10月10日(土)
きのうの日記について、案の定、妻からクレームが来てしまった。
「結婚してもいいことなんかない」というところなんだけれど、いや、確かにこれは誤解されても仕方ないですね。もちろん、結婚してよかったことはたくさんありました。
でもね、ひとりでいるぶんにはそれほど不自由はないし、お金も自由に使えるし、ひとりでいたころもそれはそれで満足のいく生活だったと思うのだけど……こんなことを書くから怒られるのかな。
オタク、少なくとも社会性があるオタクなら身に覚えがあると思うが、職場などで趣味の話を聞かれたりすると、ちょっと身構えてしまうものである。「読書とか……」と適当にごまかすか、あるいは話すにしても、場を白けさせないようにするには、どこまでしゃべればいいのかな、と間合いを計りながら慎重に話していくことになってしまう。
まったく身構えることなく、相手の迷惑もかえりみずしゃべりまくるのは、単なる低レベルなオタクであり、私の最も嫌悪するものである。多少なりとも社会性のあるオタクなら、「最近何が面白かった?」と訊かれても、『ブギーポップ』が、とか『lain』が、とかいう話はしないものである。説明が面倒だし、わかってもらえるとは限らないから。もっとレベルの高いオタクなら、興味を持ってもらえるように話すことができるのだろうけど、私はとうていその域には達していないので、しばし絶句して、相手に理解してもらえそうな作品名を必死で探すことになってしまう(京極夏彦はいいですよ、とか)。
このあいだも、病院の同僚に映画をけっこう観ているという先生がいたので、『ディープ・インパクト』はいろいろと突っ込みが入れられる映画だったとか、ケヴィン・スペイシーは出る映画ごとに顔が違っていてすごいとか、スティーヴ・ブシェミはいいねえとか、そういう話をしてみたところ、そんなふうに映画を観てるんですか、と驚かれてしまった。普通の観方だと思ってたんだけどなあ。そういえば、ホームページに日記を書いている、というのも、なかなか理解してもらえないな。
まあ、そういうわけなので、家に帰ったときに、そういう配慮なしにオタク話ができる人と一緒にいるというのは、とても心が安らぐものである。きのうも夕食のときには瀬名秀明と鈴木光司と貴志祐介の誰がこれから伸びるか、という話で盛りあがったりしてしまった(偉そうに)。いうなれば、年中二人SF大会状態である。ね、けっこういいもんでしょ、結婚って(のろけか、これは?)。
しかし、こういう話ができる人とめぐりあうのが、なかなか難しいんだよなあ。特に地方では絶望的なんじゃなかろうか。オタク専門の結婚相談所とか作ったらけっこう需要があるかも。
どういうわけか日本じゃ幻のサスペンスの巨匠ヘレン・マクロイ
『ひとりで歩く女』(創元推理文庫)読了。「以下の文章は、私が変死した場合にのみ読まれるものとする」と始まる長い手記から物語は幕を開ける。西インド諸島にある富豪の別邸で、「わたし」は存在しないはずの庭師から手紙の代筆を頼まれる。そしてニューヨークに向かう船の上で「わたし」が思いがけず手にすることになった十万ドル。「わたし」を殺そうとしているのは誰か。そして手記を書いたのはいったい誰なのか。前半の緊張感は相当のものだが、謎の一つだった「わたし」の正体は手記が終わった早々に明らかになってしまいちょっと拍子抜け。その後は警察の捜査シーンが続くのだけれど、これはけっこう退屈(これはパズラーの宿命ですね)。ただ、中盤の退屈さと、なんだかわざとらしいサスペンスさえ我慢すれば、結末の鋭いひねりのテクニックを堪能できることは保証する。技巧的なミステリが好きな人にはお薦め。
10月9日(金)
独身者の4人に1人は「結婚してもいいことはない」と思っているという厚生省の調査結果が新聞をにぎわせているが、そんなにたいそうなことかね、これが。
私も、別に結婚してもいいことなんかないと思うな。
などと書くと妻が怒るのであわてて言い訳をしておく。
もちろん、今の結婚生活には満足してます。満足してますとも。
でも、別に独身だったときも、何も不都合は感じていなかったなあ。コンビニさえあれば生活にはまったく不自由しないように、世の中は独身者にやさしい社会になっているし、親や親戚からも、結婚しろという圧力は全然なかったし。そもそも医者の業界というのは結婚年齢が非常に高くて、学生結婚でなければ極端な晩婚、という二極に分化しているのである。同級生や先輩でも、未婚者はかなり多い(女医さんに限っていえば、私の知っている女医さんはほとんど独身である)。
くわえて、私には趣味という特殊要因もある。
