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3月20日()

 おとといあたりからインデックスページの言葉(以前はスタトレのパロディだったやつ)を変えてみたんだけど、気がついたでしょうか。ブックマークか何かで直接ここに飛んできている人は気づいてないだろうなあ。たまにはインデックスページも見てカウンタ回してください。
 元ネタがわかった人、私と同世代ですね。

 ヘンリー・ウェイド『推定相続人』(国書刊行会)購入。このシリーズもかなり刊行ペースが落ちてきているなあ。夏から第三期開始(おお、『九人と死人で十人だ』が出るのか)と折り込みチラシに書いてあるけど、それまでに第二期はちゃんと完結してるんだろうな。国書といえば「魔法の本棚」の最終巻のアレクサンドル・グリーンもずっと待ってるんだけど、これもなかなか出ないなあ。あとは早川のジョン・クロウリー『エヂプト』もいつ出るんだか。
 それから、藤巻一保『真言立川流』(学研)、鮎川哲也『下り“はつかり”』(創元推理文庫)購入。帯によれば、鮎川哲也は「本格派の驍将」だそうである。「驍将」。広辞苑によれば「たけく勇ましい大将。強い大将。勇将」としか書いてないが、これってミステリ界(特に本格ミステリ界)では、独特のニュアンスをこめて使われてるような。「本格派の勇将」とか「本格派の強い大将」だと、全然イメージが違ってしまうぞ。
 例えば、ディクスン・カーは「驍将」って感じだけど、クリスティやクイーンは違う気がする。高木彬光は驍将といってもいいけど、横溝正史は違うんじゃないか。島田荘司も違うだろうなあ。特に根拠があるわけではないが。
 まとめると、ある程度まとまった量の作品をバリバリ書いているが、「巨匠」というポジションでもなく、しかもマニア受けする作家に与えられる称号、ということになるのかなあ。
 SF作家に当てはめると、「奇想の驍将ベイリー」とか「ハードSFの驍将ホーガン」とかいうことになるのかな? うーん、なんか違うような。
3月19日(金)

 ようやく遊佐未森『庭』を購入。これはなかなかよいですね。さっぱりとしつつも意志の強さを感じさせる音。遊佐未森のアルバムでここまで気に入ったのは『アカシア』以来かな。昔からのファンとしては、ついつい彼女がまだ空耳の丘やハルモニオデオンの森にいたころを振り返りがちになってしまうのだけど、すでに彼女はとっくにそこから離れて自分の世界を作り上げている。でもやっぱり「ボーダーライン」の曲調とエレキギターばりばりのサウンドには違和感を感じるけど。
 それから小田木望『果樹園』。テクノマエストロのエンディング・テーマ「睡蓮」が好みだったので買ってみた。アニメ曲にはうとい方なんだけど、どうしたわけか、たまたま気に入って買ったCDがアニメ曲という確率は高いんだよなあ(新井昭乃とか)。このアルバムも、松本零士原作OVA「ハーロック・サーガ〜ニーベルングの指環〜ラインの黄金」主題歌「アウリフェア」を含む全10曲、だそうな。曲は……偽ケルト音楽っぽい曲と詞はちょっとあざといですね。エンヤを意識してるんだそうだけど、偽はあくまで偽でしかないのに。大きく「井上鑑プロデュース」とか書いてあるけど、そんな売り文句で売れるのか。
 avexの小田木望ページによれば、彼女は、デビュー曲レコーディング開始時点で妊娠6ヶ月、おまけにレコーディング中に子宮癌が発見され、出産後に子宮摘出の手術を受けたとか。なかなか壮絶な経歴の持ち主である。
 癒しとかヒーリングとか(同じか)そういう宣伝文句が大嫌いなのに、なぜかこんなCDばっかり気に入って買ってしまうのはなぜなんだろうなあ。
 あとはYoshikazu Mera"Baroque Arias"。米良美一がバッハ・コレギウム・ジャパンとともに録音したバッハやヘンデルのアリアを集めたCD。地味なアルバムだけど、これがカウンター・テナー米良美一の本領。

 稲葉明雄氏死去。ウールリッチとかチャンドラーとか、ミステリの翻訳が多いけれど、SFファンとしてはやっぱりブラウンの『発狂した宇宙』と『火星人ゴーホーム』だなあ。ぼくらにSFを教えてくれた名翻訳家が次々に亡くなっていく。合掌。
3月18日(木)

