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7月10日(金)

 夕食のあと、だらだらとニュースを見ていたら、アナウンサーが、いかにも結果が楽しみだと言わんばかりの口調で言った。「ワールドカップも、あとは決勝戦と三位決定戦を残すのみとなりましたねー」。
 私も妻もスポーツは見る方にもやる方にもほとんど関心がなく(私は相撲だけは好きだけど――もちろん見る方です)、どこが優勝しようが知ったことではない。いつもなら、スポーツニュースになった瞬間に、容赦なく別のチャンネルに変えてしまうのだが、このときはたまたまそのままチャンネルを変えずに見ていたのだった。
 料理の本をぼんやりと眺めていた妻が、ふいに顔を上げ、ぽつりと言った。
「二位は決まったの?」
「はい?」
「だから、二位はどこの国になったの?」
「あのー、二位は決勝戦で決まるんだけど」いくらサッカーに関心のない私だってそれくらいは知っている。
 はっと気づいたらしい妻は、とたんに照れくさそうな顔になり、「そっか。そうだよねー、ははは」
 うつろに笑う妻であった。

 さて、その妻だが、ここ何日かというもの、私が買ってきた貴志祐介『天使の囀り』(角川書店)を、寝る間も惜しむようにして読んでいる。ここまで引き込まれているということは、よっぽどおもしろいらしい。そして今日になってようやく読み終わったので、今回は妻の感想を(私以外による本の感想ってのもこのページ始まって以来だな)。
「この手の物語は、今ものすごく増えているけど、よく書けている方だと思う。半村良に科学力を持たせるとこんなふうになるかなあ(夫註・そりゃ半村良に失礼なんじゃないか)。書き方はセオリー通りなんだけど、ホラー小説としての完成度は非常に高い。最近のホラーの例に漏れずこの作品でも科学ネタを使っているのだけど、最新科学の記述と物語とのバランスがよくて、少なくとも私は『BRAIN VALLEY』よりおもしろかったな。まさにできたてほやほや、非常に時代に即した物語なので、10年後もおもしろいかというと疑問。本はやっぱり出版後すぐに読むのが正しいんじゃないかな」(妻・談)
 私にネタをばらさないように配慮してくれたせいだと思うが、なんだかわかったようなわからないような感想である。とにかくおもしろかったことは確からしいので、これは早めに読むことにしよう。
 でも、私としては、10年たっても今と同じようにおもしろい物語こそが、本当に読むに足る物語だと思うのだけどな。
 だから、私は、新刊本を買ったら、熟成させるべく読まずに寝かせることにしているのである。いや、これは単に読書スピードが追いつかないことの言い訳(笑)。
7月9日(木)

 暑い暑いと思ったら、医局の窓の外から、なんと蝉の鳴き声が聞こえてくるではないか。ジージーと鳴くあれはアブラゼミだな。今年最初の蝉の声。暑い夏になりそうで、まったく気が滅入ってくる。梅雨もまだ明けていないというのに。
 蝉といえば、子供の頃、真夜中にカナカナカナカナという蝉の声で目がさめたことがある。真っ暗な窓の外から聞こえてくる蝉の声はなんだかもの寂しげで不気味であった。夜の蝉。というと、なんか北村薫みたいだが(北村薫の「夜の蝉」ってどんな話だか忘れたけど)、蝉というものは夜にも鳴くものだということを、あのとき私は初めて知ったのだった。

