9月20日(日)
私が学生時代のことだからもう7、8年近く前になるか。八王子の野猿峠のあたりにあるセミナーハウスで、2泊3日にわたるセミナーを受けたことがある。
といっても、「この中に誕生日が同じ人はいるでしょうか」とやるとか、お互いに自分のコンプレックスを告白しあうとか、そういうセミナーではないので誤解しないように。このセミナーハウスでは主に大学生を対象に、毎回毎回さまざまなテーマで各界から講師を招いて、大学の枠を超えたセミナーを開いていたのである。
私が参加したセミナーのメインテーマは、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」。企画したのは英文学者の高山宏で、講師は風間賢二、西垣通、巽孝之、富山太佳夫、浅田彰、谷川渥……という面々。今思えばなかなか錚々たるメンバーである。といっても講師全員のセミナーに参加できるわけではなく、十数人ずつのグループに分かれて、ひとりの講師から集中的にゼミを受けるスタイル。もちろん、私が選んだのは巽孝之先生のゼミ。テキストはルーディ・ラッカーの『空洞地球』。いったいどこがアリスと関係あるのかわからんが(笑)。
このセミナーに参加したことによって、私の人生は確実に変わった。
セミナーが終わったあと、なんとなくファーストフード店に集まった私を含む数人のグループは、その後「アリスの会」を名乗って、ときどき集まっては出かけたり飲みに行ったりするようになった。
このメンバーのひとりに誘われ、私は森下一仁さんの小説ワークショップに参加するようになり、そこで今の妻と知り合うことになる。そもそも、私がセミナーに参加したのは、そのころつきあっていた女性に誘われたからなわけで、そう考えるとなんとなく複雑な気持ちだな。
さらに、巽孝之さんも森下一仁さんも私の師匠なわけで、昨年はこれまたけっこう複雑な気持ちでありました(笑)。
昨年には、「アリスの会」の中で結婚した二人もいて、結婚パーティには出会いのきっかけを作った(?)巽孝之ご夫妻も来てくださった。それから、このパーティでは、工学系インディーズテクノバンド
千葉レーダを呼んでプライベートライブをしてもらったのもいい思い出である(明和電機の次にブレイクするのは千葉レーダだと思ってたんだけどな)。
縁というのは不思議なもので、このセミナーに参加していなかったら森下一仁さんと出会うことも、伊藤典夫さんに出会うことも、そして妻と出会うこともなく、このページを作ることもなかった(たぶん)。友人も今よりずっと少なかっただろうし、私の世界もずっと狭かっただろうと思う。
なんか恥ずかしい言い方になるが、私にとって、人生の節目というものがあるとしたら、それはまさにこのセミナーに参加したことなのである。
さて、この「アリスの会」の友人のKYON-Cさんが、
網の中の部屋というホームページを開きました。もはや伝説になってしまった歌手兼女優の
早瀬優香子に関する「どのサイトより詳しい」ページほか、音楽ネタが充実。まだできたばかりだけど、なかなか読み応えのあるページです。
田中芳樹『風よ、万里を翔けよ』(トクマノベルス)読了。なんでこれを読んだのかというと、主人公が
花木蘭だから。今度のディズニー映画「ムーラン」の主人公である。木蘭は中国の古歌に登場する男装の女兵士で、京劇の演目にもなっているというから、中国では有名な伝説上のヒロインらしい。
ディズニーと田中芳樹。描き方を比べてみるのも一興だろう。と思って読み始めたのだが、実はこの小説、ヒロインのはずの男装の女戦士木蘭の出番は余りないのですね。メインになるのはあくまで隋末の動乱期に活躍した群雄たちであって、木蘭はほとんど狂言回しのような扱い。まあ、人形劇三国志の紳々と竜々みたいなもんですな。息抜きになるだけ、紳々竜々の方がましかも(笑)。しかも、登場人物の台詞や心理描写などはほとんどなく、説明的な文章で隋末唐初の歴史を駆け足でなぞるだけ。これでは歴史書を読んだ方がいいような気がする。
これが、作者が書いた初めての中国歴史長篇だそうで、史料を読みこんで書いた意気込みはわかるんだけれど、史実に縛られるあまり、架空の人物である木蘭の描き方が窮屈になっていて、小説としてはそれほど面白さが感じられない。
