7月20日(月)
今日こそは『プルガサリ』を見よう、と思ったもののなんだかどこへも行く気がせず、だらだらと家の中で過ごす。
ダグラス・プレストン&リンカーン・チャイルド『レリック2 地底大戦』(扶桑社ミステリー)を読む。文章は映像的でリーダビリティは異様に高いし、キャラクターはほとんどやりすぎと思えるほどに立ちまくっているし(シャーロック・ホームズの生まれ変わりのようなFBI捜査官が出てきて楽しい)、一気に読み終えてしまった。まさに「ハリウッド小説」ですね、これは。
これは別に馬鹿にしているわけではなく、褒めているつもりである。エンタテインメントとしてはとても優れているので、読書とは何かを学ぶことであるなどと思っている人以外は(そんな人間がこういう小説を読むとは思えないが)、おもしろく読めるはずである。実際、前作『レリック』よりもスリリングで楽しめるほど。ただし、エイリアン2のごとく、今度は怪物が大挙して登場して派手な戦争になるのか、と期待していると、それは裏切られることになってしまうので注意。本書の主要な舞台はニューヨークの地下世界。〈もぐら〉と呼ばれるホームレスたちが5000人も住みついており、誰一人としてその全貌を知らない地下30階にも及ぶ闇の世界である。こういう設定は私にはどうも嘘臭いように思えたのだが、作者のあとがきによればどうやらほとんどが事実らしい。白い鰐が住んでいるという伝説は聞いたことがあったけど、ここまで広大な世界が広がってるとはねえ。驚き。
前作に比べれば怪物は後景に退いていて(何しろ、最後の最後にならないと姿を現さないのだ)、主役はむしろ地底世界そのもの。映画版でいえば『レリック』より『ミミック』を気に入った人の方にお薦め。
「lain」を見てから寝る。
7月19日(日)
池袋の西武コミュニティカレッジに、
森下一仁氏と東雅夫氏による対談「SFvsホラー」を聴きに行く。
『オトラントの城』から始まって、最近のバイオホラー隆盛にまで至る、つかずはなれずのSFとホラーの歴史をたどる2時間の講演。以前通っていた空想小説ワークショップの友人も大勢来ており、久しぶりに顔を合わせる人もちらほら。SFオンラインの取材かな、堺三保さんと中村融さんも来てましたね。
まあ、SFも読めばホラーも読むというどっちつかずの私としては内容は周知のことばっかりだったのだけれど、こういうふうにホラーとSFの歴史が並行して語られるのは珍しいので、その点は収穫。
東さんによれば、19世紀初頭のゴシックロマンス・ブームのときに、現在のホラーの題材というのはほとんど出揃っているという。考えてみれば、ゴシックロマンスというのは、現在の大作ジャンルミックス・エンタテインメントの先駆けかも。『マンク』とか『メルモス』のように大作化が進んだあげく、ブームが終わり、ポーのような短篇ホラーが流行し始めたことを考えると、現在の重厚長大モダンホラーブームも、いくところまでいきついたら、今度は短篇が脚光を浴びるのかも。
ポーの時代あたりまでは、SFとホラー(ついでにいえばミステリーも)の区別というのはあいまいで、ジャンルが意識されるようになったのは、「ウィアード・テールズ」や「アメージング・ストーリーズ」といった専門誌が創刊された1920年代である、という話。しかし、当初はラブクラフトの作品が両誌に載っていたように、それほど厳格な区別があったわけではないらしい。
ということは、SF、ホラー、ミステリーといったジャンルの区別自体、たかだか100年程度の歴史しかないわけで、これは本格ミステリか否か、とかSFか否か、とかこだわるのは実りある行為ではないような気もする。ジャンルミックス・エンタテインメントが流行し、花村萬月が芥川賞をとり、車谷長吉が直木賞を取る(これはなんだか政治的な意図を感じないでもないけど)ように、ジャンルとか純文学、大衆文学という壁がぐずぐずに崩れていくのはけっこう楽しいことだと思うな(それでも、これぞSFという作品もないと寂しいのが、SF者のさがなんですが)。
