12月10日(木)
久しぶりに読了本報告。
まずはディーノ・ブッツァーティ『石の幻影』(河出書房新社)は、表題作の中篇に短篇5篇を併録した短篇集。読んでみて驚いたのだが、表題作はれっきとした人工知能SF。高原から谷底までの峡谷一面を覆いつくし、人間に理解できる言語を持たず、ただひたすら思考する巨大な機械。そしてその中に閉じ込められている「ある」意識。ストーリーは前半と後半がねじれていてあまり感心しないけれど、この巨大な機械のイメージは圧倒的なセンス・オブ・ワンダーを感じさせてくれる。短篇の中では寓話的な怪獣小説「海獣コロンブレ」が傑作。「拝啓新聞社主幹殿」は、なんだか小森健太朗みたいなネタだな(笑)。
『クロスファイア』の前に慌てて読んだ『鳩笛草』(カッパノベルス)は、超能力を持った女性三人を描く短篇集。心ならずも超能力を持ってしまった女性たちの行動にスポットをあて、超能力を特殊なものとしてではなく、誰にでもあるちょっと人とは違った「能力」のひとつとして描いている。
いつもながら達者な書きっぷり(達者すぎるところが鼻につくこともあるのだが)である上、初期の宮部作品に感じていた「どのキャラクターも優等生すぎる」という不満も、あまり感じられなくなってきている。どの作品もオープンエンディングなので、どうしても主人公のその後が気になってしまうが、それはすでに作者の術中にはまってしまった証拠かもしれない。
角川ホラー文庫から中井拓志
『レフトハンド』、沙藤一樹
『D-ブリッジ・テープ』、田中啓文
『水霊 ミズチ』購入。古本屋にてディーノ・ブッツァーティ
『タタール人の砂漠』(松籟社)購入。
12月9日(水)
今年もまた忘年会シーズンになってしまった。今日は今年最初の忘年会である。こういう、群れて騒ぐような場は苦手なのだが、まあ一応社会人なんぞをやってる手前出ないわけにもいかないわけで、毎年けっこう気が重い季節である。
今日はホテルの大広間を借り切って、病院全体の忘年会。こういう大規模な忘年会は流行らないそうで、今年で最後になる可能性もあるとか。めでたいことである。しかし、今日を無事乗り切ったとしても、これから年末にかけて忘年会軍は波状攻撃を仕掛けてくる。さらに、攻撃の合間にも、予期せぬ奇襲攻撃を受ける可能性もある。年末の停戦までは気を抜くわけにはいかないのだ。
しかしもう12月とはまったく早いものだねえ、などという常套句はあまり使いたくないが、なんだか今年は本当に早かったように感じる。これから歳をとるにつれ、どんどん短くなっていくんだろうなあ。
そういえば昔、『神鯨』というSFを読んでいたら、
c=gy
という数式が出てきて、けっこう感心したことがある。cは光速。gは惑星の重力加速度。yは惑星の1年の長さ(秒)。計算してみればわかるけど、地球の場合これがなぜかほとんど成立してしまう。ちゃんと次元も合ってるでしょ。
『神鯨』によれば、生命が発生する惑星では「c=gy」が成り立つんだそうだ(考えてみれば、地球では当てはまるけど、ほかの例は確認しようがないよなあ)。この式は、比喩的に解釈すれば、人間の心理にも当てはまるような気がする。
1年の長さが短く感じられるようになるに従って、心理的な重力加速度も増大していくというわけ。幼い頃は1年が長く、重力加速度が小さいので自由に飛び回れた(「こどものころは空をとべたよ」って歌もあったし)のに、1年の長さが短くなるにつれ、だんだんと常識という地平から離脱しにくくなるばかりか、人と人との間に働く重力も増大し、しだいに動きがとれなくなっていく。
ついに1年が0秒となったとき、重力加速度は無限大へと発散し、もう二度と地面を離れることはできなくなる。あるいは、1年は無限の時間になり、そのときこそ人は重力の軛から解き放たれて天の高みを目指す、という正反対の解釈でも可。どちらでも好きな方をお選びください(笑)。
12月8日(火)
きのうのニュースステーションでのことである。
今年のヒット商品のニュースで、ヒット商品番付のフリップが映った。横綱は該当なしで、大関は「タイタニック」と「横浜ベイスターズ&横浜高校」(これが商品か、という気もするが)。そして、関脇の地位には「iMac」と並んで、こう書いてあった。
「バイオノート50万」。
これは何だろうか。
バイオノートがヒットしたのはわかるが、50万ってのは何だ。値段か。でも50万もするバイオノートなんてあったっけ。私が買ったのは30万くらいだったが。
などと考えているうちに、フリップは画面から消え、二度と登場しなかったのであった。
ニュースではもっぱらタイタニックの話題ばかりで、バイオノートについてはひとこともなし。
謎が解けたのは、今日の朝、新聞を読んでいたときのこと。
新聞のヒット商品番付の記事にはこう書いてあったのだ。
「バイオノート505」!!!!
