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7月31日()

 むう、今度は「慶応大学医学部生が集団で女子大生に乱暴 婦女暴行で逮捕」とは。まったく本当に世も末ですね。この事件を報じていたニュース番組でのスーパーが「それでも医学生か!」。いや、気持ちはわかるが、スーパーで怒るなよ。
 フロイトによれば、乳児は「快楽原則」に支配されて生きているが、成長していくに従ってだんだんと「現実原則」を学んでいくのだそうだけど、このごろじゃ乳児期の「快楽原則」そのまんまで大きくなったような人間が増えているような。規範や権威など現実そのものが揺らいできつつあるから、現実原則を学習するのが難しくなっているのかも、などとワイドショーに出てくるコメンテーターの精神科医みたいにありきたりなコメントでお茶をにごしてみる私。

 さて、1999年7の月は、何事もなく終わってしまった(まあ旧暦だから8月だとか、ホントは9月だとかいう説もあるけど)。何も起こらなかったこと自体は予想通りなのだけど、実際こうして終わってしまうと、なんとなく寂しい思いがするのも確かだ。長い間楽しみにしていたイベントが期待はずれに終わってしまったようなそんな感じである。予言を信じるか信じないかは別として、おそらく五島勉のあの大ベストセラー以来、「1999年7の月」は、私たちの世代の心のどこかに引っかかっていたんじゃないだろうか。
 1999年7月になればすべてが終わる。何かとてつもないことが起こる。いい人の上にも、悪い人の上にも、一生懸命生きている人の上にも、いいかげんに生きている人の上にも、「滅び」は平等にやってくる。滅びってのは、つまりは「救い」の別の名前だ。特にキリスト教の熱心な信者でなくとも欧米人なら死後の救いのことを考えずにはいられないように、私たちは今まで1999年7月の「滅び=救い」を人生の区切りとして生きてきたような気がする。そう、私たちは、1999年7月に何がが起こることを待ち望んでいたのだ。
 しかし、それももう終わりである。破滅は来ない。救いも来ない。これからの年月はまったくの白紙だ。21世紀はやってくるけれど、かつて思い描いていたような夢の時代にはなりそうにない。戦後の経済成長期みたいに発展の夢を見つづけるわけにも行かない。21世紀は、ただただ広大な砂漠のようにのっぺりと広がっているだけだ。
 つまりはこういうことだ。我々は自由だ(よく考えれば、前から自由だったのだけど)。そして、我々は今度は、それに耐えて生きていかなければならない。
 自由に怯えるな。途方に暮れて立ちつくすな。歩き出せ。そして、何よりも、安易な救いだけは求めるな。
 「己の欲するところをなせ。楽しく生きたまえ」(フランソワ・ラブレー)
7月30日(金)

 富樫倫太郎『陰陽寮 壱 安倍晴明篇』(トクマノベルス)読了。平安時代を舞台にしていながら難しい時代考証などは置いて、一気に読めるエンタテインメントに徹しているところは評価できるのだけれど、この一冊だけ読んだ場合、どうも散漫に思えてしまう。多くのキャラクターを交互に描いていくという手法を取っているのだが、だれが主人公というわけでもなく同じような調子で続いているため、どうしても物語の焦点が定まっていないような印象を受けてしまう。要するに、緩急がないのですね。だから、これだけの厚さでありながら、読み終えたときには、ようやく長いキャラクター紹介が終わったように感じられてしまう。まあ伏線も全然回収されてないし、実際物語はまだまだこれからなのだろうけど。でも、「弐」もこんな感じで続いたらけっこうつらいかも。

 光瀬龍再読計画第一弾、ハヤカワ文庫JAの『東キャナル文書』も読了。タイトル通り、光瀬龍が作り出した最も有名な都市(というより、これはもうキャラクターというべきか)である東キャナル市を舞台にした連作長篇。ただし、各章の関連はかなり薄く、小説としての構成はかなり破格。
 いつとも知れぬ未来から、スペースマンたちの太陽系開発の時代まで、過去へと遡るかたちで各章は配列されているのだが、肝心の「東キャナル文書」がいったい何なのか、結局解き明かされることはない上、どうやら各章によって「文書」の内容は違うようにも思える。また、唯一、二つの章にまたがって登場するキャラクターである老フサは、章が変わるとまるで別人のように性格が違っている。
 おそらくこの作品は、一貫したストーリーのある長篇というより、東キャナル市という都市が主役を務める叙事詩といった方がいいのだろう。ただ、実験的な作品であるとは思うのだが、あまり成功しているとはいいがたいような気もする。

