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5月20日(木)

 細田さんの「あさきゆめみじ」の話で思い出したけど、『老いたる霊長類の星への賛歌』ってのは、「老いたる霊長類の星」への賛歌ではなく、「老いたる霊長類」の「星への賛歌」だったんですね。恥ずかしながら、私は最近原題を見てようやく気づきました。原題は"STAR SONGS OF AN OLD PRIMATE"で、こちらは一目瞭然。
 似た例だと、『コックと泥棒、その妻と愛人』ってのがある。日本語としてのリズムを重視した苦心の訳なんだろうけど、これは"THE COCK, THE THIEF, HIS WIFE AND HER LOVER"なのだから、本当は「コック、泥棒、彼の妻、そして彼女の愛人」という意味。「愛人」は泥棒の妻の愛人なのだ。観た人なら当然わかってるだろうけど。
 どちらも、原語では明解なのに日本語にすると途端に修飾関係がわからなくなってしまう例。

 ニュースステーションではトキの孵化のニュース。佐渡からレポートしているのは、おお、村山志保さんではないか。以前書いたように、私はこの人のファンで、新潟にいたときにはこの人の出ている番組を欠かさず見ていたのだ。元気そうでなによりである(どの時点で孵化というのか、とか久米宏にいじめられていたが)。

 香山リカ『インターネット・マザー』(マガジンハウス)、キャシー・コージャ『虚ろな穴』(ハヤカワ文庫NV)、ミネット・ウォルターズ『氷の家』(創元推理文庫)、マイク・レズニック『キリンヤガ』(ハヤカワ文庫SF)購入。作者があとがきで、SFマガジン読者賞をとったことや星雲賞候補になったことまでうれしそうに書いてるのがなんとも微笑ましい。
 あと、高山宏『綺想の饗宴』(青土社)も買っちまったよ。大学時代にはファンだったのだ、この人の。その頃はこの人の博識に圧倒されてたけど、あるとき竹田雅哉がどこやらで、高山宏の文章を(敬愛をこめて、ではあるけれど)「悪文」と断定していたのを読んではたと気づいた。それまではきらびやかな文体に幻惑されていたけど、言われてみれば確かに、こりゃごてごてと飾りばかりの多い「悪文」以外の何ものでもないのではないか。それ以来憑き物が落ちたように高山宏を読まなくなったが、どれ、久しぶりに読んでみるとするか。著者もあとがきで、歳をとって文章がわかりやすくなった、と書いているし、昔よりはすんなりと頭に入ってくるのではないかな。
5月19日(水)

 とはいっても(またまたこの書き出しだが、今度もまたきのうの続きなのである)、異常には異常の抗しがたい魅力があるんだよなあ。
 きのう引用したのと同じ文献「患者と精神科医に共通する病」の中で、下坂先生はこんなことも言っている。
 ××(=人名、それはたいてい天才的な芸術家)は、(凡庸な)精神科医の治療を受けなくてかえって幸いだった。
 私はこの手の文章に何度かお目にかかったような気がする。書き手は精神科医にかぎらない。心理学者の場合もある。つまり××の芸術活動が治療によってつまらないものになる可能性からまぬがれて幸いだったといいたいのであろう。私はこういう考え方にすこぶる違和感をもつ。××の芸術活動のみごとな結果をもっぱら享受するのはわれわれ世間であり、××ではない。つまりはわれわれの快楽のためには、××の病苦の問題は二の次だということになる。創作活動によってその苦しみがいささかまぎれることがあったとしても、やはりそれはたかが知れているのではないか。精神科医のこの種の非凡好みはぜひ放棄してほしいと私は考えるのだが、どんなものであろうか。
 これはどうかなあ。下坂先生は、精神科医である以上、芸術よりも治療を優先せよ、というのだろう(たぶん下坂先生は病跡学は嫌いでしょうね)。わからないではない。でもやっぱりこれは、私には容易には納得できない話である。
 フロイトから精神分析を学んでいたルー・サロメが、愛人である詩人リルケの分析をしようとしたけれど、「分析をしてしまうことは彼の創造力を奪うことになる」といって途中でやめた、というエピソードがあるけれど、このサロメなんて分析家失格ということになるんですかね(愛人の精神分析なんかしてる時点で失格のような気もするが)。
 「××の芸術活動のみごとな結果をもっぱら享受するのはわれわれ世間であり、××ではない」ってのは、あまりにも皮相な見方なんじゃないかなあ。創作すること自体が××のアイデンティティであった場合、それを奪うのは暴力的なことなのではないか。
 患者が本当に才能ある芸術家だったとしたら、私ならどうすべきか悩むだろうなあ(ここで悩まないような精神科医は信用できないと思う)。まあ最終的には、どうしてほしいのか本人の希望によると思うけど、できる限り創作の才を殺さないような治療を心がけると思うなあ。

