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6月10日(木)

 妻と外で食事をした帰りのことだ。家に戻る途中に大きな病院がある。
「こっちを通って帰ろう」
 ちょっと遠回りになるが、病院の構内を抜けて帰ることにした。なんとなくいつもと違う道を通ってみたかったのだ。
「病院が好きねえ」
 妻は呆れたように言った。
「なんで病院が好きなの?」
「病院で生まれたから」
「はあ」
「人は病院から来て、病院に帰っていくのさ」
 単なる思いつきで言ったのだが、言ってみるとなんだか名言のような気がしてきた。
人は、病院から来て病院に帰っていく。
 なんか、かっこよくはないか(ないか)。
 身も蓋もないという気もするが。
 現代の日本じゃ、ほとんどの人が病院で生まれているに違いない。それにしちゃ、病院に懐かしさを感じる人が少ないのはどういうわけなんだろう。母の胸に抱かれた想い出に懐かしさを覚える人が多いのなら、その100分の1くらいは病院に懐かしさを感じる人がいてもいいと思うんだが。
6月9日(水)

 よく「日本の常識は世界の非常識」とか「日本のシステムは欧米に比べて遅れている」なんてことを言われたりするけど、なんでまた「日本」に、「世界」とか「欧米」を対比するなんて発想が出てくるんだろう。日本とアメリカとかドイツとかを比べるならわかるけど、たかが一つの国である日本を世界と比較してしまえるとは、いったい何様のつもりなのか。それともそれほど自分の国は特殊だと思ってるのか。そりゃ自意識過剰ってものでは。それに、だいたい「日本」と「世界」を比較しているとき、その人のいう「世界」ってのはたかだかアメリカか欧米にすぎないことが多い。そんなの「世界」じゃないぞ。
 1日に紹介した『医療と文化』を読んでわかるのは「欧米」とか「世界」なんていう一枚岩のものはどこにもないということ。各国にはそれぞれの「常識」というものがあって、それが他国では「非常識」だったりする。それでいいのだ。別に非難されるいわれはない。それが健全な世界ってものではないか。  ただ、虐殺とか差別とかがその国の「常識」だと主張された場合どうするかって問題はあるけど。世界の「常識」をひとつにまとめあげようとする暴力的な意志と、自分のところの「常識」を守ろうとするこれまた暴力的な意志との戦いってのがこのところの戦争の構図のようで、この問題はちょっとやそっとじゃ答えを出せそうにない。

 唐沢俊一+ソルボンヌK子『世界の猟奇ショー』(幻冬舎文庫)、井上雅彦『ディオダディ館の夜』(幻冬舎文庫)、愛川晶『化身』(幻冬舎文庫)、泡坂妻夫『からくり東海道』(光文社文庫)購入。幻冬舎文庫をこんなにまとめて買ったのは初めてである。
 近所の古書店では松浦秀昭『虚船』(ソノラマ文庫)、J・G・バラード『死亡した宇宙飛行士』(NW-SF社)を捕獲。
 富沢ひとし『エイリアン9』第2巻(秋田書店)もフライング購入。「エイリアン対策係」になった小学6年生の女の子3人が主人公のSFコミック。第1巻同様、かわいい絵柄なのに展開はかなりハード。次々と押し寄せるエイリアン、徐々に人間でなくなっていく3人。そして、どうやらエイリアンらしい先生の本当の目的はいったい何なのか。「ビヨーンデ」とか独特の擬音もいい味を出している。
 早くも今年最高のSFコミックになりそうな作品。SF者なら必読。
 ところで、富沢ひとしって、ほかに何を書いてたんだろ? 検索すると95年刊で『肥前屋十兵衛』ってのが出てくるが、これはSFじゃなさそうだし。
6月8日(火)

 「アルプス一万尺」も「森のクマさん」も謎だけど、「クラリネットこわしちゃった」も謎ですな。いったいあの「オーパキャラマドパキャラマドパオパオパンパンパン」ってのは何なのか。何だよ「パキャラマド」って。実は「パキャラマド」とは古代ヘブライ語で「エホバ進み給え」という意味である、なんてことになったら面白いのだがなあ(それはナニャドヤラ)。

