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7月20日(火)

 人類が月に立ってから30年。その頃私はわずか6ヶ月の赤ん坊だったので月面着陸のニュースは知る由もないが、その後はパイオニアやらボイジャーやらから送られてくるきれいな惑星の写真を見て育ったわけで、1999年頃になれば当然のごとく月に基地くらいできてるものだと思っていたんだけどなあ……。

 スペイン映画の話題作『オープン・ユア・アイズ』を観る。雑誌に紹介されているスナップはたいがい、ビルの屋上かどこかでノースリーブの美女が髪を風になびかせていて、後ろに男が立っているという、どういう映画だかさっぱりわからない写真なので、気づいていない人も多いだろうけど、これはまぎれもなくSF映画である。
 主人公は大金持ちで遊び人のハンサムな青年セサール。誕生パーティの席に友人の連れて来た美女ソフィアに一目ぼれしてしまうのだが、嫉妬した元恋人ヌリアも彼につきまとう。ヌリアはセサールを車に乗せて無理心中をはかり、ヌリアは死亡。セサールは一命をとりとめたものの顔に醜い傷を負ってしまう。
 と、ここまででは愛憎ぐちゃぐちゃのサスペンス映画のようだが、物語は予想もしない方向に進んでいく。死んだはずのヌリアが出没するのはなぜか? 青年は誰かを殺して精神病院に収容されているようなのだが、いったい誰を殺したのか? ラストにはバカバカしくも驚愕のSFオチが待ち構えている。今年最高のSF映画とまではいえないが、今年最高のバカSF映画の称号を贈りたい。
7月19日(月)

 光瀬龍『宇宙救助隊二一八〇年』(ハルキ文庫)読了。光瀬版宇宙年代記全集の第一巻である。未来史とはいっても光瀬龍の場合、歴史を変えた事件や英雄を描いた作品はほとんどなく、歴史の中に埋もれていった宇宙飛行士や技術者たちの物語が抑制の効いた筆致で淡々と描かれていく。こうした未来史ものによくあるような、ある作品の登場人物が別の作品にも登場したり歴史上の人物として語られたりといった読者サービスもない。
 かつて光瀬作品に親しんだ私は、懐かしさをかみしめながら読んだのだが、果たしてこの地味な短篇集に、今の読者にページをめくらせるだけの力があるだろうか。サービス精神にあふれた現在のSF風エンタテインメントに慣れた読者に、光瀬作品は受け入れられるのだろうか。
「今でも作品の輝きは喪われていない」と断言したいところなのだけれど、ちょっとそう言い切るだけの自信が持てないことも確かだ。
 なお、解説に、シリーズ中の「西キャナル市二七〇三年」は単行本未収録とあるが、実は『アンドロメダ・シティ』(ハヤカワ文庫JA)に収録されているので、ハヤカワ文庫版の4冊を持っていれば別に本書を買う必要はないことになりますね(いやな揚げ足取りである)。
7月18日()

 今日は昼から出かけて上野動物園へ。目当てはビバリウム。なんだか水槽の中で前田美波里が泳いでいそうな名前だが、残念ながらそういうわけではなく、7月から新しくオープンする両生爬虫類館のことである。ワニとかヘビとかヤモリとか、ああいうぬめぬめとした生き物がたくさん展示されている楽しい場所である。
 しかし、入り口まで行ってみたところ、なんということかオープンは7月20日だという。2日早すぎたようだ。しかもオープンまでの間はヘビやワニの通常展示もお休み。仕方ない。爬虫類が見られないのは残念だが、博物館や美術館でもろくな展覧会をやっていないので、動物園で動物を見ることにする。
 入ってみるとパンダやゾウが大きい顔をしているのは相変わらずだが、それ以外の点では以前来たときとはだいぶ様変わりしている。ゴリラとトラの森が新しくできていて、かなり大きなスペースをあてがってもらっているのに対し、どういうわけかどこを探してもライオンがいない。ライオンといえば百獣の王、動物園の花形ではないか。いったいなぜライオンがいなくなってしまったのだろう(それとも前からいなかったのかな?)。
 奇妙なのはクマ。シロクマは、じっと見ていると飽きもせずプールの同じ場所でターンの練習を繰り返している。何度も何度も、まったく同じ動きを繰り返しているのである。ヒグマも、同じ所をいつまでもうろうろと往復している上、なんと足を下ろす位置まで毎回一緒である。あいつらは実はロボットなのではないか。こういうのを見ていると、デカルトが「動物は機械である」と言った気持ちもわかるような気がする。それとも、狭いところに閉じ込められているおかげで神経症を患っているのかも。
 帰りには以前も寄った千駄木のインド料理店「ダージリン」で夕食。あいかわらず非常にうまくて満足。
 また近いうちに、今度は両生爬虫類館だけを見に行くか。
7月17日()

