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5月31日(月)
きのうの「羊はミユキ」の歌については早速掲示板やメールでいくつもの情報を頂きました。私は全然知らなかったのだが、どうやらこれは全国的に流れていた歌のようで、「御幸毛織」という会社のCMソング。日本テレビ系で日曜朝に放映されていた「ミユキ野球教室」のオープニングで流れていたものらしい。野球にはまったく興味のない妻はあくまで日曜朝のアニメの後の番組で流れていた曲、と認識していたようだが。ミユキ、ミユキ、服地はミユキというのが正しい歌詞のようだ。御幸毛織は今もまだある会社で、どうやらオーダー用の素材としての名声を欲しいままにしてきたメーカーらしい(できれば「欲しいまま」は「恣」と書いてほしかったな)。しかしなぜ紳士服地メーカーが子供向けの野球番組のスポンサーになっていたのかは謎。
紳士だったら知っている
服地はミユキと知っている
ミユキ(ミユキテックス)、ミユキ(ファンシーテックス)
ミユキ、ミユキ、服地はミユキ
ご指摘して下さったみなさん、どうもありがとうございました。
歴史シミュレーションの話の続き。これもKくんとの会話で出た話である。
私もときには歴史小説を読んだりすることもあるんだけど、面白い歴史小説ってのは、教科書的な歴史に意外な側面から光をあてて、まったく別の姿を見せてくれるものだ。あるいは、史実の合間を縫って壮大な虚構をつむぐ、というパターンもありますね。
いわゆる教科書に載っているような歴史ってのは、つまりは勝者の物語なわけですよね。よくできた歴史小説は、歴史というものが決して単線的な物語ではなく、無限の見方がある重層的な物語であることを教えてくれるわけです。
たとえば隆慶一郎は、新しい歴史学の成果を取り入れて非定住民にスポットをあてたから新しかったわけだけど、そのほかにも、例えば信長をその息子の視点から描いてみるとか、今までの秀吉のイメージをまったく覆してみるとか、あるいはあまり知られていない人物を発掘して主人公にしてみるとか、そういうセンス・オブ・ワンダーが、私の考える歴史小説の醍醐味なんだよなあ。だから、私にとっての歴史小説の最高傑作は、山田風太郎の『妖説太閤記』なのである(これはSF読みのかなり偏った歴史小説の読み方かもしれないけど)。
しかし、歴史シミュレーションってのは、結局は権力者の物語を、別の権力者の物語に置き換えているだけで、私のような読者からすれば、そこには驚きや新しさはまったくないような気がするんですよねえ。やっぱり私には歴史シミュレーションは向いていないようだ。
あちこちで話題の『ラブタンバリン』だけど、ラウルス人ってのは雌雄同体な生物なわけですよね。するってえと、地球上の生物でいえばミミズとかナメクジ……。
明日は当直。
5月30日(日)
いい天気なので、妻と一緒に駒込の旧古河庭園に行ってみる。ここはもとは陸奥宗光の邸宅で、鹿鳴館を作ったことで有名なジョサイア・コンドル設計の洋館と洋風の薔薇園があるのだが、洋風庭園の先に広がっているのはなぜか日本庭園。明治の日本を象徴するかのような、なんともミスマッチで奇妙な空間である。
ちょうど今は薔薇の見頃で、大勢のお客さんが訪れてました。
さて以前から、ミユキ、ミユキ、羊はミユキという歌を妻がよく歌っているのである。子供のころ、日曜朝のアニメのあとに必ず流れていたCMソングというのだが、私は全然聴いたことがない。山口ローカルのCMか何かかと思っていたのだが、きのうの深夜の番組を見ていたら、なんと爆笑問題の太田光が同じ歌を歌っているではないか。
ミユキだったら知っている
羊はミユキと知っている
ミユキ、ミユキ、ミユキ、ミユキ、羊はミユキ
しかしよく聴くと、妻の歌とは歌詞がところどころ違っている。「羊はミユキ」ではなく「服地はミユキ」。それに「ミユキだったら知っている」ではなく「紳士だったら知っている」。なるほど、妻の歌では全然意味がわからなくて悩んでいたのだが、これなら意味が通るぞ。服地の会社のCMソングだったらしい。羊の宣伝ではなかったのだな。
しかし、爆笑問題の太田は埼玉出身。どうやら山口ローカルではなかったようなのだが、どうしたわけか私は全然記憶にない。みなさん、知ってますか、この歌?
