4月20日(月)
今日はこの病院に勤めて初めての当直。
ひとくちに当直といっても、その内容は本当に病院によって千差万別。大学病院で当直をしていたときは、ほとんど呼び出されることもなく、夜の間中、安逸な眠りをむさぼることができた。大学病院ではすべての課の医者が一人ずつ当直しているから精神科の呼び出しにだけ対応すればいいわけだし、おまけに精神科の入院患者は十数人しかいないので、私にはほとんど何もすることがなかったのだ。いやあ、今思い出してもあれは楽な仕事だった。当然、当直料は安いけど。
夜の8時か9時ごろに病棟の回診をするのは、どこの病院でも同じだけど、このやり方は病院によって全然違う。たいがいはナースステーションに顔を出して「特に変わりありません」「熱発者が○○名います」などと報告を受ければいいのだけれど、病院によっては、各病室を回って患者さんに挨拶をする、というところもある。病棟を回って医者が当直しているんだよ、ということを示しておくのは、患者さんを安心させる効果はあると思うが、あまり大きな病院だと時間がかかりすぎる。
畳の病室の場合は畳に座って患者さんの訴えを聞くことが奨励されていた病院もあったが、さすがにこれは一緒に回る看護婦さんにも嫌がられていたようだ。私も、ここまですることはないと思う。この病院では、患者さんは医者が回ってくるまでは寝ることもできず、病室の畳の上に座って待っているのである。これじゃかえって患者さんに負担を強いることになってしまうのではないかなあ。そのときの私は一介のパート当直医の身分なので何もいえなかったけど。
3月まで勤めていた新潟の病院には内科(といってもほとんどが老人だけど)も併設されていたのだが、当直医は精神科の医者ひとり。当然、内科的な処置が求められることもあった。最初は緊張して電話のベルが鳴るたびにびくびくしていたし、内科病棟に呼び出されたときは、当直医マニュアルを肌身離さず持って、見よう見真似で点滴の指示や処置をしていたが、やってみると案外何とかなるものである(おい)。
この病院は老人が多かったので、ステルベンもまた多かった。
ステルベンってのは医者の業界用語で、患者さんが死ぬこと。短く
「ステった」などということもよくある。ほとんど方言ですね、これでは。この病院では、ほかの病院ではお目にかかったことのない
「お見送り」といわれる儀式が印象深かった。まず、医者は患者さんの臨終を確認し、それを家族に告げ、死亡診断書を書く。ここまではどこの病院でも同じ。この病院ではそれから30分くらいたったあともう一度呼び出しがある。今度は霊安室に横たえられた患者さんのご遺体の前に線香をあげ、ご遺体を車(葬儀屋さんの車が多いが、自家用車のこともあった)に載せ、そしてその車が見えなくなるまで深くお辞儀をして見送るのである。寒い雪の夜などはたいへんだったが、これはなかなかいい慣習だと思う。
さてさて、今夜の当直はどうか。
まず、今までの病院と違うのが、身体科(内科、外科など精神科以外の科をいう。もちろん精神科だけが使う方言)の先生と二人一組で当直すること。私は精神科の患者さんだけを相手にすればいいわけで、安心である。今夜ペアを組むのは女医さん。
女医さんと一つ屋根の下で二人っきりだぜ(ほかに、看護婦さんも事務の人もいるけど)。いや、むろん何もなかったですってば>妻。
病棟回診も、身体科の先生とペア……ならよかったんだけど、婦長さんも加えて3人で行う。この病院はやたらと広くて、一通り回るだけでも40分以上かかってしまった。
驚いたのが、外来患者さんからの電話がやたらと多いこと。それも
「眠れないんです」「兄が冷たいんです」などという、さほど緊急性のない電話ばかり。今まで当直していた病院では、そういう電話というのは、たいがい看護サイドで処理してくれていたのだが、ここではすべて医者に回ってくる。最初は、こんなことまで医者がしなければならんのか、と腹も立ったが、考えてみれば腹を立てるのは筋違い。確かにこれも精神科の医者の仕事だよなあ。患者さんの話は傾聴するが、寝ていたところを起こされた医者が不機嫌なのくらいは許してほしいなあ。ちなみにこうやって電話で医者と話すのも
「電話再診」といって保険請求できるので、病院にお金が入ることになる。