 きのうちょっとポケミスの話をしたので思いついたのだが、ポケミスとポケモンは似ている。
 古本屋で珍しいポケミスを発見したときにはこう叫ぼう。
 ポケミス、ゲットだぜ!
 そして、ポケミスコンプリートを成し遂げた勇者をポケミスマスターと呼ぶ。ああ憧れのポケミスマスターになりたいな、ならなくちゃ、絶対なってやる〜。
 で、ポケミスコレクターが集まってポケミスバトルを行う。ニコラス・ブレイクの『呪われた穴』とドロシー・セイヤーズの『毒』で戦って、『毒』はこないだ創元で復刊されたから『呪われた穴』の勝ちとか。
 しかし、ポケモンは151匹だけ集めたくらいでマスターとは片腹痛いというかなんというか。ポケミスならその10倍だぞ。

 最近いろんな日記で話題の「りかでーす」のメール、うちにも届いている。実はこのメール、受け取るのはこれで3回目。「突然ですが、最近、どーも「日照り」が続いてるのよね。あーっ、どっかにいい男、いないかなーっ、なーんて思ったりしちゃってる今日この頃。」という書き出しから、「p.s.私はどこにいるでしょう? よーく探してね!!」というところまで、文面はほぼまったく同じ。棒引きを多用した文体がきわめて不愉快である。
 ただ、タイトルと女の子の名前だけが違っていて、昨年11月12日に届いたメールのタイトルは「さくら、23才でーす。」、今年6月29日のものは「看護婦の夏美です。」、今年7月15日のものは「お手紙書きました」(名前は「りか」)である。さくら嬢のメールでは職業は明記されていないが、夏美嬢とりか嬢は看護婦ということになっている。どうしたわけか、最後のメールだけはHTML形式である。もしかしたら、6月29日から7月15日の間に新しいパソコンに買い換えて、Outlookの設定を直すのを忘れているのかもしれない。
 たぶん同一人物が送りつけてきたのだろうが、メールアドレスも全部違っているし、メールに記載されているサイトのアドレスも全部違う(どうせアダルトサイトだろうと思ったので中身は見ていないが)。
 こういうメールが送られてくるとすぐに消去してしまう人も多いだろうけど、私はこうやって比較検討するためにとっておいてある。もちろん「クリストファー・エリクソン」のメールもとってありますとも。貴重な研究材料ですから(笑)。
7月16日(金)

 幼女愛好については、「実行に移す」ことと「そういう嗜好を持つ」ことは明確に区別されるべきでしょう。きのうは「病気」という観点から論じたけど、病気とまではいえなくとも、幼女に対する軽い性的嗜好のある人はけっこういるんじゃないかと思います。それは「大人の女に相手にされないから」という理由かもしれないけど、それはそれでオッケーでは(精神分析的にいえば未熟な発達段階にあるってことになるんだろうけど、誰もがみんな完全に発達しなければならない、という思想こそ幻想だと思う)。幼女を暴力的に征服すれば罪になるけど、それは成人に対するレイプでも同じこと。幼女愛好者すべてを犯罪者予備軍とみなす必要はないでしょう。「妹もの」のエロゲーが好きな人が必ずしも実際に近親相姦しているわけではないわけだし、ネクロフィリアなんかについても同じでしょう。
 今まではあえて触れなかったけど、そういう作品を創作することも同様に許されていいでしょう。もちろんチャイルドポルノは現実の子どもへの虐待に当たるから許されないけど、幼女が出てくるエロマンガやエロゲーなら全然問題ないと思います。何をおぞましいと感じるかは個人によって違うでしょ。私にはやおいやショタは全然理解できないし、おぞましいと感じるものもあるけど、そういう嗜好があっても全然かまわないと思うし。

