ホーム 話題別インデックス 書評インデックス 掲示板
←前の日記次の日記→

1月31日()

 千石の三百人劇場で、『地球に落ちてきた男(完全版)』を観る。
 客層は、いかにも渋谷当たりを歩いていそうで、ちょっとアートなんかにも興味があるし、という雰囲気の若者(偏見)が多くて、私のように『ふるさと遠く』や『モッキンバード』で知られるウォルター・テヴィス原作作品だから観に来た、などという輩は誰もいなさそうである。
 22年前の日本初公開版より20分長いらしいのだが、この映画を観るのが初めての私には、どこが長くなっているのかよくわからない。その上ストーリーもよくわからない。そもそもなんのために地球にやってきたのかがわからん(移住しに来たのならなんで妻子を置いてきたんだよ。水を求めてやってきて墜落したのかとも思ったのだが、水を積んで帰れるくらいの宇宙船なら妻子だって連れてこられるだろう)し、なんで墜落したときにいきなり英国の旅券だの指輪だのを持ってたのかもわからん。指輪を売って20ドル手に入れたのはまあいいとしても、なんでそのあとすぐ100ドル札をいっぱい持ってるんだ、おい。
 そのあとの展開もきわめてわかりにくくて、結局最後までストーリーはよくわからないまま。パンフレットのあらすじを読んでようやくおぼろげにわかった始末。たぶん、筋はどうでもよくて、デイヴィッド・ボウイを鑑賞するための映画だったのだろうけど、不幸にも80年代アイドルによって美人のイメージを形成されてしまった私には、こういう人物を美しいと感じるセンスがないらしく、単に病的で不気味にしか思えないのであった。
 アポロ13号船長のジム・ラヴェルが本人役でちょこっと出てきていたのが笑えたくらいかな。
 好きな人には申し訳ないが、私にはこの映画、さっぱりわからなかったよ。
1月30日()

 高知行きに向け、坂東眞砂子の『死国』『狗神』(角川文庫)を読んでみた。
 ああ、なんということだろう。うららかな南国だとばかり思っていた高知は、お遍路がうろうろしていてそこらへんで行き倒れていたり、何かあると犬神をけしかけられたりする恐ろしい土地であったらしい。これは心して行かねばな(高知に対して歪んだイメージを持ってしまった気がする(笑))。
 そして、高知の人間は何かことあるたびに皿鉢料理(さわちりょうり、と読むようだ)なるものを食べているようで、『死国』にも『狗神』にもこれを食べるシーンが何度となく出てくる。しかし、どんなものなのか全然説明がないのでイメージがわかないのが難点。メールでも皿鉢料理を勧めて下さった方がいるので、高知といえば皿鉢料理らしいのだが、いったいどんな料理なのか、関東で生まれ育った私には想像もつかないのであった。
 さて最初に読んだ『死国』はごく普通のホラーという感じ。それなりにまとまってはいるが、あんまり怖くはないですな。それに、最後にいきなり話に絡んでくる修験者の扱いがどうも中途半端に思えるし、視点がころころと移動するのでちょっと読みにくい感あり。「ガタンガタガターッ。耳をつんざくような音がした」(p.294)というような安易な擬音の使い方も気にかかる。
 それに比べれば、『狗神』ははるかに怖い。でも、この怖さというのはホラーとしての怖さではなく、差別が根強く残っているどろどろとした村社会に対する恐怖なのだけれど。この村の描写のいやらしさ、ねちっこさときたら、村の生活の経験のない私にとっても、寒気を覚えるほどに怖い(小野不由美の『屍鬼』の村よりこっちの方がリアリティがあるような気がするなあ)。物語の運び方も、『死国』に比べ、格段に上達したように思える。ラストの唐突な怪奇現象には疑問が残るけど。どうもこの著者は、怪異の描き方があまりうまくないような気がする。このあと坂東眞砂子が徐々にホラーから離れていったのは正解だと思うな。
 しかし、犬神筋に対する蔑視や結婚の忌避といった差別ってのは、実際に中国四国地方に今でも残っている微妙な問題だからねえ(精神医学雑誌にも、犬神による憑依精神病の論文がたまに載ったりする)。犬神筋が本当に犬神を遣ってしまうというこういう話を書いてしまうってのはどうかと思うんだけど。実際に犬神筋として差別されてきた人が読んだらどう感じるんだろうか。

