2月28日(日)
ドッペルゲンガーという現象がある。
伝承とか小説の中の出来事と思われがちだが、実はこれ、精神医学界でも古くから話題になっている現象である。まれではあるが、こういう症状を訴える患者が確かにいて、昔から多くのの論文が書かれているのだ。もっとも、純粋に学術的な興味というより、いくぶんロマン主義的な関心(興味本位ともいう)であることは否定できないのだけれど(多重人格もついこの間まではそうだった)。最近では、精神科医の春日武彦さんが『顔面考』という本でドッペルゲンガーについて大きく取り上げていますね。
藤縄昭「自己像幻視とドッペルゲンガー」(臨床精神医学76年12月号)という総説によれば、典型的なドッペルゲンガーは、
・目の前数十センチないし数メートルのところ、あるいは側方に、はっきりとした自己自身の像が見える。
・多くは動かないが、ときには歩行、身振りに合わせて動作する。
・全身像は少ない。顔、頭部、上半身などの部分像が多い。
・一般に、黒、灰色、白などモノトーンであることが多い。
・平面的で立体感を欠き、薄いという場合もあれば、ときにはゼラチン様ないしガラス様に透明な姿で見えることもある。
・自己像は自己自身の姿とかならずしも似ておらず、表情が異なったり、衣服が異なったり、さらには若かったり甚だしく老けて見えたりすることもある。
のだそうだ。
そして、重要なのは
どのような姿をとって現れても、その人物像が自己自身の像であると直感的に確信して疑わないのがこの現象の特徴だと言われているということ。
さてドッペルゲンガーの実例だけど、須江洋成らによる「多彩な自己像幻視を呈した非定型精神病(満田)の1症例」(臨床精神医学98年1月号)という文献には、まさにタイトル通り驚くほど多彩な例が報告されているので紹介しておこう。
患者は26歳の女性。あるとき「就寝して間もなく壁際に黒い洋服を着ている人物が見えた」。「その人物はまるで影のようで、顔は見えなかったが、それは自分であるとすぐに確信した。自分を見つめているように思えた。夫に伝えようと視線をそらしたところ、その影は自分の視界に入ろうとするかのように移動した」という。これはごくオーソドックスなドッペルゲンガーといえる。
18歳のとき最初に見たドッペルゲンガーは、「夜間に突然、向こうに歩いていく裸の人物が見え、『誰?』と声をかけて振り返った姿が自分であった」というものだったという。
その後、「電車の中からホームを見ていて階段を降りていく自分が見えた」「ショーウィンドウに映る自分を見ながら髪を整えていたとき、隣で同じことをしている自分が映っており、何か話しかけてきたが間もなく消えた」「出前を取り、お金を払おうとしたところ、先に払おうとするかのように玄関に向かう自分の姿が見えた」など、さまざまなドッペルゲンガーを体験。
「歩いていたとき自転車に跨るようにして壁に寄りかかりながら自分を見ている幼い頃の自分が見えて、近寄ろうとしてつまづき顔を上げたときには消えていた」という年齢の違う自己を見た体験もある。
さらに、隣の部屋から様子をうかがっているなど、近くにいるもうひとりの自分の気配を感じることもあるという。
最後の二つの例からもわかるように、分身というのは、別に自分にそっくりだから分身であるというわけではないのだ。たとえ幼い姿であろうと、気配だけであろうと、それが自分であると「直感的に確信して疑わない」のである。
最後の例などかなり怖いと思うのだが、この患者によると、はじめはひどい恐怖を覚えたが、次第に誰にでもあると思うようになって、なんとも思わなくなったという。こう何度もドッペルゲンガーを体験していれば、そんなものなのかもしれない。
さらに彼女はこのほかにも、極めて珍しい体験を報告している。幼い頃、衣服は異なるが薪を取りに行く母親と薪をくべている母親が同時に見えて、「どっちがお母さん?」と聞いてきた、という体験を鮮明に覚えているのだそうだ。
他人における二重身、とでもいうのだろうか。これは強烈な経験だったろうなあ。この体験については、論文の著者も正直言って考察に苦しんでいる様子。私にもよくわかりません。