今夜の仕事は電話4件と、夜中に「眠れない」と言って病院に来てしまった患者ひとり。それから朝6時に起こされて病棟へ行き、イライラしている患者さんへの対応。うーん、今までやってきた当直に比べてけっこう仕事が多い。もちろん、外科の当直なんかとは比べものにならないほど楽なんだろうけど。
4月19日(日)
インフォームド・コンセントとか患者の権利についての知識も広まってきている現在、医者のことを尊敬すべき「偉い先生」だなんて思っている人は、大都市圏では今どきあんまりいないだろうと思うけど、実をいえば地方ではまだまだ医者の地位は高い。
2年前、新潟の病院に勤めて面食らったのは、患者さんや看護婦さん、事務の職員といった周囲の人たちの私に対する態度が、東京とはまるで違うこと。患者さんも「先生に診ていただく」という感覚だし、年配の婦長さんまでが駈け出しの私に対して敬語を使う。最初はなんだか面はゆくて、丁寧に扱われるたびに身の縮む思いだった。そのとき私は初めて実感したのだが、地方では、医者といえばいまだに「お医者さま」といったイメージなのである。
これに慣れてしまったら大変なことになる。これは、いくら丁寧に扱われても対等な立場を崩さないようにするしかない、と思い、新潟での2年間、極力、看護婦(士)さんや患者さんとも対等に接しようとして過ごしてきた。今年3月、東京に戻ったときには、新潟のやり方には染まらずに戻ってきたと思っていたのだが、今月から東京の病院に勤めはじめたら、なんだか病棟の看護婦(士)さんたちの態度がぶっきらぼうに思える。染まるまいと思ってはいたが、やはり2年間の間にいくらか染まってしまっていたらしい。私は愕然とした。
医者だって人間なのだから、持ち上げられれば喜ぶ。そして、持ち上げられているうちに、そのうち、周囲が自分を持ち上げるのは、自分がそれに値する優秀な人間だからだと勘違いしてしまうのだ。これが怖い(政治家も同じですね)。
そう考えると、2年で東京に戻ってきてよかったような気もするなあ。もし10年も地方で医者をしていたら、意思の弱い私は、それこそ、金品を受け取っても当然と思うようなダメな医者になってしまっていたかもしれないのだから。
明日は当直。今度の病院にはインターネットに接続可能なパソコンがないので、明日は更新を休みます。
4月18日(土)
冬樹蛉さんが
4月17日の日記で、
水の検査だと称して家に入ろうとした若い男のことを書いているが、それを読んで思い出した。最近、まったく同じことを言っていた男がうちにも来ていたのだった。
あれはハワイから帰宅した直後のことだったから、4月8日である。インターホンに出てみると、
「水道の検査なんですが」だという。ふだんの私なら絶対に開けないのだが、そのときは帰宅したばかりで疲れていたこともあり、思考力が働かずドアを開けてしまった。開けてみると、そこには作業服を着た若い男。服には水道局とも何とも書いていない。どうもおかしいと思ったがあとのまつりである。
男は、水道の塩素濃度の検査をするのだと言って台所に向かった。蛇口からコップに水を注ぎ、試薬を入れる。名前は忘れたが、塩素濃度が高いと黄色に変わる試薬である。しかし、試薬を入れても水は透明のまま。旅行のあとなので、水道水から塩素が抜けていたのだ。彼は少し首をひねり、「ご旅行でもされていたんですか」と、しばらく水を流してからもう一度、水を入れたコップに試薬を垂らした。もちろん、今度は水は黄色に変わる。一応水道に関する知識はあるようである。
彼は満足げにうなずき、
「どうですか」という。いや、どうですかと言われても。水道水に塩素が入ってることなど、子供でも知っている常識ではないか。話を聞くと、どうも何かを水道に取りつけろと言っているようなのだが、それが浄水機なのか何なのかよくわからない。そもそも浄水機かそれに類するものを買ってほしいのなら、パンフレットの一つくらい渡してくれるはずなのだが、そんなものは一切くれない。名刺もくれないし、会社の名前もよくわからない。これはあまりにも怪しすぎる。
ああ、家に入れるんじゃなかった、と心の底から思い、「旅行から帰ったばかりで疲れているし、水ならミネラルウォーターを飲むから」と言ってお引き取り願った。すると、意外にも男はそれ以上ゴネることもなく、「あ、そうですか」と帰っていった。