 きのうのスピッツの話には、掲示板でもメールでも反応が来まして、それによれば実際に発売されたスピッツのCDはシングルではなくアルバムであったらしい。つまり、スピッツのCDはもともとランキングに入るわけなどなかった、ということのようだ。その後の「雷波少年」の中で訂正のテロップが入ったらしい。
 なるほどねえ。雷波少年、そういう手を使いましたか。これはどう考えても「わざと」ですね。5位以内に入っててもおかしくなくて、しかも実際は入っていないようなアーティストを見つけるのは至難の技だもんなあ。その点、実際にはシングルが出ていないアーティストの名前を使えば万事OKというわけですね。なるほど。
 でも、ってことは、今でもスピッツは、シングルを出せば20位以内には入るくらいの人気はあるってことなのかな。ふうん、それなら私が買うまでもないか(←どこまでもひねくれものな私である)。
1月29日(金)

 だいぶ前の話になるのだが、日本テレビの「電波少年」の正月特番で、オリコン20位以内に入らなければ解散するバンド、サムシング・エルスの順位を発表する企画があった。
 まずは曲作りの苦労や、全国を回った地道なキャンペーン(あのような地味な路上ライブをいくら繰り返したところで、売り上げに影響があるとはとても思えない。これはキャンペーンそれ自体より、キャンペーンをテレビで放映したことに効果があるのだろう)などこれまでの経緯をまとめたVTRを放映したあと、いよいよ順位発表である。順位を紙を隠したボードが出てきて、30位から順に一つずつ開けていく。5位まで開けたときにアナウンサーが言った。「まだ安室奈美恵の新曲が出てません。それに、GLAYのニューシングルもあります」
「あー、ダメだよ絶対」とサムエルのメンバーが頭を抱える。
 そのあとアナウンサーはニューシングルを出した有名アーティストを二人挙げたあと(誰だか忘れた)、最後に駄目押しをするようにこう言った。
「それに、○月×日にはスピッツの新曲も出ています」
「あー」とまた、サムエルはうなった。
 しかしそのとき私は思った。
 スピッツ?
 今のスピッツになら、サムエルは充分勝てるのではないか。
 アナウンサーは、スピッツの名前を出したとき、俺は今不自然なことを言っているな、と思わなかったのだろうか。サムエルは、そういや最近スピッツの名前を聞かないな、とは思わなかったのだろうか。
 私の予想通り、サムエルは2位に入っており、1位は安室奈美恵。スピッツはなかった。結局、スピッツの新曲はオリコン30位以内には入っていなかったのである。
 一時期あれほどまでに売れたスピッツは、急速に消費され、そして今や忘れられてしまった。まあそういうことだ。

 誤解をしないでほしいのだけれど、私はスピッツが好きである。ファンであると言ってもいいくらいだ。ただ、「ロビンソン」でブレイクしてからのスピッツのシングルにはほとんど興味がなく、全然聴いていない。私が好きだったのは、アルバム『空の飛び方』のころのスピッツだ。このアルバムが出てしばらくしてからスピッツは「ロビンソン」で急に売れ出したので、このアルバムもかなり売れたようだけど、実際このアルバムは傑作としかいいようがないみごとな出来。
 スピッツが売れていたころ、詩と曲、それにボーカルを担当している草野正宗の書く曲はさわやかなメロディにわかりやすい詩などと言われていたが、私はいったいあれのどこがわかりやすいんだか、さっぱりわからなかった。メロディが親しみやすいことは確かだけど、草野正宗の詩は、おそろしく象徴が多くて、実はきわめて難解なのだ。そして、よく読むと、中には毒が隠されているのがわかる仕掛けになっている。スピッツの曲は、聴いただけではさわやかに聞こえるのだが、歌詞は「性」と「死」の象徴に満ちていて、どろりとした生々しさがあるのだ。
 『空の飛び方』に収められた「ラズベリー」は、私には何度聴いても幼女をレイプする歌にしか聞こえない(「泥まみれの汗まみれの短いスカートが未開の地平まで僕を戻す/……/もっと切り刻んでもっと弄んでこの世の果ての花火」)し、「冷えた僕の手が君の首すじに咬みついてはじけた朝/永遠に続くような掟に飽きたら/シャツを着替えて出かけよう」と歌う「青い車」は恋人を殺して死体ごと車で断崖からダイブする男の歌である(と思う。別の解釈をする人もいると思うけど、それはそれでかまわない。そういった多義的な解釈を許すところ自体が、草野正宗の詩の魅力だと思う)。
 こういう毒が薄められて、さわやかさばかりが強調されるのに違和感を感じたから、私はスピッツの曲をいつのまにか聴かなくなってしまったんだろうなあ。実際スピッツの曲が変わってしまったのかは知らないのだが、人畜無害な曲としてCMとかドラマのオープニングなどに使われているのに嫌気がさしてしまったのだ。
 でも、あんまり売れなくなってきた今なら、スピッツの曲もまた新鮮な気持ちで聴きなおせるかもしれない。久しぶりに買ってみようかな、スピッツのCD。
1月28日(木)