例えば普通の男女が知り合う場としては、合コンだとかパーティだとかがあるみたいだけど、私には、そんなところで出会った人とつきあったり結婚したりするなんて、とうてい信じられないなあ。だって、そういうところで知り合うような女性は、私の趣味などとうてい理解しちゃくれまい(偏見?)。私にとっては、SFとか読書というのは趣味というよりもむしろ人生の一部であり、生き方である。これを理解してくれないような人とは一緒にいたくなどない。大量の本を捨てろといわれるくらいなら、結婚などしない方がましである。焦って結婚したりしようものなら、芦屋小雁のような末路をたどるだけだろう。
まあ、私は価値観を同じくする人と運よくめぐりあえたから結婚したものの、そうでなかったら今も独身のままでいただろう。一生結婚しなかったかもしれないな。結婚しない人が増えているってことは、たぶん、私みたいに価値観の一致を重視する人が増えてるということだろう。世の中のオタク化が進んでるってことかも。
結婚がかつてほど重要なことではなくなっている以上、子供を作ることだってそれほど重要なことではなくなっている。結婚したから次は子供を、などという周囲からの圧力もかつてよりは少なくなっているし、養育費やら育児労働を考えると、子供を作らないほうが経済的には確実に有利である。
いや、自分の子孫を残したいのだ、という人もいるかもしれないが、少なくとも私にはそういう欲望もあまりないな。子供のときは小児喘息で何日も学校を休み、その後はアレルギー性鼻炎で年中鼻の頭を赤くし、今はアトピー性皮膚炎で体中が痒い私に子供が生まれたとしても、きっとつらく苦しい子供時代を送るだろうということは、容易に予想がついてしまう。それに、人の子供は大嫌いな私に、自分の子供をかわいがることができるのかどうか、ちょっと不安である。
つまり私は、子供を残すことなんかより、自分が楽しむことの方を優先してしまいたいのだ。結局、昔の基準からすれば、私の意識はまだまだ子供なのだろう。小此木啓吾風にいえば「モラトリアム」ですか。
なんで自分がそうなってしまったのか考えてみると、私が子供の頃に読んでいたマンガやアニメがみんな「いつまでも少年でいる」ということを礼賛していたからのような気がする(最近でも多いですね、こういう無責任なのが)。まだ純真だった私はこれを鵜呑みにして、大人になんかなりたくない、と思ってしまったものである。そうしたら、なんということか、私が大人になった頃には、世の中自体が、別に大人になんかならなくてもいい社会になってしまっていた。別にマンガやアニメだけに責任を押しつけるつもりはないが、こういうメディアの影響というのは作り手の予想以上に大きかったのではないかなあ。
もちろんそれだけが原因とは思えないが、今の私たちの社会は、大人も子供のままでよく、そして子供が大人と同じことをしても許される社会になってしまった。大人と子供を分ける根拠がなくなってしまったわけだ。いろいろと歪みが生じてきているのは確かだけれど、私にとってはけっこう生きやすい社会といっていい。
こうして、すべての境界がぐずぐずにくずれていき、人は結婚しなくなり、子供を産まなくなり、熱死する宇宙のように、静かにこの国は滅びていくのかもしれないけれど、そういうとろとろとした35℃のぬるま湯のような世界というのも、それはそれでいいかもしれないな、と思ったりもする。
話題の「環境ホルモン」ってやつも、私には騒がれているほど切実な危機とは思えず、生物にとって最重要であるはずの生殖の意味を見失ってしまった今の私たちの気分に奇妙にシンクロして、来るべくして来たかのような、まるで馴染みの友だちのような心地よさすら感じる。この感じ方は、全然論理的ではないし、説明もしにくいので、わかってもらえないかもしれないけれど。
本当のところ、私としては日本の人口が7000万人くらいになってもいいと思うんだけどな。減っていく過程ではさまざまな問題が起こるだろうけれど、安定してしまえば別に問題ないんじゃないかな。
今日はなんだかまとまりもなく、論理的でもない文章になってしまった。これでもSF者か<自分。
栗本薫
『ユラニア最後の日』(ハヤカワ文庫JA)、重松清
『ビフォア・ラン』、狩野あざみ
『天邑の燎煙』(幻冬舎文庫)、デイヴィッド・ウィングローヴ
『チョンクオ風雲録その十五 血と鉄』(文春文庫)購入。チョンクオもあと一冊で完結。
10月8日(木)
どうやら、来年の減税では国民に商品券が配られることになりそうなのだけど、いやなんだか冗談のような方法だなあ。使用期限つきの商品券を配れば使わざるを得なくなって消費が拡大するってのは、確かにそりゃそうなんだろうけど、思いついたって普通やらないだろ、こういうのは。
私だってたまには商品券をもらうこともあるが、そういうときは即座に金券ショップ行きである。だって商品券じゃ本が買えないではないか。だから、私にとってこの減税について関心があるのは、減税分の商品券は本屋で使えるか、という一点のみだ(古本屋では使えそうにないな。ちっ)。しかし、国が一部の百貨店でしか使えないような商品券を発行していいんだろうか?
