8月20日(木)
これは球史に残る名勝負なんかじゃない。
17回250球もひとりで投げさせるというのは正気の沙汰ではない。しかも前日に9回148球を投げ抜いた投手にだ。監督は「自分の限界に挑戦しろ」と投手を叱咤したという。それが選手を育てる義務がある監督のすることか。これのどこが教育だというのか。もちろん、選手は最後まで投げ抜きたいというだろう。自分の力で敵に勝ちたいと思うのは当然の気持ちだ。そこをあえて降板させるのが、監督というものであり、それこそが教育なのではないか。
こんなものは感動のドラマでもなんでもない。
昔から奇妙に感じていたのだが、なんでまた高校野球というのは、ひとりの投手に何試合も連投させるのだろう。ピッチャーが少ないなどという言い訳が通用するものか。翌日投げる控え投手がいるのならなぜその投手に継投させない。いないとすれば、それは甲子園に出るほどの強いチームを作っておきながら投手育成を怠った監督のミスだ。
「高校野球の魅力」はこんなところにはない。
これほどまでに酷使された肩には、確実に一生に渡る障害が残るに違いない。だいたい、延長戦を投げ抜いたピッチャーは、プロに入ってもぱっとしない例が多いではないか。監督は疲れきった投手に続投させることにより、彼の前に開けていたはずの輝かしい将来をつぶしているのである。それでも彼が華やかな世界で生き延びたいというのなら、板東英二にでもなるしかあるまい。
これは単なる拷問である。しかも、犠牲者自らが望んで拷問台へと上がるというきわめて歪んだかたちの。これは、うつ病者が根拠もなく将来を悲観的にとらえているのと同じ「認知の歪み」であるとしか思えない(「認知の歪み」というのは精神医学用語でうつ病や神経症の原因になる誤った行動や思考のパターンのこと。これを修正するのが「認知療法」)。
私に運動部に所属した経験がないからこう感じるのだろうか? 確かに私は子供の頃から「協調性がない」と言われつづけてきたし、「体育会系のノリ」にはおぞましさしか感じられない人間である。私には、連投を続け、延長戦をひとりで投げ抜いた彼は、犠牲者としか思えない。そんな投手を日本中が誉め称えているありさまを見ると、ぞっとするような嫌悪感を覚える。
例えば、「中2日以内の連投は2試合まで」という具合に規制すればいいと思うのだが、なぜ高野連はそうしないのか。
近くの古本屋店頭の100円均一棚から、マシスン
『地獄の家』(ハヤカワ文庫NV)、小松左京
『ある生き物の記録』(ハヤカワ文庫JA)。70円で昭和30年に出た
『ソヴェト短篇全集III』(新潮社)。なんで買ったかというと、もしかしたら幻想小説があるかもしれないから(笑)。まあ70円なら安い買い物である。店内で買ったルイージ・マレルバ
『皇帝のバラ』(出帆社)は、幻想の中国を舞台にした連作短篇集らしい。『後宮小説』みたいな感じなんだろうか。なかなかおもしろそう。
ああ、NHK人間大学「宇宙を空想してきた人々」を、3回連続で見忘れてしまったよ。しかし「未来科学への招待」の方は今のところちゃんと見ているぞ。だって、どっちがおもしろいかといえば……いや、言うまい(笑)。
8月19日(水)
浅暮三文
『ダブ(エ)ストン街道』(講談社)を購入。いやめでたい。といっても、なんでめでたいのだか誰もわからんだろうが、実はこれ、
3月21日の日記で書いた友人のデビュー作なのである。おめでとうございます>浅暮さん。実はこの作品、
第8回メフィスト賞受賞作なのだが、今までのメフィスト賞の傾向からはまったく違うためか、講談社ノベルスではなくハードカバーの叢書「メフィストクラブ」からの刊行だし、「メフィスト賞受賞」とは著者紹介以外どこにも書いていない。書いた方が売れると思うのだが、編集側は書かないほうがいいと判断したんだろうか。しかも、表紙はちょっと地味だし、帯の推薦文は高橋源一郎だし(失礼)、何の実績もない新人のデビュー作だし。売れるかなあ。売れてほしいなあ。
朝、病院に出かけようとしたら、有楽町線の改札前が異様に混雑している。いったい何があったんだ、と近づいてみると、有楽町線は止まっているという。7時半からもう40分以上も止まっているとか。地下鉄路線図の前には迂回路を探して人だかりができている。おいおいおい、と毒づきつつも、苦労してなんとか病院までたどり着く。かなり遅れたけど。あとでニュースを聞いたところ、なんと運転が再開されたのは午後0時12分。午前中いっぱい止まっていたのか。どうした