2月27日(土)
渋谷ユーロスペースのロシア映画秘宝展2本目、
『火を噴く惑星』(1962年作品)を観に行く。これはもう、ちらしに載っていた解説そのままの作品としかいいようがない。
金星に降りた5人の宇宙飛行士と、敬語でしか命令に従わないロボット“ジョン”は、いきなり巨大な植物に食べられそうになる。跳襲するゴジラ群団、徘徊する大翼長竜、火山の爆発。時折聞こえる美しい声の正体は? 地球に帰還できるのか? カルト的人気を誇る手作りSF快作。
最初、「跳襲」は誤植かと思ったのだがそうではない。本当に「跳襲」としかいいようがない登場なのだった(でも「群団」と「翼長竜」は間違いだと思うがなあ……)。
なんともおかしいのが、未知の惑星に着陸した宇宙飛行士たちの行動。この映画の中では金星は恐竜の惑星なのだが、彼らは巨大な首長竜に遭遇しても『ジュラシック・パーク』のように息を呑んだりはしない。喜び勇んで走っていったかと思うと、ピストルで尻尾を打ちぬき、試験管をかざしながら「血液採取できましたー」と嬉しそうに言うのである。植物に襲われても、翼竜に追いかけられても、遭難した仲間を救助しに行く途中でも、標本の採取と写真撮影は忘れない。まさに科学の徒なのであった。
ロボットもなかなかいい味を出している。この時代、ロボットを奴隷として扱うことは禁じられているらしく、ちゃんと乗組員の人数の中に入っているし、「ジョンさん、計算してください」とか丁寧に言わないと命令に従ってくれない。
たったひとりのヒロインを全然活躍させないのは惜しいとか、ロボットの最期はもっと感動的に盛り上げてほしかったとか、不満はいくらでもあるのだけれど、なんとも脳天気な雰囲気といい、意外に気の利いたラストといい、けっこう楽しめる作品である。
2月26日(金)
国内初の脳死患者からの臓器移植ってことですが、こりゃいくらなんでも騒ぎすぎでしょ。マスコミが病院に大挙して押し寄せている様子をみると、まるで筒井康隆あたりのブラックな近未来SFを見ているようである。ひとことでいえば、悪趣味。そしてそれを見ている私たちも、悪趣味という意味では同罪。自然な医療行為として移植が行われるようになるまでは、まだまだ道は遠いんだろうなあ、この日本では(ため息)。
脳死問題は海外ではあまり問題にはなっていないようだが、それに対しキリスト教圏で大きな問題になっているのが中絶問題ですね。「どこから死んでいるのか」を問題にする日本と、「どこから生きているのか」に異様にこだわっている(ように見える)アメリカは、まさに対照的。ここから日米の文化の差について考察したりもできるのだろうけど、こういうひとつの事例に基づく考察ってのはどうやっても恣意的な結論になりそうなのでやめときます。
森山さんが、脳の形には個体差があるのに、実現している機能には大した違いはないことに疑問を感じているようだけど、私としてはそういうことは考えたことがなかったなあ。精神科医の立場からすると、個人による脳の機能の多様性の方が驚異的なのだけど。これほどまでの人格の多様性はいったいどこから生じるのか、ということですね。要するに、低次機能に着目するか高次機能に着目するかで印象も変わるってことだろうけど。
2月25日(木)
少し遅くまで仕事をして家に帰ると、妻はまだ戻っていなかった。
妻も仕事で遅くなるのだろうか。そう思ってテレビを眺めたり、パソコンに向かうなどして味気ない時間をやり過ごし、ふと時計を見たときにはすでに8時半を回っていた。
おかしい。私は眉をひそめた。
遅すぎる。妻の帰りがこんなに遅くなることはめったにない。たまたまあったとしても、今までは事前に「今日は遅くなるから」と告げていたはずだ。
時計は9時に近づいていた。妻は帰らない。
いったいどうしたのだろう。もしや、何かの事故にでもあったのだろうか。それともふがいない夫に愛想をつかして、とうとう家を出てしまったのだろうか。
