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9月10日(金)

 ちと話題に乗り遅れた感はあるけど、小谷野敦『もてない男』(ちくま新書)を読みました。
 まず言っておきたいのだが、私は本書の「もてない男」の定義には断じて賛成できない。私は、自分を「もてない男」と規定しているのだが、本書の定義によれば、妻がいるというだけで、私はもてない男には属さないらしいのだ。これには納得がいかーん。配偶者がいようがいまいが、もてない男はもてない男だろう。「そんなことはない、お前はもててたぞ」とたぶん空想小説ワークショップのOさんやKくんあたりは言うだろうが、少なくとも私は自分がもてていたという実感はない。そしてもてるもてないというのは、あくまで本人の主観の問題であろう。
 おそらく私には「コミュニケーション・スキル」なるものが足りないに違いない。女性とつきあいたいという気持ちは人並みにあるのだが、生来あまりしゃべらないたちなので、女性には近づきがたいと思われていたようだ。私にとっては、直接人と話すよりこうやって文章を書いている方がずっと楽だし、さらにいえば掲示板よりもこういう独白形式の方がはるかに気が楽なのである。
 まあ自分のことはどうでもいい。もうひとつ問題だと思うのは、本書はどうやら「もてない男」について書かれた本ではないらしい、ということ。タイトルには偽りがあるのだ。正しくは「もてない男の文学史」あるいは、「男はこうあるべき」という価値観から離れた視点から文学を読みなおす試み(長いね)、とでもいったらいいか。著者が語りたいのは「もてない男」についてではなく、あくまで文学についてなのである。そう考えないと「愛人論」なんてのが紛れ込んでいる理由がわからなくなってしまう。まあ商業的にはこのタイトルで大成功なのだろうけど。
 また、この本、文学の引用は多いくせに、実証の部分が非常に弱い(たとえば井上章一の労作『愛の空間』なんかに比べるとあまりにずさん)し、「これについてはは論じない」とか「私のいうもてない男とはそういうものではない」などというようにエクスキューズが非常に多く、そのたびごとにもてない男の定義をどんどん狭めていく。このことからも本書が「もてない男」一般の話ではないことがわかるだろう。眼目はあくまで「著者の定義する『もてない男』の視点から見た文学史」なのである。そして、本書を文学エッセイとして読んだ場合、非常に新鮮でおもしろい本といえる(特に第五回の愛人論は読み応えがありました)。
 というわけで、この本を作品として評価する、という鈴木力さんの気持ちはよくわかる。どう読んでもこれは実用書なんかじゃないよ。この本を読んでももとよりどうすればもてるようになるかなんてことはわからないし、かといって、それなら「もてない男」はどう生きていけばいいのかなんてこともまったく書かれていない。そんなことは著者の主眼ではないのだ。
 「実用書」としての本書の結論は「恋愛以外にもおもしろいことはある」ということになるのだろうが、そんなことは著者に言われるまでもなくちょっとしたオタクなら誰でもわかっていることだろう。生身の恋愛よりもアニメやギャルゲーの方がいい、なんて輩は山ほどいる。それでいいというなら別に私は何も言わない。それで充足していれば、それはそれで幸せというものだろう。
 でも、恋愛ってやつぁ始末が悪いもので、恋愛なんかしないもんね、と思ってはいても、ふとした隙に忍び込んでくることがあるものだ。オタクだって恋に悩む。そしていったん恋に悩んだときの被害は、コミュニケーション・スキルがないだけ、一般人よりも甚大なのである。そんなときいったいどうすればいいのか? 本書は何も答えてくれない。その点、「コミュニケーション・スキルを磨け」という上野千鶴子の意見は実際的だと私は思う。
 著者は「恋愛コミュニケーション・スキル」について「そんなものが備わっていなくても、人間として欠陥があるとは言えないのではないか」というが、これは論理のすり替えなんじゃなかろうか。著者が引用している箇所を読んだ限りでは、上野千鶴子の言う「愛し愛されるためのコミュニケーション・スキル」は、普通のコミュニケーションができる能力といった意味であって、恋愛に特化したコミュニケーション・スキルという意味ではないように思う。そして、「恋愛コミュニケーション・スキル」なんてものがなくても、普通のコミュニケーションができればそれで恋愛はできるんじゃないかなあ。また、普通のコミュニケーション・スキルすらないのであれば、それは人間として欠陥があるということになるんじゃないか。
 資本主義的恋愛には私も興味がないし、キャバクラにも行ったことがないが、30になった私は20の頃よりは緊張せずに女性ともしゃべることができるようになったし、妻帯者にもなれた。まだまだコミュニケーション・スキルが充分にあるとはいえない私だけど、それでもここまで来られたのである。
 まあ、恋愛するにしろしないにしろ、コミュニケーション・スキルはあるに越したことはないんじゃないかな。

