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8月20日(金)

 今日もまたフォリアドゥの話である。今日は、篠原大典「二人での精神病について」(1959)という古い文献に載っている事例を紹介しよう。72歳の女行者と25歳の女工の話だ。

 まずは行者の方である。老婆は若い頃から信心に凝り、夫や子を捨てて住みこみ奉公をし、金がたまると神社仏閣を遍路するという生活を繰り返していた。いつのころからか病人をまじないし、狸がついているなどというので、昭和31年夏、I病院に入院させられた。病室の隅にお札やお守りで祭壇をつくり大声で祈り、ときどき気合いをかけたりしていた。医師には「お稲荷さんもこの病院は嫌だといっておりますわ。いろんなことがありますが、いうと気狂いだといわれますさかい」と言っていた。
 一方、女工は18歳で母を亡くし、継母とはうまくいかず、郷里を出て工場を転々とし、苦労を重ねていた。入院1ヶ月前、3年間つきあっていた男性から別れ話を持ち出された。その後、ほかの人が彼女には無断で男から手切れ金を取ったり、すぐあとで別の男から結婚を申し込まれるなどの事件が重なり、発病。「不動さんの滝に打たれていると自然に首が振れだし、止まらなくなりました。不動さんが私に乗り移り問答できるようになりました。故郷に帰れとお告げがあったので荷物をまとめていると、手切れ金の噂をする声が聞こえてきました」。彼女は昭和31年秋に入院した。
 1年後にこのふたりは同じ病棟で移る。すると2人はすぐさま一日中話し込み、ともに祭壇を拝み、女工は行者のお経を写すようになる。このころ、女工は「私の病気の原因を知っていて治してくれたのです」「不思議な風が私をおさえつけもがいているときに○○さん(行者の名前)のお守りで楽になりました」と話している。女工は、男に裏切られて以来始めて、信頼できる人に出会ったのである。このころの2人はまさに教祖と信者の関係であった。
 しかしその関係は長くは続かなかった。いったんは救われたものの、行者の方が「腹の中にいる生き物がはらわたを全部食ったらおまえは死ぬ」「人を犯す霊がお前についている」などと女工を脅すようなことをいうようになり、女工は行者に不信を抱くようになる。彼女は行者とは別に祈るようになったが、するとますます行者は怒る。結局3週間で2人は争い分かれてしまった。女工は言う。「○○さんは私を計略にかけたのです。○○さんは身寄りがないから私を治して退院させ、退院した私に引き取ってもらおうとしたのです」
 その後1ヶ月して面会させたが、語り合わずまた争うこともなかった。行者はその後も変化はなく、女工は症状が消え3ヶ月して退院、故郷に帰っていった。

 孤独な2人の、出会いと別れの物語である。
8月19日(木)

 さて、フォリアドゥの話を再開しよう。
 実はフォリアドゥには、鉄則といってもいい非常に簡単な治療法がある。それは、2人を引き離すこと。もちろん最初に妄想を抱いた人物(発端者)は、多くの場合入院させて薬物などによって治療する必要があるが、影響を受けて妄想を抱くようになった人物(継発者)は、発端者から引き離されただけで治ってしまうことが多いのだ。
 ただし、引き離す、という治療法は多くの場合有効だが、そうすれば絶対に治るとはいえない。
 私がまだ研修医だったころのことだ。隣の家の朝鮮人が機械で電波を送ってくる、という妄想を抱いて入院しているおばあさんの治療を先輩医師から引き継いだことがある。「自分が治してやろう」という意気込みは精神科ではむしろ有害なことも多い、ということくらいは知っていたが、まだ駆け出しだった私には、どこかに気負いがあったのだと思う。必死に薬剤を調整してみてもいっこうに妄想は改善しない。万策尽き果てた私が、永年同居生活を送っている兄を呼んで話をきいてみると、なんと、彼の方も「隣の家の朝鮮人からの電波」について語り出したではないか。2人は同じ妄想を共有していたのだった。
 これはフォリアドゥだ! 私は、珍しい症例に出会ったことと、そして先輩医師が気づかなかった真実にたどりついたことに興奮し、さっそく「鉄則」の治療法を試みた。兄の面会を禁止したのである。しかしこれは逆効果だった。面会を禁止してもおばあさんの妄想はまったく改善せず、それどころか2人とも私の治療方針に不信を抱くようになり、治療はまったくうまくいかなくなってしまったのだ。私は2人を一緒に住まわせるのはまずいと考え、兄のところ以外に退院させようと努力したのだが、2人とも態度を硬化させるばかりであった。
 今考えれば私の方針の間違いは明らかである。私は、妄想が残ったままであろうと、彼女を兄のところに退院させるべきであった。それが彼女の幸せであるのならば。私は「鉄則」にこだわるあまり、老人の住居侵入妄想はなかなか修正しにくいことを忘れてしまい、そして何よりも、永年2人だけで暮らしてきた兄に突然会えなくなった彼女のつらさに考えが及ばなかったのであった。
8月18日(水)

