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6月30日(水)

 「最近イライラするんだ。カルシウムが足りないからかなあ」
 などという台詞をよく聞くのだが、あれはいったい誰が言い出したことなのだろう。少なくとも私は、カルシウム欠乏により不安焦燥症状が出るという話は学生時代の講義では習ったことがないし、イライラを訴える患者さんにカルシウム剤を投与したこともない(そもそも保険で通らない)。
 はたして、本当にカルシウム不足とイライラには関係があるのだろうか。血中のカルシウム濃度が低下する低カルシウム血症という病気では、けいれんとか白内障、行動異常、精神異常、知能低下をきたす、と教科書には書いてあるけれど、ここまで来るととてもイライラなどというなまやさしいものではない。だいたい、カルシウムは口から摂取されなければ骨からも供給されるわけで、少々の不足くらいでは血中濃度はびくともせず、ホルモン異常でもなければほぼ一定に保たれているはずなのだが。
 「イライラ=カルシウム欠乏説」というのは、もしかしたら都市伝説の類いなのではないか。以前からそう思っていたところ、ちょうど日本醫事新報の6月26日号の質疑欄にこんな質問が載っていた。
「カルシウムの欠乏は、イライラなど精神面に支障を来すといわれるが、その発症機序について」
 おお、これこそ私の知りたかった疑問ではないか。
 これに対して、広島大学神経精神医学科の山脇成人教授がこう回答している。
「イライラなどの精神症状は、健常人でもストレス負荷時に認められるものであるが、精神科領域では強い不安、焦燥、抑うつなどを呈するうつ病などの感情障害の発症に細胞内カルシウムイオンの調節異常が関与していることが報告され、注目されている」
 確かにそうだけどさ。細胞内カルシウムイオンの調節異常とカルシウムの欠乏じゃだいぶ遠いような気がする。
「うつ病ではセロトニンの神経終末からの放出や再取り込み、セロトニン受容体の細胞内情報伝達系がカルシウムイオンの調節異常によって障害され、ストレスによって惹起された不安、焦燥、抑うつなどの感情が回復することができなくなっているのではないかと想定されている」
 だからそれはうつ病の話でしょ。それにカルシウム欠乏とイライラとの関係については何も述べていないし。
「しかしながら、カルシウムの欠乏がただちに精神機能に影響するかというと、そう単純なメカニズムではなく、神経細胞内のカルシウムイオンの微妙な調節が複合的に障害され、適応力の限界を超えた場合に、精神機能にも影響が出ると考えられる」
 おいおい。それを先に言ってくれ。「微妙な調節が複合的に障害され」というあたり、何ともあいまいな表現で何を言いたいのかさっぱりわからないのだが、結局のところカルシウム欠乏とイライラの関係はよくわからないということのようだ。
 だとすると、この俗説がここまで広まった原因はいったい何なのだろうか(「おもいっきりテレビ」とか「あるある大事典」とかのテレビ番組か?)。
 百歩譲ってカルシウム不足がイライラの原因になりうるとしても、イライラするのがカルシウム不足のせいとはいえないのは自明の理ではないのかな。逆は必ずしも真ではないのだ。

 私のもっとも敬愛する精神科医、春日武彦の新刊『屋根裏に誰かいるんですよ。』(河出書房新社)購入。サブタイトルは「都市伝説の精神病理」。この人の関心は、いつも私の関心と非常に近いんだよなあ。
6月29日(火)

 ようやく買ったSFマガジン8月号を読んで気づいたのだが、SFスキャナーのページによれば、昨年出たイアン・マクドナルドの新作のタイトルは『キリンヤ』というらしい。『キリンヤ』ねえ。いくらなんでも『キリンヤ』はないだろう。しかもこっちもアフリカの話。バッティングしてまずいとは思わなかったのかな。イギリス版だからいいのか。これは、ぜひハヤカワに訳を出してもらって『キリンヤガ』の横に並べたいものである。その横には東本昌平の『キリン』を並べれば完璧(何がだ)。こうなったら『キリ』と『キ』もほしいな。
 ジョン・ケッセルの「監督させてもらえるなら、このキャストで撮る!」もなかなか。あっちのSF者もこんなこと考えるんだね。『虎よ、虎よ!』のガリー・フォイル……メル・ギブソンというのはあまりにもありきたりで面白くないが、『闇の左手』のエストラーベン……シガニー・ウィーバーというのには驚愕。そうか、そういうイメージなのか。

