ホーム 話題別インデックス 書評インデックス 掲示板
←前の日記次の日記→

5月20日(水)

 殺人を犯した作曲家、といって思い浮かぶ名前はあるだろうか。
 作家では、永山則夫にウィリアム・バロウズ(これは事故?)、と何人か名前を挙げることができるけれど、作曲家となるとおそらく音楽史上にただひとりしかいない。バッハより遥か以前のルネサンス期の作曲家なので、一般にはほとんど知られていないけど。
 カルロ・ジェズアルド(1561-1613)。ナポリ近郊の小国ヴェローサの領主である。妻であるマリア・ダヴァロスの不義を知った彼は、怒りに任せて妻とその愛人を殺害、その後亡命と放浪の生活を送る。そんな暗い過去のせいか、ジェズアルドの音楽は、半音階と不協和音を多用した、当時としては異色で斬新な声楽曲ばかり。曲のタイトル(というか、詞の一行目)も「ああ、苦しみを今ぞ知る」「見よ、私は死ぬだろう」「私のため息よ去れ」という具合で、ひたすら愛の不毛を歌っている。
 ジェズアルドの曲は、まるで暗い情熱に突き動かされて書かれたような音楽で、美しいメロディの中に突然不協和音が現れたりして、どこか不安をかきたてるような曲調である。初めて聴いたときはあまりにも当時の普通の声楽曲と違うのでどうも違和感があったのだが、聴きこむと思わず引き込まれてしまうような魅力がある。
 退廃とマニエリスムの作曲家、ということでいかにも澁澤龍彦が好みそうな人物だと思ったのだが、澁澤龍彦は文学や美術には詳しいのだが、音楽にはそれほど詳しくなかったようで、ジェズアルドについて書いた文章は見つからなかった(あくまで、私の調べた範囲で。澁澤龍彦全集は持っているのだが、とても全部調べることはできなかったので)。
 ジェズアルドの作品では、ヒリアード・アンサンブルの2枚組のCD「テネブレ」(聖週間のためのレスポンソリウム集)がお薦め。私の愛聴盤です。
5月19日(火)

 終日37℃台の微熱が続く。なんでまた今月はこんなに体調が悪いのか。早く帰って寝たいところなのだが、今日は当直なのでそうもいかない。
 このところあまりにも調子が悪いので、先週血液検査をしてみたのだが、その結果を見てもほとんど異常がなく原因不明。唯一異常値を示したのが中性脂肪で、正常値は40-160mg/dlなのだが、私の値は358。要するに肥満ということですね、これは。まあ、太っているということは前からわかっていたが、ここまで数値ではっきりあらわれてしまうと、けっこうショックが大きい。これは本気でダイエットせねば。まずは、70kg台前半を目指すか。
 当直中に図書館の本などを参考にして書いておきたいネタもあったのだが、そういうわけなので日記は書かず早めに寝てしまう……といっても、夜中に起こされること2回。この病院の当直はなかなか寝かせてもらえないのだ。それで明日も平常通りの勤務なのはけっこうつらいのだが、医者はどういうわけか看護婦と違って当直明けも休みにはしてもらえないのだ。
5月18日(月)

