10月31日(土)
神保町古本まつりの戦いには参戦せず、昼はひたすらごろごろして夜に備える。日が落ちるのを待って、満を持して渋谷に向かう。今日は東京ファンタスティック映画祭の開幕日。オープニングの『ヴァンパイア』のチケットこそ取れなかったものの、今夜は「ダークサイド・オールナイト」でホラー、ファンタジー映画三昧なのである。
まず1本目は
『富江』。主人公である富江が姿を見せるまでは緊張感があふれているんだけど、後半はどうもぎくしゃくしてしまう。死体が山ほど転がる話なのだが、中には誰が何のために殺したのかよくわからない人も多いし、思わせぶりに登場していた精神科医役の洞口依子があっさり退場してしまうのもどうかと思う。富江役の菅野美穂(もう書いちゃっていいんだよね)も、ちょっと迫力がないし、最後は首を切られたのに再生が早すぎるんじゃないの? 雰囲気はいいのだが、脚本の破綻がどうも気になってしまう作品。
続いて、小松沢陽一氏の司会で、監督や菅野美穂、原作の伊藤潤一さんたちの挨拶。私は実は東京ファンタは初めてなので、小松沢司会も初体験なのだが、なるほど、噂通りというか何というか。東京ファンタへの小松沢さんの功績は認めるけど、進行のもたつきはちょっと目に余る。ここは裏方に徹して、司会についてはプロに任せた方がいいんじゃないかなあ。
2本目、アレックス・プロヤス監督の
『ダークシティ』。とりあえずSF者は必見の映画であることは間違いない。レトロフューチャー風な昏い都市はそれほど目新しくはないが、にょきにょきと生えるビル群など悪夢のような映像の美しさは一見の価値あり。ただ、ネタ自体は全然新しくも何ともなく、まるで50年代短篇SFのようなストーリーでとても懐かしい。今どき、よくもここまで古いストーリーを映画にしたものである。それに、ここまでストレートな超能力合戦ってのも久々に見たぞ。まあ逆にいえば、古臭いSFでも、監督の映像センス次第でいい映画にはなりうるってことですね。
2本目が終わった時点ですでに2時半近く。日付けはもう11月1日なので、このあとは明日の日記に続きます。
10月30日(金)
アクセス数40000達成。ご愛読どうもありがとうございます。
『ムーラン』の前売り券を買っていたのだが、どうにも観る気が起こらないでいたら、いつのまにか今日で最終日になってしまったらしい。チケットを無駄にしたくはないので、病院の帰りに
『ムーラン』を観る。ちなみに、次に上映されるのは『タイタニック』。まだやってるのか、この映画。こんなにロングランを続けるほどおもしろいとも思えないのだがなあ。
さて、『ムーラン』である。予想していたとはいえ、この単純で子供向けなストーリー、東洋人といえばとりあえず目を吊り上げとけばいいと言わんばかりのキャラクターデザイン、中国とはいいつつあまりにもアメリカ風な動物キャラ、人を小馬鹿にしているのかね。CGは随所に使われているが、フン族の軍勢が押し寄せてくるシーンは『スターシップ・トゥルーパーズ』と同じプログラムを使ったとしか思えないし、モブシーンといえば必ずCGってのもなんだか安易である。それに、CGシーンだけなんだかまるで特撮のようで、実写っぽくて違和感がある。アニメでのCGの使い方については、もう少し改善の余地がある。
本来のムーランの伝説では父への孝行のため、男装して戦場に向かうのだが、そこは現代風にアレンジされ、ムーランは因習に縛られることなく自己を実現するために戦場に向かったように描かれている。それは別に問題ないのだが、そういう描き方をするのなら、この結末はちょっといただけないな。
戦士として賞賛を浴びたムーランは、皇帝が用意してくれた大臣のポストを投げ打って家庭に戻り、結局家柄のいいハンサム男と結ばれるというエンディングなのだ。これって、冒頭でムーランが否定したはずの価値観そのものなんじゃないのか。これでは、ちょっと会社で仕事をしただけで結婚退職をする女の子と何の変わりもない。確かにハッピーエンドではあるのだが、なんだか物足りない気がするなあ。
10月29日(木)
朝はいつものように起きたのだが、どうにも体がだるくて、とても出かけられる状態ではない。病院を休んで一日中寝て過ごす。昼飯もろくに食べずに眠る眠る昏々と眠る。我ながら、よくもこれだけ眠れるものである。