いったいあれは何だったのだろうなあ。泥棒や詐欺にしてはあまりにあっさり引き下がりすぎると思うのだが、冬樹さんの家に来た人物とまったく同じ手口なのが気にかかる。まさか同一人物とは思えないので、こういう手口というのは、全国的に広がっているのだろうか。
ちなみにそのとき妻はというと、トイレにこもって用を足していたおかげで、男とはまったく顔を合わせていないのである(笑)。
水道検査男について何か情報をお持ちの方は、私まで
メールか掲示板で。
4月17日(金)
ジオシティーズの
特選ホームページに選ばれたですよ。
いやめでたい。冷やかし半分に申し込みをしていたのだが、まさか本当に選ばれるとは思ってなかった。何がめでたいといって、ディスク容量が5メガに増量だってことがいちばんめでたい。これでしばらくはディスク容量の心配をしなくて済むぞ。
3月12日の日記で私は「うーむ、こんなページで特選になれるのか?」などと危ぶんでいるが、実際、こんなページでも特選になれるようである。このように漫然としたページでも特選になれるのだから、特選のハードルはそれほど高くはないようだ。ジオシティーズにお住まいで、ディスク容量にお悩みの方、アクセス数を伸ばしたい方(といっても実際どれだけアクセスが増えるのかは不明だが)は、試しに申し込んでみたらどうだろうか。
実は、何週間か前、少しはアクセスが増えるかと思って、このページを
日記猿人なるサイトに登録してみたのである。結局、登録しただけではアクセスの増加はほとんど皆無、ということがわかっただけだったので、そろそろ登録削除でもしようかと思っているのだが、日記猿人に登録されているいろいろな人の日記を冷やかしてみると、ひとくちに日記といってもさまざまであるということがわかる。
あまたある日記を眺めていて閉口するのは、意味不明でひとりよがりな日記が多いこと。私的な、あるいは仲間内だけに通じるような日記が非常に多い。これでは読む気になれない。日記者の中でコミュニティが形成されていて、他にさまざまの人の日記も読まないと意味が通じないようなものまであるが、こういうのもどうかと思うなあ。日記ってのはもともと私的なものではあるのだが、ウェブ日記の場合は一般に公開しているものだから、不特定多数の読者を意識するのは当然だと思うのだが。
日記もひとつの作品なのだから、他の日記に依存することなく、独立して楽しめる必要があるというのが、私の意見である。私も、たまに他の人の日記や他のページを話題にすることもあるが、そのときも、できるだけこの日記だけを読んでも意味が通じるように心がけている。だって、読者は他の人の日記を読んでいるとは限らないわけだし、他のサイトはいつなくなってしまうかわからないわけだから。
私が以前から読んでいる日記といえば、
冬樹蛉さん、
喜多哲士さん、
大森望さん、
我孫子武丸さんなど、SFやミステリ関係者のものが多いのだが、こういう活字の世界の方々の日記というのは、ほとんどHTMLの効果を使わない。使うとしても、傍点の代用としての
強調くらいのもの。だから、活字の文章を読むのと同じ感覚で読める(私の日記もそうだ)。
しかし、日記猿人に登録されている日記といったら、内容といい文章のスタイルといい、まったく千差万別。たとえば
カラフルに
色を使ったり、ひんぱんに
字の大きさを変えたりしている(しかも、それほど強調しているとも思えないところに)日記もあったりする。一文ごとに改行をして、しかも全文センタリング、という私からすれば非常に読みにくく感じるような文章もある。これはもう、今までの文章作法、活字の文章を書くときの常識とはまったくかけ離れている。こういう人たちというのは、たぶん文章をビジュアルなものとしてとらえているのだろうなあ。
私は活字の人間なので、文章の色を変えるなどということは考えたことすらないし、字のサイズを変える、というのも文章表現においては禁じ手であるような感覚がある(横田順彌のハチャハチャSFで初めてこの手法を目にしたときには驚愕したものだ)。伝えようとする内容は、あくまで文章によって表現すべきであって、文字のサイズを変える、という強調の仕方は、おいそれとはやってはいけない最後の手段、といった意識がどこかにあるのである。