 またも渋谷ユーロスペースにてロシア映画秘宝展。今日はスタニスワフ・レム原作の『ピルクスの審問』である。タイトルからして『宇宙飛行士ピルクス物語』が原作なんだろうなあ、とは思うものの原作は未読なのが残念。
 まずは、研究所で人間そっくりのアンドロイドが作られているシーンで観客の心をわしづかみ。
 場面変わって、切り立った雪山に登る男。休暇を楽しむベテラン宇宙飛行士のピルクスである(カーク船長みたいなやつだな)。しかし、ロッジに戻ると突然宇宙センターからの呼び出しが。やれやれ、人づかいが荒いぜ、とぼやきながらも戻ってきたのはどう見てもソ連ではなく、アメリカにしか見えない都会である。
 上司の命令は、とある企業が新しく開発したアンドロイドのテストのため、アンドロイドと人間の混成宇宙船の船長として土星に向かってほしい、というもの。しかし、ピルクスはそんな企業の手先のような下らん仕事は真っ平だ、と拒絶してしまう。ピルクス、頑固な男である。
 その後、ピルクスが意味もなく山道をスポーツカーで飛ばしていると、突然巨大なトレーラーに襲われる(って、これは『激突』のパクリでは)。辛くもトレーラーをかわしたピルクス、横に回って運転手を確かめると、なんと! 運転手には顔がなかった! 驚くピルクスを尻目に、トレーラーは猛スピードで走り去ったかと思うといきなり爆発炎上。
 さらに街中でも顔のない男に追われるピルクス。追われながらもなぜかマクドナルドでドリンクを飲む余裕があるぞ(やっぱりアメリカが舞台らしい)。ピルクスは公衆電話を見つけると、上司に電話をかけ「さっきの話、引きうけるぜ」。
 なんでまたいきなり、と上司に聞かれたピルクス、にやりと笑い、「消されかけたところなんでな。なかなかおもしろくなってきた」。
 渋いぜ、ピルクス(ちょっとハゲだけど)。男の中の男だぜ。
 しかし、『宇宙飛行士ピルクス物語』って絶対にこんな話ではないと思うぞ。レムがこんなハリウッド映画みたいな話書いたとは思えないのだが。
 やっと宇宙に出てレムらしくなってくるのは映画も半分を過ぎてから。後半はがらりとトーンが変わって、宇宙船のクルーの中にいる人間そっくりなアンドロイドをめぐるディスカッション・ドラマとなってしまうのだが……はっきりいってこれは退屈。私はちょっと寝てしまったよ。でも、レムが書いたとすればこういう話だろうなあ。前半とは全然つながってませんが。顔のない男の謎なんてどうでもよくなってるもんなあ。
 妙にハリウッド調な演出とレムのイメージのギャップを楽しめる、心の広い人向けの映画。
3月17日(水)

 さて15日の続きである。
 言語新作関係の文献を渉猟していたところ突き当たったのが、1958年の精神神経学雑誌に載っている「Neophasieの生成機序について」という論文。地味なタイトルだが、なかなかすごい論文なのだ、これが。著者はヤラスラフ・ストックリックといって、チェコのプラハ精神衛生研究所の主任教授。ふつう、日本の専門誌に外国人の論文が載ることはあまりないのだが、この論文は、著者が特に日本の精神医学雑誌への掲載を希望して寄稿したものなのだという。なんでわざわざそんなことをしたかというと、この論文で扱っている症例が日本に縁があるからということのようだ。
 紹介されているのはチェコ人の患者で、名前はドクター・D・ドッド(仮名)。1910年生まれの一人っ子。幼少の頃から数々の重い病気にかかったが、よく勉強し、大学は医学部に進学。医学のさまざまな分野について非凡な知識を習得し、結局精神科医になったというエリートである。
 彼は医学論文を書き、音楽を作曲し、独特な速記術を編み出すなど多彩な才能を発揮し、特に、夢の解釈、ロールシャッハ・テスト、脳腫瘍その他について大きな著作をものしている。順風満帆な人生である。
 しかし、1945年のこと、広島に原爆が落とされたことを知った彼は激怒し、たったひとりである強烈な平和運動を開始する。宣伝ビラを街中に貼り、教会の円頂に声明文をひろげる。大統領やローマ法王にも激しい手紙を送りつけ、友人や親戚には新しく築かれた国家では官職に任命することを約束した。そんなことをしているうちに法に触れ、精神鑑定を受け、患者として釈放されたのだそうだ。そんなに変じゃないように思えるんだがなあ。
 このときに彼が担当の精神科医に語ったのが、実に驚くべき物語なのであった。

