12月20日(日)
妻の観たがっていた
『ぼくのバラ色の人生』を観に渋谷へ。「女の子になって隣の男の子と結婚したい」と願う男の子が騒動を巻き起こし、地域社会から迫害を受けるというフランス映画(とはいってもコメディタッチでそんなに重苦しい話ではない)。男の子の憧れるバービーみたいな人形の世界がデジタル合成で描かれているのが、なんともキッチュでいい味を出している。『乙女の祈り』と『シザーハンズ』を足して二で割ったような話だけど、私としては今一つのめりこめなかったのは、先の二つの映画にあったグロテスクさも悲劇性もなかったためかも。
物語は何一つ結論を出さないまま終わるという『もののけ姫』流のエンディングだけど、これは結論の出しようのない問題だから仕方がない。ハリウッド映画のように無理やりハッピーエンドをつけてしまうよりは、ずっと良心的というものだ。
特に興味深かったのは、性倒錯に対する日本とフランスの態度の違い。男の子に対する父親や隣人の激昂ぶり(「悪魔」とか「地獄に落ちる」とか罵られるのだ)は、日本人にとってはあまりにも過剰に見えるし、その一方で両親は、男の子が精神科医に診てもらっていることを簡単に近所の人に話してしまう。日本だったらこれは逆だろう。スカートをはいたりすることはちょっと変わった子どもとして許容されるだろうけど、精神科医にかかっているということはおそらく誰にも言えまい。
学校で「自分の宝物を持ってきて」と先生に言われた生徒のほとんどがゲームボーイを持ってきていたのにも驚いたな。ニンテンドーおそるべし。
しかし、こういう映画を観ると、ジョン・ヴァーリーが描いたように、服を着替えるように簡単に性転換ができる社会が早く来てくれないかと思いますね。
うちでは食器を洗うのは一応私の役目ということになっているのだが、ついつい翌日以降に先延ばしにしてしまい、結局妻が洗うことになってしまうことも多い。
特に外食が続いたときなど、洗っていない食器が何日も流しに積み重なっていることも。あるとき、何日も積まれたままの食器の山にうんざりした私は(内心代わりに洗って欲しくて)妻に訊いてみた。
「どうしようか、これ」
すると妻は、私に向かってニコッと笑い、
「洗えばいいと思うよ」
今さらエヴァかい。
12月19日(土)
12月17日に引き続き、精神病のステレオタイプの話をする。
今回のテーマは
電波。
狂気のイメージとして、電波はもうすっかり有名ですね。大槻ケンヂの小説とか、葉っぱのゲームとかで、電波といえばほとんど精神病のトレードマークとして扱われているけど、確かに実際「電波が聞こえる」とか「電波で操られている」と訴える患者はけっこういるものである。専門用語として「電波体験」という言葉もあるくらいだ。
ただ、フィクションにはよく登場する
毒電波という表現には、私は今まで一度も出会ったことがない。「いい電波」と「悪い電波」があって、両方がせめぎあっている、と話していた人がそれにいちばん近いかなあ。しかし、「毒電波」という言葉は、誰が考えたか知らないが、いかにも毒々しい病んだ精神を連想させてなかなかうまい表現だと思いますが。
ちなみに、実際の診療で患者さんに「電波、届いてる?」とか訊かれたときには、「届いてますよ」などとは答えてはいけない。妄想をより強固にすることになってしまうからだ。こういうときは「私には届いてませんねえ。あなたには届いてるんですか?」と
不思議そうに尋ねるのが正しい、と私は研修医のときに教えられたものである。確かあのゲームの正しい選択肢もこっちだったと思う(笑)。
さてこの「電波」という表現、いつごろから出現したのかというと、もちろんラジオやテレビが一般的になったころ、ということになるはず。これについては、精神神経学雑誌1978年12月号に、松沢病院の藤森英之先生が書いた