まあ、身も蓋もないことをいえば、日記を手で(というか、エディタで)書いている、という事情もあるが。<font size=+2>などといちいち打ち込むのは非常に面倒なのである。<b>なら楽(笑)。
文字の色や大きさを変えたり、センタリングしたり、という人たちは、たぶん活字の世界にそれほど親しんではこなかったのだろうなあ。活字のやり方を持ちこまず、HTMLのやり方で自由に文章を書いた結果、そういうスタイルが作られていったのだろう。
もしかしたら、今ここに新しい文章作法が誕生しようとしているのかもしれないな。旧弊で硬直した人間である私にはどうも読みにくいと感じられてしまうのだけど。
4月16日(木)
近所に新しい古本屋が開店した。いわゆるbook-offタイプのこぎれいな店で、マンガや文庫本が中心。最近は、こういう古本屋が多くなってるんだろうなあ。
こういう店だとあまり珍しい本は期待できないが、きたない本は安い、きれいな本は高い、というきわめてシンプルな基準によって値段がつけられているため、意外な品切れ本が安値で並んでいたりすることがある。特に開店直後となれば、これは狙い目である。
100円均一棚からラムジー・キャンベル
『母親を喰った人形』とクラリサ・ダンゴス
『赤毛の悪魔』、リチャード・S・マッケンロー
『ソーラー・フェニックス』を抜き出し、こんなものか、と思ってレジに向かう。レジの脇には写真集のコーナーがあって、藤田朋子『遠野小説』が24000円。誰が買うのだ、この値段で。サイン会に行った私も、さすがにこれは買う気にはなれない。
ふと反対側の棚を見ると、ビニールのかかったサンリオSF文庫が並んでいるではないか! しかも全部1000円均一。サンリオが高いとは聞いているが、本当にこんな文庫に高値をつけて売れるんだろうか、と店主がおずおずとつけてみたような値段である。運よく、すべて私がまだ持っていない作品だったので、緊急捕獲。バーセルミ
『口に出せない習慣、奇妙な行為』、シルヴァーバーグ
『内死』、スタージョン
『コズミック・レイプ』、プリースト
『伝授者』。しめて4000円。
藤田朋子写真集が24000円で、サンリオSF文庫が1冊1000円かぁ。なんだかさびしい気もするが、「お宝」写真集が異常高騰している最近じゃ、そんなものなのかもしれないなあ。
しかし、いわゆる「お宝発掘」ブームにより、写真集の相場は全国規模で一定になってしまったようだ。新潟県の片隅にある古本屋にさえ写真集コーナーがあって、西田ひかるの初期写真集にはやはり高値がついているのである。これでは、どこの古本屋に行っても同じである。いくつもの古本屋をめぐる意味など全然ないのだ。
その点、絶版文庫や単行本などには、まだまだ掘り出し物を発見する余地があるようだ。絶版文庫が高い店も多くなってきているが、今日の店のように100円均一の棚からひょっこりと見つかることもある。これこそ、古本屋めぐりの醍醐味というものである。
これが、インターネットのふるほん文庫やさんあたりの相場を参考にして、全国の古本屋が似たような値段をつけるようになったら……。そうしたら古本屋めぐりはとてもつまらないものになってしまうだろう。しかし、古本業界でもインターネットが普及してくれば、遠くない将来にはそうなるのかもしれない。地方に出かけたときに掘り出し物を探す楽しみも、古本屋の間で情報が共有されるようになれば、なくなってしまう。なんとも味気なくてつまらないが、それが、情報化というものなのだろう。
4月15日(水)
世の中にはすごい名前というのがあるものである。
天門太陽(あまかどたいよう)。脱税事件で逮捕された日本交通管制技術の社長の名である。はじめまして、と挨拶をして「社長 天門太陽」などという名刺を渡された日には、いったいどうしたらいいのか。会ったばかりだというのに、もうすでにこちらは名刺交換の時点で位負けである。名刺でやるカードゲームがあったとしたら、これは最強のワイルドカードであろう。
それだけではない。某夕刊紙によれば、彼には弟がいるそうだ。その名は「月光」。
