8月31日(月)
きのうまでの日記を読んだ妻が、私の顔を見てぽつりと言った。
「最近の日記、全然おもしろくないよ」
がーん。常に私を支えてくれた妻に日記がおもしろくないといわれたら、私はこの先いったいどうやって生きていけばいいのか……というのは嘘で、実は私もそう思っていたのだ。最近の日記はおもしろくなかったでしょう。すまん。なんせ、休み中の日記は、いつものようにネタ探しに呻吟したり医学書をひもといたりせず、何も考えずに脊髄反射で書いたような文章である。自分でもいつもより文章のレベルが落ちているのは承知していた。まあ、日記も夏休みということで、勘弁してください。
いっそこのままどんどんレベルを落としていって、最後に「アルジャーノンのおはかに花をあげてください」で終わるのも粋かな、と思ったりもしたのだが(一度はやってみたい大技の日記ネタである(笑))、さすがにそこまでは思いきれず、今日からはまた、もとのペースに戻りたいと思いますので(まあ勘を取り戻すのにちょっとかかるかもしれないけど)、最近の日記がつまらなかったからといって、見捨てないでね。
さて、今日のできごと。10日ぶりに病院に行ってみれば、案の定仕事が山積み。患者さんのひとりは私がいない間拒薬を続けており、症状が悪化して保護室にいたし、もうひとりはきのうけいれんを起こして倒れたという。ほかにも小さな変化がいろいろ。ひとりひとりと面接をしたり、薬の調整をしたりしていくうちに一日が過ぎていく。ああ、診療の勘ははやく取り戻さなければ。
夜は渋谷にて例会。きのうまでSF大会に行っていたという人も数名。大会会場でも、デビュー作
『ダブ(エ)ストン街道』の営業に精を出していたらしい浅暮三文さんには、本にサインを入れてもらう。次回はゲストとして呼ばれるようになるといいですね、浅暮さん。最近ではすっかりコスプレとサバイバルゲームの人になってしまったOさん(♀)は、シンジ君のコスプレをしたそうだけど、相方のミサトさん(♂)に暗黒星雲賞をさらわれてくやしそう。来年のSF大会では、ホテル周囲のだだっぴろい空間を利用してサバイバルゲームをやるという企画もあるとかないとか。来年は長野かあ。うーむ、どうしようかな。
リチャード・レイモン
『逆襲の〈野獣館〉』(扶桑社ミステリー)購入。
なんてことをして帰ってニュースを見たら、北朝鮮からミサイルが発射されていたそうでびっくり。なんだか世も末だなあ。果たして、無事来年が迎えられるのだろうか。
8月30日(日)
えー、実に3日分まとめての更新である。いや面目ない。といっても別に日記も書けないほど忙しかったわけではなく、実はずーっと「影牢」と「アストロノーカ」に明け暮れる怠惰な生活を送っていたのであった。しかし、日記ってのは、忙しいから書けないというものではないですね。忙しいとストレスを発散するためか、かえって書くことは増える。本当に書けないのは、むしろひまでひまで仕方がない時なのだ。日記だけならともかく、届いたメールにも返事を書いていないのは、さすがにまずいよなあ。必ず書きますので、もう少しお待ち下さい>私にメールをくれた方々。
きのうきょうは、名古屋でSF大会「カプリコン1」が行われていたはずだけど、私は今年はパス。私は、SFセミナーは3回くらい行ったが、SF大会は1回しか行ったことがない。SFファンとはいっても小説オンリーの私にとっては、SF大会よりSFセミナーの方が楽しいのだ。でも、こんなにひまなのだから行けばよかったかな。しかし、大会名が大会名だから、参加者がみんな口裏を合わせて行ったふりをしているだけで、本当は行われてないのかも。
まあ、ひまな夏休みも今日でおしまい。明日から再び病院である。この一週間に担当の患者さんが不安定になってなどいなければいいのだけど(休みが明けて病棟に行ってみたら、落ち着いていた患者さんが急に不穏になって保護室に入っていた、などということがよくあるのだ)。
ぴあのテレビ欄には、今日の4時から「ガチャピン宇宙へ行く」が放映されると書いてあるのに、テレビをつけてみると、どうしたわけか、映っているのはガチャピンではなく「ものまね王座決定戦」。いったい、どうしたんだ。もしや、ガチャピンの身に何かが?(やっぱり、一本の番組を持たせるだけの宇宙での映像が撮れなかったのかなあ。ロシア人宇宙飛行士がぬいぐるみの着用を拒否したとか。それならスタジオで撮りなおせば……って、これぞまさしく「カプリコン1」)