「精神分裂病における妄想主題の時代的変遷について」という論文が載っている。この論文、明治、大正、昭和のそれぞれの時代に、松沢病院とその前身である巣鴨病院に入院した2435人の分裂病患者のカルテを調べ、妄想の主題について調べたという労作。
この論文によれば、「電波」の妄想は明治大正には存在せず、出現したのは昭和初期のこと。「電波」のかわりに明治大正期に多かった表現は「電気」。まあ、明治期にはこういう系統の妄想よりも「狐憑き」みたいな憑依妄想が多かったのだけれど。時代が下るにつれて、妄想の内容もどんどん多様化していって、昭和36-40年には、「テレビ」「光線」「X線」「電子頭脳」「超音波」「空中放電」などが登場しているとのこと。テクノロジーの進歩を露骨に反映してるわけだ。
ってことは、
「イリジウムから自分に命令する声が降りそそいでくる」とか
「インターネットで世界中に自分の考えが知られる」いう妄想もそのうち出てきそうだなあ。楽しみ楽しみ(不謹慎である)。
藤森先生の分析によれば、狐の霊力も電波などのテクノロジーも、人間の眼に見えないものとしての機能を担っているけれど、狐は「聖の世界」からの使者であるのに対し、現代の機械装置はその背後に「俗」の人間がつねに存在している、とのこと。
だけど、私はこの分析には反対。機械から俗をイメージするってのは、あまりにも一面的なんじゃないだろうか。現代のテクノロジーは自律していて必ずしも背後の人間を必要とはしていない。「電波」にしても、人間が送信したというより、目に見えない世界からの通信という意味合いが強いはず。患者たちは、テクノロジーの中に聖なる世界を見ているんじゃないだろうか。
なお、この論文には、こないだ書いた「俺は○○だ!」という誇大妄想についても書いてあって、明治34-38年には全症例の13.9%に見られたのに、昭和36-40年には4.7%にまで減っているとのこと。そのうち、「自分は天皇である」という妄想は、2.9%(7例)から0.2%(1例)に減少している。価値観の多様化、権威の喪失、指導者イメージの矮小化が原因だというから、今じゃもっと減っているのだろう。どうりで見かけないわけだ。
12月18日(金)
SFセミナー準備会。今日は、
のだなのだののださんが学会ついでに来ておりました。のださんには2回も会っているのに、まさか来ているとは思わず一瞬誰だかわからなかった私である。ごめんなさい。ちょっと言い訳しておくと、私は人の顔のパターン認識がきわめて苦手なんです(精神科医にとっては非常に不利であることはいうまでもない)。それに、こないだと髪の色が違ったし。髪の色が違えば違うキャラだ! でも、のださんも2回は会っているはずの私の妻を思い出せなかったみたいなんで、おあいこですね(笑)。
誰だかわからなかった、で思い出したが(変なきっかけで思い出すなよ)、私にはぜひ浦沢直樹に描いてほしいマンガがある。『YAWARA!』の番外編。大学生になった猪熊柔は、同じ女子大生の平賀百合子と友達になる。百合子は柔に、イギリスでウィンブルドンを見に行ったときに知り合ったという海野幸を紹介し、たちまち意気投合した三人は……。
あだち充で、若松みゆきと浅倉南と古賀春奈が(ほかにもいたと思うけど思い出せないなあ)……という話でもいいな。
岡田斗司夫『二十世紀の最後の夜に』(講談社)。銀色のロケット。エアカーの飛び交う未来都市。あんなに待ち望んでいた未来がやっときたというのに、ぼくらの周りにはそんなものはどこにもない。来なかった「あのころの未来」への鎮魂歌。あのころを懐かしむというわけではなく、あのころ憧れたようにはならなかったこの時代自体への違和感を表明する、こういう本が増えているような気がする。個人的なツボにはまったので即購入。
もう一冊買ったのは、私が偏愛する監督ティム・バートンが書いた絵本