 そうですか、タイトルは井辻さんの歌集からじゃなかったんですか。それは意外でした。しかし、井辻さんの名前を出しながら「歌人」だとしか紹介しないあたりには、きのう書いた通り「SFを読みなれた者には逆に新鮮で興味深」いものを感じたりして(この日記をお読みの方の多くはたぶんご存知だろうけど、井辻朱美さんは翻訳家でファンタジー作家でもあります。本屋のハヤカワ文庫FTの棚にいくと、井辻さん訳の作品がたくさん並んでます)……とか私信で始めてみる。そういや私信で日記を始めたのは初めてかも。

 そうそう、ガイドブックによれば高知には寺田寅彦記念館というものがあるらしい。まあ大したものはないだろうけど、行ってみてもいいかな。なんせ、寺田寅彦といえばSFにも関わりないとはいえない人物である。
 なんでまた明治大正の随筆家である寺田寅彦がSFと関係あるのか、と訝る人もいるだろうが、それは彼のエッセイを読んでみればわかる。物理学者でもあった彼のエッセイは、良質のSFにもまさるとも劣らぬセンス・オブ・ワンダーの宝庫なのだ。
 たとえば岩波文庫『柿の種』に収められた次の文章。
 甲が空間に一線を劃する。
 乙がそれに続けてすこし短い一線を画く。
 二つの線は互いにある角度を保っているので、これで一つの面が定まる。
 次に、丙がまた乙の線の末端から、一本の長い線を引く。
 これは、乙の線とある角度をしているので、乙丙の二線がまた一つの面を定める。
 しかし、この乙丙の面は、甲乙の面とは同平面ではなくて、ある角度をしている、すなわち面が旋転したのである。
 次に、丁がまた丙の線の続きを引く。
 アンド・ソー・オン。
 長、短、長短、合計三十六本の線が春夏秋冬神祇釈教恋無常を座標とする多次元空間に、一つの曲折線を描き出す。
 さて、これはいったい何のことだろう。何やら数学用語による図形の説明のようだが、それにしては最後のところがちょっとおかしい。私は、このあとの文章を読んで、ガンと頭をぶちのめされた気がした。この文章は、このあと、
 これが連句の幾何学的表示である。
 と続くのである。連句を数学用語で説明しようなんてことを考えた人が今までいるだろうか。
 彼のエッセイは、随所に科学用語が出てくる上、論旨も科学的思考法で貫かれている。たとえば、岩波文庫から出ている寺田寅彦随筆集(私の座右の書である)第二巻に収められている「電車の混雑について」というエッセイは、どうすればすいた電車に乗れるのかを論理的に検証して、「第一に、電車の乗客の大多数は――たとえ無意識とはいえ――自ら求めて満員電車を選んで乗っている。第二には、そうすることによって、みずからそれらの満員電車の満員混雑の程度をますます増進するように努力している」という意外な結論を導き出したもの。
 寺田寅彦が繰り返し語るのは、数学や物理といった科学は、芸術と同じ美しさを持っているということ、そして芸術と科学は究極的にはひとつのものになりうるということ。私も、この意見には強く共感するものだ。
 いつか来るはずの、生命の神秘を科学によって説明できる日について書かれた、
 生命の物理的説明がついたらどうであろう。科学というものを知らずに毛ぎらいする人はそういう日をのろうかもしれない。しかし生命の不思議がほんとうに味わわれるのはその日からだろう。生命の物理的説明とは生命を抹殺することではなくて、逆に「物質の中に瀰漫する生命」を発見することでなければならない。(中略)
 私は生命の物質的説明という事からほんとうの宗教もほんとうの芸術も生まれてこなければならないような気がする。ほんとうの神秘を見つけるにはあらゆる贋物を破棄しなくてはならないという気がする。(「春六題」
 という意見にもうなずけるものがあるなあ。しかし、大正時代に書かれたものだというのに、この新しさはどうだろう。
 新しいといえば、物理学者としての寺田寅彦の関心事は、身の回りの物理現象だった。「日常身辺の物理的諸問題」の中では、窓ガラスを水滴が流れ落ちるとき、いくつかの水滴が合流してきれいな樹枝状の模様を作るときの法則について興味を示し、「現在の物理学はほとんど無能に近い」と苛立っている。そして、この問題や「たとえば河流の分岐の様式や、樹木の枝の配布や、アサリ貝の縞模様の発生などのようなきわめて複雑な問題までも、問題の究極に横たわる『形式的原理』には皆多少とも共通なあるものが存在すると思われる。(中略)すなわち事象は決してめちゃくちゃには起こっていない。ただわれわれがまだその法則を把握し記載し説明し得ないだけである」と書いている。
 これはまさしくフラクタルであり、複雑系ではないか。しかし、コンピュータもない当時には法則が導き出せるわけもなく、結局物理学者としての寅彦は大した業績を残してはいない。寅彦の関心は早すぎたのであった。
 ただ、科学と芸術の融合を夢見ていたからといって、SFにも好意的かというとそうでもなく「科学と文学」の中でヴェルヌやウェルズを取り上げ、「それらの多くは科学の表層に浮かぶ美しいシャボン玉を連ねた美しい詩であり、素人の好奇心を刺激するような文明の利器を陳列したおもしろい見世物ではあるが、科学の本質に対する世人の理解を深め、科学と人生との交渉の真に新しい可能性を暗示するようなものは存外にはなはだまれである」と痛烈に批判している。これについては、SF者としては、寅彦さんちょっと厳しすぎやしませんか、と言いたくなってくるのだけれど、まあ確かにそういうSFが少ないことは否定できない。
 しかし、「比較言語学における統計的研究法の可能性について」では冗談半分に、「beat/butu, laugh/walahu, flat/filattai, hollow/hola, new/nii, fat/futo, tray/tarai」などと英語と日本語を比較してみせたりもしている。SFに厳しい寺田寅彦は、その一方で清水義範の元祖だったのであった(笑)。
 ほかに私が気に入っている言葉といえば、「子猫」の中の
 私は猫に対して感ずるような純粋なあたたかい愛情を人間に対していだく事のできないのを残念に思う。そういう事が可能になるためには私は人間より一段高い存在になる必要があるかもしれない。それはとてもできそうにもないし、かりにできたとした時に私はおそらく超人の孤独と悲哀を感じなければなるまい。
 ってのもなかなか言えない名言。
 さて最後に『柿の種』からちょっと趣向の変わった断章をひとつ。
「庭の植え込みの中などで、しゃがんで草をむしっていると、不思議な性的の衝動を感じることがある」と一人が言う。
「そう言えば、私はひとりで荒磯の岩陰などにいて、潮の香をかいでいる時に、やはりそういう気のすることがあるようだ」ともう一人が言った。
 この対話を聞いたときに、私はなんだか非常に恐ろしい事実に逢着したような気がした。
 自然界と人間との間の関係には、まだわれわれの夢にも知らないようなものが、いくらでもあるのではないか。
 どう反応していいのか困ってしまうような名エッセイである(笑)。