長山靖生『妄想のエキス』(洋泉社)読了。予言、超古代史、インターネット、やおい、怪獣などさまざまな題材を縦横に論じていて読み応えがあるのだけれど、あちこちの雑誌に書かれた文章を集めてきた本のようで、文体もばらばらだし全体の統一感がない。特に「妄想家たちの履歴書」と題して明治大正昭和の奇人たちの小伝を延々と並べた第2部はかなり唐突な印象を受ける。あえて「妄想」というテーマでくくる必然性が感じられないし、列伝にするならひとりひとりをもうちょっと詳しく描いてほしかった。知られざる奇人たちも多く紹介されているだけに残念。
笑えたのは、この著者にしては珍しく自分の過去の想い出を書いている部分。学生時代、「新撰組」ものの同人誌を作っていた彼女につきあってコミケに行き、自分の同人誌を売るのに忙しい彼女のかわりに人気売り場に並んで「ああ、こんなことならまじめにSF大会のスタッフ会議に出席するんだった」と呟きつつ、中村主水と飾り職人の秀がどうのこうの、という同人誌を買った、のだそうだ(笑)。その後「私が彼女と別れたことはいうまでもない」んだそうだけど、いうまでもないかなあ、そんなに。私なら彼女がやおい趣味だというだけでは別れないけどなあ。
5月29日(土)
今日は空想小説ワークショップのSくんの結婚披露パーティ。おめでとうございます。ワークショップ講師の森下一仁先生に浅暮三文ご夫妻、現在休止中の海外SFに親しむ会に来ていた溝口くん、OKKOさん、阿部敏子さんにも、久しぶり(といってもSFセミナー以来)に会う。
OKKOさんは、この日記のエロゲーの話を読んで「風野さんがエロゲーをやってるなんて!」と驚いたそうだ。私はエロゲーなんてやりそうにない、というイメージだったらしい。しまった、私の美しい(笑)イメージを壊してしまったか。そのあとよせばいいのに、パーティの前に『こみっくパーティ』を買いに行った話をしたら、さらに驚かれてしまい、そんな話ししなきゃよかったとちょっと後悔。
二次会はカラオケで、三次会は飲み屋になだれ込む。ここでは、ワークショップの友人で、今は若桜木虔の講座に通いながら歴史シミュレーション小説でデビューを目指しているKくんと話す。そういえばこのKくん、以前、私がNiftyでの顛末も含めて若桜木虔の評判を教えてあげたら、たいそうショックを受けていたんだよなあ。
今日もまた、架空戦記とか歴史シミュレーションとかいう分野について話をする。といっても、私としてはこの分野の小説はどこがおもしろいのかさっぱりわからないので、彼と話すには不適任だったかも。たとえば太平洋戦争で日本が勝ちました、とか信長が生きのびて大陸に進出しました、とかそういう話を書かれても、それだけでは全然おもしろいとは思えない。私としては、戦局がどのように変化したよりも、歴史が変わった結果、変容してしまった世界の風景に興味があるのだ。
歴史シミュレーションでも、たとえばごく小さなできごと、田舎のひとりの農民が本来より早めに死んだとか、そういうことがきっかけになって少しずつ歴史の流れがずれていき、100年後にはまったく違う世界になっているとか、そういう話があれば読んでみたいと思うんだけど。バタフライ効果ですね。でもこれはどう考えても歴史シミュレーションではなくSFだな。結局私は歴史シミュレーションではなく、改変世界SFが読みたいんだろうなあ(『精霊がいっぱい』以外のタートルダヴの歴史改変SFもはやく訳してくれよ)。
Kくんによれば、彼が書こうとしているのは戦国ものではあるのだけれど、今までのシミュレーション小説ではあまり扱われていない戦国時代初期を扱っていて、そこが新しいのだという。しかし、それが新しいとわかるのはごく一部の歴史シミュレーションならなんでも買うというような読者だけで、私なぞにはどこが新しいのかさっぱりわからない。そういう些細な違いを重視する方向へ進化を続けるのであれば、結局はSFや新本格と同じで、袋小路に向かうしかないんじゃないかなあ。
そういうことを話したら、Kくんは実に複雑そうな表情を浮かべていた。まあ、非読者の戯れ言など、あんまり気にする必要はないから、がんばって作品を書いて下さい>Kくん。