国がそんなに消費を拡大したいというのなら、いっそのこと、全紙幣に使用期限をつけたらどうか。期限をすぎたらすべて紙くず。これならお金を使わないわけにはいくまい。みんな古いお札から順番に使っていき、使用期限間際になると、もうババ抜き状態。ああっ、早く使わなければ、とお札を押しつけあって、最後まで持っていた人が負け(笑)。期限切れ間近のお札は受け取らない、という店も出てきそうだから、前もって受け取り拒否をしたら罰金という法律も作っておく。これで消費拡大間違いなしだ!
でも、こんなんじゃ、みんなドルとか金とかに替えてしまうだろうなあ。
今日も入院1名。19歳の大学生である。○大病院からの転院で、ご丁寧に担当の医師までついてきた。私よりも若そうなその医師は、これまでの病歴など説明した後、帰り際に小さな声でこう言った。「○大の学生ですので、ご配慮下さい」。
なんじゃそりゃ。
それは私の受け持っている他の患者とは差をつけろということですか。私のふだんの治療よりも気を配って治療しろというのですか。つまりあなたは、私はふだんはそれほど配慮をせずに治療しているといいたいのですね。それは、私に対する誹謗ではないのですか。
うちの病院は○大系列だから、私も○大出身だと思ったのかもしれないが、あいにく私はこの病院では少数派の非○大出身者である。「配慮」する義理などまったくない。まあ、たとえ私が○大出身だとしてもそのつもりはないけど。
なんだか腹が立ったが、患者さんには罪はない。私は私にできるかぎりの治療をするだけである。
10月7日(水)
新聞の中でも、投書欄は私がけっこう愛読しているページである。中でも私が好きなのは、どうでもいいような投書。政治や経済について何かを提言しているわけでもなく、ただ駅員にあいさつしてもらってうれしかったとか、そういうどうでもいい投書。特に無職老人とかがけっこういい味を出している。高校生とかの、妙に抽象的で大上段に振りかぶった投書もお勧めだ(笑)。
さて、そんなどうでもいい投書を求めて、きのうも毎日新聞の投書欄を広げてみたところ、福岡県の13歳の女子中学生による「短パン大嫌い、ブルーマーにして」という投書に目が止まった。だいたいの内容は、次のようなもの。
数年前にブルーマーが廃止され、クオーターパンツ(短パン)に変わったが、短パンは見た目にもだらしないし、パンツが見えそうになるし、かっこわるいので大嫌い。ブルーマーの方が動きやすいしかわいいので好き。ブルーマーはアメリカの女性がもっと女の人が元気に運動できるようにと作られたものだから、セクハラだというのは間違い。他校が短パンに変更したからといって簡単にブルーマーを廃止する学校の方針にも疑問を感じる。
ふうん、珍しいけど、そういう子もいるんだなあ。でもそれを新聞に投書してどうするの、と思っていたのだが、今日の投書欄を見ると「おわび」としてこんな文章が載っていた。
「6日『短パン大嫌い、ブルーマーにして』について、○○さんは投書していないとの指摘が保護者と学校長からあり、改めて調査したところ、○○さんのものではありませんでした。○○さんはじめ、関係者の皆さんにご迷惑をおかけしました。おわびします」
おいおい、どういうことだ、それは。つまり、きのうの投書自体が偽物だったということか。普通に考えれば、これは○○さんに対するいやがらせなのだろうなあ。だとすれば、回りくどくも陰湿ないやがらせである。
確かに投書欄では、投書者本人とその知人以外は、誰も投書者の名前なんか気にしてもいないわけで、新聞社としても、投書者が実在するのかどうかチェックする必要も感じていなかったのでしょうね。新聞の投書欄というのも、読者が桁外れに多いだけで、ネットの掲示板みたいなものだったわけだ(内容チェックはあるけど)。
つまり、毒にも薬にもならないかのように思えた投書欄も、偏った意見を他人の名前で投書するという手段を使えば、立派な個人攻撃の手段として使えることになる。しかも、掲示板と違って新聞に書いてあることというのは、まだまだ信頼している人が多い。たぶん、今後はチェックが厳しくなるんだろうなあ。しかし、このいやがらせを実行するには、まずは採用されそうな投書を書かなければならないわけで、けっこう発想力と文章力がなければできないやり方だな。もちろん、卑怯な手口だということはいうまでもないけれど。
森博嗣
『有限と微少のパン』(講談社ノベルス)購入。森作品は3作目で投げた私だが、英題が"The Perfect Outsider"で、あの人物が再登場するとあっては買わないわけにはいくまい。こうしてまた分厚い未読本が増えていく。
