9月30日(水)
国民健康保険料を払いに区役所に行く。納付書が届いていたのは知っていたのだが、ついついほうっておいたら、とうとう督促状が来てしまったのだ。まあ仕方ない、払ってやるか(偉そう)。
ついでに、しばらく前に来ていた保険料納めすぎの還付通知書も一緒に持っていく。納付と還付で、差し引き3000円くらい返ってくるはずである。
区役所の窓口にいた職員は、妙に髭の濃い、なんだか長嶋茂雄の物まねをしているプリティ長嶋に似た顔の男性である(ややこしい例えだな)。
すいません、といって督促状と還付通知書の2枚を出したところ、まず還付通知書に目をやり、領収書の部分に署名捺印してほしいという。私が記入を終えると、プリティは「えー、12577円ですね」といって、奥に入っていった。あれ、まだ途中なのに。まさかまず還付金だけを持ってくるつもりじゃなかろうな、と思いつつも待っていると、案の定、トレイの上に載っているのは12577円。おいおい。
プリティはトレイをカウンターに置き、真面目な顔で「ご確認下さい」という。
ありますけど……と、ざっと見ただけで答える。すると、この男、まるで初めて気づいたかのように督促状に目をやると、「こちらはどうしますか」と言うではないか。はあ。
だから、払うから持ってきたんだってば。
「そうすると、えー、9397円になりますね」
なんだか面倒になってきた私は、そこから取って下さい、とトレイを指差す。
「じゃ、10000円からですね」とプリティはいきなり一万円札だけを取ろうとしたので、私は慌てた。
おいおい、引き算も出来ないのか。そこに7円あるではないか。
この7円も……と私が言ったところ、ようやくプリティは気づいたようで、私はやっとお釣りの610円を受け取ることができた(でも手元には500円玉が二つ。あ、10507円からお釣りをもらえばよかったんだな)。
なぜ納付と還付をまとめて処理してお釣りだけを持ってきてくれないのか。あなたはシーケンシャルメモリですか。仕事はひとつひとつ順番にしか処理できないんですか? 効率が悪いなあ。
そもそも督促状なんて送ってこないで、納めすぎの分を翌月の保険料に充ててくれればよかったのに。
ニュース番組を見ていたら、今度上演されるというオペレッタの演出家(日本人)がこう言っていた。
「オペラってのは、全部悲劇で終わるんですよ。オペレッタは、どんなことがあってもハッピーエンドなんです」
違うと思うぞ。いったいいつから「オペラは全部悲劇」などという決まりができたんだ?
9月29日(火)
小野不由美
『屍鬼』(新潮社)、J・P・ホーガン
『量子宇宙干渉機』(創元SF文庫)、フリードリヒ・グラウザー
『狂気の王国』(作品社)購入。話には聞いていたが、『屍鬼』はおそろしいほどの分厚さである。楽しみ楽しみ。しかし、秋は大作ラッシュで、未読の山が高くなる一方である。『屍鬼』もあれば『塗仏の宴』もある。『レッド・マーズ』もあるし、『神の目の凱歌』もまだ読んでない。ああ、読みたい本は山ほどあるのに、与えられた時間はあまりに少ない。月に10冊読んだとしても、80歳までにあと6000冊しか読めないのだ。
だから、たとえ過去の作品が絶版で読めないからといって、これだけの作品が今読めるのならそれでいいじゃん、と思ってしまうのだけれど、これは過去の作品もそれなりに読んできたからいえる傲慢な発言かなあ。
日本SFが読めない読めないといわれているけれど、そもそも70年代の日本SFってのは、あれは本当にSFだったんだろうか。何を言い出すのか、と言われそうだが、半村良の伝説シリーズや筒井康隆の作品なんて、今出たとしたら「あれはSFじゃない」と言われてしまうような気がする。野尻抱介さんの「宇宙へ行くのがSFだ」という定義に従うと、光瀬龍や石原藤夫、堀晃を除いて、かつての日本SFはほとんどSFではなくなってしまうわけだし(笑)。70年代には幅広い作風の作品群がすべて「日本SF」といわれていたことを考えれば、『BRAIN VALLEY』や『天使の囀り』なども立派なSFに入れていいと思うんだけどなあ。