 うちの病院でもようやくこの秋からオーダリングシステムを導入することになった。オーダリングシステムってのは、薬の処方や検査の指示なんかを、すべて端末で行うシステム。これで、わざわざ紙の処方箋を書かなくてもよくなるし、前回と同じ処方ならもう一度書き写す必要はなく、マウスを1つクリックするだけで処方箋がプリントアウトされるようになる。
 とはいっても、便利になるのはその辺までで、朝昼晩で薬の錠数が異なるような処方はかなり面倒になるし(今までなら、たとえば夕食後だけ2錠出すような場合は、「4T(1-1-2) 3x食後」と書けば済んでいた)、錠剤を粉砕して出してくれ、とか特別な指示もしにくい。要するに、一度コンピュータを通すことになるので、イレギュラーな処方がやりにくくなるのだ。
 結局、オーダリングシステムが導入されて仕事が楽になるのは事務の人たちだけで、医者にとってはあんまりメリットはないような気もする。
 さて、このシステムには愛称がついているのだが、その名前を聞いて、私は呆れかえった。
 その名は「HAPPY」
 精神病院でハッピー。これは何かのブラックジョークなのか、と私は一瞬本気で疑ってしまった。しかし、よく見るとどうもジョークでも何でもなく、大真面目なネーミングであるらしい。
 永野のりこの4コママンガに、新しい病院の名前の候補として(1)お花、(2)くるくる、(3)ハッピーエンドのどれかひとつから選びましょー、というネタがあったのを思い出してしまった私である(このマンガを読んだあと「花クリニック」という病院が実在するのを知って衝撃を受けたのはまた別の話)。
 なんでも、"Heartful system, Advanced system, Profitable system and Package system for You"なのだそうだが……こじつけにもほどがあるぞ。特に"for You"というあたりがものすごく嫌。
 処方の書き方に融通が効かなくなるのは仕方がないから我慢するけど、お願いだからこのネーミングセンスだけはなんとかしてくれないかなあ>東芝。

 スティーヴン・ミルハウザー『三つの小さな王国』読了。本当に久しぶりに本読み千年王国に感想を追加。
5月17日()

 今日は妻とともに西新宿にダイニングセットを見に行く。
 しかし、実は私は家具の店が嫌いである。別に昔から嫌いというわけではない。かつて私は家具屋の店員にハズカシメられたことがあるのだ。

 あれは数ヶ月前(そのときからダイニングを探しているというのにいまだに買ってないあたり、我々のだらけぶりがよくあらわれている。テーブルなしにどうやって食事をしているかというと、折りたたみのちゃぶ台を使っているのだ)やはり妻とともに秋葉原のヤマギワ・リビナ館に行ったときのことだ。北欧製の白木の椅子を見ていると、店員がやってきた。若い男性の店員は少しその椅子について説明したあと、我々にこう訊いたのだった。
――Yチェアをご存知ですか?
 Yチェア? なんだそれは。椅子の名前なのか。「いや、知りません」と我々が答えると、店員は確かに唇をゆがめ、我々を見下したように嗤ったのであった。
 Yチェアも知らないで家具を買いに来るとは、この田吾作め。顔を洗って出直してきな。何も言わなかったが、彼の目は確かにそう語っていた。なぜ家具屋に来て店員に蔑まれねばならんのだ。私に何の落ち度があるというのか。私は、それ以来家具屋を憎むようになったわけだ。
 ちなみに、Yチェアってのはなんでも北欧の有名なデザイナーが作った椅子らしい。なかなか家具の世界も奥が深いものだ。

 結局、西新宿では妻のお気に召すダイニングは見つからず、何も買わずに帰ってくる。帰りには南口そばにある「カフェ・ハイチ」というけっこう有名な店でハイチ料理を食す。ハイチというから、ゾンビの唐揚げとか蛇の黒焼きブードゥー風とかそういう料理でも出るのかと思ったら(出ないって)、出されたのはごく普通のドライカレーにチキンシチュー。あんまりエスニックな感じはしないなあ。
5月16日()

