3月20日(金)
ホームへ下る駅の階段を降りていたときのことだ。突然、後ろから、若い女性が
「ハーイ、電車来た、電車来た、ハーイ」と叫びながら駆け下りてきた。昔から木の芽どきには多いというしなあ(あんまり医学的ではないな)などと思いつつ、足音があまりにも大きかったのでちょっとだけ身の危険を感じて振り向いたら、階段を駆け下りてきたのは携帯電話を持った女性だった。いや、ほっとしました(笑)。
しかし、街中で一人でしゃべったり笑ったりしている、なんてのは、
独語空笑といってれっきとした精神分裂病の症状である。それが今や、街に出れば普通に見られる光景になってしまった。変な人とそうでない人との区別といえば、ちっぽけな電話を持っているか否かだけという危うさ。でも、携帯電話で話しているように見える人のうち百人に一人くらいは、電源を切ったまま誰でもない相手と話しているような気もするのだが。いや、あなた以外のすべての人間が実は電話するふりをして独語しているのかもしれませんよ……(こういうのを被害妄想という)。
また、分裂病患者に特徴的とされている症状に、
世界没落体験というのもあって、これは「世界はいまや危機に瀕している。世界の終末は近い」という、周囲から迫ってくるような絶対的な確信のこと。でも、この言葉が考え出された20世紀前半には、世界の終末などという概念は妄想にすぎなかったのだろうが、世紀末の現在では世界が危機に瀕していると思っていない人の方が少数派なんじゃないだろうか。
さらに、「自分が存在するように感じられない」「街を歩いている人々が生きている感じがしない」という
離人症状なんかは、現代人なら誰でも多かれ少なかれ持っているものだろうし、特に最近の子供たちはみんなそう感じているんじゃないかなあ。
こういうことから、分裂病者は現代を先取りしていたのだ、などという人もいるけれど、そこまで行くとトンデモの域に達してしまう。恣意的にいくつかの症状を取り上げれば似てるところはいくつもあるけど、「正常者」には決して理解できない症状だってたくさんある。超えられない溝は厳然としてあるのだ。
ただ、社会全体が分裂病的(というか、分裂気質的)になってきたため、分裂病者と正常者の間の差異が小さくなってきた、ということはいえると思うのですね。隣人が誰だろうが気にせず、余計な干渉を嫌うという一見殺伐とした今の社会は、実はとっても「分裂病にやさしい社会」、分裂病者にとっては住みやすい社会なのだ。
3月19日(木)
栗本薫『鬼面の塔』読了。楽しんで読んでいる人がいるのは理解しているが、ここ最近のグイン・サーガは、私には全然おもしろいとは思えない。刊行ペースが上がった分、内容が薄くなったとしか思えない。とくにこの巻はまとまりのない行き当たりばったりの展開で読み進むのに苦労した。それなのになぜ読んでいるかといえば、50巻以上読んできたものをここでやめられるか、という意地以外のなにものでもない。
舞台は、いままでまったく描かれなかった幻のキタイに移っているというのに、キタイの人々や風俗はさほど今までの中原とかわりなく、まるでRPGに出てくる「東洋風な国」そのまま(そういえば言語はどうなっているんだろう)。ここは、西洋人が初めて東洋を目にしたときのようなカルチャーショックを読者にも体験させてほしかった。まったく隔絶した文明であるのなら、ものの考え方自体違っているはず。そういう異質な文明とのファーストコンタクトをいきいきと描いてこそのSFでありファンタジーではないか。
また、ついに竜王ヤンダル・ゾッグが姿を見せ始め、物語はますます壮大になっていき、風雲急を告げる展開のはずなのに、なんだかこぢんまりした印象しか感じないのは、主として登場人物の対話でストーリーが展開するようになってしまったからだろう。重要なできごとも会話の中で処理され、かつてはあんまりしゃべらなかった人物まで、みんな異様に多弁になり、内心の感情まで独白で表現してしまう。これは、作者が芝居やミュージカルを書いている弊害だろうなあ。小説には小説の表現方法があるのだから、芝居のやり方を持ち込まれても困ってしまう。