 1942年のある日のこと、プラハ近郊に惑星間を飛ぶ航空機が墜落して燃え上がった、と彼はいう。彼は急いで燃えている機体に駆け寄ったが、救い出せたのは一人の少女だけ。少女の名はDehorjane(読めん)。アストロンという惑星(一名テティスともいうらしい。「地球」と「世界」みたいな関係のようだ)から来たという。彼女は徐々にチェコ語を覚え、彼に身の上話をした。父はアストロンの大学教授であり、彼の最初の惑星間飛行で命を落としたのだという(その後いろいろと長い話があるらしいのだが、この論文には書かれていない)。
 その後彼はDahorjaneと結婚、アストロンの歴史や文化について教わるのだが、そうしているうちに、彼は徐々に前世をアストロンで過ごしていたことを思い出していく。彼はアストロン人の生まれ変わりであり、来世には再びアストロンに戻り、日本とテティスの皇帝として君臨するのだ。彼によれば、日本人は惑星系を支配する任を追うべき運命にあり、彼自身がその指導者なのだ!
 なんだか日本のアニメのようなストーリーである。
 さてなぜ彼が日本にこだわるかといえば、彼の自伝(長大な自伝を書いているのだ!)によれば「4歳から6歳にかけて、母の買ってくれた日本人形を愛し、着物を着替えさせながら愛撫した。こうして日本女性の形象によって、早い時期に性愛がめざめた」からだという。「子供の頃から天皇が陽の女神の後裔であることを、単なる象徴ではなく事実であると信じた。その力は世界支配に適うものである」とも書いているらしい。なんともなあ。
 6、7歳の頃、一人っ子だった彼は、人形や箱で街を作っては一人遊びをしていたという。さらに住人のいうことを親に理解できないようにするために、彼は自分で新しい言葉を考え出したという。しばらくしてこの遊びはやめてしまったが、大人になるまで新しく作った言葉のことは忘れず、Ishi語と名づけて徐々に洗練させていき、ついにはこのIshi語で小説や科学論文を書いたり、福音書を翻訳したりもするようになった(論文には、彼の書いたIshi語の文章が図版として掲載されている。見たこともない文字だが、きわめて整った字で、ひとつも訂正がない)。
 そんなときに、彼はDahorjaneと出会い、自分の考え出した言語は、前世の記憶であったことを悟るのだ。
 その後、彼は、アストロンのさまざまな民族の言語を作り上げた(というか、思い出したんだな、前世はアストロン人なんだから)。しかも、彼はそれぞれの言語がどのように発生し、利用され、消滅していったか、そしてどの言語でどんな古典的著作が書かれ、どこに保管されているか、などすべて具体的に述べることができる。つまり彼は、言語だけではなく、惑星アストロンの歴史をまるごと作り上げてしまったのである。
 Barnum語は名詞には8つの語尾変化があり、性の区別がある上、生物は無生物とは違った語尾変化を示す。合計22の語尾変化があるのだそうな。動詞はきわめて不規則に変化し、214の異なった変化形がある。その上、6つの完了形、3つの未来形、3つの条件形などがあるのだとか。こりゃ難しそう。
 Tvad語は現在は死語だが、かつてはアストロンの強大な種族の言語だった。この言語の言葉は2音節からなり、例外なく子音で始まり子音で終わる。
 Kimbal語はKim語とも言われ、アストロンの黒人種の言葉である。わずか666語からなり、象形文字で書かれる。
 などなど、ドクター・ドッドが作り上げたさまざまな言語が、論文には紹介されている。精神病であったにせよ、そうでなかったにせよ、少なくともこのドクター・ドッド、非凡な才能の持ち主であることは確かなようだ。彼の書いた膨大な量の自伝というのを読んでみたい気がする。
 なお、この論文の最後には、「きのうは一日中雨が降った」という文をアストロンの各言語に訳したもの、というのが載っている。
Ishi語……Rububi irsxhwae sut o dyn
Stehut語……Betschive giphir savjeijifopu
Barnum語……Rukabut kab matschcharjapan
Kimbal語……Schescho kschajikofba onom
Mirrsch語……Dom lechi kafimriju siba pseche
Tobol語……Dajpi bintiti rinuch pjar
Rischi語……Bareck kulka aba tantaharetanra
Kvad語……Meop kidzuntschopon nomoma
 はあ。もう、ここまで来ると著者ストックリック先生も、医学的考察なんてどうでもよくなってますね。分析も考察もせず、「ただ発明の産物として驚嘆に値する」とだけ書いて終わりにしてしまってるし。
 一つ気になるのは、この人、スペオペを読んでたのかなあ、ということ。1940年代のプラハでSFは手に入ったんだろうか。語学に通じた彼のことだから、たとえチェコ語に訳されてなかったとしても、英語のままですらすら読んでしまいそうである。「Kimbal語」なんていう名前をつけてしまうあたり、E・E・スミスくらい読んでそうな気もするんけどなあ。まあ「Kimbal」の一語で決めつけるわけにはいきませんが。