ここしばらくの己の姿を思い返してみると、私は決してよき夫であったとはいえない。インターネットとSFとに夢中になるあまり、私は妻の心の微妙な変化に気づいていなかったのではないだろうか。
暖房もつけないままの寒々とした部屋の中でそんなことを考えていたとき、ふいに電話が鳴った。
妻だろうか。
受話器を取る。
「もしもし」問いかけるように、私は言った。
「どうしたの?」妻の声だ。しかし、いきなり「どうしたの」とは。それは、私の方こそ言いたい台詞だった。
「どうしたって……」そう言いかけた私に口をはさむすきを与えず、妻はたたみかけるようにこう言った。
「今日はSFセミナーの打ち合わせだよ」
そうだった。そうだった。
今日は打ち合わせなのだった。メーリングリストでお知らせが届いたというのに、私はそれをすっかり忘れていたのだった。
さらに間の抜けたことに、私は先週の木曜日、1週間間違えて待ち合わせ場所に行ってしまっていたのだった。間違った日に行ったあげく、正しい日にはすっかり忘れていた愚か者、それが私である。
ごめんなさい>
みらい子さんはじめスタッフの皆様。
SFマガジン届く。私も書いてるインターネット特集だけど、紙媒体(……と書こうと思ったら「神媒体」と出た。天使のことかな、これは)のこういう記事は、いくらなんでもこれを見ながら一からURLを打ちこむ気にはなれないのが欠点。ハヤカワサイドで、どこかにリンクサイトを用意するべきだよなあ、と思っていたら、
大森望さんが作ってくれているではないか。さすが。
書評欄で、篠田節子『レクイエム』が大倉、東両氏、岡本賢一『鍋が笑う』が大倉、喜多両氏にダブって取り上げられているのはどうなんだろう。
喜多さんの日記でだいたいの事情はわかるのだけど、ちょっと違和感があるなあ。まあ、ミニ・クロスレビューだと思って読めばいいか。
恩田陸の連載は相変わらず馬鹿SFしていて素晴らしい(笑)。
リンダ・ナガタ
『幻惑の極微機械』(ハヤカワ文庫SF)、ドナルド・ジェイムズ
『モスクワ、2015年』(扶桑社ミステリー)購入。後者はタイトルに惹かれて買ったが、帯を見ると北上次郎絶賛とあるではないか。北上次郎の誉めた本を面白く感じた試しのない私(笑)としては、買ったのは失敗だったか。
2月24日(水)
なんでまた、たいがいの本屋では精神医学書の棚だけは、医学書コーナーではなく人文書コーナーにあるんだろうなあ。確かに心理学の本と一緒に並べたいという気持ちはわかるが、私としては医学の中の精神医学をやっているというつもりでいるので、人文書コーナーの精神医学の棚に行くたびにどうも居心地が悪い気がしてしまう。
それでもまだ一ヶ所に置かれているのならいいのだが、私のよく行く池袋リブロでは、精神医学の中でも教科書類は4階の医学書コーナーにあるのに、その他の本(分裂病やうつ病に関する専門書も)は心理学書と一緒に3階の人文書コーナーに並んでいて、きわめて使いにくい。ここだけじゃなく、けっこうこういう本屋が多いんだよなあ。なんとかしてくれ。
さてこの前振りとは全然関係ないのだが、こういう人文書コーナーにある精神医学の棚に行くと、ユング派の人たちが書いたファンタジー論が何冊も並んでいますよね。河合隼雄とか。
そうした本をぱらぱらとめくってみるたびに違和感を覚えるのだが、ああいう人たちが熱っぽく語っている「ファンタジー」ってのはいったい何なのだろう。一見一般的な「ファンタジー」について語っているように見えて、実は私のような(特にSF系の)本読みが考えている「ファンタジー」とは、定義からして違うように思える。
ユング派の人たちが例に出すファンタジーといえば、だいたい『指輪物語』とか、『モモ』に『ゲド戦記』といったところ。まあどれも確かにファンタジーであることに異論はないのだが、それがファンタジーなのだ、と言われると首を傾げてしまう。この種のファンタジーのよい読者でない私がいうのも何なのだけど(『モモ』は全然おもしろいとは思いませんでした)。『リバイアサン』とか『黎明の王、白昼の女王』とか、あるいは『バベルの図書館』とか、そういうファンタジーはどうなるの?
