1月10日(日)
六本木シネ・ヴィヴァンで
『なぞの転校生』を観る。監督の小中和哉は、今関あきよしと並び少女が主人公のSFものを得意とする監督。というより、今では小中千昭の弟、といった方が通りがいいかもなあ。脚本は『PERFECT BLUE』の村井さだゆき。私としては、音楽が葛生千夏なのがうれしかった。
映画は、転校生がやってくるところ以外は原作とは全然別物で、主人公と転校生を両方とも少女にしてあるし(新山千春と佐藤康恵)、後半になるとなんだか眉村卓というよりディックを思わせる、いくつもの並行世界が融合して混沌としていく物語になっていく。まさかそういう話になるとは思わなかったので、けっこう楽しめたのだけれど、よく考えてみれば、脚本はかなり破綻している。
たとえば、主人公は、冒頭では世界を憎み、自分を憎んでいるイヤな少女(いかにも「エヴァ」後という感じですな)として登場するのだけれど、この性格づけはその後の展開ではほとんど無視されてしまっている。
主人公をイヤな女の子にするのなら、前半ではだんだんと転校生に心を開いていく様子を描くべきだと思うんだが、映画からは主人公の内面の変化が全然伝わってこない。図書室がCGで花畑になってしまうシーンは明らかに『乙女の祈り』の引用なんだけど、この映画の女の子二人は、あの映画のように濃厚な関係になるわけでもなく、ごくごくあっさりとしたつきあいにしか見えないのだ。
だから、後半で主人公が自分の世界を離れ、転校生と別れる決断をする場面にも全然共感できない。なぜ泣いているのかさっぱりわからないのだ。主人公を最初から観客が思わず引いてしまうほどイヤな性格にする意味は、まったくなかったと思うんですけど。
アイドル映画としてみても、画面の粒子が粗くて妙にざらついているのでかわいさ半減である。もっとクリアな映像にすればよかったのに、なんでこういう画像にしたんだろう。
ちなみに私がいちばん気になったのは、精神病院の描写のひどさ。これではまるで牢獄である。いくら異世界の病院だからといって、これはあまりにもひどすぎる。こういう紋切り型のイメージが偏見を助長するんだってば。最近の映画やテレビでは、病院の描写はそこそこリアルになってきているのに、精神病院の描写だけはいつまでたっても旧態依然なのには嫌になる(評判のいい『CURE』も精神病院の場面はひどいものだった)。
それから、図書室の本で押し花作るなよ。少なくともティッシュくらい敷けよ。ページに汁がつくだろうが。そんなことするやつは図書室に入る資格なしだ。
5点満点で☆☆☆(今年から点数をつけることにしてみた)。
1月9日(土)
うーむ、伝言ダイヤル事件の容疑者は、やっぱり薬を神経科の病院から入手してましたか。でも、普通の不眠症だったら、トリアゾラム(ハルシオン)は処方してもレボメプロマジンはまず出さないと思うんだけどなあ。確かに強力な催眠作用はあるけど、レボメプロマジンは抗精神病薬。普通は、そう簡単には処方しない薬なのだ。なんでこの容疑者にこの薬が処方されてしまったのか、ちょっと不思議である。
しかし、こういう事件があると、今後はますます外来診療が難しくなるなあ。薬を処方する前に、まず相手が薬を悪用しないかどうか疑わねばならないのか。もちろん患者の言うことをすべて信じるほど私もナイーヴではないけれど、正直言って、悪用の可能性はほとんど考えていなかった。それに、「眠れない」といって外来を訪れる患者さんが、本当に眠れずに苦しんでいる人なのか、それとも眠れないことを装って薬を手に入れようとしているだけなのか見分けることは、たった1回の診察ではまず無理だ。
この事件は伝言ダイヤルとか薬物汚染とかいった方面から語られがちだけど、精神科医にも難問をつきつけているのだ。
事件については、相変わらず匿名でのコミュニケーションの不気味さをやたらと強調した報道が続いている。やれやれ。これじゃ警察の思う壺ではないか。
「今の若いものは」的に社会の変化を批判するのはとても簡単だし保守派の共感を得やすいけれど、それだけじゃあまりにも安易。今必要なのは、価値判断を伴わない論理的な考察でしょう。
ネットの文章では、森下一仁先生の