今の住所に引っ越してから1年近くになるのだが、電話番号が変わったので、以前は悩まされていた
セールスの電話が全然かかってこず、平穏な毎日をすごすことができていた。ところが、最近になってまたもしきりにセールス電話がかかってくるようになってしまった。どうやら、ようやく新電話番号の掲載された住所録がセールス業界に出回り始めたらしい。
きのうから今日にかけてはなんと3回も。同じ会社からかどうかは不明。やれやれ。今日はぐったり寝ていた午前中にかかってきたので、病院から何か緊急の連絡でもあるのかと思って、だるい体を起こして電話を取ってみれば、単なるセールスではないか。たぶん、マンションでも買えというんだろうなあ。買えるか、そんなもん。
なんで「たぶん」かというと、このごろは、セールスマンが用件を告げる前に撃退する手法を実践してしるからである。
「風野先生はご在宅でしょうか」と、妙にハキハキとした口調でセールスだとピンと来るので、
「いや、まだ帰ってないんですけど、どちらさまでしょうか」と答える。すると、相手は名前も名乗らず、
「あ、それでは、また電話します」
と切ってしまう。失敬なやつである。
この手法はけっこう使えるので、今後もこれでいくか。
でも、インターネット接続中に切られたときには、怒りをぶつけるためにもうちょっとねちねちといじめますが(笑)(ISDNにしろって?)。
10月28日(水)
「一日でも早くファンに愛され、期待にこたえられるよう
全知全能を絞る」
とは、阪神の野村新監督の就任挨拶の言葉(
日刊スポーツによる)。
小渕ちゃんだけかと思ったら、野村監督もですか。世の中には全知全能な人が多いなあ。もしかすると、こういう用法で「全知全能」を使う人が増えているのかな。そうすると、そのうち正しい言葉遣いになってしまうのかも。いやだなあ。
本屋に寄って文庫の新刊をチェックしていたところ、中年のおじさんがレジのところで話している声が聞こえてきた。妙に大きくて耳障りな声なので、別に聞こうとしていないのに自然に耳に入ってきてしまう。
「この本のね、下巻あるかな。上中下だったら中巻も」
男がレジに置いたのは司馬遼太郎らしい、黄色い背表紙の文庫本である。
「少々お待ち下さい」
レジのおねえさんはカウンターを離れて文庫の棚に行き、しばらくしてから戻ってきた。
「あの、この本はこれ一巻で完結なんですけど」
「そんなはずないだろ、ほら上って書いてある」
男は裏表紙を折り曲げて、おねえさんに巻末の新刊案内のページを見せた。まだ買ってもいないのに雑な本の扱い方をする男である。私にとって、この男の評価は確実に下がった。
「でも……これはこの本だけなんですけど」
おねえさん、困っている。
すると男は今度は表紙を指差して
「そんなはずないだろう。ほら、ここには『上』って書いてあるじゃないか。続きが出てるはずだろ」
横柄な口調だ。この男の評価がさらに下がった。
「あの……」と、言いにくそうにおねえさんは口を挟んだ。
「これは『土』です」
その瞬間、男の動きが止まった。
男が指さしていたのは、司馬遼太郎
『歴史と風土』の
「土」の字だったのである。男は、この本を『歴史と風』の上巻だと思っていたらしい。
「え? あ、あははは、そうか、『土』か」なんだか急に態度が変わった。
「そうか、なあ、間違いやすいよなあ、『土』と『上』って」
「そうですよね、間違えちゃいますよね」とおねえさんは調子を合わせているが、絶対そうは思ってなさそうである。
「じゃ、これ一冊買ってくわ」
お金を払うと、男はそそくさと去っていった。あとには、必死で笑いをこらえるおねえさんと私が残されたのであった。
西澤保彦
『ナイフが街に降ってくる』(ノン・ノベル)、宮部みゆき
『クロスファイア』(カッパノベルス)、ジョン・ディクスン・カー
『悪魔のひじの家』(新樹社)、カール・ハイアセン
『虚しき楽園』(扶桑社ミステリー)購入。
10月27日(火)
SFマガジン12月号を買いに本屋へ。おお、インデックスに私の名前が載ってるぜ(当たり前)。ついでに、
「女性精神科医を襲う戦慄の監禁犯」という帯に惹かれてアン・マクリーン・マシューズ
『ザ・ケイヴ』(扶桑社ミステリー)も買ってみたら、帯は間違いで、実は主人公は臨床心理学者ではないか。精神科医と臨床心理学者では、全然違うんだけどなあ。
それから、