天門太陽、天門月光。すさまじい兄弟である。剣豪小説なら、主人公の剣士の前に立ちはだかる双子の殺人剣の使い手といった役どころだ。これはかなりの強敵である。
しかし、生まれたときから太陽という名の兄を前に見て育つ弟月光はどういう想いだったのだろうなあ。兄は太陽なのに、自分は太陽を反射して光るしかない月光だというのは、常に自分は二番手でしかないことを意識させられているようなもので、かなりのプレッシャーを感じながら成長したのではないだろうか。
珍しい名前といえば、私が高校生のころの同級生に、「五右衛門」という名前のやつがいた。なんでまたよりにもよって希代の盗賊の名前をつけられたのかは知らないが、五右衛門という名前とともに生きていくというのも、けっこうつらいことだろうなあ。国語の教師が彼の苗字を「石川」と呼び間違えたこともあったが、みんなどっと笑った中で、彼だけは全然笑っていなかった。おそらく、彼はいやというほどそういう経験をしていたに違いない。
五右衛門とか太陽とかいう名前に共通しているのは、その名前が強烈な意味をはらんでいることだ(ひところ話題になった「悪魔ちゃん」もそうだ)。それがプラスの意味にしろマイナスの意味にしろ、あまりにも強い意味を持った名前を子供につけるのは、けっこう残酷なことだと思う。それは、子供に親の意思を押しつけることになるのだから。子供にその意味を打ち負かすだけの強さがあればいいのだけれども、そんなに強い子供というのは数少ないのではないかなあ。
それに対して、この間、若い女の子の名前がたくさん載っている名簿を見る機会があったのだが(何の名簿かは秘密)、最近の名前の徹底的な無意味さというのも、逆にすごいものがある。悠里香とか、麻菜美とかいうのは、音とか字の並びだけが重要であって、意味なんてはなから考えていないのだろう。未幸(みゆき)なんて名前もあったが、こんなのも意味を考えてつけたとは思えないなあ。
この、意味から無意味へ、という流れは、なんだか美術史の流れに似ているような気がする。強烈な意味を持った名前が、寓意に満ちてかっちりとしたバロック絵画だとすると、最近の女の子の名前は意味を解体しようとする現代美術かなあ。いやいや、そんなことをいうと、現代絵画は無意味なんかじゃない!と怒られてしまうので前言撤回。瀬里奈とかそういう名前の気分にぴったり当てはまるのは現代美術じゃなく、意味なんかかけらも感じられない
ラッセン(のポスター)ですね。
そうそう、私の名前「風野春樹」というのも、けっこう珍しいと言われることが多い。自己紹介するたびにいろいろと言われるのだが、中でもいちばんの自慢は、サイン会で藤田朋子にサインしてもらったとき、
「すてきな名前ですね」と言われたことである(笑)。
4月14日(火)
病院の帰りに本屋に行くと、噂の葉月里緒菜写真集が並んでいる。しかし、オタクな私はアイドル顔が好みで、こういう大人びた色気のあるタイプの女性にはまったく食指が動かない。管野美穂は買った私だが、葉月里緒菜はちらりと見るだけで通りすぎる。
購入した本は
『新耳袋』第一集、第二集(メディアファクトリー)、染田秀藤
『インカ帝国の虚像と実像』(講談社選書メチエ)。
「アドレナリンがお嫁サンバを踊り出す」ですっかり有名になってしまった郷ひろみの『ダディ』も平積みされていたので立ち読みしてみる。ワイドショーで引用されていた部分のあまりにふざけた軽さに、もうちょっとましなゴーストライター選べよ、と思っていたのだが、ぱらぱらとめくってみると、これが意外なことに、引用部分のような品のない文章はほとんどない。自分なりの哲学を表明していたり、豊かな知識を感じさせたりするところも随所にあるなど、むしろ理知的といってもいい文章である。引用された部分だけが、どうしたわけか周囲から浮いたように軽いのだ。
ワイドショーには郷ひろみに対する悪意があって、彼の人格を貶めるためにわざとふざけた部分ばかりを放送しているのか、とも思ったが、どうもそうではないようだ。品のない文章は、著者が奥さんに問い詰められる場面や、別れた恋人から電話がかかってきた場面など、核心となる部分に集中しているのである。ワイドショーがそういう部分を取り上げるのも当然である。
