4月10日(土)
精神科がほかの科と違うのは、患者さん本人は治療してほしくなくても、ムリヤリ治療してしまう(こともある)ということ。
ある患者さんは、一日中壁に向かってぐるぐると指で何か文字を書いていて、話しかけても何も答えてくれなかった。肩を叩いて振り向かせようとしても、うるさい、と邪険に振り払ってまた壁に向き直ってしまう。
最初は薬すら飲もうとしないので、点滴で薬物を流しこむしかなかった。しかもすぐに点滴を抜こうとするので、手足はベッドに拘束せざるをえない。
しばらくすると薬は飲むようになったが、それでもなかなかよくならない。薬をいろいろと変更してみても、まったく状態は変わらないのだ。治療は膠着状態に陥ったまま、何ヶ月もの時間がたっていった。
しかし、作業療法に参加させ、家族に頼んで一時帰宅させ、とさまざまな治療を試み、根気よく彼につきあっていくうちに、徐々にではあるが彼と会話ができる時間が増えてきた。
あるときなど、ちょっと笑って「退院したら外科と精神科の外来日は同じにしてくれないかなあ」とまで言った。私は驚いた。少し前までは、彼にそんな現実的な判断能力があるとは思いもよらなかったのだ。
帰ってきた。こちらの世界へ。
大げさでなく、私はそう思った。彼は、私たちには覗き見ることしかできない異世界から、私たちの住む世界へと帰ってきたのだ。
私は素直にうれしかった。
しかし、このうれしさはいったい何なのか。
「異常」を「正常」へと矯正せずにはおけない、正常者のエゴに基づくものなのか。そして、「治療」を施され「正常」の枠に押し込められた患者は果たしてその前より幸せなのか。そんな、7日の日記に書いたような疑問を感じるのも事実だが、私としては、ただこの「うれしさ」を信じたいと思う。
結局は、治療を拒んでいる患者さんを「治す」ことの根拠は、ここにしかないような気がする。
全然論理的ではないけれど。
テレビで『らせん』を見る。これはつまらんなあ。怪談だった『リング』をひとつひとつSFの言葉で解釈しなおしていく、という原作の面白さがまったくなくなってしまっている。確かにオチは原作と同じなんだけど、これじゃ全然ぴんと来ないよ。確かに、『らせん』は映像向きじゃない作品なんだけれど。
4月9日(金)
栗本薫『鷹とイリス』(ハヤカワ文庫JA)読了。おお、久々に読み応えがある巻ではないか。シリーズ開幕以来の謎がついに解き明かされ(まあ予想の範囲ではありましたが)、これからいよいよ物語は佳境に入ってくるのかな。ただ、ナリスといいアムネリスといい、性格がころころ変わって一貫していないのがどうも気にかかるけど。それに、「マインド・コントロール」とか「モード」とかいう言葉遣いにも違和感があるなあ。でも、こんなところに違和感感じてたらグインは読めないかも。まあ、それ以外は久しぶりに面白いと思えた巻でありました。
上遠野浩平『ブギーポップ・オーバードライブ 歪曲王』(電撃文庫)も読了。今までに比べ、ちょっと肩の力を抜いた作品のような気がするが、まあ、これもまたよし。しかし、鳥頭の私はそろそろ人名とか人間関係とかがわからなくなりつつあるぞ(みんな揃いも揃って高校生なんだもんなあ。当たり前か)。それに、そろそろブギーポップという枠を超えた(ブギー以外の)作品も読んでみたいんだけどなあ。
今日は本の話ばかり。池田晶子『魂を考える』(法蔵館)を読んでいたら、「がんと闘う」という話題で、こんなことが書いてあった。
むしろ、「闘う」「闘わない」というそうの構えのほうに、無理があるのではなかろうか。「闘う」という言い方をする限りは、相手は「敵」である。しかし、がんといえども、自分(の体)の一部である。「敵」と名指されれば、相手だってその気になろう。とくに仲良くするのでもなく、とくに敵視するのでもなく、同じ自分の生命現象を認めて付き合う。それが穏当なところではなかろうか。私にはそんなふうに感じられる。
これは、7日の日記に書いたことに通じますね。「病気と戦う」とか「闘病」とかいうように戦いの比喩で病気を語るのはどこかおかしいような気がする。
