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6月30日(火)

 古い精神医学雑誌をめくる楽しみのひとつは、研究のはやりすたりがわかること。医学だって当然ながら時代の産物である。昔の雑誌では、今ではまったく行われていないような研究で、盛んに論文が書かれていたりするのだ。例えば、ロボトミー。昭和30年代には掲載された多くの論文では、当時からあった反対論など「いつの世も先駆者は非難されるのだ」と勇ましく一蹴しているのだが、昭和40年代以降はぱったりと姿を消してしまう。
 ロボトミーほど論文数は多くはないものの、同じように昭和30年代に盛んだったがその後すっかり下火になったジャンルが、実験精神医学。といっても聞いたことがないという人が大半だろうけれど、これはつまり「自然の精神病に似た状態を実験的に作り出すこと」。薬を使って人工的に精神病を作り出してしまえ、というわけである。なお、実験精神医学の文脈では、精神病といえば精神分裂病をさす。
 当然ながら、使われたのは物騒な薬ばかり。それ以前に使われていた薬物は、アルコール、カフェイン、ハシシュ、そしてメスカリンという具合。「てんかん患者にアドレナリンの誘導体を注射したら異常脳波がさらに強くなりました」という実験もあったらしい。これなど、道義的にかなり問題があると思うのだが。
 さて、それまでも行われていた実験精神医学が、なぜ昭和30年代に盛んになったかといえば、それは画期的な新薬が合成されたからである。「多彩な精神症状を誘発し、症状がきわめて(分裂病に)類似している点でより一層研究的興味がそそられる」夢の物質。それが、lysergic acid diethylamide、つまりLSDなのであった。LSDは1943年、実験室で偶然に合成され、仕事中だった化学者ホフマンが偶然それを口にした(するか、普通)ことからその精神作用が明らかになったのだそうな。もちろん、昭和30年以前にも海外ではすでに研究されていたのだが、戦争の影響もあってか、日本でLSDの研究がようやくブームになったのは昭和30年代なのであった。
 ただ、CTもなければ分子生物学も大して発達していない時代のこと、実験といってもせいぜい脳波をとるか、「LSDによる精神現象をありのままにとらえる」と称して、被験者を観察したり精神状態を報告させたりするという現象学的研究ばかりなのだった。
 この被験者には誰がなるのかといえば、「医学部の学生で男子20例、女子10例」だったり、「24歳から34歳の医者と看護婦」だったりする。「画家でもある精神科医が、自分でLSDを飲んで絵を描いてみました」なんて論文もある。つまり、手近な人間で済ませてるわけですね。うーん、なんだか集団でラリっている医者やら看護婦やら医学生やらの図が思い浮かんでしまうのだけれど。実験用のLSDをこっそり盗んでいた医者もいたんじゃないかなあ。
 論文に引用されている24歳の女子医学生の報告文はこんな感じ。
「緊張感も恐怖感もなく、このままじっとしているのが自然で一番楽です。時間のたつのが気にならないというより、時間の観念がないのです。視野はさらに狭くなり、注視物だけが目に映り、それ以外は目に入りません。刺激が加わると、はっと一瞬実験されている自分に気がつきますが、またもとに戻ってしまいます。白い壁から銀色の線がわいてきそうです。自分のほうからもジーンと緑や黄色の線が飛び出していくみたいです」。ラリってますな、完全に。
 27歳の看護婦は、突然ゲラゲラ笑い出したかと思うと、硬い表情になって両手を顔にあて、指の隙間から周囲をうかがうように目をキョロキョロさせるようになった。それから数時間たってもLSDの効果は消えず、何を聞いてもふんふんいうだけで答えない。同僚が「お手洗い?」と聞いたらふんふんというので、同僚は手を引いて階段を降り、便所に入れてやった。それから数時間眠ったあともやはりふんふんいうだけで何も答えず、翌日は一日中寝ていたという。次の日からは周囲を認識するようになったが、その後約1週間は感情が鈍麻した状態になり、勤務にはついていたが義務をこなすのがやっと。その間、正常な状態ならとてもたえられないような精神的ショックを受けたが、きわめて淡々とした態度だったという。
 とてもたえられないような精神的ショックってのはいったい何? もし医療事故だったとしたら、いったい誰が責任をとったんだろう。
 一時は精神科医たちの間でブームとなったLSD実験だが、その後、LSDは一般に広まってしまった(60年代といえばヒッピーの時代ですね)ことから麻薬に指定されてしまい、そして、やっぱり薬による幻覚と分裂病の幻覚は違うよ、という当然といえば当然のことが明らかになったことにより、実験精神医学はすっかり下火になってしまうのであった。
 しかし私もいちどくらい実験と称してラリってみたかったような気もするなあ。昭和30年代の精神科医がちょっとうらやましい私である(などと書いておくと、もし私がドラッグで逮捕されたとしたら、「エリート精神科医、ホームページでLSDを礼賛!」などと週刊誌に載ってしまうかも(笑))。
6月29日(月)