 ほぼ半年ぶりに「海外SF親しむ会」の飲み会。今年ブラッドベリを2冊出すという伊藤典夫御大に、8月講談社ノベルスからデビュー第2作『カニスの血を嗣ぐ』を出版する(帯で山田正紀大絶賛!)浅暮三文さん、柴野賞受賞の阿部敏子さん、中藤龍一郎さん、今月SFマガジンデビューの深堀骨さん、溝口さんみらい子さんokkoさんといった面々も集まって大盛会。ハヤカワ文庫JAのコンプリートまであと少しという溝口さんには「ミステリはおもしろいよー。SFを集めたら今度はミステリを集めなきゃ」と囁いておく。ディキンスンとカーを集めてるんなら、もうミステリに片足突っ込んでるようなものではないですか。ポケミスコンプリートまであと少し(笑)。

 あらすじを読むとなんだか『クラインの壷』みたいなホーガンの新作『仮想空間計画』(創元SF文庫)、ウォルター・サタスウェイト『名探偵登場』(創元推理文庫)購入。
7月15日(木)

 ヒラノさんの日記私の7月6日の日記への言及を見つけたので、そこを経由して雪樹さんの日記に行ってみたところ、厳しい調子で書かれた私への反論を発見した。さらに掲示板にはまみりさんという方から反論、というか再考の要請が書かれていた。むろん私も、あえて社会通念に反したことを書いたわけだから、当然批判が来ることは予想していた。というより、今まで批判がなかったのがおかしいくらいだと思う。
 「なんの力もなく判断力もあまりない年齢の少女に自分勝手な愛情を押し付けることがどんなに卑劣なことかなぜ分からないのでしょう」と雪樹さんはおっしゃっているが、もちろん私だってそれくらいわかっている。それに触れなかったのは、子どもに対する性的な行為が子どもの心に傷を残すということはもはや常識であり、書くまでもないことだと思っていたからだ。それは犯罪である。子どもはそうした犯罪から守られるべきだ。いうまでもない。
 子どもを性愛の対象とする行為は犯罪である。それは前回も何度も念をおして書いた。そうではなく、私が問題にしたかったのは、それが犯罪であるとわかっていながら子どもを愛さずにはいられない心の哀しさについてである。たとえば私たちが何の疑問もなく異性を愛の対象として選び、その理由を問われても説明できないように、同性愛者は同性を愛さずにはいられないのだし、同じように小児愛者は子どもを愛してしまう。それはもうヒラノさんがいうとおり「そういうふうにできている」としかいいようがない。その指向性そのものが罪なのだろうか。彼の存在自体が罪なのか。私が哀しいと感じるのは、その存在自体が罪の一文字で塗り込められている人間の心である。
 「ゲイとかレズビアンの権利を守る運動があるのなら、幼女愛好者の権利を守る運動があってもいいと思うんだけどね」と前回の日記で私は書いたが、あの一文は確かに一般通念に対する挑発という意味あいが強かった。実際には、同性愛者の結婚の権利が認められたりするように、小児愛者の権利が守られることなどありえないし、許されるべきではなかろう。しかし、彼らは病者なのだから(他の時代においてはともかく、少なくともこの時代、この社会においては病気であると言い切ってしまってよかろう)、病者として扱われる必要はあるのではあるまいか。そのような人が嫌悪の視線を向けられないようにする必要はあるのではないか。もしも分裂病者に嫌悪感を感じる人が非難されるとしたら、なぜ小児愛者に同様の視線を向ける者は非難されないのだろうか。そのような意味において、私は再度「幼児愛好者の権利を守る運動があってもいい」と言おう。
 ちょうど同性愛者が「なぜ自分はほかの人と同じように異性を愛することができないのだろう」と苦悩するように、小児愛者も苦しんでいるのだ。ひとつだけ違うのは、同性愛者が同じ同性愛者を見つければいいのに対し、小児愛者の場合欲求を満たすことが即犯罪を構成してしまうことだ。より苦悩は深いといえる。
 つまり彼の欲求は決して満たされることはない(犯罪に走らない限り)。刑務所に入れられたとしても改心などするはずがない(それは生まれもった性癖なのだから。あなたがもし異性を愛することが犯罪だからという理由で投獄されたとしたら、改心して異性を愛さないようになるだろうか)。治療法といえば精神療法くらいしかないがそれも非常に困難。すなわち、彼は、どうあっても、この社会とはまったく相容れない存在なのである。これを哀しいと思わずにいられようか。
 さて、雪樹さん、まみりさん、これで私の主張が理解していただけただろうか。少なくともまみりさんには理解してもらえたようだ。なぜわかるかというと、実はまみりさんは今私の隣で、私が打ち込んでいるこの文章を読んでいるところなのである。