 小松左京『くだんのはは』(ハルキ文庫)、光瀬龍『辺境五三二〇年』(ハルキ文庫)購入。
9月9日(木)

 今日は当直。マーティン・シェンク『小さな暗い場所』(扶桑社ミステリー)読了。これは何と言ったらいいんだろうなあ。ホラーというには中途半端だし、サスペンスにしてはラストの展開が……だし。確かなのは意地悪な話だということかな。
 高校のアメフト部の名選手だったピーターは、同じ高校のダンスパーティでクイーンの座を射止めたサンドラと卒業6日後に結婚(サンドラが妊娠してしまったのだ)。理想を持った2人は農場で無農薬野菜を作りはじめる。しかしその8年後、野菜はまったく売れず一家は破産寸前。ピーターはかつて見下していた同級生に金を借りに行くが断られてしまい、一家はあえなくホームレスに。このあたりからしてすでに意地の悪い設定である。アメフト部と無農薬野菜の皮肉な扱いにはにやりとしてしまう。
 そこでサンドラが思い出したのは、かつてどこかの少女が井戸に転落し、その救出劇が全米に放映され、同情した視聴者から多額の義援金が集まったこと。自分の息子を使って同じことをすれば大金が手に入るのではないか。しかし、実際に落ちたのは冒険好きな息子ウィルではなく、闇を異常に怖がる妹アンドロメダの方だった。集まってきたのは、有名になりたい新聞記者や、本を書きたい児童心理学者といった面々。夫妻の計画通り、救出の模様はマスコミに報道され、義援金が集まるのだが……。
 「闇の中で彼女はある能力に目覚める」とカバーにあるので、超能力ホラーかと思ったら、物語の半分まではどことなく『シンプル・プラン』を思わせる静かなサスペンスで、スーパーナチュラルな要素はまったくない。このまま淡々と進んで行くのかと思いきや、後半ではいきなりハリウッド風B級超能力ホラーとしかいいようがないど派手な展開になったかと思うと、ラストではまたもモードが変化してしまう。これには呆気に取られてしまった。訳者あとがきには「最後に用意されたメッセージは、明らかにホラー界の巨匠(キングのこと)を超えている」と書かれているけど、そうかなあ。予想だにしなかった結末であることは確かだけど、キングを超えているとはとても思えないのだが。
 奇妙な小説を読みたい人はぜひどうぞ。

話題の精神年齢鑑定をやってみた。
鑑定結果
あなたの精神年齢は53歳です


あなたの精神年齢は完全に『中年』です。それどころか『初老』の兆しが見え始めています。人生経験が豊富なあなたは頼りになる存在です。しかし、精神年齢はもう少し若い方が人生は楽しいと思いますよ。

実際の年齢との差23歳

あなたは実際の年齢よりかなり大人です。周りの人からもよいお父(母)さん役として親しまれていることでしょう。ただ、同年代の人とはしばしば話があわなくなったりしてしまうでしょう。

幼稚度20%

あなたは中学生並みの幼稚さを持っています。時々親の手助けが必要になったりします。

大人度71%

あなたはもう立派な大人です。十分に精神が発達していると思われます。

ご老人度50%

あなたはもう老人です。あせることなく、はしゃぐことなく、いつものんびりなご老人です。
 ところで、IQの定義は精神年齢÷実年齢×100だったはず。そうすると、私のIQは176! そうか、私は天才だったのか(違うって)。
9月8日(水)