帝都高速度交通営団。ここまで長い時間止まっているのは、最近じゃ珍しい。通信システムを制御するコンピュータが故障し、予備も動かなくなったというのだけれど、そんなこと普通あるのか? ただ故障というだけでなくて、その故障の原因を教えてほしいんだけどな。
いつも不思議に思うのだが、26万人の足に影響が出た、とかテレビで言っていたけれど、この人数というのはどうやって調べているんだろう。迂回を強いられた人数を直接調べることは到底できそうにないので、おそらく通常の乗降客数をもとにして算出しているのだろうが、ちゃんとお盆とか夏休みといったファクターも考慮に入れているのかな。謎。
珍しくシティボーイズが3人揃って登場するというので、関口宏の『はばたけ!ペンギン』(なんだろうな、この意味不明なタイトルは)を見る。いや、やっぱり(昔の)シティボーイズはいいな。中村有志が「斉木さんは、頭の中が真空で何を考えているかわからない」と言ったところ、斉木しげる「
真空エネルギーといってね」。さすが斉木しげる、伊達にSFマガジンの年間ベストのアンケート回答者はやっていないな。でも斉木しげるの発言は誰にも理解されてなかったけど。
8月18日(火)
今日は休みを取っている医者が多くて、私の勤務する病棟にいる医者は私一人だけ。非常に忙しい。ちなみに、医者の業界にはお盆休みとかそういうものはありません。お盆といえども入院患者さんがいるわけだから、全員がいっせいに休むというわけにはいかないのである(正月はさすがにいっせいに休むが、必ず一人は当直していなければならないし、看護婦さんも交替で勤務している)。うちの病院では、7月から9月までに5日間休みを取れることになっている。もちろん、まとめて取っても分けて取っても自由。私としては、5日は短いと思うんだけどね。私は来週いっぱい休む予定だけど、もっと長く休みたいなあ。1ヶ月くらい休みがあってもいいぞ(もちろん有給で(笑))。
木村敏
『分裂病の詩と真実』(河合文化教育研究所)購入。一般の人々の間で名が知られている精神科医といえば福島章、小田晋や町沢静夫の名前をあげることができるけれど、精神医学業界内部で名高い精神科医といえば中井久夫、安永浩とかこの木村敏ということになる。
精神医学界内部には、
生物学的精神医学と精神病理学という根の深い対立があって、この木村先生は精神病理学陣営の大御所で、生物学的精神医学を強く批判している人物である。
といっても、一般の人は業界内部の対立なんぞについては全然知らないと思うので、ちょっとこの対立について説明しておく。ものすごく簡単に言ってしまえば、この対立、ものを考えているのは脳かこころか、という問題なのですね。生物学的精神医学というのは、自然科学の方法論に従って脳科学の方面から精神異常を研究するというもの。欠点としては、患者の個別性とか社会性が無視されてしまうところ。一方、精神病理学はというと、精神病はこころの病気だとして、哲学(特にフッサールなどの現象学)をよりどころにして、主観的、直観的な見方や疾患の「全人間的な把握」を重視する。こっちはこっちで、遺伝など生物学的要素を無視しがちだし、観念的で難解な議論におちいりやすいという欠点がある。
この両者の対立というのは非常に根深いものがあって、
「精神病は脳病である」という、19世紀ドイツの精神医学者グリージンガーの言葉ひとつが、生物学的精神医学陣営では肯定的に引用されるし、精神病理学の文献では否定的に(いかにも憎々しげに(笑))引用される始末である。
私はといえば、精神病理学の医局で研修を受けたものの、精神病理は科学的方法論を軽視(というか否定)しがちで、何の根拠もない空論を積み重ねているだけのようで、どうしても馴染めなかった。精神病理学の方法には、下手をすれば「トンデモ」になりかねない危険性すら感じた。人間全体を見ることは確かに重要だけれど、それはあくまで科学的知見を基礎にしてでないと、まったくの見当はずれになりかねないと思うのだけどな。
精神医学のドグマのところで書いたように、高邁な思索から導き出された結論が、統計的な研究ひとつで覆されたりするわけだし。
というわけで、私は精神病理学と生物学の折衷派である。まあ、どんな精神病理学者だって、生物学の恩恵である薬を使わないわけにはいかないわけで、木村先生みたいな一部の原理主義者以外は、たいがいの医者がそうだと思うが(笑)。はっきりいって、生物学の知見を取り入れなければ、精神病理学の未来はないだろうし、実際精神病理学は今や風前の灯である(精神病理学の牙城だった私のいた医局もあと3年くらいでなくなってしまう)。