「ヒューゴー賞受賞!!」と帯に大きく書いてあるけど、コミックファンの何割がわかってくれるのか疑問な
『ウォッチメン』(メディアワークス)も購入。池袋駅にときどき出店される古本コーナーでは、小松左京
『怨霊の国』(角川文庫)、神林長平
『太陽の汗』(ハヤカワ文庫JA)購入。
SFマガジンの略称はどういうわけか「マガジン」である。でも、「マガジン」では、「少年マガジン」とも「コンバットマガジン」とも区別できないわけで、「SF」と「マガジン」では、省略してはならない情報なのはどう考えても「SF」の方だろう、と思うのだが、なぜか略称は「マガジン」。謎である。まあ「SF」と略したら、「今月のSF読んだ?」とかいうことになって、なんのことだかさっぱりわからないが。
昔は「アドベンチャー」とか「イズム」とかもあったので、たぶんそれと区別するための「マガジン」だったんだろうなあ。今となってはそもそも区別する意味自体なくなっているけど。
それはそうと、「SFマガジン」の略称としての「マガジン」が平板な発音なのに対し、「少年マガジン」を略したときの「マガジン」は「マ」にアクセントをおいて発音するのは私だけだろうか。
10月26日(月)
クワイ河マーチやコアラのマーチというように、マーチといえば楽しいイメージがあることが多いが、こと医学の世界ではマーチといってもあんまりめでたくないものが多い。たとえば、ジャクソン型のてんかんで、体の一部分から次第に体全体に痙攣がひろがっていくことはジャクソン・マーチと呼ばれているし、アトピー性皮膚炎に始まって、小児喘息からアレルギー性鼻炎というように、次々と姿を変えながらもアレルギーが続いていくことをアレルギー・マーチという。英語のマーチには「進展」とか「進行」という意味もあるから別におかしくないのかもしれないが、日本人から見ればなんともブラックな命名である。
かくいう私も、子供の頃は小児喘息で学校を休み、高校生の頃にはアレルギー性鼻炎で年中ティッシュが手放せず、そして今はアトピー性皮膚炎でいつも体のどこかが痒いというありさま。典型的なアレルギー・マーチである。しかも、ふだんはどこか1、2ヶ所が痒い程度なのだが、季節のせいか今は体中が痒くて痒くて仕方がない。
今までは病院でステロイド剤の軟膏を自分に処方していたのだが、全身に塗るわけにもいかない(そんなことをしたら副作用がこわい)ので、今日はニポラジンという抗アレルギー薬の飲み薬を出してみた。薬の出し方は簡単。自分で自分に処方箋を書き、ほかの先生にサインをしてもらうのである。こうやってすぐに自分で薬が出せるのが、病院に勤めている利点だな(「もらう」と書いたが、別にただではなく給料から引かれるので誤解のないよう)。
そういや、どうも、私の知り合いにはアレルギー者が多いなあ。なんとなくオタクにはアレルギー率が高いような気がするのだが、どうなんだろうな。でも、ちゃんと調べるには、まずオタクを定義する必要があるな。
夜は伊藤典夫先生の会。今日は大森望さんがゲスト。タニグチさんにみらい子さんもやってきて、いつもにも増してにぎやか。大森さんのSF歴とか、最近の新人賞事情とか、興味深い話を聞く。二次会では溝口さんと、「経済学ほどSFと縁遠い学問分野もないのではないか」という話とか、秘められた溝口さんの過去についてとか(笑)いろいろと話す。溝口さんからは、アレクサンドル・グリーン
『黄金の鎖』(ハヤカワ文庫FT)を譲ってもらいました。前から欲しかった本だったのでありがたい。
10月25日(日)
きのう書いた『ザ・グリード』だが、これは邦題で、原題は"Deep Rising"という。どっちもあんまりいいタイトルとはいえないが、この映画、実は登場するモンスターには名前がない。「グリード」というのは、日本で勝手につけた名前にすぎないのである。
そういえば、最近の怪物映画でいえば、『ミミック』も『レリック』も、あれはモンスターの名前ではない。『レリック』のモンスターは確か「ンヴーン」とかいう名前だったけれど、名前はそんなに重要視されていなかったし、『ミミック』の怪物には名前がなかったような気がする。『遊星からの物体X』も、原題はきわめて即物的に"The Thing"だし、『エイリアン』だってそもそもは普通名詞にすぎない。どうも、アメリカ映画の怪物には、名前がないのが普通のようだ。