ついでにいえば、私にとってこの作品が田中芳樹初体験。最初に読む本としてはまずい作品を選んでしまったのかもしれないが、今さら銀英伝や創竜伝も読む気になれないしなあ。まあ、今後も当分田中芳樹は読まないでしょうな、私は。
9月19日(土)
見ました、『香取慎吾の大脱出』(笑)。いやー懐かしいわ、これ。大掛かりな仕掛けといい、意味もなくスタジオや現場に集められた芸能人たちといい、生放送なのか録画なのか意図的にぼかしているところといい、小学生のときに大好きだった引田天功の大脱出そのもの。計画外のアクシデントにより、脱出する前に爆発炎上してしまった! と見せかけ、実はすべて計画のうち、という展開までそっくりである。
まあ、前もって公開されていた計画通りだったら単なる鍵外しショーで、マジックでも何でもないわけだし、あまりにもハプニングが嘘っぽい(止めたはずのタイマーがなぜか動き出すとか)から、途中で結末は予想できたけど、その前のミスディレクションは見事だった。
鍵屋に弟子入りして鍵を開ける練習をする場面や、5分以内で箱を脱出してパイプを抜けて安全地帯へ向かうという(偽の)リハーサル風景。これを、『天声慎吾』の番組や、昼のスペシャル番組、そしてこの番組の前半と、何度となく放映していたのである。もちろん、この目的は、視聴者に先入観を抱かせること。この番組は、『ウリナリ』みたいに、芸能人がある目標に向かって練習を繰り返し見事成功させる、というパターンの感動ものなのですよ、と思い込ませようとしていたわけだ。これが実は、何週間もかけた壮大なミスディレクションだったとは!
さて、私が小学生の頃見ていた初代引田天功の大脱出は、これは天才マジシャンによる華麗なマジックショーであった。確かに面白かったのだけど、一方で絶対に失敗するはずがないという安心感があった。だから、何作も繰り返されると、いくらアナウンサーが「ああっ天功さんは大丈夫なんでしょうか」と叫んでも、子供心に、どうせそのうちヘリコプターに乗って出てくるんだぜ、と斜に構えて見ていたような気がする。
初代が亡くなったあと、二代目の女性引田天功があとを継ぎ、同じような大脱出番組が作られるようになった。二代目天功の最初の大脱出番組を見て、私は驚いた。なんとこの番組で、二代目天功は脱出に失敗してしまったのだ。二代目天功は、脱出ポッドの中で気絶していて、助けに来たスタッフにかかえられて連れ出される、という無様な姿を見せてしまうのだった。これは確かに失敗ではあったのだけど、見ているほうとしては、初代天功の大脱出にはなかった驚きを感じたことは確かだ。
ここから「天功大脱出」のスタンスは明らかに変わった。もはや脱出成功は自明ではない。けなげな女の子が頑張って脱出に挑戦、果たして成功するのかどうか、という「努力と根性」路線になってしまったのであった。私の記憶だと、二代目天功が脱出に成功したことはめったになかったような気がする。それに、見てるほうも失敗を期待するようになったような。でもこれじゃ、初代引田天功のイメージとはあまりにも違いすぎるし、何よりもプロのマジシャンとしては屈辱的な番組だったからか、二代目天功の大脱出はあまり続かずに終わってしまった。まあ、二代目天功の今の成功を思えば、大脱出にこだわらなくて正解だったのでしょうね。
『香取慎吾の大脱出』も練習場面を盛んに映すので、二代目天功のパターンかと思っていたのだけど、まさかこれがレッドへリングだったとは。これはテレビ番組でしか使えない大トリックだな。うまいね、まったく。
私はこの番組、マジックとしてけっこう評価するのだけれど、マジックというものをよくわかっていない人の中には怒る人もいそうだ。初代引田天功が箱の中に入り、箱が大爆発した後ヘリで登場したときは「なんだ、もともと中にはいなかったのか」と怒り出した人がいたそうだし。
あのー、中にいないからこそマジックなんですけど。
山口雅也『マニアックス』(講談社)読了。ホラー中心の短篇集なのだけど、この人の作風でホラーを書かれてもそんなに怖くはない。なるほど、うまいね、とは思っても、感覚に訴える怖さというものがないのだ。それから、強いショックを受けて発狂してしまう、などという古臭くて誤った狂気の描き方が何作かに見られたのが気になった。まあそこまで目くじらを立てなくてもいいのだけど。
9月18日(金)