 今日は半日で仕事はおしまい。
 池袋のとらのあなとまんがの森にでも寄って新刊をチェックしようかなー、などと午後3時ごろサンシャイン60通りを歩いていると、道路脇にテレビ局の車がずらりと並んでいるではないか。日本テレビ、TBS、フジテレビ、テレビ朝日、要するに民放各社(テレ東以外)の車がきちんと縦に並んで停まっており(あとでちょっと離れたところにNHKの車も発見)、東急ハンズの前あたりではレポーターやらカメラマンやらが何やら慌ただしげに動き回っている。
 何かイベントなのかなー、誰か芸能人でもいるのかなー、などと脳天気なことを考えながらのぞき込んでみたのだが、別に誰も見当たらない。
 なんなんだろーなー、としばらくうろうろしていると、たまたまディレクターとレポーターらしい女性の打ち合わせの声が聞こえてきた。「何の関係もない人が巻き添えになった、ということを強調して……」。どうやら事件らしい。しかしいったい何が……と思っていたら、今度は後ろのおじさんが誰かに説明している声が耳に入った。「通り魔だよ、通り魔。8人刺されて1人は死んだそうだよ」(その後もう1人亡くなったらしい)。
 しばし絶句。月並みな感想になるけど、いつもよく通るこの道がこんな事件の舞台になってしまうとは。夜のニュースでも、見なれた東急ハンズ前が何度も映っているのがなんだか奇妙に見えた。
 これは精神科医の職業病というべきか、こうした事件が起こるたびにもしや自分が診たことのある患者では、とちょっとひやりとするのが習い性になってしまったが、どうやら今回は精神科とは関係がないようでほっとしているところ(まだ安心はできないが)。
 しかし、高校生3人も刺されたそうだが、平日の昼間に何やってるんだ、高校生よ。

 栗本薫『蜃気楼の少女』(ハヤカワ文庫JA)購入。あー、この前、前巻を読んだばっかりなのにまた出ましたか。
9月7日(火)

 久しぶりにCDショップへ行ってみた。
 このところテレビで聴くたびに、気になっていた曲があるのだ。夜中にテレビを見ているとときどきCMで流れてくるのだが、よく伸びる澄みとおった高い声がとてもきれいな曲である。タイトルは「Forever」。出たばかりの新曲で、歌っているのは中司雅美という人らしい。聞かない名である。新人なのかな。
 まずは池袋WAVEに行き、シングルCDの棚をあさってみた。「な」……「な」……ない。むう。新曲のはずなんだけど、そんなに出まわってないんだろうか。2軒目のHMVに回り、ようやく中司雅美のシングル発見。しかし、タイトルが違う。どうやら以前の曲のようだが、ま、これでもいいか。
 おや、どっかで聞いたようなタイトルだな、と棚から出して何気なくジャケットを裏返してみた瞬間、私は凍りついた。ピンク色の髪で微笑むアニメ絵の女の子。こ、これは神岸あかり。そうか、このCDは「Feeling Heart」、アニメ版『To Heart』のオープニングテーマではないか。
 するってえと、私が気に入った中司雅美は、半年前に毎週聴いていたあの歌の歌手だったわけか。もしや、何気なく気になっていたのも偶然ではなく、毎週聴いていたので歌声が刷り込まれてしまっていたのかも。ううむ。自分にはアニソン属性はないと思っていたのだがなあ。
 3軒目Virginでも結局「Forever」は発見できず、仕方ないので家に帰って「Feeling Heart」をリピートで何度も聴いてみる。うーん、あのアニメのまったりとした世界が思い出される(ちなみに私はアニメ『To Heart』は傑作だと思ってます)。改めて聴くと、詞は今一つだが(「どうしてわたしらしくはないよ」というあたりなどぎこちない)さすがに声はすばらしい。
 早速検索して発見した力の入ったファンサイトによれば、中司雅美さんはもともと関西を中心に活動していたシンガーソングライターなのだが、自分の曲ではない「Feeling Heart」でメジャーデビュー、シングル第2弾がいよいよ自作の「Forever」ということらしい(いろいろ事情があったんだろうなあ)。
 というわけで、ここで中司雅美を私的お気に入り歌手に認定(現在認定済なのは谷山浩子、遊佐未森、新居昭乃、平岩英子、米村裕美などなど)。「Forever」探さなくちゃ。石丸に行けばあるかなあ。