 「水中毒」という病気がある。
 その名の通り、とにかく水を大量に飲まずにはいられないというもので、普通の人にはまず起こらないので一般にはあまり知られていないが、精神病院ではよくある病態だ。こうなってしまったら、予防のため毎日体重をチェックし、もし体重が急激に増えていたら、水分を制限するために保護室に隔離するしかない。
 水を飲むだけだったらそれほど害はないではないか、と思う人もいるかもしれないが、それは大きな間違いである。一気に数リットルの水を飲めば、血液は急激に薄まり、低ナトリウム血症やけいれん、錯乱、昏睡を起こすことだってありうる。さらに10リットル以上もの水を飲めば、脳浮腫や肺水腫で生命の危険すらあるのだ。恐怖のDHMOは冗談だったが、実際、水という物質は、大量摂取すれば死に至ることもある劇物なのである(どんなに体にいい物質だって、大量に摂取すれば毒物である)。
 この水中毒、どういうわけか慢性の精神分裂病に多く、死に至るほど激しい人は少ないものの、多飲の傾向のある患者さんなら、精神病棟には必ず何人かいるものである。強迫症状、口渇中枢のドーパミン過剰、抗精神病薬の副作用などさまざまな説があるものの、原因はいまだに不明。
 私の担当する病棟にも水中毒の患者さんがいて、このところ毎日体重や尿の比重を計っていた。水が飲めないように保護室に隔離していたのだが、外に出るたびにまた飲んでしまう。出たり入ったりを繰り返していたが、週末の間に、隠れて大量の水を飲んでしまったらしく、意識不明となってけいれん発作を起こし、合併症病棟へと転棟してしまっていた。
 水中毒の治療は難しい。どんなに水分を制限し、水を飲まないように注意しても、ずっと隔離しつづけておくことができない以上、治療にはおのずから限界があるのだ。

 そういえば、今日明らかになったのだが、8月からはいちばん忙しい病棟に転属になるらしい。うう、不安だ。体力には全然自信ないからなあ。

 尾崎諒馬『思案せり我が暗号』(角川書店)読了。これぞバカミステリ(笑)。本当に、たったひとつの暗号で長編を最後まで引っ張っていくのには驚いた。巻末の選評のとおり、稚拙な文章といい、折原一の線を狙って失敗したようなラストといい、きわめてバランスが悪い小説なのだが、異様な迫力があることは確か。しかしこの作家、次作が書けるんだろうか。数年後には、知る人ぞ知る一発屋になっているような予感が……。

 北川歩実『僕を殺した女』(新潮文庫)購入。ぴったり3年で文庫化。
6月28日()

