7月10日(土)
夜から有楽町に出かけて『スターウォーズ・エピソード1』を観る。映画館は七分程度の入り。もっと混んでると思ったのだが、思いのほか空いている。考えてみれば熱狂的ファンは先行オールナイトで観ているだろうし、普通に初日に観たい人は昼間に観ているだろうから、初日のオールナイトというのは案外狙い目なのかも。
大森望さんのいうとおり、チキチキマシンあり、ブルース・リーあり(クワイ・ガン・ジンがアナキンに"Feel,Don't Think"とアドバイスするのだ)のごった煮映画。まあ物語はいきあたりばったりで一作目の焼き直しに近いのだが、細部まで作りこまれた映像は一見の価値あり。つまりはルーカス少年が空想した世界で一緒に楽しみましょう、という映画なわけで、キャラクターが生きていないとかストーリーがどうのとか文句を言うのは的外れなのだろう。同じようなコンセプトで監督の空想世界につきあわされる『フィフス・エレメント』よりは数億倍ましである(まあ比べる方が悪いか)。
スターウォーズ世界健在なり。
これで充分。
7月9日(金)
野尻抱介さんによれば、私は“SF業界でもっとも充実した人生を送っているように見える人”らしい。はあ、充実ですか。全然実感ないんですけど。
妻に野尻掲示板を見せると、「なんで? すばらしい女性とめぐりあって結婚しているから?」という。
いやそういうことではないと思うんだが。
そうかあ、充実してるように見えるのか、私は。平日には書店を徘徊して本ばっかり買いあさっているし、休日といえば昼まで寝ていて起き出せばだらだらゲームばかりやっている私のどこが充実しているというんだろう。謎だ。モニターの見すぎで充血ならしてるんだけど(すまん、つまんなくて)。
この日記を読んでる方の中には、野尻さんのように私のことを「充実した人」だと誤解している方もいるかもしれないが、日記には都合の悪いことは書いてないからそう見えるのである。実物に会ったらまず間違いなくがっかりしますので、夢を壊したくない人は私には会わないように(笑)。
草上仁『東京開化えれきのからくり』(ハヤカワ文庫JA)、岡本綺堂『怪かしの鬼談集』(原書房)購入。
7月8日(木)
光瀬龍氏死去!
ショックである。私にとっては、星新一が亡くなったときよりもショックが大きい。光瀬龍は、第一世代SF作家の中でもっとも好きな作家だったのだ。
光瀬龍の魅力について書こうとすると、どうしても「東洋的無常感」とか「茫漠とした宇宙」とかありきたりの表現になってしまうのだけど、実際そうとしかいいようがないのだからしかたがない。実際、金森達の表紙絵がこれほど似合う作家はいるまい。スタトレは別の画家でもいいけど、光瀬龍の(特に宇宙ものの)表紙は、あのくすんだ色調の金森達の絵でなければならないような気がするなあ。
はっきりいってしまえば、光瀬龍は『たそがれに還る』から『喪われた都市の記録』に至るまでの初期の傑作群を超える作品を、とうとう生み出すことができなかったと思う。一見老成しているように思えるあの作風は、実のところ若いときだからこそのものだったのだろう。
光瀬龍の代表作といえば、普通は『百億の昼と千億の夜』なのだろうけど、私にとって思い入れがあるのはなんといっても『喪われた都市の記録』。ハヤカワ文庫JAから出ていたこの本を読んだのは、確か小学校5、6年生ごろのことだった。当然、難しくてよくわからなかったのだが、わからないなりに物語の時間的空間的な広がりには圧倒的な衝撃を受けたのだった。
たぶん、人間が主役ではない物語を読んだのはそのときが初めてだったのだと思う(まあ動物が主役というのもあったが、それはあくまで擬人化されたものである)。
ここでは主役は時間なのだ。人間はただその主役をきわ立たせるためにのみ、存在が許されているのだ。
