11月30日(月)
もう11月中は降らない、いや記録更新のためにも、絶対に降ってはならないと確信していたのに、渋谷のルノアールを出たところで雨。当然傘など持っているわけもなく、濡れて歩く。信じてたのに嘘をついたな、伊藤由希子さんのバカ(伊藤由希子さんは、やじうまワイドのお天気お姉さんである)。
で、結局記録はどうなったんでしょうか?
夜に会った溝口くんは「ハヤカワ文庫SFはあと1冊でコンプリート」だという。彼のページには「全部集まった」と書いてあったような気がしたので首をひねりながら「最後の1冊は?」と訊いてみたら、
「ローダンの最新巻」
だという。
そりゃ永遠にコンプリートできないのでは(笑)。
今日の購入本。小中千昭
『scenario experiments lain the series』(ソニー・マガジンズ)は要するにアニメ『lain』のシナリオ集。小中千昭さんの肩書きは「特殊脚本家」ですか(笑)。マーティン・ベッドフォード
『復讐×復習』(扶桑社ミステリー)はなんだかタイトルが間抜けだけど、イアン・バンクスを思わせる、と解説にあるので即購入。それからディーノ・ブッツァーティ
『石の幻影』(河出書房新社)。
明日は当直。
11月29日(日)
教育テレビでやっていたブリュッヘン屍鬼……じゃなかった、ブリュッヘン指揮のモーツァルトのレクイエム(ジュスマイヤー=ブリュッヘン版)を聴く。特に不満があるというわけでもないのだが、これといって特徴のない演奏である。「怒りの日」なんかもあっさりと流してしまっていてどうも物足りない。こういうのを、「けれんみのない演奏」とかいってありがたがる人もいるのだろうけど、私としてはこの曲にはもう少し激しさがほしいんだけどなあ。
とはいっても、私が最も気に入っているディスクは、アーノンクールによる死者が飛び起きるような演奏なので、これはかなり偏った意見かもしれないけど。
うう。
溝口くんの日記でオチに使われてしまった。本の整理の問題は、活字中毒者なら誰もが通る道でしょう。私も以前は、買い集めた本は全部読まねば、と半ば強迫的になってたものだけど、なんせ本というやつは読む以上のスピードで増えていくので、これは理論的に未読をゼロにすることは絶対不可能(買わなけりゃいいって? いやいや、そんな選択肢は最初からないのだ)。未読の冊数が4桁になった時点で、もう開き直って読むことなんかどうでもよくなってしまい、すっかり気持ちが楽になりました(おい)。これぞ発想の転換。未読がたまって困っている、という人には、一度未読を1000冊まで増やすことをお勧めします(笑)。
それに、私の本の数など日下三蔵氏に比べれば全然マシかと思いますが(結局他人をオチに使うのかい)。
11月28日(土)
有楽町で
『アンツ』を観る。『トゥルーマン・ショー』のあまりの混み具合にめげて、急遽観ることにした映画だったのだが、これは拾い物。
とにかく幾万ものアリが群れている映像は一見の価値あり。戦闘シーンは、『スターシップ・トゥルーパーズ』なみの迫力。CGアニメといえばモブシーンという傾向はしばらく続きそうだけど、アリほどCGにうってつけの素材もないんじゃないかな。
細かい描写にも、アリという生物のサイズの小ささや特徴がよく生かされている。例えば水を手で汲もうとすると手の上で丸くなるとか、表面張力でボール状になった水の中から出られなくなってしまうとか。それに、首だけになった兵隊アリがしばらくしゃべってから息を引き取る、というシーンなんかも、子供の頃アリをバラして遊んだ経験(やったよね、ね、みんな?)を思い出すととてもリアリティがある。
ストーリーもありがちだけどテンポよくまとまっていて、これを、ただキャラクターの顔が怖いというだけの理由で観ようとしないのは損というものだ。