きのうの日記のパイレーツのところは、わずか10分で書いたきわめていーかげんな文章だったので、加筆訂正(けっこう長くなった)。大筋は変わってないので、読んだ人は別に改めて読まなくてもかまいません。
以前入院してきた患者さんに、とても体格のいい人がいた。顔は宮川大助ほどもあるし、手はグローブのよう。大きな人だなあ、などとのほほんとと思いながらも精神科の治療を始め、2週間ほどがたった。精神症状はすっかりよくなり、とても礼儀正しくなったその人と会話をしながら、なんかジャイアント馬場みたいな人だな、と思ったとたんはたと気がついた。
この人は単なる体が大きい人ではないのではなかろうか。慌てて内科の教科書をめくって調べたのは「先端巨大症」の項目である。下垂体からの成長ホルモンの過剰分泌により、四肢や顔面などの末梢部が肥大する病気だ。ちなみに、骨の成長が止まる以前から過剰分泌がある場合は、全身が肥大して、下垂体性巨人症になる。教科書には、先端巨大症では内臓も異常に発育するため、心肥大が多く、ほかには頭痛や糖尿病の合併が多いと書いてあった。
この人の入院時検査では、確かにレントゲンでは心肥大が見られるという所見が記されているし、血糖値も高かった。それに、そういえば、最近頭痛がすると言ってたっけ……。
本当に先端巨大症だとしたら、血中濃度が高いはずなのは、もちろん成長ホルモンと、それからソマトメジンCという物質。すぐに採血をしたところ、それから1週間ほどして結果が返ってきた。
ビンゴ。成長ホルモン、ソマトメジンCともに超高値。3歳児並みの数値だ。成長が止まった大人では普通ありえない値である。
これでもう、この人が先端巨大症であることは間違いない。次に調べる必要があるのはその原因である。成長ホルモンを分泌するのは下垂体。ということは、下垂体になんらかの異常がある可能性が高い。脳外科に依頼して、頭部のCTとMRIを撮ってみると、案の定下垂体に腫瘍が見つかった。すぐに脳外科で手術が決定、転棟ということになった。
ここまで、まさに一直線の展開。リニアな世界。おお、なんとわかりやすいんだろう。原因と結果がみごとに対応している。
そんなの当たり前じゃないかと思われるかもしれないが、実は精神科ではこんなことはまずない。ああでもないこうでもないと原因を考え、それでもよくわからないうちに半ば経験に基づいて薬を出し、いつのまにかなんとなくよくなって退院、というパターンが多いのが精神科というもの(しかもまた戻ってくることも多い)。それに比べて、身体科(特に外科)では、症状にははっきりした原因があって、それは検査をして確かめることができ、除去すれば病気は治る。まさに、「治したぞ」という実感の湧く世界である。いいよな、これって。普通の医者にとっては当たり前のことかもしれないが、カオティックな精神科に慣れきっていた私には、このクリアさは逆に新鮮でありました。
脳とか心とかいったよくわからない代物を、ロジカルな理論で語ることができないのかなあ、というのが私が精神科を選んだ理由の一つなのだけれど、精神科の世界に入ってみてわかったのは、この分野の理論はまだまだ未熟で、証明不可能な仮説の域を出ておらず、精神の大統一理論への道ははるかに遠そうだということ(というより、そんなものはもともとないのだろう)。
明晰で美しい理論にあこがれる想いもあるけれど、曖昧模糊とした精神科の世界に、なんとか道をつけようと手斧ひとつで切り開いていくのも、これはこれでなかなか楽しいものだ。てなわけで、今日も今日とてぐじゃぐじゃの精神医学の世界を彷徨する私である。
創元推理文庫からは黄金期女流作家のミステリが2点。ヘレン・マクロイ
『ひとりで歩く女』とエリザベス・フェラーズ
『猿来たりなば』購入。それから、いよいよ角川文庫の復刊が(なぜか)一部だけ出ていたので購入。トニー・ケンリック
『スカイジャック』とリチャード・ニーリイ
『オイディプスの報酬』。両方とも名作の誉れ高い作品である。2冊とも昔読んだことがあるのだけど、すっかり忘れているな。
9月17日(木)
今日はどうもいつもよりもアクセスが増えていると思ったら、
15日のアダルト・チルドレンの話で、
細田さんのページからリンクしていただいていたのですね。そんなにきちんと推敲もしていない文章なのに、細田さんには過分のお褒めの言葉をいただいてしまい、なんだかこそばゆいやら申し訳ないやら。
