ホーム 話題別インデックス 書評インデックス 掲示板
←前の日記次の日記→

6月20日()

 新宿伊勢丹で、スペインからメキシコに渡った女流画家レメディオス・バロの回顧展を観る。今までバロの名前は全然知らなかったけど、これは幻想絵画ファン必見のすばらしい展覧会。風車や滑車でできた奇妙な機械や、ロールシャッハテストのインクしみのような服を着た女性。緑色を基調にした静謐な画面で、宇宙と人間とが交感する魔術的な世界を描いた作品の数々。
 私としては、いくつかの絵に登場する猫のかわいさが特に気に入りました。バロはかなりの猫好きだと見た。「猫の天国」で滑車からつるされたおもちゃにじゃれて遊ぶ子猫のかわいいこと。タイトル通り全身がシダでできたネコ(!)が登場する「羊歯猫」もいいなあ。6月25日までなので、まだ観ていない人はお早めに。
 三越美術館のダリ展も梯子しようかと思ったけど、ちょうど閉館売りつくしセールにぶつかっていて恐ろしいほどの混み具合だったので断念。

 さて、「パキャマラド」問題はYuiopさん(キーボードで打ち込みやすいハンドルですね)の書きこみによって新展開を迎えた。「クラリネットこわしちゃった」はもともとフランスの歌で、謎の「オーパキャマラド」の部分はフランス語の詞そのままなのだという。おお、そうすると私の「ヘブライ語説」もそう的外れではなかったわけだ(笑)。
 Yuiopさんによれば、「クラリネットこわしちゃった」のフランス語原曲はクラリネットとは全然関係なく、次のような詞であるらしい。
La Chanson de l'Oignon

J'aime l'oignon frit a l'huile
j'aime l'oignon quand il est bon.
J'aime l'oignon frit a l'huile
j'aime l'oignon quand il est bon.
J'aime l'oignon frit a l'huile
j'aime l'oignon quand il est bon.
J'aime l'oignon frit a l'huile
j'aime l'oignon, j'aime l'oignon.
(refrain)
au pas camarade, au pas camarade au pas au pas au pas
au pas camarade, au pas camarade au pas au pas au pas
au pas camarade, au pas camarade au pas au pas au pas
au pas camarade, au pas camarade au pas au pas au pas!

Un seul oignon frit a l'huile
un seul oignon nous change en lion.
Un seul oignon frit a l'huile
un seul oignon nous change en lion.
Un seul oignon frit a l'huile
un seul oignon nous change en lion.
Un seul oignon frit a l'huile
un seul oignon, un seul oignon.
(refrain)

Mais pas d'oignon aux autrichiens
non pas d'oignon a tous ces chiens.
Mais pas d'oignon aux autrichiens
non pas d'oignon a tous ces chiens.
Mais pas d'oignon aux autrichiens
non pas d'oignon a tous ces chiens.
Mais pas d'oignon aux autrichiens
non pas d'oignon, non pas d'oignon.
(refrain)
 タイトルは、訳せば「玉葱の歌」。問題の「オーパキャマラド」の部分は、は"au pas camarade, au pas camarade au pas au pas au pas"(オーパキャマラド、オーパキャマラド、オパオパオパ)。まさにこれは意味不明だった日本語の詞そのものではないか。そしてその意味は「歩け友よ、歩け友よ、歩け、歩け、歩け」
 「オーパキャマラド」にはちゃんと意味があったのだ!