ちなみに、私のSFの定義は、SFかどうかは作者の側ではなく読者に依存する、というもの。読者がSF心を持っていさえすれば、どんな小説でも(いや、小説でなくても)SFとして読むことができる! という過激な説を唱えたいと思うのだけれど、ずるいか、これって(笑)。
そういえば、創元推理文庫の折り込み広告から、いつのまにか近刊予定の大瀧啓祐
『エヴァンゲリオンの夢――使徒進化論の幻影』が消えているのはなぜだろう……というのは禁句なのか? 今さらエヴァ? という気もするけど、大瀧啓祐のエヴァ論もちょっと読みたかったような。
9月28日(月)
「バランスアップ」のCMに登場する
ちょいぺこなる怪生物、あれはいったいなんなんだろうなあ。作った方はかわいい生き物のつもりなのかもしれないし、事実かわいいと感じる人もいるのだろうが、少なくとも私にはあれは不気味にしか見えない。VAIOのごとき紫色のぬらぬらした皮膚、のっぺりとした顔、きゅるきゅるという鳴き声、そしてとりわけあのミミズのように体節を持った触手。ああ、なんとおぞましい生き物なのだろう。CMの終わりでこいつに触手で巻きつかれた青年は、このあと絶対に腹部をぎりぎりと締めつけられ、内臓が破裂して口から黒ずんだ血を吐き、あげくの果てに胴体を輪切りにされて絶命したと思うのだが、どうか。そうすると、あの生き物は血と臓物にまみれた触手を不思議そうに見つめ、首を傾げて人懐っこそうにきゅるるると鳴くのだ。
ジョン・L・キャスティ
『ケンブリッジ・クインテット』(新潮社)購入。著者はサンタフェ研究所のメンバーで、これが初めての小説。1949年を舞台に、物理学者C・P・スノウとシュレディンガー、数学者チューリング、哲学者ヴィトゲンシュタイン、遺伝学者ホールデインの5人が、食卓を囲んで人工知能の未来について議論を戦わせるという論争小説。裏表紙には、グレゴリイ・ベンフォードが賛辞を寄せている。おお、おもしろそうではないか。唐沢なをき
『電脳なをさん2』(アスキー出版局)はデフォルトで買い。
9月27日(日)
プレステ用の隠れた名作ゲーム
『どきどきポヤッチオ』をプレイしてすごす日曜。
プレイヤーは夏休み中にパン屋の手伝いに来た少年。村の人々にパンを配達しつつ、30日間、村で生活していくのが目的(漠然としてるなあ)。村の人々にはそれぞれの行動パターンがあっていつも一ヶ所にいるわけではないし、それぞれに人間関係がある(そんなにぐちゃぐちゃではないけど)。村のあちこちを歩き回っていろんな人たちと会うことによって、イベントが起こり話が進んでいく。
いちおうRPGに分類されてはいるけれど、世界を救うために戦うわけでもないし、経験値が上がるわけでもない。マップも狭い村ひとつだけ。でも、役割を演じる、という意味では、これこそ真のロールプレイングゲームなんじゃないだろうか。
一見ほのぼのとした世界のように見えるけど、村で生活していくにつれて、登場人物の隠された過去とか、村を取り巻く社会情勢とかがだんだんとわかっていくあたり、物語に奥行きを出していてなかなかうまい。
ただ、ひとつ気になるのは、イベントでの会話が、相手の好意を得ようとすると、どうしても気に入られるような返答ばかりを選びがちになってしまい、八方美人のイヤな奴を演じなければならないこと。もっと自然な会話の選択肢はなかったんだろうか。
エンディングを目指すというよりは、この世界で生活し、人との関わりを楽しむゲームである。斬新でよく作りこまれたいいゲームだと思うのだが、メーカーが弱小で宣伝が弱いせいか、タイトルが意味不明なせいか、あんまり売れてないみたい。これからじわじわと長く売れてくれればうれしいんだけど。