1月8日の日記が、被害者側の心理について説得力のある考察を展開していて参考になりました。
もひとつ。容疑者を殺人罪で起訴しようとしているようだけど、眠った人を野外に放置しておいたら凍死してしまう、というのは果たして自明なのだろうか。少なくとも私としては、この容疑者の「死ぬとは思わなかった」という言葉も自然なものだと思う。大学時代に教科書として使っていた石山いく夫(いくは「日」の下に「立」)『法医学ノート』(サイエンス社)という本(当然ながら石山先生の講義だったのだ)によれば、
人間は寒さに対してはかなり抵抗性があり温暖地方では凍死例はまれであるが、アルコールや薬物中毒の場合には凍死をおこしやすい。こんな場合、必ずしも摂氏〇度以下に気温が低下しているとは限らぬ。たとえば夜間の温度が最低摂氏八度くらいの暖かい季節でもアルコール酩酊者は凍死に陥ることがある。(略)さらに、重篤な薬物中毒(睡眠剤)の患者を保温をせずに放置しておくと夏でも直腸内温度が摂氏二八度以下に低下する傾向にむかう。
とあるんだけど、これは果たして「常識」といえるんだろうか。雪山でもあるまいし、凍死なんかするわけがない、というのもごく自然な感覚だと思うのだけどなあ。この容疑者がひどいやつだということは認めるけど、これが殺人かどうかは、それとは別問題でしょう。
爆笑問題の太田光がヴォネガットのファンだということは前にも書いたけれど、そうすると所属事務所の「タイタン」(太田の奥さんが社長だとか)ってのはもしかして、『タイタンの妖女』からきてるのかな。それとも、これって常識ですか。
1月8日(金)
おやおやニュースはインターネット関係の犯罪ばかり。出来事がふたつ続いただけでは偶然だけど、3つ続けば陰謀、とかいう台詞が何かの小説だか映画だかにあったような気がするが、この台詞が正しいなら、これは明らかに
「陰謀」ですな。
「インターネットを通じて買ったクロロホルムを使い、女性会社員に乱暴しようとしていた男が、警視庁に強姦未遂容疑で逮捕されていた」なんて記事は、よく読むと昨年10月29日に逮捕され、すでに起訴されている事件ではないか。記事は、売った人物について警視庁が毒物及び劇物取締法違反(無登録販売)の疑いで捜査を始めた、というもの。あえて今日記事にする理由といったら、ひとつしか見当たらないような気がするんだが。
「インターネットで宣伝して全国から馬券の購入代行の注文を取り、実際には馬券を買わずに代金を着服したうえ、自分が胴元となって客に配当していた」っていう事件は容疑者が警視庁に今日逮捕されたものだけど、これもたまたま逮捕日が今日になったとはとうてい思えないしなあ。
こういう記事ってのは、警察の発表を元にしたものだろうから、これはつまり警察側が発表日を合わせたっていうことなんだろう。そんなことをする理由はひとつ。警察が、インターネットは危険だという世論を喚起しようとしているとしか考えられない。こりゃ本当に始まろうとしているのかな、インターネット規制への動きが。だんだんきな臭くなってきたな。
さらによく読むと、今日は薬物関係の記事もやたらと多いですな。
「睡眠薬を飲ませて眠らせたすきに現金などを奪った女子高生らが昏酔強盗の疑いで逮捕された」、という記事。これはよく見ると昨年8月28日に起きた事件。
「慶応大病院から向精神薬を盗もうとしたとして窃盗未遂の疑いで逮捕された住所不定、28歳の元精神科医」の記事もある。この容疑者、以前にも元の勤務先から向精神薬を盗んだとして逮捕、起訴されて、現在公判中だそうな。この記事でも、窃盗未遂事件が起きたのは昨年8月7日(どうでもいいが、あまりにも情けないぞ、この元精神科医)。
みんなたまたま今日逮捕された、という可能性もないではないけど、これだけ並ぶとやはり意図があるように勘ぐってしまう私は、陰謀史観に毒されてしまっているでしょうかね。
でもなあ、たとえ陰謀にしてもこんなあからさまでいいのかなあ。密やかに進行するからこその陰謀でしょうが。こんなにたくさんいっぺんに並んでいてはあまりにも不自然とは思わなかったのかな。
西澤保彦
『念力密室!』(講談社ノベルス)、西野哲朗