この本、こんなふうに示唆に富む箇所も多いんだけど、「がんでなくても人は死ぬのだから、がんと死は関係ない」という論理には納得がいかないなあ。それに、フロイトには失望したがユングには共鳴する、とか「魂の宇宙的布置」だとか、「おそらく、宇宙は、善の極と悪の極の二極からなる」とか、そのへんの主張になると、この人どうもトンデモに片足突っ込んでるような気もするんだけど。
しかし、なんでこの人は常に喧嘩腰で、自分は特別な人間だとことあるごとに主張してるんだろうか。
4月8日(木)
春だ。
そうだ、京都行こう。
ということで、近々京都へ行く予定。
といっても、別に遊びに行くわけではない。またも学会なのである。
でもまあ、私が発表するわけでもなく、単に興味本位で行くだけなので遊びかもなあ。
参加するつもりなのは、4月25日から26日まで行われる、「日本病跡学会」という学会。病跡学という聞きなれない名前の学問は、作家や芸術家などの創造性を精神医学方面から考察する、という分野である。医学の中で最も文系的な精神医学の中でも、さらに文系的な学問である。
学会の演題を眺めてみても、「舞踏身体による昇華――ニジンスキーの手記より」とか、「藤沢周平文学の分析」「映画監督・黒沢明の作品分類――自殺企図の前後で」など、どこが精神医学なんだ、文芸批評とどこが違うんだ、というタイトルばかりである。この学問、いうまでもなく対象者が生きている場合非常に失礼にもなりかねないので、たいがいは死んだ人を扱うことになっている。死んでりゃいいのか、本人が死んでても遺族が怒らないのか、という疑問もあるけど、死んでりゃいい、ということになっているらしい。
まあそういう偉大な作家とか画家なんかの病跡の発表が多いのだけれど、一ヶ所だけ、ちょっと毛色の違う発表が集まったブロックがあるのだ。テーマは「現代日本の病跡的シーン」。このブロックの時間帯がものすごくて、なんと夜9時まで発表が続くのだ。その名もナイトセッション(普通の学会だと、発表は昼間のうちで夜は懇親会、というパターンが多いのだが)。演題をみると、「かくも〈仮想=現実的〉な補完――『新世紀エヴァンゲリオン』あるいは90年代アニメーション文化における父の機能について」「アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』における思春期の危機と生きる姿」。エヴァが2題(笑)。
さらに「山田花子の病跡」「尾崎豊――その芸術と死について」「ビートたけしと北野武のあいだ」という具合(え、たけしは生きてるだろうって? まあ例外はどこにでもあるのだ)。当然というか何というか、司会は香山リカ(もちろん本名で出ているのだが、本人が一般には本名を公開していないのでここでも明かさないでおく)。
こりゃ、オタク精神科医を自任する私としては、聞きにいくしかないっしょ、とばかりに学会出張を決意したというわけ。
私としては、エヴァとか山田花子みたいにいかにも病的で分析してくださいと言わんばかりの作品を分析してどうする、あだち充(ここのページの分析はみごとです)とか、そういう誰も病的とは思ってない作家を取り上げてみたらどうだ、とか思わんでもないのですが、まあ、旧弊な学会ではこういうセッションが行われること自体が貴重なのかも。
でも、今さらエヴァはないよなあ。せめてlainとかに。
栗本薫『鷹とイリス』(ハヤカワ文庫JA)購入。
4月7日(水)
ようやく考えが少しまとまってきたので覚え書きとして書いておこう。私が医学に感じた違和感について。
大学で医学を学ぶことになった私がまず閉口したのは、医学という学問があまりにも人間中心的なことだ。なんだこれは。こんなものは科学の風上にも置けないではないか。「病気」を「治す」こと。それが、なんの疑問もない正義としてまかりとおっていて、それを疑うという姿勢がまったく欠けているのだった。