 ジェイムズ・P・ホーガン『造物主の選択』(創元SF文庫)、恩田陸『球形の季節』(新潮文庫)購入。
1月27日(水)

 掲示板にも何度か書き込んでくれたfigaro77さんの日記コリオリの風に吹かれてを、井辻朱美さんの歌集からとられたとおぼしいタイトルに惹かれて以前からよく読んでいる。文学や芸術、それにときどきは科学を題材にした日記の内容は、SFや幻想文学の世界と遠いようで近いような微妙な距離感を持っていて、SFを読みなれた者には逆に新鮮で興味深いものがある(あまりSFを読まれないらしいご本人には、こんな読み方は迷惑かもしれないけど)。
 この方の「男がつくウソ、女がつくウソ」と題された1月23日の日記では、
端的にいうと、ボクの管見もあるけど女性のSF作家ってあまりいないような気がする。いるにはいるけど、フツーの小説家に比べ、その比率はかなり低いのでは?
 と疑問を呈していて、男性作家の技巧を凝らしたウソと、女性作家の「日常に接木された」ウソとを対比しておられるが、私としては女性SF作家が少ないとはあんまり思ったことがなかったのですこし驚いた。
 日本だと新井素子に大原まり子、松尾由美、と何人も思い浮かぶし(小野不由美、高野史緒というあたりをSF作家に入れるかどうかは疑問が残るけど)、海外だともっと多くて、マキャフリイ、ル・グイン、ティプトリー、ウィリス……と枚挙にいとまがないように思うのは、単に私がSFに親しんでいるからだけだろうか。figaroさんがもっとも自然なウソと評しておられる川上弘美だって、お茶大SF研出身であることは(SF界では)よく知られているわけで、さすがにSF作家とは言えないものの、「SF関係の作家」と思っている方は多いのではないだろうか(SF界だけかもしれないが)。
 では、女性作家が少ないのはどんなジャンルだろう。論理性を重んじる本格推理には女性作家が少ないかと思うとそうでもなく、クリスティ、セイヤーズからアリンガム、ポーター、それにジェイムズ、ウォルターズ……と脈々と連なる英国女流本格の流れがある。
 歴史小説の分野には女性は少ないような気がする(時代小説にはいても歴史小説には少ないような)けど、これは私がそのジャンルにあまり詳しくないからかもしれない。
 私が女性作家が少ない、と感じるのはハードボイルド、冒険小説、それに架空戦記の分野かなあ。あれこそマチズモを信奉する男のためのウソであり、読者の大多数を占める男の方でも、「女の書いた冒険小説なんて読んでられるかい」などという意識がある気がする(いや、上に挙げたどのジャンルでも、それぞれがんばっている女性作家がいることは知ってますよ)。
 男のためのウソの最たるものであるポルノも、女性作家というと大きく取り上げられるのでけっこういるような気がするが、実際は男性が圧倒的に多いはずだ(女性作家が書いたポルノの場合、読者は作品世界にそれを書いている作者を重ねるというメタ的な作業によって興奮を高めるのだろう。男性作家が書いたポルノでは、実用に供している際、まかり間違っても執筆中の作者など想像したりしないのと対照的である。いわば男性作家のポルノが近代小説なら、女性作家のポルノは現代小説的……といえなくもない)。
 結局何が言いたいかというと、男性読者が多いジャンルは男性作家が多く、女性がよく読むジャンル(恋愛小説とか)には女性作家が多いだけなんじゃないのかなあ、という気がするのでした。男性作家だからこう、女性作家だからこう、という特徴はそれほど明確ではないのではないか、と。SF者は、ティプトリーのことを絶対男性だと言いきって恥をかいたシルヴァーバーグの逸話を忘れてはいないのだ(逆の例だと、北村薫は絶対女性だ、と言った鮎川哲也、という例もありますね)。