 しかし、こんな古い文献がちゃんと図書館にあるんだもんなあ。こういうときほど、古い病院に勤めていてうれしいことはない。
3月16日(火)

 「天皇、NHK、宝塚…今年はどうなるかわからんぞ!」と大きな活字で一行書かれた広告が日刊スポーツに。確かにこの不景気だからなあ、宝塚も解散するかもしれないし、NHKも縮小するかも。それに天皇もどうなるか……って、おい、こんなこと書いて大丈夫か。いったい何の広告なんだ、とドキドキしてしまったのだが、よく見るとその下に小さく「別冊宝島『春競馬満開宣言』」の文字が。なるほど、競馬ねえ。そういえば天皇賞とか聞いたことあるなあ。NHK賞とかもあるんですか。私、競馬にはうといので、天皇、NHK、宝塚の共通点が全然わかりませんでしたよ。
 でも、この広告は危なくないか。確信犯なのか、宝島。

 渋谷のユーロスペースではロシア映画『ピルクスの審問』上映中。おお、これはスタニスワフ・レム原作ではないか、これは観にいかねば、と思ったのだが、妻はレムを一冊も読んだことがないそうなので、あんまり思い入れもなさそう。
 「『ソラリス』は読まなかったの?」と聞いてみると、「30ページなら読んだ」との答え。なんだその30ページというのは。
 なんでも、妻が高校生だったころのこと、風邪を引いて寝込んでいたとき、読む本がないので、母親に「何でもいいからハヤカワ文庫のSFを買ってきて……」と頼んだところ(しかし、尋常でない頼み方だな。私も風邪のとき「『永遠の終り』を買ってきて」と頼んだことがあるけどさ)、母親が買ってきたのが『ソラリスの陽のもとに』だったそうな。
 確かに病気で寝込んでるときに読む本じゃない気がする。
 朦朧とした頭で読むソラリスは全然頭に入らなくて、30ページ読んだところでパタッと本を閉じたそうな。以後妻はレムを読む気をなくしたらしい。
 不幸な出会いとしかいいようがない。
 その後、映画ならおもしろいだろう、と思った妻はビデオを借りてきて、わくわくしながら観始めたのだが……その後の顛末はご想像の通り。はっと意識を取り戻したときには、すでに映画のラストだったという。そう、妻は知らず知らずのうちに時間を歪曲させる能力を身につけていたのである。
 これは、とことん不幸である。
 妻よ。とりあえず、ソラリスは最後まで読みなさい(風邪引いてないときに)。映画は別にいいから。
 『ピルクスの審問』は、明日か明後日にでも観に行く予定。時間移動能力を誘発する映画でないことを祈る。

 池袋芳林堂にて、降幡賢一『オウム法廷4』(朝日文庫)、貫井徳郎『慟哭』(創元推理文庫)、柴田よしき『遙都』(トクマノベルス)購入。あー、でもまだ『炎都』すら読んでないんだよなあ。コミックプラザにまわって須藤真澄がまだファンタジーマンガ家だったころの作品集『金魚銀魚』(アスキー)、すがわらくにゆき『おれさま!ギニャーズ!!』(新声社)を買う。