 さて上の文章を書くために「ナニャドヤラ」で検索しているうちに(するなよ)おもしろいページを見つけた。青森放送のラジオ番組の中の一コーナーとして放送されていた県立戦隊アオモレンジャーのページである。テーマソングはこんなの。
君のイカが君のイタコが狙われてるぞ
さあ 肩組み立ち上がれ
みなぎる血潮はナニャドヤラ
守れ守れ守れ遮光器土偶 守れ守れ守れキリストの墓
 ……いや、君のイタコって言われてもなあ。
 46都道府県からの魔の手(って何だよ)と戦うために設立された県立戦隊アオモレンジャー。戦隊はリンゴレッド、イカブルー、ホタテピンク、シャコイエロー、イタコブラックの5人(シャコは寿司ネタではなく遮光器土偶のシャコであるらしい)。秘密基地は山内丸山遺跡の地下。必殺技は整備新幹線バズーカ。ねぶた型巨大ロボット「タムラマロ」や、「太宰ロボ」といったお約束の巨大ロボも登場(太宰ロボは、岩手県が送り込んできた賢治ロボと死闘を演じるのである)。こりゃ、作者はよっぽど戦隊ものを研究しつくしたと見た。
 全7話の台本も収録されているし、テーマソングと番組はここで聞ける(要リアルプレイヤー)。特に「全国版アオモレンジャー」は必聴。あまりにもものすごい太宰ロボの必殺技にはしばし絶句。こんなのが本当に放送されていたのか。やるな青森。

 さてさて今日の古畑は、三谷幸喜お得意の、小さな嘘がどんどん膨らんでいくというシチュエーションコメディ。ミステリとしては穴だらけだけど、それは作者も承知の上で、潔くコメディに徹した作りがすがすがしい。ミステリファンには受けが悪いだろうけど、コメディのお手本のような作品で、私はけっこう気に入りました。
6月7日(月)

 4日に書いた「アルペン踊り」と「小槍」の謎は、A氏からのメールによって新たな展開を迎えた。このA氏、「新月お茶の会」時代の友人で、3月6日のパーティの夜、ともに一夜を過ごした仲(笑)である。
 ありがたいことに、A氏は「アルペン踊り」に関する情報を検索して調べてくれたのである。いやはや、4日の日記では手抜きをしてしまったが、これは本来なら疑問を抱いた私がまずするべき仕事だなあ。
 まず、歌詞についてだけど、私が引用したものとは違ったバージョンがここにある。作詞者不詳の歌だけに、ほかにもいくつものバージョンがあるらしいが、これが最もポピュラーなもののようだ。
 さらに、どうやら「アルペン踊り」と「小槍」の謎は、いにしえから数多くの人々を悩ませてきた問題であったらしく、同じ疑問を呈しているページが山ほど見つかった。この会議室の過去ログで、「小槍」の謎を話題に出しているのは、なんと2年前の野尻抱介さん。その直後、A.Matsukuraさんから、
「小槍」というのは北アルプスは槍ヶ岳、その峻厳なる穂先の横に突き出た 小さな岩の先端のことなのです。
 と答えが出ている。この写真で中央の槍ヶ岳の右にある黒っぽいピークが小槍である。ちなみに小槍のアップはこれ
 しかし、信州らしい歌 ベスト10というページにはこう書かれている。
槍ヶ岳よりちょっと低い小槍の上で、アルペン踊りを踊るのはなかなか大変。なぜなら小槍の上は畳一枚分ほどの広さしかないからです。
 なるほど、実際に踊るのは難しいのか。しかし、実際に(小槍の上ではないものの)山頂でアルペン踊りを踊ってしまった人々もいるらしい。
 慶應義塾中等部山岳部に見る懐かしの登山五〇年というページの座談会の記述である。
J その時Kさんが、蝶ケ岳の山頂で皆を踊らせたんじゃない?
K やったねえ。アルペン踊りを。
 おお、「アルペン踊り」は実在するのか。
 さらに、このページによれば、アルペン踊りはフジテレビの「目覚ましテレビ」で披露されたことがあるようだ。どうやら怪しい踊りだったらしいが、どんな踊りなのかは書かれていないため、いまだに不明。いったいどんなんだ、アルペン踊り。
 ちなみにこれが、「アルプス一万尺」の原曲"Yankee Doodle"の歌詞。A氏はティプトリーの未訳短篇"Yanqui Doodle"を読んでいたときに、この歌詞を調べたのだそうな。むむう、原書の人は違うなあ。
 以上、ほとんどA氏からのメールに頼りきって書いてしまった。すまん、今日も手抜きで。