川端裕人
『夏のロケット』(文藝春秋)も購入。サントリーミステリー大賞優秀賞受賞作なのだが、帯には「合言葉は『火星へ!』」とあるし、はさみ込みの広告には「高校時代の夢が忘れられず無人島で非合法ロケットを作り始めた5人は、警察にマークされる。異色の理系青春小説」とある。「夏のロケット」といえば思い出すのは「ロケット・サマー」だし……これはもしかしてSFか!? わくわく。
10月6日(火)
今日は当直。
措置入院はあるし、夜中の3時半に「薬をくれ」と外来に来る人はいるしで、全然眠れず、本も読めず。やれやれ(これを書いているのは7日午後である)。
なんだか
妙なところでリンクされているぜ。
リンク理由については、はあそうですか、と思うだけで別になんとも思わないのだけれど、小谷シンパと言われるのだけは心外だなあ。「殺人的レトリック」と書いたのは、別に褒め言葉ではないつもりだけど。基本的に私は別にどっちの味方でもなく、単にことのなりゆきを興味本位に見ているだけの野次馬であります。
この話題についてはいろいろと書こうとは思ったのだけど、やっぱり野次馬が口をはさむ問題でもないと思うので自主規制。だから今日の日記は短くなってしまった。すまん。
10月5日(月)
シバの女王、といえば伝説的なエチオピアの女王である。肌は黒檀のように黒く、並外れた知性と権力をあわせ持った美女だったそうだ。
その彼女が好敵手と認めたのが、やはり英邁で名高いソロモン王。シバの女王が、互いの知恵を比べるためにソロモン王の王宮を訪ねた話は旧約聖書に書いてある。紀元前10世紀半ばのことらしい。
シバの女王は多くの金や香料を駱駝に乗せてエルサレムを訪れ、ソロモン王に次々と問いを発した。そして、ソロモン王はそのすべてに的確に答えたという。女王はソロモン王の知恵に感嘆し、財宝をすべて王に贈った。そしてソロモン王はお返しに、女王の望むものをすべて与えたという。二人は互いの叡智を認め合い、女王はエチオピアへと帰っていった。このときに、ソロモン王が持っていた契約の箱(=失われた聖櫃)がエチオピアへと渡ったという伝説もあるが、それはまた別の話。
さて、聖書だと女王はそのまま黙って帰っていったことになっているが、ある伝説によれば、ソロモン王はシバの女王に出会ったとたん、一目ぼれをしたらしい。確かに相手は知性的な美女だ。その方が自然である。しかし、シバの女王はあんまりその気はなかったらしく、ソロモン王の気を削ぐためにこう言った。
「実は、私の脚には
びつしりと毛が生えているのです」
確かに、これは嫌だ。
やんわりと断られてしまったソロモン王だったが、そこは叡智の王。女王の言葉が真実かどうか確かめる方策を練る。王は、床一面にクリスタルを張った部屋に女王を通した。クリスタルを見たことがなかった女王は、水たまりかと思って服の裾を持ち上げた。王は女王の美しい脚を盗み見て、女王の嘘を見抜いたのである。
見抜いたからどうなんだ、女王が嫌がっていることくらいわかれよ、と思うのだが、欲望に目がくらんだ王は女王の気持ちにはいっこうに気づかないようだ。
ここで注目したいのは、服の裾からのぞいた美しい脚を盗み見る、というシチュエーションである。女性の水浴びを覗き見するという場面ならギリシア神話によくあるが、あれは裸が見たいという欲望であって、まだまだ単純で野蛮である。それに対し、脚や胸といった体の部分を愛でる視線は、神話や伝説にはあまり見られない。しかし、さすがは知的に洗練されたソロモン王。女性の全身ではなく部分への、限りなくフェティシズムに近い視線は、まさに文化的成熟の証しといえよう。
さらに、クリスタルを貼った床というのがどういうものなのかよくわからないのだが、たぶん鏡張りのように光を反射するものなのだろう。だとすれば、ソロモン王は鏡を使って、脚どころか、スカートの奥まで覗き見しようと企んだのではないか。
すなわち、私はこれを、人類史上初のパンチラと認定したい(シバの女王がパンツを履いていたかどうかは定かではないが)。
結論。偉大なるソロモン王は、パンチラの祖でもあったのである。
……最初の文を読んだときには、まさかこんな結論とは思わなかったでしょ(笑)。
その後のことも簡単に記しておこう。女王の嘘を見抜いたソロモン王はどうしたのかというと、シバの女王にこう告げたのであった。
「今夜一晩の間、宮殿の中にあるものに触っちゃダメだよ。触ったらボクのものになってもらうからね」
