10月20日(火)
ウェブ版の
朝日新聞を見ていたら、北朝鮮が打ち上げた衛星が10月3日と4日に北朝鮮上空を通過した際の目撃談が紹介されていた。10月6日付けの北朝鮮労働党機関紙に掲載されたものだという。これがなかなかおもしろいので以下引用。
「3日の明け方、党創建記念塔の前庭に多くの人が集まって『光明星1号』(「衛星」の名称)が通過するのを目撃して歓声を上げた。その光はその名の通り敬愛する将軍(金正日・労働党総書記)の偉大性を世界各国に示威するかのようだった」(平壌市)
「空を飛ぶ『光明星1号』を直接その目で見ることができ、わが祖国の強大な威力と潜在力に対する自負心がますます大きくなった」(南浦市)
「『光明星1号』が肉眼で見えるまで空に動く星は見えなかったが、突然、空に動く星のような物体が現れた。西方に目を向けると知らず知らずのうちに『あー』と感嘆の声を上げた。明らかに『光明星1号』だった」(海州市)
「『光明星1号』は海岸方向のソルレ山と南山の間を通って東方に消えた。21世紀の夜は朝鮮から明け、地球を照らすという心情を叫びたかった」(海州市)
なんだかほとんどUFOの目撃証言のようである。信頼できなさそうなところまでそっくり。「突然、空に動く星のような物体が現れた」って、あんたそれ本当に衛星か。それに「明らかに『光明星1号』だった」ってなんでわかるんだ。そのうち、「『光明星1号』はジグザグに飛んだかと思うと麦畑に降りてきて、そこから黄金色に輝く金日成主席が現れたんです。この丸いところがその着陸跡です」なんていう証言まで出て来るかもなあ。
しかし、これこそ正真正銘の「馬鹿には見えない衛星」ですね。目撃者たちは。火星に運河を見た天文学者たちのように、暗示によって見えないものを見てしまったのだろうか(それも充分ありうることだと思う)。そうではなく本当に見たのだとしたら、彼らが見たものとはいったい何なんだろう。その時間帯に北朝鮮上空を通過する衛星があれば話は早いんだけどな。
書店に行ったら創刊されたばかりの文春新書が平積みになっていたけれど、このラインナップではどういう読者層を狙っているのか、今一つ方向性がつかみにくい。SF者にとっては金子隆一と長山靖生の名前が目を引くけど、そのほかは、少なくとも私にとってはあんまり魅力の感じられないタイトルである。買ったのは、最近立て続けに本が出ている金子隆一の
『ファースト・コンタクト』。中身はまだ読んでないけど、あとがきはBBCの『未来科学への招待』とUFO信者を批判していてなかなか熱い文章である。
気鋭の社会学者大澤真幸は最近けっこう話題になってるから、ちょっと古い本だけど平積みになっていたので
『電子メディア論』(新曜社)くらい押さえておくか。オタク論も載っているし。
半村良
『完本 妖星伝2』(ノン・ポシェット)、メラニー・テム&ナンシー・ホールダー
『メイキング・ラブ』(創元推理文庫)購入。
おお、ドリームキャスト発売を前にして、ついにせがた三四郎の最期。鉄腕アトムだよなあ、これって。
10月19日(月)
文章を書くということは、自分の「思い」には不誠実な行為だ。
時事問題とか事件なんかをスパッと斬った文章を読むと気持ちがいいし、私もそういう文章を書いてみたいと思うこともある。
でも、文章にした時点で、それはすでに自分の心の中に湧き起こった生の「思い」とはどこかずれている。もし、文章にしたことが自分の意見のすべてだというひとがいるとしたら、それはよほど単純な人間だろう。普通の感性を持つ人間であるなら、ひとつの物事に対しても、矛盾するさまざまな思いをあわせもっているはずだ。でも、そんなさまざまな思いは、書くことによってひとつの論理へと固定されてしまい、ことばにならない混沌とした思いは、まるで一瞬の泡のように消えていってしまう。そして文章を書いた後は、まるでそれが自分の考えたすべてであったかのように思いこんでしまう。ほんとうはもっとあいまいだったはずなのに。