 谷甲州『ヴァレリア・ファイル』上下(中央公論新社)、牧野修『偏執の芳香』(アスペクト)購入。

 夜は衛星第2のドラマ"FROM THE EARTH TO THE MOON"(人類、月に立つ)を見る。第1回はマーキュリー計画からジェミニ計画までを描いているのだが、史実を駆け足でたどっているだけで内幕などはほとんど描かれず、ちょっと薄味。それに、日本語版なんだから仕方がないのだが、やっぱり宇宙飛行士が日本語で交信しているのは奇妙な光景である。オール日本語の中でケネディの演説だけが字幕ってのも違和感大あり。これは全部字幕で見たかったなあ。
6月6日()

 今日は特にネタがないので、ずっと前に読み終わっている倉阪鬼一郎『活字狂想曲』の感想など。
 「現実不適応者」を自認する怪奇小説家倉阪鬼一郎が、13年間の会社生活を綴った「漫文」である。なるほど、会社ってこんなに奇怪な組織だったのか、ふうん、と会社勤めの経験のない世間知らずの私は感心してしまったのだが、こんなことを書くと私の方が逆に会社に勤めている人に呆れられそうだなあ。
 会社という組織について考察した本としても、倉阪氏の自伝としても読むことができるけど、私としてはこの本を読んで連想したのは、ラヴクラフトの「アウトサイダー」ですね。
 現実不適応者であることは、彼にとってコンプレックスであると同時に誇りでもある。彼は自分が会社なぞというような俗な組織に適合できないことに誇りを抱いている。と同時に自分がまぎれもなく現実不適応者であるということもよく知っているのだ。同じように、「会社」は彼にとって蔑みの対象であると同時に、どこか憧れの対象でもあるようだ。読んでいくうちに、作者のそんなアンビヴァレントな心境が垣間見られてくるのがなかなか興味深い。
 この心境ってのは、「アウトサイダー」の主人公のものに重ならないですか? 解説で浅羽通明が使っている「貴種流離譚」よりもむしろ、私にはこの作品、怪奇小説やホラー映画のフォーマットに従っているように思えるのだが。

 今日はSFセミナーの打ち上げで新宿へ。
 帰りに古龍『辺城浪子』(1)(2)(小学館文庫)購入。

 いよいよ明日から衛星第2で、SFセミナーで堺さんが紹介していた『人類月に立つ』の放送。ビデオにでも撮るかな。
6月5日()

 なぜ日記の更新が遅れがちになっているのかというと、『こみっくパーティー』にはまっているからなのであった(笑)。すでにいろいろと評判は毀誉褒貶出揃っているようだけど、リーフだと思わなければ(長瀬も出てこないし)いい作品なのでは。しかし純朴な青年だった主人公がHシーンになった途端にエロオヤジ化してしまうのにはげんなり。
 あ、『Kanon』も買わなきゃ。

 藤巻一保『真言立川流』(学研)読了(しかし、私はなんでこんな本を読んでいるのか)。
 立川流といえば髑髏本尊を崇拝し男女交合を神聖視した邪教、というイメージが一般的だけど(いや立川流を知ってること自体あまり一般的ではないかも)、本書は歴史上の真言立川流の真の姿について考察した本。ダキニ信仰や霊狐崇拝といった立川流の源流となる日本の民俗宗教を縦糸に、真言立川流の教義や歴史をわかりやすく解説している。今までこういうまとまった解説書がなかっただけに貴重な本といえる(この本が出る直前に真鍋俊照『邪教・立川流』という本も出ているけど)。
 対話形式というところに、読む前は一抹の不安を覚えたのだけど、多くの文献にあたって調べられており、かなり良心的な本だと思う。『狂骨の夢』とか『クラダルマ』とかのフィクションだけから真言立川流の名前を知った人にお勧め。
 基本的なことながら、真言立川流の「立川」ってのは武蔵国立川、つまり今の東京都立川市の陰陽師が広めたことからついたんですね。恥ずかしながら、この本で初めて知りましたよ、私。
6月4日(金)