 池袋WAVEにて、太田裕美の久方ぶりのミニアルバム『魂のピリオド』をようやく発見して購入。今まで探していたのだが、どのショップへ行っても置いてなかったのだ。「木綿のハンカチーフ」を手がけた筒美京平、松本隆、太田裕美のゴールデン・トリオが20年ぶりに結集して作ったミニアルバムである。曲調は懐かしくも70年代っぽいし、太田裕美の舌足らずな甘い声も全然昔と変わらないし、こりゃよいですわ。オフィシャルサイトもできたし、こうなると、今度はフルアルバムを期待するしか。今年後半は、太田裕美がブレイクするぞ(信頼度1%)。
 しかし、20年前といえば私はまだ10歳にも満たなかったわけで、たぶん私くらいが、太田裕美ファンとしては最若手になるのだろうなあ。私は、中学のときにラジオで数年前のヒット曲である「木綿のハンカチーフ」を耳にして「いい曲じゃん」と思ってレコードを集め始めた口だから、リアルタイムで熱心に聴いていたというわけではない(聴こうと思った途端に太田裕美はニューヨークへ旅立ち、芸能活動を休止してしまったし)。「さらばシベリア鉄道」とか「振り向けばイエスタデイ」とか、今聴いてもいい曲だと思うのだが。
 かの香織のベストアルバム『Specialite』(ほんとは二つのeの上にアクサンがつきます)も出てたので購入。クラシックコーナーでは、ヨーヨー・マがピアソラを弾く『Soul of the Tango』と、それから、ほんまもんの神秘主義作曲家スクリャービンの交響曲"ポエム・オブ・エクスタシー"(『法悦の詩』なぞとかっこつけた訳題になってますな)を2台のピアノ用に編曲して弾いてしまうという岡城千歳『The Poem of Ecstasy』(しかも多重録音で、1人で2台とも弾いてしまうのだ)を買う。スクリャービンには、ピアノソナタ「黒ミサ」「白ミサ」なんてのもあったりして、私のお気に入りの作曲家である。
 なんかむちゃくちゃな組み合わせですな。

 グインサーガ61巻『赤い激流』、皆川博子『光の廃墟』も買ったりして家に帰る。そういえば今夜から教育テレビで、野田昌宏大元帥の人間大学『宇宙を空想してきた人々』が始まるのだった。しまった、テキストを買うのを忘れたぞ、と思いつつ郵便受けを見ると、おや、書籍小包が届いている。宛て先は旧姓の妻の名前で、前の住まいから転送されたもの。送り主は、というと、NHK人間大学? 開けてみると、案の定中身は野田さんの講座のテキストである。なんで妻にNHKからテキストが送られて来るんだ?
 妻の話によると、以前ある集まりに野田さんをゲストに呼んだとき、何度かファックスで連絡したため、その後ときどき著書が送られてくるのだそうだ。妻の本は私の本。野田さん、ありがとうございます!(テキストくらい買えって?)
 さて、野田さんの講座はいつもながら熱い語りっぷり。全然論理的でも系統だってもいないのだけれども、何よりもSFへの熱意がビシビシと伝わってくる名調子である。こういうふうにSFを語れる人は貴重ですね。ブラッドベリの「万華鏡」の解説、さすがにテレビでは「死ね」とはおっしゃいませんでしたね(笑)。
 野田さんもSFセミナーのときに力説していたが、こういう番組では、あまり視聴者からの反響を直接聞く機会がないようで、感想のハガキを書けばかなりの威力があるらしい。SF系の番組が今後も続くように、みんなでNHKに感想を送ろう!
7月8日(水)

 日刊スポーツが報じた『タイタニック』続編が話題になっているけど、こういうことだったらいちばん情報が早いはずのインターネットに、続編について書いたサイトが見あたらないのが気にかかる(探し方が悪いのか)。うーん、こりゃガセでしょう、どう考えても。『タイタニック』に比べれば話題性ははるかに落ちるが、『トータルリコール』の続編は本当に製作されるみたい。私としては、こっちの方が気になるな(笑)。ジョナサン・"ライカー副長"・フレイクスが監督するとか。現実幻想ぐちゃぐちゃの展開になってくれると気持ちよさそうだなあ。