壁が崩れるのは歓迎なのだけれど、あくまで読書の目安という目的では、ジャンルにまったく意味がないというわけではない。だから、「ミステリー」のベストテンに、明らかにホラーと思われる作品までもがランクインするようなわけのわからない状態はなんとかしてほしいものだ(あれはミステリーに限らないエンタテインメントのベストテンだというのなら、SFも仲間はずれにせず入れてほしいものである)。
7月18日(土)
カウンタ20000達成! みなさま、ご愛読ありがとうございます。
渋谷に出て、
『キングダムII』を見る。デンマーク版ツイン・ピークスとでもいうべき、巨大病院を舞台にして癖のある登場人物たちが繰り広げる物語なのだけれど、去年見た第1部に比べると、格段にコメディ色が強くなっている。ほぼ5時間の長丁場だけれど、中だるみがないのはさすが。奇形や脳障害の人物が登場するなど悪趣味な話だし、幽霊やら悪魔やら超常現象が主題として扱われているのではあるが、怖いかというと、怖さはまったく感じないのですね。
たぶん、ラース・フォン・トリアー監督自身は、心霊現象をまったく信じていないのだろう。だから、霊的現象を扱っていながら、そうした現象はあくまで素材であって、物語の運び方は非常に知的で計算されつくされたもの。多数のキャラクターをまるでチェスの駒のように自在に操り、複雑怪奇な物語を描き出しているのである。第3部完結編は来年公開だそうで、監督のインタビューによれば「私はすべての結末を知っている」そうなのだけれど、この監督の流儀からすれば、先のことを考えずに作るなど考えられないので、これは字義通りに受け止めていいのだろう。私はそのへんのクールさ、対象からの距離の取り方がとても気に入ったのだけれど、妻には「情念」が一片たりとも感じられないところが(ほら、なんせヒライストですから)物足りなかったよう。
妻は「こういう話だったら、『ツインピークス』の方がおもしろい」といい、「『ツインピークス』を見なければ『キングダム』は語れない!」とまでいうのだが、私は恥ずかしながら『ツインピークス』を見たことがないのだった。見ておいた方がいいのかな。でも今更見る気にもなれんしな。
最後に字幕に一言難癖を。臨死体験中の登場人物が訪れる部屋に「ここはスウェーデンの部屋よ」と字幕が出て、いったいこれはどういう意味だろうと首をひねったのだが、プログラムを読んでみるとどうもこれは「スウェーデンボリの部屋」と言っていたらしい。全然違うではないか。スウェーデンとスウェーデンボリ(スウェーデンボルグ)を間違える翻訳家などろくなもんじゃないぞ>岡田壮平(実名を挙げてしまうぞ)。しかし、映画の字幕というのも誤訳が多そうだな。最近じゃ、大作といえば「字幕・戸田奈津子」と出てくるけど、たった一人で歴史ものからSFまで適切に翻訳できると思うほうが間違っていると思うのだがな。
夕食は道玄坂のベトナム料理店「ブーゲンビリア」。狭い店内はいつも混んでいて、前回来たときには満員で食べられなかった店だ。まずは定番の生春巻にベトナム風海老天と、鶏肉と春雨のスープ。ベトナム料理は野菜が多くてヘルシーで、いくらでも食べられそう。春巻も美味。スープはちょっと味が薄かったけど。
7月17日(金)
夜中によくやっていた幻想的なCMに惹かれて、
『中国の鳥人』を見に行く。本木雅弘演じる平凡なサラリーマンが、仕事で訪れた中国奥地の雲南で体験した出来事を描いた映画……なのだけど、おかしい。いつになってもファンタジーにならないではないか。鳥人はいつ出てくるのだ。CMでやってたいかにも幻想的なシーンは確かに出てくるが、映画全体の中では明らかに浮いている。この部分だけを取り出してCMにするというのは、詐欺に近いのではないか。
雲南の風景の美しさには感嘆したけれど、自然の豊かさと文明や合理主義とを対比する、いかにも椎名誠らしいメッセージが濃厚で、ちょっと説教臭さを感じてしまう。まあ、好きな人は好きなんだろうけど、私は今一つのめりこめなかった。