 アメリカでヒットした映画ってのはたいがい日本でもヒットするものだが、たまにはそうでもない映画もある。ダスティン・ホフマンとデ・ニーロが共演した『ワグ・ザ・ドッグ』がそうだったし、『スクリーム』もそうだったなあ(これは、ちょうど酒鬼薔薇事件と重なってしまったのが不幸だったけど)。その『スクリーム』の脚本家が書いた2本目の映画が、本日見てきた『ラスト・サマー』。なんだか恋愛映画みたいな邦題だが、原題は「去年の夏お前らが何をしたか知ってるぞ」。この投げやりな邦題はなんとかしてほしい。
 これも全米で大ヒットしたそうだけど、どうしたわけか日本では全然ダメ。理由が見ればわかる(笑)。要するにこれは、アイドル映画なのですね。女の子たちは妙に胸の谷間を強調しているし、日本でいえば細川ふみえ、飯島愛主演の『ぷるぷる 天使的休日』のような(といっても誰もわからんか)、グラビアアイドル主演のお色気映画なのかも。その点に関しては十分楽しませてもらったので文句は言えないのだけれど(主役の女の子はかわいかったし)、ストーリーはといえばあまりにもずさん。
 引っ張るだけ引っ張っておいて、この情けない真犯人はないだろう(怒)。私はこの裏にさらに本当の真相があるのかと思ってしまったぞ。この犯人では、なんでここまで執念深く若者たちを追いまわすのかよくわからないし、解明されていない謎(蟹をどうやって片付けたの? とか)も多すぎやしないか? まあ、そういうミステリ的な見方をする映画ではないのかもしれないけど。
6月27日()

 今日は外は暑そうなので、家でぶらぶらして過ごす一日。日が落ちてから、買い物がてら夕食でも食べに行くか、とばかりにようやく外に出る。ほとんど夜行性動物である。しかし、「がてら」ってなんだろう。
 しかし、夜になってもやっぱり蒸し暑いねえ、東京は。夜道を妻とふたりして歩いていると、道端で何か動くものがある。
「あ、蛙」
 というと、妻がきゃっと叫んで飛びのいた。その動きに驚いたのか、蛙は一跳びで塀の隙間に入り込んでしまった。
「今そこに蛙がいたんだよ」と言っても、妻はなかなか信じようとしない。「ほら、そこに入り込んだ」と隙間を指すと、しゃがみこんでその奥をのぞきこんでいる。声を挙げたのは別に蛙が怖いからではなく、私の声に驚いただけだったらしい。そのうちに蛙が少し動いたようで、妻も「あ、ほんとだ」と声をあげた。
 よく見れば、体長は約10センチくらい、色は茶色っぽいかなり立派な蛙である。この辺みたいな都会の住宅地の真ん中にも、けっこう蛙がいるものなのだなあ、と思ったのだが、妻は、誰かが飼っていたのが逃げたのではないか、という。
 以前、北の丸公園に行ったとき、歩道といい芝生といい、小さな蛙がうじゃうじゃとそこらじゅうを跳ねまわっていた(あれはけっこう不気味であった)ことがあったから、この辺に蛙がいてもおかしくはないと思うのだが。しかし、この辺には池が全然ないのだよなあ。いったいどこに住んでいたんだろう。やっぱり、妻の言うように、誰かに飼われていたんだろうか。

 家から15分くらい歩いたところにあるスペイン料理店で、パエリヤやら煮込み料理やらを食べる。ここでは食事をしながらフラメンコが見られる。どうもダンサーの方がやっているフラメンコ教室の生徒が食事をしにきていたらしく、私以外ほとんどが女性客ばかりだったのがなんとも居心地が悪い。

 いや、今日は日常雑記ばかりで、なんだかまるで日記のようではないか(笑)。
6月26日(金)

 ようやくジオ復活。最近のジオシティーズは、重いわよく落ちるわ、まったくどうしようもない。中でも、6月からページのいちばん上につけることになったジオガイドとかいうやつが、重くて重くてかなわない。せっかくほとんどイメージを使わず軽いページにしているというのに、あれのおかげで台無しである。
 復活後も異常に遅くてやたらとストレスがたまる。負荷が大きいせいだと思うが、これではとても耐えられない。というわけで、ついに引っ越しいたしました。新アドレスはhttp://member.nifty.ne.jp/windyfield/です。いやあ、ジオシティーズに比べれば嘘のような軽さ(これが普通だって)。無料の掲示板も借りたので、ご意見ご感想はそちらへどうぞ(メールでもいいですが)。

 6月22日の古本の話を読み返してみたら、なんだか全然意味が通らないことを書いているではないか。これはちょっと読むに耐えないので書きなおしました。あんまり変わってないかもしれないけど。まあ、単なるこだわりです。