物集高音『血食 系図屋奔走セリ』(講談社ノベルス)読了。家紋や苗字から事件のヒントを得る系図探偵というアイディアはユニーク。筆力は充分にある作者のようで、昭和初期の雰囲気作りは徹底しているし、おそろしい量の薀蓄もそれほど嫌味にはなっていない。そうした部分は充分楽しめるのだが、ミステリーとしてはただなんとなく事件が起こりなんとなく終わってしまったようで今一つ。読み終わって1週間もすれば、昭和初期のイメージは覚えていても、どんな事件だったのか忘れてそうな本である。最後の最後になって日記でも以前取り上げたことのある精神医学史にまつわる某事件が登場してきたのには驚いた。しかもネタ本も同じなようで、日記での引用と文章までほとんど同じ。「ちっ、オレのネタだったのに!」ってところですかな。
ところで物集(もずめ)といえば、「踊る影絵」や「殺人流線型」を書いた昭和初期の女流推理作家、大倉Y子(明治23年生まれ)の本名が物集芳子で、その父親が国文学者物集高見、兄もやはり国文学者で物集高量というのだが、なにか関係あるのだろうか(作中では「きっとそれは『廣文庫』の物集高見博士でしょ。帝大教授の。ですが、当方とはなんの関係もありません」と否定されているが)。
5月28日(金)
えー、谷田貝さんまで興味を惹かれているらしい後藤羽矢子『ラブタンバリン』(フランス書院コミック文庫)ですが。
もとはといえば、みらい子さんのやっぱ究極の形はヴァーリィーの世界よね〜。身体改造でも何でもして好きな人を犯ってみたい! などとゆっていたらこんな漫画が出ちゃいました。という発言なのだけど、この発言から、「洋服を着替えるように肉体を変える(事ができる)世界」とか「男女が性転換して×××……と言った話らしい」などと伝言ゲーム的に妄想が広がっている(笑)。まあ、本ってのは読む前に期待しつつ内容を妄想しているあいだがいちばん楽しいわけで、それぞれの俺ラブタンバリンを踏みにじるようなことはしたくないのだけれど、単に「男女が性転換する話」というだけでは、『ラブタンバリン』がいかにSFなのか伝えきれていない! というわけで、これは、読んだ私が解説するしかあるまい。
後藤羽矢子『ラブ タンバリン』(フランス書院コミック文庫)
SF者必読! 設定もちゃんとしてて、まじすげーぜ! ぜひ「メール オン メール」の話をやってくだせ〜!(『パピポ』じゃ無理か)
女だけが棲む惑星ラウルス。この星の住人はふだんは女性の姿をしているが、一定のサイクルで男になる日「メールデイ」がめぐってくる。だから、同じカップルでも女女、男女、女男、男男という4通りの組み合わせが楽しめる(?)わけ(男男になる場合はごくまれ。これがみらい子さんが書いていた「メール・オン・メール」)。しかし、当然ながら、子孫を残せるのは男と女のパターンのときだけなので、ひとりのパートナーとの結婚は一般的ではなく、妊娠の機会を増やすため、気まぐれにさまざまな相手と関係を持つのが当たり前になっている。
で、主人公は、母親により地球的な倫理観で育てられた少女ベス。彼女はラウルスの価値観になじめず、ひとりの相手との結婚を望む。しかし、それはこの惑星ではきわめて不自然な行為なのであった……。
とまあ、こういう話。ただし、この説明には私のSF眼によるバイアスがかなりかかっているのであしからず。実際は当然ながらエロエロな場面の多い話です(絵柄のせいか私にはあんまりエロっぽく感じられないのだけど)。
表紙がかっこいい『全国古本屋地図2000年版』(日本古書通信社)と、リチャード・モラン『氷河期を乗りきれ』(扶桑社ミステリー)を買う。これってSFかなあ。
5月27日(木)
きのう触れた「ボランティア躁病」は、神戸の複数の病院の先生方が学会で報告しているもの。「災害躁病」という報告で、保坂卓昭はこんな事例を紹介している。
震災の惨状をテレビで見て、北関東から神戸に駆けつけた29歳のA氏、泊まり込みでボランティアをしていたが、トラブルを起こして一旦は家に帰る。しかし震災16日目に再度神戸を訪れるが、またも暴行事件を起こし、翌日には川に飛び降りる行為を繰り返し、とうとう入院になってしまった。入院後も攻撃的で暴力があったけれど、治療によって鎮静化、入院20日目には退院して帰省することができた。しかし退院して16日後、またも軽躁状態で神戸を訪れ、5日間入院。
テレビの中の廃墟の風景を見て、不謹慎にもわくわくしてしまう気分はわからないでもないが、なんともはた迷惑でお気楽としかいいようがない。
さらに被災者の中にも躁状態になる例が多く、神戸大学精神科では、震災の影響を受けた入院事例では、精神分裂病よりも躁うつ病の躁転が多かったそうだ。兵庫医科大学でも、躁うつ病の通院患者53名のうち、震災後1ヶ月の間に12名が躁状態になったが、前年の同時期では3名にすぎなかったという。こちらは、震災のショックからの防衛機制という要素が強いようだ。