『オイスター・ボーイの憂鬱な死』(アップリンク)。ページをめくるとまず目に入るのは、「リサ・マリーに捧ぐ」のひとこと。あー、はいはい、よかったね、幸せで。しかし中身はというと、望まれぬ子ども、みにくい子ども、グロテスクな子どもたちといったテーマに対するバートンの執着があふれた作品ばかり。もう40を越えている上、世間的な成功も手にし、美しい恋人まで手に入れているというのに、なおも青年期の鬱屈した思いにこだわりつづけるバートンの執念には感動すら覚えてしまう。スーパーマンはぽしゃったみたいだけど、次の映画もはやく撮ってくれ。
妻に頼まれた
『東山紀之』(マガジンハウス)も購入。しかし、むちゃくちゃシンプルなタイトルである。
12月17日(木)
「さあ気ちがいになりなさい」だったかな。フレドリック・ブラウンの短篇に、自分がナポレオンだと信じている精神病患者が登場する話があった。阿刀田高の「ナポレオン狂」ってのもそういう話だっけ? 読んだことないんだけど。赤川次郎になるともっとすごくて、自分をダルタニアンだのホームズだのと信じている患者が活躍する連作短篇集があったなあ。あれを読んだ頃は精神科の知識はなかったからあんまり気にならなかったが、今考えるとむちゃくちゃな話である。
何が言いたいかというと、自分をナポレオン(なり他の偉人なり)だと信じる患者という、狂気のイメージのステレオタイプがあるってこと。
ところが、実際の診療では「○○に自分のことが知られている」などという被害的な妄想は多いものの、「自分は○○だ!」と主張するような患者さんはほとんどいないし、ましてやナポレオンにはとんとお目にかかったことがなかった。日本じゃ、天皇関係の妄想はあっても、ナポレオンはそれほど一般的じゃないからなあ。しかも最近じゃ天皇ものもあんまり見かけなくなっていて、多いのは芸能人関係の妄想。「松田聖子にお金をとられた」とか「hideの声が聞こえる」とかね。ま、そういう時代ということだ。
こんな状況ではもうナポレオンに会うことは無理だろう、と半ば諦めていた私なのだが、会いたい会いたいと思っていれば、いつかはかなうものである。ついに私は出会ったのである。「俺はナポレオンだ!」と主張する患者さんに!
おお、あのステレオタイプはフィクションではなかったのだ。マジで感動しましたよ、私は。「本当にナポレオンがいたとは!」と、私は興奮気味で看護婦さんや同僚の医者にも話して回ったんだけど、呆れたような顔をされたってことは、あんまり理解してもらえなかったんだろうなあ。
ただ、このナポレオンはいつでも常にナポレオンだというわけではなくて、「○○さん」と名前を呼べば「何ですか」と答えるのだけど。これは
二重見当識、あるいは(どういうわけだか)
二重簿記といって、精神分裂病の特徴のひとつ。いつもナポレオンをやってるのでは疲れてしまうし日常生活ができなくなってしまうわけで、これは妄想世界と現実世界を矛盾なく使い分けるという、いわば患者さんの知恵なのですね。
上遠野浩平『ブギーポップ・イン・ザ・ミラー「パンドラ」』(電撃文庫)読了。毎回この人の作品を読んで感心するのは凝りに凝った構成である。しかも、ミステリなどによくあるただ単に凝っているというだけの構成ではなく、作品のテーマと密接に関わった、これ以外は考えられないという構成。うまいね、相変わらず。傑作。
あー「砂漠のキツネ」と来ましたか。しかし、米英がそんな名前つけていいのか。
『月の物語』(廣済堂文庫)、山之口洋
『オルガニスト』(新潮社)、ウィリアム・ヒョーツバーグ
『ポーをめぐる殺人』(扶桑社ミステリー)購入。最後のは原題は"Nevermore"とかっこいいのに、なんでこんなタイトルにしてしまうかな、扶桑社。
12月16日(水)
いつまでかかっているんだ、と言われそうだが、今ごろようやく小野不由美
『屍鬼 下』(新潮社)読了。なんでこんなにかかったかというと、上巻が終わったところで、
