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8月10日(月)

 巨大な「ル」の前で跳ねるエンクミのシュールな姿と、「ルー ルー 夏だー 風邪かなー?」という脳を直撃するような声が頭にこびりついて離れない今日この頃。これは……恋?(違うと思う)

 うちの病院には今、外務省の医務官をしている二人の先生が精神科の研修に来ている。医務官の仕事は、主に大使館員たちの健康を管理することだけれど、その国を訪れている日本人を診察するのも仕事のうち。精神的なケアが必要な人も訪れたりするので、精神科の病院で研修を受けることになったのだそうだ。ひとりは去年まで南アフリカにいて、今年から北京で勤務しているという先生。もうひとりはインドネシアのあとペルーに2年間滞在し、今年からメキシコに移ったという先生である。それだけでも大変な仕事だなあ、と思うのだが、あとの先生はなんと、あのペルー大使公邸人質事件で人質になっていたのだという。
 以下、その先生の話から印象に残ったところを。
 パーティの最中、最初にドンと音がしたとき、この先生は何が起きたのか全然わからなかったという。武装したゲリラが入ってきたときですら、パーティの余興かと思っていたという。さすがにペルー人は慣れていて、音を聞いた瞬間からテロだと気づいていたらしい。
 人質は狭い部屋に30人以上押し込められ、全員が横になることすらできないので、交代で寝ていた。ドアには爆弾が仕掛けられていて逃げられないようにしてあった(誰も触っていないのに爆発してしまい負傷者が出たこともあったらしい)。
 日本人たちはおおむね丁重に扱われていたので、それほど恐怖は感じなかったが、ペルーの軍人は、それこそまるで映画のように口に銃口を突っ込まれて脅されていたという。
 ゲリラは「本物」は4人だけで、あとはアルバイトで、一人5000ドルで雇われていた。1ヶ月の約束だったらしいが意外に長引いてしまったので、ゲリラ内部でも下からの不満が高まり、このあとどうするかでもめていたという。
 人質と犯人の間に親近感が生まれてしまうという、いわゆる「ストックホルム症候群」についての質問も出たが、これはアメリカ製のマニュアルには、人質になったときには「犯人と人間関係をつくること」「一日、一週間のスケジュールを決め、生活のリズムをつくること」といった心得が記されていて、大使館員たちはそれに従って犯人と仲良くなるよう努めたそうである。
 脚を怪我していたゲリラの一員は、非戦闘員として人質と一緒に過ごしていたが、突入後いったん人質とともに外へ出たあと、兵士とともに再び中に戻り、それから姿を見た者はいないという。殺されたか、あるいは殺されたということにしてどこかへ連れ去られたのではないか、という。
 解放されたあとも、しばらくはちょっとした音にびくっとする毎日が続いたという。活字も頭に入らず、好きなゴルフも全然楽しくない。鬱というわけではなく、絶えず気分が昂揚しているような状態で、仕事も手につかない。体験を酒飲み話でしゃべれるようになるには半年以上かかったという。
 なんだか引用ばかりになってしまったが、貴重な体験をした人の話を聞くことができたので、忘れないように書いてみた。
 もうひとりの先生は、南アフリカではちょうどあの歴史的なマンデラ政権成立のときに居合わせたそうで、白人右翼によるテロが相次ぎ、新聞には毎日「テロによる死者55名」などと日本の交通事故死者のように掲載されていた、など恐ろしくも興味深い話をいろいろと聞くことができた。今日は有意義な一日。どれも、日本でのうのうと暮らしている自分には全然実感の湧かない話なのだけれど。

 おいおいおい、村山聖八段死んじゃったよ。いつ死んでもおかしくないほどの大病をかかえつつも、鬼気迫る将棋を指していた村山八段、好きだったのになあ。とうとう力尽きてしまったか。病気さえなければとっくにタイトルを取れる実力の持ち主だったのに、ついに無冠のままとは。月並みな表現だけど、本当に惜しい人を亡くした。「村山八段が亡くなったって」と思わず声を挙げたが、同僚の医師たちは誰も村山八段を知らず、寂しい思いをする。まだ29歳、私と同い年ではないか。合掌。

 三田工業が倒産したそうだけど、科学書の三田出版会って、関連会社じゃなかったっけ? 大丈夫かな?
8月9日()

