こういうのをPOS(Problem Oriented System)、あるいはSOAP形式といって、今ではたいがいの病院の看護婦さんたちはこの方式で記録をつけているはずだ。sはsubjectiveで、患者さんの主観的な訴え、oはobjectiveで客観的症状、aはassessmentで訴えや症状から考えたこと、pはplanで今後の方針であるとか、行った処置などを書く。いかにもアメリカ製らしい合理的記載法である。
今まで私はこの4つをごっちゃにして散文形式でカルテに記載していたのだけれど、今度の病院では医者もこのPOS形式に基づいてカルテを書かなければならないらしい。これが私にはけっこう大変で毎度苦労している。この書き方、精神科には向いてないんじゃないだろうか。
たぶん、これは内科とか外科の方から生まれてきた書き方なんだろうな。それなら、客観的データより主観的訴えをまず最初に書こう、という運動にも意味がある。でも、精神科のような分野だと、もともと患者さんの話を聞くのが治療者の主な仕事なので、subjectiveばかりがやたらと長くなってしまうし、たとえば、患者さんの仕草であるとか、話を聞いたときに治療者の感じた気持ちなどの重要なポイントは、この4分類から抜け落ちてしまうことになってしまう。合理的なカルテ記載法にこだわるあまり、そういうことがカルテから抜けてしまうようであれば、この記載法はマイナスにしかならないと思う。
とはいっても、このPOS形式、ものすごい勢いで全国の病院の看護部に広がりつつあるようで、この流れはもう止めることはできないのだろうなあ。しかし何も医者までがこの形式にのっとってカルテを書く必要はないと思うのだけど。
4月29日(水)
夜はぐっすり眠れたものの、朝っぱらから起こされて救急車で運ばれてきた患者さんを入院させるはめになる。10時に引き継ぎの先生に交替。
帰りに池袋芳林堂に並んでいたレリックの続編を購入。原題は「レリクェリー」だというのに、邦題はというと、つけもつけたり
『地底大戦』(扶桑社ミステリー)。これは邦題の勝利だなあ。あとは、ひろき真冬の表紙に惹かれて、赤城毅
『吼える海流』『凍れる密林』(C NOVELS)を買ってみる。「日本刀と黒魔術の大正冒険活劇浪漫」というあたり、スチームパンク好みの私としては期待大。
いったん家に帰ったあと、上野へケルト美術展を見に行く。どうみても実用性より美しさを重視した装飾の数々。なんだかアールヌーヴォーのようだ……ではなくて、アールヌーヴォーがケルト美術のパクリなのだな。
出品点数が230近くと非常に多いためか、見ているうちに途中からだんだん疲れてきた。私ももう歳なのか、とショックを受けてしばらく休むが、全然疲れがとれない。もう歩くことすらやっとで、倒れないでいるのが難しいくらい。いったいどうしてしまったのか、とパニック状態になりながらも、なんとか最後まで展示を見たあと、さっさと家に帰る。妻は「映画でも観ようよ」などといっているが、私はとうていそんな状態ではないのだ。家に帰るとベッドに倒れこむ。熱でもあるのかと体温を計ってみると37.1℃、大したことはない。
熱はさほどでもないのにこの全身の倦怠感はいったい何だ、と首をひねりながらもしばらく眠ってから夜7時ごろに起きてみると、ものすごい寒気である。背骨や肘、膝など体中の関節が痛む。体温を計ると38.3℃。いよいよ熱が上がってきたらしい。これはどうみても風邪だ。11時ごろもう一度起きてみると、体温39.7℃。咽頭痛、関節痛、頭痛と体中が痛い。食欲も低下しており、せっかく妻がつくってくれたおかゆも、半分くらいしか食べられない。以前病院でもらった風邪薬と抗生物質を飲み、うなじにアイスノンをあてて寝る。病院だと、3点クーリングといって、うなじに加えて両側の腋の下にもアイスノンをあてるのだが、うちにはひとつしかないため、1点クーリング。