――「巡視船二二〇五年」より
そういう小説もあっていいんだ、ということに私は初めて気づいたのである。小説は人間を描かなくてもいいんだ。ちっぽけな人間よりもっと広い宇宙や時間そのものを描くこともできるSFというのはなんてすごいものなんだろう、と興奮したのを覚えている。それが私がSFにはまったきっかけであり、その後の私を作ったきっかけなのであった。それから性格が歪んでいったような気もするが(笑)。
それからしばらく光瀬作品を熱心に読んだのだが、なんせまだ小中学生だったころのこと、たぶん表面的な理解しかしていなかったと思う。いつかまとめて再読しなくちゃな、と思いつつも、時間に追われて後回しにしているうちにとうとう訃報を聞くことになってしまった。
今度こそ、ちゃんと読まなくては。
7月7日(水)
七夕である。この方によれば、グリニッジ標準時で今日の午前7時(日本時間午後4時)、地球は右に(ってどっちだ)90度回転したそうなんだが、にぶいせいか私はとんと気づかなかったなあ。馬鹿にはわからないのだろうか。
夕方のニュースを見ていたら、「女装する男たち」という特集で、アニメやゲームのコスプレの場面が出てきた。まあニュースでコスプレが報じられること自体は別に珍しくもない(女装とコスプレを同一視するのはどうかと思うが)のだが、わけがわからないのはそのナレーション。
「コスプレーション、通称コスプレ」
こ、こすぷれーしょん? 何語ですか、それは。それとも最近はそう言うんですかね?
泡坂妻夫『からくり富』(徳間文庫)と「KADOKAWAミステリプレ創刊号2」を買う。牧野修の長篇『スイート・リトル・ベイビー』にホラー大賞と短篇賞を受賞した短篇2篇を収録して552円は安い。
「アランフェス協奏曲」の作曲家ロドリーゴ死去。というより生きてたのか、この人は! クラシック名曲集の定番なんで、はるか昔(19世紀あたり)の作曲家だと思ってたんですが。なんと、メシアンやケージといった現代音楽の作曲家とほぼ同年代の人だったのか。
7月6日(火)
ちょっと前の話になるが、東京都江戸川区で少女を連れ去った男が逮捕されましたよね。この男性、実は以前にも何度か少女を連れ去って逮捕されたことがあり、捕まったときには「また病気が出てしまった。小さい女の子と遊びたかった」と話したという。
このニュースを聞いて私がまっさきに思い出したのはマーガレット・ミラーの『心憑かれて』(創元推理文庫)という小説。幼い女の子に愛着を持つ男を慈しみをこめて描いたサスペンスである。9歳の女の子と、車の中から彼女をじっと見つめている男の姿を交互に淡々と描いた小説なのだが、物語の4分の3は何も起こらずに過ぎて行き、何も起こらないことそのものが強烈なサスペンスをはらんでいるという稀有な作品である。そして最後の最後に訪れる破局……。もしミステリのオールタイムベストを選べと言われたら、確実に上位に入れる作品である。
この『心憑かれて』の主人公と同じように、今回逮捕された彼にとっては、愛の対象として幼女を選ぶことは、「普通」の人が異性を愛するのと同じく、ごく自然なことだったのだろう。逮捕されても反省などするまい。おそらく「小さい女の子と遊びたかった」という言葉に嘘はない。この犯人、別に女の子に危害を加えたわけでもなんでもない。ただ連れ回しただけである(とはいっても女の子にしてみれば恐怖の体験だっただろうが)。少女が好きでたまらない自分は「病気」だと理解しつつも、小さい女の子を見れば声をかけずにはいられないのだ。哀しいよなあ。