ただ、王女と一度踊っただけで勘違いしてストーカー行為を繰り返し、あげくの果てに王女を人質にして逃亡、かと思ったら「ぼくはインセクトピアに行くから君は一人で帰れ」とか言い放つような人非人(アリか)を王女が好きになるというのはどうも謎としかいいようがないのだけど。
ゲーセンでクイズゲーム「すくすく犬福」をプレイ。なるほど、これが噂の
犬福か。クイズに答えて生き物を育てるという最近多いパターンのゲームなのだが、そこに犬福という奇妙な生物を持ってきたのがなんとも。登場キャラもなんだか妙で、独特の世界をかもしだしているにょ(犬福語)。コンシューマ向けに移植したらけっこういけるかも。1000円強を費やしてエンディングまでプレイしたのだが、最後には私の犬福は悪魔福、妻のはスイカ福になってしまったにょ。こんなものにするために私らは必死に育てたのかっっ。
さて夜には先々行オールナイトの
『アルマゲドン』。劇場には長蛇の列ができていて、急遽上映館をひとつ増やしての上映だったのだが……これはさすがにヒットしないのでは。いや、しないでほしい。
開幕するやいなや、空から隕石が降り注いできてニューヨーク壊滅。松田聖子一言だけ台詞をしゃべって退場。ものすごいスペクタクルシーンで度肝を抜いておいたと思ったら、あとは退屈なシーンが延々と続く。小惑星に穴を掘って核爆弾を設置できるのは、掘削のプロしかいないっ、というわけで、突然海底油田を掘っていたブルース・ウィリス、ベン・アフレック、スティーヴ・ブシェミたちが宇宙へ出ることに決まってしまう。キャラクターの性格づけをするエピソードも何もなし。映画はただ淡々とストーリーを追うだけである。メインの三人の描き方も表面的で、単なるバカカップルと頑固親父にしか見えない。これじゃ到底感動などできるはずもない。
ところどころにCGを駆使した世界各地の都市の破壊シーンが挟まり、これは確かにものすごい迫力なのだけれど、なぜかこれは全然物語とリンクしてこない。『ディープ・インパクト』とはまったく逆で、一般市民がまったく登場せず、ただただスペシャリストの行動だけが描かれるので、上海が消滅したことも、パリが破壊されたことも、まったくの他人事にしか見えない。緊迫感ゼロである。
スペースシャトルで小惑星に向かうことになってからは、もう噴飯もののシーンが続出。悪いことは言わないから、自分をSF者だと認識しているひとは、この映画は観ない方がいい。怒りの余り憤死しても知らないぞ。
シャトルは小惑星に向かう前に、なぜかミールで燃料補給(ミールにスペースシャトルの燃料があるとは思えないのだが)。しかし補給中によそ見していたおかげでミール大爆発。すでにピンチだというのに、さらに不要なピンチを招いてどうしますか。月を回りこむときに10Gで加速するのも疑問。そんなに加速する必要があるのかな? 小惑星に着いてからがまたひどい。最初小惑星はテキサス州くらいの大きさだと行ってなかったか? ほとんど重力なんてないはずではないのか? それなのにどう見ても1Gの重力がある上、都合のいいときだけ無重力になってしまうというありさま(自爆するブルース・ウィリスが涙を流すという感動シーンで、涙が下に落ちているのはちょっとなあ、と思って見ていた私である)。小惑星が地殻変動を起こしてしきりにガスやら火花やらが噴出しているのも解せない。マントルがあるんですか、この星。それに、まさか、赤青のコードどっちを切るか、などという古典的なパターンまで出てくるとは思わなかったぜ。すべてがこの調子なので、真剣にやってることまでがすべて冗談に見えてしまう。
しかし、マイケル・ベイ監督ってひとは、とことんSF心のないひとらしい。『ザ・ロック』はおもしろかったんだけどなあ。
個人的には今年のワーストワン決定。この映画に比べれば、『ディープインパクト』なんて100倍ましでしょう。
11月27日(金)
病院の帰りに池袋さくらやに寄り、ドリキャス売り切れの貼り紙を横目で見ながら、プレステ用の
『エクソダス・ギルティ』と