 あ、今日はあんまり日記を書いている時間がないので、きのう予告した話は明日に延期します。期待していた方(いるのか)、どうもすいません。
3月15日(月)

 先見の明のある私は、今日は前もって休みをとっておいたのであった。今日は昼までだらだらと寝て過ごす。

 てなわけで、間があいてしまったけれど、3月12日の続き。
 なんでまた、分裂病患者は異常体験を説明するのに「電子頭脳」や「テレパシー」などSFの言葉を使うんだろう、という疑問を私は感じたのだった。
 それはたぶん、SFには分裂病の妄想との間には共通点があるからなのだろう。
 まず、SFは世界を描く小説だということ。ファンタジーではあくまで異世界における人間が描かれるのに対し、SFには世界そのものを疑い、新しく構築しようとする意志がある。それが、グロテスクに変貌してしまった世界を表現しなければならない分裂病者がSF用語を選ぶ理由なんじゃないだろうか。
 そして、SFには、形而上的なものを強引に形而下に引きずり下ろしてしまうという特徴がある。抽象的な思想も無理やり「絵」として見せてしまう。バリントン・ベイリーの諸作を思い出してもらえばわかるように、これはSFのパワーであると同時に安っぽさの源泉でもあるのだけど、一方で分裂病の思考にはコンクレティスムス(Konkretismus(独) 英語ではconcretism。具象化傾向と訳されている)という特徴がある。分裂病者は比喩や抽象を理解できず、そのまま具体的に受け取ってしまうというのだ(98年2月9日の日記「ペリー・ローダンになった男」に出てきた、何か飲み込む動作をして「情報を飲み込んでいる」と言った例がこれにあたる)。抽象的な概念も強引に具体物として扱ってしまうのである。これはSFに似てないか?

 ただし、SFと妄想に共通点があるからといって、こういう妄想を病者の豊かな想像力のあらわれだと考えるのは間違いである。彼らは決して、想像の翼を羽ばたかせているわけではない。彼らはこのような観念の中で身動きが取れなくなっているのであり、それは想像力とは正反対のものである。彼らは、妄想世界を想像しているのではない。妄想世界を生きているのだ。
 そして、その妄想に触れ、驚異を感じたりユーモラスに感じたりと、いろいろと想像を働かせることができるのは、我々非分裂病者の特権なのである。

 しかし、例外というものは必ずあるもので、豊かな想像力を感じさせる症例もごくまれにだが存在する。今から40年前の専門誌に、言語新作から始まり、ついにはまるまるひとつの惑星と文明を創造してしまったという驚くべき人物が紹介されているのを私は発見したのだが、これについてはまた明日(またこういう終わり方かい)。
3月14日()