 しかし、クラリネットという題材はいったいどこから出てきたのだろう。本当に原曲はクラリネットとはまったく関係ないのだろうか。そこで、フランスのInfoseekを使って、"pas camarade"で検索してみたところ、このようなページが見つかった。そこに載っていたのが次の詞。
J'ai perdu le do de ma clarinette

J'ai perdu le do de ma clarinette
Ah si papa il savait ca tra la la
Ah si papa il savait ca tra la la
Il dirait Ohe !
Tu n'connais pas la cadence
Tu n'sais pas comment l'on danse
Tu n'sais pas danser
Au pas cadence
Au pas, camarade
Au pas camarade
Au pas, au pas, au pas
Au pas camarade
Au pas camarade
Au pas, au pas, au pas.
J'ai perdu le re...
J'ai perdu le mi...
J'ai perdu le fa...
J'ai perdu le sol...
J'ai perdu le la...
J'ai perdu le si...
 どうも、これが「クラリネットこわしちゃった」の原詩のようだ。また、ここにも少し違ったバージョンがある。フランス語には昏い(第二外国語はフランス語選択だったくせに!)のでよくわからないのだが、内容もだいたい日本語版と一致しているようだ。
 しかし、そうなると、Yuiopさんが紹介して下さった「玉葱の歌」との関係はどうなるのか。クラリネットの歌になぜ「歩け友よ」などという詞が出てくるのか。まだまだ謎は残ってますな。
6月19日()

 有楽町にて『スタートレック外伝 ボーグが地球にやってきたヤアヤアヤア』を観る。嘘。本当は『ヴァイラス』である。
 宇宙を漂う非定型生命体が宇宙ステーション〈ミール〉を襲い、ちょうど交信中だったロシアの衛星追跡船に電磁波の形で侵入(侵入した瞬間、火花が散ってアンテナは爆発してしまうのだ)、たちまちのうちに船のコンピュータを乗っ取り船内を制圧。孤立した船内を舞台に、エイリアンが工作機械で作り出した機械生命体と人間の戦いが繰り広げられる、という絵に描いたようなB級SF映画。
 船の中でのモンスターとの戦い、といえば、どうしても『ザ・グリード』を連想してしまうけど、魅力的なキャラクターがいるわけでもなし、展開もだらだらしているし、『ザ・グリード』ほどの面白さは到底感じられない。だいたい、なんでまたこのエイリアンは乗組員を皆殺しにしようとするんだか。どこかの都市に入港するまで待ってれば世界中に勢力を広げられるのに。
 ただ、このエイリアン、人間も部品の一つとして使って機械人間を作ったりしてしまうのだが、このデザインがスタートレックのボーグにそっくり。勝手に、ボーグと人類の最初の遭遇を描いた映画と解釈して観れば少しは面白いかも。
 なぜこんなB級の映画にジェイミー・リー・カーティス、アレック・ボールドウィン、ドナルド・サザーランドと錚々たる役者陣が出演しているのかは謎。
6月18日(金)

 えー、きのうの紫陽花の件については掲示板でいろいろとつっこみを頂きました。まず、紫陽花の色の変化は土の中の鉄分の量ではなく土壌のpHで決まるらしい。酸性だと青になってアルカリ性だと赤になるとか。つまり、凶器は青い紫陽花の根元に埋まっているわけですね。
 また、このトリックの出典は日下圭介の「あじさいが知っている」という短篇らしい。ううむ、日下圭介。乱歩賞受賞の『蝶たちは今…』、推理作家協会賞受賞の「木に登る犬」「鴬を呼ぶ少年」というタイトルのインパクトから、私は勝手に動物系推理作家だと思いこんでたりする(どれも読んだことない)。一応乱歩賞はとっているものの、マニア受けするわけでもなくキオスクでよく売れる系でもなく、なんとも地味な位置づけの作家ですな。しかし、えてしてこういう地味な作家に佳作が隠れていたりするんだよなあ。

 仕事のあとは池袋でちょっと打ち合わせ。本を書くことになるかもしれないかも。ドキドキ。
6月17日(木)