なんでこんな犯罪者に同情するのだ、と憤る人もいるだろうが、私はどうしても彼の不幸な魂に同情してしまう。確かに彼が女の子を連れ去ったこと自体は犯罪だ。しかし、小さな女の子を好きでいること自体は犯罪でも何でもないはずだ。それは彼の生まれもった性癖であり、彼なりの愛のカタチなのだろう。しかし、その愛は、現代社会では実行に移せば即犯罪と呼ばれてしまう。決して報われることのない愛。それが彼の宿命なのだ。
コメントを寄せていた精神科医は、これは病気でありしかも治りにくいと書いていたけれど、果たして彼を本当に「病気」と呼ぶべきなんだろうか? 彼を病気というのなら、同性愛者だって病気と呼ぶべきだろう(DSM-IVでは、小児愛は性障害の項目に含まれているのに対し、同性愛は含まれていないが、これは医学的というより政治的な理由からだろう)。同性愛も小児愛も、原因となる生物学的な異常は見つかっていないし、もし脳に器質的な障害があったとしても、それを「病気」と呼ぶかどうかは純粋に社会的、政治的な問題である。たとえば、彼が病気とされるのは子供が守られるべき存在になった近代以後だからこそのことで、近代以前の時代であれば、彼は異常とは見なされず、おそらくこの手の犯罪はおこらないのではあるまいか。
もちろん現代においては、レイプが犯罪であるのと同じように、幼女を連れ去るのは犯罪だけど、それは幼女を愛することそのものとはまったく別な話だ。ゲイとかレズビアンの権利を守る運動があるのなら、幼女愛好者の権利を守る運動があってもいいと思うんだけどね。
7月5日(月)
いや30になるとさすがに一睡もせずの徹夜はつらい。先見の明ある私は、あらかじめ今日は休みをとってあるので、昼まで爆睡。
ようやく12時ごろに起き出してからは、平日ならすいているだろうという魂胆で、渋谷まで映画を観に出かける。
まず最初に観たのは『交渉人』。ケヴィン・スペイシーとサミュエル・L・ジャクソンという渋い俳優の共演で描くサスペンス。どことなく去年の『L.A.コンフィデンシャル』を思わせる、しっかりした作りの映画である。実力派俳優の演技力合戦が楽しめる作品。
さてその後はBook-1stに。以前、溝口さんの日記に、なかなか手に入らない倉阪鬼一郎の旧作が平積みになっていると書いてあったからである。おお、確かに『地底の鰐、天上の蛇』と『怪奇十三夜』(幻想文学出版局)が平積みになっているではないか。あなどりがたしBook-1st。二冊を捕獲、それに田島昭宇×大塚英志『多重人格探偵サイコ』の4巻と、日本版スターログも。
夕食を食べてから、シネセゾン渋谷にてゴダールの『未来展望』とクリス・マルケルの『ラ・ジュテ』というおフランスの短篇SF映画2本立てという好企画のレイトショーを観る。
『未来展望』は、なんだか別にどうということもない作品。え、これだけ? といった印象である。なんの変哲もない飛行機の発着シーンを映し出してナレーションで「恒星間宇宙船の到着が……」とやる強引さはけっこう好きだけど(笑)。あと、キスを交わすことによって白黒がカラーに変わるというアイディアは、別に『カラー・オブ・ハート』の発明ではなかったことがわかる。
『ラ・ジュテ』は、テリー・ギリアム監督の『12モンキーズ』の元になった映画で、以前から観たいと思っていた作品。基本的にはワン・アイディアのタイムトラヴェルものなので、ごちゃごちゃした『12モンキーズ』よりも短篇版のこちらの方がラストは遥かに効果的である。こっちを先に観ておけばさらに衝撃的だったろうなあ、と思うと残念。
7月4日(日)
さてそれから一睡もせず、みらい子さんや鈴木力さんとギャルゲーの話をしたり、白々と夜が明けてゆく中、ださこんスタッフや野尻抱介さん、森岡浩之さんたちとお茶を飲んだり(ホテル側のはからいで、売店と喫茶室は特別に24時間営業になっているのだ。すばらしい)。外から謎の爆発音が聞こえてきて何だろうと思っていたのだが、どうやらあれは「目覚まし」だったらしい。いったい何を爆発させていたんだか……まあ気にするまい。