 ほとんど眠らずに夜を過ごし、エンディングへ。宿を出たあとはとぼとぼと群れをなして歩いていると、いつの間にかSFセミナー後でも馴染みのルノアールにたどり着く。ここでしばしだらだらしていると、あとから後片づけを終えたスタッフグループも到着。考えることはみな一緒とみえる。
 ここでトーストを食べてあっという間に元気になったらしい妻が突然、「これから『ガメラ3』を観に行くぞ」とぶちあげた。さすがにそこまで元気な者は誰もいないようで、みな二の足を踏んでいるため、私ひとりが妻に拉致され銀座へ向かう。
 てなわけで、銀座にて『ガメラ3 邪神覚醒』観賞。きのうの今日なので爆睡するのでは、と懸念したのだが、さすがはガメラ、寝るヒマもないほどテンションの高い映画でありました。
 テンションの高さ、特撮のものすごさに関しては感嘆するほかないのだけれど、そのほかの点については、私と妻の感想は真っ向から対立する。私としては脚本は詰めこみすぎだし、物語もかなり破綻しているように感じたのだが、妻は大感動していたようで、手放しの絶賛ぶり。要するに、前田愛に感情移入できたかどうかの差だろうな。
 イリスのデザインはまるでエヴァのようで、ガメラの世界観から浮いているように見える。山咲千里の役も描き方が中途半端でなんだかよくわからんし、手塚とおる演じる倉田というゲームデザイナーも妙に浮いている。藤谷文子の棒読み台詞はもう慣れたけど、もう少しキャラクターを整理した方がよかったように思える。
 渋谷のシーンで問題提起された、ガメラが戦うと何千人もの人が死ぬがそれでもいいのか、という難問には答えが出されないまま終わってしまうのも不満。人々のために雄雄しく戦っているんだから多少の犠牲はやむをえないというのか。それじゃ戦争を肯定する論理と同じでは。守るべき人間にも敵視されたガメラの孤独な戦いが描かれるものだと思ったんだがなあ。
 それになあ、前田愛がイリスと融合するシーンでは服を着てちゃいけないだろ。やはりこれはエイリアン4みたいに裸になるのが正しいだろう、人として。
 まあいろいろ不満はあるものの、ラストシーンのガメラのかっこよさだけでも、観た甲斐はあった映画。
 細かいツッコミとしては、中山忍、心臓マッサージをするときには手を曲げるな、と思ったが、正しくやったら前田愛の肋骨が折れかねないので、ウソ心臓マッサージでもまあよしとするか。
 それから、ドリキャスのGD-ROMをマックで読んだら本当にあんなふうにエラーが出るのか? と思ったので、試しに『ソニック・アドベンチャー』をWindowsマシンで読んでみた。なるほど、いろいろおまけファイルが見られるんですね。でも、エラーは出ないみたいですが。
3月13日()

 夕方家を出て、本郷三丁目交差点の「ミュン」でベトナム料理を食べてから、DASACON会場へ向かう。
 まず最初に始まったのは、『オルガニスト』でファンタジーノベル大賞を受賞した山之口洋さん、『青猫の街』で優秀賞を受賞した涼元悠一さんのお二人による対談。司会はメフィスト賞受賞の浅暮三文さん。受賞作の内容に即した話なのだが、不心得者の私はどちらも読んでいなかった(買ってはあります)のでついていけない話も多かったのが残念。かなりモロなネタバレがあったような気もするが、まあ一晩寝れば忘れてるだろう(おい)。
 対談が終わると、いつ終わるとも知れぬ古本オークションが始まる。絶版本貴重本が山のように登場しては信じられないような安値で売れて行く。銀背やハヤカワ文庫の入手困難本が、なぜこの本がこの値段でと叫びたくなるような安値で競り落とされているのに対し、『星虫』とか『メルサスの少年』みたいな比較的新しい本に高値がつくのは、やっぱり参加者の平均年齢の若さゆえなんだろうか。中でも見物だったのが、ゲスト作家三人による山尾悠子争奪戦。でも、これって、ちょっと前まで新刊で手に入ったものなんだよね。
 私が提供したのは、ハーバート・リーバーマン『魔性の森』、コードウェイナー・スミス『第81Q戦争』、森下一仁『コスモス・ホテル』、そしてハワイ旅行のときに買ったリンダ・ナガタの第2長篇『TECH HEAVEN』(サイン本)の四冊。
 一方、入手したのは、ロジャー・ゼラズニイ『われら顔を選ぶとき』(ハヤカワ文庫SF)、スタニスワフ・レム『泰平ヨンの現場検証』(ハヤカワ文庫SF)、『世界SF大賞傑作選』1,5(講談社文庫)、ロバート・ブロック『楽しい悪夢』(ハヤカワ文庫NV)、光瀬龍『復讐の道標』(ハヤカワ文庫JA)、福島正実『就眠儀式』(角川文庫)。  そしてokkoさん提供のターザン7冊セットを800円で落札。『類猿人ターザン』『ターザンの凱歌』『ターザンとアトランティスの秘宝』『野獣王ターザン』『恐怖王ターザン』『ターザンと黄金の獅子』『ターザンと蟻人間』。でもそのうち3冊はダブりだったので次のオークションで出すかも。
 いろいろと買わせてもらったので、私も次回に向け、古本屋をまわって交換用の本を収集することにするかな(ダブりを承知で本を買うようになったらもう末期症状のような気もするが)。