おいおいおいおいおいおい。
いくらなんでも「505」と「50万」を間違えますか。確かに「5」と「万」ってのは(「4」と「千」と同じように)よくある誤植だけどさ。いくらコンピュータに弱いことでは定評のあるニュースステーションとはいってもなあ。
まあ、フリップが映っていたのはほんの一瞬なので、私の見間違いなのかもしれないのだけど……でも、ちゃんと「505」と書いてあったとしたら、「50万」と見間違えるはずはないと思うんだけどなあ。
JR東日本のダイヤ改正のポスターはすごい(といっても、東日本地域に住んでいるひとにしかわからないだろうけど)。駅で見た瞬間、私の目はこのポスターに釘づけ。
ヘリコプターに先導され、編隊を組んで雲間を翔け抜ける五台の(いや、五機のと言ったほうがいいだろう)新幹線の勇姿! 懐かしくも力強い絵のタッチは明らかにプラモデルの箱絵、というか小松崎絵をイメージしている。かっこいいぜ。同じタッチの絵で、潜水艦と並んで海中を進む「こまち」のポスターもある。
『クリムゾン・タイド』のパロディCMといい、このポスターといい、わかる人にしかわからないキャンペーンを繰り広げているJR東日本。ほれたぜ、JR東日本。次のキャンペーンにも期待大だ。
『すくらっぷ・ブック』以来のファンなので新刊が出るとついつい買ってしまう小山田いく
『魑魅(1)』(スコラ)購入。牧野修
『屍の王』(ぶんか社)とレオ・ブルース
『三人の名探偵のための事件』(新樹社)、上遠野浩平
『ブギーポップ・イン・ザ・ミラー「パンドラ」』(電撃文庫)も。
12月7日(月)
その1
「わあ、素敵なコートですね。こんなあざやかなイエローの毛皮、私、初めて見ました。これは染めてあるんですか」
「いえ、そうではありません。これが毛皮本来の色なのです」
「でも、こんな毛の色の動物がいるんですか」
「それが、いるんです。なんの動物だかわかりますか」
「うーん、虎でもないし、豹とも思えないし……」
「残念。実はこれはピカチュウの毛皮なんです」
「なるほど、ピカチュウだったんですか」
「本日ご紹介する商品は、ファッショナブルなピカチュウのコート。ピカチュウの本場五島列島の農場で丹精こめて育て上げた最高級ピカチュウ13匹を贅沢に使用した、冬場のおしゃれには最適の一品です。もちろんピカチュウですから耐電性にもすぐれており、冬の静電気の心配もまったくいりません。サイズもS、M、L、LLと4種類用意いたしました。めったに手に入れることのできない貴重な一品を、今回はたったの98000円でのご奉仕。今回限りの特別価格となっておりますので、どうかこの機会をお見逃しなく」
その2
「わあ、このピンクのセーターもすばらしいですね」
「これは、天然の藤崎詩織7人の毛を使用しています」
「天然ならではのあざやかな色ですね。ところで、色はピンクだけなんですか?」
「いいえ、ブルーやグリーン、ライトブラウンなど、豊富なカラーバリエーションを取り揃えています。しかも、自然の素材を大切にし、一切着色はしておりません」
「環境にもやさしいんですね。ところで私、シンプルな黒のセーターがほしいんですけど」
「……黒はありません」
「え」
というようなことを、掲示板の書きこみから思いつきました。だからなんだといわれても困りますが。でも人毛のセーターはちくちくして痛そう。
12月6日(日)
妻と、そのジャニーズ友達のFさんに誘われて、銀座セゾン劇場に
『リボンの騎士』を観に行く。妻とその友達の目当てはV6の井ノ原君らしいのだけれど、私はといえば、生鈴木蘭々と生一色紗英が目当てである。おお、鈴木蘭々、小さいぜ。一色紗英、かわいいぜ。私としてはこの二人を生で見られただけで今日は充分満足である。
ストーリーの方はというと、『リボンの騎士』とはいっても別にマンガそのままではなくて、『リボンの騎士』を上演しようとする高校演劇部の物語。裏方の少女(=鈴木蘭々)の空想の世界と現実を交錯させながら、少女の成長を描くストーリーは、なんだか昔観に行った小劇場の演劇みたいで、懐かしくていい感じ。