 せっかくの日曜日だというのに朝から当直。昨日の希望はもろくも打ち砕かれ、外来を訪れる患者さんはいるわ外から電話がかかってくるわで千客万来。運がいいときには、たまに病棟から呼ばれる程度でたっぷり本が読めるのどかな日曜日が過ごせることもあるのだが、今日はどうやら「当たり」の日らしい。
 休日なのにわざわざ精神科の病院までやってくるような患者さんというのは、不安やイライラが強くてどうしようもないという人たちが多い。そういう人たちと面談をしたり、場合によっては薬を出したり向精神薬の注射をしたりして落ち着かせるのが、当直中の私の仕事である。小説や映画などでは恐ろしげなイメージで語られることの多い精神科の注射だが、苦しんでいる患者さんにとってはそれが救いであるということも少なくないのだ。
 しかし中には、どう見てもぴんぴんしているのに救急車で外来に乗りつけた患者さんもいたりして、こういうときはこっちもあきれるが、呼ばれた救急隊の方にも同情してしまう。ご苦労様。この患者さんはすたすたと歩いて帰っていった。
 そういうわけでろくに本も読んでいられなかったのだけど、それでも祥伝社ノン・ポシェットのホラー・アンソロジー『舌づけ』読了。たぶん廣済堂文庫の「異形コレクション」に便乗したものだと思うのだが、こちらは編者記載なし、自社の雑誌「小説NON」に掲載された作品を集めただけという、なんとも安易な企画である。それでも、菊地秀行、山田正紀や赤江瀑らベテランから北川歩実、小林泰三といった新鋭まで幅広く実力のある作家がそろっているだけあって、軽い気持ちで読み始めたわりには、なかなか楽しめるアンソロジーであった。中には、これがホラー?と首をひねるような作品もないではないのだが、中間小説誌に掲載された作品だけに、それほど飛躍した作品は少なくてリーダビリティは抜群。廣済堂文庫のシリーズはマニア向けに偏りすぎているきらいがあるので、こういう読者を選ばない作品集は逆に新鮮に感じられる。
 夜になってから警察から電話。以前入院していた患者さんが遺体で発見されたという。事件なのか事故なのか、いつ亡くなったのか、など詳しいことは教えてくれない。私はその患者さんには会ったことがないので、病名や入院期間など、カルテに記載された内容だけを伝える。電話を切ったあと、分厚いカルテに目を通してみた。他科のカルテとは違い、精神科のカルテには、入院中の患者さんの表情や台詞、行動などがそのまま記載されている。多くの病院では看護記録と医者のカルテは別立てになっていることが多いが、この病院では、医者、看護婦、ケースワーカーなど、いろいろな職種の人たちが同じ一冊のカルテに書くならわしである。だから、カルテを読めばさまざまな視点からとらえられた多面体のような患者さんの姿が見えてくる。一度も出会ったことのない患者さんでも、カルテを読んでいるうちにだんだんと生き生きした人物像が見えてくるのである。電話帳ほどもある分厚いカルテは、この患者さんが「必ず通院します」と約束して別の病院に転院したところで結ばれていた。そのあとこの患者さんにいったい何があったのか。
8月8日()

 駅は子供たちでいっぱい!
 某駅で山手線に乗ろうとしたら、どうしたわけか駅は子供(と付き添いの親たち)でごったがえしている。その上、電車が到着するたびに、次々と降りてくる子供たちの群れ! 駅は完全に子供たちに占拠された状態だ。一体なにごとかと思ったが、子供たちの持ちものを見て疑問は氷解。子供たちは、一様に手にスタンプノートを持っているのである。すると、これが例の「ポケモンスタンプラリー」なわけか。子供が乗るように仕向ければ、付き添いとして大人も乗るから乗客数がさらに増えるという計略。JR東日本、そちも悪よのう。いやいや、お代官様ほどでは。
 しかしスタンプを押して回って何が楽しいのか。などと思ってしまうこと自体が、自分がすでに子供の心をなくしてしまっている証拠かと思うと、ちょっと哀しい。
 さて有楽町へ行き、今日こそ『L.A.コンフィデンシャル』を観る。開演15分前にみゆき座についてみれば、劇場前には長蛇の列。結局席は前から2列目になってしまった。公開からしばらくたっているし、地味な映画だと思っていたのだが、ここまで人気があるとは驚き。
 映画の方はというと、これは傑作。原作は読んでいないのだが、複雑でわかりにくい物語をよくここまでまとめあげたものだ。3人の主役刑事のキャラクターの描き分け、アクションに頼らない骨太のストーリー展開が素晴らしい。特に、バドとエドが協力しあうようになってから銃撃戦へとなだれ込む、たたみかけるような展開がうまい。申し訳ないが、『ゴジラ』や『ディープ・インパクト』みたいな映画(こういう映画も大好きだけど)とは、格が違う。
 ケヴィン・スペイシーは『ユージュアル・サスペクツ』や『セヴン』のときとはがらりと変わった正統派二枚目を演じていて、まるで別人である。キム・ベイジンガーはアカデミー助演女優賞を取ったらしいが、いくらなんでもこの役には老けすぎていると思うんだがなあ。
 映画とは直接関係ないけど、日比谷みゆき座は画面位置が低くて、前の人の頭が邪魔になりやすいのが難点。