これを無理やり承諾させた王は、その晩女王にむちゃくちゃ辛い料理を食べさせた。そのせいで、夜中になってから喉が渇いて渇いてどうしようもなくなった女王は、そっと起きて水差しに手を伸ばした。そこを密かに見張っていたソロモン王に見つかって、結局王と一夜をともにすることになったのであった。
とても叡智の王とは思えない汚いやり口である(王というより、この伝説を作った人の品性の問題なんだろうけど)。しかも、「密かに見張っていた」とくる。女王の寝室をずっとのぞいていたのか、ソロモン王。確かにこの伝説の中ではソロモン王のキャラクターは一貫してるけど、聖書での性格づけとは全然一致してないと思うんだけど。まるで、できの悪い同人誌作家が書いたかのような伝説である。
この一夜で女王は妊娠してしまい、エチオピアで息子メネリクを産む。そのメネリクが紀元前930年に開いたエチオピアのサロニモド王朝は、1974年の革命で廃されるまで3000年間続いたそうな。どっとはらい。
10月4日(日)
妻が、ネギと間違えてニラを買ってきたという。ネギとニラをどうやって間違えるんだ、全然違うじゃないか、と思ったのだが、山口出身の妻にとってはネギとは細くて緑色の、関東でいう「万能ネギ」であるらしい。確かにそれならニラと似ている。ならば妻にとってあの太くて長いネギは何なのか、と聞いてみたら、「あれは長ネギ」だという。ネギなんてものは全国共通だと思っていたので、これにはびっくり。
しかし、なんであの細いネギを「万能ネギ」というんだろうな。万能というほど大げさなものでもないと思うんだけど。しかし、「万能」とはなんとなく『夏への扉』風のネーミングだなあ(逆だ、逆)。
トマス・トライオン『悪を呼ぶ少年』(角川文庫)読了。ホラー小説の古典的名作が、ついに復刊された。しかし、なにしろキングが登場してホラーの文体が激変する以前の小説なので、語り口はむしろ古典的な怪奇小説調。少年の心理の流れを追っているのでときにわかりにくいところもあるし、惨劇のシーンも意外なほどあっさりとしている。今のモダンホラーに慣れた目にはけっこう読みにくく感じられるけれど、結末の衝撃は今も鮮やかである。特に竹本健治ファンの方は必読。双子の兄弟の名前がナイルズとホランドときけば、『匣の中の失楽』を読んだ方なら、あのキャラの元ネタはこれだったのか、と思い当たるはず。
近くのスーパーに行ったところ、新聞売り場にあった東スポの見出しに目が止まった。
さとう珠緒全裸写真
古物営業法違反
いったいさとう珠緒がなにをしたのかと思ったのだが、読んでみるとさとう珠緒の昔のヌード写真が六〜七万円で取り引きされているが、届け出ずに売買したら、古物営業法違反になるので気をつけなさいよ、という記事。それだけのことに、この見出し。それでこそ東スポ。
トライアスロンから水泳を除いた種目を、デュアスロンというらしい。「バイ……」はすでに使われているから、「デュ……」ときましたか。
10月3日(土)
映画を3本まとめて観る土曜日。
前回『CUBE』を見られなかった教訓を生かし、まずは六本木に行って『CUBE』の整理券を手に入れる。それから日比谷線で東銀座に戻り、今日から公開の
『アヴェンジャーズ』。松竹セントラルで観たのだが、初日なのにガラガラ。CMも盛んにやっているというのに、そんなに人気ないのか。
この映画をスタイリッシュなアクション映画だと思っている人が多いだろうが、観たところどうもそうではないようだ。実はこれ、徹底的にイギリスを笑いのめしたギャグ映画なのである。登場人物はことあるごとに紅茶を飲んでは「お茶でもいかが」と勧めまくっているし、意味もなくイギリス名物のクリケットだの女人禁制のクラブだのが出てくる。正義の組織の移動秘密基地はなぜか2階建てバスに偽装している(笑)。なにより、世界征服の方法が、イギリス人最大の関心事といわれる「お天気」の操作と、これまた新イギリス名物となった「クローン」とくる。自分の国をここまで笑いものにした映画を作ってしまうあたり、さすがは英国人。
しかし、楽しいのはそんなところだけ。ストーリーは穴だらけでないも同然だし、期待していたヴィジュアルも、予告編以上に目新しいものはなく、案外大したことはなくて拍子ぬけ。悪の組織が、正体を隠すため全員が(ショーン・コネリーも!)クマちゃんの縫いぐるみを着て会議をしているシーンなど、部分的には、感心する場面もあるのだけれど、全体としてはきわめて退屈な映画である。早起きしたせいで強烈に眠まっていた私は(スタパ風表現)、寝ずに観ているのに非常に苦労したくらいである。