いや、医者に治すことに疑問を抱かれちゃたまらん、という患者さんの気持ちもわかるが、まあ最後まで読んでほしい。
はたして「治す」ことは「正しい」のだろうか。それが私には疑問だった。「病気」という生物学的な変化それ自体は、悪でもなければマイナスでもないはずだ。もちろん、病気によって人間はいろいろな不利益をこうむるから「治す」わけだけど、そういった不利益と変化そのものとは分けて考える必要があるだろう。私たちはそのような変化を「病気」と呼んで(歯みがきのCMに出てくる虫歯菌のように)悪のイメージを投影するが(「社会の癌」とか病気のイメージで悪を語ることさえある)、「病気」といわれる変化は生体の防御反応であることも多いし、インフルエンザウィルスや癌細胞の立場からすればまた別の言い分があるはずである。
そんな人間中心的な医学の中でも精神医学というのは、ちょっと特殊な分野である。精神医学は、精神という巨大な謎の傍らで足掻いている学問である。精神病理学やら生物学やら精神分析やら、無数の人々がさまざまなアプローチで挑んでいるけれど、誰一人として精神の秘密を解き明かした者はいない(そんなことは誰にもできないのだ、と誰もが感じている)。他の身体医学のように病気という悪と「戦う」というメタファーは無効だし、「治してやる」といった傲慢な態度は厳しく戒められる。実際、「治す」ことなどできないのだ。医者には、患者のそばによりそって「治るのを手助けする」ことしかできない(本当は、他の科でもこれは同じだと思うけどね)。実際、精神科医なら誰もが、なぜ治ったのかさっぱりわからないのにすっとよくなってしまう患者さんを何人も経験しているはずだ。
これが、おとといの日記で、私が精神医学を選んだのは「人を治そうとすることの徒労感を最もよく味わうことのできる科だから」と書いた意味なのだけど、わかんなかっただろうなあ、おとといの書き方では。
しかし、たとえばある青年が、一人で暗い部屋に閉じこもって昼夜逆転の生活を送り、なにやらまとまりのない文章をチラシの裏に書き散らしているとする(自分では偉大な発明の論文だと思っている)。風呂にも入らないので不潔だからといって、同居している母親が嫌がる本人を無理に病院に連れてきた。私は「分裂病だな」と診断し、医療保護入院の手続きをとって閉鎖病棟に入院させ、薬飲ませて日中はなるべる起きてるようにして作業療法を導入して、退院後はデイケアに通わせてとやって「治す」。
これは、どこの精神病院でも行われている日常風景だけど、ときどき、自分がやっているのは何なのだろうな、と思うことがある。本人は、最初の状態で充分幸せだったのではないか。それを無理に社会に適応させるということにいったい何の意味があるのか。
もちろん、人間として生きて行く以上、社会と関わりを持つ能力がなければ生きていけない。彼らが生きていけるように、社会からまったく遊離してしまった彼らを、ある程度社会の枠に当てはめるために精神科医は治療しているのだが、作業所に通う彼らが前より幸せになったかどうか、私にはよくわからなくなってしまうこともある。
いや、別にレインの反精神医学に与するつもりはないんですが。
話がずれてしまったが、とにかく、「治す」ことと「正しさ」とは無関係だ、というのが、私の意見である。『五体不満足』という本を私は読んでいないけど、宣伝文句によれば「障害があることと幸せであることの間には何の関係もない」というようなことが書かれているらしい。「障害がある人は不幸せ」というのが私たちの固定観念であるなら、「病気は悪」「病気と戦う」というのも私たちが抱きがちな先入観だろう。本来、「治療」と「正義」は何の関係もないはずだ。むしろ、「治療」は「人間のエゴ」という見方もできるだろう。「病気=悪」というものの見方は、あまりにも単純すぎるのではないか。