 テレビ朝日の「やじうまワイド」でのこと。サッカーの相馬選手にフランスリーグからお誘いが来ているという話題のとき、女性アナが何気ない調子でこう言った。「相馬選手に触手が伸びているというわけですけど」。あわれ相馬選手はクラーケンの餌食になってしまうようだ(笑)。危うし相馬選手。相馬選手ではそれほど面白くないが、さとう珠緒に触手が伸びている、とかだと淫靡でいいかも(念のため書いておくと、正しくは「食指を動かす」。食指は伸びません)。
 ところで相馬って誰だ(サッカーにはまったく疎いのだ)。

 今日の毎日新聞では、参院選についてのコラムで湯川れい子さんがこんなことを書いていた。
米国産の大豆の半分が遺伝子操作で耐毒性を備えた製品といわれていますが、その大豆は日本に陸揚げされ、お味噌やお醤油に使われています。毒に強いとは、毒をもっていることではないでしょうか。食用油や子供のお菓子の材料になるトウモロコシもそうです。
 参院選についてのコラムなのに、参院選のことをほとんど書いていないのにも驚いたが、それよりも驚いたのは、毒に強いとは毒をもっていることという、論理性も何もあったものではない一文。なんでそうなるのかなあ。「毒には毒を」という『ジャッカル』の宣伝文句のような発想なのだろうか。その後「今のままじゃ大変なことになる……と、私の本能が叫んでいます」などと書いているが、本能を信じるのもいいけど、理性も磨いてくれないと、それこそ「大変なことになる」と思うのだが。

 なんだか同人誌みたいな装丁の別冊幻想文学『モダンホラースペシャル』購入。モダンホラーを日本に紹介してきた方々のインタビューから、絶版本多数を含むブックガイド(古本屋通いには必携!)まで、表紙は地味だが、きわめて質の高い内容。全然関係ないのだけれど、風間賢二と風間健司が同じ雑誌に書いているのはとても紛らわしい(笑)(別人だと気づきましたか?)。どうしたわけか『きみの血を』と『シャイニング』の評を浅羽通明が書いているのが謎。
6月25日(木)

 ジオ消失。ジオシティーズは黒い雲に覆われ交信不能となってしまったので、ただいま雌伏中。

 中国史上に名高い科挙(官吏登用試験)のシステムが機能しはじめた唐の時代のこと。当時は、その後の時代ほど試験は公正なものではなく、受験者は「行巻」つまり自作の文学作品を有力者に送り届け、文才があれば、有力者が推薦してたのだそうだ。しかし、そうすると有力者のもとには大量の行巻が届けられることになる。こうなると、いくら文才があっても有力者に読まれなければ話にならないわけで、送られてくる行巻も、最初のうちは正統的な詩文だったものが、だんだんと読んで楽しい小説、すなわち伝奇小説が主流になってきた。というわけで、官僚志望の進士たちはせっせと伝奇小説を書きまくり、唐代には伝奇小説の傑作が大量に書かれることになった。
 つまり、唐の時代にはおもしろい怪奇小説が書けることが高級官僚へのパスポートだったというわけ。日本なら、朝松健や篠田節子は今ごろ事務次官だ。なんだか、それもいいような気がする(笑)。
 というような興味深いエピソードが山ほど紹介されている井波律子『中国的大快楽主義』(作品社)、本日読了。中国史エッセイといえば、中野美代子や武田雅哉の本もおもしろいが、中野・武田師弟のエッセイが中国人のものの考え方や世界観をテーマにしているのに対し、井波律子はあまり知られていない人物にスポットを当て、生き生きと描き出すのがとてもうまい。
 本書で私が最も気に入ったのは、極度の庭園マニアの硯マニアで、しかも異様に短気な性格の明代のエピキュリアン張燕客。彼が別荘を建てたときのこと、建物を建てはじめたもののなかなか気に入らず、17回も建てては壊し、ようやく完成。大枚払って手に入れた硯も、ちょっと気に入らない箇所があるといって太い釘でいじくりまわしているうち、ぱっくりと二つに割れてしまう。逆上した彼は金槌で硯を粉々に砕き、湖に捨ててしまったという(笑)。こうして貴重な骨董品を次々と台無しにしていった彼が、両親の遺産をたちまちのうちに使い果たしたころ、明は滅亡。彼は清軍に捕らえられて処刑された。
 愉快で少し哀しいエピキュリアンたちの肖像が生き生きと描かれている上に、中国の怪異譚の流れを俯瞰したエッセイや、ミステリマガジンに載った清代の怪奇小説の翻訳「少女軽業師の恋」も収められていてお買い得な一冊である。本書以外では、中国史上の女性たちを描いた『破壊の女神』(新書館)がお薦め。