性格的には、「ボランティア型」は共感性、正義感が強く熱中巻き込まれ型(きのうのマニー型に近いかな)、「被災者型」は几帳面、まじめな性格が特徴的だったそうな。
「同一のゲームソフトであっても、プレイヤーの操作によって画面上に現れる映像は変化するため、著作者が一連の連続した映像を選択・配列して一定の思想や感情を表現する劇場用映画とは質的に異なる」
と裁判長。中古ゲーム販売が認められたのはいいのだが、その理由がこれじゃあ素直には喜べんなあ。ゲームを映画と比べたら、そりゃ違うのは当然でしょ。なんでも著作権法上、著作権者に譲渡などをコントロールできる権利(頒布権)があるのは映画だけ、ということになっているかららしいのだが、そもそもこの法律がおかしいよなあ。やっぱり著作権法を改正するしか。
みらい子さんが掲示板で推薦して、のださんが血眼で捜している(笑)後藤羽矢子『ラブ・タンバリン』(フランス書院コミック文庫)をあっさり入手。うむ、これは確かにSFだなあ。教えてくれたみらい子さんに感謝。しかし、男性読者としてはいったい誰に感情移入すればいいのか戸惑ってしまうので、実用にはしにくいですな。あさりよしとお『ただいま寄生中』(白泉社)、それに、ついに単行本未収録領域に突入した諸星大二郎『西遊妖猿伝』第10巻(潮出版社)も購入。
サラ・ゼッテル『大いなる復活のとき』(ハヤカワ文庫SF)と別役実『もののけづくし』(ハヤカワ文庫NF)も。
5月26日(水)
きのうはうつ病の薬の話だったので、今日はうつとは裏表をなす躁の話でも。
とはいっても、躁病については研究があんまりないんだよなあ。だいたい、躁ってのは見かけが楽しそうであんまり深刻そうには見えないせいか、不当に軽視されていて、実際分裂病やうつ病の研究は山ほどあるのだけれど、躁病に焦点をあてた研究ってのはけっこう少ない。うつ病がメインで、躁には申し訳程度に触れただけの論文なら掃いて捨てるほどあるんだけど。だから、代表的な論文を20本も読めば、躁病に関しては全貌が見渡せてしまうといってもいいくらいだ。
まあ、実際純粋な躁病というのは少なくて、双極性の躁うつ病の10分の1か5分の1しかないようなんだけど(いちばん多いのは単極性のうつ病で、アメリカ人の15%が一生のうちに一度はかかるという)。
そういう事情のせいか、DSM-IVでは、「単極性うつ病以外はすべて双極性」という定義が採用されているので、単極性の躁病は「双極I型」という分類に入ることになっている。なんだか理不尽だよなあ。
陽気でとにかくしゃべりまくっているのだけれど、内容は支離滅裂でよくわからない。笑っていたかと思ったら急に怒り出したりする。そんなおばさんが、心配そうな家族に連れてこられたとすれば、だいたい「これは躁状態だな」と診断することになる。たいがい、こういう人は自分は絶好調で入院なんか必要ないと思っているので、入院させて薬を飲ませるのはけっこうたいへんである。
分裂病の幻覚妄想状態も、躁状態も、興奮してよくわからないことをしゃべっている点は同じで、確かに見分けがつきにくいこともあるのだけれど、やっぱり違いはなんとなくわかることが多いですね。冷たく非人間的な印象のある分裂病患者に比べ、躁状態の人の方が「人間的」なのだ。ひとことでいえば「プレコックス感がない」ってことになるかな。
そして、軽快したあとも、躁状態の人はなんだか人当たりがよくて人を惹きつける魅力のあるタイプが多い。外来でも、気楽に肩の力を抜いて話せるような患者さんが多いのですね。
こういう性格を、うつ病の研究で有名なテレンバッハはマニー型と名づけている。森山公夫は「両極的見地による躁うつ病の人間学的類型学」という論文の中で、こんなふうに描写してますね。負けん気が強く、強気で、鼻っ柱の強さの陰に小心さがかくされており、積極的・活動的である。物事に熱中しやすく、一度やり始めるととことんまでやらないと気がすまない。常識的である反面、理想を追い求め、正義感が強く、潔癖で非常に気をつかい、几帳面である。いい人じゃないですか。親しみやすい性格、といってもいいんじゃないかなあ。