 大原まり子『みつめる女』(アテール文庫)、えとう乱星『蛍丸伝奇』(青樹社文庫)、北村薫『謎物語』(中公文庫)、ファン・フーリック『四季屏風殺人事件』(中公文庫)、北村薫編『謎のギャラリー特別室III』、『謎のギャラリー最後の部屋』(マガジンハウス)購入。
5月18日(火)

 とはいっても(いきなりこの書き出しではとまどうだろうけど、きのうの続きなのである)、「平凡は嫌いだ」と叫ぶことなら誰にだってできる。むしろ、そう叫ぶこと自体が平凡なことだ。星野富弘や相田みつをを読む人々をけなす私は、つまりはある「病気」にかかっているのである。

 精神科医の下坂幸三は、精神科の患者と精神科医とに共通してみられる「病気」として、「平凡恐怖」というものを挙げている。
 病気から回復するということはつまり「普通になる」ということだ。しかし、患者の中に特異でありたい、特別な人になりたい、という願望があると回復のさまたげになることがあったりする。
 精神科医でもこの「病気」にかかっている人は多くて、例えば患者の作る「芸術作品」にのめりこむ医者、それに、特異な体験を語る人、知的な人、芸術家肌の人の診察に力が入りすぎてしまう医者や、患者の病状が悪いときには勢い込むが、落ち着いてくると途端に手持ち無沙汰になってしまう精神科医もいるとか。
 私の場合ここまで極端なことはないけど、特異な体験を語る患者さんに出会ったりするとついつい興味を惹かれてしまうことは確か(もちろん根掘り葉掘り訊いたりしないようにはしてますが)。
 下坂先生のいうこの「平凡恐怖」、精神科の場面に限らず、社会全体に蔓延していますね。
 みんなと同じでいたくない。特別になりたい。そう思うことは全然特別なことでもなんでもなく、「平凡でいたくない」と思うことそれ自体が今や平凡なことである。だから、平凡でありたくないからと言って、みんなで同じやり方で逸脱するようなバカバカしいことにもなるんだけど(たとえばヴィジュアル系バンドというのはどうしてああみんな同じような格好をするのか)、あれはあれで、非凡になるにはいったいどうしたらいいか必死に探し求めている結果なんだろうねえ。
 こういう時代だと逆に、いちばん非凡なのは、平凡であることを恐れないことなのかも。ここまで来ると、もう何が平凡で何が非凡なのかわかんなくなってきますね。まあ、真の非凡というのは目指すようなものではなくて、自ずからにじみ出てくるものだと言ってしまえばそれまでなのだけれど。

