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4月20日(火)

 朝、慌てて出かける準備をしていたら電話。いったいこんな時間になんだ、と不機嫌な声で「はい」と出ると、妻の父親からだったので冷や汗をかく。なんでも、妻の妹に子供が生まれたのだという。めでたい話である。
 しかし、そうするとついに妻はまぎれもなく「おばさん」、私は「おじさん」になったわけか。しばし二人で、「おばさん」「おじさん」と呼び合って朝からイヤな気分で出勤。

 SFセミナー合宿企画の、「SFエロゲーの部屋」は残念ながらボツったようですね。でも、考えてみれば、エロゲーで評価の高い作品ってのはたいがいSFオチのような気がするなあ。というわけで、今回はSFファンのためのエロゲー講座(笑)。
 まずはリーフ作品。「雫」は大槻ケンヂ風超能力SF。「痕」は伝奇ホラー。「To Heart」はロボットSF+超能力SF(マルチと琴音シナリオだけだけど)。このへんは基本ですね。「White Album」はSF要素皆無だったのが残念。「コミックパーティ」も……どう考えてもSFにはなりそうにないなあ。
 一部に熱狂的マニアのいる菅野ひろゆき(剣乃ゆきひろ)作品もすべてSFですな。「DESIRE」は時間SF、「EVE」はバイオサスペンス(か?)、「YU-NO」は時間SF+異世界ファンタジーかな。どれも伏線は投げ出されてるし、物語は破綻しまくっているけど、それも含めて菅野作品の味というべきか。この破綻を許せるかどうかが、菅野作品の評価を分けることになる。私としては、正統派時間SFの「DESIRE」がいちばんのお勧め(ある理由で女性にはあまり勧めがたいのが難点なのだが)。
 プレステ版も出た「ONE〜輝く季節へ」は……何だろう、これは。ジョナサン・キャロル風ファンタジー、といったらほめすぎだろうなあ。あまりにも唐突な展開には唖然とさせられるけど、菅野作品の破綻を許せる人なら、これも許せるはず。これも、感動するか呆れるか二つに一つの作品である。同じスタッフによる新作「KANON」も来月には出るはずなので、一応期待。
 大技を決めていたのが、エルフのファンタジーRPG「ドラゴンナイト4」。この展開は薄々知ってる人も多いかと思うが、まったくの白紙で始めた私は、あまりのことに椅子から落ちそうになったよ。これはネタを知ってると衝撃半減なのでこれ以上何も語りませんが。
 そうそう、古いゲームだけど「ELLE」も忘れちゃいけない。一見、ありがちな近未来刑事ものなのだが、ラストには呆然とすること請け合い。衝撃度では「ドラゴンナイト4」と双璧だけど、98版しかないのが残念。
 あ、それから、最後に「臭作」。これはメタフィクションですね(笑)。
 こうしてみると、エロゲー界はSFばっかりじゃないか。SFファンは、エロゲーをやらない手はないぞ。それとも、私がやったゲームが偏ってるのか?

 話題の高見広春『バトル・ロワイアル』(太田出版)、リチャード・マシスン『奇蹟の輝き』(創元推理文庫)購入。
 しかし、いつの間にうちの掲示板はウィルス掲示板になったのか。私としては別に「生物でも無生物でもどっちでもいい」説でいいんだけどなあ。
4月19日(月)

 今からほぼ100年前、19世紀最後の年である1900年のことである。パリの片隅の安宿で、セバスチャン・メルモスという男が死んでいる。宿のあるじは知らなかったが、この名前は偽名である。
 セバスチャンという名は、もちろん執事でもなくフランスのオタクでもなく、おそらくローマ軍の矢を浴びせ掛けられて死んだ殉教者聖セバスチャンからとったものだろう。劇的な死だけに多くの画家がその場面を描いているが、最初はむさくるしいおっさんだったはずなのだが、時代が下るにつれ、どうしたわけか美少年の姿で描かれるようになった。エル・グレコの聖セバスチャン像なんて、むちゃくちゃエロティックである。まあ、美少年の方が描く方も描いてて楽しいしねえ。
 そんなわけで、一見禁欲的なキリスト教の中で、聖セバスチャンは密かに同性愛者のアイドルと化していったのである。彼に浴びせられる矢が何の象徴かを考えてみれば、なぜ同性愛者のアイドルになったのかはあからさますぎるほどに明らかなのだけど、ちょうどこのころフロイトが創始した学問を、セバスチャンという偽名を思いついた彼が知っていたかどうか。
 あるいは彼は、ちょうどそのころ発表されたダヌンツィオの戯曲『聖セバスチャンの殉教』を意識したのかもしれない。この戯曲、のちにドビュッシーが曲をつけて神秘劇に仕立てているし、三島由紀夫が惚れ込んで日本語に訳したことでも有名。そういえば、三島由紀夫は幼い頃、聖セバスチャンの殉教図を見て初めてエクスタシーを感じたんだったっけ。やはり、聖セバスチャンには何か同性愛者を引きつけるものがあるようだ(ドビュッシーは別に同性愛者ではなく、単に依頼されたから曲を書いただけのようだが)。