映画自体とは直接関係ないのだけれど、ちらしに書かれていて気になったのが、
「大人のファンタジー」という言葉。何を隠そう、私はこの言葉が
大嫌いである。私のイメージでは、「大人のファンタジー」というのは、社会人である主人公が、ちょっと幻想的な出来事を体験して少し成長する(そして、結末では現実へと戻ってくる。戻ってこなくなってしまったら、「大人のファンタジー」ではなくなってしまうような気がする)ような物語を称しているように思うのだが、ならば異世界を舞台にしたハイ・ファンタジーは「子供のファンタジー」か? それはあまりにも底が浅い見方としか思えない。私自身は、ハヤカワ文庫FTで出ているような長大なアメリカ式異世界ファンタジーはあまり好きではないのだけれど、そういうのが「子供の読み物」かといわれたら、それは違うと強く否定するだろう。
逆にいえば、想像力が硬化してしまった「大人」には、最初から現実とはかけはなれた世界が舞台だったり、あまり展開がぶっとんでいるような物語は楽しめまい、ということなのかもしれない。そうであれば、大人を馬鹿にした話である。ま、私みたいなSF者の「大人」は例外で、たいがいの「大人」はそういうものなのかもしれないけど。
同じように、「大人のミステリ」ってのも嫌いな言葉ですね。「大人のSF」という言葉がないのは、SF自体、大人が読むものではないと思われているからかな。とほほ。
ほかにも「大人の寓話」とか「大人のおとぎばなし」なんて言い方もある。まあ、「大人の○○」といってしまえば便利なことは確かなのだけれど、その表現がはらむ意味合いを考えれば、私にはあんまりデリカシーのある表現とは思えない。書評でこういう言葉が使われていたら、私はその書評家の感覚を疑うでしょうね。
やっと出ましたね、世界探偵小説全集のアントニイ・バークリー
『地下室の殺人』(国書刊行会)。K・W・ジーター
『ダーク・シーカー』(ハヤカワ文庫SF)、ニーヴン&パーネル
『神の目の凱歌』(創元SF文庫)購入。『神の目……』って、前作読んだの遥か昔だよ。内容なんてもうすっかり忘れてるなあ。
そういえば、講談社文庫で出ていた『ダルタニアン物語』って、買わないでいるうちに本屋から消えてしまったのだけれど、『仮面の男』が公開されるんだから、復刊してくれないかなあ(それにしても、なんで『鉄仮面』ではなく『仮面の男』なんだろうか)。
7月16日(木)
すっかり間があいてしまったが、今月は国書刊行会強化月間なのだった(感謝月間だったっけ?)。今月読了の3冊目は、荒俣宏・紀田順一郎監修の伝説の叢書「世界幻想文学体系」から、ヤン・ポトツキ
『サラゴサ手稿』。このシリーズ、かつてはゾッキ本屋でよく見かけたものだが、最近ではあまり見かけなくなってしまった。復刊、文庫化された作品もいくつかあるとはいえ、いまだにこのシリーズでしか読めない名作も数多いので、幻想文学嗜好の人は揃えておいて損はない叢書である。全ページの左右に薄い色で印刷された絵や、重厚な箱とセロハン紙のカバー(これがすぐ破れてしまうのだ)など、やたらと凝りまくった装丁が収集欲をかきたてるのだけれど、全部揃えるとやたらと本棚のスペースを取るのが難点。
さて、今回読んだ『サラゴサ手稿』も、本シリーズでしか読めない作品のひとつ。ただし、本書は「千一夜物語」のように長大な物語のうちの前半1/5程度の訳にすぎないのだが(東京創元社から完訳版が出るという話を聞いた覚えがあるのだが、どうなったんだろうなあ)。本書が出版されたのは1805年なのだけれど、読んでみて驚いたのだが、その構成は19世紀初頭の作品とはとても思えないほど新しいのだ。
主人公の騎士アルフォンスはスペイン南部を旅している途中、兄弟の谷と呼ばれる土地にさしかかる。ここは盗賊として名高い三人の兄弟にちなんで名づけられた地名。三兄弟のうち二人は捕らえられ、谷に差しかかった場所で絞首刑になり、いまなお死体を曝している。しかし長兄ゾトだけは脱獄し、アルハンブラ山中に潜伏中だという。