8月29日(土)
いや、おもしろいです、「アストロノーカ」。いちおう農業シミュレーションなんだけど、肥料だの農薬だのという面倒くさい要素を思いきって省略し、テーマを品種改良という一点だけにしぼってあるのがいさぎよい。作物には重さ、大きさ、食感などさまざまな要素の遺伝子があって、種を交配することによって、この遺伝子を少しずつ改良していくのである。遺伝子が変わるにつれて、野菜のグラフィックも少しずつ変わっていくあたりなど、細かいところまでよく作りこんである。交配に交配を重ね、1年目には全コンクールに優勝して2年目に突入したけれど、まだまだ先は長そう。
かなりいいゲームだと思うのだが、ヒットするかなあ。はやくも
ファンのページもできているようで、けっこう評判はいいみたいなのだが。
評判いいといえば、例のiMacもけっこう評判がいいらしい。確かにあの安さとデザインは魅力ではあるのだけれど、最近始まったCMはいかにもセンスが悪いと思うのだがなあ。インターネットに接続するには「ステップ1、電源をつなぐ。ステップ2、電話線をつなぐ。ステップ3、もうない」って、いくらなんでもこれは誇大広告なんじゃないか。プロバイダの設定をするとか、ブラウザを立ち上げるとか、そういうこともしなくていいとはとても思えないのだけれど。
8月28日(金)
妻がどうしても観たいというので、日比谷に『仮面の男』を観に行く。うーん、「鉄仮面」ってこんな話だっけ? 原作を読んでないから大きなことは言えないが、こんなにあっさりと××××××が死んでしまうとは思えないのだけれど。まあ、物語自体は肩のこらない歴史活劇で、そこそこ楽しめるのだが、ルイ14世が、三銃士がアメリカ英語でしゃべりまくるのにはなんとなく違和感がある。アメリカ映画なんだからしかたないんだろうが、三銃士が"One for all, all for one"と結束の固さを確認する(なんだか『スクール・ウォーズ』を思い出してしまったよ)のはまだしも、画面に映る手紙に"For my sister"と書いてあるのはいくらなんでも変なんじゃないのか? こういうのって、アメリカ人は気にならないのかなあ。それに、宮廷劇ではあるのだけれど、登場人物はまるっきり現代人だし、展開も妙にスピーディで、全然重々しさが感じられない。ま、こういうのがハリウッド流なんでしょうね。
8月27日(木)
新宿の家具屋でダイニングセットを買う。私の家具屋嫌いと生来の怠惰さゆえ、ダイニングもソファも買わず、ちゃぶ台生活を続けていたのだが、とうとう妻に押し切られて家具屋を訪れ、椅子とテーブルを買うことになったのである(ソファはまだ買っていない)。結婚したので家具を買うのだと言ったら、店の人が妙なプレゼントをくれた。婚姻届と出生届を書くときに使うようにという銀色のペンなのだが、これがほんのわずかしかインクが入っていないので2回使ったら使えなくなってしまうのだという。なんだこれは。縁起を担いでいるんだかなんだかしらないが、どこがめでたいのだかさっぱりわからない代物である。わざわざほとんど書けないペンを作って配ることに、いったいなんの意味があるのだろう。
それに我々はすでに去年婚姻届は出しているので、今後書く可能性のある書類を考えてみると、
出生届と離婚届かいな。子供は生まれない可能性もあるので、そのときは
離婚届と死亡届か? なんか想像がどんどん暗い方にいってしまうんですが。いや別に今のところ離婚する予定は全然ありませんのでご心配なく>関係者各位(笑)。
今はなき「イマーゴ」などに書いていた斎藤環という精神科医のことはちょっと気になっていたし、最近うちの掲示板でも少し話題になっていたのだけれど、新宿紀伊国屋書店にて斎藤環
『文脈病』を発見。私が読んだことのある「スタジオボイス」のエヴァ論とか「コミック学の見方」に載っていた吉田戦車論も収録されている。この人の文章のスノビッシュな現代思想臭さはあんまり好みではないのだけれど、とりあえず買っておくか。
須賀敦子
『トリエステの坂道』(新潮文庫)、SFマガジン10月号も一緒に購入。
家に帰って、プレステで