こうやって毎日文章を書いていくということは、確かにそれによって意見がまとまっていくという効用もあるけれど、同時に、ぼんやりとしたことばにならない何かを日々殺していくという作業でもあるのだ。
議論をしたり文章を書いたりするときには態度を明確にせよ、とよく言われるが、そうした圧力に抗して、あいまいなものをあいまいなままにしておくことにも、それなりの価値があっていいように思う。
矛盾を矛盾のまま、自分の中にかかえこむこと。
単純に、賛成、反対と言いきらないこと。
明晰な文章を書きたいという誘惑をはねのけること。
それは決して逃げではなくて、それもまたひとつの勇気なのだ。
10月18日(日)
新宿の喫茶店で、99年SFセミナーの第2回打ち合わせ。いろいろと企画が出ていて、これがすべて実現すれば超豪華なんだけれど、予定は未定であり詳細は秘密。ウェブ日記の大先輩である大森英司さんとは初対面。自己紹介したところ、「『月猫通り』読んでました、藤田朋子のサイン会に行って『いい名前ですね』と言われたって話を書いてましたよね」と言われて驚愕する。『月猫通り』を読んでいること自体驚きだが、なんでこんなことまで覚えてるんだ、この人は。おそるべし大森英司。
打ち合わせは1時間半ほどで終わったので、夕べは北千住で朝までカラオケをやり、家で5時間ほど眠ったあと新宿にやってきたというOさんと一緒に有楽町へ。『ザ・グリード』か『マスク・オブ・ゾロ』でも観ようかと思ったのだが、どちらも時間が合わずブルース・ウィリスの最新作
『マーキュリー・ライジング』を観た。
国家機密の暗号が解かれないかどうか調べるためにパズル雑誌に載せてみて、解いた人が現れたので慌てて消そうとする、という発端がまず謎としかいいようがない。解いた人が出たときのことを考えなかったのか、こいつらは。プロの殺し屋が雑踏の真っ只中、大勢に目撃される中でターゲットを撃った上、銃撃戦まで繰り広げてしまうのも間抜け。しかもしっかり監視カメラに映ってしまってるし。顔くらい隠せよ。最初は、一匹狼のブルース・ウィリスがたったひとりでNSAやFBIを敵に回して戦う話かと思ったのだが、つまらん証拠が出た途端、あっさりFBIが後ろ盾についてしまうのには拍子抜け。最後にはたった二人の敵をFBIが大勢で追い詰めるという、ほとんど弱いものいじめな展開になってしまう。この物語の敵って、一見巨大組織のようだったけど、実はアレック・ボールドウィンと殺し屋の二人だけだったんかい。ラストはちょっぴり泣けるけど、そりゃ自閉症の少年を出せば、誰にだって泣ける物語の一つや二つ作れるでしょ。
ハリウッド映画のルーチンから一歩も出ない凡作。
Oさんと妻との三人でしゃぶしゃぶを食べてから帰宅。
10月17日(土)
今週の疲れがどっと出て、夜の12時から昼の1時まで、13時間も昏々と眠る。起きた後もどうにも体調が悪く、5時ごろまでごろごろとしてからようやく重い腰を上げる。体がだるくて仕方がないけど、今日だけは出かけないわけにはいかない。夕方からは浅暮三文さんの出版記念パーティなのだ。
小雨の降る中、北千住のパーティ会場に着いてみれば、ちょうど会が始まったところ。集まったのは浅暮さんが参加している空想小説ワークショップと海外SFに親しむ会のメンバーを中心に総勢50名にも迫る大人数。この前のSF者オフからは、
溝口さん、
u-kiさん、
平野さんも来ている。それに
森下一仁先生、伊藤典夫先生もいらっしゃっている。