折衷派といってはみても、精神病理学と生物学的精神医学の間には矛盾もあるし、両者の間の溝はなかなか埋まりそうにない。精神分裂病ではドーパミン受容体が増えていることがわかっても、そこから妄想や幻覚といった精神症状を説明するところまでの間には、深くて暗い溝が横たわっているのである。
ちょっと逆説的だけど、分野そのものの中に巨大な謎や矛盾を抱えていることこそが、精神医学という学問がほかの学問と違うところであり、最大の魅力だと私は思っているのだ。
竹下節子
『聖母マリア』(講談社選書メチエ)、森岡浩之
『星界の戦旗II』(ハヤカワ文庫JA)、井上雅彦監修
『屍者の行進』(廣済堂文庫)、
『潤一郎ラビリンス』(中公文庫)IIIとIVを購入。
8月17日(月)
病院の廊下を歩いていたときのこと、
「金縛り大会」と太いマジックで大きく書いたポスターが目に入った。金縛り大会。いったいどんな大会なのか。夏の夜、広場に集まってきた老若男女が、次々と寝転がっては金縛りに遭っている光景が脳裏を駆け巡った。ぎょっとしてよく見ると、そのポスターに書いてあったのは、
「盆踊り大会」の大きな文字であった。金縛りと盆踊り。全然似てないではないか。
ま、それはともかく金縛りである。そういえば、しばらく金縛りを体験していない。以前は疲れきって寝た夜など、よく金縛りに遭ったものである。夜中に目がさめてみると、どういうわけだか体が動かない。天井が見えたり人の声が聞こえたりするので、目は開いているようなのだが、どうしたわけか運動神経だけが麻痺しているのである。
いやあ、あれは楽しかった。本当に全身が麻痺しているのかどうか、脚の指先から顔の筋肉までいろんなところを動かそうとしてみたり、思いっきり力を入れて起きあがろうとしてみたり、いろいろと遊んだものである。金縛りは怖いという人がよくいるのだけれど、なんであれが怖いんだろう。実は、私はあの金縛りの感覚が好きだったのだ。意識が起きているのに体が動かないという体験は、ふだん経験できないだけにけっこう楽しいものである。ああ、また金縛りにならないかな。最近金縛りにならないのがちょっと残念だ(金縛りになると幽霊が見えるとかいう人がいるけれど、私はそのたぐいのものは一切見たことがない。見えるのなら見たいものである)。
さて、金縛りとはいったい何なのか。私なりの結論は、すでに高校生の頃から出ていた。身も蓋もないようだが、これは要するに
幻覚なんじゃないだろうか、というものである。
高校生の頃の体験だが、目を開けてみると部屋が明るくなっていて、母親の呼ぶ声も聞こえる。しかし、起きようとしても、どうしても体を動かすことができない、ということがあった。結局また眠ってしまったのだが、もう一度起きたときには、部屋のカーテンはすべて閉まっていて部屋は暗いままだったのである。母親も呼んだ覚えはないとのこと。つまり、目を開けたこと自体が幻覚であり、部屋が明るかったこともまた、幻覚だったのである。
私はこうした経験から、金縛りは幻覚であるという結論を出したのだが、医学生になってから学んだ知識からも、その結論は裏づけられた。精神医学的にいえば、金縛りというのは入眠時あるいは出眠時の幻覚と、睡眠麻痺が合併した状態ということになる。これはナルコレプシーの患者に多いというが、もちろん普通の人に起こることもあり、一応
ローゼンタール症候群という、なんとなくかっこよさげな名前もついている。
精神医学辞典によれば、
入眠時幻覚はこうある。「覚醒から浅いノンレム睡眠へ移行するときや、覚醒からレム睡眠へ直接に移行するときの寝入りばなに、まだ目覚めていると自覚を保っているときに体験される夢に似た鮮明な視覚性、聴覚性、あるいは身体感覚性の幻覚。……動物や怪物などが見えたり、その声が聞こえたり、体が触れられたり、押さえつけられたりするといった強い現実感を伴った複雑な内容の幻覚を体験することが多い。その際に、強い不安感、恐怖感を伴うことが多い」。出眠時幻覚というのはその逆で、浅いノンレム睡眠やレム睡眠から覚醒に移行するときに見る幻覚である。この入眠時、出眠時幻覚はさらに、寝ているときに体に力が入らなくなるという
睡眠麻痺を伴うことが多いのである。どうですか、金縛りの体験そのものでしょう?