昼間は私が飽きずに何時間もプレイしていたもので、そんなに面白いのか、と夜になってから今度は妻がゲームを始めた。ゲーム開始早々、お姉さんからおつかいをたのまれてお金を渡されたのに、大金を持って気が大きくなったのか、ついでに寄った雑貨屋でむちゃくちゃ高い品物を衝動買い。結局お金が足りなくなって頼まれたジャムは買えず。即リセット。なんだか妻の性格が如実に表れたプレイですな(笑)。
9月26日(土)
そのころ、日本中の町という町、家という家では、ふたり以上のSF者が顔をあわせさえすれば、まるでお天気のあいさつでもするように、SFが弱っているといううわさをしていました。
というわけでもないのだろうが、最近は、SF者が集まるとこの話題で議論することに決まっているのだろうか。何の話かといえば、
SF者オフである。オフというから、「最近こんなのがおもしろかったよねー」とか「あの古本屋のサンリオが安かったよ」とかそういう話で適当にだべるのかと思ったら、いきなり「SFとは?」「今、SFはなぜダメなのか」といったきわめてシリアスな討論会が始まってしまったのには驚いた。人数も20数名と多いし、ちょっとしたミニコンベンションといったありさまである。
ベスト100に入っているようなSFが、今では読めないではないか! 品切れの作品が多すぎる、御三家だけを残すのではなくもっと選択肢を増やしてほしい、などといった発言があったのだが、私としてはあんまり実感の湧かない議論である。どんないい本でも品切れ、絶版になるのは世の習い。別にSFに限ったことではない。すべてを残すわけにはいかないのは自明の理なんだから、読めないのはけしからん、と文句を言ったって仕方ない話だと思うのだが。読めないようになる前に新刊で買うか、古本屋を駆けずり回って捜すか、あるいは出版社に復刊を要望するかしかないんじゃないかなあ。まあ、ハヤカワさんには、SF文庫にもポケミスと同じような定期復刊制度を作ってほしいとは思いますが。
ひとことでまとめるなら、
u-kiさんの、ホームページの文体そのままの口調(というか口調そのままの文体というか。言文一致というのか、こういうのも)が印象的だった一次会であった(笑)。
二次会は場所を替えて渋谷の居酒屋へ。人数はさらに増えて総勢なんと30数名の大所帯。一次会の途中から顔を出していた『ダブ(エ)ストン街道』のメフィスト賞作家浅暮三文さんに加え、二次会からは大森望さん、特殊翻訳家、というより最近じゃ「裸の執務室」の(笑)柳下毅一郎さんと豪華ゲストも合流。
居酒屋に長居をする予定だったのだが、2時間で追い出されてしまったので、仕方なく宇田川町ルノアールの地下会議室になだれ込む。なんのことはない、いつもの「海外SFに親しむ会」の例会と逆コースではないか。
ここで突発的に始まったのが、浅暮三文、大森望トークショー。もちろんテーマは「私はいかにして作家になったか」。浅暮さんの巧みな喋りに、大森さんの適確なつっこみが入り、準備も何もしていなかったとは思えない充実したトークショーで、これは意外な収穫。浅暮さんとは以前からの知り合いだけど、こうやって本当に作家になって、あの大森望さんと対談をしている(非公式だけど)とは! なんだか我がことのようにうれしい。
ルノアール前でひとまず解散。帰るところでばったりと顔を合わせたのは、なんと唐沢俊一さんではないか(一緒にいたのはソルボンヌK子さんかな)。いや、おそろしい偶然もあるものである。
さてそのあとは大森望さんさいとうよしこさんご夫妻と一緒にカラオケ。SF者の集まりであるから、当然ながらアニソン大会となる。私はアニメにはとんと薄い人間なのでそれほど歌えなかったのだが、妻は満を持したかのように熱唱。アニソンには濃いメンバーばかりなので、適確な合いの手が入るのが小気味よくて楽しかった! とのこと。私もちっとは歌えるようにならんとなあ(はっ、これでは接待カラオケをするサラリーマンの発想と同じではないか)。
カラオケが終わったのは午前2時半ごろ。家に遠くて帰れなくなった人々は大森さんの仕事場に泊まるそうな。いいなあ。私と妻はタクシーで家に帰り、泥のように眠る。