 おお、巻末の予告によれば、来月は「トップレス獅子舞考」深堀骨さんの作品がSFマガジンに載るようだ。深堀さんは、私が森下一仁さんの空想小説ワークショップに酸化していた頃からの知り合い。ワークショップに初めて来たときにはすでに、ミステリマガジンに何本か小説が載っているれっきとしたプロ作家なのであった。SFセミナーで綾辻行人を怒らせた男としても一部で有名(笑)。たぶんまた人を食った話なんだろう。

 ジャック・ケッチャム『老人と犬』(扶桑社ミステリー)、アレクサンドル・グリーン『消えた太陽』(国書刊行会)、パトリック・マグラア『閉鎖病棟』(河出書房新社)、津原泰水『蘆屋家の崩壊』(集英社)、島田荘司『涙流れるままに』(カッパノベルス)、鯨統一郎『隕石誘拐』(カッパノベルス)、永瀬唯『欲望の未来』(水声社)、山田風太郎『風太郎千年史』(マガジンハウス)購入。
 買いも買ったり。
 いつ読む?
6月28日(月)

 今日は久しぶりに大学医局の研究会へ。ふだんは医者が回り持ちで発表をしているのだが、たまにゲストを呼んで講演をしてもらうことがあって、今日の講師はなんと、かのフェミニズムの親玉、上野千鶴子なのである。
 いや、話には聞いていましたが、実物の上野千鶴子はものすごい。敵にはしたくない人物である(私なぞ敵だとすら思ってもらえないだろうが)。言葉のはしばしに「精神科医のみなさんなら当然ご存知でしょうが」「精神科ではまさかいまだにこんなことをやっているんですか?」などと皮肉がはさまり、ひとことひとことに刺がある。
 質問をした日には、質問の途中でさえぎられ、逆に詰問される始末。わけのわからない質問には「○○さんと禅問答をしにきたわけではありません」。ちょっといい質問が出れば「○○さんは私の話の核心をついて下さいました」。ベテランの精神科医をまるっきり学生扱いである。まあ、これはこれで痛快な気もしないでもない。
 異常にアグレッシブな人間に出くわすと、これは何かの防衛機制なのではなかろうか、とついつい考えてしまうのが精神科医の悪い癖。上野千鶴子はいったい何を防衛しているんだろうか。
 話の内容は大方想像のつくとおりジェンダー論とか「近代家族にまつわる幻想を破壊せよ」とかそういう話で、「ジェンダー」とか「家族」とかいうものは制度的に作られたものにすぎない、という立場に立っているのだけれど(「女性性というものには内実はなく、人が女性性と呼ぶものが女性性なのであってそれ以上でも以下でもない」などと言ってましたな)、話がこっちの土俵である精神病に及ぶとどうも彼女の議論も怪しくなる。
 当然ながら彼女は精神病というものも制度的に構成されたものにすぎないと喝破するのだけれど、それは精神病の圧倒的な理解不能性を甘く見た言葉のように思えた。それじゃ、レインの反精神医学の過ちを繰り返すだけのことなんじゃないかな。
 おそらく聞いている医者の誰もがそう思っていたのだけれど、上野千鶴子の圧倒的なディベート能力の前には有効な反論を見つけ出すことができず、結局誰一人として彼女を論破することはできずに終わったのであった。情けなや。
6月27日()

 なんと、本を書くことになった。
 いやあ、本を出すってのは昔っからの念願だったので、依頼が来たときにはなんとも感慨深いものがありました。ほんとは小説でデビューしたかったんだけど、最近は日記ばかりで小説は全然書いてないから仕方ないやね。
 SFとは全然関係ない出版社なのだけど、なんでも編集者は私がSFマガジンに書いた文章を読んで依頼しようと思ったんだそうで、なるほど、意外にSFマガジンってのは読まれてるんですね(失礼)。
 編集者の側から提示されたテーマは、ゲームやアニメと精神医学について。まるで香山リカのようなテーマである。でも、まあ香山リカのような本にはならないでしょう、たぶん。私が取り扱うのは、ゲームといってもギャルゲーなのですね。「キャラ萌えの精神医学」とでもいったような内容になるはず(まだ何を書くかはっきりとは決めてない)。この日記を読んだ編集者が、私のことを、ギャルゲーにも造詣が深い精神科医(笑)だと思って依頼してきたらしい。むう、本名で書いてしまっていいものだろうか。
 デビュー作がギャルゲーの本というのも、なんとも複雑な気分にならないこともないのだが、まあ書かせてもらえるだけありがたい。手は抜かずに書くつもりである。
 いろいろと調べものでもしながらのんびり書こうかと思っていたのだが、出版社側にも都合があるようで、どうやらそんなにのんびりともしていられない様子。しかしなんせ本を書くのなど初めてなので、どんなペースで書けばいいのかさっぱりわからない。
 これから手探りで書き始めるつもりだけど、書いている期間中は、日記が短めになったり更新が遅れ気味になるかもしれない。その点、あしからずご了承下さい。
6月26日()