 デイヴィッド・ブリン『グローリー・シーズン』(ハヤカワ文庫SF)、F・ポール・ウィルスン『聖母の日』(扶桑社ミステリー)、重松清『幼な子われらに生まれ』(幻冬舎文庫)、佐藤亜紀『でも私は幽霊が怖い』(四谷ラウンド)購入。幻冬舎文庫の帯の井上晴美はいったい何なんですかね、これは。
7月29日(木)

 本日は鑑定業務。病院には行かず上野の保健所に出勤。
 鑑定業務ってのが何かというのを説明すると長くなるのだけど、要するに警察などから通報のあった患者を措置入院にするかしないかを決める鑑定である。措置入院のページにも書いたとおり、精神保健福祉法には、患者を措置入院にするにあたっては2人以上の指定医の診察で自傷他害のおそれがあると判断されなければならない、とある。この「2人以上の指定医」を確保するために、毎日各病院が回り持ちで保健所に医者を派遣するというわけ。ただ、ひとつの病院から一度に2人だと負担が大きすぎるので、別々の病院から1人ずつ派遣されることになっている。精神保健指定医になったからにはやらなければならない義務なのだが、東京は精神科医が多いせいか、だいたい1人につき1年に1回くらいしか順番が回ってこない。私にとっては初めての鑑定である。ちょっとどきどき。
 10時、保健所に到着。N医大から来たという初対面の先生に挨拶。
 午前中、六畳ほどの待合室で読書。
 2時間たっても通報はなく、12時には食事を食べに行くが、上野の下谷あたりはバイク関係の店がやたらに多いのに対し、食事できる場所が異常に少なくけっこう苦労したすえ中華料理屋に入る。
 午後、ひたすら読書。
 3時半、職員がどたどたと上がってくる。お、いよいよか、と思っていたら、「通報ありませんでしたので解散になります」
 ……本日の仕事おしまい。読書しただけかい!
 結局今日は措置入院にするかどうかの判断が必要な患者はいなかったということらしい。職員に「こういうことはよくあるんですか」ときくと「たまに」とのこと。やっぱり珍しいのか。がっかりしたようなほっとしたような。
 よく晴れた夏の日、ただひたすら本を読んですごした一日であった。なんだかふと赤毛連盟を思い出した私である。

 シーマン飼育開始。細川俊之のナレーションが怪しくて最高。タマゴを水槽に入れてしばらくすると、突然8つに分裂して八方に散らばり、精子のような形の幼生が誕生。なんだなんだ、八犬士でも生まれるのか。しかし、幼生のうち1匹はすぐにオウムガイに食べられてしまい昇天。哀れなり犬塚信乃<もう名前をつけていたのか。

 さて、きのう書いた角川文庫背表紙の謎の模様については、掲示板で深井龍一郎さんから、「あれは二次元バーコードというものである」という指摘があった。どうもありがとうございます。深井さんが紹介して下さったページには、二次元バーコードについての詳しい説明があり、中には角川文庫の模様にそっくりなコードもある。どうやら、これはデンソーのマイクロQRコードというものらしい。開発元のデンソーのページに行ってみると、マイクロQRコードとはというページがあった。さらに、このページには、以下のような記事が。
「角川書店、MQRコード今春から導入〜本格稼働は来年4月」

 角川書店は4月2日、東京・千代田区の本社会議室で、二次元コード「マイクロQRコード」の導入について、主に文庫出版社を対象とした説明会を開いた。マイクロQRコードは、一次元のバー配列だけで情報をインプットするバーコードより小型で、大量の情報が入力できる。このため出版社の在庫管理、書店の商品管理などにも幅広い可能性があるとされている。説明会には講談社、新潮社、筑摩書房など、文庫を持つ大手出版社をはじめ約40人が出席し、二次元コードへの関心の高さを示した。同社では、今春の新刊書籍と単行本の重版分からマイクロQRコードの導入を開始する。今秋までには同社の刊行書籍(文庫シリーズを含む)の約60%に当たる約1500点にこのコードを付け、欠本補充作業でのペン型携帯スキャナーの試験運用を開始する。自社の全ての書籍に加え、販売提携している主婦の友社や同朋舎、メディアワークスの商品にも順次導入を進め、本格稼働は来年4月からを予定している。
 なるほどねえ。でも、裏表紙のバーコードの情報以外には、どんな情報が入ってるんだろう。
7月28日(水)