『ユーラシアエクスプレス殺人事件』を買う私。だって、やってみたいゲームがひとつもないんだもんなあ、ドリキャス。来年までに出るラインナップを見ても、それこそ『戦国TURB』くらいしか、「これは」と思うタイトルがない。これで本当に大丈夫なのかなあ。まあ、ふつーのひとは『バーチャファイター3tb』とか『ソニックアドヴェンチャー』とかをありがたがるんでしょうが、すでに老いぼれた私は、とうてい最後までできそうにないゲームを買う気にはなれないのであった。
さて、購入した『エクソダス・ギルティ』はというと、『DESIRE』とか『EVE』とかでエロゲーファンをうならせた剣乃ゆきひろ改め菅野ひろゆき氏の新作。このひとのシナリオは、複雑なストーリーや張り巡らせた伏線を、ラストではぽいと投げ出して、有無を言わせず感動的なエンディングに持ちこんでしまうという異様に癖のある作風だけに、期待半分不安半分といったところ。2000円も高い限定版がごろごろ転がっているが、定価5800円の通常版を購入。ゲーム版の『lain』も出ているという話を聞いたのだが、どういうわけかさくらやには見当たらない。
さて、私には、池袋さくらやのゲーム売り場に行くたびに気になることがある。このゲーム売り場、いつ行っても必ずいちばん奥に、この売り場にはとうてい似つかわしくないある店員がいるのだ。その店員は、見たところ頭の禿げ上がった風采の上がらないオヤジである。それだけなら別に珍しくはないが、このオヤジ、常に
「はいいらっしゃいいらっしゃいいらっしゃいいらっしゃいありがとうございました。パンパン(手を叩く音)」と大声で繰り返しているのだ。30分も店にいれば、この声を耳にしみつくほど聞かされることになる。魚屋か、ここは。
これはどう考えても売り上げには何の効果もないばかりか、かえって逆効果だと思うんだがなあ。こっちは真剣にゲームを選んでいるというのに耳障りで仕方がない。しかもこのオヤジ、以前、客から探しているゲームがどこにあるか尋ねられてしどろもどろになっていたことがあった。商品知識もなくて大声を出すだけで、よく店員をやっていられるな。
思い返してみると、このオヤジ、かれこれもう数年前からここでこうやって叫んでいるような記憶があるのだが……よく耐えられるなあ、こんな仕事に。ほとんどの客には見向きもされず、ただただ大声で叫びつづけるオヤジを眺めていると、なんだか不憫な気もしてくる。
さてなぜこのオヤジはここで叫んでいるのか、私は推測してみた。もしかしたらこれはオヤジへのいやがらせなのかもしれない。会社側の退職勧告に応じないオヤジは、苦手なゲーム部門に回されてしまったのである。しかし、オヤジは負けない。会社の横暴に対し、喉を嗄らして叫ぶことで敢然と戦っているのだ! がんばれオヤジ。負けるなオヤジ。でも、戦うのはいいけど、客の迷惑にならんところでやってほしいんだけどな。
11月26日(木)
朝日新聞によれば、大阪市の路上で去年4月、登校途中の小学生(当時8つ)を包丁で刺殺したとして、殺人や銃刀法違反の罪に問われていた男性被告(46)に対して無罪(求刑懲役12年)が言い渡されたそうだ。裁判長は「痛ましい事件だが、男性は犯行当時、精神分裂病のため心神喪失の状態にあり、責任能力はなく、刑事責任は問えない」と述べたとのこと。男性は判決後、釈放され
措置入院した。
いろいろ意見はあると思いますが、私はこれは当然だと思いますね。こういう判決が出ると必ず「親の気持ちはどうなる」という人がいるけれど、刑罰は復讐とは違うんだから。ここは治療するのが筋というものでしょう。
でも、ここからが問題。
入院してしまえばとりあえず被告は人目には触れなくなるのだけれど、ここから先を受け持つのは我々精神科医なのですね。