 小此木啓吾の話を聴いてきました。
 信濃町の慶応大学病院に行って、精神科教室の勉強会に潜り込んできたのである。潜り込むって行っても、別にこっそり忍びこんだわけではなく、慶応出身の同僚の先生に連れられてお客さんとして聴いてきたのである。そもそも講師と生徒合わせて6、7人のこじんまりとした勉強会なので忍びこめるはずがない。
 小此木先生は温厚そうな感じの人で、講義はわりとわかりやすいのだけれど、かすれがちの小さな声で話すので、聴き取るのにけっこう苦労する。
 講義の内容は「精神分析から見た思春期心性とその病理」ということ。フロイトからマーラー、エリクソンといった基本的な理論を、小此木先生自身が経験した症例をまじえて語っていたのだけど、どうも私としては、分析の思考法にはどうも違和感を覚えてしまうなあ。万引き常習者の高校生は、実は中学生の頃、父親の引き出しを盗み見ているときに父親の愛人と一緒の写真を見つけたことがあり、それ以来盗むことが強迫観念になったのです、とか言われてもなあ。お話としては面白いのだが、そんなふうに断定してしまう根拠がさっぱりわからない。
 まあ、個人だとか社会だとかを論じようとするとき使うにはきわめて便利な体系だと思うけど、たとえば「エリクソンはこう言っているからこうなのだ」では全然論拠になっていないではないか。精神分析の人の社会批評ってのはそういうのが多くてどうも肌に合わないんだよなあ(いや別に小此木先生のことを言っているわけではないのだけど)。
6月25日(金)

 足の骨折で入院した88歳の女性が、左右の足を取り違えて手術されてしまい、再手術のため入院を続けるうちに肺炎を併発して亡くなってしまったとか。不幸なことである。
 なんでも、医者は手書きで書かれた「左」の文字を「右」と読み違えてしまった上、患部を確認するレントゲン写真を裏返しに見てしまったとか。レントゲン裏返しは言語道断だけど、「左」と「右」を間違えるなんてのはありがちな話である(だから間違えないように"l"と"r"で書いたりするのだが、それでもどっちだかわからないような字を書く悪筆の医者もいるのは驚くべきことである)。
 「左」と「右」。意味は正反対なのにこんなに紛らわしい文字なのはかなり問題だと思うぞ。デザインとして人間工学的に間違っていると思うんだが、今となっては到底変更不可能なのは残念なことである。

 さて医療ミスの報道が最近多いのだけれど、当然ながら昔から変わらずあったわけである。単に、今まではあまり表ざたにならなかったというだけの話である。表に出ないことだけに正確にはわからないが、まあ普通に考えても、最近になって急に増えたということではないだろう。
 病院の中では医師の権威が絶対で、患者も看護婦もそれには逆らえないのが問題だとか言われているんだけど、やっぱり外科なんかだとあくまで治療の主体は医者だからなあ。医者の判断が絶対になってしまうのもある程度仕方ない気もする(これが精神科だと、看護婦の方が医者よりもよっぽど患者と接していたりするので、看護婦の意見も聞かないことには治療が進まないのである)。
 医者だって人間なんだから、ミスはあるのだ。まずここから出発するしかあるまい。ちょっとしたミスなら、私だって日常茶飯事である(月に一度の注射の指示を忘れていたり、減らしたはずの薬を次の処方でまた元通りにしてしまったり)。だから、医者がミスをするのがけしからん、というような論調には納得いかないねえ。
 「人の命を預かっていることを自覚せよ」なんて掛け声かけられても実効性は期待できない。ミスを減らすには、一人がミスをしても誰かがリカバーするようなシステム(精神科の場合だと、変な量の薬の処方箋を出したら薬局から電話がかかってくるとか。私の場合たまにあります(笑))を作るしかないと思うんだけど、実際、なかなかそれができてないんだよなあ。

 コニー・ウィリス『リメイク』、フィリップ・K・ディック『マイノリティ・リポート』(ハヤカワ文庫SF)、デイヴィッド・プリル『連続殺人記念日』(東京創元社)購入。
6月24日(木)