 ウェブ版の新聞によれば、中央薬事審議会で脳循環・代謝改善剤の再評価が行われ、4種類の脳循環・代謝改善剤に「有効性が認められず、承認取り消しが必要」との結論がまとめられたそうだ。これで、アバン、エレン、セレポート(別名アルナート)、ヘキストールの4種類の薬が、姿を消すことになる。
 やっぱりなあ。こういう薬は主に老人の脳血管性痴呆の患者さんに投与されているもの。私が処方したことのある薬もいくつか混じっている。でも、実のところその効果はというと、うーん、と首をかしげるしかないのですね。実のところ、こういった薬によって患者さんの痴呆が見るからに改善した、という経験は私にはない。効いたとしても、なんとなく少し徘徊が減ったような気がする、という程度。これも、同時に投与した睡眠薬の効果かもしれず、脳循環・代謝改善剤単体の効果はというと、ほとんど気休めに近い、というのが私の印象である。
 まあ、もともと痴呆の進行を抑えたり症状を改善させたりする薬は、いまだに開発されておらず(できたらノーベル賞ものです)、脳循環・代謝改善剤ってのは、感情の爆発や徘徊など痴呆のうちのごくごく限られた症状を抑える薬ということになっているのだが、それにしても効果があいまいである。本当に効いてるんだろうかと疑問を感じながらも、先輩医師たちのやっている通りに処方箋を書いてきた。効くかどうか疑問のある薬を処方しつづけてきたというのは、医師としての責任に欠ける行為だったかもしれない。その点については弁解の余地はないなあ。
 脳循環・代謝改善剤はこの4種類以外にもたくさんあり、今も盛んに痴呆患者に投与されている。これらがどうなるのかが今後の見物である。私の経験では、「これは効く」と実感できた薬はひとつもないのだけれど(あくまで、私の乏しい老人医療経験からの話)。
 製薬会社は「さらに臨床試験を続ければ効果が確認できる」などと主張し、調査会の委員の中にも「突然投薬を中止すれば混乱が起きる。薬が広く使用されている臨床現場の事情を考慮するべきだ」などと言っている人もいるようだが、これはどう考えても本末転倒。効かない薬は中止するしかないでしょ、やっぱり。

 製薬会社は「臨床試験を続ければ」って言ってるけど、この臨床試験の制度にもけっこう問題がある。臨床試験ってのは、もちろん病院で行われる。製薬会社から何人かの患者さんにこの薬を投与してほしい、と病院に依頼があり、ノルマを果たせば見かえりに病院に寄付がある、という仕組みになっているのだ。もちろん、ちゃんとした試験なら二重盲検法で行われるので、製薬会社に有利な結果が出る、というわけではないのだが、癒着が生じやすいのは確か。製薬会社は病院に、病院は製薬会社にとお互い依存しあう構造になっているのですね。じゃあどうすればいいのか、といわれると、これという代案は思い浮かばないのだけれど。

 深夜にBSでリヒャルト・シュトラウスの『サロメ』をなんとはなしに見る。題材に比べ、R・シュトラウスの音楽はロマン派的すぎて好きではないし、衣装も振り付けもなんだか野暮ったいのだけれど、「7枚のヴェールの踊り」ではサロメ役の歌手が本当に全裸に! これにはびっくり。それとも、最近じゃ普通の演出なんですか、これは。いや、別に中年の痩せた歌手の裸を見てもうれしくはないけど。
5月15日(金)

 妻がどうしたわけか、今になって『BRAIN VALLEY』を読み始めた。上巻を読み終えたところで、何を思い出したのかふっと遠くを見るような目になってため息をつき、ふいに「あれは中学1年生のころ、いや、小学校6年生のことだったかも」と、思い出話を始めた。

 小学6年生だった妻は山口市内の本屋に赴き、おそるおそるこう言ったのだという。
「あの……洋書を注文したいんですけど」
 もちろん生まれて初めてのことだ。そこまでして読みたいと思ったその本の著者は、ケネス・リング。『BRAIN VALLEY』にも登場する臨死体験の研究者である。当時愛読していた『ムー』に紹介されていたので強烈に読んでみたいと思ったのだそうだ。平井和正ファンで『ムー』を愛読する小学生の女の子。あんまり友達になりたくないかも(笑)。
 少女は、『ムー』に書いてあったとおりのタイトルと著者名、出版社を書店員に告げた。地方の書店のこと、たぶん、本屋さんの方でも、こんな注文を受けるのは初めてだったのだろうなあ。
 何週間かの間、彼女はいつ本が届くかとわくわくしながら待っていたのだが……しばらくののち、その本屋からは、「出版社に問い合わせてみたのですが、そのような本はないとのことです」という冷たい返事が返ってきたのだった。
「あのとき本が手に入っていれば、たぶん留学してたのに」と残念そうに妻はいう。おいおい、どこに留学するんだ、どこに。
「コネチカット大学かどこかで、心理学の勉強をしてた」。そりゃ、心理学でも、「超」のつくやつだろう。
 しかし、雑誌に紹介されていたからといって、いきなり洋書を注文してしまう小学6年生というのも、すごいものがあるなあ。しかもケネス・リング。もし届いていれば、留学はしてないまでも、立派な洋書読みになっていたかもしれない。
 なお、ケネス・リングのその本はそれから7年くらいして邦訳されたが、そのときには妻はそういうのをハナから馬鹿にしていて買いもしなかったそうだ(笑)。
 うーん、おそるべしわが妻。いったい、このほかに私の知らないどんな過去が隠されているのだろうか。
5月14日(木)