 澁澤龍彦編『暗黒のメルヘン』(河出文庫)購入。27年も前のアンソロジーだけに、今となっては新味のない取り合わせに思えるのだが、おそらく当時としては乱歩、虫太郎、久作に鏡花や石川淳、三島由紀夫を同列に置くこのセレクションは新しかったのだろう。「いわゆる大衆小説作家と目されている小説家のなかにも、そのスタイルの独自さ、その文藻の豊かさ、その構想力の非凡さにおいて、優に一家をなしている者がいるということを認識していただきたい」と編集後記でわざわざ書かなければならないような時代だったということだろう。今となっては当然のことを言っているようにしか思えないのだが。
 七月の岩波文庫の復刊は、海外文学オンリー。SFファンタジー者向けの作品は、『カレワラ』、メルヴィル『幽霊船』『メリメ怪奇小説選』『イエイツ詩抄』、ローデンバック『死都ブリュージュ』といったところか。最初の3冊を購入(あとの2冊は持っているので)。
 大川興行総裁大川豊『誰が新井将敬を殺したか』(太田出版)も購入。選挙前によく出したなあ、この本。政治家をトンデモな存在(本人の意図とははずれたところで楽しめるもの)として見た本というのは、今までありそうでなかった視点で新鮮。見なおしたぞ、大川豊。抗議が来て店頭から消えないうちに買おう。
7月7日(火)

 以前、北里大学医学部の林峻一郎教授と同じ病院でバイトをしていたことがある(なんかこのところ昔の話ばっかりだな)。林先生も私と同じく週一日のパート(教授だってバイトをするのだ)。ただし、勤務する曜日が違うので、たまたま当直が入ったときくらいしか会う機会はなかった。最初に会ったときには緊張して、何を聞こうかとドキドキしたものである。
 私が緊張したのは、別に林先生が偉い教授だからというわけではない(いや、実際偉い教授なんですが)。林先生の専門は精神衛生学で、ストレスについての著書も多いのだが、ミステリファンにとっての林峻一郎氏といえば、やっぱり、推理小説論の古典的名著であるヘイクラフトの『娯楽としての殺人』(国書刊行会)の翻訳者である。そればかりではない。林峻一郎先生といえば、乱歩とともに戦前探偵小説界をリードしていた作家、木々高太郎のご子息なのである。これが緊張せずにはいられようか(こんなことでドキドキするのは私だけか?)。

 木々高太郎は、本名林髞(はやしたかし)。昭和9年に「網膜脈視症」でデビュー、昭和12年には「人生の阿呆」で第4回直木賞を受賞している。推理作家としては初めての受賞である。「純粋に謎と論理で構成された探偵小説は芸術になりうる」という「探偵小説芸術論」を唱え、甲賀三郎との間で論争を行ったのは有名な話だ。戦後、「探偵小説」のかわりに「推理小説」という言葉を提唱したのも木々高太郎である。
 また、ご子息と同様、医学の分野でも活躍しており、昭和7年には条件反射の研究で知られるパヴロフのもとに留学、昭和18年、慶応大学医学部教授となっている。今でいうタレント学者の走りだったらしく、『頭のよくなる本』(光文社 1960年)だの『おとこ大学−男の魅力はこうして作られる』(雪華社 1961年)だのという一般書を書いたりしている。「第二結婚論」なるものも唱えているのだけど、それについては私が以前書いたこの文章を見てください。今でもコンビニや大学生協で売っている頭脳パンも、「大脳を活性化させるには白米よりもビタミンを多く含んだパンを食べるとよい。そこに補酵素であるビタミンB1を加えるとなおよい」という『頭のよくなる本』に書かれた説にもとづき、ビタミンB1を配合した小麦粉(頭脳粉)で作られたものである。

 さて、探偵小説界の巨人(ついでに頭脳パンの産みの親(笑))木々高太郎のご子息である林峻一郎先生にお会いすることができた私は、まず父木々高太郎の小説について訊いてみた。しかし、林先生の答えは「父の本はほとんど読んでないんです」というあっさりしたもの。
 父親と違って、林先生はあんまり推理小説には興味がなく、ミステリに関わったのは『娯楽としての殺人』の翻訳一冊きり。その後は医学の道をまっすぐ歩んできたという。
 そうはっきり言われてしまうと肩透かしを食らわされたようなもので、私は質問に詰まってしまった。林先生の研究生活のことなど別に聞いても仕方ないしなあ(をい)。
 しばらく林先生が語る(医学の)話を聴いた後、こんな質問をしてみた。
「先生は、江戸川乱歩に会ったことはありますか」
「小さい頃、乱歩先生の家までおつかいに行かされたことがあってね。そうしたら、玄関の奥からつるつるの頭に大きな体の先生がぬっと出てきて、怖かったなあ」
 林先生は目を細めて言われた。
 木々高太郎のご子息なのだから、その後も江戸川乱歩に会う機会は何度もあったはずだ。それなのに、とっさに乱歩と最初に遭遇したときの話が出るということは、幼い頃のその印象がよっぽど強烈だったのだろう。なにしろ、「一寸法師」や「芋虫」の乱歩先生のところにおつかいに行かされるのだ。何をされるかわかったもんじゃない(笑)。本当に怖かったんだろうなあ。
7月6日(月)