考えてみれば、そもそも『フランケンシュタイン』のモンスターからして名無しである。西洋には、怪物といえば名無しという、脈々と受け継がれている伝統があるらしい。これと好対照なのが、登場するすべての怪物に名前をつけてしまう上、「○○怪獣」とかいう愛称までつけてしまう(しかも誰がつけたのかよくわからない)という、日本の円谷プロの作った伝統ですね。
アメリカ産のモンスターというのは、どう考えてもまったく意思の疎通が不可能な存在である(いくらウルトラマンだって、エイリアンと肉弾戦がしたいとは思うまい)。名前をつけて分類するということは、つまりは人類の支配下に入れるということなので、怪物が名無しなのは、人類にはどうすることもできない存在だということを強調するためなのだろう。この夏公開されたアメリカ版ゴジラも、日本的な怪獣というよりは、むしろ西洋的な名前のない怪物の系譜に属しているようだ。
それに対し、日本の怪獣は、おそらく土着のお化けとか妖怪の延長なのだろう。ある程度なら意思の疎通もできるし、それなりにルールに従った動きをする生き物である(ウルトラマンからのプロレスの誘いに乗ってくれるし)。生き物であると同時に、ピグモンみたいな人間の友達でもあるし、ゴジラやモスラのように神として崇拝されていることもある。この変幻自在さは、まさに妖怪である。これは、アニミズムの伝統のないアメリカ人にはなかなか理解できまい。
確かに人類が初めて遭遇するようなモンスターに名前がついているなんておかしいのはわかるんだけど、それでもやっぱり怪獣好きとしては、名前があった方が燃えるんだけどなあ(笑)。
(もちろん、アメリカモンスターにも名前のついているのはいるわけで、例外もあることくらい承知しているので、あんまり突っ込みを入れないように)
10月24日(土)
『マスク・オブ・ゾロ』を観る。うーん、期待していたのとはちょっと違うなあ。ホプキンスとバンデラスの両方を等分に描こうとするあまり、結局、どちらの描き方も中途半端。ゾロというと民衆の味方で、どこからともなく颯爽と現れて権力者と戦い、人々の歓呼の声に送られて去っていくというイメージがあるのだけれど、そのイメージ通りなのは冒頭の初代ゾロが活躍するシークエンスのみ。そのあとは、初代も二代目も、ひたすら肉親を殺された私怨のために戦うだけなのだ。初代ゾロも「個人的な憎しみは敵だ」などと言っていたくせになあ。
それに、悪役もそれほど悪いことをしているようには思えないのだよなあ。歴史的背景がよくわからないのだが、カリフォルニア独立を画策するって、そんなに悪いことか? それに、初代の娘も、ちゃんと自分の娘として立派に育て上げているし、初代ゾロの妻を殺したのも、単なる部下のミスだし。これではとても殺すほどの悪党とは思えず、ラストにも爽快感がまったく感じられない。
これは最近のアクション映画に共通することだけど、火薬の量に頼って、やたらと爆発シーンばかりが目立つ演出もいただけない。これはゾロなんだから、やっぱり華麗な剣劇を見せる映画でなくちゃ。いっそのこと、初代から二代目への代替わりという要素をまったくなくして、バンデラスが縦横無尽に活躍する古風な剣劇映画にした方がよかったんじゃないかなあ。監督がロバート・ロドリゲスだったらなおよし。
もう一本観た
『ザ・グリード』は、客の入りは悪かったけれど、『ゾロ』よりもはるかに面白い。
SFオンラインで絶賛されていたとおりの、傑作B級モンスター映画。テンポよくたたみかけるような演出は心地よいし、怪物の造形はいかにもCGIだけど海生生物のぬめぬめ感はよく出ている。後半で出てくる全体像は、日本人にとっては「刺身にして喰ったら美味いだろうな」というようなもので、怖さはそれほど感じられないのだけれど。しかし、本作で何よりも魅力的なのはキャラクターの描き方。ユーモア漂う会話やキャラのからませ方がうまくて、特にファムケ・ヤンセン演じる女泥棒トリリアンと、ケヴィン・オコナー演じるパントゥッチのキャラクターは絶妙。これからアクション・ホラーを書こうという人には、大いに参考になりますね。脚本・監督のスティーヴン・ソマーズは、この分野ではまったくの無名だけど、次回作「The Mummy」も期待できそうだ。
「90分で3000人、喰って喰って喰いまくれ」というやりたい放題のコピーは、いかにも東宝東和で微笑ましいんだけど、この映画の面白さを充分伝えているとはいいがたい。もっと多くの人に観てもらいたい映画である。