たまには舞台もええのう、また機会があったら観に来るか、と思った私であったが、観終わったあと、妻とそのお友達が次に誘ってくれた芝居は、
森光子主演『花も嵐も』! いや、さすがにそれは(笑)。妻とお友達は、東山紀之が出ているから観に行く、というのだが、ジャニーズが出ていれば何でもいいんですか? 森光子と東山がコンビの結婚詐欺師の役だというんだけど、そういう配役をして、森光子以外の誰が喜ぶというんでしょうか。
それならこれは、と次に勧められたのが、錦織一清主演の
『蒲田行進曲』と
『42nd Street』(「怒涛のタップダンス」というコピーはなんとなく「せつなさ炸裂」を彷彿とさせる。「怒涛の英語力」をうたっていた学習塾もあったな)。うーん、まあ考えとくか。かわいい女の子が出てれば観に行ってもいいんだけど(結局それかい)。
12月5日(土)
3ヶ月くらい前からつけていた「てくてくエンジェル」がついに天使になってしまった。単に画面上をうろうろするだけの液晶ドットキャラだし、キャラへの思い入れなんて全然なかったのに、いなくなってしまったとなると、不思議なことになんだかぽっかりと穴があいたような気分である。ああ、3ヶ月間一緒に歩いてきたあいつはもういないのか。柄にもなくちょっとブルーになる私である。私ですらこうなんだから、私などより感受性が強い人には、もっと強い心理的影響を与えるだろうなあ。バーチャルペットおそるべし。
昼間はどっか出かけようと思っていたのだが、結局『かまいたちの夜』を延々とプレイ。スーファミ版はやったことがないのだけど、PS版で新しくついたというフローチャートのランダムジャンプ機能があるおかげで、選択肢つぶしはほとんど卑怯なまでに楽。確かに簡単に進むのはいいんだけど、これではかえってゲーム性が犠牲にされているような気もするなあ。
WOWOW無料放送の『CURE』を録画しつつ、NHK衛星第2の
『奇跡の海』を観る。SF者にとっては「『キングダム』の」といった方が通りのいいラース・フォン・トリアー監督がカンヌ映画祭でグランプリを取った作品。
公開時に賛否両論を巻き起こしたとは聞いていたけど、なるほどこういうことか。これは確かに感想を書くのは難しい映画である。こういうものを見せられていったいなんといえばいいのか。
事故で全身麻痺になった夫と、精神的な弱さをかかえる妻。愛ゆえに夫の理不尽な要求にも答え、ついには命まで犠牲にする妻。そしてラストに起こる「奇跡」。それまで「善意」のもたらす悲劇の物語として映画を観てきた私は、この「奇跡」で完全に困惑してしまった。このシーンで監督が描きたかったのは、やっぱり「神」の存在なんだろうか。夫と妻の関係は、ひとつ間違えば教祖と信者の関係にもなりかねない危ういものだと思うのだが、それでもまったく理性の介在しない無条件の愛は肯定されるべきなのか。
久方ぶりにいろいろと考えさせられる、ずしんと重い映画であった。
12月4日(金)
今日で、日記を書き始めて1周年を迎えました。当時の日記を読み返してみると、今よりずっと短いし文章も硬いし、なんだか今とは別人格のよう。それに1年前はまだ柏崎にいたんですね、ずっと昔のことのように思えるなあ。新潟の厳しい冬も、今となっては懐かしいばかり。
始めた当初は1ヶ月もすればネタがなくなると思ってたけど、なんと1年も続くとは、書いてみれば書けるもんですね(ネタに困るのはしょっちゅうだけど)。人間の潜在能力というのは恐ろしいものである(そこまで大げさなことではないのだが)。おかげさまでアクセス数も順調に増えており、年内には50000アクセスを迎えられそうです(日記のカウンタがトップページのカウンタを追い抜くのも時間の問題)。読者の方々には心から感謝しております。どうかこれからも当ページをご愛顧下さいますよう、お願い申し上げます。
ゆえあって、フレデリック・ポールの50年代の短篇をいくつかまとめて読んでいる。このころのポールは、消費社会をテーマにした一連の短篇(と、長篇『宇宙商人』)を書いているのですね。
まず、