 ああ、森下先生自ら先日の質問に答えて下さってどうもありがとうございます。アイスクリンは、この季節だとちょっと寒いかもしれないなあ。アイスクリンという名前のアイスはコンビニでもよく売っているけど、あれは高知が発祥の地だったのか。心惹かれるのはやっぱり高知以外にはないという謎の帽子パンかな。
 それから、メールでも高知大学の武井さんから、高知の味覚についてのアドバイスをいただきました。鰹は刺身ではなく、皿鉢料理(さわちりょうり)の鰹のタタキを食すべし、「どろめ」(=生のしらすぼし)もうまい、とのこと。「さわちりょうり」といい、「どろめ」といい、聞いたことのない単語ばかり。参考になりました。どうもありがとうございます。
1月26日(火)

 シェリー・タークル『接続された心』(早川書房)読了。前半では、ウィンドウズとマックの対立、シムライフ、イライザ、人工知能と人工生命などといったさまざまな材料から、人々のコンピュータ観の変化を読み取っていく。かつてはコンピュータといえばロジカルで還元論的な道具というイメージだったけれど、いつのまにか直観的で表象的な道具と考えられるようになってしまった。つまりはモダニズムからポストモダニズムへと、コンピュータに対する見方は変化したと、タークルはいう。
 確かにその通りだよなあ。昔のSFとか未来予想では、コンピュータ社会といえば、中央に巨大なマザーコンピュータがあって人々を支配している、というのが定番だったけど、今じゃそんな未来像を描くひとは誰もいない。社会全体がシミュレーションと化してしまい、相互に監視し監視される、中心のない世界。それが現代の電脳社会のイメージだろう。
 そんなことを考えて納得しながら読んだのだけれど、このへんはコンピュータを使っている人なら誰もが感じていることを改めて書いたようなもので、新しい意見は何もないような気もする。確かに、コンピュータと人間の関係の変化を、これほど明晰に書いてくれた本はほかにはないのだが。

 後半は、MUD(マルチ・ユーザー・ダンジョン)というテキストベースのオンラインゲームを題材に、匿名性やアイデンティティの複数化などについて論じているのだけれど、MUDがほとんど普及しなかった日本の読者にとっては、はっきりいってあまりぴんと来ない。オンラインゲームでならともかく、ウェブの文化においては、さまざまな自己を演じわけるということは、さほど重要視されてはいないような気がする。私もこの文章の中での自分と現実の自分は違うという自覚はあるけれど、それは私小説家の作品の主人公と作家本人がまったく違うようなもので、文章を書く人間なら誰でも思い当たることにすぎない。
 それに、「インターネット時代のアイデンティティ」と副題でうたっているにも関わらず、ホームページについては本の最後でほんのちょっと触れられるだけで、しかも「創発的AIのエージェントのように、その人が知り合う人間から、その人の交際や結びつきから、その人のアイデンティティが創発する。(中略)ウェブ上に数あるホームページは、多重でありながら一貫性をもったアイデンティティという新しい観念を実証した、最近の劇的な一例である」という手放しの絶賛ぶりは、それまでの慎重な態度からするとかなり奇異に思えてしまう。ネットをもうひとつの人生として扱うのではなく、成長するための過渡的スペースとして使え、という主張に至っては、そんな建前論を今さら言われてもなあ、としか言いようがない。
 本書は確かに重要な本ではあると思うのだが、今の日本の問題意識とはかなりずれてしまっていると言わざるをえない。今のインターネットについて考えるには、この本が終わったところから改めて始めなければならないだろう。