今はつまらないけど、20年経てば『バーバレラ』クラスのカルト映画になるのでは、と妻は主張しているのだけれど、そうかなあ。『バーバレラ』に迫るには、ちょっとお色気が足りないような。ユマ・サーマンが初登場シーンでチャイナドレス姿で出てきたときには、ユマ・サーマン着せ替え映画になるのかと思ったのだが、ちょっと衣装も露出度も少ないしなあ。
それから、これは映画の責任ではないのだけれど、映画の途中から、スピーカーから、ハウリングを起こしたようなブオオオオオンという音が絶え間なく響き始め、これが映画への没入を著しく妨げていた。音響悪すぎるぞ>松竹セントラル。
映画館を出たところで「ぴあ」の出口調査に捕まった。私は60点。妻は50点。この映画で高い点数をつける人がそんなにいるとは思えないのだが、やっぱりゲタを履かせるのかな。この調査で70点以下の平均点をほとんど見ないのを不思議に思っていたのだが。
次に再度六本木に回って、この前観られなかった
『CUBE』。これは噂通りの傑作。
一辺約4メートルの立方体の中に理由もわからないままに閉じ込められた男女。6つの壁面には、それぞれ人がひとりくぐれる程度のハッチがあり、別のキューブへとつながっている。しかし、中には人を死に至らしめる残酷な罠が仕掛けられているキューブもある。罠を避けつつ、キューブから無事に脱出するためにはどうすればいいのか。まるでコンピュータゲームのような設定の中、極限状態に追いこまれた各キャラクターの心理描写は目新しいものではないけれども、丹念に描き込まれていて見事。
それぞれの部屋には、3桁の数字が3つ刻印されていて、数学者の卵である眼鏡っ娘がこの数字の謎を解明するのだが、この解法については数字を足すとか引くとかいうようなあいまいな説明しかされないのでどうもよくわからず、観ている方としては置いてけぼりにされたような気分である。ここはきちんと説明して謎解きの醍醐味を味わわせてほしかった。小説ならともかく、映画ではこういう謎を説明するのは難しいと思うけど。
疑問が一つ。ある場面で、数字の因数の数が重要になるのだが、眼鏡っ娘は「こんなの暗算でできるわけないわ!」といって投げ出してしまう。最初、9桁の数字の因数分解をしなければならないのかと思って、そうだよなあ、と思ったのだが、どうもそのあとの話の流れからすると、3桁の数字3つの因数分解をすればいいようである。3桁の数字の因数分解なんて、そんなに難しいことではないと思うんだけどなあ。ここがどうもよくわからないし、登場人物の誰一人としてマッピングをしようとしないのも不可解。マッピングはRPGの基本だ!
非常にシンプルな設定と低予算を逆手に取った傑作。拡大ロードショーも決定したので、観てない人は絶対に観るべし。しかし、こんなマニアックな映画が大ヒットして毎回立ち見が出るほどになるとは、いったいどういうわけなんだろうな。
最後にまたまた有楽町に戻って
『プライベート・ライアン』。この映画、ストーリーより何より、戦争シーンの迫力につきますね。まさに、一兵卒になって第2次大戦に従軍しているような感覚。血が飛び散り、臓物が露出し、兵隊たちが虫けらのように死んでいく。歩兵は単なる消耗品にすぎない。戦場では生死を分けるのは能力の差ではなく、単なる偶然に過ぎない。まさに悲運多数死。ああ、スティーヴン・J・グールドは正しかったのだなあ(違うって)。
ストーリーはあえて淡々と描かれていて、声高にメッセージを訴えるようなことはないが、どんなメッセージよりも、映像そのものがスピルバーグの主張を強烈に訴えている。これはビデオでストーリーを追うことにはさほど意味はなく、大画面、大音響で「体験」するしかない映画である。ただ冒頭とラストの現代シーンはない方がよかった。あれのおかげで、普遍的な「戦争」を描いた映画が、「アメリカ」の「個人」を描いた映画にスケールダウンしてしまっている。
私たちは必ずしも生の現実をそのまま認識しているわけではなく、私たちが現実だと思っている世界は、さまざまな「お約束」で成り立った、いわばフィクションといってもいい世界である。そういうフィクションによって成り立った「現実」を外側から描くには二つの方法がある。ひとつはファンタジーという手法を使って「お約束」を異化すること、もうひとつは極端にリアリスティックな手法で「お約束」のフィクション性を白日の元にさらすこと。
スピルバーグはこれまで、主にファンタジーの手法で「お約束」を揺さぶってきたのだけれど、この映画も、ベクトルこそ正反対だが「現実」に一撃を加えるという点ではまったく変わらない。シリアスに語られるべき戦争を徹底的にしゃれのめした『1941』と、意識としては基本的に全然変わっていないような気がするのだ。