 グレッグ・イーガン『宇宙消失』(創元SF文庫)読了。ひとことで言って、豪快な話である。ここまで量子力学を前面に押し出した長篇SFは初めてかも。私立探偵小説ライクな前半は退屈だが、後半になると物語はどんどん壮大かつおバカな方向へ進んでいく。最後の方になると伏線などどうでもよくなってくるし、物語としては破綻しまくっているのだけれど、ここまでやるなら許してしまおう。でも、ここまで暴走するなら、前半をこんなに地味にせずに最初からバシバシ飛ばしていけばいいのになあ。しかし、発端となった事件の依頼人はいったい誰だったんだ(主人公も途中からはそんな些細な謎なんて全然気にしなくなってしまうという豪快さ)。
9月6日(月)

 きのうに引き続き、フォリアドゥ家庭で育ち、社会から孤立した家族の中でさらに孤立してしまったKの話を続ける。
 17歳頃になると、Kは両親が話しかけても「あなたは誰でしゅか」などと幼児語しか話さなくなり、昼夜かまわず奇声を発するようになった。また布団の上や鍋の中に大小便をしたり、糞尿を身体をなすりつけて転げまわるなどの異常行動が徐々に激しくなり、両親も対応に困り、翌年11月、救急車で精神病院に入院することになった。
 入院したKは、主治医の質問も待たず一方的に喋りだし、「親から離れて入院できたのは本当にラッキーでした。でも僕は本当のことは言いません。狂気を装っているんです。催眠療法してもだめでしょう」とうれしそうな表情で話した。入院前の異常行動については「親が鉄パイプで殴ったり、僕のものを燃やしたりするのが鬱積して、精神病の方へ出ちゃったんです」「虐待ばかりで学校へも行かせてくれず、訴訟ばかりしている親に反抗して、家から脱出したいと思って、親の方から僕を嫌いにさせようとして狂うふりをしたんです」という。また「これは父にやられた、ここは母にやられた」と体中の傷痕や火傷痕についてしきりに説明した。
 病棟では他の患者や看護婦に一方的に話しかけ、苦情が出るほどだった。また自分の要求が通らないと大声でわめきちらし、逆に強く注意されるとその場で土下座して謝ったりと、周囲の人たちとどのように接したらよいのかわからない様子だった。
 両親への憎悪は強く、「もう自宅には戻りたくない。親戚に連絡して引き取ってもらいたい」と要求。入院が長引くにつれ、「自分の親は被害妄想狂です。だから僕ではなく親のほうを入院させて下さい」と攻撃的な口調で退院を要求した。
 一方両親は、入院時「一生退院させない」と言って面会にも現れなかったが、月に2、3回の手紙は必ず送って来た。Kは両親が「被害妄想狂」である証拠として、主治医に手紙の一部を見せた。手紙は、警察や近隣、福祉事務所などへの被害的内容が主で、当初は病院に対して好意的だったが、徐々に「病院も警察とグルになって一家をバラバラにしようとしている」と被害妄想の対象になっていった。そして、それとともにしだいにKの退院を認めてもいいとも書くようになっていった。
 翌年7月、突然父が病院を訪れ、Kを自宅に引き取りたいと申し入れ、即日退院となった。その後もKは以前のように自宅に閉じこもった生活を続けているようだが詳細は不明だという。
 こうして、Kは結局地獄の家に帰ってしまうのである。おいおい、そりゃないだろ、と思うのは私だけではないはずだ。
 Kが本当に狂気に陥っていたのか、それとも本人の言う通り狂気を演じていたのか、この論文でははっきりとした結論は出していない。それでも、Kは、両親の狂気に対して、それを上回る狂気という奇策によって脱出を図り、必死に助けを求めてきたわけだ。そんなKを、父親に言われるままにあっけなく自宅に引き取らせてしまっていいんだろうか。いくらなんでもこの結末はないだろう。
 確かにこの患者は未成年でもあることだし、普通は親が退院させたいと言えば、法的には退院させるほかはない。たとえ親の方がおかしいと思おうが、この両親を無理矢理入院させるわけにはいかない。でも、このような場合には何かほかの方法があったんじゃないかなあ(例えば親戚に介入してもらうとか)。
 この論文は、「今後はさらに、本事例児のみならず、他の兄弟の発育についても、慎重に経過を追う必要があると思われる」と結ばれているのだが、本当にそれだけでいいのか?
 その後この家族がどうなったのか、気になって仕方がないのだが、残念ながら続報は発表されていない。
9月5日()

