11月20日(金)
入院当番の順番が入れ替わったそうで、突然
措置入院患者が入ってくることになった。
緊張して待ちうけていたら、救急車に乗せられ体をぐるぐるに縛られてやってきたのは、愛嬌のいいホームレス風のおっさん。「どうも」とかいってにこにこ笑っていて、どう見ても危害を加えそうには見えない。
診断書を読んでみると、どうも銀座の和光のまん前という超一等地の路上でごろごろと寝転がっていて、警官が「何をしてるんだ」とか訊いたところ、「俺は死んでるのだ」などと答え、頭を道路に打ちつけたりしていたんで、保護されて精神鑑定にかけられたとか。確かに精神障害はありそうだけど、何も措置入院にしなくても、と首をひねったのだが、一緒に来た都の職員の人がそっと教えてくれた理由が
クリントン来日。なるほど。大統領が来てるおかげで、警察もナーバスになっているらしい。
それにしても、クリントンのせいで病院に送られるとはかわいそうに、とちょっとおっさんに同情したのだけれど、本人は全然気にしてるようではなく、むしろただで(措置入院だと東京都が入院費を負担することになるのだ)三食つきのホテルにありつけてとってもうれしそう。何日か何も食べていなかったらしく、食事が運ばれてくると早速がつがつと食べている。食べ終わったら食べ終わったで「食後の薬はないの?」とか訊いてくる。かなり入院慣れしてますな、この人。
暴力とか、場合によっては人を殺したような患者さんまでやってくることもある措置入院だけに、何だか拍子抜けしてしまったのだが、「措置入院を要す」という鑑定書がある以上、病院としては入院させないわけにはいかない。都民の税金はこんなところにも使われているのだ(笑)。
さてこのおっさん、お金を持っていないため、生活保護の申請をすることになった。しかし申請には住所が必要なのだけれど、この人は住所不定。こういう場合は、警察に保護された場所が住所ということになるらしい。つまり、おっさんの住所は
中央区銀座4丁目。この住所が正式に記録に残るわけだ。ものすごいところに住んでいる(笑)。そもそも住宅があるのか、そんなところに。
きのうの友人に電話してみたら、すでに何ヶ月も前にシナジーをやめて別のソフト会社に移っていたそうな。目ざといなあ。友人からはいろいろとソフト業界の楽しい話を聞かせてもらう。なるほどなあ。たいへんなんですね、どこの業界も。
11月19日(木)
裏日本工業新聞を読んで驚く。うむう、つぶれたんですか、シナジー幾何学。といっても私はというと別段この会社やこの会社の製品に思い入れがあるわけではなく、とっさに思い浮かんだのは、この会社に勤めている友人の顔なのであった。これからどうするんだろ。でも、まあ彼ならどこででもやってけると思いますが。
安斎育郎
『人はなぜ騙されるのか』(朝日文庫)、斎藤環
『社会的ひきこもり』(PHP新書)購入。なんだ、普通の文章も書けるんですね、斎藤環さん。『文脈病』(青土社)は文脈病というより、ゲンダイシソウ病に毒された悪文で極めて読みにくかったんで、そういう文体でしか書けないのかと思ってました。最初からこういう文章で書いてくれればいいのに。
ドリームキャストのソフトで、私がひそかにいちばん期待してるのは、おそらくほとんど誰も期待していない
「戦国TURB」だったりする。実はこれ、
Bio_100%ブランドでかつてPC-9801用フリーウェアとして配布されていたゲームのリメイクで、作者は
羊男、
なのれーの両氏。Bio_100%といえば、フリーウェアとは思えないほど高品質なゲームを量産して日本のフリーウェアの歴史に革命をもたらしたゲームクリエーター集団である。かつてアスキーネットを徘徊しては2400bpsで「蟹味噌」とか「DEPTH」とか「Carax」とかのPC-9801ゲームをダウンロードしていた人間には、懐かしさに涙が出てくるようなタイトルなんだけど、そうでない大多数の人には単なる色物ゲームにしか見えないかも。
特異なキャラクターデザインの
なのれーさんは、あのたまごっちの企画開発に携わったことでも密かに有名(矛盾か、この表現)。言われてみれば似てるでしょ、キャラの感じが。
11月18日(水)
ニフティのメンテのためアップロードが遅れてしまい、間抜けな日記になってしまったが勘弁して下さい。
さて夕べはしし座流星群の極大日。夜中の3時半に目覚ましで起きると、妻といっしょに外に出て、空を見上げる。寒さに震えながら30分くらい見ていたけど、見えたのは明るいのが1個にそうでもないのが2個のわずかに3個。水銀灯がまぶしい住宅街の真ん中なんでまあこんなものなのかもしれないけど、もっと多いはずじゃなかったのかなあ。「すごい、降るような星だ!」というような光景を期待してたんですが。
毎回毎回それほどネタを練りこんでいるわけではなく、自転車操業のように日記を書いているので、日記を書いた翌日になって、あ、こう書きゃよかったな、とか、こういう文章も入れたほうがわかりやすかったな、などと思うこともまれではない。今回もそのパターンで、きのうの話題にぴったりのオチを思いついたのも、今日の午後なのであった。こういう場合、普通は「まあいいや」と書かずに済ませてしまうのだが、今回のはけっこういい出来で、使わないのがもったいないくらいので、特別にここに書いてしまう。
「三大テノール地球最大の決戦」
……使わない方がよかったですか?