それに、どうしたわけか巻が進むにつれ、人間関係がどんどん一面的で単純になっている気がするのだが。イシュトとアリ、ナリスとイシュト、ナリスとヴァレリウス、グインとマリウス、ここ数巻の人々の関係は、一方的な崇拝、または妄執ばかり。以前のグイン・サーガではもう少し複雑な人間関係が描かれていたはずだと思うのだけど。
いろいろと書いてきたけど、これはあくまで私の個人的な感じ方だ。今のグイン・サーガがおもしろいと思っている方は、私の戯れ言など気にしなければいいだけのこと。腹を立てたりしないように。
東京都文京区立
鴎外記念本郷図書館というところで、鈴木光司の講演会があるそうだ。タイトルが「新しい歌を歌おう」。このタイトル、よっぽど気に入っているんですね。入場無料で、3月20日午後6時半から。つまり明日だ。私も行けたら行ってみるかもしれないけど、時間的にたぶん無理だろうな。
3月18日(水)
何度も入院しているアルコール依存症の患者さんがまたべろべろに酔っぱらった状態で入院してきた。やれやれまたかい、と思っていつものように治療していたら、奥さんから電話がかかってきて、すぐに退院させてくれ、という。奥さんを病院に呼んでくわしい話を聞いてみたところ、本人は酒ばかり飲んでいて会社をたびたび休むのでクビになってしまい、ついに奥さんも愛想をつかして離婚することにした、という。書類にもすでにサインしてある。家はもともと奥さんのものだし、子供も奥さんが引き取ることになった。夫を入院させておく金などないから、すぐに退院させてほしいというのだ。
つまり、彼は仕事も妻も子供も帰る家すらも、すべてを失ってしまったのであった。アルコール症の患者にはあまり同情を感じない私だが、さすがにこの患者さんはかわいそうに思えた。治療するにはもう少し期間が必要だと奥さんを説得して(なんせ食べ物も喉を通らず点滴するしかない状態なのだ)、しばらく入院治療を続けることにしたものの、退院後の行く先はまったく白紙。なんとかしてあげたい、と思うのだが、アルコール症の場合、よかれと思ってしたことが逆効果になりかねないから困ったもの。
先輩のある医師は、職を失ったアルコール症の患者さんに、骨を折って年金がもらえるよう手続きをしたところ、患者さんは年金をすべて酒代に使ったあげく再入院。ふだんは温厚な先輩医師だけど、このときばかりは烈火のごとく怒ったそうな。
アルコールの治療ってのはこういう無力感との戦いなのだ。治療していると、自分はこの患者をまた酒が飲める体にしているだけなのではないか、という疑念にとらわれることがある。でも、やはりそう思ってしまっては負けなのですね。
今回の場合は、この患者さんを自立させないといかんだろうなあ。保護者的に接するのはうまくない。先輩医師のように年金の手続きをしてあげるのでは、患者の依存心をますます強めることになってしまう。必要なのは、住む場所や金を得る手段を用意してあげる、といったことではなく、今後は否応なく独りで生きていくしかないのだから、どのようにして生活していけばいいのか話し合う、といったようなこと。
しかし、言うのは簡単でも、実際やるとなると大変なんだよな。それに、私がこの病院にいるのもあと1週間ちょっと。この患者さんのことは、後任の医者に任せることになる。少し心残りだけど。
3月17日(火)
日銀総裁の人事には驚いた。
10年前ならかなり人気があったものの、今ではもうほとんど忘れられた人物だと思っていたのだが。私も高校生のころには、部屋にこの人のポスター貼ったり、レコードを集めたりしていたもんだ。「夏色のナンシー」とか「いそいで初恋」とか、今でも歌えるぞ。ここしばらくは歯ブラシのCMくらいでしか見かけないと思ってたら、いきなり日銀総裁とは、えらくなったものだ。やはりハワイ生活で身につけた国際感覚が抜擢の決め手だろうか。しかし、しばらく見ないうちに老けたなあ、早見優。
うむ、かなりあざといボケだったな。むろん、正しくは
速水優。
医者をやってるとよくかかってくるのがセールスの電話。こっちを金持ちだと思っているのか「税金対策にマンションを買いませんか」ってのがほとんど。しかもマンションの場所はなぜか大阪。私が大阪にマンション買ってどうするというのだ。このご時世に、投機目的でマンション買ったとしてもそんなにメリットがあるとは思えんのだが。それに、一介の勤務医(しかも卒業わずか5年目)にそんな金があるとでも思ってるのか。