 京極夏彦『百鬼夜行――陰』(講談社ノベルス)購入。
7月14日(水)

 津原泰水『蘆屋家の崩壊』(集英社)読了。ホラー、というより怪異譚と漢字で表現したくなる作品集。いやこれはすごい短篇集である。一人称でとりとめなく語られる文章はミステリ的な論理性とはほど遠く、最近のホラー小説にもあまり見られない文体だが、これが怪異を語るには実にふさわしいのだ。導入部となる「反曲隧道」から、熱病に浮かされたような文章で綴られた幻想小説「水牛群」まで間然とするところがない傑作短篇集。読むべし。

 BS2の「ネットワーク・ジャングルIII」を見る。松下電器の協力で、キッチンにはインターネット冷蔵庫があったりトイレでは健康チェックができたりというバラ色の未来の生活ぶりを紹介していくのだが、バックで流れている音楽がなぜか「ブラジル」。なるほど、松下が協力してるので大っぴらには言えないが、実は制作者はこんな未来はまっぴらだ、と言いたいとみた。

 FFVIIの日本語がわからなくて自殺したタイの少年
7月13日(火)

 江戸時代の有名な川柳集「誹風柳多留」にこんな句がある。
気ちがいは絵に書くときは笹を持ち
 と引用しただけでは、全然意味がわからない句である。だいたい、江戸期の川柳ってやつは、九割方が、読んだだけではさっぱりわからない。自然を詠んだ俳句ならまだ理解できるのだが、風俗を詠んだ川柳になると完全にお手上げである。まあ、新聞の片隅に載っている一コママンガを百年後に読むようなものである。解説を読めばなんとかわからないでもないのだが、とてもおもしろさを感じるところまではいかない。まるで、異世界の作品を読んでいるような気分である。
 この句も一読しただけでは全然わからないが、なんでも当時、狂女の絵を描くときには、笹を持たせて描くのが慣わしだったらしいのである。パンダみたいだ。これを読んではっと思い出したのが、以前観た映画『39』の精神病院のシーン。閉鎖病棟の中で、七夕の飾りみたいなものを抱えた患者がうろうろしている場面があり、なんてむちゃくちゃな描き方だ、と憤っていたのだが、もしかすると、森田監督、この句を踏まえていたのか。
 ……考え過ぎかな?
 このほかにも、柳多留には「気ちがい」で始まる句がいくつもある。当然ながら、当時は「気ちがい」を扱うことは別にタブーでもなんでもなかったのですね。これを読んでいくと、当時の江戸で狂気がどうとらえられていたか少しずつわかってくる。
気ちがいになったで嫁の利が聞え
 これもわからない句だが、解説によれば、嫁姑の争いでどちらに利があるかわからなかったが、嫁が気ちがいになったのでようやく、どうやら嫁の方に利があったらしいと噂されるようになった、という意味だそうな。うーむ、ひどい話である。
気ちがいの膳は遠くへすへて見る
 狂人の知力を試すため、食べ物の載ったお膳を遠くに置いてみた、ということらしい。おいおい、チンパンジー扱いかい。
気ちがいのふんどししたという斗
 斗は「ばかり」と読む。なにしろ狂人なので、ゆるくふんどしをしただけの裸でしかも脇から何かのぞいている、という場面。
うつくしい程気ちがいのあわれ成り
 これはわかりやすい。
気ちがいのひざをそばから掛けて遣り
 ひざの上まではだけて座っている狂女の裾を、不憫に思った通りすがりの人がなおしてやる、という路上の風景。こういう光景が日常としてあったのですね。
 どうやら、明らかに、江戸の人々にとって「気ちがい」の存在は今よりも身近だったようだ。タブー視することなく、「気ちがい」をおちょくったり気づかったりしている姿はいっそすがすがしいほどだ。
 ついでにいえば、「座敷牢」を詠んだ句も数多くあって、中には
座敷牢あゝ月我をほろぼせり
 などという句もあるのだが、残念ながらこれには解説がついていないので、私の思ったとおりの解釈でいいのかよくわからない。「座敷牢」というと、我々はつい狂人が閉じ込められていたり、玉姫様が発作でも起こしていそうなイメージを抱いてしまうが、当時の川柳ではそうではなく、吉原や品川に入り浸る放蕩息子を閉じ込めておくという句が大半なのだ。これもたぶん本当はそんなにおどろおどろしい意味ではないのだろうけど、なんとも心惹かれる一句ではある。