 最後に訳についてひとこと。おおむね読みやすいと思うのだけれど、精神医学用語の訳が今一つなのが残念。普通は「対象関係論」と呼ばれる用語が「オブジェクト・リレーション理論」とまるでコンピュータ用語のようにカタカナで訳されているし、「切り抜ける」と訳されている“ワーク・スルー”という精神分析用語も普通は「徹底操作」と訳すことになっている。確かに「徹底操作」もいい訳語とはいいがたいけど、こういうところでは定訳を使った方がわかりやすいと思うんですが。
1月25日(月)

 高知行きの飛行機のチケットを2枚買う。
 うちの病院では、年に1回は学会出張に行くことが認められていて出張費も全額支給されることになっている。今年度はまだ一度も学会に行っていないので、3月までに行かなければ、1回もこの特権を使わないで年度を終えることになってしまう。こいつを使わない手はない、というわけで、2月に高知で開かれる「多文化間精神医学会」に行くことにしたのである。ついでなので妻も一緒に高知旅行というわけ。もちろん洞窟フリークの妻と私としては、高知県の誇る鍾乳洞「龍河洞」も目的の一つであることはいうまでもない。これで日本六大鍾乳洞制覇まで、熊本の球泉洞と沖縄の玉泉洞を残すのみだ(笑)。
 多文化間精神医学会というのは、さまざまな文化と精神医学との関わりを探っていく学会。たとえば在日外国人の精神保健とか、アジアやアフリカの伝統的な精神医療とか、日本の土着文化の中の精神医学とかを含む、かなりおおざっぱな分野である。もともと、精神医学自体、脳科学とか神経薬理学から、病跡学という文学評論まがいの分野や、犬神憑きみたいな憑依現象の研究なんていうほとんど民俗学のような領域まで含む、ものすごくカバーする範囲が広い学問。このへんのふところの深さが、私にとっての精神医学の魅力である。
 今回の学会では在日外国人の精神保健についての発表が中心だけど、中には「四国山地の民間祈祷師――高知県物部村のいざなぎ流――」なんていう講演もある。けっこう楽しみだなあ。これ。坂東眞砂子的世界かも。
 まあ学会なんておもしろそうなところだけ出てりゃいいもんなんで(笑)、興味のある発表が終わったら観光にも行きたいんだけど、さて高知の名所といったらなんだろうなあ。「桂浜」ってのもただの砂浜みたいだし、「はりまや橋」って名前もよく聞くけど単なる橋がなぜそんなに有名な名所なのか私にはさっぱりわからない。どっか、好事家向けの名所はないもんかなあ。森下一仁文学館とか、大森望記念館とかあったら行くんだけど(ないって)。
1月24日()

 30である。
 今日は私の誕生日。そして私は今日でとうとう30歳になってしまったのだ。いよいよ未知の世界に足を踏み入れたわけだ。
 小さい頃には、1999年には私は30歳になるのかあ、などと計算してみたものだけど、1999年という年も30歳という年齢も、全然実感がわかなかった。そのころの私にとって、20歳ならばなんとか想像できた(たぶん、大学生か、あるいは浪人をしてるはずだと思っていた)けど、30歳という年齢は、まったく想像の範囲外だった。
 その30歳に今日ついに到達したのかと思うと、20歳になったときよりはるかに感慨深いような気もするし、一方で自分は大学生の頃から全然成長してないような気もする。唯一わかったのは、20歳くらいのころには、30といえばものすごく大人っぽいイメージを抱いていたんだけど、それはただの誤解だったらしいということ(笑)。
 「30歳成人説」というのをどこかで聞いたことがある。精神年齢でいけば今の30歳は、昔の20歳くらいにあたるのではないか、というのだが、この説は戦国武将とか幕末の志士たちの年齢をみると、けっこう納得がいく。本当のところ、現代では30歳くらいが、ようやく大人としての責任を果たせるようになる年代なのかもしれない。20歳で成人式をやって講演にきたどっかの教授を怒らせるよりも、むしろ30歳で成人式をやった方がいいのかも(どっちにしろ私は出るつもりはないけど(笑))。
 私自身としても、大学生だった20歳のころより、社会に出てしばらくたち、社会人としての責任の重さも知り、結婚もした今の方が、はるかに「成人」の実感がわくような気がするなあ(まあ、医学部は大学生を6年間やるので社会人になるのが遅いせいもあると思うが)。