「幻影の街」は、広告が人々の欲望を支配している世界を描いているんだけど、驚愕のラストが用意された大仕掛けな作品。ネタが命な作品だけに詳しくは紹介できないけど、最近公開された某SF映画とそっくりな設定で、オチはさらにふたひねりくらいしてあるといっておくか。一読の価値あり、といってもSFマガジン65年8月号か、サンリオから出た『未来企業』というアンソロジーでしか読めないけど。
「黄金の時代」はSFマガジン66年6月号に掲載された作品で、ロボットによる大量生産で商品を過剰に供給するようになった結果、貧乏人と金持ちが逆転した世界が舞台。ロボットが勝手にどんどん物品を製造してくれるから、貧乏人は大量に物品を消費する義務を負っており、毎日を消費に費やさなければならない。そして、金持ちになるほど消費から解放されていて、「働く」という贅沢を味わうことができるというわけ。こう説明してもなんだか納得がいかんなあ。資源は有限なんだから、無限に物品が製造されるというのは現実的じゃないと思うんだけど。まあこの作品が書かれた当時は、環境や資源の保護という概念はあんまり一般的じゃなかったのかも。
そして
「世界を食べた男」は「黄金の時代」の続編、というか20年後の物語。すでに消費が美徳とされた時代は終わったのだが、ひとりだけ過去を忘れられず消費と過食に取りつかれた男がいる。その男を若い精神科医が治療する、という話なんだけど、バブル後の今に読むと妙に現実感のある設定である。けっこうシリアスな小説だけど、登場する精神科医が考え出した治療法というのがすごいんだ、これが。これには笑っちまいましたよ。でもいいなあ、この治療。私も受けてみたいものである。この「世界を食べた男」を精神科医の視点で解説するのが今回の私のお仕事。
喜多さんも原稿を書き上げたみたいだし、私もそろそろ書かねばなあ。この作品、SFマガジン2月号の50年代SF特集に載るので、すごい治療法が知りたければ、SFマガジンを読もう。
細田さん、私の『アルマゲドン』評はいかにもネットらしいですか。確かになあ。あの感想は、映画館に並んで先々行オールナイトを観たあげく、タクシー代を払って家まで帰った翌日に、やり場のない怒りをキーボードにぶつけて書いたものなので、読み返してみると確かに全然芸がなくてダメかも。今考えれば、『北京原人』『恐怖奇形人間』クラスの超絶勘違い映画として称揚するのが通だったのかもしれないなあ。ダメなものをダメというのは何のひねりもなくて野暮というものでしょうね。
山田正紀
『氷雨』(ハルキノベルス)購入。理由:山田正紀だから。ウィリアム・B・スペンサー
『ゾッド・ワロップ』(角川書店)購入。理由:浅倉久志訳だから。森下一仁
『現代SF最前線』(双葉社)購入。理由:SFだから。
『かまいたちの夜』購入。理由:かまいたちだから。
12月3日(木)
きのうのファッションの話はいろいろと私の無知をさらけ出してしまったようで、妻からも「あなたは色のことがまったくわかっていない」と呆れられてしまった。私には基本的な知識が欠けているため、言っていることがあまりにも初歩的で話にならないのだそうだ。
「色というのは感性じゃなく知識なのか」と訊いてみると「当然!」という。妻もかつては私と同じようにどの色とどの色が合うかわからない人間だったらしいのだが、あるときこれではいけないと配色の本を買ってきて熟読し、「人並みより少しはセンスがいい」(本人談)人間になったのだという。
しかしファッションが知識だってことは、それは本能的、普遍的なものではなく、教養として学び取るものだということだろうか、などとうだうだと私が理屈をこねていると、妻は「これを読め、話はそれからだ」と『配色初級レッスン』なる本を本棚から出してきた。これがつまり妻が熟読した配色の本ということらしい。なるほど、本を読めばある程度は学習できるというわけか。
でも、私は別にファッションセンスの優れた人間になりたいなんて思っちゃいないのだ。実際なれるとは思えないし。私の目標は、もっとずっと低いところにある。私が本当に読みたいと思うのは、
「少なくとも人に奇妙だと思われないためのファッション入門」(笑)。あるいは