『中国人郵便配達問題=コンピュータサイエンス最大の難関』(講談社選書メチエ)(タイトルが長いわい)、キンバリー・ヤング
『インターネット中毒』(毎日新聞社)購入。
1月7日(木)
マツモトキヨシのCM、以前は男のベッドで目を覚ました女の子が「全然覚えてないんです」と言っていたはずだが、いつのまにか「彼氏と喧嘩した」バージョンになっている。続編かと思ったのだが「やっぱりここか、忘れ物」と男が傘を差し出すあたりのシーンが前と寸分たがわぬほど一緒だし、何より前バージョンに比べて全然面白くない。うーん、これは、最初のバージョンは抗議があったってことでしょうかね。「不謹慎」だとでもいうのかな。別にかまわんと思うんだけど。
伝言ダイヤル連続殺人の犯人はあっけなく捕まってしまいましたが。
この事件、去年のドクター・キリコ事件と並べて「現代の世相を反映した犯罪」、などと書いていた新聞があったけど、どこがじゃ。伝言ダイヤルなんてはるか昔(というほどでもないか)からあっただろうが。こんなのは単なる昏睡強盗であって、新しいタイプの犯罪でもなんでもないではないか。
だいたい、
『神の狩人』をはじめ、山ほどあるサイバー・シリアルキラーものに食傷気味な身にとっては、こんなの騒ぐ価値もないほどローテクでちんけな犯罪だと思うんだけどな。目新しいメディア(それも、単に記事を書いた人間にとって新しく見えたにすぎないだろう)が犯
罪に使われたからといって、それだけで危険物扱いされちゃたまらんわなあ。
伝言ダイヤルとかそんな上っ面よりよっぽど問題なのは、私の商売道具である向精神薬が裏で流れていて犯罪に使われていることの方だと思うんだけど。重要なのは伝言ダイヤルとかインターネットを叩くことじゃなくて、こっちの実態を解明することでしょ。それと、ドクター・キリコが500グラムもの青酸カリを簡単に薬局で買えてしまってるのも問題だと思うんだけどなあ(しかもたったの2000円とは。そんなに安かったんかい)。あれは、身分証明書さえ提示すれば簡単に買えるものだったのか。
田中哲弥
『やみなべの陰謀』(電撃文庫)購入。
1月6日(水)
正月をはさんでなんだかすっかり過去の事件になってしまったような気もしないでもないが、私は相変わらずドクター・キリコの事件について考えている。これは、インターネットと精神医学の両方に関わっている私にとって、とても重要な事件だと思うからだ。
今考えているのは、この事件はいくつかの問題にわけて考える必要があるということ。ざっと思いつくままに挙げてみると、(1)ネット上における「癒し系」「鬱系」などと呼ばれるコミュニティの存在。(2)自殺志願者に対する青酸の販売。(3)そうした情報がインターネットの普及により手に入れやすくなったこと。それから、(4)自殺の是非ってところかな。
(4)については
昨年の12月28日にすでに述べた。(2)は明確に法律違反である上、倫理的にも許されないことだと私は思うけど、(3)は、ネットを利用する便利さ快適さの代償として、私たちがつきあっていかなければならないリスクだと思う。
最後は(1)ということになるけれど、これは他の項目のような「問題」ではないかもしれない。同じ苦しみを持つ人たちが集まる場が存在するということは、とても有意義なことだと思う。こういう場を作ることは、以前ならなかなかできなかったはずだが、インターネットの普及によってできるようになったということは、すばらしいことだと思う。ネットによって癒されている人もかなりの数にのぼるんじゃないだろうか。
余談だけど、ネット上の日記や掲示板に「鬱系」が多くて「分裂病系」があまり見当たらないのは、それぞれの病気の特徴をよく反映していると思う。うつ病ってのは他者との関わりを切実に必要としている病気であるのに対して、分裂病というのはひたすら自己の内へと閉じこもうとするベクトルのある病気なのですね。