 さて、きのう書いたとおり、フォリアドゥそのものではなく「狂えなかった家族」に焦点をあてた文献はあまりないのだが、それでも皆無というわけではない。今日は、酒井充らによる『いわゆる被虐待児症候群の事例化』(社会精神医学1987年12月)という論文から事例を引いてみる。

 発端者は母親であったらしく、結婚前の18歳ごろから「近所の人たちが自分のことをバカにして笑っている」とくってかかるなどの行動があったという。21歳で結婚するが、しだいに夫も妄想を共有するようになり、次男Kが生まれた頃には、夫婦そろって近隣といざこざを起こし転居を繰り返していた。
 次男のKは4歳のときに幼稚園に入園したが、両親はKが保母に不当にいじめられているという被害妄想を抱き、中途退園させてしまう。またその頃父から「家族は家族だけでやっていくから、もう二度と外の人とは遊ぶな」と言われ、子どもたちは外出を禁じられるようになる。
 6歳でKは小学校に入学するが、やはり父は担任の家に電話してどなりつけたり、教育委員会に抗議に行ったりしていた。まもなく両親はKの登校を禁止。Kが登校しようとすると、両親、ときには兄も加わってベルトで鞭打つ、金槌で殴りつける、煙草の火を押しつける、鉄パイプで眼を突くなどの身体的虐待が加えられた。そのため、小学3年生以降はほとんど学校に出席できなくなった。
 他の兄弟は親に従ったがKだけは抵抗したため、Kは親の言うことを聞かない子として、兄に行動を監視され、他の家族員から仲間はずれにされていた。Kは自宅内で一人で教科書や本を読みながら過ごすようになる。
 12歳、中学校に進学したが一日も出席できず、学校から自宅に届けられた教科書で勉強し、父に命じられて自宅の敷地内の草取りをしたり、自宅内で飼っている豚の世話をしたりしていた。この頃から、両親の近隣に対する被害妄想はますます強くなり、両親は自宅周囲をトタン板で囲い、月に一、二度のリアカーでの買い出し以外外出をしなくなる。外出のときには両親はカメラやテープレコーダーを持ち歩き、「いやがらせの証拠」を探していたという。その際にもKは外出を許されず、父から訪問者の声の録音を命じられていた。
 15歳ごろより、Kはマンガ家になりたいと思うようになり、マンガの添削教育を受け始める。しかし両親は「マンガなど描くのはやめろ。豚の世話をしろ」と反対し、Kの描いたマンガを破き、届いた郵便物を焼き捨てる。反抗すると、両親はKに暴力を加えた。Kは両親の妨害を避けるため、自宅の隅に家具やガラクタを積み上げて「バリケード」を築き、その中に閉じこもってマンガを描くようになった。Kの態度に父は逆上、バリケードに灯油をぶちまけて火をつけ、自宅は全焼、Kは右半身に火傷を負い、翌日外科病院に入院した。
 入院したKは病院で植皮術を受ける。しかし、手術痕の回復に従い、問題行動が始まった。看護婦の体に触る、夜間徘徊して眠らない、注射・服薬を拒否するなどの行動を繰り返し、病院側から治療半ばにして退院させられてしまう。病院は通院治療を勧めたが、父は「一旦家から離れた者は家族ではない」といって、Kを父の信奉する宗教施設に預けた。しかしKはそこでも問題行動を起こし、自宅に帰された。両親はやむなくKを家に置くことを許したが、やはり自宅外への外出を禁じたため、Kは再びバリケード内にこもった生活を続けることになった。
 痛ましい話である。Kにとってはまさに地獄のような家だったに違いない。15歳で入院し、家から離れたときになぜきちんと助けを求めなかったのかと不思議に思う人もいるかもしれないが、それは無理な話だろう。それまで家族以外との接触がほとんどなかったKには、他者とうまくコミュニケーションをとることができなかったのだろう。
 さてこのあと、Kは意外な方法で地獄からの脱出を図る。続きは明日。
9月4日(土)