「理科系のためのファッション入門」とか(まず「似合う」とはどういうことを言うのか定義するところから始めてほしいな(笑))。そんな本があれば買うんだけどな。マジで。
それに、配色というのが科学的な理論に基づいたものであるのなら、RGBで色を指定すればその色に合う色がいくつも表示されるようなソフトとか作れるはずだと思うんだけどなあ。そういうのがあれば楽だと思うんだけど、誰か作ってくれませんかね。
穴開き本マニアも大満足の装丁のチャールズ・ペレグリーノ
『ダスト』(ソニー・マガジンズ)購入。「クラーク絶賛」で「解説・金子隆一」ってことは、どこにも書かれてないけど、これってSFだよね。古龍の武侠小説
『楚留香 蝙蝠伝奇』全三巻(小学館文庫)も購入。金庸と違って文庫オリジナルなのは助かるなあ。
12月2日(水)
服を買うのが嫌いである。
なぜかというと、何を選べばいいのか途方に暮れてしまうからだ。
私は自慢じゃないがファッションセンスというものがまったくなく、どれとどれを組み合わせればいいのか、また自分にはどんな色が似合うのかということも全然わからない。
だいたい、自分に似合う色なんてのは、それまでに着てきた服の習慣から形成された単なる思い込みではないのか? 日本人なんて、肌の色も髪の色もみんな同じではないか(最近じゃ髪の色が違う人も多いけどさ)。人によって「似合う色」がそんなに違うというのは理解できないのだがな。「この色がお似合いですよ」とか店員は言うのだが、いったい何を根拠にそう言っているのか教えてくれた試しがないぞ。
それに、ちょっと服を見ていると必ず店員が寄ってきて「何をお探しでしょうか」とか「これが最近の流行りですよ」とか言うのが気にいらない。大きなお世話だ。勝手に探させてくれよ。私が本屋やCDショップで過ごすのが好きなのは「ホラー小説をお探しですか、それなら『屍鬼』がよく売れてますよ」だの「あなたには友成純一がお似合いですよ」などと余計なお節介を焼く店員がいないからだ。
だから、女性読者には信じられないかもしれないが、私にとって服を買うことはストレス解消にはなりえない。それどころか、服を買うこと自体が強いストレスなのである。
しかし、当然服を買わねばならなくなることだってある。そういやコートもボロボロになってきたし、セーターも大学時代に買ったようなかなり古いのしかない。ズボンも次々とダメになっていく(なぜダメになるかはいつか語ることもあるだろう(謎))。
てなわけで池袋西武でコートとセーター、厚手のシャツにズボン2本を購入(前置きが長かったな)。けっこうな荷物になってしまったが、私は服を買うときには一気に大量に買うのだ。理由は当然、なるべく服を買いに来る回数を減らしたいから(笑)。
コートはこげ茶色のを買ったのだけど、思わず店の人に「どれが売れてますか?」と尋ねてしまった私である。ああ情けない。「売れてる本」とか「売れてるパソコン」など一顧だにしたことがないんだけどなあ。つまり、私は本とかパソコンを選ぶ目には自信がある(というか自分なりの価値観を持っている)のに対して、服の選択眼にはまったく自信がないのだ。
同じように、「売れてる本」をついつい買ってしまう人というのは、本を選ぶことに自信がないのだろうね。自信がないから、多くの人が選んだ本なら無難で間違いないだろう、ということになるわけだね。実際は、人間は集団になるほど頭が悪くなるわけで、『神々の指紋』とか『脳内革命』とかどうでもいいような本ばかりが売れることになってしまうんだけど。本に関して言えば確実に、多くの人が選ぶより、ひとりの目利きが選んだ方がはるかにいいんだけど、服でもそうなのかな。
西武には
「私が好きな、私になる」という、わかったようなわからないようなコピー(公募で選ばれたものらしい)が書かれたポスターがあちこちに貼られているのだけど、きのう
『心はどこへ行こうとしているか』を読んだ影響か、どうもこのコピーの裏のメッセージが気にかかってしまう。
「好きな私になる」からには、論理的に言って、今は「私のことを私は嫌い」でなければならないことになる。つまりこの文は