まあ、金縛りは精神医学ではこんなふうに説明されているのだけれど、見てのとおりこの説明は、こんな現象があるよ、ということを記述しているだけで、なぜこんな現象が起こるのか、そしてなぜ幻覚を見るのか、ということはまったく説明されていないのである。つまりそれが現在の精神医学の限界なのだけれど、幽霊だのなんだのを持ち出した説明よりは、遥かにましであるように思う。なんでまた金縛りという身体現象と霊の存在とを結びつけなければならないのか、私にはさっぱりわからないので。
最後に、以前の記述の訂正を。
8月13日の日記で、「駄目」を「馬犬目」と書くマンガ家として
鈴木みその名前を挙げたけど、これは
吉田戦車の間違い。同じファミ通で読んだから混同してしまったんだろうけど、普通間違えるかね、この二人を。鈴木みそさん、すいませんでした。
もうひとつ。
8月12日の日記では、
「やるきあんのかね」とあるのは
「やるきあるんすかね」の誤りだった。きのう、書店に寄ったときに確認しました。フ××書店さん、すいませんでした。
両方とも、本文ではすでに修正してあります。
8月16日(日)
中山美穂のキリンラガーのCM(どこに隠れているのかな? まるごとこりこり、きんちゃくなす〜)、長く続いているということはけっこう評判がいいのだろうけれど、私があれを見ていて感じるのは、ビールや茄子の美味さではなく(私が茄子を好きではないせいもあるかもしれないが)、中山美穂も演技がうまくなって女優らしくなってきたものだ、という感慨だけである。むしろ、うますぎて鼻につくくらい。だいたい、実際にあんなにうれしそうな顔をしながら漬けてある茄子を探す人間がどこにいるというのか。茄子をかじってあわあわと手をふるわす人間がどこにいるというのか。確かに中山美穂は、目に見えない美味さを見事に表現しているけれど、いくらなんでも舞台じゃないんだから、あれは演技過剰のように見えるんだがなあ。
山田風太郎『室町少年倶楽部』(文春文庫)読了。やっぱり風太郎はうまい。室町時代の歴史にまつわる「異伝」を語った作品二篇が収められているのだけれど、異伝どころか本伝の知識すらほとんどない私にもとてもおもしろく読める。「室町の大予言」は、五代将軍の死後、六代将軍足利義教がなんとくじ引きで選出されたという史実に、トンデモ本マニアなら誰でも知っている聖徳太子の「未来記」(太平記に、楠木正成が天王寺で未来記を読んだという記述があるというのは事実らしい)を加え、なんとも異様な物語に仕上げてしまったという怪作。
表題作「室町少年倶楽部」は銀閣寺を造ったことで知られる八代将軍足利義政が主人公。この義政という人物、民が飢えるのを無視して豪華な別荘やら庭やらを建設し、あげくのはてに応仁の乱を引き起こした将軍なので、普通なら否定的に描かれがちなところなのだが、この作品では、成熟を拒否し、人工楽園を夢見る世紀末的なデカダンとして愛情をこめて描かれている。好きなんだろうなあ、風太郎はこういう人が。実は私もこういう人物は大好き(笑)。
どちらも技巧を凝らした山田風太郎ならではの秀作。
黒崎政男『となりのアンドロイド』(NHK出版)も読む。東京大学文学部で行われた集中講義を本にしたもので、哲学からみた人工知能の問題点を概観してあるので入門書としてお勧めできる。
著者独自の主張として目を惹くのは、知能や心というものは他者との関係によって成立するものだという「関係論的把握」を重視しているところ。知能というのは厳格に定義ができるようなものではないわけで、たとえ不完全な知能しか持っていないロボットが登場したとしても、人々がそれを知能を持った存在として遇するということはあるのではないか、というのですね。
「それがロボットであるとか人間型存在者であるとかを認定するのは、設計側のテクノロジーの進歩によるものではなく、むしろ、社会の側がそれをどう受け入れてしまうかというところにあります。それはちょうと、心があるとか知能があるとかいう問題が、一方では実体論的な問題であると同時に、否、それ以上に関係論的把握の側に心や知能の本質が潜んでいるのと同じことです」(p.144-145)
これは確かに今までの工学的な人工知能論からは抜け落ちていた視点で、なるほどと思わされる。ホンダのP3やペット型ロボットがそこらを歩き回っているような時代になったら、なしくずし的にロボットにも心があると見なされてしまうかもしれない。犬に心があるのか、という議論と同じように、ロボットに心があるのか、という問題も、科学的というより社会的な問題なのだろう。
ついでにいえば、この「関係論的把握」を「コンピュータが詠んだ俳句の作者は誰か?」という例を使って説明しているあたり、「風流」の作者としては興味深いところ。