自慢じゃないが、私は非常に体が弱い。特に季節の変わり目、気温が不安定で毎日のように上下するときがダメで、そんなときにはすぐに熱を出してしまう。今回は、それに新しい職場に移ったことによる緊張も加わったのかもしれない。
これでは明日は病院を休むしかないな。SFセミナーまでに間に合えばいいのだが。
4月28日(火)
先週に引き続き、今日もまた当直。先週は、病院にはインターネット接続可能なパソコンがないなどと書いてしまったが、実は文献検索用に一台だけあることが判明した。これで思う存分日記が書ける(おい)。
さて、この病院はかなり古い病院である。おかげで、創立時以来改築されていないうちの病棟など、天井は低いは壁は汚いはで大変なのだが、その反面、図書室に古い文献が揃っているのは私のようなビブリオマニアにはありがたい。戦前戦後の興味深い雑誌や本(もちろん、みな医学書だけど)が山のようにあって、まさにネタの宝庫である(何のネタだ)。
この図書室の中でももっとも古いと思われる蔵書が、明治、大正期の
「神経学雑誌」。今年ちょうど創刊百周年を迎えた「精神神経学雑誌」の前身である。ここ十年は誰も開いていないと思われるほこりだらけの本をひもといてみて驚いた。文章がすべて漢字カタカナ混じり、しかも外来語はひらがな表記なのである。タイトルからしてこんな感じ。「ぢあーる竝ニう゛ぇろなーる中毒ニ關スル實驗的研究」とか「ひすてりー性精神異常ノ或型ニ就テ」という具合である。SFに出てくる宇宙人の台詞やら報告書ではお馴染みの表記法だが、本当にこういう書き方が論文が書かれていたとはなあ。この読みにくい表記法、論文だけに使うらしく、雑記のコーナーなどは普通の漢字ひらがな混じりである。
当時はもちろん、精神病に効く薬など影も形もない時代。麻痺性痴呆(梅毒による精神病)とか、嗜眠性脳炎(『レナードの朝』に出てきたあの病気)など、今ではほとんど話題にならない病気が大きく扱われているし、今でいう精神分裂病は、早発性痴呆という古い名前で呼ばれている。麻痺性痴呆の画期的治療法としてもてはやされていていくつもの論文が書かれているのが、
「マラリア療法」。いかにも恐ろしげなこの治療法、その名の通り患者にマラリア原虫を注射してマラリアに感染させ、高熱を出させるというもの。高熱によってどういうわけか梅毒は消え、患者は治ってしまうのだが、当然ながら死亡率も高い、というまさに毒をもって毒を制すとでもいうべき大胆不敵でハイリスク・ハイリターンな治療法なのである。
おどろおどろしい病名が並ぶ論文ばかりなのだが、どうしたわけかひとつだけほのぼのしたタイトルの論文があった。大正14年3月号に掲載されている
「睡眠不足ノ實驗的研究」。著者は東京府立松澤病院研究室の岡崎昌醫學士。一見、かわいそうなバイト学生を何日も眠らせずにおいて、生理機能やら知的能力やらの変化を調査した実験のように思えたのだが、それは大間違い。私は、大正時代を甘く見ていたのであった。これは、ほのぼのとしたタイトルとは裏腹に、なんとも恐ろしい論文だったのである。
実験の方法は以下のような具合。なお、原文のままだと非常に読みにくいので、カタカナはひらがなに改め、また漢字は適当にかなに開いた。
横1メートル、奥行60センチの犬小舎の床に犬の脚がわずかに立てられるくらいの間隔をおいて、尖端を上へ向けて三寸釘を一面にうつ。四方の側壁にも、床から犬の高さくらいまでの間は、尖端を内側へ向けて釘をうっておく。犬はこの中へ入れられると、臥位をとることができず、従って眠ることができない。また、側壁によりかかって眠ることもできない。
見ての通り、犬好きの人なら悲鳴をあげかねないような実験なのである。こんな実験、現在では絶対に許されないし、やったとしても雑誌が受理してくれない。実験はさらに続く。