悪魔が出るとの噂もある土地を恐れ、従者は次々と逃亡してしまい、ついにアルフォンスはたった一人で旅をすることになってしまう。そうこうしているうちに日が沈み、アルフォンスは打ち捨てられた宿屋で一晩をすごすことにする。
すると宿屋の奥から現れたのは彼の母方の従妹だと名乗るイスラム教徒の美人姉妹。アルフォンスは一晩彼女たちと快楽をともにするのだが、翌日の朝、目がさめてみると、彼は絞首台の真下におり、二人の盗賊兄弟の死体と並んで寝ていたのであった。
呆然としたアルフォンスがたどりついた街で、彼はある隠者に出くわす。隠者は、彼と同じような経験をして発狂した男の治療を行っているといい、アルフォンスが出会ったのは悪魔に違いないから、二人の名前を言えとアルフォンスに迫る。しかし「私たちのことを悪く言う人がいても信じないように」と姉妹に言われていたアルフォンスはそれを拒否。街を出ようとしたとき、唐突に彼は異端審問官に逮捕されてしまう。
後ろ手に縛られたアルフォンスの前に引き出されてきたのは、やはり縛られた彼の従妹たち。審問官は「この二人を知っているか」と聞き、アルフォンスが答えなければ拷問してでも答えてもらうという。
審問官がまさに彼の脚を締めつけようとしたとき! 従妹たちが歓声を挙げた。「ゾト!」。盗賊ゾトが彼らを救い出しに来てくれたのだ。そしてゾトの二人の兄弟も実は生きているという……。
という具合に何が現実なのかさっぱりわからないままに延々と話は続き、その合間合間にアラビアン・ナイトのような挿話が物語られる。果たして美人姉妹は実在するのか、それとも悪魔なのか幻覚なのか、最後まで(本当は途中だけど)読んでもわからない。
私がこれを読んで思い出したのはテリー・ギリアム監督の『未来世紀ブラジル』ですね。拷問直前に義賊が助けに来てくれるところなどそっくりで、もしかしたら本書に影響を受けたのかもしれないとまで思えてしまう。
さすが、「幻想文学最初にして最高の作品」といわれるだけのことはあって、現実と虚構が複雑怪奇に交錯するファンタジーの傑作である。東京創元社さん、完訳版をぜひ出してください。
エリック・L・ハリー
『サイバー戦争』(二見文庫)購入。二見文庫を買うのは久しぶり。著者は『最終戦争』『全面戦争』といった軍事サスペンスの作家。本書も同様の軍事サスペンスなら私の守備範囲外なので買わなかったところだが、解説や裏表紙を見る限りはニューロ・コンピュータを扱ったSFのよう。謝辞ではデネット、ミンスキー、モラヴェックに感謝を捧げているし、何よりも原題は"Society of the Mind"。ミンスキーの『心の社会』と同じなのだ("the"の位置が違うけど)。これはひょっとしたら意外な拾い物かも。
小俣和一郎
『精神病院の起源』(太田出版)も購入。
どうでもいいが華原朋美の新曲はとうてい聞くに耐えないと思うのは私だけか? これが売れているというのは謎としかいいようがない。
7月15日(水)
前にも書いた覚えがあるが、私が以前から注目しているミステリー評論家が、
郷原宏だ。新刊ミステリーを手にとって、解説の欄に「郷原宏」とあると、胸がときめいてくるのを感じるくらいである。
多くのミステリーの解説を書いている評論家といえば、中島河太郎、新保博久、山前譲などがいるけれど、過去の作品データや作者の経歴が中心になりがちなミステリー解説の中にあって、郷原宏の解説は、華麗なレトリックで異彩を放っている。それもそのはず、最近でこそ肩書きが「文芸評論家」となっていることが多いが、かつては彼の肩書きは「詩人」だった。ただ、彼がどんな詩を書いているのか知らないのだが。そんな彼のことを私は勝手に
解説の詩人と呼んでいる。
郷原宏の解説は、多作家やノベルズ作家など、間違っても文春や宝島のベストテンになど入らない作品に集中している。この手の作品について(しかも何冊も)語るのは非常に難しいことである。だから、あまり他の作家や評論家は引き受けたがらないものだが、郷原宏の華麗なテクニックをもってすれば、語る内容のないミステリーなどありはしないのである。