 さて30になり、「成人」の実感を新たにした私が今日何をしていたかというと、きのうと変わらずドリキャスで遊んでいたのである(笑)。「ソニック・アドベンチャー」は、瞬発力のない私にはまったく向かないゲームであることが判明。早くもやる気をなくす。一見どこへでも行けるように見えるけど、見えない壁にはばまれて通れない箇所が多く、結局は一本道をたどるしかないのもストレスがたまる。ソニックのあのしゃべり方も嫌(これは言いがかりに近いけど)。
1月23日()

 今日は「アリスの会」の集まり。高山宏主催の学生セミナーに参加したあと、たまたまドーナツ屋(だっけか)に集まったメンバーで結成されたグループである。セミナーがあったのが91年だから、もう8年のつきあいになるが、そうそうよく会っているというわけでもなく、こうやって集まるのは1年半ぶり。
 待ち合わせの新宿紀伊国屋に向かう前に、向かいのヨドバシカメラでドリキャス衝動買い。一緒に買ったソフトは、「ソニック・アドベンチャー」、そして個人的に大期待の「戦国TURB」だ! このゲーム、PC-9801オンラインソフト黄金時代にBio_100%ブランドで発表された作品のリメイク。マニュアルにあるストーリーは、あのころのreadmeファイルそのままのノリで懐かしい。「じのちゃんは子どもの頃からとてもかわいい子でしたが、周囲に差別されたり、自覚なく変なことや酷いことをやりまくっていました」。これだよこれ。なのれー画伯のキャラが3Dで動くのが見られるだけでも幸せといえましょう。こんな変なものをいきなり出すとは、ドリキャスもふところが深いというか何というか。しかし、普通の人はこれを買うつもりになるか?
 入るつもりだった「青龍門」は整理券を配っていて路上に長蛇の列ができているほどの異常な混雑ぶりなので、空いていたインド料理屋で食事。お互いの近況を報告したり、私は実は昔はもてていたらしいという話を聞いたり(今さら聞いても遅いわ)、中国出身のSさんに「根気」と「根性」の違いについて説明したりしなかったり(なんとなく違うことはわかっているものの、いざきちんと説明するとなると難しいものである)。みんなあんまり変わったようには見えないが、お互い最初に会ったときから8年分歳をとったんだなあ。集まった5人の全員がメールアドレスを持っていて、3人はホームページを持っている(ここここ)というのは、ネット関係でも何でもない集まりとしては異常に多いのではないか。また今度は、そんなに間を置かずに会いましょう。

 家に帰ると、早川書房からSFマガジン3月号が届いている。しまった。まさかアンケートに答えたくらいで雑誌が送られてくるとは思わず、すでに紀伊国屋で買ってしまったぜ。「ベストSF1998」は、ふうん、なるほどという感じ。国内作品のベスト20に早川書房刊の本がひとつもないのが、今の日本SFの状況をよく象徴しているような。『ブギーポップは笑わない』に票を入れたのが、私と日下三蔵氏、福井健太氏の3人だけというのがちょっと意外。

 ドリキャスをテレビにつなぎ、まずは「ソニック・アドベンチャー」。しかし、いきなり壁と柱の間にはさまって出られなくなってしまいリセットするはめに。なんじゃこりゃ。
 続けて始めた「戦国TURB」はおもしろいけれど、第2ステージですでに何度も死にまくり。けっこう難しいじゃないですか、これは。

 今日は純然たる日記でしたな。
1月22日(金)