いや、楽しかったです、今日は。また会いましょう。溝口さん、u-kiさん、ご苦労様でした。
ところで、冒頭の斜体部のネタ元はわかりました? おとといの映画ネタがわからないという書き込みがあったこともあり、あまり濃いネタには
のださんのように註をつけることにするかな。そうしたとしても、どうせすぐに面倒になってやめるだろうけど。
9月25日(金)
今日の朝日新聞に、
「診察せず拘束 患者窒息死」という見出しの記事が出ている。今年の5月、新潟県にある国立療養所犀潟病院の精神科病棟に入院中の51歳の女性が、医師の診察を受けず、看護婦の判断によって布の帯で体を拘束され、吐いたものをのどにつまらせて死亡したのだという。
おお、犀潟病院。行ったことはないものの、新潟の病院にいたころにはよく患者さんを紹介したりされたりしたことのある病院である。
これ以外にも、この病院では診察なしの隔離やカルテ記載の不備が常態化していて、県は行政処分しようとしたけれど、厚生省が「悪質な民間病院と同一に扱うべきではない」と強く反対しているとか。朝日はこの事件に妙に興味を抱いたらしく、社会面には「院長と一問一答」などという記事まで載せている。
やれやれまたか。精神病院が新聞記事になるときは、いつだって必ずこういう内容なのには、いやになってしまう。ちょっと目新しいのは、舞台が国立病院で、厚生省が県の処分に反対した、というところくらい。こういう記事しか精神病院に関する情報源のないような一般の人は、精神病院というのは何が行われているのかわからない魔窟のような場所だと思ってしまうのではないか。
しかし一方で、この病院で行われていたような、医師の診察なしで隔離しているとか、カルテに不備があるとかいった問題は、残念ながら多くの病院に(特に古い病院に)共通していることも確かだ。私は、精神病院はもっと社会に開かれた、誰でも気軽に利用できる場所になった方がいいと思うのだけれど、とても公開できないような旧態依然とした収容型の精神病院も確かにあるのだ。
でも、「診察せず拘束 患者窒息死」という見出しはどうかなあ。ちょっと考えればわかることだが、診察して拘束したからといって窒息死することがないかといえば、そんなことは全然ない。診察しなかったことと窒息死したことの間には因果関係はないのだ。医師が指示した拘束であったとしても、不幸にも患者が亡くなってしまうことはある。
この事件は、3つに分けて考えるべきだろう。まず、この患者が医師の診察なしで体を拘束されたこと。これは、明らかに精神保健福祉法違反であり、病院側に弁解の余地はない。ふたつめは、患者が嘔吐物をのどに詰まらせて亡くなったこと。これは、看護の目が行き届いていなかった、ということであって、看護の手落ちとはいえるが、法律違反とはいえない。いくら巡回を頻繁にするようにしても、事故の可能性まではゼロにはできない(もちろんゼロに近づけようと努力はしているが)。最後は、厚生省が処分に反対したということ。こう書いてあったのは朝日新聞だけで、他の新聞では触れられていなかったのでどうなのかなあ。なんとなく針小棒大に書きたてているような気がしないでもないが。
この記事では、この3つをいっしょくたにすることによって、厚生省と精神病院が結託して悪事を企んでいるという印象を作り上げているように思えるんだけど、被害妄想かな、これは。
23日に書いた『匣の中』の暗号については、某氏からメールで解答をいただきました。どうもありがとうございました。なるほど、こんな言葉が隠されていたとは。しかし、別に隠された真相が明らかになるようなものではなく、物語の本筋とは全然関係のない暗号だったのが残念。
重いしかさばるしどうしようかと思っていたジョン・クルート『SF大百科事典』(グラフィック社)をついに購入。こういう本は、買わないでいるとすぐなくなっちゃうしなあ。
9月24日(木)
病棟二題。