別に患者を治すな、とか「癌と戦うな」とか言っているわけではない。いくら相対主義的な立場に立ってみたところで、私たちはそれよりも先にまず人間であって、インフルエンザウィルスではないのだから、人間が苦痛なく生き長らえるために、人間に害を与えるものを排除しようとするのは当然のことである(ゆえに、私はエコロジーに対しては懐疑的である)。ただ、それは人間の恣意的なものの見方にすぎないことも、頭の片隅には入れておきたい。
「治す」という大義名分のもとに医学が暴走しないために。
4月6日(火)
今日は書くことがないのでヒマネタである。
ジョン・ディクスン・カー『グラン・ギニョール』(翔泳社)、篠田真由美『桜闇』(講談社ノベルス)、麻耶雄嵩『鴉』(幻冬舎ノベルス)購入。なんだか新本格の人のような買い物をしてしまった。
翔泳社は今後もミステリ叢書を出していくらしい。とりあえず近刊では『ポジオリ教授の事件簿』と「精神分裂病患者の眼をとおした世界をえがいて、新しい恐怖の領域を切り拓」いたという『悪魔に喰われろ青い尾の蝿よ』は買いかな。しかしこの出版社も、『奪われし未来』、『神々の指紋』からミステリまで、出す本の幅が広いね。
TVKで始まった『ダークスカイ』をビデオに撮り、夜は古畑スペシャルを見る。冒頭の『羊たちの沈黙』パロディには驚いたけど、ABCを倒叙形式でやるのはさすがに無理があったんじゃないかなあ。それに、古畑の誕生日とか大学時代の話とか、なんだかトリビアルなマニア受けを狙ったシーンが多くなってきたような。キャラの立ちすぎた今泉に代わり、地味な西園寺刑事が登場したのはいいですね(vsSMAPにも西園寺が出てたから、今回のスペシャルは作中時間ではその前にあたるのかな)。三谷氏が、今泉というキャラを持て余していることが如実にわかる一作。
4月5日(月)
国立大学医学部入試で、物理・化学・生物が必修になるらしい。今までは生物選択じゃなくても医者になれてたのだ。
そうだねえ、やっぱり生物もやらなきゃねえ、と思いつつも、私としては、この問題に関してはどうしても歯切れが悪くなってしまう。実は私も物理・化学選択だったのだ。すまんね、こんなんで医者になってしまって。
高校の頃の私は、生物が大の苦手だった。だって、生物は暗記しなければならないではないか。物理や化学なら覚えるところが少ないし、計算すれば答えが出るんだから、こんなに楽なことはない。それに、これはまったく私の思い込みなんだけど、生物ってのはなんだか「不純」な学問のような気がしていた。
生物なんてのは、たかだかこの地球上でしか通用しない学問じゃないですか。それに比べ、物理や数学は宇宙のどこでも通用する普遍的な学問だ。文系科目に至っては、生物よりさらに特殊。英語だって社会だって、たかだか人間の営みにすぎないではないか。とまあ、そんな論理で、私は暗記科目を軽蔑しきっていたのですね。今から考えればずさん極まりない暴論だが、その頃の私は、普遍を愛し、特殊を軽蔑することにより、自分を特別な人間だと思いたがっていたのである。
こんな私が、理系学部の中でも最も「不純」な(だって役に立つ学問なんて、不
純じゃないですか)医学部に入り、さらにその中でも最も文系に近い精神医学を専門にしているのだから不思議なものである。アハハ(<アハハじゃない)。
「なんだ、成績がよかったから医学部に入ったのか」と批判されれば、おっしゃる通りです、と頭を下げるほかはない。しかし、私もそれなりに真剣に考え抜いた上で今の道を選んだつもりである。私が精神医学を専門として選んだのは、たぶん、医学の矛盾、人を治すことの矛盾を最もよく体現しているのがこの分野だったからだろう。人を治そうとすることの徒労感を最もよく味わうことのできる科だから、と言ったら韜晦がすぎるかな。
たぶん、私のような人間は、「医者に向かない人間」ということになってしまうのだろうなあ。医学への強い情熱があって医学部に入学したわけではないし、当時の入試に、今のような面接とか小論文とかがあったら、たぶん私は合格しなかったと思う。でも、面接でハキハキと「人のためにつくそうと思う」などと答える人ばっかりが医者になるってのは、かえって不気味じゃあないですか? 私は気味が悪いと思うんだけどねえ。