たぶん大学の卒業生の名簿でも使っているのだろう、休みの日に家にいてもかかってくるし、病院名簿を使っているのか当直中にもかかってくる(さすがに誰が当直かまではわかりようがないと思うのだが)。腹が立つのはこの当直中の電話。
病院に電話をかけても、医者に直接電話がつながるわけではなく、日中ならまず受け付けや事務、夜間なら事務当直か夜勤の病棟看護婦が取ることになる。だから、こういう売り込みの人たちは、最初は「セールス」などとは一言も匂わせず、「○○といいますが」と個人名を名乗るのである。そして、「当直の先生をお願いします」といって、医者につないでもらう。医者が出ると、「先生の税金対策としてマンションのご購入を……」と来るのである。
さて、当直中の医局にかかってくる電話というのは、いい知らせであることはめったにない。内線なら病棟の具合の悪い患者を診察して下さい、外線ならたいがいが、外来患者が薬を大量に飲んでしまったとか、頭の中がうるさくて眠れないのだがどうしたらいいか、などという連絡である。
当然私は、ある種の覚悟を決めて電話を取る。「○○という方からお電話ですが」と事務の人。外来の患者さんかな、いったいどうしたんだろう、と思いつつ「つないで下さい」というと、いきなり
「マンション買いませんか」だぞ。普通は怒るだろ、普通。
第一印象最悪。それくらいのこともわからんのかね、この人たちは。
当直中の医局の電話というのは、緊急時の連絡のためにあるのだ。あんたらの話など聞いているひまはないのだ。あんたらの話を聞いていたおかげで重要な連絡が遅れて患者さんが亡くなりでもしたら、責任を取ってくれるのか(いや、私のいる精神科じゃまずこんなことはないけど、内科や外科では冗談では済まないだろう)。
最近では、こういう電話のとき私は、相手がしゃべっていようがかまわず「興味ありませんので失礼します」といって切ってしまうことにしている。結局、これが最善のような気がする。からかって遊んでもいいのだが、住所も電話番号も知られている相手に逆恨みされたくもないしなあ。以前、相手が話している最中、そっと受話器をテーブルに置いたままにしておいたら、驚いたことに10分後にもまだ誰もいない空間に向かってセールストークをしゃべり続けていた。さすがに15分後には切れてたけど(これはもちろん自宅にかかってきたとき。病院ではこんなことしません)。
しかし、今日かかってきた電話には腹が立ったぞ。事務の人が「○○さんから先生にお電話です」という。セールスだな、とピンときたので「どちらの○○さんか訊いて下さい」と答えたら、しばらくののち「精神科の○○さんだそうです」という。
「どこの病院の精神科ですか?」
「××大学精神科の○○さんだそうです」
そんな人にはまったく覚えがなかったが、ここまで言われては取らないわけにはいくまい。「つないで下さい」というと、案の定、大声で「先生の税金対策にマンションを……」としゃべりはじめる。わたしゃほとんどキレそうになりながら話をさえぎって「××大学精神科の○○さんじゃないんですか?」。すると相手は
「はあ? そんなこと言ってませんが」。
即座に切りましたよ、私は。
節税マンションのメリットのなさについては、
ここのページにも、もうちょっと詳しく書いてあるので参照のこと。
3月16日(月)
池袋ビックカメラパソコン館でMS-IME98を買い、ついでに『ブギーポップは笑わない』の絵を描いていた緒方剛志原画の
『雪色のカルテ』も購入。どっちがついでだかわからんが(笑)。
MS-IME98は今のところなかなかいい。変換効率も97より上がってるみたいだし、ローマ字変換が自由にカスタマイズできるあたりがよいです。MS-IME97では面倒だった「ゐ」や「ゑ」の入力も簡単。ゐゑゐゑゐ。便利便利。ただ、IE風のクールバーはあんまり好みじゃないし、わずか1年でバージョンアップするのもどうかと思うが。