 帰宅途中、近所の立派な家の石垣の上に、鮮やかな紺色の紫陽花が咲いていた。雨はほとんど降ってないけど、確かに季節は梅雨時なんですね。
 紫陽花ってのは土の中の鉄分の量によって色が変わるのだと昔子供向けの科学の本で読んだ覚えがある。確か、鉄分が多い方が赤くなるんだったっけ。
 さて今のような季節、青い紫陽花の中に一本だけ赤い花が咲いていたりする光景に出くわすと、私は思わず「なるほど、この家の主人を刺し殺した凶器はこの下に埋まっているのだな」などと考えてしまうのだが、このネタの出典って何だっけ。昔マンガで読んだ覚えがあるのだが、おそらくもとは推理小説か何かだと思う。紫陽花などという花を使っていることからすると、たぶん国産の推理小説だろうなあ。だれかご存知の方はおりませんかね。
 しかし、紫陽花という風流な花をテーマに日記を書いても、殺伐とした話になってしまうあたり、私らしいというか何というか(笑)。

 倉阪鬼一郎『死の影』(廣済堂文庫)読了。実は私、今まで読んだ倉阪作品は『活字狂想曲』だけ、本業のホラー作品を読むのはこれが初めてである。
 新興宗教団体が建設した格安のマンション。なぜか4階だけが立入禁止になっているそのマンションで、ベストセラー作家は婚約者の亡霊に悩まされ、OLは死んだはずのストーカーの影に怯え、元女優はサイコキラーとして跳梁する。そして、立入禁止の4階では邪教集団の怪しげな儀式が行われていた……。とまあ、薄さの割りには内容豊富でサービスの行き届いたホラー長篇。これでもか、というほどにホラーの要素が詰めこまれた小説である。
 しかし、これだけの要素を詰めこむのなら、この薄さはちょっともったいない気もする。水軍との因縁など邪教集団の背景はほとんど描かれないままになってしまっているし(それとも、他の作品に描かれているのかな)、主人公ほか各キャラクターのエピソードも最後まで描かれることなく、大部分は突然の死によってぷつんと途切れてしまっている印象である。これだけの内容なら、今の2倍くらいの長さくらいがちょうどいいのではないか。
 それにしてもこの本、あまりにも地味なタイトルでかなり損をしていると思うのだが。

 SFマガジン99年7月号に載った神林長平『グッドラック』(早川書房)の書評をアップロード。
6月16日(水)

 大学生の頃、私が学内でもっとも好きな場所はもちろん図書館だったが(『東日流外三郡誌』があるのを見つけ、借りてパラパラめくったりしていた)、2番目に好きな場所が解剖学標本室だった。
 この標本室、一応学生や関係者は出入り自由なのだが、どうしたわけか訪れる人はほとんどなく、いつ行っても部屋の中にいるのは私一人だけだった。退屈な講義や面倒な実習に疲れた昼下がりのひととき、何度かこの標本室を訪れ、外部とは遮断された空間の中でしばらく時をすごしたものである。青空のまぶしい初夏の午後でも、標本室の中だけは骨董屋のように薄暗く静寂に満ちていて、試験や進路といった俗な悩みを忘れさせてくれたものだ。
 標本室は、解剖学研究室の3階にあった。入り口の古めかしい木の扉から室内に入り、まずは後ろを振り返ってみると、今入ってきた扉の上に巨大な額が飾ってあった。その中にまるで一幅の名画のように収められているのは、全身に刺青を彫られた皮膚の標本である。持ち主の死後に体から丁寧に剥がされたもので、少しくすんではいるもののダイナミックで見事な刺青である。何か謂われがあるのだと思うが、もう忘れてしまった。しかしこの標本は見るものに大きなインパクトを与えるらしく、高木彬光の『邪馬台国の秘密』でも言及されているし、手塚治虫の『ブラックジャック』にも確かこの刺青をモデルにした話があったはずだ。
 さて、入り口に向かって左手のガラスケースの中にはホルマリン漬けの臓器標本が収められている。棚の奥の方には蝋でできた病変の模型も並んでいる。おそらくは、かつて教育用に作られたものだろう。肝硬変や腫瘍の模型もあるが、中でも目を惹くのは、梅毒に侵されグロテスクに変形した顔面の模型である。
 しかし、最も目を見晴らされるのは、奇形児の標本のコレクションだろう。模型ではない。実物である。ガラスの棚には、ホルマリンの入ったビンがいくつも並んでおり、そのビンの中にひとつずつ、奇形児の標本が収められているのである。無脳症、単眼症、シャム双生児。さまざまな異形の胎児たちがホルマリンの中で眠っている。
 その奥の壁際には骨格標本が2体。単なる骨格標本として見過ごしてしまいがちだが、これは明治時代の右翼の大物、杉山茂丸とその妻の骨格である。すなわち『ドグラ・マグラ』の夢野久作の父親ということになる(妻は後妻なので久作の母親ではない)。杉山茂丸は、日本国民の体はすべて天皇の所有物であるから遺体は国家のものである、と「死体国有論」を唱え、自らそれを実践した(そして妻にも付き合わせた)のであった。
 有名人の標本、といえば部屋の奥には脳の標本がずらっと並んでいる。夏目漱石、日本の原爆の父仁科芳雄、右翼少年に刺された浅沼稲次郎、いちばん新しいのが岸信介元首相だっけな(このへんちょっとうろ覚え)。
 という具合で、好きな人にはたまらないスポットなのだが、残念ながら一般の人は立入禁止。医学関係者のみ入室が許可されている。とはいっても申し込めば見せてもらえないこともないようで、島田荘司の『眩暈』にもこの標本室が登場するシーンがあった(確か石岡君が失神するんだっけ)し、何かの雑誌で特集が組まれていたこともあったような。
 この標本室、もしかすると日本最後の「秘境」かもしれない。