 昔、プログラミングをやっていたことがある。もう10年近く前の話だ。といっても、完成したプログラムはたったひとつ。「風流」という、俳句を自動作成してくれるソフトウェアである。似たようなプログラムは多いけれど、「風流」はいちおう文法チェックをしていて、日本語として意味が通る俳句が出力されるのが売りだった。○文字の名詞、○文字の動詞、○文字の形容詞などのファイルを持っていて、それらを組み合わせて(もちろん季語も入れて)俳句らしきものを作る仕組みである。
 「風流」が作ってくれるのはこんな句である。

夏の葉がさざめき古都をなぐさめる
去年今年過ぎゆくキスとなりにけり
歯ブラシを恐ろしく見る新年会
葉桜や馬鹿を愛して法隆寺
眩しさや窓辺虚しく包む雪
薔薇の死や嘆く悲劇を傷つける
チューリップ散って短き罪ぞ咲く
卒業式恋しく逃げる抱きしめる
吹き飛ばす蝿の世界の娘の死
馬鹿も咲く頭明るき年賀状

 何となく意味が通るような気がするところがミソである。最初の句なら、「夏」(季語)、「葉」、「古都」という名詞と「さざめき」、「なぐさめる」という動詞を組み合わせてできているわけだ。文学系の人なら、「テクストの意味」とか「作者の存在」とかについてひとくさり語るところだけれど、私は精神科医なのでそのへんはパス(笑)。
 フリーウェアとして公開したのだが、これがそこそこ評判がよかったらしく、感想や転載許可を求めるメールが何通も届いたし、雑誌にも取り上げられた。引き続いて何本もプログラムを発表すれば、いっぱしのオンラインソフト作者となっていたところだが、なんせアイディア一発勝負みたいなプログラムだったのであとが続かず、単なる一発屋として終わったのだった。
 それでも、「日経アントロポス」なる雑誌は、何を思ったのか私のところに取材に来て、「コンピュータで俳句を楽しむ人」(笑)として顔写真入りの記事が出た。単なるジョークソフトなのに。そうそう、アスキーから出た矢野徹さんの『電脳通信日記』というエッセイにもこのプログラムのことが載ってます。え、自慢のように聞こえますか? すいませんね。実は自慢です。
 インターネットでもここのページから入手できるけど、難点はPC-9801シリーズのMS-DOSでしか使えないこと。今となっては、もう終わりきった環境ですな。
7月5日()

 平野さんのねころがーるで、日曜日に「来週の土曜日」と言われたらいつのこと? というアンケートをやっていたけれど、それを読んで思い出したことがある。これは、私が昔から不思議に思っていた問題である。
 まずは、次の二つの質問を考えてみてほしい。
質問(1) エレベータに乗っていて、「このエレベータは七階まで通過いたします」と言われたら、最初に止まるのは何階だと思いますか?
質問(2) では、電車に乗っていて「この電車は新宿まで通過いたします」(ローカルですまん)と言われたら、最初に止まるのはどこの駅?
 私は、(1)は八階、(2)は新宿だと思う(そう思わない、という方の異論もお待ちしています)のだけれど、いったいこの違いはどこにあるのだろうか。