 ちいと苦言を呈すると、コンヴェンションとしては企画が山之口、涼元対談以外何もないのは物足りない、とか、DASACON賞ノミネート過程の不透明さとか(赤字で「自薦」はシャレにしても、いくらなんでも失礼だと思う)、いろいろ問題があったと思います。単なるオフ会でなく人を集めるイベントにするためには、もうちょっといろいろな企画が必要でしょう。それでも初めて開催したイベント、そしてネットでは知っているけど顔を知らないひとたちが交流を深める場としては、うまくいっていたと思います。楽しい一夜を過ごさせてもらいました。主催者のみなさん、ご苦労様。

 しかし、主催者の人たちはみな若いね。若いってことはいいことだよ、うん、などと年寄りになったような気分になってしまう私である。
 確かにファン活動やってわいわいやっているのは楽しいけど、20代も終わってしまえば、もうそればっかりやっている歳でもないような気がする。涼元さんは私と同い歳だそうだし、森山さんからも「何か書かないんですか」とか言われてしまったし、そろそろ私も何かを残すべき年齢になっているのかも。
 でも、何をすればいいのかいまだに漠然としているのがつらいとこなんだけど。
3月12日(金)

 さて、「言語新作」の話の続き。
 きのう紹介した論文「漢字新作について」に載っている、難解な漢字をいくつも作り出した44歳の男性患者の語った妄想内容である。
数億年前、宇宙人が地球に降下し、真にして善なる国を建設した。その末裔がイザナギ、イザナミの命であり、この血脈はさらにアマテラスとスサノオ、ヤマトタケル等を経て天皇一家に伝えられているが、われわれ人類も多少ともその血を継いでいる。しかるにいつの頃からか、次第に邪悪な力が世界を堕落させ、現在は虚偽を打破して昔のような真実の世界に戻そうとする大いなる全能者(彼はそれを「おやじ」と呼ぶ)と、ますます堕落させようとする力が戦っている最中である。彼は生後間もなく「おやじ」に戦いに参加するよう求められ、「おやじ」に心身ともに委ねて、その指示通り働くことを約束した。そして「おやじ」の指令により、「人間構成の素粒子論」や「心理プラズマ」や「運動の周期律」等々を研究する。新しい言葉(漢字)を創るのも「おやじ」の要請で、すでに腐敗した既成の文字では新しい世界の真理を発見できないからであるという。
 大いなる全能者「おやじ」! なんとも絶妙なネーミングだけど、全体としては呆れるほどステレオタイプで安っぽい筋立てである。古いスペースオペラにこんな話がありそうだな。
 なんでまた妄想がスペースオペラに似ているかといえば、身も蓋もない言い方をすれば、妄想と同じように、スペースオペラもまた紋切り型で安っぽい分野だからだろう(いや別に貶めているつもりはありません。その安っぽさがスペースオペラのたまらない魅力なのだから)。
 どうも、スペースオペラに限らず、SFと分裂病の妄想の間には、なにかしら奇妙な親和性があるようだ。彼らは言語を絶する未曾有の体験を言語化しようとしているのだから、通常の言葉ではない非日常的な用語を必要とするのはわかるのだが、それがどうしたわけかSF用語でありテクノロジー用語なのだ。
 異常体験を説明するのに「電子頭脳」や「テレパシー」といったようにSFの語彙を使う人は多いが(98年12月19日の日記参照)、「魔術師に魔法をかけられた」などとファンタジー用語を使う人は見たことがない。
 これは何でなんだろう、というところで続きはまた明日……と思ったが、明日はDASACONなのでまたそのうち(またこういう終わり方かい)。

 ところで、『ケイゾク』って新本格だと思ってたら、しばらく見ていないうちに、いつのまにこんなマンガみたいな話になったんだ?
3月11日(木)

 さてきのうの続きである。
 きのうは、狂気の想像性なんてたかが知れたものだ、という話をしたのだが、それでも患者さんが言葉や書いたものには、なんともいえない独特の魅力があることは確かだ。
 なんでまた彼らの書くものが我々にとって奇妙かといえば、それは「われわれの言語が健康な人間の世界の日常的使用のためにつくられ、狂気の世界を記述するのに適していないから」(クラウス・コンラート)だろう。自分の体験を素直に表現すれば、それは奇妙になるしかないのである。
 そんな彼らの表現の中でも、もっとも奇妙で魅力がある(というと語弊があるが)のが、「言語新作」(neologism)という現象。「誰にも通用しない、自分だけの新しい言葉を作ってしまう」という症状である。