例の件では森下先生はじめいろんな人から心配されてしまったけど、当人はあんまり気にしてないのでご心配なく。最近は、私はあんまりワークショップの方には顔を出していないので、久しぶりの友人たちと話をしているだけでもなかなか楽しい。別名義での架空戦記が売れている某作家の創作講座に通っているKくんに、「私ならその作家の弟子になろうとは思わないなあ」と言ったらなんだか不満そうだったけど、まあそのへんは価値観の相違ということで。
着く前には、あまりにも体調が悪いので、途中で帰ってしまおうかとすら思っていたのだが、久しぶりに顔を合わせるメンバーと話しているうちにだんだんと元気になってきて、パーティが終わる頃には完全復活。いろんな話ができて楽しいパーティでありました。幹事のSくんから、『ダブ(エ)ストン街道』の表紙絵をあしらった扇子と暖簾(Sくんは、インターネットで見つけた京都の店で作ってもらったそうな)が浅暮さんに贈呈され、最後に浅暮さんのスピーチ。さすがコピーライターだけあって、簡潔ながら見事な表現。この前のSF者オフのときの大森望さんとの突発対談でも証明されたように、浅暮さんは語りもとても達者なので、講演とか対談をさせたら生えるキャラクターなんじゃないかなあ。
パーティのあとは、伊藤典夫先生を中心に、海外SFに親しむ会系な人々とネットな人々とで喫茶店。我々は夜10時ごろで帰ったが、朝までカラオケをしていたグループもあったそうな。みんな元気あるね。
10月16日(金)
当直明けの勤務ってのはむちゃくちゃつらい。
朝5時半に電話で起こされ、「睡眠薬を飲んでも眠らずにあばれている」という患者さんが救急車で運ばれてくるという。眠い目をこすりながら診察室に行ったら、あばれているどころか、
眠っているではないか。ぐっすり。どうしろっちゅうねん。まあこれも仕事だから文句は言えないんだが。
こんな日に限ってやたらと仕事が多い。特に今日は家族面接の当たり日のようで、5、6組もの家族が病院を訪れた。
精神科医の重要な仕事のひとつが、この家族面接である。ほかの科では治療の対象はあくまで患者個人だけれど(糖尿病の場合など、家族教育をすることもあるけれど)、精神科の場合、家族全体が治療の対象だといってもいい。これを「家族療法」といって、いろいろと細かい理論があるのだけれど、そのへんの詳しいところは私はまだまだ不勉強。私がするのは、病状の説明とか、患者さんへの接し方のアドバイスなどなど。
これまた、精神科がほかの科と違うところなのだけれど、精神科の場合、必ずしも家族が患者さんの退院を望んでいるとは限らない。はっきりいってしまえば、退院してほしくないと思っている家族も少なくないのだ。だからといって冷たい家族だといって責めるわけにもいかない。暴力をふるったりする患者さんの場合、入院させることを決意するまでのあいだ、家族はたいへんな苦労と葛藤を強いられていたのだから。
そんな家族と、患者さんも交えた上で何度も何度も話し合って、少しずつ退院への見通しをつけていくのも、家族面接の役割。いや、これがいちばんたいへんなんです、実際。患者さんの病気をまったく理解しようとしない母親、仕事もしていないような奴が大きな顔をするな、とあからさまに患者さんを侮蔑している父親。こういう家族たちの態度をなんとか軟化させたいのだけれど、こればっかりは「薬で治す」というわけにはいかない(当たり前)だけに、患者さんの治療よりもはるかに難しい。
今まで100組以上の家族を見てきて思うのは、本当に世の中にはいろんな家族があるなあ、ということ。まさに千差万別。中には私の持っていた家族観の常識からはかけはなれた家族もあるけれど、こちらがわの勝手な「正しい」家族像を押しつけることだけは慎まなきゃね。
10月15日(木)
「お医者さんって、詰め将棋みたいですね」
と、ある患者さんから言われたことがある。
ちょうど、入院を拒む患者さんを、なんとか説得して入院させようとしていたところだ。それまでの話の脈絡とは関係なく、ふいに患者さんがそう口にしたのである。