 森博嗣『そして二人だけになった』(新潮社)購入。
6月15日(火)

 『せがれいじり』をプレイ。どういうわけか、最近こういうヘンなゲームでないとやる気がしない。うーむ、ノリはいいのだが、単調なゲームですな。作文してはアニメを見るという繰り返しが、後半になると苦痛である。組み合わせで文を作るというアイディアはいいのだが、アニメの出来が悪いので全パターンを見たいという気にはとてもなれないのだ。下ネタがやたらと目につくのもマイナスポイント。「とのさま」が登場して「わしは昔ウゴウゴルーガというテレビに出てたんじゃ」と自慢するあたりは笑えたけど。

 異形コレクションXI『トロピカル』(廣済堂文庫)購入。一応惰性で買ってはいるが、最近全然読んでないなあ、このシリーズ。メンバーも変わり映えしないし、そろそろ幕引き時だと思うんだけど、まだまだ続くみたいですね。異形招待席第1弾、倉阪鬼一郎『死の影』(廣済堂文庫)も購入。
 エドガー・ライス・バロウズ『火星のプリンセス』(創元SF文庫)は1700円。梶尾真治『クロノス・ジョウンターの伝説』(ソノラマ文庫NEXT)は単行本で読んでいるが、書き下ろしが一篇加わっているとなれば、買わないわけにはいかないよなあ。

 古畑は次回の最終回に続く前後編だけど、これはきわめて納得のいかない犯罪。こんなずさんな犯行すぐにバレると思うんだが。遺失物保管所から鞄を取り戻すことが犯人の目的なのだが、身代金を入れる鞄がないのなら、普通遺失物なんて使わず、職員の鞄なり何なりを使うでしょ。やっぱり今シリーズの最高傑作は旧友との再会の話だったか。あれを最終回にすればよかったのに。
6月14日(月)