こないだビデオに撮った、キン・フー監督の1967年作品
『残酷ドラゴン血斗龍門の宿』を見る。とんでもない邦題がついているが、原題は『龍門客桟』で、香港アクション映画の古典的名作である(このころ監督は台湾に渡っていたので、厳密に言えば香港映画ではないが)。香港映画ファンなら、キン・フーの名前くらいは一度は聞いたことがあるはずだけど、実際の作品はなかなか観ることができないので、こないだのNHK衛星第2の放映はとても貴重な機会だったのであった。ちなみにこの作品、のちにツイ・ハークが『ドラゴン・イン(新龍門客桟)』として(キン・フー監督には無断で)リメイクしている。
しかし、観始めてみると、30年も前の作品だけに、今の香港映画とはだいぶ違う。香港アクションのトレードマークみたいになっているワイヤーアクションも全然なくてテンポも遅く、黒沢明のような日本の時代劇映画に近い作り。しかも、日本の時代劇に比べると、どうしても殺陣の型が決まってなくてなんだかかっこわるい。ただ、飛んでくる弓矢をとっくりで受け止めて投げ返す、など、こんなことできるかい、と突っ込みをいれたくなるような荒唐無稽な技がところどころに出てくるあたり、やっぱり香港テイストなのだけど。
ツイ・ハークのリメイク版では、客を殺しては人肉饅頭を作っている宿の女主人などエキセントリックなキャラクターが山ほど出てきて物語は混沌へと突き進んでいく(そこがおもしろいのだが)のだけれど、オリジナル版にはそんな人物は登場せず、ストーリーはきわめてシンプル。
主人公の謎の遊び人と、ちょっと太めの美少女剣士のキャラクターはなかなかいいのだけれど、今の香港映画だったら、絶対に二人のロマンスをからませるところなのに、ほとんど匂わせないあたりストイックすぎるよ。
前半の、なんだかわからないけどものすごい剣術の達人たちが次々と宿に集まってくるあたりは、何が始まるのかとわくわくさせてもらったのだけど、ストーリーが一直線になる後半はちょいとだれ気味だなあ。超人的な武術の達人だが、喘息で体が弱いのが弱点(笑)の宦官のボスを、善玉5人で取り囲んでなぶり殺すのもどうかと思うし。名作と聞いていたわりには、ちょっと期待外れ。
角川文庫の新刊から、ずっと前から予告されていたオースン・スコット・カードのアルヴィン・メイカー・シリーズの1冊目
『奇跡の少年』と、もしかしたらおもしろいのかもしれないジェイムズ・L・ハルペリン
『天才アームストロングのたった一つの嘘』を購入。
11月17日(火)
電車の中に、三大テノールの広告が出ていた。今度は東京ドームでコンサートだとか。また日本に来て稼いで帰るんだろうな。
私は、クラシックはクラシックでも、ノンビブラートの古楽唱法を愛する人間なので、オペラには全然詳しくないし、三大テノールにも別に興味がないのだけど、同じパートの歌い手を三人集めてコンサートが成り立つ、と思いついた人間は天才的だと思いますね。ピアニストを三人集めてもコンサートにはならんわけで(スティーヴ・ライヒには"Six Pianos"なんていう曲があったりするが)、こういうことは普通思いつかんと思うがなあ。
ところで、三大テノール、英語で書けば"The 3 Tenors"である。「大」はどこにもないのだ。英語に比べ、日本語の「三
大テノール」という訳は妙に偉そうで権威主義的な気がする。これでは、オペラというものを余計に近づきにくくするばかりではないか。
なんでこんなことを言い出したのかというと、"The 3 Tenors"という広告を見た私がふと思い出したのが、
"The Three Stooges"だからなのであった。"The 3 Tenors"が「三大テノール」なら、あれは「三大バカ」か。「三大テノール」なんて偉そうなこと言わずに、「三テノール大将」でもいいではないか(笑)。
まあ真面目に考えると、ここは歌舞伎に倣って(ジェロームに倣って、でも可)