 さて、姓のメルモスの方はというと、マチューリンなる貧乏牧師が1820年に発表した小説『放浪者メルモス』から取られた名前である。この作品こそ、『オトラントの城』に始まり『マンク』や『フランケンシュタイン』といった傑作を生み出したゴシック・ロマンス最後にして最大の作品。すべてのホラー小説や推理小説の源流である、当時のスーパー・エンタテインメントなのだった。主人公であるジョン・メルモスは、悪魔との契約によって永遠に歳をとることなく放浪することを運命づけられた放浪者である。
 なんて書くといかにもおもしろそうに聞こえるが、国書刊行会から出ている邦訳を読んでみたところでは、やたらと冗長な上にメルモスの登場シーンは意外に少なく、現代の読者にとってはあんまりおもしろいものじゃなかった(上巻で挫折)。

 ともかく、殉教者セバスチャンと放浪者メルモスの名を組み合わせた「セバスチャン・メルモス」という名。この名を、自らの最後の名前として選んだ人物は――オスカー・ワイルド
 同性愛の罪でイギリスを追われ、落魄してパリにたどり着いたワイルドが偽名として選んだ名、それが「セバスチャン・メルモス」なのだった。つまり、この名前こそが、作家ワイルドの最後の「作品」なのである。
 そう思ってこの名前を「鑑賞」してみると、殉教者にして放浪者、そして同性愛者のアイドルである美少年、これ以上彼にぴったりな名前はないだろう。
 『メルモス』の作者マチューリンは彼の大叔父にあたり、ワイルドはそれを終生誇りにしていたそうだ。そう思ってみると、メルモスというキャラクターは、ワイルドのドリアン・グレイにも通じるところがあるようだ。
 でも、ワイルドには一言いっておきたい。
 あまりにもはまりすぎというのも、ちと考え物では。

 長山靖生『妄想のエキス』(洋泉社)、ローレンス・ライト『悪魔を思い出す娘たち』(柏書房)、ホラーアンソロジー『さむけ』(祥伝社文庫)購入。

 『To Heart』第3話。芹香お嬢様登場。アニメ史上最も音声レベルの低いキャラであろう。しかし、これまでのストーリーを見る限り、主人公がつきあっている相手はあかりではなく志保としか思えんのだが。
4月18日()

 日曜だというのに朝から当直。月曜の夕方まで病院に軟禁状態である。何度も病棟から呼ばれた。夜11時に救急車が来た。夜中の4時に警察から電話がかかってきて起こされた。疲れた。以上。

 さて、当直中に読んだのはジェイムズ・アラン・ガードナー『プラネットハザード』(ハヤカワ文庫SF)。なんで私は『スタープレックス』も『星ぼしの荒野から』も後回しにしてこんなのを読んでるんだか。
 変な話である。
 この話の舞台となる25世紀では、不細工な人とか奇形のある人は、問答無用で惑星探査員にされることになっている。理由は、惑星探査員は事故死しやすい仕事だけど、醜い人が死んでもだれも悲しないから。むちゃくちゃな話だが、そういう設定なんだから仕方ない。
 左腕がヒレ状の奇形になっている探査員がいたが、任務中に現住生物に左腕を喰われてしまい、単なる左腕を失った男になってしまった。そこで宇宙軍は彼を惑星探査員として使うわけにはいかなくなり、彼はアカデミー教官になった、なんていうエピソードも出てくる。このへんの悪趣味さはなかなかいいんだけど、鬼畜小説なのかと思ったらそうでもない。
 地球にそっくりなのになぜか誰一人帰還したことのない謎の惑星メラクィンに降り立った主人公(もちろん醜い)。突然、湖の中からガラスの棺が浮かび上がってきて、その中からガラスの体を持ったヌードの美女が登場。なんだか松本零士キャラのようである。しかし、松本キャラのイメージで読んでいったら、この美女、やたらと死体や半死体を蹴飛ばして「起きなさいよ」などと怒鳴るし、「私はオール。オールは、ボートを進めるのに使う道具だわ」とわけのわからん自己紹介をする。ちなみに、姉の名はイールで、「イールは、細長くてぬるぬるした気味のわるい魚よ」なんだそうだ。オールとイール。キャプテン・フューチャー?(それはオーグとイーグ)
 ストーリーは読者の予想をことごとく外してどんどんねじれていき、後半になると、まるで特撮ヒーローものの怪人のように、妙にわかりやすい悪事を企む敵との一騎討ちに突入。こんな話じゃなかったはずなんだけどなあ。ここまではずしまくるのなら、いっそのこととんでもないところに着地してほしかったのだが、なんということか、ラストは予定調和に終わってしまう。そりゃないでしょ。
 暇で変な話が好きな人なら読んでもいいかも。私は、あんまり人には勧めないけど。
4月17日()