10月23日(金)
新潟の病院に勤めていた頃には、老人病棟が併設されていたため、当直中に患者さんの死亡確認をしなければならないことも多かった(今の病院に移ってからは、内科の医者も一緒に当直しているため、そういう仕事はしなくてもよくなった)。
さて、初めて死亡の診断をしなければならなくなった夜のことだ。夜中で電話で起こされ、いったいどうしたらいいのかとほとんどパニック状態になったまま病棟に着いてみると、もうベッドの周りには家族が集まっている。当然ながら、みんな沈鬱な表情である。心電図を見るともうフラット。もうダメだろうな、と思いつつも家族に注目されたまま心臓マッサージをしてみると、少しだけ反応で波が戻るものの、またすぐにフラットになってしまう。やはりもう亡くなっている。あー、次は何をすればいいんだ。そう、聴診だな、聴診。看護婦さんから聴診器を受け取り、胸に当てると、当然ながら心音も呼吸音も聞こえない。今度はどうすればいいんだ、とまごまごしていると、看護婦さんがすっとペンライトを手渡してくれた。おお、気が利くぜ。そうそう、対光反射を見なければ。まぶたを開けて光を当て、瞳孔が収縮しないのを確認し、そしておもむろに家族と目を合わせ、私は言葉に詰まってしまった。
こんなとき、医者はいったいどうすればいいのだろう。他の医者が死亡の告知をした場面に立ち会ったことなどないので、参考になるものはひとつしかない。そう、テレビドラマである。私は、必死にドラマを思い出し、さすがに「ご臨終です」はなんだかベタで恥ずかしい気がしたので(そういう問題か)、真剣な顔を作りながら「お亡くなりになりました」と告げたのであった。
すると、「ありがとうございました」と私に頭を下げ、泣き崩れる家族。「お父さん」とすがりつく女性もいる。そんな中で私は、自分は人の死という場に立ち会ったのだという感慨にふけりつつも、なんだか奇妙なほど現実感を感じられなかった。私はドラマで何度も見た光景を「演技」していたのだから。
でも、そのあとでちゃんと死亡診断書も書いたし、私が「お亡くなりになりました」と告げた日時が、死亡時間として公式に記録される。フィクションを演じているようでいて、進行しているのはまぎれもない現実なのであった。
私は医者もののドラマはあんまり好きではないし、見るたびに「現実とは全然違う」とかいって笑っているのだが、実は笑っている側の私も、否応なくドラマに影響され、ドラマを参考に現実を演じてしまっている。フィクションの魔力とは、たぶんそんなものだ。
フィクションは現実をモデルにして制作され、そして現実はそのフィクションに引きずられて変質していく。
家族はホームドラマに影響され、政治家は連日のように政治家の汚職を報道するニュース番組に影響され、料理人は「料理の鉄人」に影響され、婦警さんはミニスカポリスに影響され(おいおい)、そんなふうにして現実は変貌していく。
犯人を逮捕するときの刑事は、かつて見ていた刑事ドラマの名逮捕シーンを思い出さずにいることは難しいんじゃないかな。私が死亡を告げるときに否応なくドラマに影響されてしまったように。
現実とフィクションの相互侵食関係が、最も極端に現れているのが恋愛の分野でしょうね。ドラマやマンガで何度となく語られているフィクション上の恋愛をまったくなぞらずに恋愛をするのは、もはや不可能といってもいい。今じゃ、恋愛はもう完全にフィクションに侵犯されてしまった。それはすでに一度語られてしまったフィクションの再生にすぎないのだ。
最近いろんなところで話題の
理系の男たちは、少なくとも恋愛に関しては、フィクションに侵食されている度合いが比較的少ないといえるんじゃないかな。私も含めて「理系の男たち」は、すでに一度語られてしまったフィクションをリプレイすることにあんまり興味が持てない人たちなんです。
10月22日(木)
病院の帰りに古本屋に寄って、
普段は行かない写真集やアダルト本のコーナーに
たまたま立ち寄ってみたところ、なんだか奇妙な写真集が置いてあるのを見つけた。
「飯島直子写真集」
とあるからには、飯島直子の写真集なのだろう。確かに表紙は悩ましげにこちらを見つめる飯島直子の水着姿である。しかし、ソフトカバーで異様に安っぽい装丁の本だし、表紙の写真も妙に粒子が荒い。まるでカラーコピーのようである。