 式で表してみると、「nまで」とした場合、(1)ではx≦nの範囲を示しており、(2)はx<nの範囲を示していることになる。「まで」に両方の意味があるのなら紛らわしいなあ、と思ったのだが、いろいろと考えてみても、見つかるのは(1)の用例ばかりで、(2)の用例は電車の場合以外まったく見つからないのですね。例えば、「7日まで休みます」といえば、7日は休んでもいいはずだ。「朝まで生テレビ」といえばやはり「朝」と呼べる時間まで(あ、「まで」の説明に「まで」を使ってしまった)番組は続いていなければいけないだろう。
 やはり、(2)の言い方がおかしいということになるのだろうか。そうすると、(中央線上りの場合)「大久保まで通過します」が正しいということになりそうだが、私としては、どうしてもこれでは大久保に停車するような気がしてしまうなあ。
 さて、質問をちょっと変形してみるとこうなる。
質問(1') エレベータに乗っていて、「このエレベータは七階まで止まりません」と言われたら、最初に止まるのは何階だと思いますか?
質問(2') では、電車に乗っていて「この電車は新宿まで止まりません」と言われたら、最初に止まるのはどこの駅?
 こうなると、(1')は七階、(2')も新宿に止まるような気がする。うーん、日本語は難しいね。

 今日の夕食は駒込駅前にあるミャンマー料理店「ジークエ」にて。狭くてアットホームな店で、ミャンマー人の団体さんが楽しそうに食事をしていた。このへんに住むミャンマー人たちがよく集まってくる店らしい。ミャンマーの料理は、カレーが充実しているところはインド料理に、ココナツや魚醤を使うところなどタイ料理に似ているけれど、それほど辛くはなく、マイルドな味わい(テーブルに並んでいるスパイスを好みで追加して辛くすることはできる)。モヒンガー(魚で出汁をとったそうめん)や、ゴマとピーナツのこくのあるソースがかかったレタスサラダが美味。ミミズクがこの店のシンボルらしく、食後に木製の小さなミミズクのマスコットをくれました。

 さて、毎日の日記更新に追われて、かなり前から滞っていた本の感想ページ「本読み千年王国」だけど、今回、大量に感想を追加、大幅に更新しました。ただし、卑怯極まりないやり口で(笑)。どのへんが卑怯なのかは見ればわかると思います。すまん。
 この手法を応用して、映画の感想ページも作ろうかな。<をい
7月4日()

 新井素子の飼っている大量のぬいぐるみの中に、キャットテイル(猫の頭に蛇のしっぽがくっついた生き物。出身はニーヴンの小説だっけ?)というのがいて、その名前がダナ(ほかにも兄弟がたくさんいたけど)。小説にも登場していたし、確か、NHK-FMでやっていた「ひとめあなたに……」のラジオドラマにも出てきた(声は新井素子本人)。
 なんでこんなことを書いたのかというと、河原でひなたぼっこの途中に逃げてしまい、大捜索が行われたニシキヘビ、この蛇の名前がダーナだったのだ。この飼い主、新井素子ファンだったのか?(ケルト神話ファンという線もあるかも)