実は、措置入院の患者をどう処遇すべきか、という規定は法律的には特にない。退院に関しては、自分を傷つけたり他人に害を及ぼしたりしないと認められるようになったら、ただちに措置解除しなさい、という条文が法律にあって、精神保健指定医が知事に届けを書きさえすれば、いつでも退院させることができる。退院させるかどうかは、すべてひとりの医者に任されているわけだ。責任重大である。
当然、精神科医としては、どれくらい入院させておくべきか悩むことになる。刑事責任が問われた場合の刑期と同じくらい入院させとくべきだ、といった医者もいたけれど、それはさすがに医学的にも法律的にもなんの根拠もないし、第一、病院は刑務所じゃないんだから、入院させることを刑罰と同一視しちゃダメでしょ。
とはいえ、実際症状が軽くなってきて退院させようにも、そんな事件を起こしてしまっただけに、家族も冷たい。近所も大反対。医者の側としても、薬を飲んでいれば衝動的な行為はないということだけなら言うことができるけど、もし飲まなくなったとすれば、絶対に同じことをしないとは言いきれない。
自然と、医者が好むと好まざるとに関わらず、入院は長期化してしまうのですね。措置症状はとっくになくなっているのに、社会的な理由で退院ができない患者さんがたくさんいるのだ。それとは逆に、病院側が強引に退院させてしまってまた事件を起こす、という例だってある。
じゃあ、どうすりゃいいんだ? ということになるけれど、はっきりした答えはない。ただ言いたいのは、この問題はたったひとりの精神科医に任せるにはあまりにも責任が重大すぎやしないか? ということ。
こういう重大な事件を起こした患者さんの措置入院は国公立の病院に限るべきだ、という意見が、主に民間病院側から出ているけど、私もそれに賛成。はっきりいって、これは普通の病院には荷が重いですよ。
11月25日(水)
初めてフルカラーを表示できるパソコンを買って、ディスプレイに写真を表示させてみたときには驚いた。
それはたまたまアイドルの水着写真だったのだが(笑)、同じ写真でも、写真集やグラビアの写真とはまったく違ってみえた。それは文字通り後光がさしていて、大げさに言ってしまえば崇高で天上的な光景にさえ見えたのである。
そのときからずっと考えているのが、反射光と透過光の違い、ということ。
紙の上で見る写真と、ディスプレイ上で見る写真とは、確かに同じ写真なのだが、全然違うものなんじゃなかろうか。ディスプレイ上の写真というのは、写真をスライドにして透かして見たようなものだ。紙の写真は光の反射によって色を出しているのに対し、ディスプレイの画像は自ら光を放っている。紙の写真が月だとすれば、ディスプレイに映る写真は太陽ってことになる。
もちろん、現実の人間は発光などしていないので、現実に近いのは紙に印刷された写真のほうだ。いちどディスプレイを通してしまうと、リアルな写真でも不思議にリアルさがなく、透明感があって現実離れしたような雰囲気になってしまう。CD-ROMの草創期、『YELLOWS』というヌード写真集が発売されて話題になったけど、あれもCD-ROMだからこそ奇妙な軽さがかもし出されていたのであって、もし当初の予定通り紙の写真集の形で発売されたとしたら、あまりにも無味乾燥で殺伐としたものになっていたような気がする。
写真ではなくアドヴェンチャーゲームなどのグラフィックでも、コミックの絵とゲームの絵とではどこか見え方が違う。最近では美少女ゲームの原画集が発売されることが多いけど、そういう本に載っている絵というのは、確かにゲームの絵と同じではあるのだけれど、ゲームの中ほど印象的ではないのですね。もちろん、ゲームの中の絵はストーリーを伴っており、鑑賞者はキャラクターに感情移入している、という要素はあるけれど、それだけのことではなくやはり絵自体の見え方の違いが大きいんじゃないかなあ。
当然、透過光の特性を生かし、ディスプレイ上で鑑賞することを前提とした写真作品が出てきてもいいと思うのだが、あんまり聞いたことがない。それとも私が知らないだけかな。