 さて、このところしばらく家族についての話を書いているが、今日も家族の話題を。
 共同生活をしている家族などの中で狂気が伝染していくという現象がフォリアドゥだった。確かにこれは気味の悪い現象ではあるのだけれど、ある意味、感染して同じ狂気を共有するようになった人は幸せといえよう。抵抗をやめて吸血鬼(or屍鬼orボディスナッチャーorボーグ)になってしまえば楽になるのと同じようなものだ。
 それでは、狂うことができなかった家族はどうなるのだろう。
 家族を正気に戻すために戦う? 家族を捨てて逃げる? 映画ならともかく、現実にはどちらもよほどの覚悟がないとできそうにない。それに、もし、戦うことも逃げることもできない無力な子どもだとしたら? 家族は狂気を共有することを強要するだろう。暴力も振るうかもしれない。狂うこともできない子どもは家族からの虐待に耐えつつ、ただひとり孤立するほかあるまい。狂気に陥っている集団の中では、正気を保っている人物こそが狂人なのである。
 これは、狂気に感染した家族よりもはるかに悲惨なんじゃないだろうか。しかし、どういうわけか、これまでの文献は、感染した家族には興味を示すのに、狂気に陥らなかった家族についてはほとんど触れていない。「宇宙語」の論文でも、感染しなかった子どものことはほとんど書かれていないし、「家庭内幻魔大戦」の論文でもそうだ。無視しているといってもいいくらいである。
 このへん、精神医学という学問の偏りがよく現れていますね。派手な精神病症状には興味を示すくせに、狂気を耐え忍んできた人の心にはまったく無関心。今でこそPTSDなどが話題になってきているけれど、つい最近までの精神医学はこんな具合だったのだ。

 妻は一日中「ワイルドアームズ2」にはまっている……。妻によれば「FFよりはるかにおもしろい」とのことである。
9月3日(金)

 米本和広『増補・改訂版 洗脳の楽園 ヤマギシ会という悲劇』(宝島社文庫)読了。ヤマギシ会を批判的に取り上げたノンフィクション。
 PTSDに陥ったヤマギシズム学園の子どもたちについて書かれたプロローグにはぞっとするし、本書の目玉とも言える「特講」への潜入取材記は、なんだか読んでいるこっちまで気持ち悪くなるくらいの迫力があるのだけれど、後半の考察の部分になると一気にトーンダウンしてしまう。
 この著者、一生懸命ヤマギシを批判しているのだけど、その根拠があくまで「旧来の常識」なのですね。
 たとえば精神医学や脳科学の用語を使ってヤマギシの洗脳を説明する章があるのだが、これなど全然説明になってないぞ。精神科医がこんなこといっちゃアレかもしれないが、現象を精神医学用語で言い換えたところでそれは何の説明にもならないし、脳科学だって心理現象を完全に説明するには程遠いのが現状。それに、精神医学や脳科学で説明できるからといって、その体験が意味を失ってしまうわけではない。禅の悟りとか神秘体験なんてのも精神医学用語で説明することもできるが、個人にとってそれがどんな意味を持つかはまた別問題でしょ。
 ヤマギシズム学園に子どもを預ける母親を批判している章にも、違和感を感じずにいられない。著者は、そうした母親は子どもに対する「愛着心」を失っていると言い、「正直に言うと、子どもがいなくなってほっとしたのは確かです」という言葉を引いて、これは「児童遺棄」だ、と批判するのである。
 しかし、「ほっとする気持ち」を批判するのは無意味どころか有害だろう。このあたりの著者の筆致には、オウムに走った人を「ただのバカ」と決めつけるような無神経さを感じる。
 「子どもがいなくなればいい」という気持ちを殺して子育てにいそしむべし、というのが旧来の価値観。『アディクション・アプローチ』に書かれていた、「母の愛」があれば大丈夫、という価値観ですね。著者はこの古い価値観によりかかってヤマギシを批判しているわけである。しかし、古い価値観に飽き足らないからこそユートピアに憧れるわけで、こういう種類の批判は何の力も持たないと思うんだけどなあ。
 旧来の価値観が崩壊しかかっている今では、結局のところ、子どもを厭わしく思う自分の気持ちを認めた上で生きていく方法をさがすしかないんじゃなかろうか。子どもに対する愛着心が失われているのなら、なぜ失われてしまったのかを考え、それを取り戻す方法、あるいはそれなしでやっていく方法を見つけるしかない。愛がないことを糾弾するのは無意味だろう。
 もちろん私はヤマギシを擁護しているわけではない。「特講」なんて死んでも受けたいとは思わない。でも、この本のようにひたすら現実の常識的観点から批判したところで、カルトに対する有効な批判にはならないと思うんだけどな。常識に嫌気を感じて常識から離れていこうとする人に、なんて非常識なんだ、といってみたところで意味をなさないでしょう。