「アストロノーカ」を始める。ちょっと変わった育成シミュレーションゲームである。プレイヤーは宇宙の農夫で、品種改良を続けて優秀な野菜を育てるのが目的。でも、のんびりしていると害獣バブーがやってきて野菜を食べてしまうので、畑の周りには罠を仕掛けなければならない。なんといっても、いろんな野菜をかけあわせて新種の野菜を作るのが楽しい。何度も同じ罠を使っているとバブーはだんだん進化していって抵抗力がついてくるというのも、なんだか細菌と抗生物質のいたちごっこを思わせてうまい設定である。『マリーのアトリエ』が化学系育成ゲームだとしたら、これは遺伝学系ゲームと……はいえないか、かけあわせの法則が、生物学的にはめちゃくちゃだしなあ。
8月26日(水)
妻に遅れること1ヶ月半、貴志祐介
『天使の囀り』(角川書店)を読む。読み出したらやめられなくて朝方までかけて一気に読んでしまった。今更ではあるが、これは
傑作である。さまざまな分野の膨大な知識をまとめあげて一つの物語を作り上げる筆力には驚くばかりだし、細かいところにも「今」を感じさせるディテールをうまく使っていて、きわめてリアル(だから、妻の言うとおり、10年後にも今と同じように面白く読めるかは疑問だと思う)。中でも感心したのは、科学知識の部分と物語とが実にしっくりと混じりあっていること。このあたりのバランス感覚は、最近やたらと増えているSFホラーの中でも群を抜くうまさである。
確かに細かいことを言えば、リタリンは抗うつ薬じゃないとか、「抗精神薬」じゃなくて「
向精神薬」が正しいとか、こりゃ恋愛シミュレーションじゃなくて、どうみても恋愛アドベンチャーだろうとか、いろいろとミスはあるのだけれど、まあそんな些細なことはどうでもよくなってしまうほど面白い。
精神医学関係の記述の中には、机上の知識としては正しいのだけれど実際はちょっと、と思えるところもあるけれど、まあこれは私が精神科医だから感じてしまうことであって、そこまで望むのは高望みというものだろう。
とにかく、今年のベストテン級の傑作であることは間違いない。今年必読の一冊である。
我孫子武丸が『殺戮に至る病』で岡村孝子を使ったように、この小説でも架空のゲームを使わないで、「好っきっとか嫌いとか〜」でやったら強烈だったろうに、と思うのだが、それやったら確実にコナミからクレームが来るだろうなあ(笑)。
今度の毒物事件は、東京の中学生が被害者かあ。かつて『毒薬の手帖』を愛読し、『グレアム・ヤング毒殺日記』をパロったタイトルの日記を書いている私だが、
今回の一連の毒物事件には嫌悪感しか感じないなあ。こういう流行は勘弁してほしい。しかし、今回の手口はかなり幼稚ですね。どこから送られてきたとも知れない「やせ薬」を普通飲みますかね。
最近の高校生あたりなら、躊躇うことなく薬を嚥下できるのかもしれないと思う。彼らは、街角で得体の知れない人間が売っている正体不明の『合法ドラッグ』なども、平気で服用するくらいだから。(p.180)
今日読み終えた『天使の囀り』に、ちょうどこんな記述があったのでそんなもんかとも思ったが、いくらなんでもいきなり飲むというのは軽率すぎるのではないかな。まあ、一人以外は誰も飲まなかったということなので、中学生の自己防衛力もまだまだ捨てたもんじゃないと、ちょっとほっとしているのだけれど。
8月25日(火)
休みが続けば日記を書く時間が増えるかというとそんなことは全然なく、かえって書くのがおっくうになってしまう。そこで今日は購入本リストでお茶を濁す。
SFは、キム・スタンリー・ロビンスン
『レッド・マーズ』(創元SF文庫)とリンダ・ナガタ
『極微機械ボーア・メーカー』(ハヤカワ文庫SF)。どっちも期待の大きい作品だから早いうちに読まねば。
『中井英夫全集[7]香りの時間』(創元ライブラリ)、
『種村季弘のネオ・ラビリントス2 奇人伝』(河出書房新社)、金庸
『秘曲笑傲江湖 第五巻』は以前から買っているシリーズもの。
表紙もタイトルもひどいサミュエル・W・テイラー
『わたしとそっくりの顔をした男』(新樹社)(原題は"The Man with My Face"。なんでこんな間延びしたタイトルをつけるんだろうね)は、帯に「クローン人間の恐怖を予感させるミステリ」などとあるので最近のSFミステリかと思ったら、なんと1949年に書かれたヴィンテージ・ミステリ。しかも、密室研究家のロバート・エイディが絶賛するほどの、どんでん返しに満ちた本格ミステリらしい。このタイトルと表紙じゃ誰もわからんて。