ワイドショーの悪意でないとすると、これは精神医学用語でいう「防衛機制」の働きとしか思えない。たぶん、この著者は、自分の内面をさらけ出すのがたまらなく怖いのだ。だから、まずは論理や知識なんかで作り上げた鎧を身にまとう。これを精神分析方面では「知性化」という(そうだよ、私のこの日記もこれだよ)。しかし、そもそも離婚とか不倫とかいうのは、簡単には知性化できないくらいどろどろした感情的なできごとである。そういう事件について書くとなると、どうしても鎧の中の内面をさらさなければならなくなってしまう。しかしここでも著者は自分の感情に直面するのを避け、慌ててギャグで鎧のほころびを隠そうとするのである。しかし、読者にとっては、なぜそんな深刻な場面でふざけているのかがわからず、どうしようもなく不誠実に見えてしまう。損な性格である。
もし、この推測が正しいなら、この本を書いたのはゴーストライターではなく、郷ひろみ本人ということになるなあ。だって、ゴーストライターなら、直面化を避ける理由なんて何もないのだから。
4月13日(月)
今日から都内の某病院での勤務。けっこう大きい病院だということを割り引いても、やたらと大勢の医者がいる。ひとりひとり紹介されたが、もともと人の顔を覚えるのが苦手な私にはとても覚えられない。まあ、そのうちなんとかなるだろう((c)植木等)。
私の配属された病棟など、古い上に狭くて、ナースステーションの人口密度が異様に高い。ここに一日中張りついているのは、けっこうストレスフルである。まあ、6月に新病棟が完成するまでの辛抱だけど。
夜は渋谷で伊藤典夫師匠との例会。ハワイで買った"Widowmaker"は、レズニックファンのピアノ講師Uさんにプレゼント、伊藤師匠にはリンダ・ナガタ"Bohr Maker"を差し上げる。
栗本薫『ガルムの報酬』読了。あとがきで、外伝14巻は4日で400枚書いて、しかも2ヶ月で1冊書いていたときと内容の質はあまり変わらない、などと自慢しているが、作家がそんなことを自慢してどうするというのだろう。質は変わらないというが、私から見れば最近の栗本薫の作品は、以前に比べてかなり雑になっているように見えるがなあ。
本書108ページにこんな台詞がある。
「中原の平和のため、たつべからざるところであると私からもイシュトヴァーン将軍に申し上げたところですよ」
どう読んでも「たってはいけない」と言っているようにしか読めないのだが、文脈からすると、作者は「たつべきである」という意味で書いているようである。こんなのは一度読み返せばすぐに発見できるミスだと思うのだが。作者は自分の作品を読み返してないのだろうか。
ニフティの方では、イシュトヴァーンたちが滞在している水上宮は、実は30巻あたりで
炎上したはずであるという愉快な指摘もあった。そういえばそうだったなあ。そのあと再建したとでもいうつもりでしょうかね。
執筆スピードを自慢するよりも、もう少し校正に時間をかけてほしいものだ。
"Expiration Date"は31ページまで。なんだか尋常ではない展開で、このあとが楽しみ。伊藤典夫師匠もパワーズにはちょっと注目していて、この本も当然買ってあるとか(読んではいないらしいが)。さすがである。師匠によれば、何でもこの本は"Last Call"に続く三部作の第二部なのだそうだ。うー、そんなことならハワイで"Last Call"を買っときゃよかったなあ。
今日の買い物は、皆川博子
『瀧夜叉』、夢枕獏
『瑠璃の方船』、そしてなんでこんなものがいきなり徳間文庫から出ることになったのかさっぱりわからない(うれしいけど)スティーヴン・マーロウ
『幻夢 エドガー・ポー最後の5日間』。ちなみに原題は「この世の果ての灯台」。こっちの方がかっこいいのになあ。
すまん、今日はとても散漫な日記であった。明日はちゃんと書こう。
4月12日(日)
ミステリやサスペンスのファンだったら、毎月読みきれないほどの新刊が出ているし、海外での話題作はほぼすべて翻訳されると思っていいわけで、新刊を追いかけているだけでも充分楽しむことができる。うらやましい話である(黄金期の本格ミステリが読みたい、とかいうマニアックな好みの場合はまた別だけど)。しかし、SFとなると話は違う。なんせ今の日本ではSFは下火なもので、新刊SF(特に海外)の点数は減る一方。必然的に、おもしろい作品を読みたいとなれば、選択肢は三つしかなくなる。