 京極夏彦『巷説百物語』(角川書店)購入。うーん、背表紙の二次元バーコードが妙に目障り。
9月2日(木)

 さて、きのう書いた『アディクション・アプローチ』という本を読みながら、家や家族の問題をまったく違うアプローチで取り上げた本を、最近もうひとつ読んだのを思い出した。以前にも取り上げた春日武彦の『屋根裏に誰かいるんですよ。』である。信田さよ子によれば、家はパワーゲームの場だが、春日武彦にかかると、家は「妄想増幅装置」ということになってしまう。
家というものはまことに気味が悪いものである。ごく普通のたたずまいと映っても、中には妄想が渦巻いていたり、病んだ人がうずくまっていたり、死体が腐乱していたり、いろいろな秘密が押し込まれている。時間は澱み、ときには実在しない人物が潜み、また“宇宙語”が交わされたりバリケードが築かれたりする。家は人間を住まわせる容器であると同時に、狂気を培養する孵卵器でもある。
 「宇宙語」というのはまさに私がこの前書いたフォリアドゥの例のこと。どうやら私たちが今まで何気なく暮らしていた家というのは、実はパワーゲームの場であり、妄想増幅装置でもあったらしい。うーむ、恐ろしいことである。
 考えてみれば、私たちは家族についていったい何を知っているというのだろうか。普通の人なら、一生のうちに詳しく知ることができるのは、自分の家族ひとつか、そのほかせいぜい二つか三つくらいではないか。私のような職業についていると、わずかながらさまざまな家族を覗き見る機会があるが、そのたびに驚くのは、どの家族もそれぞれに異なっているということ。中には私の常識からはまったく信じられないような家族もあるけれど、だからといってそうした家族のあり方を間違っていると断罪するわけにはいかない。
 きのうの信田さよ子の本と今日の春日武彦の本が教えてくれるのは、家というものを無条件で愛と安らぎに満ちた場だと思い込んではいけない、ということだろう。たまたま私が育った家は安らぎの場だったのだけど、それはあくまで僥倖にすぎないと思ったほうがいいのかもしれない。
 もしかすると、宇宙でも脳でもなく、隣の家こそが最後のフロンティアなのかも。
9月1日(水)