 くまざわ書店で『死霊たちの宴』(創元推理文庫)、『爬虫館事件』(角川ホラー文庫)。

 明日は日曜日だというのに朝から病院で当直。月曜の夜まで家に帰れないので、たぶん明日の更新はお休み。当直中にあったことは日記に書く予定だけど、何もないことを強く希望(笑)。
8月7日(金)

 NHK「ビジュアル宇宙図鑑」(図鑑ってのはたいがいビジュアルなものだと思うが)を見て思ったこと。ただし全然宇宙とは関係ない。
 よく、新人作家の本の帯などで「ミステリー界の超新星!」などと書いてあるのがあるけれど、いくらなんでも超新星はまずいのではないか。超新星は星の終末の姿だ。あとは塵になるだけなのである。まあ、一発屋で2作目など書けそうにない作家ならそれでもいいけど。新星を強調したつもりなのだろうが、新星と超新星は全然違うのだ。さすがにSF界ではわかっている人が多いらしく、超新星という表現は見かけない。
 続けて「ゴジラ海を渡る」を見る。ううむ、トライスターは最初はゴジラの映画化権を東宝から完全にぶんどるつもりだったのか。悪辣だなあ。日米の映画化交渉の話はわりとあっさりと流されていて(ヤン・デ・ボンが降りた話とか)物足りなかったのだけど、後半のアメリカのゴジラ・コンベンションの様子はなかなかおもしろい。「新GODZILLAの製作者は怪獣が何であるか全然わかってない」「あれはゴジラじゃない」など、日本のゴジラマニアとまったく同じことを言っているのがおかしい。ゴジラマニアってのは、ゴジラ映画を通して、画面上のゴジラではなく、その背後にある「ゴジラ的なもの」、理想のゴジラを見ているんだろう。ゴジラのイデア(笑)。そうでなきゃ平成ゴジラなんて見られたもんじゃないものなあ。

 ついに出た上遠野浩平『ブギーポップ・リターンズ VSイマジネーター』(電撃文庫)、東雅夫編『怪獣文学大全』(河出文庫)、小田晋『日本の狂気誌』(講談社学術文庫)、武田雅哉『清朝絵師呉友如の事件帖』(作品社)購入。
8月6日(木)

 いや、驚いた。最近こんなに驚いたのは久しぶりである。
 私が10年くらい前に作った俳句自動作成ソフト「風流」のことは、以前の日記で触れたばかりだけれど、まったく偶然に、滋賀県長浜市立北中学校の廣部豪男先生から「風流」についてのメールをいただいたのである(廣部先生はこのページの存在すら知らなかったようである)。それだけなら単なる偶然だが、メールの内容を読んで、私はものすごく驚いた。廣部先生は、「風流」を中学3年生の俳句の授業に使ったというのである。
コンピューターを活用した学習指導が叫ばれていますが、他教科はともかく、国語科に関して申し上げると、漢字や文法などのスキル学習的なソフトが大半で、子どもたちの豊かな創造力を育み、感性を磨くようなソフトはほとんどありません。ところが、貴兄の作成された「風流」では、どの子も、自分の国語力に左右されることなく、俳句づくりを楽しめます。そして、俳句の世界の楽しさや言葉の面白さに出会うことができます。