それから、北原尚彦
『キテレツ古本漂流記』(青弓社)、すがわらくにゆき
『魔術っ子! 海堂くん!!』(アスペクト)、メディアワークスの
『影牢公式攻略ガイド』も買ってしまった。
芸がなくてすまん。明日はちゃんと書こう。
8月24日(月)
ひたすら「影牢」をやり込んですごす夏休み。
実の兄を、育ての母を、難病の子供をかかえた一家を、次々と罠にはめて惨殺する主人公には、妻の名前をつけてみた(笑)。殺人鬼と呼ばれ魔物と恐れられてもひたすら殺戮を続け、1回目クリア。なんだかあんまりいいエンディングではないなあ。2回目行くか。
このゲーム、舞台は怪しげな屋敷や王宮だし、生き別れの兄はでてくるし、甲冑を着た巨大な腕や足が城の中を徘徊する
『オトラントの城』を意識したのかどうかは知らないが、巨大な手や足が敵を叩き潰すトラップもあったりして、まさにゴシック・ロマンス調ゲームという名にふさわしい。全部で26話ってのは、これは確実に2クールを意識してますね(笑)。
先に進んでいくのはそれほど難しくはないのだけれど、美しく罠にはめるのにはけっこう頭をつかうあたりのバランスも絶妙。いいゲームである。親兄弟まで情け容赦なく殺してしまうこんなゲーム、子供にやらせていいのかなあ、という気もするけど。
エリック・L・ハリー『サイバー戦争』(二見文庫)読了。この小説、原題はミンスキーの『心の社会』とほぼ同じだし、謝辞ではデネット、ミンスキー、モラヴェックの本を参考にしたあるのでけっこう期待したのだが、SF的にはまったくの期待はずれ。人工知能をめぐる哲学的、工学的アポリアはまったく無視されており、いきなり人間と会話ができるコンピュータが登場してしまうのである。本当にデネットを読んだのか、この作者は。
まあ、二見文庫をハードSFとして読むこと自体間違っているだろうから、SF風エンタテインメントとして読むことにしてみたが、それにしても欠点が目につく。
主人公の女性心理学者ローラは、世界最大のハイテク企業を経営する大天才に見初められたほどの才能の持ち主ということになっているのだが、どういうわけだかいつも些細なことでぷりぷり怒ったりおびえたりしており、どうみても有能な心理学者には見えない。それに、この主人公、何を考えて行動しているのか全然説明されないので、単に行き当たりばったりに動いているようにしか見えない。これでは感情移入のしようがない。脇役も全然存在感がないし、伏線もあんまり生かされていない(冒頭のFBI捜査官はどうしたんだ)。この作者、あんまり小説がうまい人ではないんじゃないかな。
上巻の終わりあたりで唐突なまでに意外な展開があり、もしかしたらこのあと、宇宙規模に壮大なストーリーが広がっていくかと期待したのだけれど、残念ながらこれも不発。一つ一つはおもしろくなりうる素材をふんだんに使っているのだけれど、素材の羅列にとどまっていて、それをまとめる(SF的)バックボーンが欠けているのである。
しかし、そもそも、意識を持ったメインコンピュータが、島全体を制御している、というアイディア自体が、致命的なまでに古臭いと思うのだけどね。
8月23日(日)
掲示板で教えてもらった中目黒のイギリス料理店「1066」に行ってみました(1066というのはウィリアム王がイギリスを統一した年で、イギリスにとっては記念すべき年であるらしい。統一っていっても、よそから来たノルマン人の王がイギリスを征服した年じゃないか、と思うのだが……イギリス人の考えはよくわからんなあ)。
食べたのは、シェパーズパイにキドニーパイ、ローストビーフにフィッシュ・アンド・チップス。これは家庭料理なんでしょうね、なかなか素朴でいける味である。確かに隣国フランスの料理に比べると洗練されてなくて大味だけど、フランス料理ってのはそもそも宮廷料理だから、単純に比較する方が間違っているだろう。
夢にまで見たキドニーパイは、腎臓のシチューをパイ皮で包んで焼いたもの。なんだかレバーのようで内臓独特の臭みがある。なるほどこれがキドニーパイか。……確かにこれは、有名な割りにはあんまりおいしいものではないなあ。