 佐藤賢一『傭兵ピエール』(集英社文庫)読了。おもしろくないわけではない。今時珍しいデュマ風の雄渾な西洋冒険活劇小説として一気に読める作品である。しかしねえ、このマッチョな作風、戦う男=善、なよなよした男=悪という単純な二分法はなんとかならないのか。デュマとかバロウズの時代じゃないんだから。
 それでも、主人公ピエールの人物造形はなかなか魅力的。別にこういう男になりたいとは思わないけど。その他男性キャラは脇役に至るまでいいのだが、なんでまたこの作者は女性描写になるとダメになってしまうのか。ヒロインであるジャンヌ・ダルクは、この小説ではただの猪突猛進のバカ女にしか見えず、全然魅力が感じられないのだ。聖女といわれていたジャンヌが実はただのバカ女だった、という解釈は新しいけど、大長編小説のヒロインがこれでは困ってしまう。
 この時代、女性の地位は非常に低く、処女でなければ淫売として扱われていた、と作者は言う。まあ、そういう時代だというのなら、それはそれでもいいだろう。しかし、女とはこういうものであるという当時の観念(それが本当に当時の観念なのか、それとも作者の観念なのか私にはよくわからないのだが)を一歩もはみださない女性ばかりが登場するのでは、現代の読者は閉口するほかない。同じような時代を扱っていながら、塩野七生の描く女性はもっと奔放で魅力的だったような気がするんだが。
 さらに、男と男が取っ組み合いの喧嘩をして仲直り、とか、わがままな女の頬をパーンと平手で叩くと「私のことを思って下さっていたのですね」と感動される、とか、あまりにも気恥ずかしいシーンが山ほど出てくるのもちょっとなあ。
 佐藤賢一のこの作風、冒険小説ファンには受け入れられるのだろうが、これでは女性ファンはつかないだろうなあ。それとも、最近の作品では少しはましになってきているのかな?

 栗本薫『黒太子の秘密』(ハヤカワ文庫JA)も読了。特に言うべきこともなし。この手の小説はちょっと積んでおくとすぐ次の巻が出てしまう。

 異形コレクションXII『GOD』(廣済堂文庫)、唐沢俊一+志水一夫『トンデモ創世記2000』(イーハトーヴ出版)、V.S.ラマチャンドラン+サンドラ・ブレイクスリー『脳の中の幽霊』(角川書店)、小森康永他編著『ナラティヴ・セラピーの世界』(日本評論社)、須藤真澄『どんぐりくん』(1)(竹書房)購入。
8月17日(火)

 喜多さんも今日の日記に書いておられるが、うちにもまったく同じメールが来ていた。
 メールのタイトルは「日本テレビよりお知らせ」。本文は何もなく、添付ファイルとしてhtmlファイルとdocファイルの2つがついている。怪しい。怪しすぎる。
 いったい「text1.htm」というタイトルのファイルにはいったい何が書かれているのか、と思ってエディタで開いてみたが、これもまたタグだけで中身は空白。どうしろというんだ。最後の手掛かりはdocファイルなのだが、こちらのタイトルは「日本テレビの募集2.doc」。拡張子からするとたぶんWORDのファイルなんだろうけど、臆病者の私にはとても開けられません。
 ヘッダには大量のメールアドレスがずらずらと並んでおり、どうも大勢の人に同じメールを送りつけたらしい。私や喜多さんのアドレスがあるあたりをじっと見ていると、おお、見覚えのあるアドレスがいくつもあるではないか。ホームページを持っている某SF作家とか某SF翻訳家とか某SF評論家とか……なぜかは知らないが、このメール、SF関係の人に送りつけられているらしい。
 この「日本テレビの何者か」を名乗る人物からの謎のメール。差出人のアドレスはntv.co.jpだから、本物の日テレの人なのかもしれない(もちろんそうでない可能性もあるけど)。もし本物だとしても、いきなりメールでWORD文書を送りつけるというのは、非常識すぎるんじゃないかねえ。
8月16日(月)