『雪色のカルテ』はむちゃくちゃ難易度が高いという話は聞いているが、まだほとんどやってないのでなんともいえない状態。絵は好みが分かれるだろうけど、確かにきれい。
西口に回り、高野書店で石森章太郎表紙の
『デューン 砂丘の子供たち』とC・J・チェリイ
「色褪せた太陽」3部作を入手。デューンは3冊で450円なのは現役本なのだから当然だが、チェリイも3冊で600円なのは良心的な値段でうれしい。芳林堂の上にあったころの高野書店は、「高野の高は高値の高」とか「高野には最後に行け」(他の古本屋を探し回ったあとに)といわれるくらい、やたらと強気な値つけで知られていた(あくまで私の周辺で)ものだが、移転してから方針が変わったのかな。まあ、もともとここはSFには冷たい、というか弱かったから変わってないのかもしれないけど。
さてその『砂丘の子供たち』を、家に帰ってから同居人に見せると、パラパラとしばらくめくっていたと思うとページを開いて、ここを見ろという。
「教えてちょうだい、あなたは左足の小指の先を、全身のほかのどこの筋肉も動かすことなく、動かせるかしら?」
「え……できません」
「できるわよ。できるようになるわ。全身のすべての筋肉がわかるようになるわ。両手を知っているのと同じように、あなたは全身の筋肉を知るようになります」
「あなたはぼくをどうするつもりなんです? どんな計画を立てているんですか?」
「わたしはあなたを解放し、もう一度宇宙へ投げ出そうとしているの。あなたはなんであれ、自分が最も深く望んでいるものになるのですよ」
(第3巻p.16-17より、会話部分のみ抜粋 矢野徹訳)
3月4日の日記に書いた「左足の小指を動かすものは宇宙を支配できる」の出典はこれだということらしい。
しかし、どうも、左足の小指
だけ動かせればいいわけではなさそうだぞ。それに宇宙を支配できるなんて、どこにも書いてないではないか。最も深く望んでいるものになれる、というだけで。いや待てよ。とすると、同居人が「最も深く望んでいる」のは、「宇宙を支配する」ことだということか。おそるべし、同居人。
3月15日(日)
週刊アスキーに載っていた上野耕路の新譜を探しに池袋WAVEへ行ったが見つからず。かわりに発見したのは、4年前にWAVEから出た
『バレエ組曲』。こんなCDがあったとは全然知らなかったので、収穫。このCDの作曲者プロフィールは現代音楽よりの記述ばっかりで、戸川純と「ゲルニカ」をやっていたこととか「GADGET」の音楽を書いたことなんかにはまったく触れていないことには苦笑するしかない。クラシック側ではやっぱり他ジャンルへの差別意識が根強いんでしょうかね。
そうそう、クラシックと他ジャンルといえば、テレビを見ていたら「日本を代表するカウンターテナー」の暴行事件が報じられていた。いやあ、カウンターテナーという言葉もメジャーになったもんだなあ、と感慨深いものがあるのだけど、取り上げ方が「本人がもののけになった」などと揶揄するような調子だったのは不快だった。
芸術性と人間性はまったく別物であることは、古今の作曲家や画家の例を見れば一目瞭然。どんな性癖があろうと彼の才能は本物なのだから何の問題もないと思うのだが、主婦層にファンが多かっただけに、やっぱりこの事件で彼の人気は落ちるんだろうな。でも、その方が変な人気に踊らされずにクラシックに専念できていいかも(これも差別意識のあらわれか)。芸能人みたいな仕事ばっかりじゃなくて、バッハ・コレギウム・ジャパンのカンタータ録音にも戻ってきてほしいしなあ。
そのほかの買い物は、
『DEEP FOREST III』と、Musica Contextaという聞いたことのないグループによるパレストリーナ
『聖木曜日のための音楽』。
エレベータで地下まで降りてリブロに行ってみると、げげ、新刊が山ほど出ている。ピーター・ディキンスンにニコラス・ブレイク、本格ミステリファンが泣いて喜ぶ二人の未訳作品を新刊で出すとはやってくれるな、原書房。
『毒の神託』、
『殺しにいたるメモ』、出版社へのエールの意味もこめて、泣く泣く購入。鈴木光司、瀬名秀明という強力な二人の推薦文を揃えたマイクル・コーディ
『イエスの遺伝子』(徳間書店)も買っておくか。文庫化された貫井徳郎