同じように、ディスプレイで読む文章と、紙で読む文章も違っているはずだ。フォントとか縦書き横書きとか、そういうことを抜きにしても、必ずどこか読み手の受け止め方は違うような気がする。ディスプレイで読む文章は(この文章も含めて)、内容に関わらず、なんだか重みが感じられず、儚くうつろいゆくもののような、そんな印象があるのだけれど、これは活字人間の思いこみかなあ。
11月24日(火)
『火星夜想曲』も『レッド・マーズ』もこの作品の前座に過ぎなかったのかとさえ思える火星ものの金字塔がついに登場。安永航一郎
『火星人刑事(1)』(笑)。タイトルの割りに火星ネタがほとんどないのが気になるが。とりみき
『石神伝説(2)』とあわせて購入。
この2冊を買った池袋の芳林堂コミックプラザでは
「ひとりになれない夜はせつない……」と、どっかで聴いたことのある歌が流れていたのだが、曲名も歌い手も全然思い出せずにのたうつ。ああ、何度も聴いた曲だし、確かCDも持ってるはずなのに思い出せないぃ。さんざん悩んだ挙げ句、家に帰ってCD棚をあさってみてようやくわかった。
ナーヴ・カッツェの「プリティ・リトル・ゼラニウム」。渋い歌流しとるな、芳林堂。
しかし、これを忘れてしまっていたとは不覚である。昔好きだったのになあ、
ナーヴ・カッツェ。それから
ZABADAKとか
遊佐未森とか。渋いところだと
米村裕美とか
相馬裕子とか。
新井昭乃もいいですね。ああいう系列(なんていうんだろうな、こういう音楽をまとめて)の歌い手がけっこう好きで、柏崎への行きかえりには必ず聴いていたものである。
今じゃ新しいCDもあんまり買わなくなり、音楽事情にも疎くなってしまったけど、最近だと、この系統の歌い手にはどういう人がいるんでしょうか? あんまりよく知らないのだが、
トーコというひとの声の感じはけっこういいと思うな。これで小室哲哉が関わってなければなあ。以前、「LOOPな気持ち」というシングルを買ってみたのだけど、声と曲はいいのに、詞が「平凡な毎日への苛立ち」を描いたあまりにも小室的な内容でげんなりしてしまったのであった。せっかくふわふわとした現実離れした声を持っているのだから、そんなせせこましい世界を歌わなくてもいいと思うんだけどなあ。
11月23日(月)
斎藤環『社会的ひきこもり』(PHP新書)読了。この本に書かれているのは、家の中にひきこもり、学校や会社にも行かず、社会とは接触を持たなくなってしまう青年たちについて。著者の豊富な臨床経験に基づき、ひきこもりの理論的モデルから、具体的な対応の仕方まで書かれた誠実な本である。オタクだとか、ダメ連だとか、わりと最近(というほどでもないか)の社会病理に結びつけやすい病態だと思うのだが、安易に結びつけようとしない態度も好感が持てる。
確かに私もこういうケースはいくつか経験していて診断や治療に困った覚えがあるので、私にとっては実用的にとても役立つ本だった。こういうケースってのは、伝統的な精神医学の分類からはこぼれおちていて、従来の教科書ってのは、ほとんど役に立たないのだ。それに、こういう臨床経験を経て、著者はあのエヴァ論や吉田戦車論なんかを書いたのかとか、そういう観点からみてもなかなか興味深かったりもする。
ただ、私としては最近になって「社会的ひきこもり」の例が特に増えてきているとは思わないのですね。こういう人たちってのは、かつては破瓜型分裂病とか単純型分裂病などと診断され、精神病院に入院させられてしまい、難治例として長期入院のままになってしまった例も多いんじゃないだろうか。
果たして本当にひきこもりが増えてきているかどうかについては、統計的に確かめる必要があるだろうけど、昔と今では診断基準も違うし、実際に検証するのは難しいだろうなあ。
夜は本郷のベトナム料理店「ミュン」で食事。ライスペーパーで野菜や豚肉を巻いて巻いて食べる料理が、手巻き寿司的な楽しさで美味。まあ簡単に言えば自分で巻いて食べる生春巻きですね。ベトナムスープはトムヤムクンに似ているけれど、それほど辛くなくてすっきりしている。