私としては、極度のリアリズムによって、今までの戦争映画の約束事、そして我々の戦争認識を徹底的に破壊するこの映画も、一種のファンタジーである、と言ってしまいたい誘惑にかられる。『プライベート・ライアン』という映画は、『未知との遭遇』や『ジュラシック・パーク』などのファンタジーの自然な延長上にある作品だと思うのだけれど、どうか。
しかし、バタバタと死んでいく歩兵に飛び散る手足と、やってることは『スターシップ・トゥルーパーズ』と同じようなのに、なんでバーホーベンが撮るとあんなに悪趣味で、スピルバーグだと社会派になるんだろ。私としては、どっちかというとバーホーベンの方が好きだけど。
もう一本、『マスク・オブ・ゾロ』のオールナイトでも観るか、とも思ったが、さすがに疲れたので帰宅。『ゾロ』は来週観るかな。
これから個人的に期待する映画は『ザ・グリード』と『ダーク・シティ』それに『トゥルーマン・ショー』。クリストファー・ランバート好きの妻は、イタリア・フランス合作のサイバーパンク映画『ニルヴァーナ』も観たいと申しております。
10月2日(金)
精神分析ってのは、別に心の奥底にある真実を探り出すことなんかじゃない。
これは、精神分析を専門としないある精神科医の偏った意見であって、精神分析学者が読んだら怒り出しそうな発言かもしれないけれど、まあ聞いてほしい。
まずいっておきたいのは、精神分析と精神医学は違うということ。精神分析は精神医学の一サブジャンルにすぎない。日本では分析を専門にしている医者はあまりいないし、本格的に分析の技法で治療を行っている医者となると、本当に数えるほどしかいない。名前が有名なわりには、精神分析というのは、精神医学の中でも、かなりマイナーなジャンルなのである。まあ、分析で治すことができるのは主として神経症圏の病気だけだし、現代では葛藤を原因とする神経症自体減ってきている(自我が脆弱になったため心的葛藤を保つことができず、葛藤が起きるような場面でもすぐ暴力や性的逸脱などの行動化に走るようになったから、といわれている)。それに、本格的な分析は週に3、4回は行う必要があるのだが、現行の保険制度で認められている回数は週1回だけ。これでは、下火になるのも仕方がない。
精神分析について前から不思議に思っていたのは、もし精神分析が心の奥底を探るという営みであるとするならば、どうしてあんなにたくさんの学派に分かれているのか、ということ。フロイト派、ユング派、ラカン派、クライン派、アドラー派……どれも似たようでいて微妙に違っており、矛盾するところだって多い。もし、心の奥になんらかの「真実」というものがあるとするならば、矛盾する各派閥が並び立って、それぞれ治療として(まあまあ)成り立っている、というのはどう考えてもおかしい。
もとより精神分析に客観的根拠なんてものはない。フロイトは「科学的心理学」だと思っていたらしいが、どう考えてもこれは科学的ではない。フロイトは肛門期だとか男根期だとかいった発達段階を考え出したくせに、ろくに幼児の発達なんて観察したことがなかったらしい。それに、無意識だ超自我などという概念は、確かに人の心を理解する助けになるが、検証不可能なのが痛い。科学者の中には、精神分析を、トンデモと同列に並べる人もいるくらいだ(ハインズ博士とか)。
科学的思考を重んじる私としては、最初は精神分析のこの非科学性にはあきれはてたものだが、そのうち、検証可能かどうかなんて、実はどうでもいいのだということに気づいた。精神分析というのは、あれはつまり
フィクションなのだから。精神分析を、何らかの真実を探り出すものだと考えるから矛盾が生じるのだ。心の中で起こっていることについて、もっともらしいフィクション、理解しやすいモデルを提供するものだと考えればいい。
精神分析の治療というのは、患者の持っているフィクションを、治療者が自分のフィクションで置き換えていくこと、ということになる。神経症の患者というのは、症状を生み出すようなフィクションに固執しているわけで、精神分析家がするのは、「解釈」と称して、患者のフィクションを、症状を生み出さないようなフィクションで置き換えていくという作業なのだ。心の中の真実を探る作業ではない。
フィクションに説得力を持たせるためには、その内部で矛盾がない必要があるけれど、他のフィクション(他の理論)との間に矛盾がないかどうかは、まったく関係がない。だからいくつもの理論が並び立っても全然不思議はない。
非常に乱暴に言ってしまえば、「これは効く薬なのである」というフィクションを信じることによって病気が治ってしまうという、プラセボ効果とよく似た治療法なのですね、これは。