郷原解説の醍醐味といえば、なんといってもその結末の決め台詞である。おそらく、郷原宏はこの決め台詞にすべてを賭けている。例えば、これを読んでほしい。
日本の未来がどうなるかは保証の限りではないが、ミステリーの未来が明るいことだけは確かである。そこに赤川次郎がいる限り――。
赤川次郎『昼下がりの恋人達』
いきなり「日本の未来」である。普通なら、たかがミステリーの解説でそこまでは言わない。しかし解説の詩人、郷原宏は言ってしまう。
これを読んでミステリーが好きになれない人は、さびしがり屋ならぬ“さびしい死体”だといわなければならない。
赤川次郎『さびしがり屋の死体』
読者を死体扱いである。解説でそこまでいうか。しかし、それを平然と書いてしまうのが詩人郷原宏である。
そして、郷原宏が最も愛している決め台詞、彼のトレードマークとでもいうべきフレーズが、これである。
そこに一冊の○○がある限り、私たちの人生に退屈の二字はない。
○○には作家の名前、ときによっては「三毛猫ホームズシリーズ」だとか「十津川警部シリーズ」などのシリーズ名が入る。驚くべきことに赤川次郎『アンバランスな放課後』、笹沢左保『残り香の女』、清水一行『花の嵐』『不敵な男』、深谷忠記『萩・津和野殺人ライン』、和久峻三『逃亡弁護士』、阿久悠『飢餓旅行』、三好徹『へんくつ一代』、浅川純『浮かぶ密室』(どういうわけか「私たちの人生に」ではなく「日本の知識人に」となっている)と、書店で調べただけでも(わざわざ調べたのだ、トホホ)、9冊の解説にこのフレーズが使われていた。ポワトリンといえば「天に代わってお仕置きよ」、郷原宏といえばこの台詞。文句なく、郷原宏最高の決め台詞といってもいいだろう。
ただ、この名フレーズも少しずつ変化しているようで、清水一行『相続人の妻』では、
そこに一冊の○○がある限り、人生のページに退屈という名の悲劇はない。
そして、赤川次郎『三毛猫ホームズの四季』、清水一行『悪魔祓い』『すげえ奴』では、
そこに一冊の○○がある限り、私たちの人生の辞書に失望の二字はない。
と、「退屈」が「失望」に変化している。
西村京太郎の『越後・会津殺人ルート』を開いたとき、私は「おお」と声を挙げた。
そこに一冊の十津川警部シリーズがある限り、私たちの人生の旅に「退屈」や「失望」の文字はない。
「退屈」から「失望」への過渡期に書かれたものだろうか。二大郷原単語の大盤振る舞いである。十津川シリーズに合わせ、「人生の辞書」を「人生の旅」に変更している小技が心憎い。
「そこに一冊の……」パターンほど例は多くないが、やはり郷原宏が好んで使うのが、勝手に読者の幸せを感謝してしまうパターンである。
こういう短篇集(こういう作品)を、一冊の文庫本で読める現代の読者は幸せである。
このフレーズは、赤川次郎『血とバラ』『僕らの課外授業』、西村寿行『無頼船 ブーメランの日』、浅川純『しあわせのわけまえ』で使われている。
こういう作家と同じ時代に生まれ合わせた読者の幸せを感謝せずにはいられない。
別に郷原宏に感謝してもらわなくても、と思うのだが、これも赤川次郎『フルコース夫人の冒険』『本日もセンチメンタル』(少し表現が違うが)、西村京太郎『消えたドライバー』、生島次郎『世紀末の殺人』、山村美紗『伊勢志摩殺人事件』と数多くの作品で使われている。
山村ミステリーの読者は、いま、日本でいちばん幸せな読者である。山村美紗『京都東山殺人事件』
という変形もある。何を根拠に、とかそんな無粋な疑問を抱いてはいけない。私たちはただ、解説の詩人郷原宏の華麗なるレトリックを堪能すればよいのである。
さて、今月の新刊である阿井渉介『まだらの蛇の殺人』(どうでもいいが、このタイトル自体ある作品のネタバレではないのか。広瀬正に「げた」というショートショートがあって……と言ってるようなものだと思うのだが)を手に取り、郷原宏による巻末の解説を一読した私は愉悦に打ち震えた。郷原宏はこの解説において新しい決め台詞を披露してくれていたのである。