以前(一月も前だよ、まったく)書いたような不満や疑問が湧きあがってきて、なんだかそのあとを読み進める意欲が全然なくなってしまったのが原因。ほかの本を読んだり面倒な原稿を書いたりしている間にちびりちびりと読んでいるうちにこんなにかかってしまった。「やめられなくて一気に読んだ」とかいう人には信じられない話だろうけど。
さて最後まで読んだ感想だけど、力作、大作であることは認めるが、傑作かといわれるとちとためらってしまう。まず気になったのは、作中にあるさまざまなギャップ。リアルな(とよく言われているが、小さな村というのをよく知らない私にはどの程度リアルなのか判断のしようがない。小村というのは、町の一部であってもこんなに外界から隔絶しているものなのか?)村に死が蔓延していく医学サスペンス風の上巻と、いきなり敏夫が「屍鬼」の存在に思い至って吸血鬼ホラーとなってしまう下巻との間にはかなりのギャップがあるように思える。
さらに、屍鬼という存在自体の中にもギャップが感じられる。下巻でもっとも印象的な解剖シーンに特徴的な医学的、科学的な存在としての屍鬼イメージと、十字架や寺をこわがり招かれないと家には入れない(一個体が招かれればあとの仲間も招かれたことになる、という理屈もよくわからない)という伝承に基づく屍鬼イメージの間にはかなりの解離があるように思えるんだけどなあ。
もうひとつ首を傾げたのは、これほどの大部の吸血鬼小説でありながら、これまでの吸血鬼ホラーなら必ず描かれていたはずのあるイメージが、徹底して排除されていること。
それは、
セックスである。これまでの多くの吸血鬼小説では、吸血行為はセックスと結びつけて描かれてきたものだが、作者は、この作品では吸血鬼をセックスの隠喩として扱うことを頑として拒んでいるように思える。たぶん、これは意図的なんだろうなあ(無自覚に描かなかったとはとても思えない)。おそらく作者の描きたかったテーマから外れていたからだと思うのだけど、吸血鬼小説の伝統を考えると、性的な要素にまったく触れないというのはかなり不自然に思えるのだが。
また、静信とか沙子とかの葛藤を読んでいて、屍鬼が人間の神を戴くのはどだい無理がある話で、屍鬼は屍鬼で別の神を戴くしかないんじゃないか、と思ったんだけど、どうも静信も沙子もキリスト教的な唯一神を信じているらしくて、そういう考え方は全然出てこない。しかし、唯一神自体人間が作ったもんだしなあ……などと考えてしまう私には、はなからこの本は向いてなかったのかも。とにかく、何一つ自分からは行動しようとしない静信にも、医師としてはかなり行動に問題のある敏夫にも、まったく感情移入できなかったのが、私が本書を楽しめなかった最大の原因だろう。少なくともどっちかに共感できてれば印象も違ってたのかもしれないなあ。
夜はビデオに撮っておいた
『20世紀ノスタルジア』を見る。ああ、なるほどこれが噂の「ニューロンばちばち!」かぁ。最初のうちは宇宙人少年の台詞のあまりの恥ずかしさと、ミュージカルシーンのあまりに下手な歌に、はっきりいって思わず目を伏せてしまいそうになってしまったけれど、そこをクリアしさえすれば、なんともいとおしい映画ではないか。なかでも広末涼子の表情の豊かさときたら絶品。普通の人には(それこそ昨日の同僚みたいな人には)とても勧めがたいけど、やっぱり私はこの映画が気に入ってしまった。20世紀と、映画と、そして広末涼子を(笑)、いとおしさのあまり抱きしめたくなるような作品である。今の広末涼子の人気を思えば、こんな映画が撮れたことはほとんど奇跡に近い。今はただ、この映画が存在するという奇跡を素直に喜びたい。
12月15日(火)
今日は当直。
薬を飲んでくれない患者さんを30分間説得したり(結局飲んでくれませんでした……)、警察からの入院依頼を断ったり(笑)、まあいつものごとくいろいろとあった夜。
特段書くこともないので、きのうの忘年会の話題でも。