私は、とっさにその人のいう意味がわからなかった。妄想を持った患者さんだったこともあり、何か病的な発言なのか、とすら思った。
「詰め将棋って、どういうことですか?」ととりあえず私は訊いてみた。
「きちっと決まるというか何というか……よくわかりません」
この患者さんは、今は心的エネルギーが落ちているため、ぽろっと断片的な言葉だけを口にするだけで、きちんと説明したりすることはなかなかできない。
しかし、それを聞いて私ははっとした。その人の言おうとしていることがわかったのである。
私はそのとき、この患者さんを無理にでも入院させようと思っていた。本人が入院したくないというのであれば、保護者の承諾による医療保護入院にしてでも。それが本人のためであると確信していたからである。自分がいくら拒否しても、結局は入院させられてしまう。この患者さんは、自分を玉、精神科医である私を攻め方にたとえ、玉がいくら逃げても結局は決まった筋道を通って追い詰められてしまう運命にあるのだということをいいたかったのではないか。おそらくこの人は、私の一見やさしげな説得口調の裏にある断固としたものを感じ取ったのだろう。
「結局決まった道筋を通って詰められてしまう、ということですか?」と私は訊いてみたが、患者さんは「うーん、というか……わかりません」と、否定も肯定もしなかった。
患者さんがいくら入院したくないと主張しても、医者の方としては一見して入院が必要だと考えた場合、最初から入院という方針は変わらない場合はよくある。こういう場合、とりあえず最初は説得するものの、どうしても平行線のままであれば適当なところで切り上げ、本人の承諾を必要としない医療保護入院の手続きを取ることになる。
この患者さんの場合は「強制なんですか」と私に訊いてきたので、「強制です」と私が答えたところ、少しほっとしたような顔になって「わかりました」と素直に病棟に向かった。この患者さんの場合、ものごとを自分で決定する能力が失われてしまったため、自分で決めることができず、私がその決定権を肩代わりする必要があったのだ。
強制入院というとおそろしく聞こえるかもしれないが、その入院で症状がよくなると確信しているからこそ、医者は無理にでも入院させるのである。強制的に入院させた患者さんはたいがい、退院時には入院時とはうってかわった晴れやかな顔で帰っていく。「あのとき入院してよかった」と振りかえる患者さんもいる。だからこそ我々は強制的に入院させるのだ。
それにしても、入院を勧めるときの医者は詰め将棋、というのは、実にうまい例えである。でも、決して機械的に詰めているのではなくて、どう話せばわかってくれるかと必死に頭を働かせているのだということもわかってほしいな。
今日は当直。何度も家に電話するがなかなか出ない。夜遅く電話してようやく妻が出る。どこに行っていたのか、と訊くと、閉店までマンガ喫茶にいて『ベルセルク』を全巻読破したとのこと。「すごくおもしろいので読むべき」だそうな。
10月14日(水)
最近は本職の方が忙しくて全然本が読めない。
『スノウ・クラッシュ』も読み始めてしばらくたつのだけれど、全然進まない。読む時間がとれず細切れに読んでいるので、それまでの筋がなかなか思い出せず、ジークって何だっけ、とかスシ・Kって誰だっけとか、とかいう状態。用語辞典をつけてほしいなあ、こういう小説には。でも、山のような造語に慣れさえすれば、これはリーダビリティ抜群でめっぽうおもしろい。
しかし、こういうときに限って読みたい本は山ほど出版される。文春・宝島のベストテンを射程に入れた分厚い本たちのほか、本屋に行ってみると、ポケミスの復刊まで並んでいるではないかされている。『そして誰もいなくなった』など、なぜ今さらと思うような本を除けば、30年ぶりに復刊される貴重な作品ばかり。早速、エドマンド・クリスピン