 ちょっと前にスティーヴン・マーロウの『幻夢――エドガー・ポー最後の5日間』を読み終えたところなのだけれど、森下一仁先生の5月13日の日記によれば、この作者、またの名をSF作家ミルトン・レッサーというそうだ。おお、あのミルトン・レッサー、とポンと膝を打てないあたり、私もまだまだ若輩者だ。森下先生のページには、『ロケット練習生』『第二の太陽へ』『宇宙大オリンピック』などというジュヴナイル作品のタイトルが挙げられているが、見事に全部聞いたこともないタイトルである。
 1950年デビューというから、かなり執筆歴の長い作家だったんですねえ。私は全然知りませんでした。
 ただ、最近のスティーヴン・マーロウについては、奇妙な歴史幻想小説の書き手としてちょっと注目していたところなので、少し補足できる。森下先生のところに紹介されている以外では、『ドン・キホーテのごとく』(文藝春秋)という作品が邦訳されていて、これまた、セルバンテスの自叙伝の中に「ドン・キホーテ」の作中人物や、シェイクスピア、エリザベス1世といった同時代の人物たちがからんできて……という、とんでもない話。この作家、よほどこういうテーマが好きとみえる。
 さて、肝心の『幻夢』はというと、ポーの伝記と幻想が次第に入り混じっていき、ドッペルゲンガーのテーマが執拗に反復され、果てはオーギュスト・デュパンやアレクサンドル・デュマまでが登場して、隕石から作られ謎の力を秘めた神像のかけらを探す話へとなだれ込む……と、ひとことで紹介してはなんだか全然わからないような奇怪な幻想小説。
 なんでいきなりこの作品が文庫で(しかも徳間文庫で)出たのかさっぱりわからないのだけれど、今までの作品がハードカバー上下ばっかりだったので、これはお買い得。マーロウ入門篇にはぴったりの小説だろう。
 かなり読む人を選ぶ小説だから、つまんなくても責任は持てないけど。

 さて久しぶりに今日買った本の報告。旧作の復刊に力を入れているハルキ文庫からは、連城三紀彦の花葬シリーズの集大成『戻り川心中』と、鮎川哲也編『怪奇探偵小説集(1)』。前間孝則『亜細亜新幹線』(講談社文庫)。ジョージ・ドーズ・グリーン『ケイヴマン』(ハヤカワ文庫NV)、ジェフリー・ディーヴァー『眠れぬイヴのために』(ハヤカワ・ミステリ文庫)。今月のハヤカワ文庫は文庫落ちが多い。
 中公文庫で刊行が始まった新しい谷崎潤一郎選集全12巻は、「怪奇幻想倶楽部」とか「犯罪小説集」「分身物語」などという巻があってなかなか楽しそう。まずは第1巻『初期短篇集』を買ってみる。
 ぱらぱらと中公文庫をめくってみると、はさみ込みチラシが。なんと、橋本治『双調平家物語』全12巻10月刊行開始だそうな。源氏の次は平家ときたか。うーん、あざとい。しかし、『窯変源氏物語』全14巻を買ってしまった私だ。買ってしまうんだろうなあ。
5月13日(水)

 駅の売店の前を通りかかったら、夕刊紙の見出しに「人気漫画家首つり自殺」とある。ふだんは夕刊紙など買うことはないのだが、気になって買ってしまった。読んでみると、自殺したのはねこぢるらしい。個人的にはhideの100倍はショックである。しかし、ねこぢるを人気漫画家とよぶのはちょっと無理があるのではないか。