 遅ればせながら高見広春『バトル・ロワイアル』(太田出版)読了。いやあ悪趣味な話である。そして、評判通りの面白さ。
 「ので。」止めの多用など、文章に気になるところもあるものの、666ページという分厚さを一気に読まされてしまった。特に感心したのは42人の中学生全員のキャラクターが描かれていること。これだけの同年齢の人物を書き分けるのは、並み大抵のことじゃないですよ。これだけでも凄いと素直に感動してしまう。
 まあ、ステレオタイプなキャラクター、ステレオタイプな殺しのシーンをありったけぶちこんだ作品だともいえるのだけれど、それをここまで読ませる大作に仕立て上げてしまうのだから、凄い新人作家であることは確かである(私と同い年かよ。トホホ)。
 しかし、「殺しても死なないような男」だの「感情のない男」だの、これほど多彩な人物が中三にいるかなあ(まあ、そうでないとお話にならないと言われればそれまでなのだが)。中三にしては大人びすぎているような気がするのだが、中三ってこんなもんだっけ? それから、桐山が殺戮機械と化した原因を、脳の外傷に求めているのはどうかと思う。何か目に見える原因を提示すれば人は安心するのだろうが、人が人格障害になる原因は、それほど単純なものではないのだ。あの神戸の中学三年生のように。

 TVKテレビで『To Heart』マルチ編後編を見る。むう、そう来たか。テレビではゲーム版のあのエンディングはできないもんなあ。感動は薄いけどまあこんなもんか。SF的にはかなり突っ込みが甘いがそういう話ではないし。
6月13日()

 今日は当直なので病院に軟禁状態。あー、外はいい天気なのに。
 こんな気持ちのいい日の病院で読むのは、アン・ルール『テッド・バンディ』(原書房)。
 大学の心理学科を優秀な成績で卒業したバンディは、電話相談センターでは思いやり深いソーシャルワーカーとして活躍、その傍ら政治の世界にも興味を持ち、共和党の州知事のために働く。さらに大学の法学部に入り直し、弁護士の卵としての勉強も始める。ハンサムで聡明、女性には不自由しない青年テッド・バンディ。しかし、彼のもうひとつの顔は、ロングヘアの若い女性を次々と殺害する連続殺人犯なのであった。ついに逮捕されたあとも2度に渡って脱獄、逃亡中にもさらに犯行を繰り返す。彼が殺した女性は少なくとも合計30人以上(一説には100人以上)にもなる。裁判では、弁護人として自らを弁護、得意の弁舌で無実を訴える。死刑が決まった後も、獄中から未解決の連続殺人事件の捜査に協力。獄中にあっても彼は常に人を惹きつける魅力の持ち主で、彼のまわりにはいつでも彼を支援する女性がおり、獄中結婚までしてしまう。
 いやはや、殺人鬼本には必ず登場するのでテッド・バンディの名前くらいは知っていたが、ここまですごい男だったとは。犯行のグロテスクさではエド・ゲインやジェフリー・ダーマーに劣るが、頭脳の明晰さではかなう者はいないのではないか。
 この本が普通の犯罪ノンフィクションと違うのは、著者が犯人の個人的な友人である、ということ。本書の著者は、電話相談センターでバンディとともに働き、彼と親しい友人になった女性なのである。最初はまさかと疑うものの、徐々に彼が犯人だと信じざるをえなくなっていく感情の変化が克明に描かれている。他の犯罪ノンフィクションのように突き放した視線ではなく、友人としての視点で殺人犯を描いているのが新鮮。意地悪く言えば、この著者は犯罪ノンフィクション作家としてはまたとない素材を手に入れたわけだ。
 ともあれ、これだけ克明な人間像を描き出せたのは、やはりバンディの友人だった著者だからこそ。本書で描かれている殺人鬼の肖像は、ありがちなサイコキラーものをはるかに超えている(『神の狩人』なんて目じゃないね)。サイコスリラーにはもう飽き飽きという人にもお勧めである。今年読んだ本の中でもベストテンに入る傑作。
 しかし、日曜日の精神病院で読む本じゃないわな(笑)。
6月12日()