阿井渉介を読まずに現代ミステリーは語れない。そしてもちろん、本書を読まずに阿井渉介は語れない。
今までの郷原フレーズと同じく、名前を変えさえすればすべてのミステリーに使用可能だというところが素晴らしい。郷原宏はこれからも、私たちを楽しませてくれるだろう。
そこに郷原宏の解説がある限り、私たちの人生に退屈の二字はない。
7月14日(火)
毎日新聞のコラムにおもしろいことが書いてあった。
「本屋通いの好きな橋本は、速読、乱読だった。SF、司馬遼ものからマンガ本まで。以前は『赤毛のアン』シリーズに熱中したが、最近は『中華一番』(マンガ)なども読んだ」
橋本とは、もちろん橋本龍太郎首相。そういや、伊藤典夫師匠も以前、
「橋本龍太郎はマイクル・P・キュービー=マクダウェルの『星々へのキャラバン』を読んでいるらしい」と言ってたっけ(今ではもう品切れだから、だいぶ以前の話だな)。
SF文庫を読み、『中華一番』を愛読し、『赤毛のアン』に熱中する男、龍太郎。なんだ、案外いい奴ではないか(笑)。我々は、惜しい総理を失ったのかもしれんぞ。
自民党に投票しとけばよかったかな(嘘)。
病院の帰りに渋谷まで出て、青山劇場で上演されている
少年隊ミュージカル"5 nights"を観に行く(笑)。いや、私だって観るつもりはなかったのだ、本当は。妻の妹が急に行けなくなってチケットが余ってしまったとのことなので、仕方なく妻とともに行くことになってしまったのだよ。わかってくれ、私の気持ちも(妻もその妹も古くからの少年隊ファンなのである。我が家には二人が少年隊の三人に囲まれて映っている写真が、私と妻の写真よりも目立つ場所に飾られているくらいだ)。
上演開始直前に青山劇場に入ってみると、当然のことながら、満員の客席は99パーセントが女性。居心地が悪いことこの上ない。けっこう年齢層は高いようだ。まあ、少年隊も芸歴長いからな、恒例のこのミュージカルにしたって今年で13年目だそうな。ところどころにいる若い女性は、共演のV6(トニセン)あるいはジュニア目当てに違いない。客席には芸能レポーターの姿があるし、前の方にいるのは
森光子ではないか。まあ来ていて当然か。
ミュージカルの感想なのだが、うーむ、なんだか、これについては私のような部外者は語ってはいけないような気がする。脚本の破綻や演技の稚拙さ(特にV6)を云々することは簡単だが、そういう指摘をすることにはさして意味はないだろう。脚本にかなり無理があるのは、少年隊の3人、そしてトニセンの3人の計6人にそれぞれ見せ場を作るため仕方がなかったのだろうし、恋愛ものだというのに相手の女性が単なる添え物にすぎないのは、これがジャニーズミュージカルである以上当然ともいえる。これは、ジャニーズファンのためのミュージカルなのだ。V6の顔と名前すら一致しない私のような人間に向けては作られてはいない。ジャニーズファンが楽しめれば、それでいいのだ。私が口を挟む余地などまるでない。
私とて、人からはオタクと呼ばれる人種である以上、価値観の多様性はよく理解している。同じ価値観の上に立っているのであれば批評もできるが、価値観そのものが違うのであれば批評しても詮無いことである。私から見ればこのミュージカルにさして価値はないが、別のベクトルから見てみれば大いに価値があるということはよく理解できる。そうであれば、私にできることは、周囲にいるジャニーズファンたちに敬意を払い、静かに観劇していることくらいではないか。
要するに、私には縁のない世界でした、ごめんなさい、ということです。貴重な体験をさせてもらったことはありがたいけど、一度観れば充分です、妻には悪いけど。
妻はというと、おとといの初日と今日観た上に、日曜日の千秋楽にもまた観に行くつもりらしい。うむう。
7月13日(月)