 国書刊行会感謝月間の読了本2冊目はゴシック叢書第2期から、ホレス・ウォルポール『オトラントの城』。著者はイギリス首相ロバート・ウォルポールの息子にして、執筆当時50代のホイッグ党国会議員。1765年に出版された、ゴシック小説の祖といわれる名作である。ゴシック小説というのは、古城に起こる怪異、暗い地下道を逃げ惑う乙女、大仰な台詞回し(笑)といったモチーフに彩られたエンタテイメント。
 この作品が大ブームになったことにより、ゴシック小説は半世紀もの間イギリス中を席巻し、その後『嵐が丘』のブロンテやアメリカのポー、ホーソーンにも受け継がれ、20世紀に入るとミステリ、ホラー、SFといった各ジャンルへと分化していくことになる。すなわち、エンタテインメントの三つのジャンルの共通の祖先、系統樹の要に位置するのが、この一冊の小説なのである。
 歴史的には重要だけど、小説としてはちょっと……という評判を聞いていたのでちょっと不安だったのだが、読み始めてみると、どうしてどうして、おもしろいではないですか。
 舞台はイタリアのオトラント公マンフレッドの治める古城。城主マンフレッドの跡取り息子コンラッドは婚礼の直前、突如出現した巨大な兜の下敷きになって圧死。読者が呆然としているうちにストーリーは猛スピードで進む。マンフレッドは錯乱し、こうなれば自分が跡取りを残すしかないとばかりに息子の婚約者イザベルに結婚を迫る(高齢の奥さんは離縁してしまうつもりなのである)。逃げるイザベルは修道院への秘密の地下道を探して暗い地下へと降りていくが、道に迷ってしまう。そこに現れてイザベルを助けてくれた謎の青年の正体は? そして回廊で従僕が目にした、鎧をまとった巨大な脚はいったい何を意味するのか?
 という具合で、今でいえばジェットコースターサスペンス。三角関係あり陰謀ありと読者を飽きさせない展開で、18世紀イギリスでベストセラーになったのもうなずける作品である。まあ、あまりにも偶然が多くてご都合主義なところと、後半ストーリーが破綻していくのところはご愛嬌か(笑)。
 とはいえ、結末のイメージはなかなかすごい。物語のそこここに出没していた巨像のパーツがひとつになり、城を突き破ってそびえたつ巨人と化し、雷鳴の響き渡る中を天へと昇っていくのである。このイメージのすさまじさには度肝を抜かれました。この、人知を超えた何物かに触れる瞬間というのが、ゴシック小説のキーワードである〈崇高〉(サブライム)であり、のちにSFでセンス・オブ・ワンダーと呼ばれる感覚なのですね(関係ないけど、『ゴジラ』は怪奇小説の流れを汲んでいるのだから、やっぱり、ゴシック的で人知を超えた〈崇高〉さがなくちゃいけないよんだよな)。
 『オトラントの城』は、牧神社、講談社文庫からも出ているけれど、どれも絶版。ゾッキ本としてよく古本屋で見かける国書刊行会版がいちばん手に入りやすいと思います。

 真夜中にテレビを見ていたら、いきなり変身ヒロインものが。『仮面天使ロゼッタ』だと。ついに大きいおともだち向けの変身ものが出てきましたか。はあ。
7月3日(金)

 嗚呼、ニフティよお前もか。
 トラブルで昼間は全然つながらないし、夜になれば「ページが見つかりません」とメッセージが出るわで、どうも今日は挙動がおかしい。まあ、重くないだけジオよりましだけど。

 池袋地下、メトロポリタンプラザ前の噴水のある広場を歩いていたら、おや、広場に面した喫茶店の窓のところに見なれぬ物体がある。窓に沿うようにしてごつごつした鉄パイプが林立しているのである。いちおうウェーブ状に高さを変えていて見栄えをよくしてはいるものの、なんだかとても不自然である。
 なるほど、ついにメトロポリタン側が実力行使に出たわけだ。この窓の外、どうしたわけか、ちょうど人が座れるような高さ、幅でベンチ状にでっぱっていて、かつては格好の待ち合わせ場所になっていたのだ。しかし窓の内側は喫茶店。ここに座られては背中が窓にべたっとくっつくわけで、中でコーヒーなど飲んでいる客にとっては非常に見苦しい。当然、しばらくすると窓の外には「ここには座らないで下さい」と注意書きが書かれ、そのまま数年が過ぎ去ったのだけれど、それも効果がなかったようで、とうとう物理的に座ることができないようにしてしまったらしい。要するにこれは、新宿西口地下道の動く歩道と同じ目的なのですね。
 こうして、メトロポリタンプラザ完成以来の、10年近くにもわたる静かな戦いに終止符が打たれたわけである。しかし、喫茶店側もよく我慢していたものだな。でも、こんなことなら初めっから、座れるようなでっぱりなど作らない設計にすればよかったのに。

 貴志祐介『天使の囀り』(角川書店)、ウェイド・デイヴィス『ゾンビ伝説』(第三書館)、平松貞実『世論調査で社会が読めるか』(新曜社)購入。
7月2日(木)