 山田風太郎『戦中派虫けら日記』(ちくま文庫)、尾崎諒馬『思案せり我が暗号』(カドカワ・エンタテインメント)、アシモフ&シルヴァーバーグ『夜来たる[長編版]』(創元SF文庫)、田中芳樹『風よ、万里を翔けよ』(トクマノベルス)購入。最後のは次のディズニー映画「ムーラン」の主人公、中国の伝説上の男装の女戦士、花木蘭を描いた長編。それから2冊の「迷宮」、『潤一郎ラビリンスII マゾヒズム小説集』(中公文庫)、『種村季弘のネオ・ラビリントスI 怪物の世界』(河出書房新社)。
6月24日(水)

 コーネル・ウールリッチのあまり知られていない長篇に、『野性の花嫁』(ハヤカワ・ミステリ)という作品がある。都会の哀しみを描いたら右に出るもののないウールリッチだけれど、この作品は異色中の異色作。主人公ラリーがたまたま恋に落ちた相手は考古学者の養女。学者に強硬に結婚を反対され、ラリーは彼女と駆け落ちするのだが、どういうわけか彼女は何かに導かれるようにしてメキシコの山奥へと向かう。なんと、彼女はメキシコ山中にひっそりと生き残っていたマヤ文明の隠れ里の巫女だったのである! 後半は、隠れ里を舞台にした、ハガードばりの脱出冒険行になるのだけれど、おいおい、これでいいのかと思うような展開で驚いてしまう(詳しくは書けないが)。
 冒頭と結末に、「彼の名は、ローレンス・キングスレー・ジョンズ。彼は、あなたや私と同じ、ごく平凡な男。これは、そんな男の身におこった出来事である」という同じフレーズが置かれているのだが、読み終わった者は必ずや、「平凡な男にこんなことがおこるかい」と突っ込みを入れたくなるに違いない。
 この作品、間違ってもウールリッチの傑作ではない。どう考えても駄作である。私としては、あまりのストーリーの馬鹿馬鹿しさに、かえってなんだか愛着があるのだけど。
 しかし、ウールリッチというのは不思議な作家で、例えば『喪服のランデブー』のように流麗な筆致で定評のある作品でも、オープニングはといえば、たまたまデートの待ち合わせ場所の上空を通った飛行機からビンが落ちてきて、恋人の頭に当たって死んでしまった、というお間抜けなもの。で、主人公は飛行機の乗客を一人一人探しては殺していくのである。この人の場合、バカ小説も傑作も作者本人にとっては紙一重なのかもしれない。
 ところで、『野性の花嫁』の95ページに、「それは、頭に靴をのせて立たされるあの最も苛酷な拷問と、本質的には全く変わりなかった」という文章があるのだけれど、なんだ、これ。「あの」と書いてあるということは、有名な拷問なのか? バケツを持って廊下に立たされているみたいで、なんだか苛酷そうじゃないんだがなあ。『ヨーロッパ拷問展』の展示にもこんな拷問なかったぞ。
6月23日(火)