 お台場の人質事件を報じる記事で、犯人が「意味不明なことを繰り返していた」と書いていた新聞がありましたよ。
 「意味不明」ねえ。私には、その表現の方がよっぽど意味不明に見えるんですけど。「意味不明」ってのは、精神障害を暗示する新聞の常套句なんだろうけど、鑑定も何も行われていないこの段階で、そんな予断を含んだ表現を使うのはどうかと思うし、それ以前に、いまだにこんな常套句が使われていたこと自体が、私にとっては驚きである。
 中学生くらいのころから、「動機についての質問には意味不明の主張を繰り返し」などと書かれている記事を読むたびに、私は不思議に思っていた。「意味不明」ってのは、いったいどういう意味なんだろう。犯人は本当は何と言っていたんだろうか。それを意味不明だと判断したのはいったい誰なんだろうか。
 もし犯人が明らかに日本語ではない言語、例えばタガログ語とかスワヒリ語で話していたとしたら、確かに意味不明だろうけれど、それは「意味不明」とは書かれない。不思議なことに、「意味不明」という新聞用語は、犯人が日本語を話しているにも関わらず、それを聞いた人間にはよく理解できなかったときに限り使われるのである。
 しかし、理解できるできないというのは主観的なものだから、たまたまそいつに理解できなかっただけなのでは? という疑問は残る。記者には意味不明だったかもしれないが、もしかしたら自分にはわかるかもしれない、「意味不明」とされた元の言葉が知りたいのに、と中学生の頃の私はずっと思っていたのである。
 だから、というわけでもないのだが、私は精神科医になり、記者が「意味不明」と表現したに違いない言葉を毎日聞くのが仕事になったのだけれど、それでわかったのは、「意味不明」なことを繰り返しているような患者さんはひとりもいないってこと。妄想や幻覚の内容を語っている人はいくらでもいるけど、その語りは決して意味不明とはいえない。荒唐無稽で現実離れしているが、意味はわかる。最初は断片的でさっぱりわからなくても、じっくり聞いていればだんだんわかってくる。
 それを「意味不明」として切り捨ててしまうのは、もちろん精神医学的には許されないことだし、それ以前に報道の文章表現としても敗北なんじゃないだろうか。
 精神科のカルテでは、患者さんが言っていることをそのまま記載するのが基本である。新聞も「意味不明」とかそういう価値判断を押しつけるんじゃなくて、犯人のいうことをそのまま書いて、判断は読者に任せてくれればいいのに。それとも、「意味不明」という一見文章表現の放棄に思える一語は、異人の語りという「異物」をお茶の間に侵入させないための配慮のつもりなのだろうか。
 ま、今回の事件では、たいがいの新聞では犯人の主張をそのまま掲載しているので、マスコミも多少は変わりつつあるみたいだけど。

 今日の買い物。ロバート・J・ソウヤー『スタープレックス』(ハヤカワ文庫SF)とポール・J・マコーリイ『フェアリイ・ランド』(早川書房)は基本。矢口敦子『真夜中の死者』(カッパノベルス)は、自殺系ウェブ日記を題材にしてタイムリーなミステリ。書かれたのはおそらく事件前だろうなあ。扱いのきわめて難しいテーマをどう料理しているかが見物。田中聡『地図から消えた東京遺産』(祥伝社文庫)は、帝都物語ファンなら必読。須田泰成『モンティパイソン大全』(洋泉社)は言うに及ばず。それから最後に裕木奈江『UNRELEASED FILMS』(バウハウス)。実はファンだったのだ。私は昔。裕木奈江の。表紙には顔写真ひとつなくきわめて地味なつくり。確かにヌードにはなっているのだが、このアートっぽい作りはどうも。だってなあ、体中茶色く塗って半分土に埋まった裕木奈江を見て我々はいったいどういう反応をすればいいというのか(笑)。まあ、普通に作ったらビビアン・スー写真集と差別化できなくなってしまうという気もしないでもないが。
1月21日(木)

 風邪引いちまいました。
 熱はないんだけど、咽は痛いわ、体はだるいわで、結局病院を休んで一日寝こむ。
 今日はSFセミナーの準備会だったんだけど、当然それも休む。出席した妻によれば、今日はゲストとして日下三蔵も来ていたそうな。前にも書いた通り、日下氏は私の高校の頃の同級生。久しぶりに会えなくて残念でした。

 さて、きのう日記のタイトルを変更する、とぶち上げたんだけど、ご覧の通りまだ変わってません。
 掲示板でも反対意見があった上、それに加えて特に強硬に反対しているのが妻。カタカナで「セイシンカ」ってのがかっこ悪いし、第一『スリランカから世界を眺めて』より『毒殺日記』の方が知名度は上だ、と妻は言うのですね(そうかぁ?)。どうしてもタイトルは変えちゃダメ、変えたら離婚する(嘘)、とまで言うので、結局しばらくは「読冊日記」のままってことにした。でも、「読冊日記」って地味だし、実はあんまり気にいってなかったんだけどなあ。

 今日は調子悪いので日記も短め。

過去の日記

99年1月中旬 アニラセタム、成人、そしてソファの巻
99年1月上旬 鍾乳洞、伝言ダイヤル、そして向精神薬の巻

97-98年の日記

home