 喜多哲士さんが7月28日の日記で、角川文庫の背表紙の新しいマークについて首をひねっている。そうそう、これについては私も以前から不思議に思っていて、4月14日の日記で書いたのだけど、結局あれがなんなのか教えてくれた人は誰もいなかったのであった。
 ひとつだけ確かなのは、このコード、実は本によってまったく違うということ。左上の「回」の字のように見えるところは同じだけど、それ以外の部分は、よく見ると全然違うのだ。たぶん本を識別するためのコードなのだろうけど、こんなものどうやって使うのだろう。出版社に専用の読み取り装置があって、在庫管理にでも使うのかな。でもそれなら裏表紙のバーコードで充分な気もする。
 よく観察してみると、同じ出版社の文庫でもパターンはまったく違っている。一致している部分はほとんどないのである。ISBNコードなんかだったら出版社コードの部分までは一緒のはずだから、そういったコードをパターン化しているのではないようだ。
 パターンは15×15のドットで構成されており、すべての本に共通の「回」の部分8×8を引くと、161ビット。数字なら49桁という途方もない数を表せるが、アルファベットなら20文字、漢字なら10文字。タイトルを入れるにはちょっと短すぎるが、作者名ならどうだろう。10文字以上の名前の作家ってのはあんまりいない気がするのだが……と考えたが、これはどうやら違うようだ。例えば「貴志祐介」といった4文字の名前の場合、65ビット目からは0が続くはずだが、このパターンでは全体にほぼ均等に0と1が並んでいるように見える。
 うーむ、いくら考えてもわからない。このコード、いったい何を示しているのだろうか。

 部分月食。東京では空はよく晴れていて、きれいに欠けた月が浮かんでいた。

 黒田硫黄『大王』(イースト・プレス)、桜玉吉『幽玄漫玉日記』(2)(アスペクト)、須藤真澄『おさんぽ大王』(3)>(アスペクト)、諸星大二郎『西遊妖猿伝』(12)(潮出版社)購入。大王が2冊。
7月27日(火)

 春日武彦『屋根裏に誰かいるんですよ。』(河出書房新社)読了。精神科の外来診療をしていると「屋根裏とか押し入れの中に誰かがいて、家の中のものを盗んだりいたずらしたりしている」と訴える患者さんがよくいるものである。お年寄りに多いこの妄想を、「幻の同居人」妄想というのだそうだ。
 しかし、このような妄想を持たない私たちにとっても、屋根裏になにものかが潜んでいる、というイメージは、何か想像力をかきたてるようなところがある。著者は、実際の精神科の症例から、江戸川乱歩の「屋根裏の散歩者」に話をすすめ、さまざまなミステリ小説、「屋根裏に愛人を27年間住まわせていた女」なる女性誌の記事、新聞の三面記事、明治時代の座敷牢など、「家」をめぐるフィクションやノンフィクションを自由に飛びまわっていく。このあたりの手さばきはいつもながら見事。
 「家」というと、普通は「安らぎの場所」というイメージでとらえられることが多いけれど、この本で取り上げられている「家」は、さまざまな秘密が押し込められている場所である。狂気や死が封じこめてられていることだってある。そして家は「妄想増幅装置」として、その中で静かに狂気を育てていく……。
 本書の副題は「都市伝説の精神病理」となっているが、別にいろいろな都市伝説が取り上げられているというわけでもないので、それよりもむしろ「家」をテーマにした本といった方がいいと思う。私たちが何気なく暮らしている「家」のイメージを変える一冊である。
 ただひとつ残念なのは、著者が引用する作品がミステリに限られていること。「家と狂気」というテーマなら、むしろホラー小説の方が取り上げやすい作品が多いんじゃないかな。この著者は果たしてSFやホラーをどんなふうに読み解いてくれるのか、一度読んでみたい気がする。
7月26日(月)