忘年会の席で、同僚の精神科医と映画の話をしたのだが、どういうわけか彼の趣味は、私とはことごとく合わない。私にとってはダメダメ映画の典型である『インデペンデンス・デイ』は、彼にとっては最高に面白かった、ということになるし、『タイタニック』は5回も見て泣いたとか。『トゥルーマン・ショー』は私にはとても面白かったんだけど、彼は全然つまらなくてあくびばかりしていたんだそうだ。そして私のオールタイムベストである『バットマン・リターンズ』に至っては、「バットマン・シリーズでいちばんダメな映画」なのだそうな。ここまで趣味が正反対な人とは出会うのは初めてなので、いささかカルチャー・ショックを受け、思わず彼の趣味を皮肉ってもみたくなったが、考えてみれば彼のような人の方が一般的で、私や私の周囲の人間の方が特殊なのかもしれない。
彼がいうには、「たぶん映画の評価としては先生の見方の方が正しいんだと思いますが、大衆的なのは、ぼくの見方の方だと思いますよ」とのこと。
常識的であることを嫌悪しつつ今まで生きてきて、この歳になってようやく「常識的なものの中にもいいものはある」という当たり前の事実を認められるようになりつつある私としては、大衆という言葉を肯定的に使えるということ、何の気負いもなく常識的でいられるということに驚いてしまったのだが、そのときに私が感じたのは、決して彼への反感ではなく、むしろ「まぶしさ」とでもいうような感情である。
常識的でありたくないとあがく私のような人間と、そして
昔診た彼女のように常識的でありたいとあがく人間と、そして彼のようにてらいなく常識的であれる人間と。いちばん幸せなのはというと、それは当然最後の彼だろう。そしてそれが彼の強さでもある。私がついつい彼を否定したくなってしまうのは、いまだに私の中の天の邪鬼根性が抜けきれていないからだろう。だからといって、彼のようになりたいかと訊かれれば、「全然」と答えるしかないんだけど。
あ、もう一つあった。何の気負いもなく非常識な人間もまた、幸せというものである。
12月14日(月)
月曜のお昼は、いつも昼ご飯を食べながら製薬会社による薬剤の説明会。今日の担当者は、ひとりで説明したりOHPのシートを替えたりと忙しく働いているのだけれど、シートを替えるときもレーザーポインタをつけたままなので、光があちこち飛んでひやひやして仕方がない。目に入ったらどうしてくれる。
さて、
またも、外務省の医務官の先生がうちの病院に精神科の研修に来ている。今回は、ガーナ、モンゴル、カンボジアなどの国々で働いている先生方。もちろん私よりずっと年上で、内科、外科などそれぞれの領域ではベテランの先生ばかりなのだが、今日はこの先生方に私の診察室に入ってもらって、患者さんとの面接を見学してもらうことになってしまった。ベテランの先生に注目されながら面接をするというのはかなり気が重いのだが、そういう研修だといわれれば仕方がない。
入ってもらったのは、新入院のうつ病の患者さんとの面接。私の後ろには、ずらっと年上の先生たちが並ぶ。かなり異様な光景である。面接を終え、患者さんを送り出したあと、「何か質問はありますか」と、指導医気取りで訊いてみたところ、ある先生に「ずいぶんと間を取って話しているみたいですけど、意識してるんでしょうか」と尋ねられた。
「それは思考制止といって、うつ病に特徴的な症状で、別に意識しているわけでは……」などと説明しようと口を開いた私は、すぐに自分が思い違いをしていることに気づいた。その先生は患者さんの間の取り方について尋ねたのではなく、
私の間の取り方について尋ねたのであった。
「外科なんかだと、患者さんが黙り込むとついつい何か訊かなきゃならないような気分になるんですが、精神科では、相手がしゃべるのを待つ感じなんでしょうか」
確かにその通り。精神科の面接では相手の話を黙って聞くのが基本である。こういう面接のパターンはほとんど習い性になっているので、改めてこう訊かれるとちょっと虚をつかれたような思いであった。