実験3と4は筋肉の疲労を少なくする目的で釘のうってない小舎に入れ、その代わり裏に釘のついている首環をはめてこれを天井に吊るしておいた。すなわち犬は臥位をとることはできるが、眠りかけて頭を下げると首環の裏の釘が、首にささるという仕掛けである。この装置でも漸次疲労してはいくが、あるところまでいくと痛覚が鈍って、かまわず眠るようになる。そういう場合には釘のある小舎に移した。釘の小舎でも立ちながらあるいは側壁にもたれて、実験の末期においては床の上にもしばらくの間は眠ることがある。しかしだんだん釘が痛くなるので長くは続かない。このようにして長い間には皮膚に幾分の傷ができるけれど、毎日ヨードホルム、デルマトール等を散布して化膿を防いだ。
小舎と首環の写真が載っているのだが、説明がなければ中世の拷問具にしか見えない。しかし、著者はあくまで淡々と、実験の経過を語っていく。
実験犬第一号 メス 生後約1年と思われるもの、毛色全身黒色。
はじめ1週間毎日米飯500グラムを与えたところ、体重は7125グラムから7950グラムに増加した。体温は38ないし39度の間を往来する。(中略)3月3日から試験用の小舎に入れたところ漸次衰弱、3月19日に死亡したが、その間14日から15日の間一昼夜は休息したから実験期間は14昼夜半である。その間体重は次第に減少し死亡当時は5100グラムで、実験開始当時の32%減少し、体温は12日目からやや下降し、死亡前には非常に下降した(34度)。(中略)身体の削痩とともに脱毛がはなはだしく、死亡2日前から胸部、頚部の毛が逆立ち、かつ筋肉のちく搦(けいれん)が認められ、階段を上るに困難な様子であったが、その以前には特に四肢の筋肉が疲労している様子はなかった。死亡3日前から瞳孔の対光反射がやや緩慢であったが、心音には変わりはない。角膜、結膜が乾燥して末期には軽度の炎症を起こした。動物の精神状態の変化を察知することは非常に困難であるが、だんだんおとなしくぼんやりしてきて、5日目ごろから見慣れた人を見ても尾を振るとかじゃれつくようなことをしなくなった。しかし特に凶暴になって吠えかかったり噛みついたりするようなことはない。食物をやる人はよく覚えているようで、また連日食物をやる前に体重、体温を計ったが、よく順序を覚えていて自ら進んで秤の方へ行った。
最後の一文が泣ける。淡々とした文章のかげに隠れた著者の想いがかいま見えたようでほっとしたのだが、著者がいくらか感傷的になったのはここだけ。対照犬第一号、第二号の説明をしたあと(当然この犬たちも頚動脈を切られて殺されたわけだ)、犬たちの病理解剖所見が延々4ページにもわたって延々と続くのである。
当時、こういう実験はそう珍しいものではなかったらしく、大正14年12月号の「一酸化炭素中毒ノ腦変化ニ關スル實驗的研究」という論文では、一酸化炭素を送り込まれた箱の中にいる犬が死に至るまでの様子を、くどいほど細密に描写している。
なぜこんな残酷な実験を、と訊かれたら、著者はおそらく「科学の発展のため」と答えただろう。科学の発展の前には犬の苦痛など些細なこと、そう言い切れた時代だったのだろう。
さらに、精神医学誌なのだから当然ながら、この雑誌には実際の症例を取り上げた論文も載っている。それほどプライバシーに気をつかっているようでもないし、あろうことか患者の顔写真(目線なし)まで載せている論文まである。これも今では考えられないことだ。これも、プライバシーなんぞというものよりも科学が優先するということなのだろう。
つまり、これは、科学が今よりもずっと傲慢だった時代の論文なのだ。科学者たちは、いつか科学がすべてを解き明かすのだと自信を持って信じ、そして実際、次々と新しい発見がなされていた時代。科学に洋々たる前途が広がっていた時代だ。
未来への希望に満ちたいい時代だったのかもしれないし、科学の名のもとにとんでもない暴力が行われていた時代なのかもしれない。
たぶん、両方とも正しいのだろう。