もちろん、そういうファンタジーもやろうと思えばユング読みはできるのだろうけど、あんまりそういう読み方に意味があるとは思えんのだよな、私には。すべてをイニシエーションと癒しの物語として読んでしまうことは、ファンタジーの多様性を軽視することになりはしまいか。「シャドウ」とか「トリックスター」とかいう用語は、確かにファンタジーを読み解く上で強力なツールではあるけれど、何にでもそれを当てはめればいいというものでもあるまい。
ファンタジーによる癒しを説くのは勝手だし、確かにそういう物語もあるんだろうけど、ファンタジーとはそういうものだ、という押しつけはやめてほしいなあ。ファンタジーは別に心理的な成長のためにある
わけではない。少なくとも私はファンタジーに癒しなんか求めちゃいない。それが異世界を感じさせてくれる物語だから読むのだ。
2月23日(火)
私としては以前から常識だと思っていたことがあるのだが、雑誌や新聞を読んでも、どういうわけか誰もはっきりと書いていないのが不思議だった。
先ごろ亡くなったジャイアント馬場、あれは明らかに下垂体性の「巨人症」(Gigantism)だよね。
こう書いても誰も驚く人はいないよねえ。だってどう見てもあの体型は普通じゃないでしょ。正常か異常かに分けるとしたら、あの体型は「異常」だ。
巨人症というのは、下垂体腺腫などによって成長ホルモンが過剰に分泌される病気。腫瘍ができたのが身体成長期なら体全体が大きくなって巨人症に、成人になってからなら体の末端だけが大きくなって
先端巨大症になるのだ。
そんなわけで、ジャイアント馬場が亡くなってこのかた、彼が下垂体腺腫だったという証拠はどこかにないものか、と思っていろいろな新聞や雑誌をチェックしていたのだが、どういうわけか誰もがその話題を避けているようで、「腫瘍」の文字はどこにも見当たらない。
今日になってようやく、書店で立ち読みした追悼ムックにこんな記述を見つけた。巨人軍時代、下垂体腫瘍により視神経が圧迫されて視力障害を引き起こしたため、開頭手術をした、と。
なるほど、やっぱり下垂体腺腫だったようだ。このときに腫瘍は摘出されたのだろうが、それまでの間この腫瘍から分泌されていた成長ホルモンが、あの独特の体型を形作ったことは間違いない。しかし、このムックにも、下垂体腫瘍の記述はあったものの、「巨人症」の文字はどこにもなかった。
「巨人症」に触れるのはそんなにタブーなんだろうか。一目見れば誰が見ても明らかなんだから、隠しておいても何の意味もないし(触れない方がかえって不自然だ)、別にそれを書いても差別的でも何でもないと思うのだが。むしろ、はっきり書いた方が、同じ病気を抱えた人たちへの励みになると思うんだけどねえ。
書店巡回。半村良の伝説シリーズ最新作がハードカバーで出ているのを発見。しかし、このタイトルは! ウェブ上のSF書評サイトへの挑戦かっ! 面白い、受けて立とう……と思ったけど、結局買いませんでした。でも取りあえず最初の文字だけは出すことに成功。「乂」(がい)。(どういうタイトルかは書店で見てね)
我孫子武丸
『腐食の街』(双葉文庫)購入。
ださこん賞にノミネートしていただいた。ありがたいことである。
2月22日(月)
毎週月曜日の昼休みは、製薬会社の説明会。いつもなら、何年も前に発売されて、我々もふだんからよく使っているような薬の説明が多いのだが、今日はちょっと違う。心なしかいつもよりも医者連中の集まりもいいようだ。今日の説明会は、ファイザー製薬から新発売になるクエン酸シルデナフィル製剤、商品名
バイアグラなのであった。
「バイアグラ」というネーミングは、あんまり薬らしくない奇妙な名前だと思っていたが、なんでもバイタル(生命の)とナイアガラを組み合わせて作った造語なのだそうな。なぜにナイアガラなのかといえば、製薬会社の人によれば「ナイアガラはアメリカでは新婚旅行のメッカだから」なのだとか。ホントか?