 別に精神鑑定を受けたわけでもないのに、なぜハイジャッカーの名前は新聞に載らないのだろう。そして自分で「病気」だとはっきり言っているのに、なぜ幼女誘拐犯の名前は新聞を飾っているのだろうか。
 それはやはり、今回の犯人には「狂気」を思わせるところがあり、幼女誘拐犯にはそれがなかったからなんじゃないか。なぜハイジャックをしたのかと訊かれて「レインボーブリッジをくぐりたかったから」と答えたり、なぜ人を殺したのかと訊かれて「太陽が眩しかったから」などと答えれば、それは「狂気」を示す証拠ということになってしまう。一方、幼女を求める衝動は狂気とはみなされない。このへんの基準が私にはよくわからない。
 さらに今回の事件の場合、スポーツ新聞には「夜中に声を上げて笑っていた」などという近所の人の証言も載ってたりして、犯人はますます狂気のステレオタイプにからめとられていくわけだ。そうやって彼固有の物語をどんどん捨象して、狂気という一般的な物語へとシフトさせていってしまうことは、読む人を安心させる効果はあるかもしれないが、彼の動機を見えなくしていってしまうし、彼という存在に対する冒涜であるような気がしないでもない。
 ちなみにこれは私たち精神科医も治療の際に自戒しなければならないところ。私たちが治療しているのは狂気ではなく、人間なのだから。

 ようやく本の原稿を書き始めたのだが、ついついテレビを見たりインターネットをしたりしてしまい、全然進まない。やっぱり大森望さんみたいに喫茶店とかファミレスでやらないと進まないのだろうか。

 近頃『九マイルは遠すぎる』のような純粋論理小説がないとお嘆きの貴兄に。むしまるさんによる『やぎさんゆうびん』の謎を読むべし。おお、これぞ本格ミステリ。一見なんでもない前提から導き出されるとんでもない結論がたまらない。まさに奇想論理小説(小説か?)の傑作といえよう(笑)。
7月25日()

 岩波文庫で復刊された『醒酔笑』を購入し、ときおりぱらぱらとめくっているのだが、これがなかなかおもしろい。この本、落語家の祖、安楽庵策伝和尚が編集した戦国・安土桃山時代の笑話集である。400年も前の話なのだが、今でも通用しそうな笑い話もある。たとえばこんな話。
 瓦焼きの男の近所に、天下一のみにくい娘を持った人がいた。この娘は二十四、五の若さで死んでしまった。すると、瓦焼きはその親のところへいって大いに泣いた。親が驚いて「どうしてそこまで哀しむのか」と聞くと、瓦焼き「この先、鬼瓦の手本がなくなったかと思うと哀しくて哀しくて」
 なかなかよくできた話である。鬼瓦をガーゴイルに変えればイギリス笑話集に入っていてもおかしくなさそうだ(おかしいか?)。
 しかし、実はこの本に収められているのは、そんなお行儀のいい笑話ばかりではないのですね。こんな話もある。
 河内の国に珍という男がいた。大和の国には場という男がいた。ふたりとも剣術の大家で、あるときふたりは試合をすることになった。試合の結果、ふたりとも片足を一本ずつ切り落とされ、もはや死にのぞもうとしていたとき、突然そこに天才外科医が現れた。しかし外科医は慌てていたため、ふたりの足を取り違えて手術してしまった。そのため、ひとりは片方の足が長くなり、もう一方は片方が短くなってしまい、歩きにくいことこの上ない。それからびっこを引いている人のことを「ちんば」というようになった。
 むちゃくちゃである。いくらなんでも「珍」と「場」はないだろ。それが日本人の名前か。唐突に外科医が現れるところなど、もうやぶれかぶれとしかいいようがない。
 さらにすごいのは、「若道知らず」と題された章があること。若道は「にゃくどう」と読み、「男色の道」を意味する。当時、天台・真言宗などの寺院には児(ちご)と呼ばれる子どもがいて、僧侶たちの同性愛の対象になっていたのであった。すなわち、「若道知らず」とは「ゲイ知らず」、あるいは「やおい知らず」。この章に収められているのは、同性愛の作法を知らない人を馬鹿にしようという話なのである!
 子供を山寺に上らせていた父親が、息子に会うために寺に行き一晩泊まることにした。すると、老僧も若い僧も息子に向かって「すばり」「すばり」と言っている。中には「あかすばり」と言っている者もいる。不審に思った父親がそっと息子に尋ねると「この寺では下戸のことをすばりというんです」との答え。なるほど、下戸は酒を見ると口がすぼまるからそう言うのだな、と父親は大いに感心した。
 その後、今度は夫婦連れ立って寺を訪れたときのこと、食事の席で後見の法師が母親に酒を勧めた。すると父親は「私はすばりではございませんが、妻はまったくのあかすばりでございます」
 これのどこがおもしろいかというと、実は「すばり」というのは肛門が狭いことをいう(ちゃんと広辞苑にも載っている言葉である)のだそうで、「あかすばり」はその罵り言葉。なお、その道では「すばり乾き」というのが最下等なのだとか。ううむ、どんな道なのかあんまり知りたくないぞ。
 ちなみに児(ちご)のことは「若気」(にゃけ)または「にやけ」ともいう(「にゃけ」は肛門のことも指していたようで、広辞苑には「にゃけのあたりはただ菊の花」というものすごい例文が引かれている)。現代でも使われる「にやける」という動詞はここからきたものである。
 さて最後にもうひとつ、「若道知らず」の章から。
 若い僧がある家で一夜の宿を借りた。11、2歳の子供が同じ座敷に寝ていたが、いったい何があったのか、夜中に大声で叫び出した。
「母さん、母さん、尻に火がついたよ」。
「どうしたの」とあわてた母親が灯かりを持ってきたが、よく見てからこう言った。「別になんでもないわよ。お坊様の精がいって消してくださったわ」
 ――人はただ十二三より十五六盛り過ぐれば花に山風
 何も言うまい。
7月24日()