ジェフリー・A・ランディスという作家の作品に、"Great Shakes"というバカSFの短篇がある。某所の翻訳勉強会でお茶大SF研OGの阿部さんがこの小説を訳されていたのだけれど、この作品の冒頭にいきなり出てくるのがクロスワードパズルを使った英語ならではの言葉遊びのギャグ。
クロスワードパズルを片手に頭を悩ませている大統領。国務長官にこう尋ねる。
「"UNT"で終わる4文字の女に関係する単語といえば何だ?」「AUNTでしょう」なるほど、というわけで大統領は消しゴムに手を伸ばす。大統領は別の単語を思い浮かべていたわけだ。
その後も、
「"TCH"で終わる5文字の単語で、ヒントは『会いたくない女性』といえば?」「WITCHでしょう」「なるほど」というやりとりがある。
大統領と国務長官の性格、というか品性(笑)の違いをうまく示したなかなかうまい会話だと思うのだけれど、問題は、これをどうやって日本語に訳せばいいか、ということ。ここはやっぱり、柳瀬尚紀にならって、似たような意味の日本語ギャグに移し変えなければならないところだろう(ただし、私には柳瀬尚紀が翻訳した言葉遊びはとうていおもしろいとは思えないんだけど)。
とりあえず、
「『チ×チ×』で、ヒントは『大きくなると奥さんが喜ぶ』といえば?」「チョチクじゃないですか」というのを思いついたけど、ちょっとぎこちないですね。
いくら考えてもこれ以上思い浮かばないので、唐突ですが、アイディアを募集します。要するに、ヒントと伏せ字で一見お下劣な単語のように思えるけど、実は全然違う単語、というのを見つければいいわけです。別に翻訳であることにこだわらず、おもしろければなんでもいいです。おもしろいネタを思いついたら、私まで
メールで送ってください。
たくさん集まったら、冬樹さんみたいにコンテストをやるかも。
えー、それから阿部さん、勝手にネタに使ってしまってすいません。
7月12日(日)
さて今日は『キングダムII』か『プルガサリ』を見に行こうかと思ったのだが、なんでも妻が
少年隊を見に行かねばならないというので、急遽中止。そういうことは先に言ってくれ。
午後から二人で選挙に。その選挙だけど、今回は投票率がかなり上がったらしい。橋本政権に国民がノーと言ったということでしょうか、などと各局のキャスターは鬼の首でも取ったかのように自民党幹部を問い詰めているが、これは自民党のせいというより、あんたらの責任だろうが。投票に行かないと日本は本当に危ないぞ、と事前にマスコミが危機感を盛り上げまくったおかげだろうなあ。「誰に入れても一緒じゃん。でも自民党だけはイヤ」という私のような人間が大挙して投票所へと向かったわけだ(笑)。自民党としては、投票率が上がってほしくなかったんだろうな。民主党や共産党は「国民のみなさま」でなくて、各マスコミに感謝しなければいけませんね。
うーん、なんかありきたりなコメントだなあ。これだけではつまらんので、本に埋もれた当ページらしい話題をひとつ。開票速報を見て初めて知ったのだが、女性検事で横溝正史賞を取った推理作家の松木麗が、本名で自民党から立候補していて当選したらしい。この人の本、読んだことないので特段感想はない(『少年被疑者』『恋文』などの著書があるらしい)のだけど、推理作家で国会議員という人は、今までいなかったんじゃないだろうか(よく調べたわけではないけれど)。
これがSF作家になると、議員になってもおかしくないのは誰だろう。知名度があって社会派、ということになると……関西方面のあの人とか韓国通のあの人あたりか。しかし、推理作家で国会議員はまだしも、SF作家で議員ってのはあんまりそぐわないような気がするなあ。
7月11日(土)
今日は7月11日。そう、待ちに待ったあの超話題作映画の公開日である。となると、もちろん行かねばなるまい、映画館へ。悪評も聞いていたが、予告を見たときから、私は期待に胸を膨らませていたのである。
銀座の映画館で見たのだが、今日が初日のはずなのにどうしたわけか妙にすいている。ガラガラといってもいいくらいだ。おかしい。そんなに人気がないのか。話題作ではなかったのか、