 例の非配偶者間の体外受精を行った根津院長が日本産婦人科学会から除名されたそうだ。これで、この院長、見事学会を追放された男となったわけだ。おお、なんとアナクロな。
 昔の小説とかドラマなんかだと、「学会」なる得体の知れない組織があって、(会長の娘との縁談を蹴ったとか、論文のアイディアを教授が盗んだことをマスコミにばらそうとしたとかいう理由で)なんらかの黒い陰謀によってそこから追放された主人公は、研究者生命を絶たれてしまって「学会」への復讐を誓ったりするものだが、(他の分野はどうか知らないが)医学界では、別に学会を追放されたところで痛くも痒くもない。学会なんてものは要するに単なる専門家の集団ですからね。除名といたって、単にそこの学会で発表したり雑誌に論文を掲載してもらえなくなったりするというだけのことであって、法的には何の根拠もないのだ。学会によっては、学会認定医の資格を定めているところもあって、そういうところから追放されると、資格を取り消されることになるだろうが、それでも医者としての診療はなんの問題もなく続けられる。それに、直接海外の雑誌に投稿してしまえば、国内の学会から除名されていようが全然関係ない。しかも、国内の学会誌に載るより海外の雑誌に載ったほうがずっとステータスが高いので、いい研究はみんな国内の学会を素通りしてしまうことになる。
 精神科だと、日本精神神経学会というのがいちばん大きい学会だが、そのほかにも精神病理学会、生物学的精神医学会、社会精神医学会、老年精神医学会などいろいろあって、どれに入ってもいいし入らなくてもいい。「学会」という巨大な組織が精神科全体を牛耳っているわけではないのだ。ちなみに、私はどれにも入ってません(笑)。

 毎日新聞一面トップ記事によれば、「ゆとりある教育」を実現するため、小中学校の「学習内容を3割削減」して「『生きる力』を育成」するそうな。小学校では図形の合同・対称、比例・反比例の式、中学校では2次方程式の解の公式、力の合成と分解が削減されるらしい。おいおい、これって重要な項目ばっかりなのでは? それに、理科や数学分野ばっかりなのはなぜ? 項目を減らせば数学嫌いが減るというわけではないだろう。教えなければならないのは、数学や物理は断じて暗記科目ではなく、論理的思考力が必要な教科だ、ということだろうに。学習内容を3割も減らして、これ以上頭の悪い若者を作り出してどうしようというのか。これではどんどん大学にしわ寄せがくるわけばかりだと思うのだが。私が大学に入ったころにも、高校で習う物理や数学の内容と、大学で教えられる内容の間には深い溝があったけど、その乖離がいっそうひどくなるだけなんじゃないだろうか。

 積木鏡介『魔物どもの聖餐』(講談社ノベルス)読了。『歪んだ創世記』は絶賛派に回った私だが、さすがに、これは。趣向があまりにも粗雑だし、いちばん長い童話風のパートもさしておもしろくない。フレドリック・ブラウンへのオマージュかと思わせる作者の言葉にはだまされた。
6月22日(月)

 中井久夫『最終講義』(みすず書房)読了。中井久夫は神戸大学元教授で、日本の分裂病研究の第一人者。絵画療法の研究でも知られ、患者さんに川や山などのある風景を書かせる「風景構成法」を編み出した人物でもある。阪神大震災下での精神科医たちの活動を綴った『1995年1月・神戸』もよく知られている。文句なく、日本の精神医学界の重鎮である。
 この本は昨年3月に神戸大学で行われた最終講義を本にしたもので、中井久夫の30年の分裂病研究のエッセンスといってもいいけど、精神医学に初めて触れる人が読んで面白いかどうかは疑問。少なくとも、分裂病の患者さんに触れた経験のある人でないと、この本のなんでもないような一行一行にこめられた深みは理解できないに違いない。この本を読んで感心するのは、著者が患者さんをよく見ていて、わずかな変化まで実によくとりあげているということ。簡単そうだがこれが難しい。でも、これが精神科医の基本なのだ。
 SF的に興味深かったのは、分裂病の成因についてごく軽く触れた個所。分裂病の原因はまだわかっていないのだが、どういうわけか分裂病とリウマチにはマイナスの相関があることがわかっている。つまり、分裂病とリウマチは両立しにくいのである。何か「精神・神経・内分泌・免疫相関システムのような、広大な未知の領域」があるのではないか、と中井久夫は書いている。
 また、分裂病の最大の謎のひとつが、いつ発生したのかわかっていないということ。古い文献を見ても分裂病らしい病気の記述はないようなのである。明らかな分裂病の記述が見つかるのは、せいぜい18世紀か19世紀。とすると、分裂病が発生したのは18世紀なのか? 実際、分裂病は産業革命以来であるとか、種痘のワクシニアウィルスに混じっていた別のウィルスによって広がったという説もあるらしい。分裂病ウィルス説。小説が一本書けそうなネタである。ただし、中井久夫は中国の文献や古代ギリシアの文献には分裂病の記載が散見されるようだと書いているが。