 きのうのニュースになるが、三重大学の医学部生が酒に酔った上、ゲームで女子大生の服を脱がせたとか。野球拳でもやってたんでしょうか。実際のところ暴行なのかセクハラなのかはわからないけど、新聞を読む限りじゃこりゃとても同情の余地はないねえ(新聞だけの情報からものを言うことの危険性は充分わかっているが)。たぶん、やりすぎだと思いつつも先輩を止められずに見ていただけの後輩もいたんだろうけど、それも同罪。いや別に医学部生だからどうのというわけではなく、人間としてダメでしょ。しかし、このやり口、40代のオヤジならともかく、20代の若々しい大学生のやることとは思えないのだが。こんなオヤジのようなセンスの大学生がいるとはねえ。やれやれである。

 もうひとつ。きのうの新聞には大学時代の私の同級生の写真が掲載されていた。おとといの夜のニュースでは、左右を警官に付き添われながらも、昂然と顔を上げて歩く彼の姿が何度も放映されていた。彼は4年前、多くの被害者を出した例の一連の事件に加担したのである。都庁に送りつけられて負傷者を出した爆発物を投函したのが彼だと聞くが、テレビに映ったその表情からすると、自分のしたことを悔いてはいるようにはとても見えなかった。彼はまだあの教祖に帰依しているのだろうか。彼には懲役18年の刑が言い渡された。
 同じ事件で逮捕された同級生はもうひとりいて、こちらの彼からは、教祖と中沢新一が対談しているテープをもらったことがある(結局一度も聞かないままなくしてしまったが)。どうやら彼は私を勧誘していたらしく、にこにことした笑みを浮かべながら何度も親しげに話しかけてきたのだが、あいにく私は宗教にはまったく関心がなくきわめて冷たい返事しかしなかったので、彼の方もあきらめたのだと思っていた。しかし、彼の手帳にはしっかり私の名前も記されていたようで、事件後、2人組の刑事が彼との関係を聞きに私の勤めていた病院までやってきたこともある。彼の方は一旦は逮捕されたもののすぐに釈放されたが、かの団体ではかなり重要な地位にいたようで、今でもときどき週刊誌の記事になっている。卒業以後、彼とはまったく会うことはないが、ときどき出るこうした記事で私は彼の近況を知るのだ。

 彼らはいったい何を思って宗教に救いを求め、何を思って事件に加担したのだろうか。今まで宗教に頼りたいなどと考えたことのない私には、実のところよくわからない。もし彼らに会うことができたら、いちどじっくり話してみたい気もする。もしも会うことができたら。
7月23日(金)