11月22日(日)
「なまげに」とはいったいなんであろうか。
そんな疑問が脳裏に浮かんだのは、深夜、テレビの音だけを聴きながら、インターネットを徘徊していたときのことだ。
テレビから流れる歌は、
「なまげにとびつこう。ドンドン」
確かにそんなふうに歌っているように聞こえたのである。何度も聴いたことのあるメロディである。しかし、歌詞を意識したのはこのときが初めてだった。
「なまげに」ってなんだ。気になった私がテレビに目をやると、ちょんまげを結った不恰好な猫の着ぐるみが映っており、そこに矢印とともに「にゃんまげ」というスーパーが出ていた。「なまげに」ではなかったようだ。つまりCMではこう歌っていたというわけだ。
にゃんまげに飛びつこう。ドンドン。
にゃんまげに飛びつこう。ドンドン。
にゃんまげににゃんまげににゃんまげににゃんまげに飛びつこう。
それは、日光江戸村のコマーシャルであった。なるほど、江戸村らしいキャラクターといえないこともないが、ここまでいいかげんなデザインのマスコットキャラを見たのは初めてである。まあ、それはおくとしても、なぜそのにゃんまげに飛びつかねばならないのか。日光江戸村に行けばそれに飛びつくことができると言いたいようだが、いったいそれに飛びつくことに何の得があるのか。謎は深まるばかりである。
ちょうど接続中だったインターネットでさっそく検索してみると、
たま日記という日記ページがヒットした。8月12日の日記で、なんと歌っているのか気になっていたが雑誌を見てようやくわかった、と書いている。おお、同士よ。同じ疑問を抱いていたのは私だけではないようだ。その雑誌によれば、今時代村では「にゃんまげに抱きつこうキャンペーン実施中」なのだそうだ(抱きついてどうするのかはいまだ不明)。しかし、日光江戸村ではなく伊勢戦国時代村のCMソングだと書いてあるぞ。江戸村のマスコットではなかったのか?
さらに調べてみると、ついに
株式会社 時代村のページが見つかった。時代村という会社は日光江戸村、登別伊達時代村、加賀百万石時代村、伊勢戦国時代村の4つを経営しており、にゃんまげはその共通のキャラクターということらしい。
この時代村の最新ニュースページの文章がなかなかすごい。
創業15周年を記念して、この春、新料金となる時代村。その大きな魅力を伝えるべく、わたしたちは今年度、新たな広告世界を展開してまいります。
テーマは、ずばり来客促進!
せっかくあなたの家から「すぐ、そこ」に、「江戸そのまま」のテーマパークがあるんだから、ぜひ来てほしい!!
・・・・・そんな気持ちを、時代村にしか言えない強烈な誘い文句“来てちょんまげ”と、一度見たら忘れられない話題性のあるCMで、印象深く訴求いたします。
可笑しかったり、激しかったり、ある部分では現代的だったり。
「礼節」と「感動」の時代村には、実はみなさんの知らないさまざまな顔があります。
そんな新しい時代村像を、より強くアピールするために、わたしたちは4月からのキャンペーンをこんな2本柱で組み立てました。
(1)平成10年、春のキャンペーンメッセージは『来てちょんまげ』です。
(2)新キャラクター『ニャンまげくん』登場。
はあ。「時代村にしか言えない強烈な誘い文句
“来てちょんまげ”」ですか。すばらしいセンスである。
「金融がビッグバンなら、時代村は価格破壊のビックリバーンだ!!」という見出しまである。さすが時代村、というしかあるまい。
ニャンまげくんのページ(ポーズ集つき)もあった。こうして見ると、なかなかかわいい……といえないこともない。しかし、ニャンまげくん、「人間の幼児程度の知能を持つが言葉は話さない(ときどきカタコトを発することあり)」んですか。なんだかここだけ記述が学術的。
それにしてもニャンまげくん、耳はどこにあるんだろう?