 溝口さんと没さんの共同プロジェクトである「クラスターの領地」に、都内にあるSF、幻想系に強い古本屋のリストが加わった。私の知らない古本屋も多かったりして、かなり実用度が高くて感激しました。でも、これを見て私がいちばん感心したのは、こういうリストがアップされた、ということ自体なのですね。旧来の古本マニアだったら、絶対にこんなことはしません
 大手パソコン通信内の某所に、絶版本についての情報を交換したり、入手した本の自慢をしあったりしているというマニアックな倶楽部がある。ここはけっこう収集歴の長い人が多く、生半可な古本者(私のことです)ではとてもついていけないディープな世界が広がっているのだが、この倶楽部にはある不文律がある。それは、「古書店の名前や場所を明かさない」こと。絶版本を捜し求める者にとって、古本屋の情報、とくに掘り出し物が多い古書店の情報というのは財産なのである。古本屋の名前を明かしてしまうことは、手札をさらしてしまうようなものなのだ。古本道に命を賭ける者たちは、他人を利するような行為は決してしないのである(それがまわりまわって自分の利益になると判断したときは別である)。
 集める対象がなんにせよ、収集家というのは非常に自己中心的であって、他人を利するような行為は間違ってもしない、それが常識だったのだ。しかし、溝口さんたちはあえてこのリストを公開することにした。それが私には驚きだったわけです。
 また、古本マニアがあえてすでに持っている本を買い込んだとしたら、それはひとえに他人と交換するため。コレクター同士、持っていない本を交換することでより効率的に収集できるわけだ。珍しい本を無償で他人にあげてしまうようなことは、なんの得にもならないので(あまり)しない。それが常識だと思っていたから、古本を放出して特に対価を求めようとしない熊倉さんの「リスの檻」には驚きました。
 わざわざ古本屋情報を人に教えるとか、珍しい本を人にあげてしまうとかいうのは、今までの古本マニアの常識では考えられないことだ。少なくとも、彼らの姿は旧来の「マニア」像とはかけ離れている。これは、インターネット上に出現した新世代の古本者といってもいいんじゃないだろうか。今後、秘密主義、自己中心主義のコレクターから、情報共有型の新しいコレクターへと中心が移っていけば、この業界(どの業界だ?)も活気が出て、なかなか楽しいことになるのではないかなあ。「お前、これ持ってないだろう、けっこう安かったぜ。でもどこで買ったは秘密」なんていう陰険な古本マニアとはあまり友達になりたくないし(笑)。
 どうやら、古本界にも情報公開の波が広がっているようです、とまるで三流レポーターのようにおざなりなコメントで締めくくってしまう私である(笑)。

 などと書いていたら、古本屋リストは一時閉鎖だそうな。あらら。
6月21日()

 見ましたよ、セガの新CM。いやあ、これはすごい。目を離せず、思わず見入ってしまいましたよ。セガの湯川専務が公園を通りかかって耳にするのが、「セガなんてだせえよ。プレステの方がおもしろいよ」と話す小学生の声。比較広告は多々あれど、ライバル商品より自社の商品の方がかっこ悪い、と堂々と宣言するCMは前代未聞に違いない。ショックを受けた専務は酒に溺れ、喧嘩をしてボロボロの姿で家に帰ってくる。そこでナレーション「立つんだ湯川専務!」。すでにプライドを捨ててますね、セガ。情けない姿を見せて同情を買おうとするCMってのは初めて見たぞ。インパクトは文句なく今年のCM中で最高。ところで湯川専務って実在するのかな。
 ちなみに、これに次ぐインパクトだったのが、旧家の一族と若いメイドが登場するカラーボールペンのCM。メイドのことが気に入らないらしい老婆は「くちばしの黄色い小娘が!」とメイドを叱っている。するとメイドはにやっと笑って「本当の黄色も知らないくせに」。次のシーンでは、メイドは老婆の息子をたらしこんでいる(ここにも何か色の名前が入ったはず)。結局メイドは息子と結婚し、老婆は病に臥せって死にかけている。老婆は弱弱しい声で「なんて腹黒い娘なんでしょ」。すると、メイドはにやっと笑って「本当の黒も知らないくせに」……。抗議が来たのか、すぐ放映されなくなってしまったようで、一回しか見たことがないのだけれど、どなたかこのCMを見たことある方はいますか?