 小説のラストシーンなどで、

涼子は、遠ざかる列車に向かっていつまでも手を振っていた。

 なんて文章を読むたびに、「いつまでも振ってるわけないだろうが。そのうち手を下ろして帰るに決まってるじゃないか」とついつい冷静にツッコミを入れてしまう私はダメですか?

桜は、しっかりと抱き合うふたりの上に、いつまでもいつまでも降り続いていた。

 全部散ったら降りやむだろうが。
 無粋なツッコミであることは私も重々承知しているのだが、「いつまでも」が出てくると反射的にそう思ってしまうのだから仕方ない。感動的なエンディングのはずなのに、ちっとも感動できないのだ。不幸である。
 同じことを考えたことがあるというあなた、私の同志ですね。
 そんなこと考えもしなかったというあなた、でもこの日記を読んだからには、ラストシーンで「いつまでも」が出てきた途端にこの日記を思い出し、もう素直に感動できなくなっているはずだ。ということは、今ではあなたももう私の同志ですね。
 というわけで、今日はともに不幸を分かち合う日記でした。

 最近では本当に珍しい(ほぼ)書き下ろしSFアンソロジー『宇宙への帰還』(KSSノベルス)を読む。執筆陣は横山信義、吉岡平、森岡浩之、早狩武志、佐藤大輔、谷甲州と、架空戦記系中心のメンバーである。
 宇宙SFとして傑作なのは、広大な宇宙空間での「少年」と「少女」の邂逅を描いた森岡浩之「A Boy Meets A Girl」と、宇宙空間でのアクション描写がすばらしい谷甲州「繁殖」の二作。この二作を読むためだけでもこの本は買う価値がある。さすがにSFプロパーの作家だけあってツボを心得た作品である。
 横山信義「星喰い鬼」はダイソン球殻にバーサーカーと、いかにも懐かしのハードSFらしい設定でうれしいのだけど、あまりにストレートな結末は物足りない。吉岡平「ハウザーモンキー」はテンポのいい文章で読ませる作品なのだが、完全に海洋小説のイメージで書かれているので宇宙SFである必然性がまったくないように感じられる。
 佐藤大輔「晴れた日はイーグルにのって」(これだけなぜか再録)は、もしかしたら面白く読める人もいるのかもしれないが、技術的な文章が延々と続く、私には面白さがさっぱりわからないタイプの作品だった。この作品がデビュー作となる早狩武志「輝ける閉じた未来」は少年と実験用に作られたクローンの少女の恋を描いた作品だが、設定があまりにも強引な上に、意識という奥深いテーマを扱っておきながら問題意識に欠けている凡作。
 あと、誤植が多いのも気になったなあ。盛りあがるはずのシーンで「きみががほしい」とか。「コーデリアとオフェーリア――ハムレットの名作『リア王』にちなんで命名された二つの衛星」ってのもケアレスミスだろうけどシリアスな話だけに間抜けである。
 というわけで、出来にはバラツキがあるが、本格宇宙SF中心の書き下ろしSFアンソロジーという貴重な企画なので(『SFバカ本』もあるけど、あれはちょっとなあ)、ぜひ売れてほしいものである。
4月16日(金)