 永年使っているNECのMultiSync15TVというモニタが、最近キィーーーンと甲高い音を発するようになってきた。きりきりと脳髄を責め苛むような厭な音(←京極夏彦的表記)である。しばらくは我慢して使っていたのだが、あまりに神経に障るので、とうとう新しいモニタを買うことを決意した。
 できれば17インチ程度の広いモニタがほしいのだが、机が狭いのでとうてい置くスペースがない。かといって今時15インチモニタを買うというのも間の抜けた話だ。となるとやっぱり液晶かなあ。しかし液晶はまだまだ高いしなあ。
 悩んだ挙げ句、値段よりもスペースを重視するということで液晶モニタを買うことに決定。妻は、モニタなら断然EIZOブランドでしょ、というナナオ至上主義者なのだが、いくらなんでもあれはあまりに高いし、かなり品薄のようだ。そこそこの値段で性能のいいもの、ということで、TOTOKUCV511Rという15インチ液晶ディスプレイを選ぶことにした。1024x768までの表示ができる上、1280x1024の簡易表示も可能(私のパソコンではそもそもそんな解像度では表示できないので関係ない機能だが)。2系統の入力端子がついているし、映像入力端子もついている。USBハブ機能もある(これまた、私のパソコンにはUSBなどという洒落たものはついていないが)。欠点は、USBポートが本体の背面についていること。これは側面についている方が断然使いやすい(言うまでもなく私には今のところ関係のない)。
 いちばん安い店をここで調べた上で、本日ついに秋葉原へ行って買ってきました。さっそくパソコンに接続してみたが、これはなかなか快適である。画面は広くなったし文字は以前よりはるかにクリア。チラツキもないしもちろん変な音もしない。それに、今までは、机が狭いのでキーボードとモニタを縦に並べて置くことができず、モニタを見ながらキーボードを打つには首を不自然に右に傾けるしかなかったのだが、これでようやくまっすぐ前を見てキーボードを打てるようになった。おお、前を見てキーボードを打つのがこれほど快適とは(結局私にとっての液晶の最大の恩恵はこれだったりする)。
 常時点灯しているドットが右と左下に1つずつあるのが気にならないでもないが、まあこのくらいは許容範囲なのだろうなあ。

 今日は純然たる日記になってしまった。フォリアドゥの話の続きはまたこの次に。
 明日は当直。
8月15日()

 さて、きのうのフォリアドゥ(感応精神病)の実例である。まずは精神医学1995年3月号に掲載されている堀端廣直らによる「Folie a deuxを呈し“宇宙語”で交話する一夫婦例」というものすごいタイトルの論文から。

 鍼治療の仕事を営む夫婦の話である。
 夫婦は「温和で物静かな夫婦」とみられていたが、1986年8月中旬から、妻の方が「宇宙からの通信」を受け始めた。その内容は「病気はこうしたら治る」「宇宙から素晴らしい人がやってくる」といったものだった。また、それと同時に近所の人々によって嫌がらせをされるといった被害妄想も感じるようになった。そして約1ヶ月後には夫も同様の被害妄想をもつようになり、宇宙からの通信を受け始めたのだという。妄想が感染したのだ。二人は治療を求める客に対して「あなたは価値のない人間だから」などといって断るようになる。昼間から戸を締め切り夜は部屋の電灯を一晩中ともして「宇宙からの使者を待つ」生活をして周囲から孤立していった。
 そして約二年後のこと。今度は夫の方から「宇宙語」と称する言葉をしゃべりはじめ、半年後には妻も同調して二人は「宇宙語」で会話するようになったのだという。近所に抗議に行ったり通行人を怒鳴り追いかけるときにも「宇宙語」を発して近所の人々を驚かすこともあった。宇宙語は中国語やスペイン語に似た言葉のように聞こえたとのこと。子供が3人いたが、感化されることもなく宇宙語も理解できなかった。
 1991年、妻が通行人に暴力をふるう行為があったので妻のみが入院。妻は、医師に対して「宇宙語を喋るのがなぜいけないのか。人間のレベルが高くなったからしゃべるのだ」と反論し、同席した夫と宇宙語で会話。しかし入院翌日からは落ち着きが見られ話も通じるようになった。入院3週間後より夫との面会を許可したが、笑顔で落ち着いた様子で宇宙語は話さなかったという。退院してからは「あのときは自分は一生懸命だったのです。今となっては過去のことです。通らねばならない過程だったと思います」と冷静に振り返ることができたという。