夜は野田さんの番組。うーん、なんだかなあ。戦後日本SFというから何を紹介するのかと思ったら、今さら「ボッコちゃん」ですか? もうちょっとほかになかったんですか。そのあと、SF作家の名前を何人もあげていたけれど、「ひうらいさお」ってのは誰? 「もりしたいちじん」とも読んでたなあ。野田さん……。
パイレーツがオタクの家に訪ねていって「汚い」「さわるな」などと罵りながらコレクションを破壊しまくる、という壮絶なコーナーがあるというので、『未来ナース』なる番組を見てみる。先週は当直中だったので見られなかったのだが、妻によれば、パイレーツはルリルリのポスターをびりびりと破き、フィギュアをゴミ袋に投げ入れていたそうな。なんてことをするのだ。想像するだに恐ろしい光景である。
今週はAVやアイドルグッズのコレクターらしいのだが、それほど濃いオタクではないよう。「もっとマニアックなものはないの?」とパイレーツも物足りなさそうな様子で、広末涼子や奥菜恵のポスターや生写真をポリ袋に入れている。しかし、いきなり部屋に乱入してきたパイレーツに好き勝手されてへらへらと笑っているオタクちゃんもオタクちゃんである。なぜ怒らない?
真のオタクなら即激怒だと思うんだがなあ。いかに巨乳アイドルとはいえ、逆上した相手に殺されかねない所業だぞ、これは。オタクにとってコレクションを破壊されるということは、自分のアイデンティティを破壊されるのも同然なのだ。パイレーツも、自分がやっていることが、殺されても不思議はないほど危険な行動なのだということくらい理解してほしいものである。少なくとも私なら、目の前で『パヴァーヌ』をびりびりにされたとしたら、相手に何をするか保証はできませんな(笑)。
まあ、殺さないまでも、こんなことされたら普通訴えるでしょ、オタクなら。大事にしていたマンガを捨てたといって親を告訴したオタク少年もいたことだし。それとも、やっぱり「仕込み」なんだろうか、これは。テレビ局が、こんな訴えられかねないような危険なことをするとも思えないしなあ。
しかし、出てくるオタクちゃんが巨乳アイドルに罵倒され、大切にしていた雑誌やポスターが完膚なきまでに破壊されていく光景には、一種マゾヒスティックな快感がないでもない。別に私の脳には寄生虫はいないけどね(謎)。これって、自己啓発セミナーで自分を否定され「バケモノアゴ男」と呼ばれる快感に近いかも(ちょっと違うか)。
パイレーツにもし勇気があるのなら、今度は日下三蔵の家へ行き「アニメウィルス撲滅」とかいってアニメビデオをゴミ袋に捨て、「こんな汚い本捨てろよ」と山田風太郎と香山滋の古本を引き裂いたらどうか。野田大元帥のところでパルプマガジンの山を粉々にする(安い紙なのでちょっと触ればすぐ粉々である)というのもいいかも。あとでどうなっても知らんが。
しかし……やはり暗い夜道には気をつけた方がいいと思うな、パイレーツ。
京極夏彦
『塗仏の宴 宴の始末』(講談社ノベルス)購入。いつ読めることやら。
9月16日(水)
台風五号吹いた。
風か大風か。
港と波。
みな覆う大波。
ダメだ、電車死んでダメだ。
無駄だったダム。
沈みし清水市。
沈まぬ沼津市。
小やみの都。
豪雨後。
きつい暑さ、自殺相次ぎ。
九月疲れ、ガッツ欠く。
けだるき一日、生きるだけ。
更新をさぼっているうちに、カウンタがついに30000人を突破。何度も見に来てくれた方、どうもすいません。だいたい、2ヶ月で10000人のペースですね。ということは、100000カウント達成は、来年の11月か。道は遠いなあ。
ちなみに、冒頭の回文は、『ビックリハウス版国語辞典 大語海』、土屋耕一『軽い機敏な仔猫何匹いるか』、織田正吉『ことば遊びコレクション』からの引用に、私が作ったのもちょっとだけ加えたもの。いや、清水市は沈んでないし、自殺も相次いでないんですが、そこはそれ。
降幡賢一
『オウム裁判(3)』(朝日文庫)、大塚英志
『多重人格探偵サイコ(2)』(角川スニーカー文庫)購入。
9月15日(火)
掲示板で
アダルト・チルドレンについての話が出ていたので、日記の方で話題にしておきましょう。ちょうどネタがないところだったし(笑)。