シェパーズパイというのは、ラムひき肉にマッシュポテトを載せた料理。これはなかなか食べやすくておいしいのだけど、パイ生地などどこにも使われていない。いったいこれのどこがパイなんだろうか。
料理にはグレイヴィー・ソースというのがついてきて、肉料理にかけて下さいとのこと。パイもローストビーフも、すべてこのソースでいただくのである。確かにコクがあってうまいソースなんだけど、ここまでおんなじ味ばかりだとさすがに飽きる。つけあわせには、ニンジンやキャベツなどの温野菜が出てくるのだけれど、これは非常に薄味。
私たち以外の客はほとんどがイギリス人。イギリスの人にとっては、これが故郷の味なんだろうなあ。ということは、マッケンやブラックウッド、クリスティやセイヤーズの登場人物たちは、こういう料理を食べていたのか。そう考えると、この料理が私の愛好する英国怪奇小説や英国ミステリの源泉のような気がして、なかなか興味深いものがある。でも、ピーター卿(セイヤーズの作り出した名探偵)のような貴族の家や、ヴィクトリア女王の王宮でもこのような料理を食べていたとは思えないので、宮廷料理というのはまた別物なんだろうなあ。イギリス宮廷料理。あんまり聞いたことがないけれど。まさか、フランス料理を食べてるわけでは……ないですよね?
そうそう、一緒に飲んだバス・ペール・エールというイギリスのビールは、日本のビールより味がまろやかで飲みやすく、掛け値なしにうまかった。それから、食後のダージリンもとても美味。やはりイギリスは紅茶とパブの国ですね(紅茶とビールだけかい)。
値段は量の割りにはちょっと高め。プディングが食べられなかったのがちょっと残念。
8月22日(土)
今日から夏休みである。うれしいな。
私は、夏休みだからどこかへ出かけるなどという気力も体力もない人間なので、今日は終日家の中でだらだら過ごす。妻も似たような性格なのでお互い楽である反面、どちらかがよほど強い意思で言い出さない限り、どこへも出かけず休日が終わってしまうことになる(こうしていくつの休日がつぶれてきたことか)。まあ、こういう二人だから一緒にいられるのであって、今日は休みだから早く起きてテニスをしましょうなどという女性だったら、はなから結婚しなかっただろうが。
今日の24時間テレビのオープニングで、TOKIOもこう気合いを入れていた。
「はりきっていくと最後までもたないから適当にいくぞ!」「おお!」
気合いだかなんだかよくわからないが(笑)。しかし、こういうスタンスってのはなかなかいいんじゃないかなあ。肩の力が抜けていて、余分な力が入っていない感じがして、私としては「はりきって頑張ります!」などという人よりよほど好感が持てる。
「適当」とか「いい加減」とかいう言葉は悪い意味で使われることが多いけれど、よく考えてみれば、どちらも本来は決して悪い意味ではない。ちょうど適している、とか、ほどよい程度、とかいう意味ではないか。それが悪い意味になってしまうのは、日本人が(というような一般化はあまりしたくないけど)常に発展を続けなければならない、という強迫観念に支配されているからのような気がするな。
経済には詳しくない(と前にも書いた覚えがあるな)のだが、経済成長率ってのは高くなければならないんだろうか。0%じゃいけないんだろうか。まさか永遠に成長しつづけることができるなんて思っちゃいないよね。現状を維持しつづけるというのも、それはそれでたいへんなことだと思うのだけど。
というわけで今日は「適当」で「いい加減」にすごす。
このあいだ買ってきたプレステ用のゲーム
「影牢」を8章まで進める。新婚の夫を、女戦士を、大臣を、次々と罠にはめては殺していく。いやあ、人を罠にはめるのって楽しいですね(笑)。自分で設置した罠を使うコツはわかってきたのだが、部屋にもとからついている罠がうまく使えない。まだまだ奥が深いな。
その後、妻は「スターオーシャン・セカンドストーリー」(これも材料を集めて料理するとか、本を書いて出版すると定期的に印税が入ってくるとか、遊びの部分が楽しいRPG)のおまけについてきた
「アストロノーカ体験版」で遊んでいる。野菜を交配して育てるというちょっと異色の育成ゲーム。はたから見ているだけでもなかなか面白そう。製品版も買ってみるかな。
そうそう、きのうはグレッグ・ベア
『凍月』(ハヤカワ文庫SF)も買ったのだった。
8月21日(金)