「テノール三人男」というネーミングはどうかな。親しみやすくてけっこういいと思うんだけど(まあ、プロモーションをする側とすれば高級感を演出しようとしているのであって、親しみやすさなど必要ではない、と言われてしまえばそれまでなのだけれど)。
さて明日は三時半頃に起きてしし座流星群を見る予定。でも、明日になったら目が見えなくなってて、へんな植物に噛まれたらイヤだなあ(SF者お約束のネタ)
11月16日(月)
小野不由美の
『屍鬼』を半分まで読む。
読んでいて気になったのが、村で唯一の医師である「敏夫」という人物。同じ医者として、敏夫の行動はかなり違和感があるのですね。この人、まともな医者なら普通絶対にしないことばかりしていて、なんでこんなことするのかなあ、と首を傾げてしまうところが多いのだ。それに、そもそもこの人の判断ミスがすべての災厄の原因みたいな気がするんですけど。これはストーリーの根幹に関わるところだけに、どうも気になってしまう。
まず気になったのは、敏夫がどういう方針で、どのような治療をしているのかが全然伝わってこないこと。伝染病と思われる症状で次々と村人が死んでいき、敏夫の病院には患者が押し寄せてくるのだけれど、単に多忙を極めた、と書いてあるだけなのだ。上巻の終わりでは、敏夫はどうもこれは伝染病ではないらしい、という結論に至るのだけれど、なぜそのような結論を導き出したのかもよくわからない。どんな検査をして、どのように推論をしたのかが全然書いてないので、この結論はどうも唐突に思えてしまう。少なくとも上巻は災厄は病気として描写されているのだから、もうちょっと医学的な書きこみがほしかったなあ。少なくとも『天使の囀り』くらいには。
さらに、敏夫の行動なんだけど、これもよくわからない。だいたい、敏夫のような地方の開業医ってのは、ジェネラリストであって、スペシャリストとしての役割は求められていない。つまり、地域の人々のかかりつけの医者として健康を管理するのが仕事であって、手に負えないような病気であれば大病院に送るのが当然である(敏夫も前半ではそうしているが)。それなのに、どう考えても自分の手に負えない病気を、すべて自分ひとりで(しかも病院のスタッフにも知らせずに)抱え込んでいるのはどうにも解せない。
「行政など頼りにならない」「公表すればパニックになる」という彼の主張も確かに正しいけど、敏夫だって伝染病の専門家ではないのだから、ここは、血液学を専門とする同級生とか、出身大学の伝染病学教室に問い合わせてみるとか、いくらでも方法があるだろう。こうやって、専門外のことまですべて自分でやろうとするってのは、村の人々の命を危険にさらしているわけで、プロの医師として愚かを通り越して犯罪ですらあるぞ。
もちろん、愚かな医師も罪を犯す医師も山ほどいるわけで、物語にそういう伏線があれば私も文句は言わないのだけれど、この敏夫はそれなりに優秀な医師として描かれているからなあ。
上巻の巻末ではもうひとりの主人公である静信が医師としての敏夫を批判しているが、敏夫のしていることというのは、そんな批判くらいでは足りないほど犯罪的な行為だと思うんですが。
作者がどういう意図で書いたのかはよくわからないのだが、その行為の犯罪性に静信も敏夫自身も気づいていないようなのがちょっと気になる。
ま、これは前半だけを読み終わった時点での感想なので、後半を読んだら印象も変わるかも。
11月15日(日)
午前中に簡易書留が届く。
実はこの郵便物、金曜日の午前、午後と2回届けに来たらしいのだが私も妻も不在。郵便受けには預かり票が入っていたので、きのう郵便局に電話をして今日の午前を指定したら、指定通り届けに来てくれたというわけ。計3回も来てくれたということか。なかなかサービスいいね、郵便局も。
さてこの書留なのだが、東京都衛生局医療福祉部精神保健福祉課という長ったらしい部署からのもの。開けてみると、おお、中身は、
精神保健指定医の証ではないか。これで私も国家からお墨つきをもらった一人前の精神科医というわけだ。おめでとう。ありがとう(自分で言ってどうする)。