 妻が、Bunkamuraでやっている『タンゴ』という映画を観たいというので、今日は渋谷へお出かけ。渋谷に着いてみると映画までには時間があるので、地下の美術館でやっていた「目撃者 写真が語る20世紀」なる写真展を見て時間をつぶす。
 1900年の巴里万国大博覧会とかヒンデンブルグ号墜落とか、楽しい(?)写真もあるのだけれど、やはり多いのは戦争写真。企画者としては、20世紀は戦争の世紀、と言いたいのだろうが、これじゃセレクションが偏りすぎているんじゃないかなあ。戦争写真もこれだけ並ぶと、戦争という現実よりはそれを撮っている写真家の主張の方が露骨に見えてしまう。写真家の主張のあまりの強さに辟易して、最後の方などは早足で通りぬけてしまった。
 しかしなんでまた写真家ってやつは、戦争が起きるたびに、兵士が子供を抱き上げている写真を撮りたがるんだろうなあ。各戦争につき1枚ずつくらいあったような気がするぞ。「罪もない犠牲者」というイメージにしやすいせいだろうと思うんだが、そうやって写真によってイメージを作ってしまうというのもひとつの情報操作だよね。
 心を打つ光景をうまくとらえた写真であるほどうさんくさく感じてしまうのは、別に私の性格が悪いせいだけじゃないと思うな。

 次に観た映画『タンゴ』は、なんとも表現に困ってしまうような映画。タンゴショーの舞台、そのバックステージ、さらにそれを描いた映画、という三重構造になった複雑な作品なのだが、『恋に落ちたシェイクスピア』のようにそれぞれの層がシンクロしていくわけでもなく、何のためにこんな複雑な構造になっているのかさっぱりわからない。いちおう、メインとなるストーリーは、ダンサーに振られた演出家のエロオヤジがもっと若いダンサーに乗り換えようとする、というだけの単純な話なのだが、結局中途半端なままに終わってしまう。エンドクレジットが始まったときには、私は狐につままれたような気分だった。
 この映画の監督カルロス・サウラの『カルメン』に衝撃を受け、以降この監督の映画はすべて観ているという妻によれば、『カルメン』を観ていれば監督がやりたかったことがよくわかるのだそうだ。どうりでわからなかったはずだが、そりゃあまりにも不親切というものなのでは。

 さて口直し(笑)に観たのが、『ハムナプトラ 失われた砂漠の都』の先行オールナイト。傑作モンスター映画『ザ・グリード』を撮ったスティーヴン・ソマーズ監督の最新作である。
 この映画、原題は"The Mummy"のはずなのに、どうしたわけか邦題は『ハムナプトラ』。しかもタイトルロゴからサブタイトルに至るまで、露骨に『レイダース 失われた聖櫃』を思わせる作りである。この売り方は何だかなあ、と思っていたのだが、観てみると確かにこれは現代版『レイダース』。というより『ベン・ハー』とか『アルゴ探検隊の冒険』などの古き良き冒険映画の復活、といった感じ。現代的な部分といえばCGIを多用したクリーチャーくらいなもので、エジプトの呪いというテーマといい、「娘を助け、悪人を倒し、世界を救う」という王道を行く展開といい、とても1999年の新作映画を観ている気がしない大時代で懐かしい感触の映画である。
 そのあまりのひねりのなさは、たぶん脚本も書いているスティーヴン・ソマーズの確信犯なんだろうけど、私としては前作『ザ・グリード』の方を買う。
 しかし、ソマーズ監督は、『ザ・グリード』同様、脇役のキャラクター造形が相変わらずうまいね。今回はヒロインの兄ジョナサンと敵方に寝返るベニー(演じるのは、前作でも魅力的な脇役パントゥッチを演じていたケヴィン・オコナー)の二大役立たずキャラが最高。

 スター・トレックでドクター・マッコイを演じたディフォレスト・ケリー死去。おお、ついにスタトレのオリジナル・メンバーが欠けてしまったか。
6月11日(金)