そうか、他の科の医者から見ると、やっぱり精神科の面接ってのは特殊に映るのか。こりゃ、一般科と精神科ではなかなか理解しあえないはずである(笑)。
精神科では、外来の面接でも、極端な例をあげれば、
「調子はどうですか?」
「……普通です」
「よく眠れますか?」
「……はい」
と、たったふたことみこと会話を交わすだけで、あとの時間はずっとふたりで黙りこくったまま、という場合だってある。はたから見ればほとんど何も情報を得ていないし、時間的にいえば悪名高い三分間診療ということになってしまうのだろうが、それは表面的なものの見方である。精神科の面接で重要なのは、何か訊いて情報を得ることよりも、ふたりである時間を共有するということ自体なのである。まあ、デートみたいなもんだ……というとちょっと気持ち悪いが。
逆にいえば、沈黙に耐えられないようでは、いい精神科医にはなれないのである(とか偉そうに言ってみたりする)。
ま、ただ単に緊張してつっかえていたので、間を取ってるように見えただけかもしれないけど(笑)。
夜は医局の忘年会で、家に帰ったのは午前1時ごろ。
しりあがり寿
『続・髭のOL藪内笹子』、春日武彦の
『顔面考』(紀伊國屋書店)購入。春日武彦と斎藤環という二人の精神科医が、相次いで「顔」に関する論考を出版したのは興味深い。
12月13日(日)
今日はきのう観られなかった
『トゥルーマン・ショー』を新宿で観る。
『ディープ・インパクト』とか『アルマゲドン』などのようにSFとは名ばかりの映画が多い中で、きのうの『ニルヴァーナ』やこの映画のような、見事な「SF」映画が観られるのはうれしいかぎり。
何を基準に「SF」かどうか判断するかというと、それは「現実を疑う姿勢があるかないか」ということになるだろう。その意味で、周囲の人間は全部演技をしているのではないか、というきわめて分裂病的な疑いから出発するこの映画は、堂々たるSF映画である。
物語は、擬似イベントものに加え、「世界だと思っていたのが実は……」という世代宇宙船ものの風味も加わって、よくできた海外SF短篇を思わせる出来。プロデューサーとトゥルーマンは、明らかに神と人間をイメージしており、「天国への階段」や「天上の部屋("The Upper Room"ってやつですね)」など寓意的なイメージにも事欠かない。脚本のアンドリュー・ニコル(今年のもうひとつの秀作SF映画『ガタカ』の監督兼脚本家でもある)はかなりSFに精通しているんだろうなあ。
沈む夕日の上の方に満月が出ているのをトゥルーマンが眺めるシーンでは、最初「おいおい、おかしいことくらい気づけよ」と思ってしまったが、考えてみれば、生まれたときから「世界とはそういうもの」だと思っているなら、おかしいとは感じようがないですね。この世界では月は天空の一点にあって動かないのだ。
今年評価が高かった(そして個人的にも満足した)SF映画っていうと、『ガタカ』『CUBE』『ダークシティ』『トゥルーマン・ショー』といった作品が思い浮かぶのだけれど、考えてみると、これらの作品にはある共通点がある。閉塞した世界からの脱出、そして「ここではないどこか」への指向である。
確固たるものに思われる現実を疑い、「ここではないどこか」を目指すのは、かつては一部のSF者たちだけの特権的な楽しみだったはず。カタギの人たちは、そんなSF者を、現実逃避だといって白い目で見ていたものだ。『トゥルーマン・ショー』にしても、10年前なら一部に熱狂的な支持を受けるカルト映画にはなったかもしれないが、これほどヒットすることはなかったはずだ。それなのに、今じゃこういった映画が多くの人々に共感を持って迎えられているってのは、おそらく「現実のゆらぎ」を誰もが感じていることのあらわれなのだろう。
