、女子高生の半分近くはこれをはいている。「紺のソックスがはやっているらしい」というミームが、伝達過程で変異を起こしたという仮説を立ててみたが、それとも、私が見たことないだけで、東京でも紺のルーズソックスははやっているのか?
 新幹線の中で、『魔王の国の戦士』読了。まあこんなものか。しかし、このところの刊行ペースは尋常ではありませんね。
 東京に戻ってから、『このミステリーがすごい!'98年版』を買う。ベストテンのうち国内は2冊(京極)、海外は3冊(国書刊行会の2冊とゴダード)しか読んでないぞ。とほほ。
 ほかにはミシェル・フーコー『精神疾患とパーソナリティ』(ちくま文庫)、「このミス」で3位だった皆川博子『死の泉』と、日本作家の書き下ろしホラー・アンソロジー『ラヴ・フリーク』(廣済堂文庫)を買う。風太郎傑作選といい、最近がんばってるなあ、廣済堂文庫。『風車祭』と『消えた子供たち』は迷ったあげく買わず。……でも、いずれ買うかもしれない。
 なんだか自分が本ばっかり買ってるように思えてきた(って、本当だけど)。
12月11日(木)

 結局雪はたいしたことがなく、今日はきのうとはうってかわって雲一つない晴天。路面が凍って滑る滑る。
 昼からは老人保健施設の回診である。この施設というのが曲者で、病院からカーブの多い山道を登って車で30分くらいのところにある。内陸部なので、ひどいときには2メートルくらいの雪におおわれる、という豪雪地帯だ。交通手段は一日2、3本のバスのみ、という山に囲まれた小さな集落で、施設も廃校になった小中学校を改修してできたもの。今日は晴れているからいいものの、雪でも降った日には、ほとんど命がけで通うことになる。
 回診が終わったら、そこからさらに車で10分くらいの診療所で仕事。やってくるのはほとんどが60歳以上のお年寄りばかり。若い人はみんな街中に出てしまい、残っているのは老人ばかりなのだ。そのお年寄りたちも、冬場は雪に耐えかねて街にいる子供たちのところに身を寄せる人が多いという。春になったらまたここに戻ってくるのだそうだ。そこまでしてこんな不便なところに住まなくても、と私などは思うのだが、長年慣れ親しんで来た土地は離れられないのだろうなあ。
 以前、風邪を引いて診療所に来られないというおじいさんのところに往診に行ってみて驚いた。家は少なくとも築100年はたっていそうな木造家屋で、玄関を入るとすぐだだっぴろい吹き抜けの板の間で、中央にはなんと囲炉裏がある。当然寒い。ここには老夫婦がふたりだけで住んでおり、ふだんは板の間の隣にある狭い部屋にこたつを置いて生活しているのである。古い家の中にひとつだけ、最新の32型ワイドテレビが鎮座していたのが、なんだか異様な印象だったのを覚えている。
 診療所を訪れる患者さんはほとんどが高血圧で、中には収縮期圧が220というすさまじい値の老人もいる。それでもぴんぴんして元気なのは不思議。やはり都会とは食生活が違うのだろうなあ。漬物とかそういう塩気のあるものばかり食べているのだろうか。

 夕方には病院に戻り、そこから貸し切りバスで長岡に出て忘年会。長岡の町並みと診療所のある山奥の風景は、とても同じ県内とは思えないほどの違いでめまいすらおぼえる。お、バスの窓から行ったことのない古本屋発見。明日にでも行ってみよう。
 忘年会は今週で3週連続。先々週は病棟、先週は病院、今日は病院グループ全体の忘年会というわけでだんだんと規模が大きくなってくるわけで、それに反比例して快適度は減少する。来週は大学医局の忘年会、再来週は森下一仁先生の空想小説ワークショップの忘年会があるから5週連続。やれやれ。

 栗本薫 『魔王の国の戦士』、ディーン・クーンツ『心の昏き川』購入。今後のクーンツがすべて超訳にならなかったことを、神に感謝します。吉野仁氏の解説は、超訳版に一言も触れていないように見えて、最後の最後でちくりとほのめかしているのがなかなかの高等テクニック。

過去の日記

97年12月上旬 『タイタニック』、ノリピー、そしてナイフで刺された男の巻

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