4月27日(月)
やっぱり時間がないので今日はクレッチマーの話は中止。いつか暇なときにでも書くことにする。
さて、今日は伊藤典夫先生と例会。会が終わったあとは新宿歌舞伎町の「台南」で飲む。なんの気なしに入った店だったのだが、けっこう有名な店のようで、錚々たるメンバーの色紙が飾られている。藤子不二雄A、北見けんいち、スクリーミング・マッド・ジョージ、田中小実昌、趙治勲、小林光一などなど。料理も非常にうまいし、店主のオヤジのキャラクターも強烈(テレビドラマに出るんだとか言ってたなあ、何に出るんだろう)。なかなかいい店である。
さて、今日の購入本は、ウィリアム・C・ディーツ
『戦闘機甲兵団レギオン』、ブリジット・オベール
『ジャクソンヴィルの闇』。両方ともハヤカワ文庫。
さらに、病院のE先生が勧めていたイアン・ハッキング
『記憶を書きかえる』(早川書房)を購入。著者の名前がハッキングで「記憶を書きかえる」というタイトルではなんだかゲテモノのようだが、実は多重人格の歴史を批判的に検証した非常に良心的な本である(E先生の受け売りだが)。
この本の翻訳者は中央大学経済学部の北沢格助教授なのだけど、この名前、どこかで聞いたことがあると思ったら、
「1989年版このミステリーがすごい」国内編で38位に入った
『外道士流転譚』(光風社出版)の作者ではありませんか(喜多川格名義。なんと、隆慶一郎『一夢庵風流記』と同順位である)。しかしどうしたわけか(恥ずかしいからかな)この本のことは、訳者略歴にも一切触れられていない。なんでこんなマイナーな本のことを私が知っているのかというと、実は北沢先生、私がかつて所属していた
新月お茶の会の先輩なのであった。そしてもちろん、「このミス」で『外道士流転譚』に投票したのはうちの会だけだ(笑)。
最近、作家として活動してないと思ったら、学者になってたんですね、北沢先生。しかも助教授かあ。えらくなったものだなあ。訳者あとがきを読んでみると、謝辞を述べている早川の編集者のK氏もまた、新月お茶の会出身者ではないか。ライバル(と一方的にこちらが見なしていた)東大SF研ほど派手ではないが、お茶の会人脈も、地道に着々と地場を固めているのかも(SF界とはちょっと離れたところでだけど)。
4月26日(日)
精神医学ってのは、けっこうドグマが多い分野である。厳密に証明されたわけでもないのに、疑うべからざる真理として通用しているテーゼがやたらと多くて、精神科医である以前にSF者である私には、いらだたしいことが多い。
例えば精神分析でいう「イド」や「超自我」なんかがその最たるもの。誰もイドの存在を証明した人はいないし、証明が可能とも思えない(その意味で、精神分析は科学じゃない、という批判は当たっている)のだけど、便利な仮説なので今にいたるまで使われてきていて、本当にそういうものが存在するかのように書かれた書物は山ほどある。私としては、どれほど便利だろうが、あくまで仮説にすぎない(しかも証明不可能な)と思うのだけど。
精神分裂病とかうつ病とかの患者には、発病する以前から特徴的な性格がある、という「病前性格」ってのもドグマのひとつ。
うつ病の病前性格として精神病理の世界で広く知られている性格特徴が
「メランコリー型性格」。秩序を愛し、仕事熱心で他者への配慮が強く、几帳面で仕事熱心。こういう性格の人はうつ病になりやすい、と1960年にドイツのテレンバッハ先生が言い出すと、ドイツと日本では瞬く間に広まり、今では日本の精神医学界ではメランコリー型性格とうつ病との関係を疑う医者はまずいない。私も、研修医時代にテレンバッハ先生の『メランコリー』(みすず書房)という本を読まされましたよ。名著だから読め、と言われてね。
日本ではそれほどまでに有名なこのメランコリー型性格だが、英米ではまったくといっていいほど知られていない。まあ、理由はわかるような気がするけど。ちょっと前の日本じゃまさに理想とされたような性格だけど、アメリカなどではあまり関心を呼びそうにない性格だからなあ。