とはいっても、私もアダルト・チルドレン(以下AC)にはそんなにくわしくはない。実をいうと、ACというのは、精神医学界では冷遇されている概念なのだ。なぜかというと、ACはもともと、アルコール依存症に関わるケースワーカーとか臨床心理士とかの方面で生まれた言葉であって、正統的精神医学の中から出てきた概念ではないからである。だから、いまだにACは精神医学からは継子扱いされているわけ。学会なんて、こんなもんです。中には、ACとそうでない人々の間に統計的有意差はなく、ACなんてものは存在しないと主張する研究者もいたりする。
まあ、精神分析だって今世紀初頭には正統精神医学から差別され無視されていたけど、今では精神医学の中で一定の地位を占めているわけだし、ACだっていずれはしぶしぶながら精神医学界に受け入れられるでしょうが(必ず、そんなものは絶対に認めないという精神科医が残るのもお約束)。というわけで、一応硬直した精神医学界に属する(笑)私は、ACにはあまり詳しくない。通り一遍の解説くらいしかできないので、ちゃんと知りたい人は斎藤学さんの本でも読みましょう。
「アダルト・チルドレン」という言葉だけを聞くと、なんだか「子供のまま成長した大人」みたいな人が思い浮かんでしまうのだけれど、掲示板で細田さんが書いているとおり、そういう意味は全然ない。
ACというのは、もともとは、Adult Children of Alcoholics(ACOA)の略で、アルコール依存症の家庭に育った人のこと。「チルドレン」には、子供っぽいという意味はまったくなく、単に「アルコール依存症患者の子供」という意味にすぎない。こういう人たちには、ある一定の性格や行動の特徴があることから、1960年代末ごろからアメリカで注目され始めたのだけれど、その後、アルコールにかぎらず、機能不全を起こしている家族(親の暴力、虐待、厳しすぎる教育など不安や緊張の強い家族)で育った子供に同じような問題が見られることから、"of Alcoholics"がとれて、「アダルト・チルドレン」と呼ばれるようになったというわけ。私としては、この呼び名は最初に書いたような誤解を受けやすいので、あまりいいネーミングじゃないと思うけど。
ACの性格特性としてよく挙げられるのが、人と親密になったり親密になることが困難、相手をコントロールしようとする、コミュニケーションが苦手で本当に言いたいことが言えない、自分自身のアイデンティティがあいまいで自己評価が低い、などなど。子供時代を子供としてすごすことができなかったことから、大人になっても自分の感情をうまく表現することができないし、他人を心から信頼できず、「生きづらさ」をかかえている、などと説明されている。
まあ、何にせよきわめて漠然とした用語であることは間違いない。機能不全家族の定義からしてあいまいだし。このへんに、誰もが「私はアダルト・チルドレン」と言ってしまえる下地があるのですね。そう言ってしまっても間違ってはいないけど、
他人に対しては何の言い訳にもならないし、何も説明しているわけではないのは言うまでもない。
ここで重要なのは、「他人に対しては」というところ。ACという概念は、そもそも他人のための用語ではないのだ。あくまで「自分のための」用語なのである。ACという言葉を使うことによって、もやもやとして形がなかった自分の問題に名前をつけることができるわけである。ACというのは、自分がACであることに気づき、そして認めることに意味がある言葉なのだ。
ACという概念が精神医学に馴染まない理由はそこにある。ACは、あいまいすぎて、精神科医が診断や分類に使っても何の意味もない用語である。そうではなく、ACというのは、治療用の、というか患者のための概念なのである。例えば「精神分裂病」というのは、分類・診断用の用語である。分裂病患者が「自分は分裂病だ」と認識することには治療的にあまり意味がない(まったくないとはいえない)けど、ACが「自分はACだ」と認識することは、それ自体が意味のある治療なのである。この違いをわきまえないと、「ACなんてものは存在しない」と主張する研究者のような滑稽なことになってしまう。
診断と分類を重んじる伝統的精神医学の概念で、ACにいちばん近いものはというと、それは「境界性人格障害」、いわゆるボーダーラインでしょうね。私の見たところ、ACの性格特徴とボーダーラインにはけっこう重なるところが多いようである(母親からの見捨てられ体験とか、自我の脆弱性、空虚感、感情の制御の下手さとか)。しかし、両者はアルコール依存症の家族研究と精神分析という、全然違う分野で独立に発案された概念なので、どうもまだすり合わせがうまくいっていないみたいで、ACとボーダーラインの関係を論じた文章はほとんど見たことがない。このへん、まだ研究の余地がありますね。