 あうう、またもオタクによる犯罪が。
 もちろん、全日空機のハイジャック事件のことである。犯人は「フライトシミュレータが好きで、飛行機を操縦したかった」と言っているそうだし、どうやら鉄道マニアでもあったみたいだけど、また「ゲームと現実の区別がつかなくて云々」と言い出す輩が出てくるんだろうなあ。
 当然のことではあるけれど、この犯人や宮崎勤といった例からオタクを語ろうとするのは大きな間違いである。宮崎勤は(さまざまな診断はあるものの)精神障害があったことは確実だし、ニュースの報道を見た限りでは今回の犯人も精神的に正常とはとても思えない。こういった極端な例をオタクの代表にされてはかなわない。ただ、宮崎勤の頃とは違って今では岡田斗司夫氏や唐沢俊一氏のおかげでオタクのイメージもだいぶ向上してきているので、これによってオタクの株が一気に下がることはないと思うけど。
 ただ、彼らの病とオタク性とが関係がないかというとそうとも言い切れないのですね。精神分裂病の病前性格とされている(これには異論もあり、分裂病とは関係ないとする説もある)分裂気質の特徴はオタクと類似するところが大きいのだ。分裂気質というのはざっと次のような性質である。
 もの静かで引きこもりがちで非社会的。他人との感情的きずなをほとんど必要とせず、自分自身の人生を追及する。彼らの性生活は空想の中にのみ存在し、成熟した性欲をうやむやにすることがある。数学や天文学のような非人間的なものに莫大な感情のエネルギーを費やすことができる。一般的流行の変化に追随することはない。彼らはしばしば孤独に見えるが、ときに独創的で創造的な観念を抱き、それを展開して世間に提示することができる。
 思い当たる節のある人も多いのでは(かくいう私もわりと当てはまってたりする)。しかし不思議なことに、実際に診療をしていると、精神科の患者の中にはオタクは案外少ない。私の友人の中の方がはるかに多いくらいだ(え、それは交友範囲が偏ってるせいだって?)。それでも一方で、今回の事件や宮崎事件のように、オタク性と病と事件という組み合わせは確かにあるわけで、こうした性格特徴と精神の病、そして犯罪性の間に実際どんな関係があるのかは、私としてはまだ答えが出せない問題である。

 事件の話からだいぶずれてしまった。もちろんこれはとても痛ましい事件だし、死亡した機長には深く哀悼の意を表するのだけど、私としてはどうしても仕事がら、被害者よりも犯人の方に関心が向いてしまうのですね。私たち精神科医はこの犯人に何かしてあげることはできなかったのだろうか。もしきちんと治療されていれば、事件を未然に防ぐこともできたかもしれないのに。どうやら精神科通院歴はなかったらしいし、病院に来なければ我々には手を出しようがないというのも厳然たる事実なのだけれど。
 たぶん私が小児愛者に同情を感じてしまうのも同じことだと思うんですよね。被害を受けた子どもの苦しみも充分理解できるし人並みに怒りも感じるのだけれど、それでもなお犯人の側に立ってその苦しみや権利に思いをいたしてしまう。一方的に犯人を責めることは私にはどうしてもできない。これは職業病というものなのかもしれないな。
 私は、彼らがいったい何を考えているのか知りたくて仕方がないのだ(それでいて、決して知り得ないこともわかっているのだが)。

 なんだか今日はやたらと事件の多い日で、ほかにもいくつか取り上げたいニュースがあるのだけど、長くなってきたので明日に回します。

 今日は妻の誕生日なので、ちょっと奮発して文京区のフランス料理店『ルリスダンラバレ』(「谷間の百合」という意味である)で食事。静かな住宅街の中の古い日本家屋を改造して作られた店なのだが、入り組んだ住宅街の中にある上、目立つ看板もなく非常にわかりにくい。運よくたどりついても、入り口は狭く門構えは一見したところただの民家にしか見えないので通りすぎてしまいかねない。フランス料理は全然わからんので料理については何も言えないのだけど、「粋というのはこういうことだ」といいたくなるような雰囲気のいい店でありました。まあそうそう食べに行けるような店ではないけれど。
7月22日(木)