今回、その「風流 第三版」を活用して中学3年生の俳句の授業を行い、その学習の概要を私の下記のWebpageで公開いたしました。

http://www.biwa.ne.jp/~hirobe/work2/haiku.htm

子どもたちは、大変楽しく活動できました。また、俳句への興味・関心も高まり、大変有意義な時間を過ごせました。
 「風流」は、俳句のパロディを意図して作ったソフトである。「風流」を作りながら私が漠然と考えていたのは、俳人たちは写生だなんだと偉そうなことを言うが、作者など存在しないランダムに作り出された俳句にさえ、読者は勝手に意味を読み取り感動を覚えてしまうではないか、ということ。つまり、作品の主体は作者ではなく読者にあり、「作者の意図」などを問うのは本来意味がないのではないか、ということ。これは、「作者は何を言いたいのでしょう」といった問いが投げかけられがちな国語の授業とは対極に位置する思想だろう。
 その「風流」がなんと中学生の俳句の授業に使われるとは。失礼ながら、最初は何かの冗談かと思ってしまったのだが、廣部さんのページを見ると、どうやら本当のようである。どんなふうに授業に使われたかが詳しく書かれており、このページにはこの授業を受けた子供たちの素直な感想が書かれている。私が10年前に思いつきで作ったきり放っておいたソフトによって、子供たちは俳句に触れ、俳句に親しんでいたのである! 正直言って、私のまったく思いもよらなかった使い方である。恥ずかしいやら嬉しいやら、なんとも身も縮む思いだ。
 なんだか、若さゆえの過ちでこしらえてしまい、それ以後ずっとほっぽっておいた子供が、すっかり立派に育った姿で目の前に現れたような、そんな気持ちである(もうちょっとまともなたとえはできんのか)。
 メールは、
その後、「風流」のバージョンアップはされていらっしゃるのでしょうか。現在は、学校にはMS-DOSマシンが残っていますので、こうした学習ができましたが、徐々にWindowsマシンに移行しています。もし、Windowsバージョンをお作りでしたら、ありがたいのですが。
 と結ばれている。うーむ。
 Windowsバージョンかあ。考えないでもなかったのだが、ウィンドウズ・プログラミングの敷居の高さに、今まで手をつけかねていたのだ。ひまができたら、買ったままほこりをかぶっているDELPHIでもいじって見るかなあ。プログラミングは数年間やってないので、勘を取り戻すまでが大変だと思うけど。
8月5日(水)

 夕べ、のどに刺さった小骨に苦しんでいたら、妻がいい方法があると言いだした。こういうときは、どんなアドバイスでもありがたい。どんな? と訊くと、妻はこう言った。
「吐くのよ」
「はい?」
「骨が取れないのは、食物の流れる方向とは逆向きに刺さっているからでしょ。それなら逆向きの流れを作ればいい。それには胃の中のものを吐くしかないでしょう。それに、胃酸で骨のカルシウムも溶かす効果もあるかも」
 確かにそれはそうなのだけれど、私は過食症でもローマの貴族でもないわけで、いくらなんでもわざと口に指を突っ込んでまで吐く気にはなれない。
 ベッドに入ったあとも、性懲りもなく咳をしたり唾を飲みこんだりして、隣の妻に「うるさいからもう寝たら」と言われる始末。それでもげろげろげほげほとやっていると、ふいに舌に何か固いものの感触が。これはもしや、と思って取り出してみると、まぎれもなく魚の骨ではないか! というわけで、医者に行くまでもなく、ようやく小骨はとれました。いやめでたい。

 毒入りカレー事件では、例によってスポーツ紙やワイドショーが推理合戦。おなじみ小田晋先生も大活躍である。小田先生の説は、犯人は二人でそれぞれ青酸と砒素を担当してお互いに口を封じあっているのではないか、というのだけれど、いくらなんでもその推理は安っぽすぎるのでは。二時間ドラマじゃないんだからなあ。
 それにしても、新聞にこういう「識者に聞く」などという体裁をとった推理合戦を掲載することにいったい何の意味があるのだろう。今までの例を見てもたいがい当たってないわけだし、別に新たな視点を提供しているような代物でもないし。幼女連続殺人事件、松本サリン事件、酒鬼薔薇事件のときの犯人逮捕前の識者たちのコメントを改めて読んでみたいものである。たぶん、みんな全然違うことを言っていて笑えるだろう。現実は、小説とは違ってアームチェア・ディテクティブが犯人を言い当てられるようにはできていないのだ。小田先生も『狂気の構造』など立派な仕事もある精神科医なのだから、こういう事件が起きるたびにうれしそうにコメントするのはやめたほうがいいと思うんだけどなあ。精神科医の出番があるとしたら、犯人が捕まったあとだろうに。まあ、この先生はこういうのが好きなんだから仕方ないか。

 さて小骨も取れて絶好調と相成った今日は久しぶりに古書店巡り(笑)。
 新宿古書センターにて加賀乙彦が精神科修行時代のことを書いた『頭医者』(中公文庫)と、一発屋ドナルド・A・スタンウッドの『エヴァ・ライカーの記憶』(文春文庫)。新大久保BOOK OFFはすでに幾多の古本人(ふるほんびと タニグチ氏の真似(笑))に荒らされてめぼしい本はすでになかったけど、続編が出る前にリチャード・レイモンの『殺戮の〈野獣館〉』(扶桑社ミステリー)でも買っておくか。そこから中野の歩書房に回って、クロフツ『ヴォスパー号の遭難』とブレイク『血ぬられた報酬』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、ショーン・ハトスン『シャドウズ』(ハヤカワ文庫NV)。うーむ、古本屋に行くと見境なくどんどん買ってしまうなあ。当分古書店巡りは控えよう。
 新刊書店では講談社ノベルスは乾くるみ『匣の中』と貫井徳郎『鬼流殺生祭』を購入。おお、新刊台に、超巨大なジョン・クルート『SF大百科事典』が平積みになっているのを発見。買おうかとも思ったがあまりに重いので断念。巻末の訳者紹介の朝倉久志という誤植はちょっとダメな感じ。
8月4日(火)