「今の私のことを私は嫌いであって、好きな私になるためには西武で消費せよ!」ということなのだね。「私のことを私は嫌い」なんていうメッセージが、いとも簡単に受け入れられてしまうのには、愕然としてしまうなあ。以下、『心はどこへ行こうとしているか』より引用。
香山……一連の自分探しは自己開発セミナーとかアロマテラピーなど世の中で肯定されているものであり、多重人格は一応病気といわれています。そして、酒鬼薔薇事件は犯罪だから、それぞれ質は違います。しかし、そこに共通しているのは、「自分ではない、もうひとりの自分がいるはず」とか「この私は本物ではなくて別の自分がいるのではないか」という着想です。
(中略)
大澤……多重人格への傾向まで孕みながら、幻想の自分を生きようとする人は、いちばん肝心なところで自分を受け入れるという作業が終わっていないような気がします。(中略)最初の「私は私である」というシンプルな自己肯定なしで自己否定をすると、自己をトータルで否定することになるので、まるで多重人格化していくような現象が生じる。「私」そのものを、別の「私」に変えてしまおうとしているかのような現象が出てくるわけです。
家に帰ってみたら、妻が『エクソダス・ギルティ』にはまっているよ! 私はまだ少しもプレイしていないというのに、もうほとんど終わりそうではないか! ずるいぜ、私が先にやろうと思ってたのに!
12月1日(火)
大澤真幸+町澤静夫+香山リカの対談集『心はどこへ行こうとしているか』(マガジンハウス)を読む。酒鬼薔薇聖斗、オウム、援助交際などの現代の問題と社会の変容について社会学者と精神科医が語った対談集である。著者として3人の名前があがっているが、3人揃って対談しているのではなく、大澤真幸が、2人の精神科医とそれぞれ別個に2回ずつ対談したものを収録したもの。内容も、大澤真幸が自説を展開してそれについての意見を求める、という具合に展開していくので、実質上は大澤真幸対談集といった方がいいかも。
対談ではあるのだけれど、かなり内容は濃くて、「現代社会の病理」について書かれた本の中ではもっともわかりやすくまとまった本といっていいと思う。大澤真幸の議論の進め方はとても論理的で、読んでいてなるほどと思える点が多い(精神科医の発言よりもいいんだ、これが(笑))。
「旧世代も新世代も『父の復権』を求めている点では同じだが、求めている『父』は180度違っている」とか、「現代の若者は『私は私である』という根本的な自己肯定が得られていないのではないか」という議論など目から鱗が落ちるところもたくさんある。
お薦めです。
ただ、香山リカとの対談はあまりかみ合っていない感じがするなあ。これを読むとわかるのは、香山リカという人はやっぱりラカン派なのだなあ、ということ。大澤真幸が何か言うと、必ず「それはラカンのいう○○ですね」と返すのだ。私はラカンについて何か語れるほどラカンのことを知っているわけではないけど、例えばラカンというものを絶対的な存在として、現実をそれに当てはめるという行為はあんまり生産的なことではないような気がする。フロイト派でもラカン派でも、精神分析の人たちの語り口はそういうのが多くて、なんだか鼻白んでしまうことも多いんだよなあ。SFマガジン1月号の香山リカエッセイもそうだし。
大澤真幸は、エヴァンゲリオンは「読み解くにはあまりにもあからさま」とか言いながらも、エヴァについて語る語る。よほど気に入ったらしい(笑)。何かというとエヴァを持ち出すので、全編にエヴァがあふれているのが、今となってはなんとも恥ずかしいのはご愛嬌。
斎藤環の
『社会的ひきこもり』でも本書でも、結論部ではインターネットなどの電子メディアに、現在の若者たちが直面している困難を克服する可能性を期待している点が共通しているのだけど……確かに、社会からひきこもっているような人たちには、インターネットは「社会への窓」として活用できるかもしれないけど、過剰な期待はしない方がいいと思うな。インターネットだって自己を無制限に肯定してくれるわけじゃない。むしろ、語るべきもの、表現すべきものがなければ無視されてしまうも同然の社会なのだから。