中目黒のイギリス料理店「1066」はお盆休み中なので、代わりに新宿の
「ダブリナーズ・アイリッシュ・パブ」でアイルランド料理を食べてみる。アイルランドとイギリスの料理がどれほど違うかよく知らないのだけど、食べてみたのはビーフシチュー(ギネスビールが隠し味)のパイ包みに、掲示板で話題のフィッシュ・アンド・チップス。なるほど、これはフライドポテトと白身魚のフライですね。さすがに新聞紙で包んではいなかったけど(笑)。日本向けの味付けなのかもしれないけど、なかなかうまいではないですか。ビールはキルケニーとギネスを半パイントずつ飲んでみたが、これも独特の苦味があって、私は日本のビールより好み。会計は食事が運ばれてきたときに払うスタイルなんだけど、これがアイルランド流なのかな。雰囲気もいいし、なかなかいい店である。今度は、アイリッシュ・ミュージックのライブがある木曜日に行ってみようかな。
8月15日(土)
この日記も国際的になったものである。掲示板にブラジルからの書きこみがあって驚いていたら、今度は南アフリカからのメールである。
8月10日の日記で、うちの病院に研修に来ていた外務省の医務官の方の話を書いた。主に取り上げたのはペルーでゲリラの人質になっていた先生の話なのだけど、そのあとで南アフリカに赴任していた先生のことにもちょっと触れた。いただいたメールは、南アフリカのプレトリアに住んでいる方からのもので、なんとその先生を知っているというのである。
いや、これには本当に感動しました。南アフリカでこのページを読んでくださっている方がいるということ。しかもそれだけではなく、偶然にも共通の知人がいるということ。人と人とのつながりというのは不思議なものである。南アフリカでも同じようにこのページを見ることができて、どこにいても同じようにメールが送れるというのも、考えてみればとても不思議なことだ。まあ、こんなことは、海外とメールのやりとりをしているような人はとっくに実感しているだろうけど。言いふるされたことだけど、インターネットという便利な道具は、こんなふうにして人間の距離感覚を変えていくんだろうな。
有楽町にて
『リーサル・ウェポン4』を観る。アクション映画というよりは、ほのぼのファミリーコメディ。なんせ、ラストでは「みんな家族だよ」などといいながらレギュラー陣が記念写真を撮ってしまうのだ。これはストーリーを楽しむというよりは、おなじみの面々との再会を楽しむというアメリカの「寅さん」なのかも。妙にふっきれたような明るさは楽しめるが、ひたすらかけあい漫才が続くという関西ノリは、特にこのシリーズに思い入れもない私にとってはちょっとくどかった。
アクション映画としての見所は、なんといってもハリウッドに進出したリー・リンチェイ(ジェット・リー)の華麗なアクション。香港マフィアの親玉という役どころなのだけれど、童顔とすがすがしい微笑みはどうみても悪役向きじゃないと思うんだけどなあ。クライマックスでは主人公二人との戦いになるのだけれど、スピードが違いすぎて、メル・ギブソンやダニー・グローバーごときでは、リー・リンチェイには絶対に勝てそうにない。まあ、主人公なので結局二人が勝つんだけど、この勝ち方が到底主人公とはとても思えないほど卑怯(笑)。エイリアンと戦っているんじゃないんだから、いくらなんでもこの倒し方はないでしょ。
というわけで、主役二人はどうでもよくて、リー・リンチェイのかっこよさに尽きる映画(出番が少ないのが残念)。なんだかもう一度『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ』シリーズが観たくなってきたな。
冬樹蛉さんの
間歇日記8月12日で発表された
第三回「○○と××くらいちがう」大賞で入賞二席をいただきました。どうもありがとうございました。次回に向け、またネタを考えよっと(笑)。
8月14日(金)
今日の毎日新聞国際面にこんな記事が。
「露元大統領補佐官 宇宙へ」
エリツィン・ロシア大統領の側近として知られたバトゥーリン元大統領補佐官(49)が乗り組んだロシアの宇宙船「ソユーズ」が13日、カザフスタンのバイコヌール基地から打ち上げられた。15日に宇宙ステーション「ミール」にドッキングする。元政府高官の宇宙飛行は史上初めて。
「ソユーズ」の乗組員は、バトゥーリン元補佐官、バダルカ船長(40)、アブダエフ飛行士(42)の3人。元補佐官は「ミール」で約20種類の科学実験に取り組んだ後、現在「ミール」に乗り組む2人の飛行士とともに25日に帰還する。(強調引用者 以下略)
……
ガチャピンは?