 三大紙からスポーツ新聞まで、一面トップは全部「三浦和義無罪」。この事件がマスコミで話題になっていたころ、私は中学生くらい。その頃の私はワイドショーなど軽蔑するお年頃(笑)だったので、マスコミが騒いでいるのを「バカばっか」とばかりに冷ややかに見ていたなあ。だって、その頃愛読していた本格ミステリに比べて、現実の事件はといえば、あまりにもちゃちなんだもの。それに動機もまるで三流ドラマのようにありきたりだし。私にとってこの事件、自分ならこんなこと絶対しない、と思うような犯罪だったのだ(今だってそう思う)。上の世代ならこのような犯罪にリアリティを感じられるのだろうが、私にとっては、リアリティのない、他人事の犯罪なのである。
 私が「これは私たちの事件だ」と直観したのは、その後の「宮崎勤事件」と「オウム事件」だ。どちらも、私の感性ではとてもよく「わかる」事件だった(もちろん私と同じ世代でもそう思わない人も多いだろうけど)。「三浦事件」と「宮崎事件」の間の数年間に、ワイドショーを彩る犯罪の担い手も世代交代していったわけだ。そして去年の「酒鬼薔薇事件」では、はるかに私を追い越してしまった。今後はもっと、自分の直観では理解できない事件が増えていくんだろうな。ちょっと寂しいけれど、時代が流れていく以上、それは仕方のないことだ。
 わからないとなれば、なんとか理解しようと饒舌に語るしかないのだけど、それもちょっと見苦しいような気もする。たぶん、それは犯罪の真実とは遠いところをぐるぐると回るだけだろうから。今、酒鬼薔薇本が巷にあふれているのも、みんな「わかってない」から……だよね。
 おっと、三浦事件について書いていたはずが、全然関係ないことを書いているぞ。やっぱり私は、いまだにこの事件にあんまり興味が持てないんだよなあ。そうそう、毎日新聞には『三浦和義事件』を書いた元新本格作家(笑)島田荘司のコメントが載ってました。三浦和義無罪説を唱えてきただけあって、もちろん、今回の判決については「日本の常識に挑んだ判決」と手放しのほめたたえぶり。こんなにうれしそうな島田荘司は初めてである(笑)。これで『三浦和義事件』もまた売れるんだろうなあ。少なくともミステリ界においては島田荘司はほとんど「過去の人」だったのだが、これで今度はノンフィクション作家として再生するかも。私は……文庫になったら読むかな。

 古典SF研究家の長山靖生『人はなぜ歴史を偽造するのか』(新潮社)やっと読了。前半は竹内文書や熊沢天皇などをとりあげ、『偽史冒険世界』の続編といった趣きで興味深いのだが、後半は「自由主義史観」論争をふまえた主張が続き、私にはちょっと退屈。「史観」を教えるのではなく、歴史を題材にした議論の仕方を教えろというのは正論だと思うのだけれど、史観ぬきの「歴史」を教えられると考えているのはちょっとナイーヴすぎる気がする。
 この本の本筋とは全然関係ないのだが、日本国憲法第15条の引用で
(1)公務員を選定し、およびこれを罷免することは、国民固有の権利である。
(2)すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。
(3)公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保証する。
 と書いてあったのには驚いた。公務員の選挙なんてごくごく一部を除いてやってないではないか。これって憲法違反じゃないのか? 「そういう解釈ではないのだ」と言われそうだけど、条文を素直に読むかぎり、国民が直接公務員を選べるようにしか読めないのだけどなあ。
7月1日(水)