 関忠盛「言語新作――言語学的・形象論的試論――」(臨床精神医学1977年9月)という総説には、患者本人が書いたいくつもの実例が載っているので、そこからいくつか紹介してみよう。
 まず、ある精神分裂病の患者は、面接時には「かんべんだれおれ」「かんにんだれあな」「みせるなだれおれ」「みせねだれあな」などと言うばかり。同じような内容の書面を見せることもあるが、それ以外の言葉はまったく話さない。ある種の規則性があるようだが意味はわからないという。
 また別の患者の書いた文章は図版として掲載されているのだが、それをなんとか判読して書き起こすと次のようになる。
まそうたまうそるうそたとたろそうまとたまうそるうそたとるうそるうとそたすうそるうたとたるうそた夏うとたま申る卯うたるたうるうそうとたまるたうますたるたそうとまそうまるたうまるそうたうるそうまうそるたうまそすとうたうるたうまうそるたとますとうたうそうるたまうそるたとまそとうそたるたるたまうそるたとまとそるま
 ミステリ読みの悪い癖で、これは何かの暗号なのではないかと解読を試みてみたが無駄であった(笑)。わずかに漢字が残っているのが意味ありげにも見えるが、まったく意味のない文字の羅列である。
 それと対照的なのが、別の患者の書いた次の文章。
尚岩波書店様の本を最高本を全本読み終りました後は
誰も『機械である「遍在一者」は産めない』と分りましたので
「遍在一者機械である内容真理論」
「遍在一者機械である内容原理論」
「遍在一者機械である内容そのもの論」
「遍在一者機械妃である内容真理論」
「遍在一者機械妃である内容原理論」
「遍在一者機械妃である内容そのもの論」
 同じフレーズの繰り返しが、一種異様な雰囲気をかもし出している。具体的体験については口を閉ざしているため、本人の書いたものが唯一の手がかりだという。なお、図版では妃は○で囲んである。独特の字体までそのまま紹介できないのが残念。
 このように、一口に言語新作といっても、体系的なものそうでないもの、意味のあるものないもの(本人にとって意味があるかどうかはわかりようがないが)と、種類はさまざまなのだ。

 また、アルファベット圏では、新しい単語を作るという例が多いようだが、日本では文字そのもの――新しい漢字を作ってしまうという場合も多い。塚本嘉壽「漢字新作について」(精神医学1981年6月号)には、独力で仏法を修行し、「ムロクカンゲンボサツ」像を彫って安置しようとしている人物が登場する。「世の中が機械化され、植物も特に農作物が昔とは変わってきているので、釈迦本尊ではやっていけなくなった」ため、「ムロクカンゲンボサツ」の時代になったのだという。
 彼によれば、
ムロクカンゲンボサツ
と書いて「ムロクカンゲンボサツ」と読むのだそうだ。この菩薩は釈迦仏と「ジュデ」と天皇の子孫繁栄の三要素で成立していて、彼はこの菩薩を信仰することにより農業に励んできたのだという。

 言語新作が私たちにとって魅力的なのは、その言葉の奇妙さのせいばかりではなく、その背後に壮大な「狂気の世界」を予感させるからだろう。私たちの使っている既成の言語では表現できなかった世界とはいったいどんなものなのだろう。前の例もそうだったが、実際、言語新作をする患者の中には、壮大な宇宙的妄想世界を構築している例も少なくない。
 同じ論文に、宇宙SFを思わせる壮大な妄想を語った患者の例が載っているので紹介しよう……と思ったのだが、けっこう長くなってきたので続きは明日(我ながらあざとい引きですな)。

過去の日記

99年3月上旬 サマータイム、お茶の会、そしてバニーナイツの巻
99年2月下旬 バイアグラ、巨人症、そしてドッペルゲンガーの巻
99年2月中旬 クリストファー・エリクソン、インフルエンザ、そしてミロクザルの巻
99年2月上旬 犬神憑き、高知、そして睾丸有柄移植の巻
99年1月下旬 30歳、寺田寅彦、そしてスピッツの巻
99年1月中旬 アニラセタム、成人、そしてソファの巻
99年1月上旬 鍾乳洞、伝言ダイヤル、そして向精神薬の巻

97-98年の日記

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