『金蠅』、ジョン・ディクスン・カー
『アラビアン・ナイト殺人事件』、カーター・ディクスン
『恐怖は同じ』、エリザベス・デイリイ
『二巻の殺人』、ジョン・ロード
『プレード街の殺人』にふらふらと手を伸ばしてしまう。どれも幻のポケミスといわれ、古書価の高い作品ばかりだ。
私としてはいちばんうれしいのが、イギリス新本格(このころから使われていたのだ、「新本格」という言葉は)の代表的作家エドマンド・クリスピンの処女作『金蠅』。奥付けを見ると、「1957年12月31日初版発行、1998年10月15日再版発行」とあるから、31年ぶりの再刊である。ジョン・ロード『プレード街の殺人』は、なんと森下雨村訳とくる。このへんの本格作家は国書刊行会のシリーズなどでちょうど再評価が高まっているところなので、復刊は素直にうれしい。
ただ、素直には復刊を喜べない作品もあったりして、それが『アデスタを吹く冷たい風』と『雪だるまの殺人』。理由は簡単。古本屋で買って持っているのだ。偶然見つけたときのあのうれしさを思うと、なんだか悔しいのう。
でも、まだ私には『呪われた穴』と『旅人の首』があるから、まあよしとするか。あー、今日はミステリ者以外には全然わからない話だろうなあ。
新聞のテレビ欄によれば、新番組「世紀末の詩」のサブタイトルが、「この世の果てで愛を唄う少女」だそうな。「YU-NO」にでもはまったのか、野島伸司。結局見なかったが。
明日は当直なのでたぶん更新はなし。
10月13日(火)
この前、ふだんの帰り道から少し離れたところに、古本屋があることがわかった。ここに住むようになって半年以上たつのに今まで気づかなかったとは、まったく不覚である。しかし、そのときはちょうど閉店する時刻だったので中に入ることはできず、けっこう本が揃っていそうな店内を目にしながら涙を飲んだのであった。
さて、今日改めて、仕事帰りにその古本屋に行ってみた。
やはりこの前見た通り、店内はかなりの充実ぶり。文庫の棚が多く、ハヤカワ文庫SFや、角川文庫や徳間文庫などの国内SF、ハヤカワ・ミステリ文庫や角川文庫などの海外ミステリもかなり揃っている。しかもそれほど高くはない。なぜ今までここに気づかなかったのか。
さてここでの購入本は、国内SFからは、川田武
『ピラミッドの日』(角川文庫)、五代格
『クロノスの骨』(ハヤカワ文庫JA)の二冊。ハヤカワ・ノヴェルズからは、キングズリイ・エイミスのホラー小説
『グリーン・マン』、「当世流行の空想科学小説の見事なもじり」だというボアロー、ナルスジャック
『私のすべては一人の男』(これは文庫化されてるかも)。イタリアの作家パオロ・ヴォルポーニの
『怒りの惑星』(松籟社)は、23世紀末、核戦争後の世界に生き残ったマントヒヒをボスに、象、ガチョウ、小人の一行4人が荒廃した地上を、「理想の王国」を求めて彷徨する、というSFというか寓話らしい。
しかし、われながらむちゃくちゃマニアックな5冊である。相当なSFファンでも読んだことがないという本が多いんじゃないかな。
さて、この古本屋がどこにあるかというと、狭量で偏屈な人間である私は、教えてあげないのである。すまん(毎日謝ってばかりだな)。
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ニムの木かげの家を追加しました。
10月12日(月)
なんだかパラドクシカルに聞こえるかもしれないが、あまりにも多くの出来事が起きて仕事が忙しかった日には、かえって日記に書くことは少ない。書くこと、というより、書けること、といった方がいいか。書きたいこと、書けば興味深く読んでもらえるだろうことは山ほどあるし、文章にして考えておきたいことも多いのだが、残念ながら患者さんのプライバシーを侵害せずには書くことはできない。さりとて、今日の出来事とは関係のないことを書こうにも、今日起きたことがあまりにも印象深くて、それ以外のことは書く気にはなれない。それが、私にとってのウェブ日記のジレンマである。