 きのうの高い音低い音の話題に着いては、掲示板で木綿の半可通さんから、メールで鈴木力さんから指摘をいただいた。おふたりの指摘によれば、石原藤夫氏の作品に、まさにそのテーマを扱った短篇があるのだという。うーむ、全然思い出せない。SF者としては不覚である。
 鈴木さんによれば、その作品は「高い音低い音」というショートショートで、石原説によれば、音に対して「高い」「低い」と感じるのは、我々の耳が左右についているからなのだという。つまり耳は左右=水平方向に配置されているので、音の左右に関しては具体的な方向性としてとらえることができるが、高低=垂直方向についてははっきりととらえることができない。そこで、音の周波数の差異を「高い−低い」として感じるようになった、ということらしい。
 木綿の半可通さんによれば、大周波数の音は頭に響くのに対し、小さい周波数の音は腹にくるから高い、低いというのが石原説のようだ。
 うーん、なんとなくこじつけのようで容易に納得できる説ではないなあ(頭と腹説が正しいなら、四足歩行の知的生命は音の高低を「前後」で表現するのだろうか)。まあ、石原氏の原典にあたったわけではない(実家の本棚を掘り返さなければ出てきそうにない)のでなんともいえないのですが。

 アサヒコムによれば、医師の国家試験が2001年から大幅に見直されるらしい。出題数は現在の320問から500問に増加(!)、出題内容もこれまでの知識偏重型から患者とのコミュニケーション能力や基本的な臨床能力を重視したものになるとか。「患者の立場や心を理解でき、より実地に即した幅の広い医療を提供できる人に医師の資格を与え、医師の質を高める」のが狙いらしい。
 2001年といえば、もう再来年ではないか。現在の医学部5年生は悲鳴を上げているだろうなあ。ご愁傷様です。
 しかし、「患者の立場や心を理解でき」るかどうかなどが、一回の試験でわかると本気で思っているのだろうか。だってどんな試験をすれば「質」がわかるんだよ。それを簡単に評価する方法が見当たらないから、これまで知識優先の試験でやってきたんじゃないのか? いったいいつの間に人間は、人間の「質」を簡単に評価する方法を見つけ出したんだ?
 もちろん厚生省だってそんなことはわかってるに決まっている。「医師の質を高める」なんてことは口実で、厚生省は何がなんでも医師の数を減らしたいのだ。これ以上医療に国の金を使いたくないのだ。でも、私の周りの精神科領域では医師は全然余ってません。むしろ足りないくらいです。看護婦はどこの科でも足りません。だから単純なミスによる医療事故が起きるのです。
 きれいな言葉でごまかしてはいるが、「医療費を減らす」という厚生省の方針は、患者の利益とも相反することは確かだよ。
4月15日(木)

 最近読んだ二冊の本に出てきた文章。
「だからさ、そこは上がるんだよ。泣かしーたことも、だからさ」
「泣かしーた、か?」
「違うよ。どうしてお前そこで下がるわけ?」
 かわいそうにヤマグチ君には、「上がる」ということがどういうことで「下がる」ということがどういうことなのかがわからない。そもそも「上がる」と「下がる」の区別がつかないのだ。なぜってヤマグチ君は自分が音程を外しているのかどうかさえ把握できない。生まれつきの本格派の音痴だからだ。
         ――小田嶋隆『パソコンは猿仕事』より
養老孟司 例えば高いという言葉でわれわれは音が高いことも位置が高いことも表わす。この二つは実はまったく関係ない。
木村敏 音が高いというのは、共通感覚なり共感覚のつくりあげた言葉ですね。
養老 そして、どこの文化でも高いと表現する。
         ――池田晶子『魂を考える』より
 考えてみれば、「高い音」「低い音」、「音が上がる」「音が下がる」という表現は不思議である。あれはいったいどうしてなのか。ピアノの鍵盤を叩いて音階が上がって行くと、確かに物理的に「上がっている」ような気がする。低い音を聞けば「地の底から響いてくるような」音に聞こえる。
 周波数の高さ低さからきているのか、とも思ったけど、それは逆だろう。周波数が「高い」というのは、「音が高い」という表現に引きずられた言い方に違いない。あれは数値なのだから「多い」「大きい」というべきなのだ。音が「高い」「低い」というのは、周波数などという概念ができる前から、人間が先天的にもっている感覚のように思われる。サルはいったいどう感じているんだろうか?
 ヤマグチ君にしても、「高い音」「低い音」という表現自体がわからないのではないだろうから、共通感覚を欠いているというわけではなかろう。結局、理由は不明ながら人類に共通する感覚、としかいいようがないのかなあ。