 きのうからのどに魚の小骨が刺さっていて、ふだんは別になんともないのだが、ごくりと唾を飲みこむと痛いことこの上ない。何もしなければなんともないのだから普通にしていればいいようなものの、どうにも気になって何度も何度も唾を飲みこんでは痛い思いをしている。同僚の医者に話したところ「そういや、魚の小骨が食道を貫通して穿孔を起こした例もありますね」「小骨が血管に入って心臓にまで到達して命を落としたという話もきいたことがある」(ブラックジャックじゃないのか、それは)などと、笑っている。ああ、なんだか突然不安になってきたではないか。君たちに相談した私が馬鹿だったよ(考えてみれば精神科医に相談しても仕方ないわな)。明日は医者で診てもらおう。もちろん、別の病院で。

 ジーター星人、もといK・W・ジーターの『ダーク・シーカー』(ハヤカワ文庫SF)読了。いろんなところですでに感想が上がっているとおり、これはSFじゃなくてホラーだよなあ。ハヤカワ文庫SFのこりゃSFじゃないぞランキングベスト1に決定(第2位は『時間旅行者は緑の海を漂う』、第3位はヴォネガットの長編のどれか)。
 ジーターといえば枕詞のように「ディックの後継者」というキャッチフレーズがつくのだけれど、これはいったいどうしてなんだろう。今まで読んだ作品を見る限りでは、ジーターはディックとは全然資質が違う作家だと思うのだが。ディックがSFファンに愛されているのは、チープなSFガジェットの山を使いながら、今までのSFとはまったく違う異様な物語を作り出したためだと思うのだけれど、ジーターの作品にはチープなところがまったくないし、物語が破綻していく快感もない。
 あんまりこういう感想を見たことがないので、こういうことを感じるのは私だけかもしれないのだが、私は、ジーターという人はとても真面目な人だと思う。『マンティス』にしろ『悪魔の機械』にしろ、真面目にきちんと書かれているという印象がある。でも、遊びも破綻もなくて全然面白くないんだよな(あ、ジーターファンを敵に回したかも)。本書もそんな感じで、主人公の不安をねっとりきっちりと描いているのだけれど、ただそれだけという感じで、あんまり恐怖は感じられないのだよなあ。まあ、これは私にドラッグへの感受性、というか憧れがないせいであって、これをとても怖いと感じる人もいるのだろうけど。
8月3日(月)

 和歌山の青酸カレー事件だけど、今度は砒素が検出されたそうだ。一つだけでも猛毒なのにさらに毒を加えるという、屋上屋を架すとでもいうべき過剰性には、なんだか空恐ろしいものを感じてしまう。殺人への強烈な意思とでもいおうか。これは単なるいたずらなどではなさそうだ。