もうろうとした頭でエンディングに参加したあとは(ファンジン大賞を受賞して壇上に上ったのが知っている顔ばっかりだったのにびっくり)、SF列車と化したスーパーあずさで東京へ帰還。SF大会は4年前の「はまなこん」以来だけど、とても楽しうございました。妻の方も、志村さんからキングギドラの折り方を教わったり、池田憲章さんとお話したりと楽しい大会だった様子。また来年、横浜でお会いしましょう。
7月3日(土)
朝10時新宿発のスーパーあずさ5号で第38回日本SF大会「やねこん」に出発。
しかし、いきなりスーパーあずさの車中で予想もしないハプニングが。突然隣の車両に急病人が発生したとのアナウンスが入る。「お医者さんか看護婦さんがいらっしゃいましたらご協力お願いします」という。うーむ、映画やテレビではよくあるシーンだが、実際私の身にふりかかってくるとは。実は私、こういうことがないかと以前から戦々恐々としてたんだよなあ。なぜって、私は精神科専門なので身体的な病気についてはほとんど何も処置などできないのだ。行ってみたはいいが何もできずに呆然と立ちすくむという醜態だけは避けたい。
しばらく悩んだものの、まあ行かないわけにもいかないので隣の車両へ向かう。「精神科なのであまりお役に立てないと思うが」と前置きしてから一応診察。どうやら本人は意識がはっきりしない様子で、隣に座っている連れの方によれば、吐き気とうなじが張る感じを訴えていたという。あーこれはもしかしたら脳内出血かもしれない。だとすると、早めに病院に運んだ方がいい。車掌さんにそう助言し、席に戻る。専門でないから、と自分に言い訳しつつも、何の応急処置もできない自分が情けない。救急の研修もちゃんと受ければよかったなあ。
結局、列車は途中の駅で臨時停車、患者さんは救急車で病院に運ばれました。無事ならよかったのだけれど。
4時間弱で列車は終点南小谷に到着。ここからシャトルバスで15分くらい山を登ると、うっそうとした森の中に突如としてスイス風の巨大なホテルの建物が出現する。冬場はスキー客で賑わうこのリゾートホテル全体を、今夜一晩だけは1300人以上の濃いSF者たちで完全に占拠してしまおうという寸法である。中に入れば、すでにコスプレの妖しい影やこんな機会でしか着られないようなTシャツ(マルチとかマルチとかマルチとか)を着た人々がホテルの廊下を行き交っているではないか。恐ろしいことである。
さっそく見かけた野田令子さんと「世も末ですね」と挨拶を交わすなど、ださこんやSFセミナーの知り合いとしゃべるなどしてオープニングまでの時間を過ごす。あいにくの雨で急遽開会式は大広間で行うことに。ここで早くも星雲賞の発表が。詳しくはすでにどこかのページに掲載されていると思うけど、注目の日本短篇賞は森岡浩之さんの「夜明けのテロリスト」に決定。野尻さん残念でした。
今回の大会ではすべての企画が一晩の間に詰め込まれているので、行きたい部屋はたくさんあるものの、時間が重なっているものが多くてなかなか行けないものが多い。取りあえず、巽孝之さんの「日本SF論争史」の話を聴いたり(一応セミナースタッフなもので)、オタクアミーゴスの部屋に行ってみたり(唐沢さん飛ばす飛ばす)、美少女ゲームの部屋をのぞいたり、マンガカルテットを見に行ったり(朝からずっと行動をともにしていたようで、すでに喋りつかれていた様子)、スタートレック・ヴォイジャーの第4シーズン全話ダイジェスト版を見たり、今じゃ絶対上映できない幻の映画『ノストラダムスの大予言』(英語吹き替え版)を見たりして夜は更けていくのであった。以下は明日。
7月2日(金)