 このところ忙しい日が続いている上に、今日は措置入院の当番日。またまたやっかいな患者さんが入院してきて非常に消耗してしまった。
 忙しい日が続くとかえって充実感を感じてやる気になる人もいるのかもしれないが(そういう医者は外科医に向いている)、私は違う。私は忙しいのが大嫌いだ。私の場合、忙しい日が続くと次第に仕事をやめたくなってくるのだ。これが正常な反応というものであろう。
 私は忙しいのが大嫌いだが、忙しいことを誇らしげに語る人種も嫌いだ。なんでまた忙しいことを嬉しそうに語るのか。忙しいのはむしろ呪うべきことなのではないか。
 面倒な患者さんが入院してきて、運悪く自分が担当医になった場合、どうしたらいいか。手を抜く? 手を抜いた治療で治るほど精神病は甘くはない。治らなければ私は永遠に楽になれない。別の医者に押しつける? そんなことができれば楽なのだけどね。少しでも早く私が楽になれるようにするためには、治療するほかはない。まあ治れば、むろん当の患者さんも楽になるが。
 激しい症状が出ているうちは、毎日その人の相手をし、細心の注意を払って薬を処方し、対応策を検討しなければならない。こいつはやっかいである。症状が治まってくれば週に1、2回の面談(というか雑談)だけですむ。こいつは楽である。しかしここに盲点がある。恐ろしいことに、患者というものは、治ると退院してしまうのだ。そして、また新しい患者が入院してくるという寸法。世の中うまくいかないものである。いったい私はいつヒマになるのだ。
 自慢のように聞こえる? 馬鹿を言ってはいけない。これは呪詛だ。私はこういう忙しい自分が大嫌いなのだ。ヒマになるためには、やっぱり病院を移るしかないのかな。どっかいい就職先はないもんかな(半分本気)。
 今日は妙にひねくれたことを書いているな、と思ったあなた。私がひねくれ者であることに今ごろ気づくようではまだまだですな。
6月23日(水)

 タイムスリップSFとのPOPに惹かれ、森高夕次原作・阿萬和俊劇画(いまどき劇画って言い方はないよな)『総理を殺せ』全2巻(小学館)を買ってみる。
 時は2024年、急激に軍事国家になった日本と中国は日本海の油田をめぐって対立、日本の総理大臣剣崎裕太郎はついに核ミサイルのスイッチを押す。しかし報復攻撃を受けて東京は壊滅。そのショックで2024年の住人である三浦は1995年にタイムスリップ。三浦は見知らぬこの時代でまだ若い剣崎を殺すことを決意する。というまあターミネーターみたいな話である(SFな人には『エリアンダー・Mの犯罪』みたいな話でも可)。
 なんで1995年かというと、そこはほら、1995年といえばいろいろと事件がありましたよね。あれが物語にからんでくるというわけ。
 しかし! この作品の魅力はSFとしての完成度などとは別のところにある。妙に力みかえったストーリー展開の中に、おそらく作者の意図とは別に思わず笑ってしまう個所がいくつからあるのだ。
 例えば、三浦のタイムスリップについての説明がこう。「僕は病気なんだ。いや体質というべきか。何かちょっとしたショックを体に受けると時間を遡ってしまうんだ」。いきなりである。何の伏線もない。そしてこう続く。「たとえばころんだりぶつかったり」。おいおい。あんたその後何度も殴られてるが全然タイムスリップしてないじゃないか。
 阪神大震災前日の神戸で楠木(剣崎の旧姓)を見つけた三浦は、楠木を道連れに死のうとする。倒れるはずの阪神高速の下にいれば死ねると高架の下に行くのだが、そのとき三浦は重大なことに気づく。「どっちだ!? どっちに倒れるんだ!?」。結局運に任せることにするのだが、高速にこだわらず別の場所探した方がいいと思うんだが。
 さらに三浦が楠木をついに拳銃で狙撃する場面。弾丸はあやまたず脳天に命中! しかし。楠木は生きていた。なぜだ! と驚く三浦。三浦を逮捕した刑事は笑って答える。「お前の撃った弾はどこを抜けていったのかわかるか? 右脳と左脳のちょうど間だってよ」。三浦「はぁ?」。「はぁ」と言いたいのはこっちだ!
 そのほか笑える場面目白押し。ちなみに、ラストは誰もが予想できるような非常につまらないオチなので期待しないように。

 『ネオデビルマン』1、2巻(講談社)購入。
 岡本綺堂伝奇小説集其ノ二『異妖の怪談集』(原書房)購入。今度はちゃんと「伝奇」になってますね。怪談の短篇集なのだが、なんだか光文社文庫版で持ってる作品も多そうだなあ。

 『ペルソナ2罪』のCMで、「舞い降ーりたー天使」というメロディを聴くたびに「ワルサーピーさんじゅうはちー」と続けたくなってしまうのは私だけだろうか?
6月22日(火)