 ところで、青酸化合物というと、ミステリファンならば脊髄反射的に「アーモンド臭」という言葉を思い出すものだけど、これを実際嗅いだことのある人はめったにいないだろう。もちろん、私も嗅いだことがない。このアーモンド臭、我々のよく食べる炒ったアーモンドの種の臭いではなく、アーモンドの花の臭いであるというようなことを聞きかじった覚えがあるのだが、本当のところどうなんだろう。
 法医学の教科書をいくつかめくってみたが、青酸中毒患者の胃内容物や鼻からは「独特の苦扁桃臭」がすると書いてあるだけ。「苦扁桃」といわれてもなあ。これがアーモンドのことだと、いったい何人がわかるんだろうか。教科書はもうちょっとわかりやすく書いてほしいものである。実際のところ、いったいどんな臭いなのかももちろんわからない。
 ただ、金芳堂の『法医学 第4版』には、気になることが書いてあった。胃内容物が苦扁桃臭を呈するというところまでは同じだが、「嗅覚の鋭敏な人は死体の鼻口からも苦扁桃臭を感じるが、Kirk&Stenhouseによると、この臭いを感じる能力は伴性劣性遺伝し、20〜40%の人はこの能力を欠いているという」のだそうだ。青酸の臭いを感じるには、嗅覚が鋭敏で、しかも先天的にその能力を持っていなければならないようだ。伴性劣性遺伝なら、この能力を持った人間はもっと少なそうなものだが、いったいどうなっているのだろう。
 まあ、何にせよ、推理小説の探偵のように、死体の口にちょっと鼻を近づけただけで「これは青酸だな」というわけにはいかないようだ。当然のことながら、一度も青酸の臭いを嗅いだことのない人間に、青酸の臭いを鑑別できるわけがないのである。たいがいの医者も私と同じように青酸の臭いなど嗅いだことがないだろうから、中毒患者を診てもすぐに青酸に思い至らなかった医者を責めるわけにはいくまい。
 だいたい、医学の知識というのは、たいていがそういうものだ。新米の医学生が聴診器で心臓の音を聞いたとしても何も聞き分けることはできないし、胸のX線写真を見ても肺癌など発見することは絶対にできない。実際、指導医に「ほらここが癌」と教えられてもなんにも見えないのである。こんなもん、わかるもんか、と医学生だった私は思ったものである(卒業するころには、おぼろげながらわかるようになったが)。聞いたことがない音は聞こえないし、見たことのないものは見えないのだ。
 意味のある信号とノイズとを判別するには熟練を必要とする。いくら間質性肺炎にはベルクロラ音(ベルクロ、つまりマジックテープをはがすような音だというんだけど……)が特徴的だと教科書に書いてあっても、正常な呼吸音を山ほど聞かなければ聞き分けることなどできはしないのだ。自転車の乗り方をいくら言葉で説明されてもわからないのと同じである。
 医学部で学ぶ知識というのは、こういう「体で覚える」知識が多い。大学とはいっても他の学部とは違って、半分職業訓練校みたいなものである。学生の頃には、医学部のそういうところが学問として不純なような気がしてけっこうイヤだったものだが、医者になった今では、非言語的な知識の重要さは身にしみるほどよくわかる。自転車の乗り方は覚えれば一生忘れないというけれど、実際は、非言語的な知識といえども反復しないと忘れてしまうもので、卒業以来精神科ばっかりやってる私は、すっかり聴診や読影のコツを忘れてしまった(笑)←笑ってる場合か。これでは、もう内科には転向できないなあ(するつもりもないけど)。
 それにしても、青酸の臭いを嗅いで覚える機会がなかったのは、ちょっと残念。
8月2日()

 レジナルド・ヒルの新作『完璧な絵画』を買った。中学生の頃、アガサ・クリスティからミステリを読み始めたせいか、今でも私にとっての海外ミステリといえばデクスターやヒルなどのイギリス本格派のみ。アメリカ流のハードボイルドの面白さはいくら読んでも全然わからないので、たぶん私には合わないのだろう。だいたい、ハードボイルドの探偵はなんであんなに気取っているのか。探偵がなぜ孤独な騎士を気取らなければならんのか。私にはよく理解できない基準で自らを縛っているのも謎としかいいようがない(すまん>ハードボイルドが好きな方)。まあ、このように私は狭量極まりない人間なのである。

 さて、クリスティをはじめとしたイギリス・ミステリを読んでいると、文化の違いからだろうが、よくわからない表現がいろいろと出てくるものである。例えば、「ヒースの生えた土地」とかいう表現。ヒースというのはどうも荒れ地に生える植物らしいということはわかったのだが、いまだにどんな植物なのか知らない。まあ、調べればすぐわかることではあるが。
 それ以上に理解不能だったのが、食べ物である。まず、頻繁に出てきたのがプディング。『クリスマス・プディングの冒険』などという小説もあり、クリスマスになると食べるものらしいのだが、プディングといってもプッチンプリンくらいしか知らない中学生の私には全然実感がわかない。プッチンプリンを巨大化したようなものを思い浮かべてみたが、それではどう考えても自重で崩壊してしまう。聞くところによれば、どうも日本でいうプリンとは全然違う代物らしいのだが、いまだに食べる機会に恵まれていないので、クリスマス・プディングの正体は謎のままである。
 それから、パイだ。パイといえばエンゼルパイかリーフパイしか食べたことのない中学生(アップルパイすら食べたことがなかった)には、主食になるような大きなパイといっても、まったく理解できなかったのだ。これは大人になってから「○○のパイ包み」などという料理を食べたので、まあこんなもんなんだろうなあ、という想像くらいはできるようになったのだが、いまだに実感できないのは「腎臓のパイ」なるもの。うまいのだろうか。名前を聞いた限りでは、あまりうまそうには思えないのだがなあ。