『失踪症候群』は、文庫本としては画期的な装丁なんじゃないかな。とても地味なのが難点だが。
このところ、日記ページの更新ばっかりで、他のページは全然更新されない、という状態が続いている。本も読んでないわけではないし、精神医学用語辞典にもまだネタはいくつもあるのだけれど、日記を書いてしまうとどうしてもほかのページにまで手が回らなくなってしまうのですね。この点については、私も内心忸怩たるものがあります。なんとか、他のページも更新するようにしたいと思っているので、まあ気長に待っていて下さい。
3月14日(土)
我々はそろそろ結婚指輪を買わねばならないのだった。我々とは、私と同居人のことである。我々は、いちおう入籍はしているし同居もしているのだが、どうしたわけか指輪も結婚式もまだなのだ。私は別にどっちもなくてもいいと思うのだが、親からの要請もあり、式は4月上旬に海外で挙げる予定になった(海外にしたのは親戚などを極力呼びたくなかったからだ)。だから、そろそろ買っとかないと間に合わなくなってしまう。ギリギリになるまで動こうとしないのが私と同居人に共通する悪い癖で、今日になってあわてて買いに行くことにしたのであった。
しかしなあ、結婚指輪って、あれってずっとしていなければならないものなのか? 同居人はそうしてほしいようなのだが、私は今のところそのつもりはない。私は指輪が嫌いなのだ。指輪を恐怖しているのである。小さいころにふざけて母親の指輪をはめて抜けなくなり、大変な思いをして以来、指輪には恐怖を抱いているのであった。指輪をはめると、抜けなくなったらどうしよう、指がだんだん紫色に変色してきて、壊死してしまったらどうしよう(そんなことないって)、と不安がこみあげてきて、すぐにでもはずしたくなってしまうのだ。
いや、別に心理分析してくれなくてもわかっている。これは母親への恐怖であり、グレート・マザー的な、自分を飲み込んでスポイルしてしまう女性に対する恐怖なのだろう。しかし、原因がわかっているからといってどうにもならないのが、恐怖症ってものだ。とにかく私は指輪が嫌いなのだ。同居人には申し訳ない気もするが、今のところ指輪をするのはちょっとなあ。
まあ何にせよ、海外じゃ指輪がなければ結婚式もできないので、同居人が気に入ったという指輪を購入。何とか式までには間に合いそう。
さてその後は、本日初日の
『007/トゥモロー・ネバー・ダイ』を観る。カイル・クーパーのタイトルロールが話題になっている時代だというのに、シルエットの女性が妙な踊りを踊るというあくまで野暮ったいタイトルロールがまさに007の世界。いやあ、ここまで緊迫感のないアクション映画はしばらくぶりに観たな(ちなみに、前は『ゴールデンアイ』(笑))。ただ、女スパイ役のミシェル・ヨーだけが非常に魅力的で、彼女の切れ味のいいアクションが、かろうじて全体を引き締めている。こうなったら、中国の女スパイ、ミシェル・ヨーを主役にすえたスピン・アウト作品を撮るしかないのでは。
お話は、悪のメディア王がイギリスと中国の間に戦争を勃発させて報道を独占しようと企むというもの。つまり、アヘン戦争をもう一度、というわけ。しかし、なぜか映画の中には「アヘン戦争」という言葉が一回も出てこない。やはりイギリス人はあの戦争のことは思い出したくないんだろうか。
夕食は日比谷のタイ料理店「シャム」。料理はむちゃくちゃ辛くて、場所柄かちょっと値段は高め。
本日の買い物は、泡坂妻夫
『夢の密室』、折原一
『黄色館の秘密』、鮎川哲也編
『鯉沼家の悲劇』。すべて本格推理。すべて光文社文庫。
3月13日(金)
精神科ではどういうわけか、入院患者さんが自宅に一時帰宅することを「外泊」と呼ぶ習慣がある。しかし、考えてみれば、患者さんにとってみればそれは一時とはいえ「帰宅」なのだから、「外泊」という言い方はないだろう。これは抗精神病薬が開発される前、精神病院が収容施設であったころの名残りなのだろうか、それとも、「帰宅」といってしまうど外泊したまま戻らなくなってしまう患者さんが増えることを恐れているのだろうか。いずれにせよ、そういう用語を強制するってことは、結局は患者さんの自立を妨げることになると思うのだが。