 これは春日武彦『屋根裏に誰かいるんですよ。』にも紹介されている症例だが、おそらくこれは「愛」の物語だ。フォリアドゥの成立条件に「2人の親密な結びつき」がある以上、フォリアドゥの物語は、多くの場合、愛についての物語なのである。
 この症例で興味深いのは、もともとの妄想の発端は妻だったのにも関わらず、「宇宙語」を話し始めたのは夫の方からだというところ。最初妻が妄想を語り出したとき、当然夫はとまどったことだろう。その時点で病院に連れて行ったり誰かに相談したりすることもできたに違いない。しかし、結局夫はそれをせず、妻の妄想世界を受け入れる。それはつまり、二人の間にはそれほどまでに深い結びつきがあったということだ。それから二年後、夫は、世界を与えてくれた妻に対し「宇宙語」を伝え、さらに二人の世界を広げるのである。
 「宇宙語」はつまり、夫から妻へのプレゼントだったのかもしれない。
8月14日(土)

 困ったことに全然ネタがないので、今さらではあるが、5月のSFセミナーのときに話した内容について書くことにする。SFセミナーで私の部屋にいた人はすでに知っている話になってしまうけどご勘弁を。

 私がSFセミナーのときに話したのは、「精神病の伝染」についてなのであった。果たして、精神病というのは伝染するものなのだろうか。筒井康隆の『パプリカ』に伝染性の分裂病という病気が登場したけれど、あれは小説だけの話。人の心を操る寄生虫が出てくる小説(ネタバレになるのでタイトルは言えない)も読んだことがあるが、あれも実際に見つかったという話は聞かないし、たとえ存在したとしてもそれはあくまで寄生虫病であって、「伝染性の精神病」とは言いがたいような気がする。
 実際には、たとえば梅毒のように伝染性の病気で精神症状を引き起こすものはあるけれど、純粋な精神病で細菌やウィルスによって感染する病気は存在しない。精神病者に接触しても、感染を心配する必要はないわけだ。
 しかし、だからといって精神病は伝染しない、とはいえないのである。
 精神病は確かに伝染するのである。細菌ではない。ウィルスでもない。それならなんなのか、というと「ミームによって」ということになるだろうか。
 妄想を持った精神病者Aと、親密な結びつきのある正常者Bが、あまり外界から影響を受けずに共同生活をしている場合、AからBへと妄想が感染することがあるのだ。もちろんBはまず抵抗するが、徐々に妄想を受け入れ、2人で妄想を共有することになる。これを感応精神病、またはフォリアドゥ(folie a deux)という。Folie a deuxというのはフランス語で「ふたり狂い」という意味。最初に言い出したのがフランス人なので、日本でもフランス語で「フォリアドゥ」ということが多い。もちろん妄想を共有するのは2人には限らないので、3人、4人となれば"folie a trois"、"folie a quatre"と呼ばれることになる。なんとなく気取った感じがしてイヤですね。
 AとBの間には親密な結びつきがなければならないわけで、当然ながらフォリアドゥは家族内で発生することが多いのだけど、オウム真理教などのカルト宗教の場合も、教祖を発端として多数の人に感染した感応精神病と考えることもできるし、以前書いたことのあるこっくりさんによる集団ヒステリーも広義の感応精神病に含めることもある。

 この感応精神病、それほどよくあるものでもないが、昔から精神科では知られた現象で、森田療法で知られる森田正馬も1904年に「精神病の感染」という講演をしている(この講演録が日本での最初の文献)。
 さて具体的な実例なのだけど、それについてはまた明日、ということで、今日は思わせぶりに終わるのであった。
8月13日(金)

 ニュースでちらりと聞いただけなのだが、今日の高校野球、智弁学園と県岐阜商の試合では、3回に智弁学園が14連続出塁の大会新記録で9点を獲得して勝ったんだそうだ。
 ふうん、すごいねえ。さすが高校野球。プロではとてもお目にかかれないような大ざっぱな記録の宝庫である。でも待てよ。14連続出塁で9点ってのはどうも解せない。1人もアウトにならずに14人出塁すれば、3人残塁したとしても、11点は取れるはずじゃないのか。それなのに9点しか取っていないというのはどういうわけなんだろう。
 しばらく考えてから思い当たったのが、ランナーのうち2人が牽制でアウトになった、という解釈。念のためasahi.comで調べてみると、「捕手の好けん制で2度まで走者を刺してからの大量失点」と書いてある。うむ、私の推論は正しかったらしい。
 14連続出塁というとすごい記録のようだが、考えてみれば、9点というのは、14連続出塁した場合に獲得できる最小の点数である。智弁学園は運がいいんだか悪いんだか。
 ところで、14連続出塁の記録を作ったイニングに獲得できる最大得点は何点だろうか。私は42点だと思うのだが、あってるかな。
8月12日(木)