しかし、岡本透は、「躁病ゲームについて」という論文の中で、躁病者は相手のゲーム、周囲のゲームに対して「立法者」ないし「法の番人」としてふるまう傾向があるといえよう。躁病者は、「私がルールブックだ」とかつて宣言したあの高名なアンパイアにどこか似ている。と、書いている(どうでもいいが、全然論理的じゃないですな、この論文)し、藤縄昭は森山論文を受けて、「几帳面」「活発で精力的」「自己中心的な攻撃性」「秩序との同一視についての疑惑、あるいは両価性」とマニー型の特徴をまとめている。こうなると、あんまりいい人っぽくないですな。最後のはちょっと解説が必要かな。仕事熱心で几帳面なんのだけれど、実は組織に対しては反抗的とか、そういう性格ということらしい。こういう人が、「秩序」の担い手になったときに躁状態になることが多い、ということのようだ。
このように、躁病は、マニー型の人に何かの負荷がかかったときに発病する、という例が多いのですね。うつ病では「昇進うつ病」とか「引っ越しうつ病」というパターンが知られているが、これが躁だと(名前は悪いが)「葬式躁病」とか「水害躁病」、阪神大震災のときには「ボランティア躁病」(!)なんてのも報告されてたりしますね。この辺の例もなかなか興味深いのだけれど、それはまた次の機会に。
5月25日(火)
今日は日本で初めて発売になるSSRI、デプロメールの発売日。
何しろ初めて発売されるタイプの薬だけに、精神科医である私にも使い勝手が全然わからない。そこで、発売元である明治製菓(どういうわけかお菓子の明治は薬も作っているのである。日立造船が杜仲茶を作ってるようなもんですな。違うか)が主催する講演会があるので行ってみることにしました。以下はその講演会で聞いた話。
抗うつ剤といえばアメリカじゃ10年も前からSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害剤)が常識になっているけれど、日本ではどうしたわけか認可が遅れていて、ようやく今日初めて認可が降りたのが、この薬。SSRIといってもピンと来ない人でも、プロザックといえば聞いたことのある人も多いんじゃないかな。プロザック(一般名フルオキセチン)はアメリカでは一大ブームを巻き起こした抗うつ剤。デプロメール(一般名フルボキサミン)も同じ系統の薬である。
SSRIといえば、夢の薬とかハッピードラッグとか言われててドラッグマニアのあいだでは有名らしいのだけど、実際のところ、SSRIが以前の抗うつ剤(三環系とか四環系とか)よりよく効くのかといえば別にそんなことはない。一部で言われているような劇的な効果なんてものはないし、夢の薬でもなんでもない。単なる抗うつ剤である。効き目は今までの薬とあんまり変わらないし、一般人が飲んでも別に性格が変わるなんてことはない。期待してる人はがっかりするかもしれないが。
じゃあ以前の薬とは何が違うかといえば、副作用が少ないのですね。今までの抗うつ剤というのは、セロトニン系のほかノルアドレナリン系とかドパミン系のニューロンにも作用するので、便秘やら頭痛やら眩暈やらという副作用が多くて、それがつらくて薬をやめたりかえってうつになったりという人も少なくなかったのだけれど、SSRIはセロトニン系以外にはほとんど作用しないので副作用が少ない。
それに、薬を処方する立場の我々にとって何よりありがたいのは、自殺の危険性が少なくなったこと。万が一この薬を大量に服用してしまっても死に至ることはまずない。安心して処方できるのだ。
アメリカではあまりにプロザックがブームになりすぎたおかげで、プロザックは自殺を誘発する、なんていう反プロザックキャンペーンが張られたこともあるらしいけど、それも今では関連性は否定されているらしい。
SSRIは「夢の薬」でもなんでもない。単に、副作用が少なくなって使いやすくなった、ごく普通の抗うつ剤なのだ。
まあ、つまりはそういうことなんだけど、「SSRIの驚異的な効果」なんてものを信じ込んだ患者さんに、過剰な期待をこめて「SSRIを出してほしい」とか言われたら困るなあ。それに、変な評判のある薬だけに、転売される可能性も考えなくちゃいけないし。
しばらくは、「SSRIを出してくれ」と言ってくる患者さんにはちょっと身構えてしまうことになりそう。
SFマガジン7月号届く。畏れ多くも神林長平のレビューを巽孝之の下で書いてしまっている私である。なんだか気負った文章で恥ずかしいなあ。ちなみに、SFセミナー'99レポートのページの写真に妻が映ってます。そう、実は妻は篠田節子だったのです、ということではもちろんなくて、タイトル脇の写真でいちばん後ろに立っている女性が私の妻。でも顔も何もわからんなあ、この写真では。