 ふと、「アルプス一万尺」という歌のことが気になって仕方がなくなった。
アルプス一万尺小槍の上でアルペン踊りをさあ踊りましょう
 2番以降もあるのかもしれないが私はこれしか知らない。しかし、この詞だけでもいくつもの謎があることがわかるだろう。
(1)一万尺ということは3000m程度。アルプスはそんなに低いのか。
(2)「小槍」とは何か。
 (1)から導き出されるのは、これは実はアルプスの歌ではないということだ。これは本場のアルプスではなく、日本アルプスを歌った歌なのだ。そう考えれば(2)の謎も解ける。「小槍」というのは、おそらく槍ヶ岳の支峰か何かに違いない。きっと地元ではそう呼ばれる山があるのだろう。
 しかし、まだ最大の謎が残されている。
(3)アルペン踊りとは何か。
 アルペン踊り。いったいどんな踊りなんだろうか。しかも、何を好き好んで山の上に登ってそんな踊りを踊らなければならないのか。何かの秘密結社の儀式なのか。
 この謎を解くためには続きの歌詞を見るしかない。そこで、検索エンジンで2番以降の歌詞を調べてみた。
お花畑で昼寝をすれば
ワニが出てきてキスをする

命ささげて恋するものに
なぜに冷たい岩の肌

どうせやるならデッカイことやれ
彼女を質屋に入れちまえ

きのう見た夢デッカイ小さい夢だよ
のみがリュックしょって富士登山
 ……。
 不条理にもほどがある歌詞である。統一感まったくなし。アルプスなんて全然関係ないではないか。3番だけ唐突にシリアスになるのも謎。
 結局謎は深まるばかりなのであった。

 ついでに書いておくと、「おおブレネリ」も謎のある歌である。
おおブレネリあなたのおうちはどこ
わたしのおうちはスイッツランドよ
きれいな湖水のほとりなのよ
 おうちを訊かれてスイスと答える奴がどこにいる。しかも、この歌はスイス民謡だというではないか。スイスで家の場所を訊かれて「スイス」と答えるブレネリ嬢はかなり変わった女性だと思うのだが、どうか。
 さらにこの歌、2番はこうらしい。
おおブレネリあなたの仕事はなに
わたしの仕事は羊飼いよ
おおかみ出るのでこわいのよ
 脳天気に「こわいのよ」などと歌っている場合ではないと思うのだが。
6月3日(木)

 睾丸は俗に「急所」と称せられるが、このことは男子の生殖腺であるということよりも、これを外部より握るという容易な手段で、交感神経性の激痛を起させることが出来、更に激しい衝撃を加えたときには、失神又は死に至らしめることさえできるからである。
 と、吉田幸雄「睾丸握痛と脊髄損傷高位」(「脳と神経」1955年9月号)なる論文は始まっている。
 この論文、その痛みを伝える神経はどの高さの脊髄節から出ているのか、ということを論じているのだけれど、実験方法がなかなかすごい。
 患者に目を閉じさせた後、術者の右手を用いて、陰嚢の上から睾丸の全体を手中に蔵め、睾丸に損傷を起こさない程度に強くギュット握圧する。その結果、全く何とも感じないものを陰性、痛覚としてではないが、局部に刺激を感じた程度のものを半陽性、尋常の睾丸疼痛として感じたものを陽性として、左右両側について検した。
 うう、いかにも痛そうだ。
 もちろん、ふつうの人なら陰性なんてことは絶対にないわけで、この実験の被験者になっているのは、国立箱根療養所入所中の、重度脊髄損傷患者33名。「うち射創が18例、鈍力創が15例」となんでもないことのように書かれた記述が、この論文が書かれた時代を物語っている。1955年といえば戦後まだまもないころ。つまり被験者のほとんどは戦争で障害を受け療養している帰還兵なのだろう。
 帰還兵たちはいったいどんな気持ちで睾丸を握らせたのか、著者は33人の睾丸を握るときいったい何を考えていたのか。いろいろと想像させられる論文である(笑)。
 結局結論は、睾丸の痛覚は、第11〜12胸椎から出ている小内臓神経が伝達している、というもの。著者は、睾丸握痛検査は脊髄損傷部位の診断に役立つ、と書いている。まあ、確かにその通りなんだけど、あんまりやりたくない検査だなあ、これは。