医者を続けている以上、事故は避けられないことだ。精神科では生死に関わるような場面はそう多くはないが、それでも皆無ではない。自分の治療は果たして適切だったのか。治療が適切ならば避けられる事故だったのか。避けられたかどうかはわからないが、自分の治療に反省する点は多い。運よく最悪の事態は避けられたが、それは単なる偶然に過ぎないことはわかっている。おそらくこれからも何度も反省しながらも、治療を続けていくことになるのだろう。それが、あいまいでデリケートな人間の心というものを相手にしなければならない精神科医の宿命なのだろう。
いや、心底疲れた。精神科医の責任の重さを改めて思い知らされた一日だった。たぶん今日のことは一生忘れられないだろう。
よくわからない日記だったと思うが、こればっかりは詳しくは書けないのだ。すまん。
10月11日(日)
新聞によれば、宝くじの一等が早ければ再来年から、今の6000万円から3億円へと5倍になるそうで、おおこれはすごい、と思う人もいるかもしれないけれど、賞金総額が5倍になるとも思えないので、一等が出る確率は当然ながら1/5になるのだろう。今より当たりにくくなるだろうけど、それでもうれしいのか?
宝くじといえば、映画を観に銀座に出ると、よく西銀座デパートの宝くじ売り場の前に長蛇の列ができていたりするのだけれど、なんでみんなあそこに集まって買うんだか、私にはさっぱり理解できない。当たりがたくさん出ているということなのかもしれないけれど、そりゃあれだけ売れていれば当たりも出るわな。ちょっと離れたところにも宝くじ売り場があるが、こっちに並んでいる人は誰もいない。当然のことながらどこで買っても確率は同じなのに、どうしてみんなあそこで買おうとするんだか。混む発売日にあえて買わねばならない理由もまったく不明。わざわざ人気のレストランや回転寿司の店に並んだりする心理と同じようなものなのかな。他の人と一緒に並ぶことによって、イベントに参加しているという実感を得ようとしている、ということなのだろうか。
ま、確率的にいえば最も有利なのは宝くじを買わないことなので、私は一度も宝くじを買ったことがないのだけど。
今日はいい天気なので千駄木・谷中あたりを散策。このあたりはお寺や骨董屋、ギャラリーが多くて、ぶらぶらと歩くには楽しい町だ。
夕食は、千駄木駅近くの
「ダージリン」というインド料理屋。見るからに怪しい外装に臆せず入ってみると、そこは輪をかけて怪しい世界。椅子やテーブルは統一感なく全部違うし、英国風ともインド風ともつかない置き物が店内狭しと並んでいる。シックとか洗練とかいう言葉の対極にある、混沌としたインテリアがいかにもアジアらしい雰囲気。
実は、今までインド料理はどこで食べても同じようなものだと思っていて、ここの料理にもあんまり期待してなかったのだけれど、これが
非常に美味。インド料理でも、うまい店とまずい店とでは歴然とした差があるのだ。都内にはインド料理店が山ほどあるけれど、満足のいく味の店ってのはほとんどない。
その点、ここの料理は、数少ない合格点のカレーである。カレーはほとんど辛みがなく、好みで辛さを足すスタイルなのも親切。何より、ラッシーがこんなにうまいインド料理店は初めてである。インド料理があまり好きではない妻も大満足であった。
それに、店名の通り、直輸入の紅茶もとても本格的(銀製のポットで出されるのだ)で、紅茶専門店にも負けないほど。インド人のご主人はとても気さくだし、インド料理好きならいちど訪れてみる価値はある店である。