5月24日(月)
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『愛はさだめ、さだめは死』(ハヤカワ文庫SF)再読。なんだか思いつめたようで読んでいて苦しかった『星ぼしの荒野から』と比べると、はるかにのびのびと書かれていて、バラエティにも富んでいる。まるでSFの可能性を楽しんでいるかのような作品集である。それにしても、ティプトリーには、伏線も何もないまま、きわめて唐突に宇宙人が登場する作品が多い。ティプトリーにとって、宇宙人というのは「救い」か「奇蹟」の別の名前だったのだろうか。
「接続された女」は何度目かの再読だけれど、やはり傑作。
北村薫『謎物語』(中公文庫)も読了。オール二色刷り、メゾチント入りという体裁に、いったいどんなエッセイなのかと身構えたが、そこは北村薫、全編にわたりミステリとトリックを語っているという、純然たるミステリ・エッセイであった。この人は、自分が読んだおもしろい作品を、「ねえねえ、これすごいよ」と紹介したくて仕方がないのだろうなあ。
とはいっても、ただミステリを紹介するだけではなく、一見したところミステリとは全然関係のない落語やエッセイなどからもトリックを発見していく。これが絶妙で、なるほどこういう読み方もあるのか、と膝を打つことしきり。さすがは名アンソロジスト。著者自身書いているとおり「作品について語ることは自己について語ること」なのである。
横浜のマージャン店火災事件のニュースを見ていた妻がふとつぶやいた。
「クロスファイア?」
5月23日(日)
「ちょっとあの人にはヘキヘキしますよね」
知人にそう言われて戸惑ったことがある。
何だヘキヘキって。
そりゃ「辟易」ではないのか。
そうは思ったもののどうも言い出しにくくて訂正できずにいたのだが、最近たまたまあるウェブページでも、「ヘキヘキ」なる表現を見つけたので驚いた。もちろんそれは知人のページではない。どうやら、彼ひとりの間違いではなかったようだ。
試しに「ヘキヘキ」で検索してみると、なんとInfoNavigatorでは45件、InfoSeekでも23件も見つかった。「へきへき」とひらがなだと両方とも0件。誰もが決まってカタカナ書きをするとは、いったい何語だと思っているのだろう。
ひょっとすると、この間違い、案外広がっているのだろうか。それとも私が知らないだけで俗語か流行語か何かなのだろうか。
「黄色い救急車」や「メールを打つ」のときと同じく、例によって用例を並べる。どれも真面目な文章で、別にふざけている様子はない。俗語を使うような場面ではないのだ。とすると、みんなちゃんとした日本語表現として使っているのだろう。驚くべきことである。そうすると、これもまた「ら抜き言葉」などと同じような、日本語の変化のひとつってことなのか。頭の固いこと、つまり融通の効かないこと、もっとはっきり言えば「先見性皆無で大口叩きの井の中の恥じ知らず」がやたらと出しゃばる熊本のいろんな場面を目のあたりにして、いい加減ヘキヘキしていたところだったので、まさにホッとする出来事であった。
猥褻は文化の根源である。芸術も文芸もまつりごとも、宗教もおよそ猥褻嗜好のないところには生まれはしない。それをことさら、社会の悪弊の如く、忌み嫌う表文化の欺瞞にヘキヘキしている。
いまニュースステーションで福岡の田舎で農家の人が自宅の庭でゴミ焼くのが非常識の様に,取材しているので,ちょっとヘキヘキしてしまいました。
それでも、観光の時期からはずれたせいかあまり物売りはいなかったし、またヘキヘキするほどにはしつこくもなかった。
どこからもってきた,どういう素性の外壁か,ひょっとすると使い回ししている中古の外壁ではないのかと,ヘキヘキします。
一方、ストーカーの黎sirにヘキヘキした張は、ついに警察を辞めて芸能界へと入っていった。しかし、一時の失敗ですべてをふいにし、自殺をしてしまう。
母には兄弟が多かったので、次々に米つきバッタをして回るのだから、子供心に「どうして、このように親しい仲で他人行儀な挨拶をしなければならないのだろうか。」と、ヘキヘキしていた。
webページの性質がwebの出現当時から比べると変質しているかもしれないが,小生は実名主義を貫きたい.パソコン通信の匿名主義にヘキヘキしてきたからこそ,今がある.