ボーダーラインというのもまた、誤解を生みやすいネーミングだし(正常と異常の境界、という意味ではない。神経症と精神分裂病の境界、つまり精神分析の対象か対象外かの境界、という意味)、エヴァとか最近の社会病理とかの関係でいろいろと語られたりしているのだけれど、これはまた別の話。
うーん、今日はあんまりうまくまとまらなかったな。
9月14日(月)
西澤保彦
『実況中死』(講談社ノベルス)読了。さすがに前作にあった物語の流れを妨げる作者の持論展開は影を潜めたが、やはりミステリとしては物足りない出来。登場する架空の論理をもっとつきつめてほしかったし、動機にも納得がいかない。なんだか西澤保彦も最近ではなんだかキャラクターへのよりかかりが強くなっているようで、寂しいかぎりである。キャラに頼らず奇抜な論理で勝負してくるところが持ち味だと思っていたのだが。確かに、キャラものは安定した売り上げが見込めるのだろうけど、だんだん登場人物のラブコメが中心になって、森博嗣みたいになっていったらイヤだなあ。ちなみに、私は森博嗣は3作目でもう読む気をなくしました、ハイ。
キャラクター中心の小説というのが、私にはどうも苦手である。シリーズものだと、だんだんとレギュラーメンバーの人間関係が興味の中心になっていくと読む気がしなくなってくるのである。例えば島田荘司の御手洗ものだと、あれはもともとは奇想を中心にすえた本格ミステリのはずだったと思うのだが、途中からキャラで読む読者がどんどん増えていき、今では作者もだいぶそれに影響されているようだ。
美少女ゲームにしても、例えば"WHITE ALBUM"で美咲先輩のシナリオを評価するとか、"ONE"のみさき先輩のシナリオはいい(なんで両方とも先輩は「みさき」なんだろうなあ)とかいう発言なら理解できるのだが、個々のキャラクターに対するファンクラブまでできてしまって、○○のどこが好き、という熱い発言の応酬が交わされるという光景は、どうも私の理解を絶する。
こういう読み方をする人が増えてきたのは、これはやはり同人誌の影響であるに違いない。しかし、同人誌的な欲望というのは、もともと物語をひそかに自分の思うように読みかえていく楽しみだと思うのだが(この理解はちょっと小谷真理的すぎるかな)、最近じゃ、それが作者にまでフィードバックされて物語世界そのものを変質させるわ、さらに最初から同人誌的な読み方を誘うように書かれた物語も多いわ、なんだか本末転倒のような気がするんだが。いかにも同人誌にしてくださいとばかりに書かれた作品の同人誌を作って楽しいんだろうか。
何にせよ、私には「キャラ萌え」はできそうにないな。別にしたいとも思わないけど。
9月13日(日)
六本木に行く。
東京に住んでいながら、私は六本木にはほとんど行ったことがない。この街を訪れるのも3年ぶりくらいだろうか。六本木に行くよりは、秋葉原や神保町の方が楽しいしなあ。というか、みんな、何しに六本木なんか行くの?
私が今回、わざわざ楽しくない六本木くんだりまでやって来たのは、シネ・ヴィヴァンで『CUBE』を観るため、だったのだけれど、行ってみると「このあとの回はすべてお立見です」と貼り紙がしてある。4時前に着いたのに、5時の回も7時の回もすでに全部立見とは。この映画にこんなに人気があるとは思わなかった。不覚である。
仕方がないので、ちょっと離れた俳優座トーキーナイトで
『ミミ』を観ることにする(俳優座では、たまたま出てきた黒柳徹子と山藤章二を見ましたが……いや相変わらず派手ですな、黒柳徹子)。
少女ミミは、薬で自殺を図ったママが病院に送られ、おばさんの団地に引き取られる。おばさんは年下の恋人と同棲していて、ミミには冷たくあたる。あるときおばさんがいない間におじさんがミミに迫ってきて……という話なのだが、うーん、私には全然面白さがわからないたぐいの映画であった。ストーリーはありきたりでなんのひねりもない。ミミは確かにかわいそうなのだけれど、ただそれだけで物語にふくらみがない。期待していたほどダークでもブラックでもないし、エンディングもおそろしくあっけない。このあとを描くのが物語というものなんじゃないの?