病院の医局に、
中山隼雄科学技術文化財団というところから、研究助成の申込書が届いていた。きいたことのない団体だなあ、と首をひねりつつ、一緒に届いた「財団リポート」をみると、なかなかおもしろい研究が載っている。「テレビゲーム遊びが人間の暴力に及ぼす影響に関する研究」(お茶の水女子大の学生に、バーチャコップをやらせ、そのあとサクラに対して電気ショックを与えさせる(いわゆるアイヒマン実験)という実験で、ゲームは暴力性を増大させうる、という結論を出している)とか、「高齢者がゲーム機器遊びを学習する時の適応性の研究」、「若い女性の生活における情報環境と電子メディアとのかかわりに関する調査研究」などなど。「人間と遊び」に関する研究に助成金を出している財団らしい。
妙な財団もあるものだ、と思って巻末の役員名簿をみてようやく謎が解けた。理事長の中山隼雄はセガ・エンタープライゼズの元社長で代表取締役だし、理事には入交社長をはじめセガの役員が名を連ねている。なるほど、セガの文化事業だったのね。評議員の方はなかなか豪華なメンバーで、脳科学の甘利俊一、久保田競、情報科学の戸田正直、解剖学の養老孟司、CSKの大川功会長、プロデューサーの残間里江子、そしてわれらが野田昌宏の名前も。
おもしろそうではあるが、精神科の病院とはあんまり関係がないような気がする。なんでまたうちの病院に送ってきたんだろうなあ。
夕刊には
「マンガ展に発火物」という見出し。てっきり石ノ森章太郎展とかそういうところの話かと思ったら、「東京ビッグサイトで」などと書いてある。
コミケではないか。そうか、あれはマンガ展だったのか(笑)。
近所の古本屋の100円均一棚から、高木彬光
『ハスキル人』『連合艦隊ついに勝つ』『黒白の虹』『帝国の死角』と、ジョン・ベレアーズ
『霧のなかの顔』(ハヤカワ文庫FT)を入手。計600円。店内に入ると、おお、サンリオSF文庫が入荷しているではないか。ラングトン・ジョーンズ
『レンズの眼』、H・G・ウエルズ
『神々のような人びと』購入。この店ではサンリオはすべて1000円均一。そのほか『確率人間』『暗闇のスキャナー』『万華鏡』『ザ・ベスト・オブ・H・G・ウエルズ』などが並んでました。ほしい人がいたら捕獲しときますが。
8月13日(木)
高校生くらいの頃まで、「駄目」を
「馬犬目」(「馬犬」で一文字)と書いていた。「馬犬」ではなく「馬太」が正しいということに気づいたときは愕然としたものだ。どういうわけか、私は「馬犬」が正しいと固く信じていたのである(え、「馬犬」じゃなかったの? と驚いた方、いませんか?)。
こんな間違いをするのは私だけかと思っていたのだが、あるとき、
唐沢なをきのマンガを読んだところ、書き文字が必ず「馬犬目」になっているのを発見した。おお、同士よ。私は感動にうちふるえた(笑)。それから何年かしたある日、私はもう一人、「馬犬目」と書くマンガ家にめぐりあった。
吉田戦車である。もしかしたら、マンガ家には「馬犬」派はけっこう多いのだろうか(まあ、ネームが手書きでないと発見しようがないが)。さらに最近発見したことだが、うちの病院にも、カルテに「馬犬目」と書いている看護婦さんが一人いるのだ。
しかし、なんで「駄」を「馬犬」と書いてしまうんだろう。「駄犬」という単語に引っ張られるからだろうか。これは何の根拠もないのだが、「駄目」という単語にはなんとなく「うまいぬ」っぽい感じがあるのではないか。「うまいぬ」と発音してみてほしい。なんとなく「駄目」な感じがしませんか?