 そのうちイギリス風のプディングとかパイとかをぜひ食べてみたいと思っているのだが、エスニック料理店をいろいろと食べ歩いている私も、イギリス料理の店だけはいまだに見たことがない。なぜだ。そんなにイギリスの料理というのはまずいのだろうか。結局、イギリスに行かないと食べられないということなのか、謎のクリスマス・プディング。
8月1日()

 「長編新SF小説」と銘打たれた『1980年の恋人』(浪速書房)なる小説を読んでみた。タイトルを見て、過去に戻る話かと思うかもしれないが、そうではない。この本が書かれたのは1969年。ということは、10年後を予測した未来小説なのである。著者は邦光史郎。企業小説の大家ですね。つまりこれは、企業小説作家の手による珍品SFなのであった。もちろん、今では絶版。出版社ももうないはず。さて邦光史郎の予測する10年後の未来(現在からすれば20年前の過去)はどこまで当たっているだろうか。
 主人公酒巻俊夫はいくつもの会社の重役を歴任しているが、現在は失業者。重役紹介会社の紹介で、倒産寸前の電器メーカーの雇われ社長に就任する。1980年には人間はつねに監視されているので、重役たるもの、つねに「眼には叡智を、頬には微笑を絶やしてはならないのである。たとえ解任されようとも、寛容と調和に満ちた態度でその事実を受け入れなければならなかった。そうしなければ、次の就職に影響する」のだそうだ。窮屈な時代である。
 個人用電子計算機も普及しつつあり、社長の机に取りつけられた社長専用電子計算機には経営上のデータがすべて収められていて、「電子頭脳を格納したプラスチック製のケースには、マジック・ドアがついていて、彼自身の音声を聞き分けることができる」のだそうだ。パスワードという概念は邦光先生の想像外だったらしい。酒巻が電子頭脳に、会社が収益を上げるにはどうしたらいいか尋ねると、「シンセイヒンノカイハツ」と答えが返ってくる。新製品を開発するにはどうすればいいか尋ねたら「ニンゲンニタノミナサイ」(笑)。1980年のコンピュータはかなり進歩しているようである(漢字くらい使えるようになれよ、という気もするが)。
 酒巻は、電波新聞(「新聞は新聞社から直接電波にのって、各購読者の手もとにある機械装置に送られてくる」のだ)で、猿の大脳を応用したコンピュータを開発している京都大学の名和博士という研究者がいるという記事を読み、この人物に賭けてみようと考える。この名和というキャラクター、ニューロ・コンピュータを研究していると同時に、人間の記憶と思考のすべてを機械に移し変えることによる不老不死を夢想し、「わしの最終目標は、人間の脳髄組織を作り出すことにあるんだ。これこそオートマン(オートマトンの間違いか?)の最終目標なんだからな」と豪語する、まるでモラヴェックみたいな科学者。SF者にとってはもっとも理解しやすいキャラクターなのだが、科学嫌いの作者にかかると、完全にマッド・サイエンティスト扱いである。
 酒巻は、名和博士について調べさせるため、調査会社の水島という男を京都に派遣、水島を監視するため、という名目で、自分も美人秘書とともに京都不倫旅行に出かける(笑)。このあと、博士の研究成果を奪おうとする「アイ・アイ・サー団」(笑)なる国際的秘密結社が暗躍したり、美人秘書が実はライバル会社のスパイだということがわかったり、と邦光史郎らしい(といってもほかの著作を読んだことないんだけど)展開になるのだが、結局博士はスパイたちを手玉に取り、アイ・アイ・サー団に娘を人質に取られても慌てず騒がず水島を呼び寄せ「実はあの娘は自分の実子ではないのだ、別れた妻が精子銀行に登録されていたどこかの男の精子を人工授精して生まれた子供なのだ、そしてひそかに調べたところ精子提供者は君だったのだよ水島君、娘を殺されたくなければ言うことを聞け」と逆に水島を脅す始末。博士はアイ・アイ・サー団と契約を結んでニューロ・コンピュータを引き渡し、その交換条件として、水島と脳を交換する手術を受けて若い肉体と恋人を手に入れる。水島はというと、博士の老いた肉体に閉じ込められ、自分の娘とともに余生を過ごす。酒巻の会社はどうなったかといえば、ライバル会社に合併吸収されてしまうのであった。博士の一人勝ちですね。
 まあ、ストーリーはどうでもいい(笑)のだけれど、この本を読んでいちばん違和感を覚えたのは、全編にあふれる「科学万能時代」への呪詛ですね。博士は完全に悪役だし、科学が発達すると音楽も小説もコンピュータが作り出すようになって芸術家は失業してしまうとか、科学はどんどん未知の領域を喰い尽くし、人間の興味はますます貧困なものになってしまうとか、そういった記述があちこちに見られる。非常に素朴な形のテクノフォビアですね。ここまで科学を敵視しなくてもいいと思うのだが、この作者は、科学とロマンは相反するものだと堅く信じているらしい。やれやれ。
 『SF vs ホラー』の対談のとき、堺三保さんが、最近テクノフォビアをかきたてるような小説や映画が多いことに危機感を表明していたけれど、それは別に最近に限ったことではないようである。古くはラッダイトってのもあったわけだし、反科学ってのは、そもそも科学が誕生した瞬間から脈々と受け継がれてきたものだろう。ただ、最近科学の旗色が悪いので、相対的に声が大きくなったように見えるということはあると思うが。
 なんで科学に希望が持てなくなったかといえば、個人的には、冷戦の解消でアメリカの宇宙開発への予算が削減されたのが大きいような気がする。最近、新聞の紙面を飾る科学ネタといえばバイオ関係ばかりで、宇宙開発の記事なんてほとんどない。科学の醍醐味といえばやっぱり宇宙開発だよなあ、それも惑星間。私が子供の頃には、パイオニアやボイジャーから送られてくる写真が次々と新聞に載って、いやが上にも宇宙への夢がかきたてられたものである。最近でも火星探査が行われているけど、やはり子供の頃に見た、あの虚空に浮かぶ木星や土星の写真ほど、科学の未来を感じさせる絵はないと思う。
 だから、宇宙開発にも予算回してくれよ>アメリカ。景気いいんだからさ。