『悪魔を憐れむ歌』という映画は(笑)。
設定はなかなかそそられるものがある。デンゼル・ワシントン扮する一介の刑事が、なんと
悪魔アザゼルを敵に回して戦うのである。刑事対悪魔(笑)。まるで、刑事と女教師が天使同士の内紛に巻き込まれるB級アクション映画『ゴッド・アーミー』のようである。
しかし、このアザゼル君、やることが情けない。接触することによって人間に乗り移ることができるのだが、増殖はできないので、つねに本体は一人だけ。だから、できることといったら、人ごみの中で次々と別の人に乗り移って主人公を脅かすことや、逃げるヒロインを追いかけるとき、リレーの要領で次々とタッチすればいいので速いぞ、てなことくらい。地上を悪魔の支配する王国にするのだ、とかいってせっせと人を殺したりもしているのだが、一人ずつ殺すなんて、むちゃくちゃ効率が悪いのと違うか? 悪魔ならもうちょっとましなことはできんのか。
途中まで見ればオチも予想がついてしまうし、短篇小説を無理やり2時間の映画に仕立て上げたみたいで、退屈きわまりない映画。
夜はインド料理の老舗「ナイルレストラン」で食事。歴史のある有名な店だということは認めるが、本格的なインド料理店に比べるとライスは水っぽいしカレーも辛くないし、それほどうまいとは思えないのだけどな。
さて、さすがの私もわざわざ『悪魔を憐れむ歌』のために銀座くんだりまでやってきたわけではない。少しは空いたと思われるレイトショーでいよいよ
『ゴジラ』鑑賞である。
いや、予想通りというか何というか。冒頭、漁船(?)が襲われるシーンは、日本版に敬意を払っているのか、日本のゴジラ映画を踏襲しているのだが(警報画面の点滅する"ABUNAI"の文字には笑った)、その先はまったくの別物。日本ならためにためて、ようやくゴジラの全体像登場となるところだが、アメリカ版ではあっさりとニューヨークに上陸してしまう。尻尾がぶつかってビルが少しだけ崩れる、なんてシーンは日本の怪獣映画ではできなかったもので新鮮だったが、やはりこれは怪獣映画ではなく、巨大生物映画なのだなあ。「怪獣映画」の方は『ガメラ3』に期待するとして、「巨大生物映画」として見れば、及第点といえるでしょう(きわめてハリウッド映画のルーチン通りだけど)。しかし、CG臭さをごまかすせいだと思うのだが、全編雨の中だというのは、ちと逃げ腰すぎる。やはり青空をバックにそびえたつゴジラが見たかった。
後半のタクシー大逃走劇は、なんだか日本のアニメを思わせる軽快さで楽しいが、ちょっとゴジラ映画には合わないような気もする。
彼我の差をいちばん強く感じたのは、軍隊の描写の違い。日本のゴジラ映画ならば、防衛軍は「○○作戦!」とかいっていろいろと知恵を絞るところだ。しかも、さまざまな作戦を実行したものの、結局軍隊では歯が立たず、天才科学者の発明を使うとか、他の怪獣と相打ちになるとかいった方法で怪獣の脅威は去ることになる。ウルトラマンでも軍は常に敗退し、得体の知れない超人に頼ることになってるしね。
しかし、アメリカ版ではまどろっこしい「○○作戦」など立てず、軍隊はひたすら物量に任せて撃ちまくるのみ。都市を破壊し、建物を爆破しても、結局は軍の力で脅威を打ち破ることになる。『インデペンデンス・デイ』でもそうだったけど、アメリカという国では、軍隊がまったくの無力などというストーリーは許せないと見える。それだけ、軍隊への信頼が高いということか。日本人の私としては、ゴジラが軍に倒されて歓呼の声が湧きあがるシーンでは、『スターシップ・トゥルーパーズ』のラスト、すでに抵抗もできなくなったエイリアンの心を読んだテレパスが「奴は怖がってるぞ!」と宣言するや、いっせいに歓声が湧くという、背筋が寒くなるような場面を思い出して、嫌な気分になってしまったが。
逆にいえば、幼い頃からゴジラ映画やウルトラマンを見てきた日本人には、軍隊という存在は、いざというときには役に立たないものとして刷り込まれてしまっているのですね。そのへんが、ウルトラマンがアメリカでは受けない理由かも。