時代は、カルテは患者さんに開示した方がいいという趨勢になっているようなのだけれど、私は必ずしもそれがいいとは思わない。カルテを見せることが当の患者さんにとってマイナスになることだって多いと思うのだ。
私は(そしてたいがいの精神科の医者は)、カルテを日常語で書く。ところどころに英語や略語、専門用語も使うけれど、基本的には日常的な日本語で書いているのである。そして精神科には他の科のような検査や診察結果はあんまりないから、カルテには、患者さんとの会話や仕草をそのまま書いたり、患者さんに相対したときの主観的な印象を書いたりする(「椅子を引いてちょっと離れたところに座り、おどおどとした口調で話す」とかね)。だから、読めば何が書いてあるか誰にでもすぐにわかるはずである(字が汚い先生のカルテ以外は)。一般の人、それに他科の医者からみても奇妙に見えるカルテだろうが、精神科ではそういう記述こそが患者さんの全体像をつかむために必要なのである。
このあいだ、一般科のためのカルテ記載マニュアルを見ていたら、「主観的な印象を書かないこと」などという項目があったが、これを読んだとき私は一般科と精神科の間のあまりの隔たりの大きさに呆然としてしまった。カルテが開示された場合に無用なトラブルを避けるための注意なのだろうが、精神科では主観的なことが書けなければ、カルテの意味などないのである。
精神科のカルテには、本人が読んだらかなり失礼なことまで書いてあったりするし、家族関係の歪みと病気との関連、なんていう、とても家族には見せられないようなことまで書いてある(これを少しずつ家族にフィードバックしていき、歪みを修正していくのが家族療法という技法である)。「失礼」くらいならいいが、妄想のある患者さんの場合、カルテを見せることによって妄想が強化され、治療に悪影響を及ぼすことだって考えられる。そしてカルテが見たいと言ってきたり、こちらの手元を覗きこんできたりする患者さんは、たいがい被害的な妄想があって病状が重いような人なのである(あくまで精神科では、の話)。
そういう患者さんも、よくなってくると不思議にカルテを見たいとは言わなくなってくる。ときにはこちらから、幻覚妄想がひどかったころのカルテを見せて、あの頃はつらかったんだねえ、などと話すこともあるけれど、そんなときでも患者さんは穏やかに笑っている。たぶんそれは信頼関係によるものなのだと思う。カルテを見たい、というのはつまりお前のことは信頼してないぞ、というメッセージにほかならないのである(それに対しどう対処するかは医者個人個人の判断による。見せた方が信頼関係が築けると判断すれば見せることもある、見せることによってかえって興奮が強くなると判断すれば見せずに鎮静をはかることもある。このへんの判断は微妙である)。
まあこんなふうに、一般科と精神科では事情が違うのである。インフォームド・コンセントとかカルテ開示とか、そういう報道を新聞や雑誌で見るたびに、こりゃ精神科のことを考えてない議論だなあ、と私は思ってしまう。こういう運動ってのは、患者と医者が対等の立場に立つことを目標にし、患者には理性的に判断する能力があることを前提にしているのだろうが、そうでない場合もあるのだ、ということを忘れないでほしい。世の中には、医者が父権的にふるまうことを悪とする傾向があるようだが、そうしなければならない場合もあるのだ。もちろんできればそんなことはしたくはないのだが、強権的に患者の自由を奪わねばならないこともあるのだ。
こんなふうに考えてしまうのは、私は精神科という特殊な科にいるからかもしれないし(特殊翻訳家柳下毅一郎氏にならって
特殊医師ってのもいいかも(笑))、こんなことを書いても普通の医者にかかっている人にはあんまりぴんとこないし役にも立たないかもしれない。ただ、最近の新聞や雑誌でのカルテ開示に関する議論(カルテを見せない医者は旧弊で硬直的だ、みたいな)があまりに一方的に思えるので書いてみた。
きのう行った古本屋で、気になっていたシュトローブル短篇集
『刺絡・死の舞踏』(創土社)を買ってしまう(「忍ぶ党」って、何だそれは>IME-98)。創土社のこのシリーズも全部集めたいなあ。いちばん欲しいのはエーヴェルスの『吸血鬼』なのだが、昔、高野書店で12000円の値がついていてため息をついたことがある。買えるか、こんな値段で。