今日から、某看護大学の学生たちが実習に来ている。たまたま目にした実習マニュアルによれば、この学校では、学生は、「○期生」とかではなく、卒業予定年度で呼ばれているらしい。今年卒業なら「1998年クラス」となるわけだが、どういうわけかそれを英語で書くのが正式のようだ。
などと説明をしてもよくわからないだろうが、実習マニュアルの表紙を見ればすぐわかる。そこにはこう書かれていたのだ。
「精神看護実習要項 Class of 1999」
なんだかバイオレンスな学年である。やっぱり大学内では教師ロボットとの戦いが繰り広げられているのだろうか。見たところ学生たちは少年院帰りではなさそうだったが、実は札付きのワルだったのかもしれない。
しかし、これがきわめて真面目なマニュアルで、全然ギャグでもなんでもなさそうなんだよなあ。これを作った人も学生たちも、あの映画を知らないのだろうな。
精神科の病棟では作業療法というのがあって、患者さんたちが陶芸をやったり書道をやったりしている。あるとき、「春風」「大地」などと、お手本を見ながら患者さんたちが習字をやっていたところ、ある若い男性の患者さんがふいにやってきて、ふてくされたような表情でお手本も見ずに1枚だけ書いたかと思うと、また出ていったのだそうな。残された半紙に書かれた文字は、
「ろんげ」。
なぜに「ろんげ」。しかもひらがな。もしかしたら、この三文字の中には、声にはならない彼の心の叫びが隠されているのであろうか。今では、病棟の壁に「山川」「春風」などと貼ってある中に混じって、「ろんげ」と書かれた半紙が貼られている。これがけっこう達筆なあたり、いい味出していて、目立つこと目立つこと。心の叫びかどうかはともかく、このギャグセンスはなかなかのものだ。彼の次の作品に期待したい。
小谷真理
『ファンタジーの冒険』(ちくま新書)購入。夫婦でちくま新書完全制覇ですな(なんだ、完全って)。
9月23日(水)
乾くるみ『匣の中』読了。竹本健治『匣の中の失楽』にならい、ゴーレム、オートマトンなど人形の名を持った学生たちのグループ内で起きる連続密室殺人事件。全編にわたり学生たちによる推理の応酬が描かれるのだが、どれも同程度に確からしく、同程度に不確実で、唯一の解決は与えられない。読者はどれかひとつを真相として選ぶか、あるいはすべてを虚構として捨て去るしかない。物語は、カタルシスが訪れないまま、ご多分にもれずメタミステリとして終わる。
これはいったいどう評価すればいいのか。正直言って私は迷っている。問題作なのかもしれないし、大駄作なのかもしれない。読み落としたところもけっこうありそうで、もう一度読んでみないと結論を出せそうにない(でも、もう一度読むだけの吸引力は感じられないのだが)。
なお、中盤に出てくる占田の書いた詩と、結末近くに登場する「ご詠歌」の暗号については解答が記されていないと思うのだけれど、読んだ方はこの答え、わかりました? ネットでの感想をいくつか読んだのだけれど、この点については誰も全然触れていないのが不思議。
友人のOさんに誘われ(本当は誘われたのは妻のほうなのだが、私もついていったのだ)、99年SFセミナースタッフの準備会というものに顔を出してみる。牧眞司さん、みらい子さんなどおなじみのメンバーのほか、
森太郎さん、
ダイジマンさん@銀河通信などネットな人々もけっこう来ている。自己紹介したところ、このページの知名度はけっこうあるようで驚く。
なりゆきで来てしまったが、私は自慢じゃないが、物事を取り仕切ったり甲斐甲斐しく働いたりすることが大の苦手な人間である。私に果たしてこの仕事が務まるのだろうか。このままスタッフになっていいものかどうか、ちょっと思案中。
9月22日(火)
台風七号吹いた。しまった、今度は回文にならない。
きのうは妙にアクセス数が増えていると思ったら、
大森望さんと
みのうらさんにリンクされてたかららしい(アクセスログはとってないので確実にそうだとはいえないが)。みのうらさんには