 富樫倫太郎『陰陽寮 弐 怨霊篇』(トクマノベルス)、スティーヴン・キング『ランゴリアーズ』(文春文庫)、荒俣宏監修・田中聡著『東京妖怪地図』(祥伝社文庫)購入。最後の本は、以前出ていた『怪異 東京戸板がえし』の改訂文庫版なのだけど、文庫化するなら、元版の表紙と挿し絵を飾っていた須藤真澄のイラストも再録してほしかったなあ。
7月12日(月)

 1980年頃だと思う。フジテレビ系でやっていたドラマに『ピーマン白書』というのがあった。
 岸田森演じる教頭に「お前ら小学生からやりなおせ!」と怒鳴られた中学生たちが、教頭の言葉どおり自分たちを受け入れてくる小学校を求めて放浪の旅に出る。教頭は、体面を気にして必死に引き戻そうとするが、生徒の側は教頭が謝らない限り帰らない、といってひたすら旅を続ける、というヘンな話である。
 リーダー格の生徒が比企理恵で、なぜだか得体の知れない着ぐるみの生き物が一緒に旅をしていたような。検索サイトで調べてみたら、どうやら子役時代の富永みーなも出てて、橋本治が脚本を書いてた回もあったらしい。
 私は大好きだったのだが、あまりにヘンな話だったので視聴率が悪かったらしく、すぐ打ち切りになったのだった。この後に始まったのが『小さな追跡者』。殺人の汚名を着せられて逃亡する父を探して少年と犬が全国を旅する、というなんだか大映っぽい大時代なドラマであった。これも好きだったけどすぐ終わってしまった気がする。なんといっても放映されていたのが土曜の8時。強力な裏番組『8時だよ全員集合』にはとうてい勝てなかったのだった(『小さな追跡者』が終わったあとに始まった『オレたちひょうきん族』で、フジはついに『全員集合』を打倒することになるのだけど、それはまた別の話)。
 それから、これまたヘンな学園ドラマ『もしも学校が……!?』ってのも好きだった。これも一応学園ドラマなのだが、落ちこぼれの中学生たちが、宇宙人との交流をしようとする物語なのですね。学校側からの妨害や優等生からのいじめ(このころは落ちこぼれの生徒を優等生がいじめる、という構図がまだリアリティを持っていたのだ)にめげず、宇宙からの指令に基づき、彼らは毎回さまざまなミッションをこなしていくのだけど、最終指令は「校庭いっぱいに図形を描くこと」(のちに校庭に机で9の字を書いた事件があったけど、あれをやった人たちはこのドラマを見ていたのではないかと思ったものである)。しかも「9の字」とは違い授業中に描かなければならない。主人公たちは、前もって図形を描いておいたシーツをつないで一気に広げる、という方法でこれをクリア、ラストでは本当に空いっぱいをUFOが乱舞、教師たちは呆然自失、という、あまりといえばあんまりな、それでいて妙に爽快感のあるエンディングで、見ていた私の方も呆然としたものである。
 あとビートたけし主演、戸川純共演の刑事ドラマ『刑事ヨロシク』とかも好きだったな。
 あー、また見たいなあ。