秀作SF映画が相次いで公開されていることはとてもうれしいのだけれど、それがもし世界的な閉塞感のあらわれなのだとしたら、気味が悪い気がする。『アルマゲドン』みたいなバカ映画ばかりが公開されている方が、社会としては健全なのかもしれないな。SFは一部の好事家の淫靡な楽しみで充分、と思うのだけれど、これは後ろ向きな考えでしょうか。
12月12日(土)
『ニルヴァーナ』、妻が観たいという『ぼくのバラ色の人生』、『トゥルーマン・ショー』の三本の映画を観る強行軍の予定できちんとスケジュールを組んで渋谷に向かうが、『ぼくのバラ色の人生』はすでに満席、『トゥルーマン・ショー』は買ってあった前売り券が渋谷の劇場では使えず、結局観られたのは
『ニルヴァーナ』のみ。
西洋、インド、日本、アラブなどの文化がまじりあい混沌とした都市で繰り広げられるサイバーパンクSFである。
オコサマ・スター社(このネーミングはナイス!)の人気ゲームデザイナーである主人公は、ウィルスの感染により自意識を持ってしまったゲームキャラに「同じことを繰り返すのはたくさんだ。俺を解放してくれ」と懇願される。もしゲームが発売されたら、キャラは何百万回も同じことを繰り返し、殺されることになる。そこで主人公はキャラを助けるために行動を開始することになる……というのがメインストーリー。
ウィルスの感染でキャラが自我に目覚めるというのはいくらなんでも安直なんじゃないのか、という突っ込みはさておくとしても、主人公がプログラマー生命を賭けてまでキャラを助けようとする動機が今一つ弱いように思える。助けを求めてくるのは、スーパーマリオをイメージしたとおぼしき髭のイタリア人キャラだが、こんなやつに「助けてくれよ」とか言われて言う通りにするかなあ。ギャルゲーの女の子に「何百万回も犯されるのは嫌よ」とかいわれたら、こりゃ助けねばと思うかもしませんが(笑)。
中盤は主人公の探索行が描かれるのだけれど、ゲームキャラを助けるためなのか、別れた恋人を捜しているのかどっちつかずではっきりせず、ちょっともたつき気味。これは、どっちか一本にしぼった方がよかったような気がするがなあ。
しかし、混沌とした汎アジア風の都市のヴィジュアルはすばらしいし、眼球を売ってしまいかわりにゾニー製(笑)のカメラアイを埋め込んだハッカー、ジョイスティック(という名前なのだ)や、綾波のごとき青い髪をした女性ハッカー、ナイマなどの脇役陣のキャラクターは最高(オコサマ・スター社から派遣された追っ手の日本人もいい味を出している)。
後半では、ナイマは主人公の死んでしまった恋人リザの記憶チップを装着し、ナイマとリザの二重の存在として主人公と接することになる。これは今までありそうでなかったアイディアだよなあ。さらにハッキングのシーンでは、主人公の思い出の中のリザまでが実体として登場して主人公を過去へと引き釣りこもうとする。そして本物のリザ(の記憶を持つ存在)として主人公を現実に引き戻す役割をするナイマ。説明が難しいけど、実際に観るとこのシーンは最高に面白い。ここだけでもこの映画は観る価値がある。
意識を持ったゲームキャラなんていう話よりも、ナイマとリザ、そして思い出の中のリザ、主人公はいったい誰を選ぶのか、というこっちのラブストーリーをメインにしてくれればもっとおもしろい話になったと思うんだけどなあ。
全体とすると、傑作になりそこねた惜しい映画という評価だけど、今まで観たサイバーパンク映画の中では最高の出来。ただし、18日までしかやってないのでお早めに。
ガブリエレ・サルヴァトレス監督の次回作は、アミタフ・ゴーシュという人類学者兼作家が書いた近未来SF
"Calcutta Chromosome"(クラーク賞受賞)の
映画化だそうな。この小説については、SFマガジン98年7月号で小川隆さんが詳しく紹介してますね。早く訳が出ないかなあ。
半村良
『完本 妖星伝3』(祥伝社文庫←妖星伝2と3の間にノン・ポシェットから文庫名が変わったらしい)、小松左京