しかし、医学部だけ理系3科目必修になるってのは、負担がきついんじゃないかなあ。もし、その分国語とか社会とかを学ばなくていいってことになるのなら、そりゃ本末転倒だと思うなあ。医者にとっては、生物も必要だけど、国語や社会の能力も同じように必要だと思うのだ。実際、私としては、医者にとって無駄な学問なんて何ひとつないと思う。これも暴論かな。
一応、一般教養として(笑)、夜中の0時からはTVKの新番組『To Heart』を見る。このアニメ、テレビ千葉では日曜日にやってるんだけどTVKでは月曜の放送。うっかり見逃しても翌日また見られる親切設計。第1回の今回は、なんだか淡々とした展開で、高校生の日常が30分かけてまったりと描かれる。まあ、これはこれで、存在しない高校生活へのノスタルジーが感じられてよいのだけれど、これから先もこんなふうに淡々と日常が進んで行くんだろうか。まあ、マルチが出るまでは見るか。
4月4日(日)
妻と一緒に上野まで出かける。ライトアップされた弁天堂から不忍池にまわり、花見がてら青空骨董市を見て回る。ガネーシャ像とか金剛杵とか、いろいろと怪しいものが並んでいて心惹かれるのだけれど、意外に高いので冷やかすだけで帰ってきてしまった。あとで考えたのだが、これは結局きわめて正しい判断だったといえよう。私のことだから、ひとつ買ったら、今度はことあるごとにガネーシャを探し、徹底的に収集しようと思っていただろう。そして家の中にはガネーシャやらナーガやらが山のように増えていくのだ。本だけでもものすごい量だというのに、こういうものまで集め始めたら、考えるだに恐ろしいことになっていたに違いない。
危ないところだったぜ。
田中聡の新刊『ニッポン秘境館の謎』(晶文社)読了。衛生博覧会やら健康法やら、いかがわしいもの、キッチュなものの研究で知られる著者だけど、本書のテーマは「秘境」。秘境雑誌、常磐ハワイアンセンター、伊勢秘宝館、目黒寄生虫館、熊沢天皇、トンデモ本など、多岐にわたるテーマを、「秘境」をキーワードに読み解いている。「秘境」そのものの本だと思って読むと肩透かしをくらうので注意。
どこをとってもおもしろい本なのだけれど、中でもSFファンには懐かしい大陸書房の創業者竹下一郎氏のインタビューが興味深い。この人、昭和30年代にはナショナル・ジオグラフィック誌を元ネタに(もちろん著作権無視)秘境雑誌を量産して大当たりを取り、昭和40年代に大陸書房を創業、そのかたわら少年マガジンや少年サンデーなどあらゆる少年雑誌に秘境、オカルト関係の記事を書きまくっていたのだそうだ。
ということは、当時子供だった私も確実にこの人の記事を読んでるということになるな。大げさに言えば、こういう記事が、SF者である今の私を作ったといってもいいと思うんだけど、書いた本人の回想によれば、「よくまあ、あれだけインチキをやったと、我ながら感心するんだけどね」だそうな。ううむ、そんなもんだったのか。確かにそんな気はしていたのだが、こうもはっきり言われるとがっくりしてしまう。この人に人生狂わされた人は多いんじゃないか(オウムの信者もそうかも)。今だったら、MMRに今後の人生狂わされる子どもも多いだろうなあ(心しておくように>少年マガジン編集部の諸君)。
さて、本の内容に戻ると、それから、目黒寄生虫館、伊勢秘宝館など「秘境」的な博物館についての章が続き、最後の章では、現代の最後の「秘境」である科学と擬似科学を論じている。ただ、ここでの科学批判は御多分にもれず、文科系の論者にありがちな「制度としての科学」への批判になってしまっていてちょっとイヤな感じ。一部の脳科学や情報科学研究だけをあげつらって笑い者にしようとする態度もフェアとは言いがたい。でも、擬似科学本の隆盛の原因は科学そのものの中にあるという指摘自体は的を射ていると思いますが。
4月3日(土)