帰りに青山ブックセンターに寄ってみる。この書店、久しぶりに来たのだが、いちばん奥の棚の本の並べ方がなかなか斬新ですごい。
浦沢直樹『MONSTER』の脇には「あさま山荘事件」のドキュメンタリービデオが並び、その横には笠井潔の矢吹駆シリーズ文庫版が来て、さらに會津信吾、長山靖生『近代日本の殺人ファイル』、篠田節子『聖域』、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』(ポケミス)、北村想作、とり・みき挿絵の児童ミステリーという、わかったようなわからないような並び順なのである。
マンガもビデオも文庫も単行本もみんなごっちゃに、内容の類似性(?)をもとにして並べられていて、ぼーっと眺めている分には楽しいし、ついつい手に取ってみたくなってしまうのだが、逆に特定の本を探すのにはひと苦労ですな、この配列では。
H・G・ウエルズ
『神々の糧』(ハヤカワ文庫SF)が20年ぶりに復刊されているのを発見。古本で持ってはいるものの、うちにある本は汚いので買い直しておく。この本、『クリスマス・プディングの冒険』や、『パリのレストラン』とか、ネロ・ウルフ・シリーズなどと一緒に「世界の『食』フェア」の一冊として復刊されたのだが、ほかの本はともかくとして『神々の糧』が「世界の『食』」ねえ(笑)。
帰ってから
金城哲夫を取り上げた「知ってるつもり」を見る。この人の書いたウルトラマンやウルトラセブンの脚本は子供心に印象的だったけれど、後半生のことは初めて聞くことばかり。彼の書いた原稿の中に、自分の生み出したウルトラマンを否定するような文章があったのは、ウルトラマンに夢中になっていた人間としてはちょっと寂しい。晩年はアルコール依存症になり、階段で足を滑らせて亡くなったとは知らなかったなあ。
この番組、一方的で感情的な描き方が多くて、詳しく知っている人物を取り上げているときはとても見ていられないのだけれど、はっきりとは知らなかった人に興味を持つための、あくまで入り口としては悪くない。その後でちゃんとした本に当たらなくては意味がないのだけれど。
しかし、次回は山村美紗かいな(笑)。いったいどんな描き方がされるのか。
9月12日(土)
妻が通販で買った木製のレンジ棚が届く。といっても送られてきたのは部品だけで、組み立ては自分でやらなければならない。さっそく組み立てを始め、最初の部品を木ネジで取りつけたのだが、ドライバーでネジの頭をつぶしてしまい、
2本の木ネジをダメにしてしまう。やっとのことで取りつけたのだが、今度は
取りつけの方向が前後逆だったことに気づく。部品をはずさねば、と思うのだが、
ネジの頭がつぶれているので回せない。妻の持っていた工具セットの中のペンチでネジの頭をはさみ、必死に回すのだがなかなかネジは回らず、あげくのはてに
ペンチの腕がぽきりと折れてしまった。呆然。確かにちゃちなペンチではあったがまさか折れるとは。自分がこれほどまでに無器用な人間とは思わなかった。
仕方ないので、妻にちゃんとしたペンチを買ってきてもらい、再度チャレンジ。10数分の苦闘の末、ようやく木ネジをはずすことに成功、正しい位置に部品を取りつけなおす。そのあとは驚くほど順調に組み立ては進んだのだが、材木を棚の形に組み、最後のネジをしめたとたん、
パキッと音がして木が割れた。
……。
まあいいや。
レンジ棚完成。
浅暮三文『ダブ(エ)ストン街道』(講談社)読了。「カンディード」とか「不思議の国のアリス」の流れを汲む、由緒正しい遍歴譚。スタイルとしては、幻想小説の王道といえましょう。誰もが迷いつづけている謎の土地、ダブ(エ)ストンに迷い込んだ恋人タニヤを捜し求めて旅を続ける日本人考古学者ケンの物語である。ダブ(エ)ストンでは誰も迷わずには目的地にはたどり着けないし、ここから外に出た者は(一人を除いて)誰もいない。