患者のフィクションと治療者のフィクション、どちらが真実というわけでもなく、優劣もなく、どちらも単にフィクションであるに過ぎない。ただ、患者を説得するためには、自己矛盾を生じないよう、治療者は単一のフィクションを採用する必要があり、○○派の分析家というふうに呼ばれ、そのうち自分の採用したフィクションを心から信奉することになる。
だから、ひとつのドグマを信奉することが大嫌いな私は、どうやら分析家にはなれそうにないのだ。
ああ、今日は分析の人に怒られそうな文章を書いちゃったな。
本屋で、復刊された中島渉『ハルマゲドン黒書』を立ち読みして、あらすじにのけぞる。
「地球の重力の700倍の超能力を持った主人公タケルは……」と書いてあるのだ。超能力というのは、重力と同じ単位で測定できるものだったのか。
購入したのは、ニール・スティーヴンスン
『スノウ・クラッシュ』(アスキー出版局)。待ちくたびれたぞ。
10月1日(木)
9月29日の日記で、私はこういうことを書いた。
ちなみに、私のSFの定義は、SFかどうかは作者の側ではなく読者に依存する、というもの。読者がSF心を持っていさえすれば、どんな小説でも(いや、小説でなくても)SFとして読むことができる! という過激な説を唱えたいと思うのだけれど、ずるいか、これって(笑)。
これは自分でもかなり舌足らずでわかりにくかったと思うので、ここでちょっと補足。
誰でもそうだと思うのだが、私にとってのSFというのは、最初に読み始めた作品のイメージに強く影響されている。私が子供の頃読んだのは、ハミルトンのスペースオペラや、バローズのペルシダー、アシモフのロボットものなどなど。こういう作品を初めて読んだときには、時空を超えた発想の広がりだとか、今まで体験したことのない世界にわくわくしたものである。オールタイムベストを選んでくれと言われたら、この頃読んだ作品をいくつか入れてしまうだろう、客観的にはそれほど傑作ではないとわかっていても。まあ、みんなこうだから、古い作品ばかりがベストテンに残ることになってしまうんだよな。仕方ないけど。
しかし、何年も読んでくれば、SFというのも実は約束事が多いものだということがわかってくる。その約束事の上に成り立っていてそこから一歩も出ようとしていないような作品ばかりが多くなってきて、だんだんといくらSFを読んでも新しさが感じられなくなってくる(実は初めてSFを読んだ頃の作品もそうだったのかもしれないのだが、なんせ初めて読むものだからすべてが新鮮に感じられたのだ)。
SF文庫から出ているから一応買っとくか、などという具合に、だんだんと、SFを読むということがルーチン・ワークと化してくる。もし、いくら読んでも、かつてSFを読んだときと同じような心のときめきがもう得られないのであるならば、もうSFを読む必要はないのではないか。今ではそんな気さえしている。
それでもなぜ私がSFを読みつづけているのかといえば、それは、私がかつて山ほどの辻真先作品をむさぼるように読んだのと同じ理由である。『仮題・中学殺人事件』とか『宇宙戦艦富嶽殺人事件』などといった初期傑作に魅せられて辻作品を読み始め、100冊以上を読破した結果、私は確信した。これらの本はほとんどがクズであり、初期傑作群ほどの傑作はもう書かれないだろう。もう辻真先は読む必要がない。そして、私は辻作品を追いかけるのをやめたわけだ。
私はまだ辻真先のようにはSFを見限ってはおらず、かつてのようにわくわくさせてくれる作品がまた読めることを信じつつSFを読みつづけている。まあ、SFに関しては、さすがに辻真先よりはいい作品が読める確率はいくぶん高いけれど。それでも他のジャンルを全く読まずSFだけを読みつづけるということは、辻真先だけを読みつづけていることとそれほど変わらないような気がする。
「SF」は、SF作品の中にだけあるのではない。私はそう思う。SFから始まって、だんだんと読む本の範囲を広げていったのはそういうわけだ(その結果買う本がやたらと多くなってしまったが)。SFの中には「SF」が見つかりにくくなってしまったのであれば、捜索範囲を広げるしかあるまい。どんなジャンルの本を読んでも、私はいつも「SF」を捜しているのである。そして、そう思って本を読んでいれば、さまざまなところに「SF」は見つかるものだ。
「読者がSF心を持っていさえすれば、どんな小説でも(いや、小説でなくても)SFとして読むことができる!」というのはそういう意味だ。
つまり、SFとは受け取る側の態度である。
ジャンルではない。アティテュードだ。
つまり、SFは遍在するってこと。