 書店の平積みで『妄想 OBSESSION』というタイトルの本を見かけてのけぞった。原題が"OBSESSION"で邦題が『妄想』らしいのだが、オブセッションと妄想は全然違いますがな。"OBSESSION"を日本語に訳せば「強迫観念」になるのだけど、それではタイトルにはならんのかな。
 例えば電車の中で見かけた女性の下着姿を想像するとか、アイドルをレイプしている場面を想像するなんてのは、精神医学的には「妄想」とは言わない。それはただの空想である。精神医学的な「妄想」は「誤った観念」でなければならないのだ。ヤスパース(哲学者のヤスパースはもともと精神科医で、わずか30歳のとき(おお私と同じ年齢ではないか)に『精神病理学原論』を書き上げている)は、妄想の特徴として以下の3つを挙げている。
(1)なみなみならぬ確信をもつこと。
(2)経験や推理によって影響されないこと。
(3)妄想内容が不可能なものであること。
 この定義の弱点は(3)ですね。不可能かどうか、いったいどうやって判断するんだろう。宇宙人は地球に来ている、という確信が妄想かどうかは人によって意見が違うだろう(私は妄想だと思うが)。同じように、神の存在を確信するのは妄想?
 結局のところ、妄想の定義など不可能としかいいようがない。正常と異常の境界が定義できないように、妄想と空想の明解な区別もできないのである。
 さて、"OBSESSION"「強迫観念」の方はというと、いくら別のことを考えようとしても、思い浮かべずにはいられない観念のこと。女性を見ればその下着姿を想像せずにはいられないとしたら、それは「強迫観念」である。たぶんこの本にはそういう観念の持ち主が出てくるんだろう。ただし、日本語の日常語としての「妄想」には「妄(みだ)りなる想い」という意味あいもあるので、このタイトルも誤りとはいいきれないのだけれど。

 のけぞった本といえば、原書房から出た岡本綺堂『玉藻の前』もすごい。表紙に大誤植があるのだ。表紙によればこの本「岡本綺堂伝記小説集其ノ一」らしいのだが、別に玉藻の前の生涯と業績を描いた本ではない。帯には「平安王朝の妖しくも幻想的な世界が蘇る」ってんだから、こりゃどう考えても「伝記」じゃなく「伝奇」だよなあ。
 しかしこの本、表紙にも背表紙にも、帯にも扉にも「伝記小説集」と印刷してある。かろうじて奥付とちらしだけが「伝奇小説集」。この表紙をデザインした人は「伝奇」という言葉を知らなかったのだろうか(帯には「伝奇小説の金字塔」とあるのに)。それにしても、誰か一人くらい気づけよ。

 光瀬龍『宇宙救助隊二一八〇年』(ハルキ文庫)、栗本薫『黒太子の秘密』(ハヤカワ文庫JA)、木下直之『美術という見世物』(ちくま学芸文庫)購入。

過去の日記

99年6月上旬 睾丸握痛、アルペン踊り、そして県立戦隊アオモレンジャーの巻
99年5月下旬 トキ、ヘキヘキ、そしてSSRIの巻
99年5月中旬 鴛鴦歌合戦、星野富弘、そして平凡の巻
99年5月上旬 SFセミナー、ヘンリー・ダーガー、そして「てへ」の巻
99年4月下旬 病跡学会、お茶大SF研パーティ、そしてさよなら日記猿人の巻
99年4月中旬 こっくりさん、高い音低い音、そしてセバスチャンの巻
99年4月上旬 日記猿人、生首、そして「治療」は「正義」かの巻
99年3月下旬 メールを打つ、『街』、そしてだんご3兄弟の巻
99年3月中旬 言語新作、DASACON、そしてピルクスの巻
99年3月上旬 サマータイム、お茶の会、そしてバニーナイツの巻
99年2月下旬 バイアグラ、巨人症、そしてドッペルゲンガーの巻
99年2月中旬 クリストファー・エリクソン、インフルエンザ、そしてミロクザルの巻
99年2月上旬 犬神憑き、高知、そして睾丸有柄移植の巻
99年1月下旬 30歳、寺田寅彦、そしてスピッツの巻
99年1月中旬 アニラセタム、成人、そしてソファの巻
99年1月上旬 鍾乳洞、伝言ダイヤル、そして向精神薬の巻

97-98年の日記

home