バイアグラの治療疾患はもちろん、勃起障害(Erectile Dysfunction=ED。インポテンツという言葉は侮蔑的だということで、最近じゃ使われないのだそうな)。加齢に伴ってEDの有病率は増えて行き、60-65歳では完全型と中等症を合わせると55%、66-70歳になると70%にものぼるのだとか。しかしなあ、有病率が50%以上って……普通こういうのは病気ではなくて、正常な老化現象といわないか?
むろん、EDは老化に伴なうものばかりではなく、脊髄損傷とか心疾患でも起こるわけで、こういう患者にバイアグラを使うのは別に問題ない。しかし、老化によるEDにまでバイアグラを使うというのは、私としてはどうも抵抗がある。性的な能力が衰えるのは自然な老化現象であって、薬を飲んでまでそれに抗うのは見苦しい気がするのだがなあ。年老いてまで、性的な能力がなければならないのか?
性的能力は男性のプライドの維持のために必要なもので、抑うつを防止することにもなるというのだが、そんなものによって保たれているようなプライドなど早いうちに砕いてしまった方が有益なんじゃないかとすら思うなあ。結局、バイアグラなんてものは、男性中心的な幻想の維持に一役買うだけなんじゃないか、と。暴論ですかね、私は全然そうは思わないのだけど。
それに、すでに大原まり子さんほかいろんな女性論者が指摘していることだけど、ピルの解禁があーだこーだと議論するばかりで一向に実現しないのに比べ、バイアグラの承認はあまりにも早過ぎる。これでは、女性に性の主導権を与える薬は禁止するくせに、男性に都合のいい薬はすぐに承認する、と批判されても仕方がないよなあ。
そんなわけで、どうもバイアグラの認可には疑問を感じざるをえない私である。バイアグラが厚生省に認可され、患者さんに処方してくれと頼まれたとしても、私はたぶん処方しないだろうなあ。副作用も怖いし、裏で売買される可能性もあるわけだし。
バイアグラのパンフレットとともに、バイアグラロゴ入りボールペン、バイアグラロゴ入りレポート用紙を入手。実際使うのはけっこう恥ずかしいぞ、これは。試供品はなしだ(笑)。
2月21日(日)
カール・ハイアセン『虚しき楽園』(扶桑社ミステリー)読了。ハイアセンは日本ではあんまり人気がないようだけど、私の好きな作家の一人である。ハイアセンの持ち味といえば、ひとりとしてまともな人間のいないキャラクターと、先の読めないオフビートな展開。今回も、元州知事をしていた巨漢のホームレスだの、サンテリアの神を信奉する建築監視員だの、髑髏でジャグリングをする航空事故生存者だのと、奇人変人が山ほど登場し、巨大ハリケーンが街を破壊しつくしたあとのフロリダを舞台に、スラップスティックな物語が展開する。ストーリーはどんどん脇道にそれていくようでいて、最後には感動の(?)大団円となりきっちりとまとめあげられているあたりは、まさに職人芸である。
ハイアセンの作品は一応犯罪小説に分類されているけれど、ファンタジーやSFのファンにも面白く読めるんじゃないかな。『ゾッド・ワロップ』が気に入った人にはお勧め。