 この間から『地球最後の日』(創元SF文庫)を読んでいるのだが、これが退屈でなかなか進まない。古さゆえの冗長さや差別意識が気になって仕方ないのだ。単なる株式仲買人の主人公が、単に科学者(の娘)と個人的な知り合いだったというだけの理由で、地球脱出船のクルーになってしまうというのがどうにも不思議。こんなんやめて『グランド・ミステリー』でも読むかなあ。でも、私はいったん読み始めたら最後まで読まないと気が済まない性分だしなあ。
 10代とか20代前半のころは、このいったん読み始めた本はどんなにつまらなくても最後まで力技で読みとおす、という信念のおかげで忍耐力とか読解力が養われた、というところがあるのだけれど、もう30に手が届こうという歳になってみると、そろそろこの信念は捨てた方がいいのではないか、とも思うようになってきた。
 人生は短い。読みたい本は山ほど積まれている。となると、あえてつまらない本を長い時間をかけてまで読みとおす必要はないのではないか? もちろん、退屈な本だとしても、読むだけの価値がある本ならば読みとおすけれど、果たしてこの本にその価値があるのかなあ。

 BSで『乙女の祈り』を見る。ちょうど妻とつきあい始めた頃にやっていた映画で、私は公開時に見たので2度目だが妻は初見(この辺いろいろと因縁(笑)があるのだがまあそれはともかく)。何度見てもいいなあ、この映画。女の子たちの適度な不細工さもよい(そのうちのひとりがのちに巨艦沈没映画で主役を張ろうとは、最初見たときには夢にも思わなかったぞ)。妻は「私も同じような生活を生きていたので、全然違和感を感じない」とのこと。ただ、映画のようには話の合う友達がいなかったそうだ。いなくてよかったような気もする。
 今なら、まっさきに「現実と空想の区別がつかなくなって事件を起こした」と言われそうな事件だけど、最近の事件とこの映画の少女たちとが決定的に違うのは、この少女たちはすべて自力で空想している、ということ。ここがえらい。
 ゲームやアニメの世界を「空想」と呼ぶなんて片腹痛い。そんなお仕着せの空想なんて、快楽も危険性もたかが知れている。本当に甘美で危険なのは、自分で作り出すホンモノの空想なのだ。幸い、今じゃ子供たちの空想能力はスポイルされているので、大事には至っていないようだけど。
5月12日(火)

 医学界には独特の読み癖というか、妙な漢字の読み方、書き方がいくつもある。たとえば普通は「繊維」と訳すfiberを、医学界ではどうしたわけか「線維」と書く。muscle fiberは「筋線維」だし、fibromaは「線維腫」。なんだか頭の悪い生徒の書いた漢字の書き取りみたいで、私にはなんだか気持ちが悪い表記に思えるのだが、医学界ではこう書くのだから仕方がない。だから、デル・レイの『神経繊維』という訳題は、本当は『神経線維』が正しいのだ。しかし、普通の出版社で「線維」なんて書いたら、校正で直されるだろうなあ。
 もうひとつ有名なのが「腔」。「腔」は本来「コウ」と読む字で、「クウ」という読みはないのだが、医学界では伝統的に「クウ」と読むことになっている。「口腔」は「こうくう」だし、「胸腔」は「きょうくう」。「腹腔」が「ふくくう」ってのはかなり読みにくいと思うのだが。たぶん頭の悪い医者が間違えて読んだのが広まったのだろうなあ。コウと読む字がたくさんあるから混同を避けるためにクウと読むのだ、というまことしやかな説もあるが、そんなのはあとづけに決まっている。
 「肉芽」と書けば普通は「にくが」と読むのだろうが、なぜか医者は誰もが「にくげ」と読む。確かに「芽」には「ゲ」という読みもあるようなので間違いではないのだろうが、いったいなぜ「にくげ」などという読みが始まったのかは謎である。なんだか気持ち悪い読み方ではある。