『時の顔』(ハルキ文庫)、諸星大二郎
『六福神』(集英社)購入。
12月11日(金)
日記の方のカウンタが50000を突破。どうもご愛読ありがとうございます。ホームページのカウンタは12日午前2時45分現在49958。まあ、日記しか更新してないから仕方ないけど、これからはどんどん差が開いていくんだろうなあ。
ビデオに撮っておいた
『CURE』を観る。メスマーがこんなに恐ろしい人物だったとは、今の今まで私ゃ知りませんでしたよ(笑)。樹のまわりでおててつないで集団催眠、っていうコミカルなイメージを持ってたんだけどなあ。
サイコスリラーやホラーでもっとも引用される頻度が高い言葉を調査したとしたら、ニーチェの
「怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることがないよう気をつけねばならない。深淵をのぞきこむとき、その深淵もこちらを見つめているのだ」がダントツでトップになるんじゃないだろうか。この映画も、まさにこの言葉がぴったり当てはまるような作品である。
全体としては傑作といっていい映画なんだけど、「精神科の学生」というありがちな間違いがここにも。医学部学生の段階ではまだ専攻は決まってないのだ。「精神科の大学院生」なら正しいんだけど。
もちろんこの映画に出てくるような病態は実在しないけれど、治療者の感情を操作する患者なら実際にいる。患者を治療しているときに治療者の側に無意識的に感情がかきたてられることを
「逆転移」というのだけど、患者が治療者の中の苛立ちや怒りをかきたて、暴力性を誘発することは充分ありうる。
「投影的同一視」という用語がある。普通の成熟した人だったら、自分の中の「よい」部分と「悪い」部分を、ひとまとまりにして「自分」としてとらえられるんだけど、人格が未熟な人の場合、両者を統合することができない。そういう人は自分の中の衝動とか願望を自分の感情として抱え込むことができないので相手に投影し、まるで相手がその衝動や願望を抱いているかのようにふるまい、相手をコントロールしようとする。これが投影的同一視。
わかりやすくいえば、自分の心の中の怒りの感情を排除して、相手が怒りを抱いていることにしてしまう。本当は怒りを抱いているのは自分なのに、医者に対して「怒らないでよ」などというわけ。「怒ってないよ」といっても「本当は怒ってるんでしょ」という。そんなやりとりが繰り返されるうちに、医者の方もだんだんと巻き込まれていき、心の中の怒りが引き出されてくる。こうなるともうコントロールされてしまっている。「ほらやっぱり怒ってる」というわけだ。
境界例患者なんかだと、このコントロールが恐ろしいほど巧み。無意識のうちにコントロールされた治療者同士の間に険悪なムードがただよいはじめ、それが増幅されることにより、たったひとりの患者のために病棟全体がギスギスしてくることだってある。未熟な人格の内面の葛藤が、外界で現実として演じられてしまうというわけ。これで殺人でも起きたら映画そっくり、などと無責任なことを書いてみたりもする。まあ、さすがに映画みたいにまったく同じ手口でいくつもの殺人を起こさせるというのは無理だけど。
しかし、『富江』といいこの映画といい、洞口依子は女医役が似合うなあ。
沙藤一樹『D-ブリッジ・テープ』(角川ホラー文庫)読了。何なんだろうなあ、これは。稚拙な上に思い入れたっぷりな文章はうっとうしいだけだし、ストーリーも一本調子。ゲテモノ食い描写が生理的な嫌悪感を誘うだけで、ホラーとしてはお世辞にも怖いとはいえない。結局最後まで読んでも何の盛りあがりもなく、「大人社会は汚いぜ」という陳腐で未熟なメッセージだけで終わるのは興ざめである。なぜこれがホラー大賞をとったのかまったくわからない。「この作品は間違いなく日本の文学史に残る」とまで言いきってしまう、解説の高橋克彦の手放しの絶賛ぶりも理解不能。