問題があるとすれば、そういったサイトには専門医がまったく関わっていないし、そもそもそういったサイトの存在について大半の精神科医は全然知らないということ。まあ、サイトの管理者には自分の病気について正確な理解を深めようとしている方が多いようなので、掲示板でも誤った知識に対する自浄作用はあると思うけれど、今回の事件のように、まったく的外れの知識が流通していくことも起こらないとはいえない。
私はというと、ネット上のそういうサイトは何度か見に行ったことがあるくらいだけど、実のところそれほど興味も持てないし、あまりそういうサイトに関わろうとは思っていない。見ていてつらくなるというのがひとつ。もうひとつは、そこに精神科医として関わることは、私にとってかなりの負担になるだろうから。
それに、私としては、ネットでのやりとりには、私が病院で治療しているときのようには責任を持つことはできない。私には病院から給料が支払われており、その対価として私は技術と責任を提供しているわけだ。責任を持つことができない以上、サービスを提供するわけにはいかない。誤解を恐れずにいうならば「報酬のない仕事はできない」ということ。あ、ここだけ引用しないでね。誤読を招くから。
というわけで、癒し系のサイトについては、精神科医のまったく知らないところでコミュニティが形成されていることに若干の不安を感じるのだけれど、これは悪しき父権主義なのかな。とにかく、私としては積極的に関わろうとする意欲もヒマもございません。あしからず。
芳林堂コミックプラザで桜玉吉
『幽玄漫玉日記』、吉田戦車
『一生懸命機械』、永野のりこ
『電波オデッセイ』3巻を購入。『ちいさなのんちゃん』はなかったので探さなくちゃ。それから内藤泰弘
『トライガン』『トライガン・マキシマム』を5冊まとめて買ってしまった。
1月5日(火)
仕事始め、と思ったら今日はいきなり当直ではないか。すっかり忘れていたので何の準備もせずに来てしまったぜ。仕方ない、服のまま寝るか。
服のまま寝ながら川端裕人
『夏のロケット』(文藝春秋)を読む。子供の頃に夢見た火星が忘れられない主人公たちが、個人でロケットを作り上げて宇宙を目指す物語。登場人物がかなり現実離れしていておとぎばなし風なところとか、盛り上がりに欠ける一本調子なストーリーなど、かなりぎこちないところも目立つけれど、それでも宇宙を夢見て育った私のような世代にとっては、心の琴線をぐいぐいと刺激する本である。手放しで絶賛するつもりにはなれないが、どうしても冷静に、純粋な小説としての評価を下せない作品。この感覚、世代が違うとまったく理解してもらえないと思うけど。
この本を読んですぐに思い出したのは、ちょっとあとに出た岡田斗司夫の
『二十世紀の最後の夜に』。この2冊に共通していて、私もまた共有している(
1月1日の日記参照)感覚は、来なかった未来へのノスタルジー、あるいは喪失感。岡田斗司夫の本から引用すれば、こういうことだ。
「いよいよ明日から二十一世紀だというのに、ちっとも未来が来た気がしない。子供のころは『未来』と聞いただけでわくわくしたのに」
今、確かに私たちはあの頃夢見た未来にいる。それなのに……。この感覚は、おそらく岡田斗司夫あたりを上限として、私くらいを下限とする世代(つまりはだいたい30代ってことになりますね)に共通しているはず。
あの未来はいったいどこへ行ってしまったんだろう。これから2000年を迎え、21世紀になり、幼い日の未来図と現実とのきしみがさらに激しくなるにつれ、「現実への異議申し立て」とでもいうべきこうした作品が、小説に限らずあらゆるメディアでますます増えてくると思う。1998年に出たこの2冊は、そのほぼ最初の作品として記憶されることになるかもしえない。
そしてさらに、必ず、夢想を現実化しようとする人が現れる。
ロケット製作とか都市計画くらいならまだいいけれど、もっと過激な形で「異議申し立て」をする連中も出てくるような気がする。例えば犯罪とか(70年代超能力SFの再現みたいだったオウム事件はその先触れかも)。
それは、これは認めるのがつらいことだけれど、私たちのこの「来なかった未来」への思い入れというのは、前の世代が信じたがっている「自由主義史観」なる代物と基本的にはそれほどかわりはないように思える。どちらも、ノスタルジーへの固執であり、現実の否定なのだ。事実よりも誇りを重視し、従軍慰安婦をやっきになって否定する人たちを、私などは冷ややかに見つめてきたものだけれど、それと同じように、今度は私たちの方が、「未来」なんぞになんの思い入れもない世代から冷笑される番が来るはずだ(それとも、もう来ているか)。