 涼しくなった夕方から有楽町へ、『L.A.コンフィデンシャル』を観に行くが、着いた頃にはもう最終回が始まったあと。しかもオールナイトもないと来る。『仮面の男』の先行オールナイトもやっているようだが、こちらはレオ様目当ての女性客が長蛇の列をなしていて観る気喪失。結局、インド料理の夕食を食べただけで、すごすごと帰って来たのであった。何しに行ったんだ。
 夜は、教育テレビで「サイエンスアイ」のクローン特集を見てから、続けて衛星では見逃していた「未来科学への招待」第一回を見る。テレビ東京では「仮面天使ロゼッタ」に「機動戦艦ナデシコ」の再放送。ああこれぞ正しいSF者のあり方?

過去の日記

98年7月下旬 医療保険制度、泳げたいやきくんの謎、そしてミヤイリガイの巻
98年7月中旬 GODZILLA、解説の詩人・郷原宏、そしてSF vs ホラーの巻
98年7月上旬 俳句自動作成ソフト「風流」、木々高太郎、そして太田裕美の巻
98年6月下旬 さらばジオシティーズ、水中毒、そしてLSDの巻
98年6月中旬 精神分裂病、6000冊、そして遺伝子組み換え食品の巻
98年6月上旬 YAKATA、「医者」というブランド、そしてなんでも鑑定団の巻
98年5月下旬 流れよ我が涙、将棋対チェス、そしてVAIOの巻
98年5月中旬 おそるべしわが妻、家具屋での屈辱、そしてジェズアルドの巻
98年5月上旬 SFセミナー、WHITE ALBUM、そして39.7℃ふたたびの巻
98年4月下旬 エステニア、エリート医師、そして39.7℃の巻
98年4月中旬 郷ひろみ、水道検査男、そして初めての当直の巻
98年4月上旬 ハワイ、ハワイ、そしてハワイの巻
98年3月下旬 メフィスト賞、昼下がりのシャワー室、そして覆面算の巻
98年3月中旬 結婚指輪、左足の小指の先、そしてマンションを買いませんかの巻
98年3月上旬 ポケモンその後、心中、そして肝機能障害の巻
98年2月下旬 フェイス/オフ、斉藤由貴、そしてSFマガジンに載ったぞの巻
98年2月中旬 松谷健二、精神保健福祉法、そしてその後の男の涙の巻
98年2月上旬 ナイフ犯罪、DHMO、そしてペリー・ローダンの巻
98年1月下旬 肥満遺伝子、名前厄、そして大阪の巻
98年1月中旬 北京原人、アンモナイト、そして織田信長の巻
98年1月上旬 さようならミステリー、星新一、そして日本醫事新報の巻
97年12月下旬 イエス、精神分裂病、そして忘年会の巻
97年12月中旬 拷問、ポケモン、そして早瀬優香子の巻
97年12月上旬 『タイタニック』、ノリピー、そしてナイフで刺された男の巻

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