もうひとつ、入院期間の長い患者さんは、「まさるさん」とか「みっちゃん」とかいうように、医者や看護婦、看護士さんたちから下の名前で呼ばれていることが多い。もちろん、親しみをこめて呼んでいるのだろうけど、これまた患者さんを一人前の人間としてではなく子供扱いすることになってしまい、患者さんの自立を妨げる、という意見もあるのですね。日本じゃ普通、大の大人を名前で呼ぶことなどないのだから、患者さんも名前でなど呼ぶべきではない、というのだ。まったくその通り。私はその話を聞いてから「○○さん」と名字で呼ぶようにしている。
長年の習慣を変えるのは難しいけれど、このあたりは精神病院の習慣の中でも改善する必要があるところ。
本日の買い物。栗本薫
『鬼面の塔』、アストロ・テラー
『エドガー@サイプラス』。アストロという名前も相当珍しいが、テラーもあまり聞かない名字だと思ったら、「水爆の父」エドワード・テラーの孫だそうな。
3月12日(木)
このページのファイルサイズの合計が500キロバイトを超えた(ジオシティーズのファイルマネージャでわかるのだ)。うちのページにはほとんど画像などないので、私は3ヶ月間で25万文字、原稿用紙にして625枚分の文章を書いたということになる(正確にはタグの分もあるし、以前書いた文章をアップロードしたものもあるが)。驚きである。これは長編小説一冊分ではないか。こんなことなら、こんなやくたいもない文章など書かずに一念発起して長編を書き、新人賞にでも応募すればよかった、などと後悔しないでもないが、当然のことながら長編小説ならこんなスピードでは書けないのである。同じ枚数の小説を書くとしたら、いくらがんばっても一年はかかるだろうなあ。
ジオシティーズで無料貸し出ししてくれるのは2メガバイト、なぜか2進法による2MBではなく10進法による2000000バイトきっかりだから、これで私に与えられた総ディスク容量の4分の1を使いきってしまった。つまり、この分でいけば、あと9ヶ月、今年の12月には容量のすべてを使いきってしまうのである!
これはゆゆしき問題である。ジオシティーズでは今のところディスク容量の追加はできないことになっていて(まあ無料なんだから文句は言えないが)、唯一容量を増やす手段として残されているのが、ジオシティーズの「特選ホームページ」に選ばれること。特選に選ばれれば5メガバイトまで増やしてもらえるのだが、うーむ、こんなページで特選になれるのか?
しかし容量が5メガバイトまで増えたとしても、2年半で使いきってしまうわけだし、これはやはりそのうち引っ越すしかないかな。今から引っ越し先を物色しておかねば。どっかいいプロバイダはないですかね。
3月11日(水)
医学生の間の都市伝説の話は、以前、エッセイ
鞭毛亭日乘で軽く触れた。
解剖実習の最中、ある学生が突然メスで遺体の耳を切り取り、それを解剖室の壁にぺたりと貼りつけて「壁に耳あり」と宣言した、という話である。この話、別の大学出身の医者数人に訊いてみたが、誰もが知っているという。誰が言い出したのかは知らないが、これは全国の医学生の間に伝わる伝説なのである。
「鞭毛亭」には書かなかったが、もうひとつ、私が医学生だったときに誰かから聞いた伝説がある。学生の頃には何度となく聞いた覚えがあるので、医学生の間では相当人口に膾炙しているはずだ。今になってこの話を突然思い出したのは、今日の昼休みに、他大学出身の医師が実話として話しているのを聞いたから。実話と思いこんでいる人が多いってのも、都市伝説の重要なファクターのひとつなのだ。
細菌学の学生実習のときのことである。その日は口内に常在する細菌(ナイセリアやレンサ球菌など、口の中には正常でも多数の細菌が存在するのである)を観察するという実習で、各自、自分の口腔粘膜を採取してプレパラートを作り、顕微鏡をのぞき込んでいた。そのとき、ある優秀な美貌の(ここがポイント)女子学生が教授に向かい「先生、変な菌がいるんですが」と手を挙げた。教授はおもむろに顕微鏡をのぞき、少しもあわてずこう言ったという。
「君、これはspermだよ」
考え落ちですね。