まあ、それと同じぐらいApple Japanの腑がいなさにはヘキヘキしているが、、、 Apple Japanなんてないほうがどれぐらい便利になるのかとよく思うことが多いしね。
けれども、ヘブライ語のヤハウェ(ヱホバ)のありのままを詳細に記述して居る「民数紀略」(英訳では、ナンバーズ)や、「申命記」を読むと、普通の日本人は、唯、ヘキヘキするしかない。
私は映画というのは,演技と台詞で展開していくものと思っていますので,あまりの説明の多さにヘキヘキとしてしまいました。
最後にもうひとつ引用。何がダメってヘキヘキの歌くらいダメ(笑)。やっぱりヘキヘキといえばこれだよなあ。「ヘキヘキする」も、「椎名へきるの歌のようにうんざりする」という意味で使っているのなら、それはそれで別にかまわないのだけれど。
5月22日(土)
本日初日の『ブレイド』を観る。
まあ、一般的には単なるアクション映画なんだろうけど、これが私のツボにはぴったりはまった。傑作。SF者なら必見の映画、と言ってしまおう。特にソーニャ・ブルー・シリーズのファンは絶対観るべし。主人公だけを入れかえればあのシリーズになるんじゃないか、と思ってしまうほど世界観がそっくりなのだ。
日本刀によるアクションシーンはハリウッド映画にしては頑張ってる方。香港映画を見なれた目にはどうしても物足りないんだけど。この点ばかりは、似たタイトルの香港映画『ブレード/刀』の方が上ですね(アクションシーンでカットを割りすぎるのはハリウッド映画の悪い癖である)。
それよりも、私が感心したのはこの映画の脚本である。これがけっこうもりだくさんで、吸血鬼の社会構造についても説明されているし、吸血鬼への変化について擬似科学的説明までつけている(ヒロインが新しい対吸血鬼兵器として持ち出すのが、どういうわけかEDTA。そうか、吸血鬼はEDTAに弱かったのか(笑))。さらに、古文書に基づいて暗黒神(その名も)「マグラ」を復活させるといった伝奇ロマン的趣向まで盛りこまれている。終盤には、意外な人物との再会も用意されている。なんなんだ、この充実ぶりは。
書いたのは『クロウ2』や『ダークシティ』の脚本にも名を連ねているデイヴィッド・ゴイヤー。『ダークシティ』もなんか『ビューティフル・ドリーマー』みたいだなあ、と思ったものだが、この作品もノリは完全に日本のアニメである。たぶん、日本アニメやSFが大好きな人なんだろうなあ(この脚本家の次の作品はブライアン・デ・パルマ監督の"Mission to Mars"だとか)。監督のスティーヴン・ノリントンも、日本のコミック、特に永井豪や大友克洋のファンだという。そういや、印象的なオープニングの、血のシャワーが降ってくるクラブのシーンは、まるでデビルマン冒頭のゴーゴークラブみたいだ。
日本アニメが好きな人なら絶対おもしろいと思うよ。
蛇足。日本人サラリーマンの集まるバーの場面で、ステージの上では女子高生のような格好の女の子たちが歌っているのだが、この歌、「ちんちんぶらぶらソーセージ」としか聞こえなかったのだが、どうか(「奇妙な果実」にぴったりなシーンだと思ったのだが、実際にこの映画が「奇妙な果実」に取り上げられたときに紹介されたのは、どうでもいいような和風の部屋の場面だったのは謎としかいいようがない)。
続いて観たのは『恋に落ちたシェイクスピア』。ひとことでいえば「メイキング・オブ・ロミオとジュリエット」とでもいうような映画で、シェイクスピアからの引用が山ほど出てくる。中でもシェイクスピアとヒロインの睦言と「ロミオとジュリエット」の芝居とを交互にカットバックで描くシーンが秀逸。「ロミオとジュリエット」の台詞が頭に入ってたらもっとおもしろかったんだろうなあ。