田中芳樹の感想に賛同していただいて心強いかぎり。いや、ヒステリックな反論とかカミソリとか送られてこないかと戦々恐々としてたんですよ(<なら栗本薫の批判なんて書くなよ)。
エスター・ダイスン『未来地球からのメール』という本を書店で立ち読み。そんなに興味を引かれるような本ではなかったのだけれど、巻末の訳者あとがきを読んで驚いた。著者はあの「ダイスン球天体」のフリーマン・ダイスンの娘だそうな。とすると、ケネス・ブラウアーの書いたダイスン親子の伝記『宇宙船とカヌー』に登場したダイソンの息子は、彼女の兄か弟にあたるのかな。
角川文庫の海外エンタテインメントフェアから、パトリシア・ハイスミス
『見知らぬ乗客』、リチャード・ニーリイ
『心ひき裂かれて』『殺人症候群』、トマス・トライオン
『悪を呼ぶ少年』を買う。どれも今まで入手困難だった名作ばかり。しかも、ハイスミス以外は復刊ではなく、今回が初の文庫化と来る。いやあ、すばらしい企画ですね、これは。もし第2回があるのなら、ハーバート・リーバーマンの『死者の都会』とスティーブン・マーロウの『呪われた絵』の文庫化を希望。
三田工業倒産のとばっちりを喰って、三田出版会はやっぱり閉鎖、在庫は裁断処分だそうな。科学書専門の貴重な出版社だったんだけどなあ。
夜中に『天声慎吾』を見る。こないだの
大脱出の舞台裏だけで2回分ももたせるとは楽な番組である。大脱出のビデオを見て気づいたことが一つ。香取慎吾が入ったはずの箱が吊り上げられているとき、
箱の中のCCDカメラの映像は全然揺れていないのである。しかし、その後タワーの下部が爆発したときには画面が揺れている。ということは……。
9月21日(月)
あなたはなぜグイン・サーガを読んでいるのか、と人が私に問うたならば、私はこう答えるだろう。
引っ込みがつかなくなってしまったから。
だって、外伝も含めもう70巻以上読んでいるのだ。ここまで読んでしまったからには、もうやめるわけにはいかないではないか。ここまできたら、いくら退屈でも、いくらレベルが落ちていても、もう最後まで読むしかないのだ(泣)。これはもう、
血を吐きながら続ける哀しいマラソンである。
というわけで、栗本薫のグイン・サーガ外伝15
『ホータン最後の戦い』を読む。しかし、このタイトルはいけませんね。表記の統一がとれていない。最近の栗本薫の書き癖に従えば、
『ホータンさいごのたたかい』でなくてはならないはずだ。これじゃなんだか絵本みたいだけど(笑)。
しかし、このところの栗本薫の文章ってのは、ほとんど書き殴りに近いのではないか。「目が激しくほとばしる」などという意味不明の文があったかと思えば、「投げると同時に、彼を見つけると同時にほとばしっていた殺人光線から地面にころがって逃れた」(p.19-20)と、一文の中に「同時に」が2回も出て来たりする(しかも次の行にもまた「同時に」が出てくる)。ちゃんと校正しているのか? それに、いくらなんでも「殺人光線」は……なあ(笑)。
いちばん許せないのは、この外伝シリーズでは、今までの物語の舞台である西洋風な世界とはほとんど隔絶した、キタイという異郷の地が舞台だというのに、表面的な人の名前や風景描写が東洋風なだけで、人々のものの考え方や風習が今までとまったく変わらないこと。この巻では描写すら面倒になったのか、部屋にはレースのカーテンがかかっていて、ベッドまである始末。キタイが舞台になってからこれで5巻になるというのに、この国がいったいどんな国なのか、さっぱり見えてこない。あまり行き来のない国同士なんだから、食べ物や街の様子から倫理観、宗教にいたるまで、ほとんどすべてにおいて異質だと思うんだけどな。そんなまったく違う歴史と文明を持つ国を訪れた登場人物たちの驚きや戸惑いから、キタイという国を浮き彫りにして欲しかったんだけど、今の栗本薫にそれを望むのは酷なんだろうか。
これで、きのうの田中芳樹に続き、栗本薫ファンまで敵に回したか(笑)。