 上でも引用した小田嶋隆『パソコンは猿仕事』(小学館文庫)読了。ジョークと警句にあふれたハードボイルドな(そうか?)パソコンエッセイ集。エッセイとかコラムとかいうもの(どう違うんだ?)はあまり読まないし、エッセイ集などというものはほとんど買ったことがないのだが、唯一出るたびに必ず買うのが小田嶋隆の本である。小田嶋エッセイを読むようになったのは、伝説のパソコン雑誌「遊撃手」の頃からだから、デビュー以来の読者ということになるなあ。それ以来、たいがいの単行本は買っているのだから、小田嶋隆は私に感謝すべきであろう。
 このごろじゃパソコン誌に限らずいろんな雑誌でコラムを書いているが、やはり本書のようにコンピュータを扱った文章がいちばんおもしろい。「わかりやすいコメントに飛びつくのは、むしろインテリさんたちではなかろうか」とか「インターネットはその人間を映す鏡のようなもの」とか(個人用のブックマークを人に見られる恥ずかしさを想像してみてほしい)、いちいちうなずけることばかり。
 でも、解説で引用されている初期のエッセイに比べると、最近の文章は、破壊的なキレがなくなり丸くなったような気がするなあ。渋みのでてきた最近の文章も好きだけど。

 ニュースステーションの大蔵省の画面でなぜか『ガメラ3』の曲が。そういや最近、真面目なニュース番組にアニメとか特撮曲が使われることが多いなあ。こないだは日曜のニュースに『サクラ大戦』が使われてたし。『エヴァ』はもう定番になってるし、ニュース番組のスタッフにはオタクが多いのかも。

 ずっと文庫化を待っていた奥泉光の『葦と百合』(集英社文庫)と、早見裕司『世界線の上で一服』(プランニングハウス)、『時間怪談』(廣済堂文庫)、『宇宙への帰還』(KSS出版)を購入。古本屋でアンナ・カヴァン『愛の渇き』(サンリオSF文庫)とA.タトシアン『精神病の現象学』(みすず書房)を買う。カヴァンは1000円。
4月14日(水)

 ポール・J・マコーリイ『フェアリイ・ランド』読了。3月に全然本が読めなかったのはこいつのせいです。読み終えるまでに1ヶ月以上かかってしまったよ。ふだんは一冊の本にこんなにかかることはないのになあ。
 それに、この本、発行から2ヶ月以上たっているというのに、ウェブを探してみても、感想が(プロ書評家の評以外)ほとんど見当たらないのだが、それも同じ理由によると思われる。
 むちゃくちゃ読みにくいのだ、この本。
 物語を彩るナノテク・ガジェットはおもしろいし、グロテスクに変貌した世界は魅力的なのだけれど、いかんせんどうにも文章が読みにくい。たぶん、この作者の書き癖だと思うのだが、その場で何が起きているのかはっきりと書くことを潔しとしないのですね。必ず何か回りくどい書き方をする。それに、造語を何の説明もなしに使っておいて、忘れたころになって説明する。読者を幻惑する効果を狙っているんだろうけど、読みにくくてものすごく疲れました。それに、キャラクターにもあまり魅力がないし、行動の動機もどうも弱いような気がするのだけど。
 私としては、よっぽど今までのSFに飽きた人にしか勧められません。

 続いて貴志祐介『クリムゾンの迷宮』(角川ホラー文庫)、こちらは一日で読了。知らないうちに荒野に置き去りにされた男女がサバイバル・ゲームを繰り広げる、というありがちな設定ながら(私は、ブライアン・ガーフィールド『砂漠のサバイバル・ゲーム』(サンケイ文庫)という作品を思い出した)、見事なストーリーテリングで一気に読ませる作品。いつもながらこの作者はうまい。でも、森山さんの書評と同じになってしまうが、今回の作品ではエンタテインメントに徹しているせいか、読んでいるうちは飽きないのだけど、読み終わったあとが物足りない。結末で明かされる真相(?)も、予想の範囲内だし、もうひとひねり何かほしかった。まあ、文庫書き下ろし相当というべきか。
 そういや、今月発売分から角川ホラー文庫のカバー背に変なドットパターンがつきましたね。ホラー文庫の新マークかとも思ったのだが、目を近づけてよく見ると作品によって違うようだ。何かのコードなんだろうか。