 さてこの病いは治さなければならないかというと、もちろんそんなことはない。非凡を目指すことそれ自体は、当然のことながら別に悪いことではない。ただ、精神科医の場合、「自己の持つこの恐怖の存在がよくみえていないと、患者の言動に対して適切な評価を下すことができなくなる。当然、治療上にも悪影響が出るだろう」と下坂先生は書いてますね。
 要するに、自分の平凡嫌いを自覚せよってこと。
 私としては、この言葉はちょっと語句を変えれば精神科医に限らず誰にでも通用するんじゃないかと思う。
「自己の持つこの恐怖(平凡恐怖)の存在がよくみえていないと、自分の言動に対して適切な評価を下すことができなくなる」
 平凡嫌いが自分を縛っているところはないですか?
 もうちょっと肩の力を抜けば楽になるのでは?(と、これは自戒もこめて)
(そうはいっても、楽になるために星野富弘を読んだり、宗教に入ったりってのは、私としてはどうも「美しくない」と思ってしまうんだが)

 追記:ここまで書いてから風虎日記の記述を発見。うむ。確かにきのうの捨て台詞は大人げなかったですね。私としては、星野富弘的、相田みつを的なものをみると反射的に気持ち悪いと思ってしまうのですが、きのうはなぜ気持ち悪いと思うのか自己分析できてなかった。今日の日記で、そのへんをちょっと補完してニュートラルに戻したつもりなんですがどうでしょ。
5月17日(月)

 高額納税者番付(しかしこのurlのディレクトリ名は単刀直入というかなんというか)が発表されたけれど、作家部門では鈴木光司がいきなり3位に踊り出たのが目立つくらいで、あとは西村京太郎に赤川次郎という変わり映えのしないメンバー。でも、ひとりだけ知らない名前があるのを見つけて驚いた。
 14位、星野富弘
 誰なんだそれは。
 重度の活字中毒者である私は、たいがいの作家なら名前くらいは知っている(読んでいなくても)と自負しているのだが、この名前ばかりは聞いたことがなかった。しかも、椎名誠(こんなに儲けていたのか椎名誠は)や斎藤栄、田中芳樹よりも上ではないか。妻に訊いてみたがまったく聞いたことがないという。
 いったい誰なんだ、星野富弘。
 疑問に思って検索してみると、出るわ出るわ。
 どうやら、けっこう有名な人らしい。事故で半身不随になったが筆を口にくわえて絵や文を書いているという人物だそうな。詩画集なるものをけっこう出しているらしいぞ。相田みつをみたいなものか。
 どうにも気味が悪いのは、星野富弘について語っているページの筆致がどこも妙に熱っぽいこと。「ふと、『生きるって何だろう?』、『幸福って何だろう?』と思っていました」とか、「平凡な日常が特別な一日を作る。その日常を支えてくれている人たちへの感謝の気持ちを忘れていた」とか、そういう文章がそこかしこに出てくる。
 なるほど、つまりこの人はある種の教祖なわけだ。小さな村にあるこの人の個人美術館には年間30万人が訪れるそうだけど、これは聖地巡礼ですね。縁なき衆生である私はとても行く気にはなれない。伊豆にある岩崎一彰美術館なら行ってみたいんだけど。
 彼の詩が載っているページがあったので読んでみたが、私の目から見ると、どうしようもなく凡庸な詩ばかりである。どうやら、最近では、詩に求められるのは鋭い感性のひらめきではなく、誰にでも理解できる凡庸さであるらしい。
 たぶん、「信者」たちにそう言ったとしたら、「平凡なことを平凡に書けることこそが素晴らしいのです」とかなんとかいうんだろうなあ。はいはい、勝手にやってください。
 平凡を愛する人は、平凡な詩を読み平凡な小説を読んで平凡な歌を聴き平凡な人と出会って平凡な人生を生きてくださいな。

 しかし、平凡を売り物にしているこの人としては、高額納税者番付に載るのは、イメージ的にマイナスなのではないのかな。
5月16日()