よく見ると、写真の上には小さな文字で詩のような文章がかぶさっている。写真集にはよくありますね、こういう謎の詩。「ねぇこんな私を/あなたは何色に染めてくれますか」とかいうの(笑)(ちなみにこれは
たまたま家にあった越智静香写真集から引用)。いったい誰が読んでるのか不思議で仕方ないんだけど。
さてこの写真集の表紙を飾っている悩ましげな飯島直子の上に書かれていた文章は、こうだ。
「白いノートが真っ黒に/ピカピカの一年生が/マルを書いたりバツを書いたり」
なんだこれは。さらに、その下にはこんなことも書いてある。
「熱写・西暦2000年突破記念」
突破してないだろうが。
不思議に思って表紙をもう一度見なおすと、下の方にはゴシック体で大きくこう書いてあったではないか。
NAOKO EEGIMA
なるほど、これは飯島直子ではなく「ええぎまなおこ」の写真集だったらしい(笑)。
要するに、これはたぶん、香港とか台湾とかで作られた海賊版なんだろうなあ。裏表紙には「有楽町書房(有)」って出版社名があり、「定価2800円(本体2718円)」だというのだが、こんな出版社聞いたこともないし。普通の日本の本らしく見せるために、ご丁寧にISBNまで入っているのだけど、惜しい。詰めが甘かったようだ。制作者はこれで馬脚をあらわしてしまっているのだ。
「ISBN4-88887-1054-14」
こりゃどう見てもISBNを知らない人が作った偽物としか思えない。国番号の4は正しいが、本物なら出版社番号(2番目の数字)と書籍番号(3番目)は合わせて8桁のはずだし、最後の数字はチェックサムなので1桁でなけりゃならない。
中身がどうだったかはビニールがかかっていたので確認できず。ちなみに古書価は1300円。話の種に買っておきゃよかったかな。本当に話の種くらいにしかなりそうにないけど。
今日の購入本。ジャン・ボードリヤール
『完全犯罪』(紀伊國屋書店)は、誰でも感じているようなことを、カッコいい言葉で表現してくれるという芸風が割りと好み。それから、K・W・ジーター
『垂直世界の戦士』(ハヤカワ文庫SF)。
10月21日(水)
冬樹蛉さんが日記でヘンな歌詞について書いているが、それで思い出した曲がある。井上陽水の
「リバーサイド・ホテル」である。曲だけ聴けば一見おしゃれな歌のようなのだが、この詞は相当ヘンだ。
まず、唄い出しの
「誰も知らない夜明けが明けた時」がひっかかる。「夜が明ける」ならわかるけど「夜明けが明ける」って、そりゃ表現が重複してるのでは? そして、2番になるといきなりこんな歌詞がある。
「部屋のドアは金属のメタルで」。「金属のメタル」って何だ。金属じゃないメタルがあったら見てみたいものだ。きわめつけは最後のサビの部分。陽水は
「川沿いリバーサイド」と歌い上げるのである。そりゃ確かに川沿いはリバーサイドだけど、訳してどうしますか。
というように、この曲には全編に「馬から落馬」みたいな言葉遣いがあふれているのだけど、だからといって、私はこういうところをあげつらって井上陽水を笑おうとしているわけではない。
こんなヘナヘナな歌詞は、いくら下手な作詞家でもなかなか書けるものではないというのに、ましてや井上陽水である。これは、井上陽水がわざとヘナヘナ感を狙って書いた詞だと考えるのが妥当なんじゃないだろうか。だから、この曲をおしゃれでアンニュイな歌だと思うのは間違いで、実はそういった見た目だけのおしゃれさを笑い飛ばすために書いたコミックソングだと主張したいのだが……賛同してくれる人は少なそうだな。
東京ファンタスティック映画祭のチケットを入手したぜ。
入手したのは11月2日の、『ダークシティ』、伊藤潤二原作の『富江』などホラー映画のオールナイトと、6日の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ・アンド・アメリカ』(なんとかならんのか、この長ったらしいタイトル)と『ブラック・マスク/黒侠』のジェット・リー2本立て。今年はインド映画に押されて、香港映画が少ないのがつまらんなあ。
『ヤジャマン 踊るマハラジャ2』(1993)なる映画も公開されるのだが、『踊るマハラジャ』(1995)より制作年度が古いのに「2」というのはいくらなんでもどうかと思うんだがな。