古本屋で古い作品を漁るか、洋書に手を出すか、あるいは自分で書いてしまうか。
私はこれまで取ってきたのはもっぱら第一の選択。いずれは第三の選択にも手を染めたいけど、これは必ずしもおもしろい作品になるとも限らない。第二の選択はちょっとハードルが高いような気がして今まで避けていたのだが、ハワイの書店で、日本とはあまりにもかけはなれたSFコーナーの充実ぶりに感激し、さらに読みたいのに訳されそうにない本の数々を目の当たりにして、こう思うようになった。――SF者は洋書も読まねば損だ。
日本人でありながらわざわざ洋書を読む人というのは、英語の勉強をするため、という人が多いと思うのだが、私には(そしてたぶん多くのSF原書読みにも)そういう意図はまったくない。私だって日本語で読めるものなら、日本語で読みたいのだ。ただ、読みたい本が全然訳されないから英語で読むしかないのである。もしも早川がつぶれるとかなんとかして翻訳SFが出版されなくなったら、日本のSFファンの英語力はかなり向上することだろう(笑)。(そこまでしてSFを読もうという人がどれくらいいるかはわからないけど)
というわけで、今日も"Year's Best SF 2"から、ジョン・ブラナー"Thinkertoy"と、グレゴリイ・ベンフォード"Zoomers"を読む。"Thinkertoy"は「恐るべき子供たち」のテーマにAI玩具をからめたホラー。"Zoomers"は珍しいバーチャル・リアリティ経済SFなのだが、私にはこの話、どうもよくわからなかった。私の英語力もまだまだである。
並行しておそるおそる長篇にも手を出してみる。大好きな作家なのに最近訳されなくて悲しいティム・パワーズの"Expiration Date"である。500ページ以上ある分厚さに躊躇したが、読み始めてみると、文章は平易で割合楽に読める。今日は18ページまで読んだが、さていつになったら読み終えられるのか。そもそも挫折することなく最後まで行くのだろうか。非常に不安である。
4月11日(土)
デイヴィッド・ハートウェル編"Year's Best SF 2"の中から、テリー・ビッスンの"In the Upper Room"を読む。ゴスペルの女王マヘリア・ジャクソンに同題の曲があるので宗教的な物語かと思ったら、これが全然違う。主人公は妻に逃げられ、同居している母には毎日のように小言を言われている、うだつのあがらない男。エロティックなバーチャル・リアリティの世界に逃避しようとしたところ、VRの中に突然、プログラマーだと名乗る赤い帽子の女が現れる。男は、彼女とともに未完成のはずの最上階の部屋を目指すのだが……という物語。
ストーリーはともかく、主人公のあまりといえばあんまりな情けなさが、けっこう笑える。女が大切な話をしていても「彼女のビキニの紐のラインが好き」とか「前かがみになったときの胸の形が好き」とか、そういうことばっかり考えてるし(アダルトVRなので女性は常に下着姿で登場するのだ)、あるアイテムがあった部屋について質問されているときなど、「窓の外はどんなだった?」「部屋の中には何があった?」などと訊かれても全然覚えてないくせに、「そこにいた女はどんな下着をつけてた?」と訊かれたとたん、立て板に水のごとくしゃべりはじめるありさま。ここまで頭の悪い主人公というのも珍しい(笑)。おもしろかったので、そのうち訳してほしいなあ。
夕方からは有楽町に出て『エイリアン4』の先行オールナイトを観る。さすがは『デリカテッセン』『ロスト・チルドレン』のジュネ監督。前半はさながらフリーク・ショウの趣きで、エイリアンをすっかり自分の世界に引き込んでしまっている。これってテレビ放映できるんだろうか、と心配になってしまうほど。後半になってエイリアンと人間との対決になっていくと、派手ではあるのだが、過去のシリーズのいいとこどりという感じで、ジュネ監督らしさが前面に出てこなくなってしまうのが残念。ただ、エイリアンという映画に1作目から隠されていたエロティックで倒錯的な要素を、初めて正面から取り上げて描いたのはさすが。結末はちょっと納得いかないけど。
次作では、いよいよ地球での戦いか?