この調子で「馬犬」派が増えていけば、「馬犬」が正しい表記になる日も近いかも。さあ、あなたも明日から「馬犬目」と書きましょう(笑)。
上遠野浩平『ブギーポップ・リターンズ VSイマジネーター』(電撃文庫)読了(しかし長いタイトルだ)。あいかわらずよくわからない敵と戦っているブギーポップである。今回は前作よりもスケールアップして、ブギーポップ、イマジネーター、謎の秘密組織「統和機関」の三つ巴の戦いだ! なんだか、私は『バットマン・リターンズ』を思い出してしまった。同じ「リターンズ」だし、もしかしたら少しは意識しているのかも。
バットマンを思い出したからというわけでもないのだが、同じ事件を複数の視点から語って重層的に浮かび上がらせるスタイルといい、複数のヒーロー、複数の敵が独立して戦っている世界という設定といい、なんとなくアメコミっぽいところを感じてしまうのだが、どうなんだろう。前作を読んだときにはタランティーノの影響を感じたのだけれど、むしろこれは『ワイルド・カード』の世界なのかも。
作者がイマジネーターとして描いている敵は、世の中にはびこっている安易な「こころの癒し」とか「ほんとの自分」とかそういうものだと思うのだが、ちょっとわかりにくい。癒された人間がイマジネーターのロボットになってしまうような描写では、イマジネーターの本当の恐ろしさ、気持ち悪さが伝わりづらいと思うのだが。また、長くなった分だけ登場人物が増えすぎて、ちょっと前作よりまとまりが悪くなっているような気もする。
まあ、前作と比べればそういう不満はあるものの、それは前作があまりにみごとにまとまっていたからであって、続編としては充分及第点。水準を軽く超える作品だとは思うのだけれど、やはり前作のような傑作を読んでしまうと、要求が大きくなってしまうのだ。次は『ブギーポップ・フォーエバー』かな?(で、その次は『ブギーポップ&ロビン』か(笑))
ジュンク堂にて、グレッグ・アイルズ
『神の狩人』(講談社文庫)を買う。それから横田順彌
『古本探偵の冒険』(学陽文庫)を購入。これは小説ではなく、本の雑誌社から出ていたエッセイ集『探書記』を改題したものなので注意。でも、文庫版には
特別増補がついているので親本を持っている人もマニアなら買うべし(笑)。しかし、学陽文庫なんて文庫、初めて見たぞ。
8月12日(水)
病院からの帰りのことである。信号待ちをしていると、後ろにいる学生っぽい若者二人組の声が、聞くとはなしに耳に入ってきた。どうやら先輩と後輩らしい。後輩らしい方は、興奮した口調でこう話していた。
「ガチャピンが宇宙へ行くのって明日っすよ! すごいじゃないですか!」
そうかそうか、君たちも気になっていたのか。私も実は気にしていたのだ、
ガチャピンのことを。宇宙遊泳はあるのか(ないって)。狭い船内であの巨体は邪魔にならないのか。もし何か事故があってロケットが宇宙の藻屑と消えてしまったとしたら、やはりガチャピンというキャラクターは永遠に死んでしまうのか。相棒に次々と先を越されていくムックは、実はABブラザーズの松野のごとくガチャピンを憎んでいたりしないか(笑)。
それにしても、自分の作り出したキャラクターが宇宙へ旅立つ感想を、野田昌宏氏に聞いてみたいものである。やはりここは『キャベツ畑でつかまえて』を大増刷するのが筋というものではないのかね>早川書房。
近所に小さい本屋があるのだけれど、店長の趣味か妙にミステリーの品揃えがいい。奥の文庫棚は海外ミステリが占拠していて、エルロイ、ゴダードなど著者別に分類されているし、平台に積まれた京極夏彦の『塗仏の宴 宴の支度』には手書きのPOPが立ててあった。
「〈京極News〉またまたまた残念なお知らせ 『塗仏の宴 宴の始末』の発売は9月になりました。やるきあるんすかね」。わはは。いくらなんでも「やるきあるんすかね」はないだろう。気持ちはわかるけど。
新宿TSUTAYAにて、イギリスのバンド、boaのデビューアルバム
"The Race of a Thousand Camels"ゲットだぜ。テレビ東京系の深夜アニメ
「lain」のオープニング曲"Duvet"を含むアルバムである。印象的なボーカルのジャスミン・ロジャーズは、イギリス屈指のロック・ボーカリスト、ポール・ロジャーズと日本人女性の間に生まれた娘だそうな。といわれても、そもそもポール・ロジャーズという人を知らない私には全然ぴんと来ないのだけれど。アルバムの中では、やはり"Duvet"がいちばんよくて、それ以外はなんだか今のところどれも同じような印象。ただ、どの曲もおそろしく暗い歌詞なのは私好みかも(笑)。