「ロミオとジュリエット」上演までの経緯とかクリストファー・マーロウの死とかは史実をうまく取り入れているはずで、たぶんもっとこの時代の歴史に詳しければ、山田風太郎の明治もののような、史実の合間を縫って作り上げたスリリングな作品として観ることができたのだろうが、これまたこちらの知識が足りないばかりに充分理解できなかったのが悔しい。
まあ、あまり知識がなくても充分おもしろい映画ではあるのだけれど(シェイクスピアが精神分析を受けるシーンは笑えました)、シェイクスピアに関する知識がある人ならばもっと楽しめるはず。
この映画で私が最も気に入ったキャラクターは、ネズミを飼っている小汚い少年。シェイクスピアからどんな芝居が好きか尋ねられると「やっぱ芝居は血がドバーッと出なきゃね」と答える。女王陛下に『ロミオとジュリエット』の感想を尋ねられれば「ジュリエットが胸を刺して血が出るところがよかった」。おお、ケッテンクラート症候群((C)水玉蛍之丞)患者ではないか。この少年は、どんな芝居を見ても血が出ないと満足できないのだろうな。
飼っているネズミをネコの顔の上にぶらさげて遊んでいるし、シェイクスピアの敵から金をもらい、ヒロインの秘密を敵にチクって窮地に追い込む。イヤなガキである。この少年、シェイクスピアに名前を聞かれてこう答えている。ジョン・ウェブスター。
家に帰って調べてみたら、この人、実在する劇作家のようだ。ここまでひどい奴に描かれるとはいったいどんな劇作家なのか。無性にジョン・ウェブスターの戯曲が読みたくなってきた私である。
5月21日(金)
「トキが七羽に減ってしまったと新聞の片隅に、写りの良くない写真を添えた記事がある」と、さだまさしが歌っていたのはもうあれは17年も前。17年たって、とうとう日本のトキは1羽になってしまった。
今回、中国から贈られたトキが産んだ卵が孵化したそうだけど、あれはいったい何をそんなに喜んでいるのか。掲示板にも書いたとおり、ありゃ中国のトキが日本で孵っただけなのではないのか。日本で中国人同士が結婚して子供を産んだら、そりゃ中国人ではないのか(日本の国籍法は血統主義が基本だったはずだ)。たとえ今後いくら増えても、それは日本のトキではなく、中国のトキが増えているということにはならないか。まあ、同じニッポニア・ニッポンには違いないのだが、それをいったら日本人だって中国人だって同じホモ・サピエンスには違いない。
しかし、トキがこれほどまでに話題になるのは、たまたまニッポニア・ニッポンなぞという学名をつけられてしまったせいではないだろうか。シーボルトがつけたこの学名のおかげでここまで手厚い保護を受けているのだとしたら、他の絶滅危惧種がかわいそうである。
それに、この学名のおかげで日本を代表する鳥のようにいわれているが、トキってのはホントにそんなに代表的な鳥なんだろうか? それに日本じゃ絶滅したけれど、中国では130羽以上に増えているそうではないか。その点、ドードーとかリョコウバトとかとは違う。トキはまだ絶滅したわけじゃないのだ。
日本で育てても野生に返すことが難しいとしたら、ニッポニア・ニッポンという名前へのこだわり以外、わざわざ日本で人工繁殖させることに何の意味があるんだろう。わざわざ中国からつがいを譲り受けてまで日本での繁殖にこだわるのはどうも見苦しいように思えるのだが。それより、ノウハウのある中国での繁殖に望みを託した方がいいのではないか。
最後に、トキ一行知識。
・東北地方ではトキのことを「ドードー」という。
・トキの肉は美味だが、生臭さがある上、煮ると脂肪が水の表面に浮かんでくるのであまり食べる人はいなかった。
カーティス・ピープルズ『人類はなぜUFOと遭遇するのか』(ダイヤモンド社)購入。皆神龍太郎[と学会](表紙にそう書いてあるのだ)訳、瀬名秀明解説。