さてと精神保健指定医というのは何かというと、
(1)5年以上診断または治療に従事した経験があり
(2)3年以上精神障害の診断または治療に従事した経験があり
(3)厚生大臣が定めた精神障害についてケースレポートを書き
(4)厚生大臣が定めた研修課程を修了した
医師に与えられる資格である。
1月に大阪で研修を受けたのも、
5月にレポートの細かい記述を直していたのも、すべてこの資格をとるためなのであった。まあ(1)(2)(4)は問題ないのだけれど、(3)のケースレポートで落とされることも稀ではないので、レポートを提出してから今までの半年間は戦々恐々としてすごしていたわけである。いや、通りましたか。おめでとう。ありがとう(しつこい)。
で、指定医になると何が変わるかというと、それはもう
すべてといっても過言ではない。何しろ、患者さんを入院させる必要があるかどうかの判定、入院を継続する必要があるかどうかの判定、そして行動制限が必要かどうかの判定、すべて精神保健指定医でなければできないのだ。しかも、同じ精神療法をしたときの保険点数(つまり病院の収入)まで、指定医とそうでない医師とでは違ってくるという露骨な差別がある。
今まではそういう判定は先輩医師の助けを借りてやっていたのだが、ようやく私一人の判断でできるようになったわけ。一人前になった、と書いたのはそういうことである。
もちろん、これは別に私の技量が優れていることが認められたというわけではないよ。単に国の定める規定をパスしたということにすぎないのだ。精神科医としての技量など、全然関係ない。指定医になる前も、なったあとも、私がまだまだ未熟であることには違いはないのだ。
しかし私の技量がいかに未熟だとしても、一旦精神保健指定医になってしまった、ということは、強大な権力を手に入れた、ということである。なんせ、患者さんの意思に反して入院させたり個室に閉じ込めたりすることができるのだ。普通の人がやったら犯罪になってしまうような行為が、精神保険指定医には認められているのだ。こいつはとんでもないことではないですか?
当然、これまで以上に責任重大だし、慎重な治療が必要なのだけど、まあ治療する上での基本的なスタンスは今までと変わりません。これまで上の先生の助言を受けてやってきたことを、一人でするというだけのこと。でも、病院の外の常識からすれば、自分がとんでもないことをしているのだ、ということだけは忘れないようにしなければね。
まあこの一年の懸案が片付いて、ちょっとは気が楽になったかな。
11月14日(土)
風邪を引いてしまい、一日中寝てました。
高野史緒『ヴァスラフ』(中央公論社)読了。今回の作品の舞台は、今世紀初頭、ネットワークの張りめぐらされたロシア帝国。ヴァーチャル・リアリティ・キャラクターとして作り出されたバレエ・ダンサーのヴァスラフの物語。ただし今回はいつもと違って、細かいディテールを描きこんでいくのではなく、ヴァスラフ=ニジンスキーという人物の伝記的事実によりそった形で物語は進行していく(たぶん)。ただ、私としては特にニジンスキーに思い入れもない(というか、ほとんど知識がない)し、エピグラフとして引用されているピンク・フロイドのザ・ウォールという作品も聴いたことがないので、どうも今一つぴんとこない作品であった。徹底的に人工的な世界を指向した作風は相変わらずSFファン好みなだけに、もうちょっと知識があればさらに楽しめたんだろうなあ、と思うとなんだか悔しい気もしてしまう。
11月13日(金)
まずはきのうの訂正から。
きのうの広辞苑についての記述は電車の吊り広告と家にある第四版だけを見て書いたものだったのだけれど、今日書店で第五版を立ち読み(むちゃくちゃ腕が疲れました(笑))してみたところ、新たな事実が判明した。
まず、第五版では、
「ブロントサウルス」は
「アパトサウルス」に直されている。
それから、第五版で新収録された