3月30日に書いた「だんご3兄弟」の歌詞解釈については、某オ○ムのサイトに似たような内容の解釈があった、という指摘をメールでいただきました。早速行ってみると、なるほど「だんご3兄弟」について書いたページがある。それによると、輪廻思想や3という数字へのこだわり、兄弟博愛主義を歌っていることから、この歌はフリーメーソンの思想を普及させようとする謀略である、のだそうな。
なるほどねえ、冗談としては見事ですなあ。まあ、本気で主張してるとしたら、ちょっとアレですが(なお、リンクは張らないので見たい人は自分で探して見に行ってください)。
比べてみると、輪廻思想について触れているところは同じだけれど、あちらは陰謀史観的解釈、私はあくまでだんごの立場に立った(笑)解釈と、まったく別物だと思うのですが、どうですかね。
ただ、私の解釈の後段、「はるになったらはなみ……」は実は妄想、という解釈はちょいと手抜きだったかな、とは思います。ハッピーエンドの物語について、実はあれは妄想、という解釈をするのはきわめて楽なのだ。
『ドラえもん』は植物状態になったのび太の見ている夢だった、という噂が流れたのは有名な話。『タイタニック』は全編がただひとりの回想だから、あれは当然ボケた老婆の妄想に違いない、という説も読んだことがある。同じように『ターミネーター2』も精神病院に入れられたサラの妄想だし、『スター・ウォーズ』も辺境惑星に住む農夫ルークの妄想。
そうすると、『三国志』も、しがないわらじ売りの劉備の妄想ということになるだろう。三国志の真のラストシーンは決して孔明の死ではなく、本当は、居眠りから目覚めた劉備が「ああ、長い夢だったなあ」と伸びをして母親の待つ家に帰るところで終わるのが正しいに違いない。
もちろん、マリリン・モンローも、田舎者の少女ノーマ・ジーンの妄想だろう。映画もスキャンダルも、すべては少女の妄想なのである。日本だと、華原朋美なんて、妄想っぽいなあ。人気アーティストに見出されて突然スターに、なんて少女の妄想以外の何物でもあるまい。
え、モンローも華原も実在する人物じゃないかって? 実はこれは内緒なのだが、この世界は彼女らの願望が生み出した世界であり、我々もまた、彼女らに作り出された妄想の産物なのだ。我々が現実だと思っているこの世界は、自意識の強いスターたちの妄想によって織りなされているのである。知らなかったですか?
華原朋美が目を覚まさないよう、気をつけなければ。
すまん、今日はなんだかよくわからないオチで。
4月2日(金)
ところで、「生首」ってのは、どのへんが「生」なんだろうか。「生魚」とかと同じように、まだ死んでからそんなに時間がたっていないことを意味するんだろうか。
辞書を引いてみたところ、「切られて間もない、人間の首」と書いてある。なるほど、切られて時間がたってしまうと、それは生首ではなくなってしまうわけか。それにしても生きているときには「生」とは言わず、「死にたて」になってやっと「生」の称号を得るとは、なんとも皮肉な話である。
ということは、「生乳」(なまちち)というのは、エド・ゲインか誰かが切り落として間もない、まだ血のしたたっている乳房を意味するに相違ない。同様に、「生足」というのはジェフリー・ダーマーか誰かが以下略。
でも、よく考えてみると辞書の定義には不備があるな。切られて間もなければそれでいいのだろうか。「生」と呼ぶためには、切られてからの時間よりも、死んでからの時間が重要なのではないか。死んでしばらくたってから切り落とした首は、「生首」と呼んでいいのだろうか。まあ、山田浅右衛門に刑場で切られた首なら、切られてからの時間と死んでからの時間が一致するので問題はないのだが、異常殺人の場合はそうでない場合も多いからなあ。そこらへん、はっきりしてほしいものである(いや、もちろん小説を書くときの参考にですよ)。
ところで、「生写真」ってのはどのへんが「生」なんだろうか。
それに、「生つば」というのも以下略。
恩田陸『球形の季節』(新潮文庫)読了。
ううむ、作者と同じ感性の持ち主ならば、この作品にどっぷり感情移入できるんだろうなあ。しかし、不幸なことに私はその感性を持ち合わせていなかったようだ。私には、登場人物や舞台となる土地に、まったくリアリティも共感も覚えることができなかったのだ。