 このところ体調最悪。体がだるくて頭痛がする上、12時間眠っても全然疲れがとれない。大丈夫か、私の体。

 そんなに体調が悪いのに、千石の三百人劇場へマキノ雅弘監督の『鴛鴦歌合戦』を観に行く。カルト映画として名前だけはよく耳にするので、以前から一度観たかった映画である。
 カルト映画だというので『黒蜥蜴』とか『恐怖奇形人間』とかそういうバカ映画かと思っていたのだが(思うなよ)、どうしてどうして、正統的で楽しい映画ではないか。
 昭和14年の作品なのだが、これが日本映画初の時代劇ミュージカル映画なのだそうな。町娘が、殿様が、傘張り浪人が登場するたびに突然歌い始める! というきわめて脳天気で楽しい映画である。志村喬の歌う「こーれこれこれこの茶碗」とかディック・ミネの「ぼくはおしゃれな殿様ー」とか、今も耳に残ってるぞ。物語も、片岡千恵蔵が三人の娘から惚れられるが結局純愛をつらぬくというきわめてシンプルでわかりやすいもの。やっぱりミュージカルはこうでないとね。
 主演の片岡千恵蔵はほとんど活躍しない上あんまり歌わないのだが、「ちぇ」とすねるヒロインがかわいいのでまあいいか。
 古い日本映画もなかなか捨てたものではないのう。
 ただ、フィルムの損傷が激しく、女優陣の顔の見分けもつかない上、声もつぶれていて聴き取りにくいのが残念。
5月15日()

 以前、新潟県の柏崎の病院に勤めていたときのことだ。その頃は週に1回、長岡の病院で外来診療をすることになっていた。
 この病院、昼休みが長いので食事をしたあとにけっこう時間が余る。となると行く場所は決まっている。近くにある古本屋と書店である。
 書店は小さいのだが、そのわりにポケミスが充実していて、ほとんどひとつの棚全部がポケミスで埋まっている。しかし、その棚を見た途端、私はミスター・スポックのごとく左眉を上げた。順番がバラバラなのである。番号順でもなければ作者順でもない。ただ適当に突っ込んだとしか思えない。
 これはもう並べ替えるしかしかあるまい。私の血が騒いだ。
 実は私は、バラバラな本棚を見ると、きちんと並べ替えずにはいられない性癖の持ち主なのである。
 私は店員の目を盗み盗み、ポケミスのソートを始めた。
 本を選んでいるふりをして、ポケミスを並べ替える。クイックソートかヒープソートでもやろうかと思ったが、どうもあのアルゴリズムは人間向きではないので、番号の若いものを探しては前の方に移動させて大きい番号の本と入れかえるというごく単純なソートを行うことにした。店員が見に来ると何気なく棚の前を離れる。店の人には、かなり不審な客だと思われただろうなあ。
 800番程度までソートを終えたところで、昼休みが終わりそうになったので、後ろ髪を引かれる思いで私はその店を出た。来週も必ずここに来ると心に誓いながら。
 そして次の週。早めに昼食を終えた私は勢い込んでその書店に向かった。その日も最後までは終わらず、ソートが終了したのは3週目のことだった。私は3週間かけて、完全なポケミスのソートを終えたのである。何かをやりとげた充実感を覚えながら、私は意気揚揚と午後の診療へと向かったのであった。
 しかし、それから2週間後。
 棚のいちばん上には創元推理文庫が侵入していて、そこにあった100番台のポケミスは棚の下の方に移動していた。しかも、入荷したポケミスの新刊はいちばん上の棚に適当に突っ込まれている。
 負けた。
 ふと「熱死」という単語が思い浮かんだ。何に負けたのかは定かではないが、たぶんエントロピーとかそういうものだったのかもしれない。
 私はため息をつき、その棚の前を離れたのであった。
5月14日(金)

 髪を切りに行ったのである。
 その日はとても暑い日で、椅子に座りポンチョのようなものを着せられると、じわじわと汗が出て来た。
 少し髪を切ると、もう額に汗がにじんでいるらしく、美容師さんがタオルで拭いてくれた。
「汗かいてますね」
「今日は暑いですから」と私は答えた。
 しかし、しばらくして髪を洗ってもらう段になると、またも体内から汗が噴き出してくる。洗髪のときのポンチョはビニール製で通気性が悪く、ものすごく暑いのだ。
「あれー、また汗が出てきましたねー、暑いですかぁ。冷房入ってるんですけどねえ」
 そう言って彼は無邪気に首をひねった。
「うるせえ、悪かったな。私は汗っかきなんだよ。太ってるからな!」
 そう叫びたいのをこらえて、私は静かにこう答えた。
「今日は暑いですからね」
 痩せよう。
 私はそのときそう思った。