 そういや六本木の猿はどうなったのだろうか。いつのまにか続報を聞かなくなったな。
7月11日()

 ホラー・アンソロジー『さむけ』(祥伝社文庫)読了。『舌づけ』を読んだときにも思ったことだが、異形コレクションに比べ、日常的な恐怖を扱った作品が多く、読みやすい短篇が揃ったアンソロジー。ただ、新津きよみや高橋克彦の作品など、どう考えてもホラーとはいえない小説まで含まれているのは疑問である。井上雅彦や多島斗志之の作品が印象に残るが、中でも京極夏彦「厭な子供」は圧巻。この一篇のためだけでも、本書は読む価値があるといえよう。わけのわからないものに出会ったとき、人は何か適当な説明をつけて安心しようとするもの。本作に登場するのは、あらゆる説明づけを裏切って存在する不条理な「何か」。これが非常に恐ろしい。しかし京極先生、「ほう」の次は「るう」ですか(笑)。
 牧野修『スイート・リトル・ベイビー』(KADOKAWAミステリプレ創刊号2所収)も読み終える。前半はリアルな筆致で児童虐待を扱っていて、いったいどうホラーになるのかと思っていたら、なるほど後半ではこう来るか。林真理子が選評で書いているような強姦描写への不快感は感じなかったのだけど、児童虐待というきわめて現実的なテーマを扱いながらスーパーナチュラルなオチを持ってきているところが賛否を分けると思う。作者の作り上げたフィクションが、衝撃的な現実に勝るだけの力を持っているかというと、これは微妙なところ。私としては、あえて難しいテーマに挑んだチャレンジ精神に敬意を表したいと思うけど、現実を馬鹿にしているといって腹を立てる人もいるかも。

過去の日記

99年7月上旬 SF大会、小児愛、そして光瀬龍の巻
99年6月下旬 小此木啓吾、上野千鶴子、そしてカルシウムの巻
99年6月中旬 妄想、解剖学標本室、そしてパキャマラドの巻
99年6月上旬 睾丸握痛、アルペン踊り、そして県立戦隊アオモレンジャーの巻
99年5月下旬 トキ、ヘキヘキ、そしてSSRIの巻
99年5月中旬 鴛鴦歌合戦、星野富弘、そして平凡の巻
99年5月上旬 SFセミナー、ヘンリー・ダーガー、そして「てへ」の巻
99年4月下旬 病跡学会、お茶大SF研パーティ、そしてさよなら日記猿人の巻
99年4月中旬 こっくりさん、高い音低い音、そしてセバスチャンの巻
99年4月上旬 日記猿人、生首、そして「治療」は「正義」かの巻
99年3月下旬 メールを打つ、『街』、そしてだんご3兄弟の巻
99年3月中旬 言語新作、DASACON、そしてピルクスの巻
99年3月上旬 サマータイム、お茶の会、そしてバニーナイツの巻
99年2月下旬 バイアグラ、巨人症、そしてドッペルゲンガーの巻
99年2月中旬 クリストファー・エリクソン、インフルエンザ、そしてミロクザルの巻
99年2月上旬 犬神憑き、高知、そして睾丸有柄移植の巻
99年1月下旬 30歳、寺田寅彦、そしてスピッツの巻
99年1月中旬 アニラセタム、成人、そしてソファの巻
99年1月上旬 鍾乳洞、伝言ダイヤル、そして向精神薬の巻

97-98年の日記

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