 梅雨明けもまだだというのに、東京は今日も蒸し暑くて、歩いているだけでだらだらと汗が出る。きのうは当直で風呂には入れなかったせいもあって、体中が汗でべとべとして気持ちが悪いことこの上ない。どうやら今年は酷暑になりそうだ。酷暑といえば、やっぱり思い出すのは国書刊行会。そうだ、国書刊行会の本を読もう(すまん、下らない書き出しで)。
 「日本幻想文学集成」とか「世界探偵小説全集」とか、なんとも絶妙に本読み心をくすぐる全集企画の数々、その値段に悲鳴をあげつつもぽつぽつと収集してきた国書刊行会の本だけど、私の場合、読むのはなんとなく後回しにして積ん読になっている本が多い。というわけで、七月は国書刊行会感謝月間とする!(本当は「国書よ、さんざん投資してきた私に感謝しろ月間」にしたいところだけれど)
 しかし、「国書刊行会」というのも不思議な社名である。まず翻訳書ばっかり出してるくせに「国書」というあたりが妙である。新明解国語辞典によれば、「国書」とは「(1)一国の元首が、その国の名前で出す外交文書。(2)[漢籍、洋書に対して]日本人が国語で書いた本。[漢文で書いたものや翻訳書をも含む。また、洋製本に対して和装本を指すこともある]」とある。まあ、「翻訳書をも含む」とある以上、(2)の意味なら間違いではないのだろうが、そうなると日本語の本はみんな「国書」になってしまう。「書店」でも「書房」でもなく「刊行会」というあたりにも、奇妙なこだわりを感じるのだが、いったいこの社名の由来は何なんだろう。
 まあ、それはさておき、今月最初に読んだ国書刊行会の本は、幻想・怪奇小説の小品をコレクションした「魔法の本棚」から、ロバート・エイクマン『奥の部屋』。エイクマンは『黄金虫』(創元推理文庫)を書いたリチャード・マーシュの孫。1914年に生まれ、1981年に亡くなったイギリスの怪奇小説作家である。
 実は私、怪奇小説というやつはちょっと苦手である。怪奇小説ではたいがい奇妙な現象が起こり、それについて何の説明もないまま話が終わってしまう。そこが怖いのだ、ということなのだろうが、どうしてもSF者の血は抜けきれず、なんだか尻切れトンボのような気がしてしまうのだ。
 本書に収められた作品も、結末はあいまい。何の解決もないままに読者は唐突に放り出されてしまい、なんとも居心地が悪い。なんだかバランスが崩れているように思えてしまうのだが、それでも退屈することなく読めたのは、解説に記されているように、やはり重点が怪奇そのものではなく、語り手の変化におかれているからだろう。作品の多くは、語り手の一人称で淡々と語られる。語り手は理性的で、怪奇現象が起きても必要以上に怖がったりはしない。結末もやはり淡々としているのだが、現象の前と後とでは、語り手はどこか微妙に変化しているのである。そこを描いたところが、一見古典的に見えるエイクマンの作品の現代的なところなのだろう。
 作品として、いちばんまとまっているのは最後の「奥の部屋」なのだが、それ以外の作品と比べると、理に落ちすぎているきらいがあるかも。
 あいまいに書かれすぎても不満が残るし、説明されすぎてもつまらない。怪奇小説も難しいものだ。

過去の日記

98年6月下旬 さらばジオシティーズ、水中毒、そしてLSDの巻
98年6月中旬 精神分裂病、6000冊、そして遺伝子組み換え食品の巻
98年6月上旬 YAKATA、「医者」というブランド、そしてなんでも鑑定団の巻
98年5月下旬 流れよ我が涙、将棋対チェス、そしてVAIOの巻
98年5月中旬 おそるべしわが妻、家具屋での屈辱、そしてジェズアルドの巻
98年5月上旬 SFセミナー、WHITE ALBUM、そして39.7℃ふたたびの巻
98年4月下旬 エステニア、エリート医師、そして39.7℃の巻
98年4月中旬 郷ひろみ、水道検査男、そして初めての当直の巻
98年4月上旬 ハワイ、ハワイ、そしてハワイの巻
98年3月下旬 メフィスト賞、昼下がりのシャワー室、そして覆面算の巻
98年3月中旬 結婚指輪、左足の小指の先、そしてマンションを買いませんかの巻
98年3月上旬 ポケモンその後、心中、そして肝機能障害の巻
98年2月下旬 フェイス/オフ、斉藤由貴、そしてSFマガジンに載ったぞの巻
98年2月中旬 松谷健二、精神保健福祉法、そしてその後の男の涙の巻
98年2月上旬 ナイフ犯罪、DHMO、そしてペリー・ローダンの巻
98年1月下旬 肥満遺伝子、名前厄、そして大阪の巻
98年1月中旬 北京原人、アンモナイト、そして織田信長の巻
98年1月上旬 さようならミステリー、星新一、そして日本醫事新報の巻
97年12月下旬 イエス、精神分裂病、そして忘年会の巻
97年12月中旬 拷問、ポケモン、そして早瀬優香子の巻
97年12月上旬 『タイタニック』、ノリピー、そしてナイフで刺された男の巻

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