 夜はSFセミナー打ち合わせ。なんとなくなりゆきで、夜の部では、私もひとつ企画部屋を持つことになってしまいました。題して「サイコドクターあばれ旅・出張版(仮)」(笑)。一応、日記でときどきやってるように、笑える論文、SF的に興味深い論文とかを紹介していきたいと思うのだが、何かほかにやってほしいことがありましたら、メールでも下さい(ただし、それを実際やるかどうかは別問題)。
 SFセミナーで、ぼくと握手!
4月13日(火)

 渋谷に「ブックファースト」という本屋さんがありますね。阪急の経営だというから、関西にもあるのかな? この本屋さん、60万冊の品揃えを謳っているのだけれど、渋谷という場所柄のせいか、文芸、美術書はけっこう充実しているわりに、専門書は今一つ。医学書を見に行ったときには、あまりの品揃えの貧弱さに呆れてしまった(渋谷で医学書探すなって? ごもっとも)。2、3回しか行ったことがないけど、あんまり私好みの書店ではなかったという印象がある。とはいっても、渋谷ではいちばん充実した書店であることは間違いないなのだけれど。
 まあ、今日は書店自体の話がしたいのではない。この書店の宣伝コピーの話である。

「はじめにいきたい本屋さん」

 これが、「ブックファースト」のコピー。最初にここに来ればたいがいの本は揃う、と言いたいらしい。大きく出たものである。
 となると、当然考えつくのが、

「さいごにいきたい本屋さん」

 だろう。店名は、「BOOK 1st.」に対抗して「BOOK last.」というのはどうか。
 世界中の書店を回り、万巻の書を読破し、本に埋もれた生涯を送った愛書家が、その人生の最後にたどり着く一軒の本屋。
 あるいは、世界があとかたもなく滅び去る一週間前に、最後に読む本を求めて訪れる本屋。
 どちらにせよ残された時間は永くはない。あまり長い本を読んでいる時間はないのだ。もっとも、長い小説の結末を楽しみにしながら最期のときを迎えるのも悪くはないかもしれないが。
 その本屋には何十万冊もの本はない。ごくわずか、あなたが本当に読みたいと思う本だけが揃っている。どの棚をのぞいてみても、探していた本、もう一度読みたい本ばかりが並んでいる。
 「BOOK last.」へようこそ。どの本をお買い求めになりますか?
4月12日(月)

 こっくりさんの話の続きである。
 まずは、きのうの「オカルトゲームを契機に発症した集団ヒステリー」という論文からもうひとつ紹介しておこう。

 A子とB子は神奈川県の中学校に通う1年生の女子生徒である。放課後に二人で「キューピットさま占い」をしていたところ、何かの拍子に文字盤の「出口」が破れてしまった(入り口と出口があるタイプの文字盤だったようだ)。するとA子の目が突然つりあがり、いきなりB子に殴りかかった。B子は、たまたま通りかかった友人のC子と一緒にA子を取り押さえようとしたが、A子はものすごい力で襲いかかってくる。B子とC子は教室を逃げ出し、トイレに隠れたが、なおもA子はドアをよじのぼろうとしたり、声を上げながらドアを叩いたりしている。
 しばらくして声が聞こえなくなったので、A子がいなくなったと思ったB子とC子がおそるおそる外に出ると、二人を見つけたA子が再び襲いかかった。二人の悲鳴を聞いてかけつけたほかの生徒とともに、みんなでA子を押さえようとしたところ、彼女は倒れ、平静に戻ったという。
 しかし、今度はB子がもうろう状態となり、急に走り出し、4階にある教室のベランダから飛び降りようとした。続いてC子も同じ状態になってしまった。
 しばらくすると二人は平静に戻ったが、この学校ではその後4日間にわたって、この3名のほかにも6名の生徒に失神、もうろう状態、手足の震えなどが出現したという。

 この話で興味深いのは、「追いかけてくる人物から逃げてトイレの中に隠れるが、なおも襲ってくる」という「トイレの怪談」のパターンが忠実に守られているということ。この場合、たぶん、逃げる方も追う方も怪談のパターンを無意識のうちに演じていたんじゃないだろうか。「演技性」というのが、ヒステリーの大きな特徴なのだ。

 さて、こっくりさんというと、私は「トイレの花子さん」などと同じ、子供たちの間に伝わる占いや怪談の類いだとばかり思っていたのだが、調べてみると意外に歴史が古い。この「こっくりさん」、実は、19世紀に西洋で流行したテーブルターニングとかウィジャ盤といった占いに端を発し、日本に伝わった時期も明治時代にまでさかのぼる。まことに由緒正しい占いなのである。
 当然ながら、テーブルターニングによって集団ヒステリーが引き起こされた例もあったようで、たとえば、19世紀精神医学界の重鎮シャルコーの書いた『神経病学講義』という本にはこんな例が載っている。