実はこれとおんなじようなことを、あの宮台真司も言っている。宮台真司によれば、私たちの世代のそんな思い入れがオウム真理教事件を引き起こした原因であり、有害な幻想にすぎないのだそうだ。そして、援交少女たちを見習って「終わりなき日常を生きろ」などと言っているのだけれど、これはさすがに私は極論だと思う。
幻想を捨てるといわれても、そんなことは無理である。そもそも人間はファンタジーなしでは生きていけない。自由主義史観はオヤジを癒すファンタジーであって、ありえたかもしれない21世紀を夢見るのは、30代のファンタジー。少女たちだって、別にありのままの現実を生きているのではなく、彼らのファンタジーを生きているにすぎない。
ファンタジーを持つのはいい。それは人生を豊かにしてくれる。必要なのは、ファンタジーはあくまでファンタジーであるということを自覚していること。自分のファンタジーを相対化すること。思わず信じたくなってしまうファンタジーにからめとられないこと。
それが、21世紀を生き抜くための知恵だ。
なんて偉そうなこと書いてみたりして。まあ正月と思って許してくださいな。
1月4日(月)
あけましておめでとうございます。
無事山口から帰ってきて、今日から日記を再開、というつもりでいたのだけれど、ふいに妻がとんでもないことを言い出した。
「休み中の日記は書かないの? ハウステンボスの話とか、楽しみにしていたんだけど」
いや、それはいくらなんでもなあ。正月くらい、日記を休みにしてもいいではないか。そう思ったのだが、確かに書きたいこともないではないので、結局正月分の日記も書くことにしてしまった。そうすると去年の12月30日、31日の日記も書かねばならんなあ。
というわけで、今日はなんと6日分の日記を書くことになってしまった。馬鹿?
休み中に届いたアンケートの回答も集計して、
「黄色/緑色の救急車」ページも更新。今回の新情報は、なんといっても茨城から「青い救急車」説が届いたこと。茨城方面の方、情報を求む。
1月3日(日)
午前中はハウステンボスですごしてから、午後は少し足を伸ばしてバイオパークという動物園にでも行くか、と思っていた道中で発見したのが
「七ツ釜鍾乳洞」の看板。我々「洞窟探検隊」としてはこれを見過ごすわけにはいかない。急遽目的地を変更して西海町にある
七ツ釜鍾乳洞へ向かう。お忘れの方も多いだろうが、私と妻は「洞窟探検隊」(隊員2名)を組織し、日本全国の洞窟を巡ることをその使命としているのである。
この鍾乳洞は総延長1500メートル以上、観光洞は250メートル程度。長さはまあまあですね。ただ、鍾乳石や石筍もほとんどないし、壁面も黒ずんでいて洞窟美はさほどでもないのだが、それを補って余りあるのが洞内の狭さ。ほとんどの場所で腰をかがめて歩かなければならない上、ところによっては体を斜めにして進む必要があって、ちょっとした探検気分を味わえる。
そして、鍾乳洞のすぐ横には
西海楽園 いのりの里なる、あからさまに怪しいたたずまいの施設が。石灰石でできた奇岩がごろごろした山の上には、なんと金ピカの巨大な観音像が燦然と輝いていて、宗教臭さ芬々。怪しい。怪しすぎる。思わずわくわくしてくる私である(笑)。
一応テーマパーク(?)らしいのだが、ハウステンボスとは雲泥の差で、正月だというのに、客の姿もほとんど見えない寂れきった雰囲気。入り口脇の建物には、なぜかアーケードゲームがいくつも置いてあって、そこで熱心にゲームをしている若者たちの姿が見える(西海楽園ではなくこれ目当てに来た地元の青年なんだろうなあ)。
時間もあまりなかったし、妻の母親が「気持ち悪い」といやがるので結局行かなかったが、勇気を出して入ってみた人の報告によると
こういうところらしい。なんと、観光ホテルのオーナーが作った宗教テーマパークとは。なかなかキッチュでスバラシイところではないか。こりゃ行っとけばよかったかなあ。こんなとこ、もう二度と行くこともないだろうし。