 以前聴いた講演で上野千鶴子が薦めていた、信田さよ子『アディクション・アプローチ』(医学書院)という本を読んでみた。
 「家族は愛情によって結ばれ、暖かいものである。なかでも母の愛は子どもの成長発達に欠かせない」。これは、今まで家族を語るときのセントラルドグマだった、と著者はいう。母の愛といえば、あらゆる批判を許さない万能のことばだったというのだ。もちろん不幸な家庭だってあるのだけど、そこに愛があれば大丈夫。なにしろ愛は地球だって救ってしまうのだから。
 こうしたナイーヴな家族観に対して、厳しく修正を迫っているのがこの本。「家族とはパワーゲームの渦巻く場である」と著者は言い切るのですね。愛は決して万能の免罪符ではない。なるほど、上野千鶴子が好みそうな本である。
 今までの「愛」にかわって、著者が家族問題を解読するキーワードにするのが「支配」ということば。たとえば暴力や虐待などはわかりやすいかたちでの支配だけど、そのほかにも、目に見えない支配関係もあるという。
 弱者である女性も、子どもを生んだとたんに母という権力を行使できるようになる。また病者も、介護を要する立場としてのパワーを行使する。新生児はもっとも無力でありながら、周囲のケアがないと生きられないので「ケアを誘発する」というパワーを行使する。ケアがないと死ぬかもしれないという恐怖を抱かせることで周囲を支配するのだ。(中略)みえにくい支配は暴力ではなく「ケア」を行使する、あるいは誘発する関係においておきる。(中略)
 しかしもっともソフトな支配は、親の望む子ども像に仕立てていくことである。「期待」ということば、「理解」ということばはすべてこの支配を美化するために使われる。
 家族とはパワーゲームの渦巻く場。確かに複雑に入り組んだ家族問題に取り組むときには、こうした視点が有用なのはわかるけど、そう言い切られてしまうとどうも抵抗を感じるのは、私が幸福な家庭に育ったからだろうか。いや、幸福な家庭だと思いこんでいても実はパワーゲームが渦巻いていたのだ、という見方ももちろんできるが、いたずらに不安をかきたてるようなそんな視点はあんまり有用とは思えない。
 これに似ているのがアダルト・チルドレンという言葉ですね。この本でも後半はアダルト・チルドレンと共依存の問題に割かれているのだけれど、不思議に思ったのは、こうした言葉の持つよい面ばかりを強調して、副作用にはまったく触れていない点。アダルト・チルドレンという言葉で救済される人もいれば、より不安を感じる人もいるはずだ(現に、自分はアダルト・チルドレンで母親には依存の病理がある、といって、母親に暴力を振るうようになった青年を私は知っている)。
 「愛」を不可侵な聖域として扱うのも一面的なら、「愛」を危険な中毒物質と捉えるのも一面的で貧しい見方だと私は思うんだけど(関係ないが、宇多田ヒカルの新曲のタイトルは"Addicted to You"だという。共依存の歌なんだろうか)。

 コンビニでサンデーの「じゃじゃ馬グルーミングアップ」を立ち読み。むう、まさかいきなりそういう展開とは。
過去の日記

99年8月下旬 家庭内幻魔大戦、不忍道り、そしてDASACON2の巻
99年8月中旬 コンビニ、液晶モニタ、そしてフォリアドゥの巻
99年8月上旬 犯罪者ロマン、イオンド大学、そして両生爬虫類館の巻
99年7月下旬 ハイジャック、あかすばり、そしてさよなら7の月の巻
99年7月中旬 誹風柳多留、小児愛ふたたび、そして動物園の巻
99年7月上旬 SF大会、小児愛、そして光瀬龍の巻
99年6月下旬 小此木啓吾、上野千鶴子、そしてカルシウムの巻
99年6月中旬 妄想、解剖学標本室、そしてパキャマラドの巻
99年6月上旬 睾丸握痛、アルペン踊り、そして県立戦隊アオモレンジャーの巻
99年5月下旬 トキ、ヘキヘキ、そしてSSRIの巻
99年5月中旬 鴛鴦歌合戦、星野富弘、そして平凡の巻
99年5月上旬 SFセミナー、ヘンリー・ダーガー、そして「てへ」の巻
99年4月下旬 病跡学会、お茶大SF研パーティ、そしてさよなら日記猿人の巻
99年4月中旬 こっくりさん、高い音低い音、そしてセバスチャンの巻
99年4月上旬 日記猿人、生首、そして「治療」は「正義」かの巻
99年3月下旬 メールを打つ、『街』、そしてだんご3兄弟の巻
99年3月中旬 言語新作、DASACON、そしてピルクスの巻
99年3月上旬 サマータイム、お茶の会、そしてバニーナイツの巻
99年2月下旬 バイアグラ、巨人症、そしてドッペルゲンガーの巻
99年2月中旬 クリストファー・エリクソン、インフルエンザ、そしてミロクザルの巻
99年2月上旬 犬神憑き、高知、そして睾丸有柄移植の巻
99年1月下旬 30歳、寺田寅彦、そしてスピッツの巻
99年1月中旬 アニラセタム、成人、そしてソファの巻
99年1月上旬 鍾乳洞、伝言ダイヤル、そして向精神薬の巻

97-98年の日記

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