テレンバッハという人は理論家であって、メランコリー型性格とうつ病との関係を統計学的にきちんと調査したわけではない。しかし、このメランコリー型性格、日本の精神医学界では長年疑うべからざるドグマとして君臨してきたのである。どういうわけか、厳密に調査しようとした人はあまりいないし、たとえ調査したとしても、メランコリー型性格がうつ病の診断基準のひとつになっている日本では、当然メランコリー型の比率が高くなることだろう。
ようやく統計学的に厳密なやり方で、メランコリー型性格とうつ病の関係が調査されたのはごく最近のこと。結果はというと、なんと、
メランコリー型性格とうつ病の間にはまったく関係がない、というものだった。ドグマは根拠を失ってしまったわけだ。
いやあ、これはなかなか爽快である。日本でのうつ病の精神病理学ってのはテレンバッハの業績の上に築かれてきたといってもいいくらいなのである。それが、この結果によってすべてひっくり返されたわけだ。といっても、一般の人にとってはぴんと来ないだろうが、これは物理学界でいえば、相対性理論がひっくり返されたようなものなのだ(もちろん、今後の追試が必要であり、その結果によってはメランコリー型が復権する可能性もあるけど)。金科玉条のようにテレンバッハを引用していた学者が何というか見たいものだ。
明日はもうひとつのドグマであるクレッチマーの性格分類について書こうかと思うのだけれど、帰りが遅くなる予定なので書けないかも。
4月25日(土)
『ジャッキー・ブラウン』を観に有楽町へ。しかし、着いてみると映画は始まったばかりだったので、まずすいていそうな
『グッド・ウィル・ハンティング』を観ることにする。どういう話なのかまったく先入観を持たずに観たのだが、これが
ラマヌジャンの再来と言われる天才的な数学の才能を持つ青年の物語。青春ドラマにまさかラマヌジャンの名が出てくるとは思わなかった。しかもこの青年、酒鬼薔薇君と同じ直観像素質者で、経済学から芸術まで、あらゆる分野の知識をたちどころに引用できる。なかなかそそられる設定である。
しかし、彼は才能がありながら孤児であるため大学にも行けず、肉体労働をして働いている。どうもアメリカには、こういう市井に埋もれた天才、というファンタジーの類型があるようだ。肉体労働の傍ら、図書館で万巻の書を読んで勉強してきた、ということらしいのだが、仕事が終われば毎日のように友達と飲み歩いているようで、全然本を読む時間などなさそうなのだがなあ。
中盤からはロビン・ウィリアムズ演じる精神科医が登場して青年の心を開いていく、という話になるのだが、ここはちょっとつっこみが浅め。精神科医も実は虐待された経験があったっていう設定はどうかなあ。同病相憐れむといった形でクライアントの心を開かせるというのは、精神科医としては敗北だろう。そのほか、精神科医自身の過去の問題とか、まるでサリエリとモーツァルトのような数学教授の青年への嫉妬とか、いろいろと描くべきところはあるだろうに、すべてあっさりと流されてしまっているのが不満。
さらに、天才の孤独と虐待された孤児の孤独を、故意に混同してしまっていて、ラストでは主人公の天才性なんてのはどうでもよくなってしまう。これは一種の逃げだと思うのだけど、まあ、天才の孤独を理解したり感情移入したりするのは難しいから、これはこれで映画作りの戦略としては正解なのかも。
主役のマット・デイモンは脚本も書いており、この作品でアカデミー脚本賞受賞。「ちょっといい話」だとは思ったが、私としては、アカデミー賞に値するとは思えなかった。
そういえば、スタッフロールの最後に、「アレン・ギンズバーグとウィリアム・バロウズの想い出に」と出たのはいったいどうしてなんだろう。この映画のどこがバロウズと関係が?