「グールド」は、なんとグレンではなく、スティーヴン・ジェイであった。これは驚き。辞書に載せるなら、グレン・グールドの方だと思うのだけどなあ。スティーヴン・ジェイ・グールドって広辞苑に載るほどの人物だったのか? まだ存命だし。さらに、「エディアカラ動物群」のほか、「バージェス動物群」という項目まである。そんなに重要かなあ、これって。
だったらグールドのライバルであるリチャード・ドーキンスもなければおかしい、と思って引いてみたのだが、「ドーキンス」の項目はなし。しかも「利己的遺伝子」すらないのであった(「エディアカラ動物群」を入れるくらいなら、これを入れてもいいと思うのだが)。もしや、編者の中にグールド派がいるのか。
さて、きのう紹介した
「ゾンビ」だが、広辞苑ではどういう説明がなされていると思いますか? 普通なら「ハイチ」とか「伝承」とか「ロメロ」とか(笑)そういう単語を入れたくなってくると思うのだが、広辞苑は違う。
「呪術によって生き返った死体」。それだけ。そういうことがありうるのかどうかとか、価値判断にはまったく言及しない。ストイックである。男らしい(笑)。
そして、
「チャネリング」も、
「霊界や宇宙などと交信すること」と、きわめてシンプル。この定義だと、SETIなんかもチャネリングに入ってしまうので、これはさすがにシンプルすぎると思いますが。
11月12日(木)
最後まで道を極めて逝った淀川長治氏に合掌。彼の生き方こそは、まさにオタクの鑑といえよう。幸せな人生だったんだろうなあ。生涯一オタク。うらやましいかぎり。
電車に乗ったら、広辞苑の第五版の吊り広告が出ている。今回新収録された言葉を一覧にした広告なのだけれど、眺めてみるとこれがけっこうおもしろい。新聞やニュースで報道されているのは俗語や話題の言葉ばっかりだけど、はっきりいってそれはほんの一部。ここではあんまりニュースでは報じられないような新収録語を紹介してみる。
まず目立つのはコンピュータ関係の用語。
「ダウンロード」「ウィンドウズ」「パスワード」「ホームページ」「WWW」「ドラッグ・アンド・ドロップ」など、この分野の新語はけっこう多い。そうそう、
「裏技」なんてのもあった。
科学用語も多い。
「ハッブル宇宙望遠鏡」とか
「イオンチャンネル」とか。
「ベロキラプトル」は、やっぱりジュラパの影響かな。できれば「ヴェロキラプトル」と表記してほしかったけど。でも、それならほかにも収録すべき恐竜はいるんじゃないですか。それに第四版にあった「ブロントサウルス」は「アパトサウルス」にした方がいいと思いますが。
「エディアカラ動物群」まで収録されたのには驚き。渋いところついてますな。
「グールド」も収録されたけど、これはスティーヴン・ジェイでも、ベアリングでもなく、グレンの方だろうな。一方で
「臨死体験」とか
「チャネリング」などトンデモ用語も新収録。
「エラリー・クイーン」は今さらながらようやく広辞苑にも作家として認知されたらしい。ちなみに、クリスティは第四版にも収録されている。しかし、クリスティ、クイーンがあるのに、なぜカーがいない。まあ次の版に期待かな。
意外なところでは、
「どすこい」「言い得て妙」まで今までなかったらしい。
「ぬんちゃく」も、さらに
「特撮」も新収録。そうか、今までは広辞苑をひいても「特撮」の意味はわからなかったのか。
「ゾンビ」「ゴジラ」「ワープ」などのSFホラー用語(笑)も新採用。
書店では、創元復刊のブライアン・オールディス
『グレイベアド』(子供の消えた惑星・改題)を買う。ロバート・シルヴァーバーグ
『禁じられた惑星』も買ったが、家に帰って調べてみると、
持ってるじゃん。ま、よくあることではあるが。ハルキ文庫の小松左京
『結晶星団』も購入。これはハヤカワ、角川文庫版の復刊ではなく、テーマ別に再編集した短篇集の第1巻。
そして、おお、同時に光瀬龍の『喪われた都市の記録』も復刊されているではないか。なんと18年ぶりらしい。この名作が、それほど長い間読めなかったとは!