最後に、突然だけど私がこれまで行った鍾乳洞のランキングを(5点満点)。
1月2日(土)
今日は妻と、妻のご両親と一緒に長崎のハウステンボスに向かう。
まずは基本的な知識。私は、オランダ村の別名をハウステンボスというのだとばかり思っていたのだが、「ハウステンボス」と「長崎オランダ村」は、別物である(ただし経営者は同じらしい)。ハウステンボスから海をはさんで船で40分のところにあるのが長崎オランダ村。なんでまた似たような施設を2ヶ所に作ったのかは謎。
ハウステンボスは、小さな店からホテルに至るまですべてがオランダ風。さすがに細部に至るまでよく作りこまれていて、まるでヨーロッパにいるかのようで、なかなかいい雰囲気を出している。ただし歩いているのはすべて日本人だし、建物の向こうに見える山の植物相はどうしようもなく日本風なんだけど。
建物の中には、テーマパークらしくアトラクションがあったりするのだが、これははっきりいって大人が楽しむにはちょっとつらい代物。まるっきり、ちゃちなディズニーランドなのだ。ハウステンボスである必然性まるでなし。しかも、中途半端に説教臭くて(水を大切にしろとか)、ディズニーランドのようにエンターテインメントに徹していないのでトホホ感倍増。まあ、SF者にとっちゃ「おお、『ノアの劇場』のSFX担当はリチャード・エドランドか!」とかそういう楽しみ方もできるが。
夜のイベントも、大半はまあひまつぶしにはなるかな、という程度。ただ、冨田勲の音楽による「サウンドギャラクシー」なるイベントはけっこう楽しめました。音源の移動により、存在しない音楽隊のパレードを出現させてしまう荒業には驚いた。遠くから響いてくる懐かしい音楽。どこにもいないのに、たしかに聞こえるパレードのざわめき。それが徐々に近づいてきて、最後には周囲全体から大合唱が響き渡る。反エレクトリカル・パレードとでもいいますか。これはなかなかのアイディア。
まあしかし、ここではそういうアトラクションはただの飾りで、オランダ風な風景とか全体の雰囲気を楽しむのが正解でしょう。ハウステンボスというのは単なるテーマパークかと思っていたのだが、周囲には高級別荘地(当然オランダ風)があったりして、どうやら将来的には入園料を無料にしてひとつの生きた街にするという壮大な計画があるらしい。まあ、経営が軌道に乗ればの話だが。
しかし、確かにオランダそっくりなんだけど、再現度が高ければ高いほどかえってそこはかとない偽物感が漂うのは否めない。確かにすごい建物だ、うまく作ってあるなあ、とは思うのだけど、感動は全然ないのですね。ここにあるのは、あくまでオランダの偽物にすぎないのだ、当然のことながら。
この偽オランダに欠けているのは、私好みの言葉でいえば「物語」、要するに「歴史の重み」とでもいう代物だ。本物のオランダの宮殿が幾多の物語を背負っているのに対し、ここにあるのは何の物語もないただの建物にすぎない。この偽物っぽい街が本物の街になるためには、固有の物語を持つしかないでしょう。オランダの宮殿そっくりに作ったとか、そういう借り物の物語ではない、この街自体の物語を。
そのときようやくこの街は本物になるはずだ。
1月1日(金)
1999年1月1日。
ついに1999年になってしまった。1999年といえば、(別に信じてはいないものの)例の予言の年だし、月が地球を離れてどっかへ飛んでってしまう年。そのほかにもいろいろ楽しいイベントがもりだくさんだったはず。
子供のころには、1999年といえばはるか先、とても考えられないほどの未来のはずだった。人々は銀色のスーツを着ていなきゃならないし、都市では当然エアカーがチューブの中を走り抜けていなければならない。ロボットは人間と共存してなくちゃいけないし、宇宙人との遭遇はまだにしても、少なくとも月にはドーム都市のひとつやふたつなくっちゃ。
おかしいなあ。1999年ってのはそういう時代だったはずなんだけどなあ。こんなはずじゃなかったんだけどなあ。いったいどこで間違えたんだろう。
あの未来は、いったいどこへ行ってしまったんだろう。