さてその次にようやく『ジャッキー・ブラウン』を観る。『レザボア・ドッグス』『パルプ・フィクション』は割合好きなのだが、今回は全然ダメ。オールナイトの上映中、寝ずにいるのに苦労した。タランティーノの面白さというのは、時系列をわざとずらした構成の妙と、バラバラだった物語がラストに至ってピタリとはまるところだと思うのだが、今回の映画では時間のずらしもほとんどない単調な構成で、こうなるとタランティーノの映画は単にテンポが悪くて冗長なだけでまったく面白くもなんともない。
いつものタランティーノのように時間をぐちゃぐちゃにすれば何とか見られた映画かもしれないが、こうやってシンプルな構成になってしまうと、ストーリーのどうしようもない単純さがすけて見えてしまって退屈なだけである。
憧れのパム・グリアに主演してもらったうれしさに、タランティーノは自分を見失ってしまったんじゃないだろうか。そういやあれほど出たがりのタラちゃん本人が、今回は出ていなかったなあ。
4月24日(金)
自堕落でオタクな精神科医の私であるが、こんな私でも、もし週刊誌に載るようなことがあれば、こう書かれることになるのだろう。
「エリート医師」(笑)。
なんだか馬鹿にされているような響きだが、一度くらいはそう呼ばれてみてもいいような気もする。
そんなふうに知人に話したところ、彼女は首を振ってこう言った。
「エリート医師になるためには、まず犯罪者にならなければならない」
そういえば、「お手柄エリート医師人命救助」とか「エリート医師環境保護を訴える」とかいう見出しは見たことがない。エリート医師ときたら、必ずその後に来る言葉は「転落」である。「エリート医師」は「転落」の枕詞なのだ。なかなかエリート医師になるのも難しい。
「美人OL」もそうだなあ。美人OLは人助けをしたり新製品を開発したりしてはいけないようだ。美人OLと呼ばれるには、まず死体で発見される必要があるのだ(最近は犯人として登場することもあるかも)。
両者の共通点は、エリートと転落、美人と殺害といった落差の大きさ。この落差が大きいほど、記事としてインパクトがあるというわけだろう。一度持ち上げておいて落とす、というまるで
二階に上げて梯子をはずすような書き方である。だから、エリート医師が人命救助をしても記事にはならない。逆に世間的に地位の低い人たち、たとえば茶髪女子高生(別に、女子高生を貶める意図はない)が人命救助をすれば、これは記事になる。
つまり、職業や身分に対する世の中の偏見をうまく利用した見出しなのですね。目を惹くためには何でもやる、ということなのだろうけど、こういうのが偏見をさらに助長していると思うのだけどなあ。さらに気になるのは、「エリート」も「美人」も、医師やOLの職業上の能力とは全然関係がない、ということ。もし、「エリート」とか「美人」とかいった基準で医師やOLの価値を計るんだったら、それはとても貧しいことだと思うのだけど。
まあ、何にせよ、私は今のままではエリート医師にはなれないことがわかった。私がエリート医師になるためには、まずは妻を殺して横浜港に沈めたり、女性患者に手を出してビデオに撮ったりしないといけないようだ。
エリート医師への道は遠い。
夜は久しぶりに森下ワークショップの飲み会へ。そのとき、「
シンジとカヲルの本番ビデオがある、とFRIDAYに載っていた」という話題が出たので、いったいどんなものかと思って帰りにコンビニで立ち読みしてみたら、「シンジと
アスカの海賊版アニメ」ではないか。つまらん。「宮村優子のAV」には確かに驚いたが、その後の「岩男潤子は元セイントフォー」とかこれとかは、全然意外でも何でもないぞ。よくこんなものを記事にできたものだ。
4月23日(木)
以前の病院に、精神分裂病で入院している若い男性患者さんがいたのだが、この人の愛読書が
『ムー』(笑)。何度もナースステーションにやってきては、UFOの話だのUMAの話だのをしてくれる。そういったトンデモな話の中に「好きだった女性の声が聞こえる」など幻聴やら妄想やらの話が混じっていて、渾然一体となっている。聞いている分にはけっこうおもしろいのだけど、なんせ一日のうちに何度も何度もやってくるので、看護婦さんたちには邪険に扱われてしまっていた。