11月21日(土)
スーパーチャンネルの
『スタトレ前代未聞の24時間』を見る。今年の目玉は、日本初の「スタートレック・ヴォイジャー」第1シーズン全話放映。しかし、4時ごろ、第4話が始まった瞬間に画面が凍る。そして4分後、何事もなかったかのように途中から始まりやがった。スーパーチャンネルめ!(それとも東京ケーブルテレビめ! かな) まあ、それはともかくヴォイジャー、なかなかいいですね。やってることはTNGなんかとまったく変わらないのだが、スタトレはそれでいいのだ。特にホログラム・ドクターのとぼけたキャラクターがいい味を出している。
DS9第4シーズンの第1話も放映されたけど、うーん、これはちょっと。ウォーフは来るし司令官はいきなりスキンヘッドになってしまうし、ダックスやドクターまでが武器を取って戦うし、なんだか誰もが喧嘩っぱやくなってしまっている。戦争ムード一色で、反対するキャラが誰もいないというのもどうかと思うし。こりゃすでにロッデンベリーのスタトレ思想からは遠く離れてますね。アメリカじゃこういうのが人気あるのか。うーむ。
「不明の病気について問題を解決(診断)できる医師がどこかにいるのである。そのような医師を見つけることが大事である」(『ドクターズ・ルール425』より)
これ、日本醫事新報の11月21日号に載っていたメディカル・エッセイに引用されていた言葉を孫引きしてきたもの。もちろんこれは患者さんではなく医者に対する教訓。『屍鬼』の敏夫先生に教えてあげたい名台詞である。
このエッセイ、「"人騒がせな"新しい症候群」というタイトルで木下研一郎先生という血液内科の専門医が書いたものなのだが、ここに書かれている病気も、なんとなく『屍鬼』を思わせるので、ちょっと紹介してみよう。
あるとき、某国立病院の内科に24歳の女性が原因不明の発熱で入院。入院時血球減少症があったが全身状態はよかったので、それほど重く見てはいなかったが、そのあと毎日39〜40℃の発熱が1ヶ月近くも下がらなかったのだという。主治医は考えられるかぎりすべての検査を行い、さまざまな抗生物質や抗結核剤などを使用したが解熱しない。血液専門の大学のドクターにも訊いたがはっきりしたことはわからない。発熱と血球減少の原因はまったくわからず、だんだんと主治医はノイローゼ気味になっていき、内科医局全体が騒然としていく。
このときは手探りのまま考えられる限りの治療を行い、幸い発熱から2ヶ月ほどで完全に解熱したのだが、一時は死亡してもおかしくないほどの状態だったらしい。
その後、病名不明のままこの症例を学会で報告したところ、ある小児科医から指摘された病名はVAHS(ウィルス関連血球貪食症候群)。
VAHSというのは、ウィルス感染をきっかけにマクロファージが増殖、発熱が長く続くとともに血球減少をきたし、ときには死に至ることもあるという病気だとか。この日記を書いている私はというと、こんな病気があるということさえ知らなかった(笑)。
この病気、相当経験を積んだ血液疾患の専門医でも診断は難しいし、その存在を知らなければ当然診断は不可能、と木下先生は書いている。原因不明の発熱と汎血球減少症で亡くなった剣晃関もこの病気だったのではないか、とこの先生は考えているようだ。
そして最後に引かれているのが、最初に引用した言葉。含蓄のある言葉である。
ただ、内科なんかでは、正確な診断をつけることは非常に重要であって、診断がつけば、おのずから治療方針も固まってくるのだが、精神科ではそうはいかないところが難しい。精神科の診断ってのはそれ自体あいまいなものだし(だから宮崎君にも多重人格だの分裂病だのいろんな鑑定がつくのだ)、診断がついたからといって、治療がうまくいくとは限らない。そこが難しいところやね。
明日は連休の中日でしかも入籍一周年記念日だというのに、何の因果か当直に行かにゃならんので更新はなし。やれやれ。