 スタートレックが好きでスーパーチャンネルでやっている放送をよく見ているのだが、どういうわけか日本のドラマは毎週追いかける気になれずあまり見ることがない。日本のドラマは連続ものが多いので一回見逃すとわからなくなってしまい、結局見る気をなくしてしまうのだ。どうして、日本のドラマにはスタートレックみたいな一話完結型の群像劇はあんまりないんだろうか。
 いや、別にまったくないというわけではない。刑事ドラマがそうだ。最近の「はぐれ刑事純情派」みたいなドラマでは主役ひとりが活躍するというパターンが多いけど、「太陽にほえろ」や「特捜最前線」なんかは、まさに週ごとに主人公が変わっていく群像劇だった。
 すなわち、「太陽にほえろ」は、日本のスタートレックだったのだ!(というより、同じ群像劇型のアメリカの刑事ドラマをもとにして作ったんだろうけど)。
 それならば、21世紀の七曲署を描く「太陽にほえろ・ネクストジェネレーション」というのはどうか。と思ったら、どうやら何年か前「七曲署捜査一係」というタイトルでもう制作されていたようだ。ボスは館ひろしで、刑事は全員オリジナルとは別の新メンバー。まさにネクストジェネレーション。
 レギュラー化されたら第1話にはゲストとして下川辰平あたりが退職した元署長として登場してほしいなあ。ボスが洗脳されて怪しげな宗教団体の一員となって襲ってくるエピソードもほしい(前後編)。人気が出て映画化されたら、そのときは行方不明になっている石原裕次郎がCGで復活して館ひろしと対決。タイトルはもちろん「太陽にほえろ・ジェネレーションズ」だ。
 そうするとディープスペースナインもなくちゃなあ。田舎の警察署を舞台にしたスピンアウトもの。管轄内に高速のランプができたことから都会から人が流れ込んできて治安が悪くなり犯罪が増加、急に忙しくなった警察官たちの奮闘を描く。今一つ視聴率が伸び悩んだときは、七曲署から人気刑事がやってくることにすればいいのだ。
 しかしヴォイジャーは……。うーむ。これは刑事ドラマではできそうにないな。
7月21日(水)

 ジェイムズ・P・ホーガン『仮想空間計画』(創元SF文庫)読了。現実と区別のつかない仮想空間に閉じ込められた男女が脱出を試みる、というストーリーは、それだけ取り出せばおもしろそうなんだけどなあ。なんでこんな話にしてしまうんだか。
 あらすじを読んだ人はまず間違いなく、シミュレーション世界からの脱出をメインにした話だと思うだろうが、物語は少し進んだところでいきなり過去に戻ってしまう。それ以降、小説の大半を占めるのは仮想空間計画を開始する前の研究所内部でのちまちました権力争いの話なのだ。せっかく読者を惹きつけておいて、いくらなんでもこの構成はないんじゃないか。過去の話なんかは、主人公の回想の中で処理して、シミュレーションの中での物語にしぼった方がよかったんじゃないかなあ。ようやく脱出を試み始めるのは物語も後半。しかし、読者の誰もがどうすれば脱出できるかわかっているのに、主人公だけがわからず悩んでいるというありさま。
 日本の作家なら同じネタでももっとサスペンスフルな作品を書くだろうなあ。

過去の日記

99年7月中旬 誹風柳多留、小児愛ふたたび、そして動物園の巻
99年7月上旬 SF大会、小児愛、そして光瀬龍の巻
99年6月下旬 小此木啓吾、上野千鶴子、そしてカルシウムの巻
99年6月中旬 妄想、解剖学標本室、そしてパキャマラドの巻
99年6月上旬 睾丸握痛、アルペン踊り、そして県立戦隊アオモレンジャーの巻
99年5月下旬 トキ、ヘキヘキ、そしてSSRIの巻
99年5月中旬 鴛鴦歌合戦、星野富弘、そして平凡の巻
99年5月上旬 SFセミナー、ヘンリー・ダーガー、そして「てへ」の巻
99年4月下旬 病跡学会、お茶大SF研パーティ、そしてさよなら日記猿人の巻
99年4月中旬 こっくりさん、高い音低い音、そしてセバスチャンの巻
99年4月上旬 日記猿人、生首、そして「治療」は「正義」かの巻
99年3月下旬 メールを打つ、『街』、そしてだんご3兄弟の巻
99年3月中旬 言語新作、DASACON、そしてピルクスの巻
99年3月上旬 サマータイム、お茶の会、そしてバニーナイツの巻
99年2月下旬 バイアグラ、巨人症、そしてドッペルゲンガーの巻
99年2月中旬 クリストファー・エリクソン、インフルエンザ、そしてミロクザルの巻
99年2月上旬 犬神憑き、高知、そして睾丸有柄移植の巻
99年1月下旬 30歳、寺田寅彦、そしてスピッツの巻
99年1月中旬 アニラセタム、成人、そしてソファの巻
99年1月上旬 鍾乳洞、伝言ダイヤル、そして向精神薬の巻

97-98年の日記

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