6月2日(水)

 JAMA日本版5月号で見つけた記事から。
 脳卒中患者にはしばしば意欲の低下がみられ、これが日常生活動作を低下させ、リハビリによる回復を妨げる大きな要因になっているのだという。しかし、今まではこの意欲低下を客観的に評価する方法がなかったことから、「やる気スコア」なるものが編み出された。
(1)新しいことを学びたいと思いますか。
(2)何か興味を持っていることがありますか。
(3)健康状態に関心がありますか。
(4)物事に打ちこめますか。
(5)いつも何かしたいと思っていますか。
 などなど、14項目からなるスコアで脳卒中患者のリハビリ意欲を評価するのだそうな。このスコア、アメリカで作られ、島根医科大学で日本語版が作成されたのだが、主治医や言語療法士による主観的評価との対応を検討したところ、すぐれた相関が認められたのだという。
 あのー、それじゃスコアなんて作らなくても、主観的評価で充分なのでは。そりゃ統計をとったり論文書いたりするのには便利だけどさ、このスコア、なんか治療に役立つの?
 それになあ、「やる気スコア」ってのはなんだかイヤな言葉だと思ってしまうのは私だけか? もちろんスコアが高い方がいいとみなされるわけだけど、人間やる気がなきゃいかんのか。やる気がなければ、家族や医療スタッフがはげましたり、抗うつ薬を投与したりしてやる気を出させようというのだろうが、やる気がない人間はダメ人間だというのか。
 人間、だらだらしていちゃいかんのかね。
 老人というのは若者と違うのだから、満ちあふれるやる気なぞそうそうあるものでもあるまい。回復なんかしなくてもいいからだらだらのんびりしていたい、というのもひとつの尊重すべき意志だと思うのだけれど、こういう意志は現代医学の枠組みの中では認められず、やる気のない患者はダメ患者の烙印を押されてしまう。
 こういうのも、きのう書いたような、「何かをすること」に最大の価値を置くアメリカ医学から流入してきた思想のような気がするな。

 『幻想文学55号』購入。山尾悠子の新作に特集「ミステリvs幻想文学」。作家アンケートでの「幻想文学読者に最もふさわしいと思われる御自身の作品は?」という問いに対し、近刊の次作を挙げている作家が多いのはうなずけるところだけど、赤江瀑だけがたった一言「なし」と答えているのが印象深い。自負のなせる業か、それとも……。
6月1日(火)

 当直中にリン・ペイヤー『医療と文化』(世界思想社)を読んだ。地味なタイトルの本だが、これが無類におもしろい。普通、私たちは、科学的な医学というものは世界共通、少なくともどこの国でも医学が進む方向は共通だと思ってますよね。特に、脳死移植なんかの問題だと新聞でも「欧米ではこうだ」などという書き方がされて、欧米の医療と比べた日本の医療の後進性が槍玉にあげられたりしている。
 しかし、「欧米の医療」ってのはいったいなんだろう。この本に取り上げられているのは、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツと、日本ではひとくくりに「欧米」として語られてしまう国々だけれど、その医療は国によって、文化によって全然違う。この本を読むとわかるのは、医療の方向性を決めるのは、科学的な事実ではなく、むしろ文化的なバイアスだということだ。
 たとえばフランスでは美的要素を重視して、乳癌の患者の乳房をなるべく残す方向で手術を行うが、アメリカでは根治をめざした乳房切除術が選ばれる頻度が高い。子宮摘出が行われる頻度も、フランスではアメリカの3分の1程度である。アメリカでは子宮筋腫の手術といえば子宮全摘が常識なのだが、フランスでは筋腫を摘出するだけで子宮自体は残すことが多い。
 また、ドイツでは薬を組み合わせて使うことが多い(日本でもそうである)が、他の国では1種類の薬だけを使うことが多い。ドイツでは「心不全」の診断が多用されるが、ドイツ人が初期心不全と考える状態は、アメリカやイギリスでは病気ですらないのだという。ドイツでは何の症状もなくても低血圧だというだけで治療の対象と考えられるが、アメリカでは低血圧は長寿の源とすら考えられているという。
 ヨーロッパでは病気になるのは外敵と体質の両方に原因があると考えられるのに対し、アメリカ人は病気はすべて外敵によってもたらされると信じたがるのだという。とにかく「何かをする」ことが効果をもたらすと信じているので、アグレッシブな外科手術を好むし、薬物治療を行うときにも大量に投与する。静かで穏やかな患者はそれだけで病的と考えられることが多く、不断の活動は受容性より優れていると思われていたそうだ。癌と戦って克服した患者は、降伏した患者よりも優れているのである。
 著者は、アメリカの医師がアグレッシブな理由には医療過誤訴訟の影響があるという。アメリカの法律は、患者のために必要なことをすべて行うよう要求する傾向があるのだ(これはつまり、日本も医療過誤訴訟が増えてくればアメリカのように医療過剰になる可能性があるってことですね)。