主人公の成長とか物語全体のテーマより、次々と登場するダブ(エ)ストンの風物や人々が魅力的な小説である(何しろ目的よりも、迷いつづけること自体が重要なのだから)。この手の幻想小説には珍しく、世界のディテールが細かに描かれていて、読み進めるにつれて徐々に全体像が見えてくるところがおもしろい。これは、遍歴を描いた小説であると同時に、世界そのものを描いた小説なのである。一見奇妙に見えるダブ(エ)ストンの風物も、この世界の中ではそれなりに一貫している。このへんの「世界への指向」は、純粋な幻想小説者には逆に物足りないかもしれないが、SF者としては受け入れやすいところだ。
ただ、主人公が考古学者という設定は、あまり生きていないような気がする。しかし、普通の会社員とかにしてしまうと、ありがちな現実逃避礼賛小説になってしまうし、難しいところかも。
うーん、知り合いの書いた本の感想を書くのは難しいや。
朝日新聞によれば、米国務省当局者が「先月31日に北朝鮮が発射した弾道ミサイルは、小型の人工衛星を軌道に乗せようとしたが、失敗したという結論を得た」と述べたそうな。おお、これは、
野尻抱介さんの掲示板での結論と同じではないか。これが本当だとしたら、今までミサイルミサイルと言って来た人たちはどう言い訳をするんだろうか。それにしても、誰もがミサイルだと騒いでいる中、冷静に人工衛星かミサイルか検証しようとしていた、野尻さんの掲示板の方々の慧眼はさすが。いやあ、こういう掲示板を覗くと、SFファンでいてよかったとつくづく思います。
9月11日(金)
講談社文庫の新企画、江戸川乱歩賞全集から中島河太郎
『探偵小説辞典』のみ購入。この作品、第1回江戸川乱歩賞受賞作ながら、今まで一度も本になっていなかったもの。この文庫がなんと初の単行本化なのである。40年前の辞典なので実用的価値はあまりないが、貴重な本なので買っておく。こんな全集企画でもなければ絶対に出版されなかった本である。しかし、第2回受賞作はさすがに収録されていないな(笑)(第2回の受賞は「ハヤカワ・ポケット・ミステリの出版」)。一緒に並んでいた『文庫版 姑獲鳥の夏』はぱらぱらとめくってみただけだが、やはりページをまたぐ文章がひとつもない。しかし、ものすごいこだわりである。島田荘司とは別の意味で書誌学者泣かせの作家だなあ、この人は。こんな面倒な改訂をするヒマがあったら、『宴の始末』を早く出せ、という気もしないでもないが。
連城三紀彦
『変調二人羽織』(ハルキ文庫)購入。ハルキ文庫では日本SFの復刊に力を入れていてありがたいのだけれど、「SF・伝奇ロマンフェア」の折り込みチラシがすごい。
「20年ぶりにSFが復活する!」だもんなあ。「この10年のSFはクズ」どころではない。実は20年前にSFはすでに滅びていたらしい。これは衝撃の新事実である。20年前というと、1978年か。78年といえば、新井素子が「あたしの中の……」でデビューした年。大原まり子も、神林長平もまだデビューしていない。うーん、この年にSFは死んでいたのか。そりゃ知らなかった(笑)。つまりは、SFがマニア向けのものになってしまった80年代SFはすべてクズ、SFが角川文庫で大量に出ていて普通の人が手に取っていた70年代にかえれ、という思想なんだろうな、角川春樹事務所的には。それはそれで拝聴すべき主張だと思うのだが、それにしては、井沢元彦『叛逆王ユニカ』なんてものを復刊しているのはどうも解せないのだが。首尾一貫しとらんぞ。
半村良
『完本 妖星伝 1』(ノン・ポシェット)。実は読んでなかったのだ、妖星伝。山口雅也
『マニアックス』(講談社)、山田賢
『中国の秘密結社』(講談社選書メチエ)、金子隆一
『哺乳類型爬虫類』(朝日選書)、ノーマン・マクレイ
『フォン・ノイマンの生涯』(朝日選書)購入。今月の朝日選書はなかなか濃いぞ。
すまんな、またもや購入本紹介だけで。