もう一枚、エクトル・ザズーというフランスのアーティストによる、ケルト・ミュージックのアルバム
"Lights in the Dark"も購入。ケルト音楽とはいっても現代的にかなり自由にアレンジを加えたもので、坂本龍一やピーター・ガブリエルもミュージシャンとして参加している。聴いてみると、確かに雰囲気はケルトっぽいのだけれど、いきなり宮城道雄の筝曲が始まったかと思うとそこに女声ボーカルがかぶさるような曲もあったりして、かなり怪しげ。これには思わず笑ってしまった。なるほど、欧米人にとっては、ケルト音楽も筝曲もエスニックには変わりないわけね。ワールドミュージックだとかいって日本人が喜んで聴いている音楽も、現地の人にとっては噴飯ものなんだろうな。
8月11日(火)
役に立たないことを考えるのが好きである。
数学パズルとかアナグラムなどは昔から大好きだったし、最近でも例えば、
車体の横の会社名の向きの話とか、
七階まで通過致しますの話とか、そういう益体もないことを考えてはときどき日記に書いてきたのだが、どうもこれはあまり他人には理解してもらえないらしく、そういうときは掲示板にもメールにもほとんど何の反応もない。
だったら書かなきゃいいといわれそうだが、私はそういう役に立たないことが好きなのだから仕方ない(笑)。というわけで、今回も、自分ではとてもおもしろいと思っているのだが、果たして読者におもしろがってもらえるかどうかきわめて不安な話。
日本語には濁点「゛」というものがある。考えてみれば、この濁点という記号は不思議なものだ。フランス語などにあるアクセント記号がちょっと似ているかもしれないが、少なくとも英語には同じような記号はない。
世の中は澄むと濁るの違いにてはけに毛がありはげに毛がなし
という狂歌があるが、これなど英語にしたらどこがおかしいのか全然わからない。また、武田信玄が徳川家康に
「松枯れてたけたくひなきあしたかな」(松(松平)は枯れて、竹(武田)はたぐいなく栄える明日であることよ)と書いて送ったところ、家康はそれに濁点をつけ、
「松枯れでたけだくびなきあしたかな」(松は枯れず、武田首なき明日であることよ)として送り返したという伝説もあるけど、これもそもそも濁点というものがない英語で説明するのは難しい。
日本語では、「か」が「が」になり、「た」が「だ」になるのは当然のことのように考えているが、欧米人にとっては"hall"と"ball"、"class"と"glass"が似ているというのは、それほど明らかなことではないような気がする。彼らは"k"と"g"、"t"と"d"の間に隠されたつながりがあるなどとは考えたこともないのではないだろうか。
しかし、考えてみると英語でも語尾の"s"を 「ス」と読んだり「ズ」と読んだりするし、"vanished"を「ヴァニッシュト」と読んだりするわけで、"s"と"z"、"t"と"d"の間につながりがあることは理解しているに違いない。そういえば、無声音と有声音というのを習った覚えがある。濁点をつけるというのは、同じ口の動かし方で無声音を有声音化することだ、といえば欧米人にも理解できるだろう。
ところがである。ひとつだけ例外があるのだ。日本語を初めて学ぶ人に「か」→「が」、「さ」→「ざ」、「た」→「だ」という規則を教えた上で、「は」に濁点をつけたらどうなるか、と尋ねたら、十中八九「あ」に似たような発音をするに違いない。どういうわけか、「は」と「ば」では、唇の形が違っているのである。
それでは、「ば」を同じ口の形で無声音にするとどうなるか。これが、「は」ではなくて「ぱ」になってしまうのである。つまり、規則通りならば「ば」から点々を取った文字は「ぱ」と発音しなければならないのだ。
この一点からしても、大昔には「は」行を「ぱぴぷぺぽ」と発音していたという言語学的事実を推測することができると思うのだが、これは単なる素人の推測であり、まったくの的外れかもしれない。
boaの"The Race of a Thousand Camels"を探して池袋HMV、Virginなど数軒のCDショップを回るがどこにもなし。ちっ、先を越されたか。lainにはまっている人間は多いとみえる。