この人のUFO話を妄想だととらえている医者もいたのだけど、私には、この人の話はごくごくオーソドックスなUFOマニアのもので、別に妄想だとは思えなかった。この人は単に、『ムー』の記述を鵜呑みにしているだけなのだ。これを妄想というのなら、NIFTY-SERVEのFMISTYにあるUFO会議室の人たちなんて、みんな妄想症患者になってしまう(もちろん、私は彼らの信念を妄想だとは思ってませんよ、為念。ただ、中にはそういう人もいるかもしれないけど……)。
もちろん、いくら私個人からみて奇異に思えることを信じているからといって、それをすぐに妄想と断定することはできない。DSM-IVの精神分裂病の診断基準には、
「奇異な妄想(すなわち、その患者の属する文化圏では全く信じられない現象、例えば思考伝播、死者に支配される、など)」とあるのだけど、これはけっこうたいへんな基準である。つまり、奇異な妄想があるかどうか診断するには、
患者の属する文化圏について知る必要があるというのだから。……例えばハイチだったら「死者に支配される」ことを信じるのも別に奇異じゃないかもしれないし。
同じ日本でも、現代のようにサブカルチャー(=下位文化圏)が同居している時代になってくると、「その患者の属する文化圏」を知ること自体、けっこう難しい。水のバプテスマを信じることも、ゲームキャラに萌えることも、知らない人にとっては「奇異」かもしれないけど、それらが全然奇異ではない文化圏もあるわけで、これを知らないと妄想でもなんでもないものを「妄想」と誤診してしまいかねない(M君は大丈夫だったのかな)。
そうならないためには、精神科医にはさまざまなサブカルチャーの知識が必須なのである……と思って、私は日夜SFを読んだりマンガを読んだりしているのだ(笑)<全然「さまざま」なサブカルチャーではないぞ。
『ダウンタウンDX』に、なんだか憔悴しきったような親父が出ていると思ったら、これが岸部四郎。なぜ今、岸部四郎がバラエティに?と思ったら、「3月26日に収録したものです」とテロップが出た。なるほどねえ。しかし、事件発覚前だとしても、岸部四郎って無愛想だししゃべりもつまらないし、全然バラエティ向きではないと思うのだが、なぜキャスティングしたのだろうか。
ゲームの合間、トークの時間になったのだが、このトークのテーマが
「今日のメンバーの中で金を借りるとしたら誰に借りるか」というもの。いやあ、タイムリーというかなんというか。もちろん、岸部四郎に金を借りたいと思ったゲストは皆無。岸部四郎は誰に金を借りたいのか知りたかったのだが、放送されず残念。
結局最後までいかにも嫌々ながらゲームに参加していた岸部四郎だが、驚いたことに優勝してしまったのだった。でも全然うれしそうではなかったなあ。
4月22日(水)
夕べ日記を書いて更新しようとしたら、プロバイダがメンテナンス中とかでつながらない。というわけで、今日は3日ぶりの更新。
奥歯にかぶせてあった詰め物がはずれてしまったので、歯科に行く。歯医者に行くのは3年ぶりくらい。当然、引っ越してからは初めて。うちの近所にはやたらとたくさんの歯科医院があるが、すいているだろうと思い、開業したばかりの新しい歯医者に入ってみた。
金属を詰めなおしてもらうだけのつもりでいたのだが、診察を受けてみるとあるわあるわ、たちまちのうちに6本以上もの虫歯を発見されてしまった。もちろん私だって虫歯があることくらいはわかっていた。だんだん歯と歯の間が黒くなってきていたし、ときどき水がしみる歯もあったが、それほど痛むわけでもないので、今までは極力
見ないことにしてきたのだ。しかし、ついに今、これまで目をそらしてきた現実に直面するときがきたのである。
次の表が、歯医者さんがくれた紙に書いてあった私の歯のありさま。私はC1、C2くらいしかわからないが、歯に詳しい人が見ればどんな状態なのかわかるはず。私としては「エステニア」という旧ソ連から独立した国のようなものが何なのかちょっと気になる。