 さる用事で四ツ谷に出て、そこからきのうに引き続きまた新宿へ。Virgin MEGASTOREで、19日に買えなかったCD選書の太田裕美『Feelin' Summer』『十二月の旅人』『ごきげんいかが』『君と歩いた青春』を買う。4枚とも、初CD化のアルバムである。これでテクノポップ期以前の太田裕美は『Little Concert』と『思い出を置く、君を置く』以外CD選書に入ったことになる……と思ったら、『思い出を置く、君を置く』も今回CD化されたというではないか! 買ってこなければ。7月にはミニアルバム『魂のピリオド』(なんかエヴァっぽいタイトルだな)も出るので、買わなければ。
 洞窟好きの妻が「これが見たい!」というので、『アラマタ・ワンダーワールド第1集 愛のグロッタ』というビデオを買ってみる。今年1月に発売されたものらしい。当然ながら主として登場するのは荒俣宏。グロッタというのは洞窟という意味で、ルネサンス期のイタリアで作られた奇怪な人工洞窟庭園のことである。グロテスクという言葉はここから来ている。
 家に帰って見てみると、これがなかなか刺激的でおもしろい。荒俣宏がフィレンツェやジェノヴァのグロッタ庭園を案内するパートの合間合間に、荒俣宏の対談が入るのだが、対談相手がアラマタに勝るとも劣らない博覧強記で知られる異能の英文学者高山宏ときては、おもしろくならないわけがない。グロッタというテーマを中心に話題はどんどん広がり、膨大な知識が何でもないことのようにぽんぽんと交わされる。気の合う同士の対談というのはとても気持ちがいい。もともとは「月刊アラマタ」としてCSで放映されたドキュメンタリーらしいのだが、これは意外な拾い物。

過去の日記

98年6月中旬 精神分裂病、6000冊、そして遺伝子組み換え食品の巻
98年6月上旬 YAKATA、「医者」というブランド、そしてなんでも鑑定団の巻
98年5月下旬 流れよ我が涙、将棋対チェス、そしてVAIOの巻
98年5月中旬 おそるべしわが妻、家具屋での屈辱、そしてジェズアルドの巻
98年5月上旬 SFセミナー、WHITE ALBUM、そして39.7℃ふたたびの巻
98年4月下旬 エステニア、エリート医師、そして39.7℃の巻
98年4月中旬 郷ひろみ、水道検査男、そして初めての当直の巻
98年4月上旬 ハワイ、ハワイ、そしてハワイの巻
98年3月下旬 メフィスト賞、昼下がりのシャワー室、そして覆面算の巻
98年3月中旬 結婚指輪、左足の小指の先、そしてマンションを買いませんかの巻
98年3月上旬 ポケモンその後、心中、そして肝機能障害の巻
98年2月下旬 フェイス/オフ、斉藤由貴、そしてSFマガジンに載ったぞの巻
98年2月中旬 松谷健二、精神保健福祉法、そしてその後の男の涙の巻
98年2月上旬 ナイフ犯罪、DHMO、そしてペリー・ローダンの巻
98年1月下旬 肥満遺伝子、名前厄、そして大阪の巻
98年1月中旬 北京原人、アンモナイト、そして織田信長の巻
98年1月上旬 さようならミステリー、星新一、そして日本醫事新報の巻
97年12月下旬 イエス、精神分裂病、そして忘年会の巻
97年12月中旬 拷問、ポケモン、そして早瀬優香子の巻
97年12月上旬 『タイタニック』、ノリピー、そしてナイフで刺された男の巻

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