この物語は、一見脈絡のない断章が連続して最後にひとつの絵が見えてくる……という構成のはずなのだけれど、私には、作者が思い描いたはずの絵が最後まで見えなかった。物語は地方都市の高校を舞台にして淡々と進んでいくのだが、中盤で唐突に妙に劇的なシーン(心臓に病を抱えた少年が命を賭けて泳ぐ!)が登場するなど、どうもまとまりが悪いところが気になってしまう。登場人物たちはそれぞれの想いにひたっているだけでまったくそこから出ようとしないし、私には全然納得できないところでも勝手に納得して物語が進んで行ってしまう。なんだか、登場人物たちにおいていかれてしまったような妙な読後感である。そもそも、キーになる異世界がどんな性格の場所なのか、私には最後まで読んでもさっぱり理解できないんだよなあ。
初期の作品だけに、作者が書きたいことに、小説技術がまだ追いついていないように思えた。
4月1日(木)
実はこの日記、日記猿人という日記リンクサイトに登録してもう1年以上になるのだが、いまだに日記猿人からのお客さんはほとんどいない。なぜかというと、日記猿人は手動での更新報告を必要とする(自動取得もしてくれなくはないのだが、手動更新リストのみを見る人が圧倒的に多い)のだが、私はまともに更新報告をしたことがほとんどないからである。なぜ報告しないかというと、それはただ単に面倒くさいからだ。
日記をFTPでアップロードした上に、ブラウザで日記猿人まで行き、パスワードを入力し、しかも気のきいた一行コメントを考える。こんな面倒くさいことやってられるか。私は、無用な手間をかけるのがいちばん嫌いなのだ。
しかし、あまりに無精でも人間損をするような気がするので、4月限定で、この日記も日記猿人仕様にしてみることにした。投票ボタンもつけたし、日記猿人へのリンクもつけた。面倒ではあるが、更新報告も毎日行うことにした。ただし、これを行うのは4月中のみであり、5月以降はボタンその他は一切取り外すつもりである。これにより、3月と4月、4月と5月のアクセス数の変化を調査したい。
さて、日記猿人系の日記サイトを巡っていると、随所に出てくるのが「空メールボタン」というやつ。日記猿人仕様にするためには、これもつけなければいかんかなあ、とも思ったのだが、これはさすがにつける気にはならなかったのでパス。この風習ばかりは、私にはよく理解できない。本文の何もないメールをもらって本当にうれしいのか。もらった方は、それに律儀に返事を書いたりしているのか(普通のメールにすら返事を書かないこともある私には、そんなことはできそうにない)。そんなメールがメールボックスに山ほどたまっても、私にはうっとうしいとしか思えんのだがなあ。いっそのこと他人のアドレス宛ての空メールボタンでもつけてみるか、とも思ったのだが、それではただの嫌がらせなので却下。
てなわけで、下にあるのは空メールボタンではなく、日記猿人用の投票ボタン。日記猿人から来た人は必ず押すこと(義務)。そうでない人も押すことが望ましいけど、面倒な登録手続きを強いられるので、クッキーがほしくない人は別に押さなくてもいいです(弱気)。ちなみに、かくいう私も登録などしてません(おい)。
過去の日記
99年3月下旬 メールを打つ、『街』、そしてだんご3兄弟の巻
99年3月中旬 言語新作、DASACON、そしてピルクスの巻
99年3月上旬 サマータイム、お茶の会、そしてバニーナイツの巻
99年2月下旬 バイアグラ、巨人症、そしてドッペルゲンガーの巻
99年2月中旬 クリストファー・エリクソン、インフルエンザ、そしてミロクザルの巻
99年2月上旬 犬神憑き、高知、そして睾丸有柄移植の巻
99年1月下旬 30歳、寺田寅彦、そしてスピッツの巻
99年1月中旬 アニラセタム、成人、そしてソファの巻
99年1月上旬 鍾乳洞、伝言ダイヤル、そして向精神薬の巻
97-98年の日記