 あー、医学とは全然関係なくなってしまうが、「佳子」で「ケイコ」と読むのも気持ち悪い。「圭」は確かに「ケイ」と読むのだが「佳」は「カ」と読むだけで「ケイ」という読みはないのだ。桑田佳祐も気持ち悪いぞ。
 そうそう、力士の名前の読み方も、いいかげんにしろというのが多いなあ。「北勝海」なんて、どう読めば「ほくとうみ」と読めるのだかよくわからないし、今場所新入幕した力士に、「闘牙」というまるで格闘マンガの主人公のような名前の関取がいるのだが、この名前、ずっと「とうが」だと思っていたのだが、本当は「とうき」と読むらしい。「牙」をどう読めば「き」と読めるというのだ。
 それから、遊ぶ、運ぶ、キューブの「コンパクトでハイトなワゴン」ってのも気持ち悪い。ハイトはheightのことだろうと思うのだが、heightは名詞だぞ。「高さなワゴン」じゃ意味不明。正しくは「トールなワゴン」だろう。これじゃ語呂が合わないけど。
 今日は小言爺いモードになってしまった。でも気持ち悪いものは気持ち悪いのだ。こんな私は嫌いですか?
5月11日(月)

 今日は伊藤典夫師匠の例会……なのだが、まだ体調が充分でないので、今日は出席せずに家に帰る。妻は出席しているので、今日はひとりで夕食。妻には、きのうのカレーの残りを温めてサトウのごはんで食べるように言われていたのだが、サトウのごはんがどこを探しても見当たらない。仕方なくコンビニに行ってご飯を買い、カレーを食す。一晩寝かせたカレーは、きのう食べたのよりおいしくなっている……気がする。
 その後帰ってきた妻に「ご飯がなかったではないか」と文句を言うと、呆れ顔でさんざん探したはずの棚のいちばん上を指差す。サトウのごはんは確かにそこにあったのだけど、なんでそんなわかりにくいところにしまっておくのだ。

 日テレの『爆笑大問題』は、UFOと宇宙がテーマ。太田の狂気のようなボケは以前からけっこう好きなのだが、こうもレギュラー番組が増えてくるとだんだんと苦しくなってきている気がするなあ。エンディングの近況報告によれば、太田は最近日本のミステリーを読んでいてその水準の高さに驚いているらしい。太田のボケにミステリーネタが出る日も近い? しかし、そんなボケをしても誰もわからないだろうなあ。
 テレビ東京の『七瀬ふたたび』を見て寝る。しかし、『ふたたび』は何度となく映像化されているのに、『家族八景』と『エディプスの恋人』はほとんどドラマになっていないなあ。これじゃ、なんで「ふたたび」だかわからない視聴者の方が多いんじゃないだろうか。これは、歌舞伎でいえば「義経千本桜」の吉野の段だけを上演するようなものだと思うのだが。どこかで、通しで映像化してくれないものだろうか。まあ、通し狂言は退屈なものと相場が決まっているのだが(笑)。

過去の日記

98年5月上旬 SFセミナー、WHITE ALBUM、そして39.7℃ふたたびの巻
98年4月下旬 エステニア、エリート医師、そして39.7℃の巻
98年4月中旬 郷ひろみ、水道検査男、そして初めての当直の巻
98年4月上旬 ハワイ、ハワイ、そしてハワイの巻
98年3月下旬 メフィスト賞、昼下がりのシャワー室、そして覆面算の巻
98年3月中旬 結婚指輪、左足の小指の先、そしてマンションを買いませんかの巻
98年3月上旬 ポケモンその後、心中、そして肝機能障害の巻
98年2月下旬 フェイス/オフ、斉藤由貴、そしてSFマガジンに載ったぞの巻
98年2月中旬 松谷健二、精神保健福祉法、そしてその後の男の涙の巻
98年2月上旬 ナイフ犯罪、DHMO、そしてペリー・ローダンの巻
98年1月下旬 肥満遺伝子、名前厄、そして大阪の巻
98年1月中旬 北京原人、アンモナイト、そして織田信長の巻
98年1月上旬 さようならミステリー、星新一、そして日本醫事新報の巻
97年12月下旬 イエス、精神分裂病、そして忘年会の巻
97年12月中旬 拷問、ポケモン、そして早瀬優香子の巻
97年12月上旬 『タイタニック』、ノリピー、そしてナイフで刺された男の巻

ホームに戻る