実はこの本、私が小学6年生くらいの、まだSFを読み始めたばかりのときに読んで、子供心に強烈な衝撃を受けた作品なのだ。PART 1だけが延々と続く構成、タイポグラフィ、そして描かれる気の遠くなるような時間と宇宙の広がり。正直言って小学生にはよくわからないところも多かったのだけれど、読み終わったときには、SFってのは、こんなにすごいことが描けるのか、と興奮していた。あまりに興奮したので、当時の私は、小惑星群はかつてひとつの惑星で、あるとき滅び去ったその惑星の住民たちの記憶が甦って……というパクリ以外の何物でもない小説を書いてしまったくらいだ(笑)。
今でも、日本SF作家で誰がいちばん好きか、と訊かれたら私は「光瀬龍」と答えるだろう。ああ、シリーズの短篇群もまとめて復刊してくれないかなあ。
帰りに、近所の古本屋に寄ったところ、サンリオ文庫を発見。ミシェル・ジュリ
『不安定な時間』とディディエ・マルタン
『飛行する少年』の2冊で、1冊1000円。フランスものがこの値段は安いよね。まあ、ひとつだけ問題があって、それは、買っても
まず確実に読まないだろうということ。もちろん、そんなことは些細な問題であることはいうまでもない。購入。
さて、今日の日記には、本を収集する上での重要な教訓が二つ含まれていた。そんなのなかったって? いったい何を読んでいたのだ。君の目は節穴か。
その一 ダブりを恐れるな。
その二 読まない本でも買え。
以上。
11月11日(水)
パターン1
「ねえ、母さん、二万円ちょうだい」
「なに言ってるの、そんな大金あげられるわけないでしょ。それに今月の小遣いはもうあげたじゃない」
「そうじゃないよ。商品券さ」
「え?」
「ぼくは12歳だからさ、うちにも来たはずだよね、あの商品券。そうそう、
『ふるさとクーポン』とかいうダッセエ名前の」
「馬鹿ね、あれはあんたじゃなくてうちにくれたの」
「でも、15歳以下の子供とお年寄りに支給されるって、ニュースで言ってたじゃないか。うちじゃなく、ぼくに支給されたんだよ」
「ただでさえ生活が厳しいんだから、あの商品券はうちの家計の足しにするために使うのよ。あんたが勝手に使っていいわけないでしょ」
「でもあれは景気対策なんだから、家計の足しにしてその分現金を使わないんじゃ全然意味ないじゃないか」
「つまんないこと知ってるわね……そうだ、今度おいしいもの食べにいきましょう、それでみんなで使いましょうよ。ステーキがいい? それともしゃぶしゃぶ?」
「ごまかさないでよ。あの商品券はぼくのものなんだから。母さんのものでも父さんのものでもないはずだよ」
「……とにかく、あんたが使っていいわけじゃないの。もういいでしょ、母さん忙しいんだから」
「よくないよ。あれは国がぼくにくれたお金だから、ぼくが自由に使っていいはずだよ。ぼくなら普段より余計に使ってみせるよ。お年玉の一万円を足してドリキャス買うんだ。ずっと前から決めてたんだから」
「……そうだ、すぐに使わず貯金しておきなさい」
「母さんは馬鹿だなあ。有効期間は6ヶ月なんだから、貯金なんてできるわけないじゃないか。それにこれは景気対策なんだよ、わかってる?」
「とにかく、二万円は子供には多すぎるわ」
「それじゃ、母さんはぼくの金をとるのかよ。汚いよ、母さん。大人はみんな汚いよ」
「どこ行くの。台所へ行って何するつもり……冗談はやめなさい。そんなもの振り回して危ないじゃないの。やめなさい、お母さん怒るわよ。やめ……うっ」
「……母さんが悪いんだ。母さんがぼくのお金を盗むから……。母さんが黙ってぼくにクーポンを渡してくれればこんなことにはならなかったんだ……」
パターン2
「なあ春子さんや、
『ふるさとクーポン』とかいうのは届いたかいのう」
「ああ、一週間前に届いてましたよ」
「一週間前? それなら、どうしてわしに見せてくれなかったんじゃ」
「だって、義父さんは寝たきりでしょう。あんまりお金なんか使わないじゃないの。それより、わたしたち夫婦で使いますよ」
「しかしあれはわしの……」
「実は、もう来週、レストランを予約してあるんです。二人でフランス料理なんて、新婚のとき以来ですよ。今から楽しみで」
「しかし……」
「わたしは毎日毎日お義父さんの世話をしてるんですよ。こんなときくらい、わたしたちに少しだけ贅沢させてくれてもいいじゃないですか。それが親の務めというものじゃないんですか」
「……」
(孫にプレゼントでも買ってやろうと思っていたのに……そう思いつつも口をつぐむ源三であった)
こんなことにならなきゃいいけど。
でもパターン2はともかく、パターン1みたいな会話は子供のいるすべての家庭で交わされると思うぞ。どうせ政府の老人たちは「子供のいる家庭」に支給したつもりでいるのだろうが、小学校中学年以上ともなればすでにある程度しっかりした自我を持っているわけで、二万円をめぐって家庭内で抗争が巻き起こるのは必至だろうなあ。