 コンビニで買い物をするときには、必ずレジを打つ手元に注目する。
 別に入力を間違えないかどうかチェックしているわけではない。第一、コンビニじゃたいがいがバーコード入力なので、昔のスーパーのように「レジを打つ」ことなどほとんどない。私が全神経を集中させて店員の手元に注目するのは、すべての商品の入力が終わったあとだ。
 コンビニでバイトをした経験のある人にとっては常識なのだろうが、コンビニの店員が商品の入力後、必ず押すキーがある。客の性別と年齢を入力するキーである。といってもそれほど複雑なものではなく年齢が「20歳未満」「20代」「30〜50代」「60歳以上」の4分類、それに男と女で計8つのキーが用意されていることが多いようだ。こういう客は何時ごろにどんなものを買うかとか、顧客の傾向を調査するのに使うんだろうなあ。あいにく私はコンビニでバイトしたことがないので、これは永年の観察の結果自力で発見したもの。
 ところで、現在私は30歳である。
 そう。店員が「20代」のキーを押すか「30〜50代」のキーを押すか。それは、20代にまだ多少未練がないでもない私にとっては、きわめて重要な問題なのである。果たして、目の前にいる店員に、私はいったい何歳に見られているのだろうか。買い物のたびにどきどきしながら審判のときを待つわけだ(笑)。買い物代だけで楽しめる安上がりな娯楽といえよう。20歳とか29歳とか、分類の境目近くの年齢の人はけっこう楽しめますよ。24歳とかの人でも楽しめなくはないけど、「30〜50代」のキーが押されているのを見たりしたらショックが大きいので、あんまり手元に注目しない方がいいかも。
 さて観察の結果であるが、私はふだんほとんどサラリーマンめいた服装をしていないせいか、いまだに「20代」のキーを押されることが多いようだ。しかし、不思議なことに、30歳の誕生日を迎えてからというもの、少しずつ「30〜50代」のキーが押される頻度も高くなってきたような気がする。ううむ、だんだん30代っぽくなってきたのだろうか。ま、歳相応ってことは悪いことではないが。
8月11日(水)

 コニー・ウィリス『リメイク』(ハヤカワ文庫SF)読了。うーん、悪い話ではないのだけど、なんだか印象の薄い中篇。映画に関する薀蓄がつまっている小説なので詳しい人ならにやりとできるんだろうけど、観てない映画ばっかりなんで全然ぴんと来なかったし(巻末の詳しい註がなかったら全然わからなかっただろうなあ)。これはあくまで映画(特にミュージカル映画)小説であって、SFとしてどうとか評価するような作品ではないような気がする。

 新潮文庫絶版100。読みたいのは林不忘の『丹下左膳』(乾雲坤龍の巻、こけ猿の巻、日光の巻)くらいのものかなあ。他の出版社から出てるものも多いし。新潮文庫絶版SF100なら絶対買うのに(笑)。
過去の日記

99年8月上旬 犯罪者ロマン、イオンド大学、そして両生爬虫類館の巻
99年7月下旬 ハイジャック、あかすばり、そしてさよなら7の月の巻
99年7月中旬 誹風柳多留、小児愛ふたたび、そして動物園の巻
99年7月上旬 SF大会、小児愛、そして光瀬龍の巻
99年6月下旬 小此木啓吾、上野千鶴子、そしてカルシウムの巻
99年6月中旬 妄想、解剖学標本室、そしてパキャマラドの巻
99年6月上旬 睾丸握痛、アルペン踊り、そして県立戦隊アオモレンジャーの巻
99年5月下旬 トキ、ヘキヘキ、そしてSSRIの巻
99年5月中旬 鴛鴦歌合戦、星野富弘、そして平凡の巻
99年5月上旬 SFセミナー、ヘンリー・ダーガー、そして「てへ」の巻
99年4月下旬 病跡学会、お茶大SF研パーティ、そしてさよなら日記猿人の巻
99年4月中旬 こっくりさん、高い音低い音、そしてセバスチャンの巻
99年4月上旬 日記猿人、生首、そして「治療」は「正義」かの巻
99年3月下旬 メールを打つ、『街』、そしてだんご3兄弟の巻
99年3月中旬 言語新作、DASACON、そしてピルクスの巻
99年3月上旬 サマータイム、お茶の会、そしてバニーナイツの巻
99年2月下旬 バイアグラ、巨人症、そしてドッペルゲンガーの巻
99年2月中旬 クリストファー・エリクソン、インフルエンザ、そしてミロクザルの巻
99年2月上旬 犬神憑き、高知、そして睾丸有柄移植の巻
99年1月下旬 30歳、寺田寅彦、そしてスピッツの巻
99年1月中旬 アニラセタム、成人、そしてソファの巻
99年1月上旬 鍾乳洞、伝言ダイヤル、そして向精神薬の巻

97-98年の日記

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