 この本を読むとわかるのは、いくら科学的医学を標榜していても、医療はどうしても文化的バイアスをまぬがれえない、ということ。人間の活動である以上、医学に限らずたぶんあらゆる科学がそうなんだろうなあ。たとえ物理学や生物学であっても。著者の指摘は鋭いし、豊富なデータやエピソードもおもしろいのだけれど、どうも気にかかることもある。おもしろすぎるのだ。
 各国の医療の違いを、フランスのデカルト主義、ドイツのロマン主義、イギリスの倹約性といったような国民性と結びつけているあたりには、ちょっと首をひねってしまう。確かにデータからは各国の「国民性」が浮かび上がってくるのだけれど、それがあまりにもステレオタイプでわかりやすすぎるのが気になる。大げさなエピソードをつなげて差異を強調しているだけなのでは、と疑いたくなってしまうのだ。
 こんなとき気になるのが各データの出典なのだけれど、なんとこの邦訳では原書にあるデータの出典を記した註を、「煩雑」としてすべて省略している。データが命のこういう本では出典がなによりもまして重要なのに、この態度は許しがたいなあ。
 最後にこの本からの引用。
「ドイツでは精神科医は尊敬の対象外です。自分を精神科医と名乗るのは悲劇です。開業する気があれば、心理療法医と名乗るほうがいいでしょう」
 ドイツに生まれなくてよかった(笑)。
 著者のホームページ"Medicine and Culture Update"

 4月1日の日記に、私はこんなことを書いた。
4月限定で、この日記も日記猿人仕様にしてみることにした。投票ボタンもつけたし、日記猿人へのリンクもつけた。面倒ではあるが、更新報告も毎日行うことにした。ただし、これを行うのは4月中のみであり、5月以降はボタンその他は一切取り外すつもりである。これにより、3月と4月、4月と5月のアクセス数の変化を調査したい。
 6月になったのでようやく調査結果の最終報告ができる。月ごとのアクセス数は、3月11971、4月10844、5月12528。日記猿人に更新報告をしていた4月がいちばんアクセスが少ないというなんとも意外な結果。理由はよくわかりません。

過去の日記

99年5月下旬 トキ、ヘキヘキ、そしてSSRIの巻
99年5月中旬 鴛鴦歌合戦、星野富弘、そして平凡の巻
99年5月上旬 SFセミナー、ヘンリー・ダーガー、そして「てへ」の巻
99年4月下旬 病跡学会、お茶大SF研パーティ、そしてさよなら日記猿人の巻
99年4月中旬 こっくりさん、高い音低い音、そしてセバスチャンの巻
99年4月上旬 日記猿人、生首、そして「治療」は「正義」かの巻
99年3月下旬 メールを打つ、『街』、そしてだんご3兄弟の巻
99年3月中旬 言語新作、DASACON、そしてピルクスの巻
99年3月上旬 サマータイム、お茶の会、そしてバニーナイツの巻
99年2月下旬 バイアグラ、巨人症、そしてドッペルゲンガーの巻
99年2月中旬 クリストファー・エリクソン、インフルエンザ、そしてミロクザルの巻
99年2月上旬 犬神憑き、高知、そして睾丸有柄移植の巻
99年1月下旬 30歳、寺田寅彦、そしてスピッツの巻
99年1月中旬 アニラセタム、成人、そしてソファの巻
99年1月上旬 鍾乳洞、伝言ダイヤル、そして向精神薬の巻

97-98年の日記

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