病院の帰りに池袋リブロに立ち寄ったところ、何やら人だかりが。サイン会か、と思ったが座っている男性はサインをしている様子はなく、名刺を渡して何やら話しているだけ。なるほど、これが森博嗣の名刺交換会なのか。並んでいるのはほとんどが若い女性。人気あるんだねえ、森先生。しかしなんでまたサイン会ではなく名刺交換会なんだろうか。作家側からすると、サイン会は相手の素性がわからず不特定多数を相手にすることになるが、名刺交換なら個人を相手にできるという利点がある。しかも、女性ファンの多い森先生みたいな作家だと、女性の住所と電話番号がごっそり手に入るし(笑)。手も疲れなくて楽だし。なかなかいいかも、名刺交換会。読者の側からすると手元に何も残らないのが難点だけど(まあ名刺は残るが)。
夏といえば海水浴イベントとお祭りイベント。お祭りイベントが発生すれば浴衣CGが入手可能。というわけで近くの神社(以前ヴァニーナイツのロケをやっていた神社である)でお祭りをやっていたので妻と行ってみる。狭い境内にはぎっしりと焼きそばやら大阪焼きやらの屋台が出ていてものすごい人出。射的の店には子供たちが群がっている。懐かしい。あまりの人出に、警察や、まるで軍人のような服の消防隊まで出動している。
結局人ごみの中を一回りしてみたが、ヤンキー率は高いが浴衣率低し。お好み焼きまずし。どうやらイベントは発生しなかった模様。フラグが立ってなかったのかな。
明日からSF大会。長野へ行ってきますが、どうやら雨になりそうなのかな。
7月1日(木)
キャシー・コージャ『虚ろな穴』(ハヤカワ文庫NV)読了。
アパートの物置にあいた謎の穴をめぐる物語、なのだが穴の物語というより、穴に取り憑かれた人々の物語といった方がいいかも。普通のモダンホラーのように、この穴がいったい何なのか調べてみようなどという理性的な人物は誰一人として登場しない。穴に生き物を入れてみるとかハンディカムを入れるとかしてみるのは冒頭の数十ページくらいのもので、その後は穴について調べて見ようなどと考える人物はひとりもおらず、だらだらとした自堕落な生活ぶりが描かれるばかり。特に目新しい展開があるわけでもなく、読んでいるだけで鬱々としてくるのだが、不思議に何となく読まされてしまう小説である。
そんなにうじうじ悩んでないでさっさといろんなもの入れてみろよ、穴の中に、と思ってしまう私などにはあまり向いてない作品だったみたい。
過去の日記
99年6月下旬 小此木啓吾、上野千鶴子、そしてカルシウムの巻
99年6月中旬 妄想、解剖学標本室、そしてパキャマラドの巻
99年6月上旬 睾丸握痛、アルペン踊り、そして県立戦隊アオモレンジャーの巻
99年5月下旬 トキ、ヘキヘキ、そしてSSRIの巻
99年5月中旬 鴛鴦歌合戦、星野富弘、そして平凡の巻
99年5月上旬 SFセミナー、ヘンリー・ダーガー、そして「てへ」の巻
99年4月下旬 病跡学会、お茶大SF研パーティ、そしてさよなら日記猿人の巻
99年4月中旬 こっくりさん、高い音低い音、そしてセバスチャンの巻
99年4月上旬 日記猿人、生首、そして「治療」は「正義」かの巻
99年3月下旬 メールを打つ、『街』、そしてだんご3兄弟の巻
99年3月中旬 言語新作、DASACON、そしてピルクスの巻
99年3月上旬 サマータイム、お茶の会、そしてバニーナイツの巻
99年2月下旬 バイアグラ、巨人症、そしてドッペルゲンガーの巻
99年2月中旬 クリストファー・エリクソン、インフルエンザ、そしてミロクザルの巻
99年2月上旬 犬神憑き、高知、そして睾丸有柄移植の巻
99年1月下旬 30歳、寺田寅彦、そしてスピッツの巻
99年1月中旬 アニラセタム、成人、そしてソファの巻
99年1月上旬 鍾乳洞、伝言ダイヤル、そして向精神薬の巻
97-98年の日記