 ちょっと古い話になるが、土曜日の深夜に「DAISUKI」を眺めていたところ、驚愕の会話が耳に流れ込んできた。動物園でペンギンを見ながらの会話である。
松本明子「ペンギンって、両棲類だよね」
中山秀征「違うよ、哺乳類だよ」
(たぶんスタッフから教えられて)
中山「え、鳥類? ペンギンって鳥なの?」
 日本の科学教育の成果はこんなもんなのか(泣)。

 『古畑任三郎』最終回。なるほど、佐々木功がやたら過剰な演技をしていたのも伏線だったのだな。やりたいことはわからないでもないが、展開には無理がありすぎ。なんで最初から鞄を強奪しないんだよ。それに、鉄道会社の職員はあまりに頭が悪すぎる。
 今シーズンは全体に質が低かったなあ。残念。でも唯一毎週見ているドラマだったのだけど。

 今ごろ『サイレント・ヒル』を始めた。ブロック通りやクーンツ通りなど、通りの名前がみんなホラー作家の名前になっていたり、出てくる楽譜にMoon Riders "Don't trust over thirty"と書いてあったりという遊びの部分がなかなか楽しい。今は病院で、鉄パイプを振りまわして看護婦を殺しまくっている私である<何かイヤなことでもあったのか?
6月21日(月)

 マイク・レズニック『キリンヤガ』(ハヤカワ文庫SF)読了。『サンティアゴ』のような冒険SFや、『パラダイス』のような叙事詩的SFで知られるレズニックだが、本書ではお得意の壮大で華麗でストーリー展開を自ら封印し、アフリカの小さな部族社会の盛衰をじっくりと描いている(文章の読みやすさは相変わらずなのだけれど)。
 西洋文明に汚染される前のアフリカ、キクユ族の世界を再現したユートピア惑星「キリンヤガ」。楽園の守護者を自ら任じる祈祷師コリバの目を通して、楽園の誕生から崩壊までを描く連作短篇集である。
 伝統を守りつづけることは変化を拒むことである。変化と知識を求める人々の出現により、コリバの夢見たユートピアは次々と危機にさらされることになる。一人孤独な闘いを強いられるコリバの姿は痛々しいほどである。
 「キクユ族の伝統」を理由に西洋文明をすべて排斥しようとするコリバは狂信者なのだろうか、それとも文化の守護者なのだろうか。人間の本性からして変化は必然である。すると伝統を守ろうとする行為は無駄にすぎないのだろうか。伝統と変化、歴史の事実を教えることと民族の誇り。善悪では割り切れないさまざまな現代的問題を考えさせられる作品である。SF各賞を総なめにしたのもうなずける傑作である。
 しかし、ここに描かれた「アフリカ」や「伝統」というものは、アメリカ人レズニックの目を通したアフリカだということも、忘れてはならないだろう。ユートピア惑星キリンヤガが西欧文明の恩恵によって作られたように、この作品に描かれた「非西欧文明対西欧文明」という構図もその結末も、あくまで西欧側の視点から見たものにすぎないのだ。この作品の限界はそこにある。

過去の日記

99年6月中旬 妄想、解剖学標本室、そしてパキャマラドの巻
99年6月上旬 睾丸握痛、アルペン踊り、そして県立戦隊アオモレンジャーの巻
99年5月下旬 トキ、ヘキヘキ、そしてSSRIの巻
99年5月中旬 鴛鴦歌合戦、星野富弘、そして平凡の巻
99年5月上旬 SFセミナー、ヘンリー・ダーガー、そして「てへ」の巻
99年4月下旬 病跡学会、お茶大SF研パーティ、そしてさよなら日記猿人の巻
99年4月中旬 こっくりさん、高い音低い音、そしてセバスチャンの巻
99年4月上旬 日記猿人、生首、そして「治療」は「正義」かの巻
99年3月下旬 メールを打つ、『街』、そしてだんご3兄弟の巻
99年3月中旬 言語新作、DASACON、そしてピルクスの巻
99年3月上旬 サマータイム、お茶の会、そしてバニーナイツの巻
99年2月下旬 バイアグラ、巨人症、そしてドッペルゲンガーの巻
99年2月中旬 クリストファー・エリクソン、インフルエンザ、そしてミロクザルの巻
99年2月上旬 犬神憑き、高知、そして睾丸有柄移植の巻
99年1月下旬 30歳、寺田寅彦、そしてスピッツの巻
99年1月中旬 アニラセタム、成人、そしてソファの巻
99年1月上旬 鍾乳洞、伝言ダイヤル、そして向精神薬の巻

97-98年の日記

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