 『スタートレック/叛乱』を観る。
 引き締まった肉体を見せつけて歌い踊る艦長、それに比べてすっかり色ボケオヤジと化したライカー(いきなりのディアナとの入浴シーンにはどうしようかと思ったよ)、太るアンドロイド(「子供は成長できていいなあ。私の仕様は造られたときからずっと変わらないんだ」という台詞には、観客の8割が「嘘つけ!」とツッコミを入れたに違いない)、ようやく素顔で登場のジョーディ、といったおなじみのメンバーが見られるだけで充分満足。
 ストーリー? まあ、そんなものはいいじゃないですか。
 プログラムは確かに異常に充実しているが、なんでまたこんなに大きいのか。普通のサイズで充分では。

 交通会館地下の古本市にて角川文庫のハーバート・リーバーマン『水玉模様の夏』、ケイニーグ&ディクソン『子供たちの時間』購入。計300円。
5月13日(木)

 倉坂鬼一郎『活字狂想曲』を読んでいたら、『会社逃亡』という本の著者である鶴井通眞という人物が紹介されていた。一流大学の理学部数学科を卒業後職を転々とするがどれもうまくいかず、「文筆を志す」と宣言して売れるあてのない小説を書くのだが、この小説のタイトルが「水に棲む猫」。
 おおっ、そのタイトルは聞き覚えがあるぞ。著者は確か天沼春樹。もしかしたらこの鶴井というのは、天沼春樹の本名か? 一瞬色めき立ったのだが、よく考えてみれば天沼春樹はドイツ文学専攻だったはず。理学部出身のこの人とは別人だろう。単に同じタイトルの小説を書いただけだったのだな。なーんだ。

 上遠野浩平『夜明けのブギーポップ』(電撃文庫)読了。信じがたい多作ながら、高い水準で安定しているのには驚き(でもいいかげんそろそろ人名辞典がほしいよなあ。あと年表も)。統和機構の正体も徐々に明らかになってきていてSF読みとしてはうれしいのだが、これで逆に神秘性が薄れてきた気もする。このへんのさじ加減は難しいところ。
 しかし、今回の怪人たちはいい奴ばっかりである。怪人がこんなのばっかりでは統和機構は絶対勝てないのでは。
 さて本作には女性精神科医が登場するのだが、彼女の仕事が「内科、外科の一般病棟の入院患者の慰め役」ってのは別におかしいことではない。「慰め役」と言い切られてしまうとちょっと私としては鼻白む思いにもなるが、精神科医が宅配ピザ屋のごとく呼び出しに応じていろんな一般病棟を回るこういうシステムは、リエゾン精神医学といって今注目されてる分野なのですね。
5月12日(水)

 ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『星ぼしの荒野から』(ハヤカワ文庫SF)読了。まあ、すでに出揃っている多くの感想につけくわえるべきことはあまりないのだけど……。
 ちょっとフェミニズム色が強いのが鼻につかないでもないが、この本全体に満ちた人類への透徹した視線と、星々への憧れ(というか望郷の念というか)の前には圧倒されてしまう。10篇の短篇が収められているが、すべて同じ話の変奏曲のようにも思える。キーワードを抜き出してみるなら、星ぼしへの憧れ、女、アウトサイダー、狂気、故郷、愛、といったところだろうか。
 ここからはごく私的な感想。「おお、わが姉妹よ、光満つるその顔よ!」や「たおやかな狂える手で」で、主人公の狂気は実は現実であったことが明らかになるわけだが、そこはティプトリー、狂気のような思いはいつか成就するなどといった甘ったるい幻想を信じていたわけではあるまい。狂気は、あくまで狂気でしかない。でも、狂気という形で彼女たちが何かを渇望していたこと、それだけは確かな真実だろう。
 私は、この短篇集を読んでいて、以前治療した患者さんたちを思い出した。屋根の上に登ってUFOに助けを求めていた女性。誰にも迷惑をかけずに一人だけで生きていきたいと主張していた男性。彼らはもしかしたら、日本のティプトリーだったのかもしれない。私は薬を使って彼らを「治した」けど、それは彼らの絶望的な情熱を矯める行為でもあったろう。もちろん私は治療行為そのものを疑ってはいない。彼らの情熱は、彼ら自身を蝕んでいたし、彼らの周囲の人々に多大な苦痛を強いていた。少なくとも彼らの情熱を狂気の暴風としてやりすごすのではなく、もっと真正面から受けとめるべきだったと思う。それが狂気に陥ることでしかこの世界への異議を訴えられなかった彼らに対する礼儀だろう。

 しかし、ティプトリーの紹介ペースはなんでこんなに遅いのか。長篇など一作も訳されていないではないか。まあ理由はわからないでもないが、待ってる人も多いだろうからなんとかしてもらえないものか。

 この本読んでたら無性にSF短篇集が読みたくなったので、今月は短篇集読破(or再読)月間に決定(そして新刊はどんどん部屋に積まれていくのだ)。
5月11日(火)

 病院から帰ると、SFマガジン編集長から電話があったと妻がいう。これは当然、きのうメールで送った書評の原稿の件だろうなあ。書き直しを求められるんだろうか。ううむ。戦々恐々として編集部に電話をかけてみたら、細かいところの修正だけだったので一安心。やれやれ。

 さて『グッドラック』の書評を書く前にと読んでおいた神林長平『戦闘妖精・雪風』(ハヤカワ文庫JA)の感想などを。
 こういうことをいうと呆れられるかもしれないが、やっぱり文体がどうもなあ。メカ描写が魅力だということはわかっているのだけれど、延々とそれを書かれてもどうもイメージがつかみにくくて読み進むのに苦労してしまった。後半になって、ジャムと人間と機械という三者の緊張関係が見えてきてからはぐんぐんおもしろくなってくるのだけれど。
 たったひとこと、それも本筋とはあまり関係ないところに書かれているだけだが、人間はアナログ的存在だが、コンピュータも、この文明も、言葉もデジタルであり、人間の本質と相容れない(大意)、という一節が心に残る。このたったひとことで、この小説全体が、人間と言語をめぐる物語として読みかえられてしまう、という大仕掛け。後に書かれる『言壷』の萌芽はこんなところにもあったのだな。

 『グッドラック』の感想の方は、25日に出るSFマガジン7月号に載るのでそっちを見てください。そのうちこのページにも載せる予定ですが。

過去の日記

99年5月上旬 SFセミナー、ヘンリー・ダーガー、そして「てへ」の巻
99年4月下旬 病跡学会、お茶大SF研パーティ、そしてさよなら日記猿人の巻
99年4月中旬 こっくりさん、高い音低い音、そしてセバスチャンの巻
99年4月上旬 日記猿人、生首、そして「治療」は「正義」かの巻
99年3月下旬 メールを打つ、『街』、そしてだんご3兄弟の巻
99年3月中旬 言語新作、DASACON、そしてピルクスの巻
99年3月上旬 サマータイム、お茶の会、そしてバニーナイツの巻
99年2月下旬 バイアグラ、巨人症、そしてドッペルゲンガーの巻
99年2月中旬 クリストファー・エリクソン、インフルエンザ、そしてミロクザルの巻
99年2月上旬 犬神憑き、高知、そして睾丸有柄移植の巻
99年1月下旬 30歳、寺田寅彦、そしてスピッツの巻
99年1月中旬 アニラセタム、成人、そしてソファの巻
99年1月上旬 鍾乳洞、伝言ダイヤル、そして向精神薬の巻

97-98年の日記

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