 1884年のこと、某氏とその夫人は、毎週金曜日にテーブルターニングに熱中していたのだそうな。あるとき、13歳の長女を霊媒にして、降霊会は午前9時に始まり夜中まで続けられたという(よほど熱心だったのだろうなあ)。夜もふけたころ、突然ラップ現象が起きたかと思うと、長女は自動書記で「Paul Denis」という名前を何度も書き始め、その後七転八倒の大運動発作を起こした。しかし、事件はそれだけでは終わらなかった。長女はその後、以降一日15〜20回ものけいれん発作を起こすようになったのである。その上、11月には11歳の次男が、ベッドにライオンと狼がいる、父の死体を見たと叫び出して床を転げまわる。さらに2日後、今度は12歳の長男が、母が泣いているのを見て「泣き止まないと自殺する」「暗殺者を殺す」と叫び、幻覚を伴なう譫妄発作が出現。それ以来、子どもたちが出会うとお互い発作を起こして止まらなくなってしまい、12月には長女がサルペトリエール病院にかつぎこまれたのである。
 症状は、前に紹介した女子中学生の例とよく似てますね。ほとんど同じといってもいい。19世紀末といえばヨーロッパ全土に心霊主義の嵐が吹き荒れた時代。こういう例はさぞかし多かったろう、と思われる。この例では、子どもたちを入院させ、お互いや両親から引き離すという隔離療法が効果を上げている(この話は江口重幸「力動的精神療法への結節点」からとらせていただいた)。

 これが日本に伝わって「こっくりさん」に変化したのは、奇しくもこの事件と同じ1884年(明治17年)のこと。下田港に漂着したアメリカ船の船員たちが村人たちに伝えたテーブルターニングが始まりである、と東洋大学創始者で妖怪学者の井上円了は1887年に出版した『妖怪玄談・狐狗狸の事』なる本に記しているそうだ。「こっくりさん」は、明治18年から20年にかけて全国的に流行したそうで、これが第一次ブームということになる。
 その後何回ブームがあったかはよくわからないが、1970年代になると子供たちが学校でする占いとして全国で大流行。この頃には、こっくりさんを契機にした集団ヒステリーの症例が多数専門誌に発表されている。80年代以降はさすがにブームも下火になってきたようだけど、今でも小学校や中学校では行われているんだろうなあ、たぶん。でも、きのう今日と書いてきたように、「こっくりさん」ってのは、ことによっては精神障害を引き起こすこともある(多くは一過性だけど症状が持続する場合もないわけではない)、けっこう危険な遊びなのであんまりのめりこまない方がいいと思うが。

 恩田陸『不安な童話』(祥伝社文庫)、貴志祐介『クリムゾンの迷宮』(角川ホラー文庫)、谷甲州『ヴァレリア・ファイル 上』(中央公論新社)購入。
 『To Heart』でも見て寝るか。
4月11日()

 こっくりさんの話をしよう。
 私自身は、中学高校と男子校ですごしたせいもあって、実際にこっくりさんをしたことは一度もないのだが、精神科の雑誌を眺めていると、ときどき「こっくりさん」に関する論文が見つかる。
 以下に紹介するのは、山田正夫他による「オカルトゲームを契機に発症した集団ヒステリー」(社会精神医学1986年4号)という論文に載っている例である。

 昭和50年代後半、神奈川県内の中学校で起こった事件である。この学校は旧陸軍兵舎跡地にあり、生徒の間では戦死者の亡霊が出るという噂が語り継がれていたという。
 5月の放課後、3年生5人(全員女子)、2年生3人(全員女子)、1年生2人(男子)が参加している英語クラブの活動中のことだ。3年生の部長、2年生の部員3名がメンバーとなって「こっくりさん占い」を始めた。始めてまもなく10円玉が動き始めたため、「危険だからやめよう」と誰かが言い、いったんはゲームを中止したが、「エンゼルさん占い」なら危険はないだろうと再開した(この判断の根拠が私にはよくわからないのだが)。
 この直後、そばで見ていた2年生のA子が、「背中が重い、何かが乗っかってくる」と泣き出した。彼女は「霊が呼んでいる」「何かが見える」と叫び、部室の中を駆け回ったあと、部屋を飛び出して行方不明になってしまった。部員が手分けして探したところ、自分の教室の席にボンヤリと座っているA子を発見した。
 A子はすぐに正気を取り戻したため、捜索に参加していた1年生男子のBとCは自分たちの教室に戻ることにした。二人が教室に入った直後、Bはコンクリートの壁に女性の影を見た。次いで肩と腕が重くなり、「地獄へおいで」という女性の声を聞いた。怖くなったBは教室から逃げ出し、廊下を走り出す。Cは驚いてそのあとを追う。Bは走りながら壁に気づかず頭をぶつけたり、4階にある教室の窓を開けて登ろうとしたりしていたが、Cが押さえつけて部室に連れ戻した。
 一応Bが落ち着いたところで、Cは自分たちのクラスで流行っているこっくりさん占いの用紙を片付けなければ危険だと考え、一人で教室に戻ることにした。Cは教室に入ったとたん、壁に白い影のようなものを見、背中が熱くなるのを感じた。
 Cは、足の力が入らず床を這いずり回っているところを発見され、部室に連れ戻されたという。

 さて、その1年後のことである。前年度の事件は校内でも噂になっており、特にBとCのいた1年X組では「このクラスは呪われている」と密かにささやかれていたという。
 4月下旬の放課後、1年X組の女子4名で「エンゼルさん占い」を始めた。20回目を行ったところ、一人が急に泣き出した。その後、そばで見ていたD子が、手足が自分の意思に反して動き出したり、狐の霊がとりついて普段とは違う声で喋り出す、といった憑依状態になった。同時にE子とF子ももうろう状態となり、手の自動運動が出現した。
 E子とF子の症状はまもなく消失し、その後症状が出現することはなかった。しかし、D子はその後も学校で自動運動、憑依現象が持続し、精神科を受診。受診時は、D子(本人)とN子(悪い子)という2人の人格が交代して出現する多重人格状態で、N子のときには「D子を殺してやる。そのために乗り移ったのだ」と叫んだり、母親に悪態をついたり物を投げたりする状態だった。症状が消えるまでは1ヶ月半の入院を要したという。

 こういう話ってのは、怪談とか心霊現象としても語られるのだろう(確実に、この学校では怪談として今も語り継がれていることだろう)けど、精神医学の文脈では、論文のタイトルにもあるとおり「集団ヒステリー」ってことになるわけだ。
 しかしまあ、「心霊」も「集団ヒステリー」も、その言葉だけでは何の説明にもなっていない点では同じである。どちらもひとつの現象に対する解釈にすぎないのだから、どれが正しいというわけでもなく、どちらでも好みな方を選べばいいような気がする。でも、私の好みはどっちかというと「集団ヒステリー」ですね。「心霊」解釈は矛盾が多いからね。
 さて、この論文でおもしろいのは、男子と女子の反応の違いについての考察。女子は「自分が憑依状態に陥ることを不可思議な体験と感じているが恐怖感は感じておらず」、憑依や失神も遊びの中のひとつの役割行動としてとらえている。それに対し、男子は女子の憑依行動に不安や恐怖を感じて逃走、パニック行動を起こしている、というのだ。
 男子は非日常的な事件に恐怖を感じていてパニック状態になってしまうのに対し、女子はなんと憑依現象すらも日常の一部に取りこんでしまっているのですね。
 男性の方が女性よりも恐怖に弱い、という俗説があるけど、それを裏づけるような結果になっているというわけ。
 こっくりさんの話は明日に続く予定。

過去の日記

99年4月上旬 日記猿人、生首、そして「治療」は「正義」かの巻
99年3月下旬 メールを打つ、『街』、そしてだんご3兄弟の巻
99年3月中旬 言語新作、DASACON、そしてピルクスの巻
99年3月上旬 サマータイム、お茶の会、そしてバニーナイツの巻
99年2月下旬 バイアグラ、巨人症、そしてドッペルゲンガーの巻
99年2月中旬 クリストファー・エリクソン、インフルエンザ、そしてミロクザルの巻
99年2月上旬 犬神憑き、高知、そして睾丸有柄移植の巻
99年1月下旬 30歳、寺田寅彦、そしてスピッツの巻
99年1月中旬 アニラセタム、成人、そしてソファの巻
99年1月上旬 鍾乳洞、伝言ダイヤル、そして向精神薬の巻

97-98年の日記

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