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更新日: 2004/10/06


2003年 5月下旬

2003年5月21日(水)

谷町の煙突

 赤瀬川源平の『超芸術トマソン』の表紙を飾っていた、あの衝撃的な写真がどこかにないかな、と探してみたらありました。この場所は現在、アークヒルズになり、同じ位置にはサントリーホールが建っているそうな。撮影したのは飯村昭彦さんという写真家の方。
 「トマソン」が次第に話題に上らなくなったのは、街が変化するスピードがあまりにも速くなりすぎたからか、路傍のしょうもないものを愛でる余裕を失ったからか。
 あまりにも有名なので今さら紹介するのは気が引けるのだけれど、「トマソン」的な視点で東京をとらえた素晴らしいサイト東京真空地帯も私の好きなサイトのひとつ。いずれ消えゆく(あるいはすでに消えた)、はかない風景の記録。

All right, now let's all die

 きのうの「ドはドクロのド」の校長先生の事件(?)の英語版記事。
 いや、別に世界に発信するような記事と違うと思うんですが。フォトギャラリーのタマちゃん記事の表紙にこれを持ってくるセンスといい、毎日新聞は日本のバカを世界に発信するのが好きなようです。自虐史観? しかしこのフォトギャラリー、妙に露出度高いです。

町田にてヴェトナム料理を食す

 ゆえあって東急田園都市線の南町田へ。グランベリーモールなる、なんだかアメリカ風のショッピングモールの中にあるヴェトナム料理店「ヴェトナム・アリス」で昼食。1500円の定食は、生春巻や揚春巻など春巻各種盛り合わせプレートに、牛肉のフォーという取り合わせ。ドリンクは、ミニャールという微炭酸のグレープジュースを頼んでみる。
 フォーはライスヌードルなのだけれど、今まで食べたことのあるライスヌードルよりも歯ごたえがあってもちもちしておりました。生春巻も美味で満足。ニョクマムなどの調味料と一緒にパクチーも出てきて、好みに応じていくらでもかけられるのもグッド。
 ただ、ランチにしてはちょっと高いのが難点ですね。できれば1000円以内のランチがほしいところ。

2003年5月22日(木)

ドはドクロのド

 一昨日の谷山浩子版「ドはドクロのド」は、リスナーの投稿だそうです。うーん、そりゃそうだよな。

ツェルレッティ

 八木剛平・田辺英『精神病治療の開発思想史―ネオヒポクラティズムの系譜―』(星和書店)という長ったらしいタイトルの本を読んでます。精神科治療の歴史をたどった本なのだけれど、この中にウーゴ・ツェルレッティというイタリアの精神科医の写真が載っているのですね。
ツェルレッティ これがその写真(クリックすると大きくなります)。
 白衣にスキンヘッド、どこか遠くを見つめる眼、妙に不自然な手の位置、さらには脇に置いてある怪しげな機械と横になった患者(人形っぽい気もするが)、さらには後ろの柱にかかっている時代がかった電話といい、完璧で非の打ち所なし。どこからどう見てもマッドサイエンティストそのもの。まさに、50年代SFホラー映画のスチール写真と見紛うばかりの素晴らしさです。私はすっかりツェルレッティ先生に惚れこんでしまいましたよ。
 このツェルレッティ先生、何をした人かというと、かの有名な電気ショック療法を発明した人物なのですね。やはり電気ショック発明者たるもの、こうでなければ。ツェルレッティ先生、期待を裏切らない男です。
 映画化するならぜひウド・キアーに演じていただきたいものです。いや、別に名前が似てるからじゃなくて。

2003年5月23日(金)

推理作家協会賞

浅暮三文さん、推理作家協会賞受賞!!

 デビュー前からの知り合いだからなんだか不思議な気分。まさか、といえば失礼になるけれど、一般受けしそうにない実験的な作風だから、メジャーな賞は無理なんじゃないかと勝手に思っていたのだけど、杞憂でしたね。同じ講座を受けていた仲間が、推理作家協会賞作家になるとは。なんだか感無量です。
 グレさん、本当におめでとうございます。

2003年5月24日(土)

[映画]マトリックス・リローデッド

 先々行レイトショーで観てきました。絶対混んでいるだろうと思っていたのだけれど、予想に反して劇場には空席も目立ってました。上野という場所柄のせいもあるかな。
 さて映画の方はというと、うーん、あの『マトリックス』の続編という期待が大きすぎたのかなあ。
 まず、前作では出てこなかった「ザイオン」が舞台になる最初のうちはきわめて退屈。台詞でしか出てこなかったからこそ神秘的だったザイオンであって、実際に出てきてしまうとなんてことないのですね。各シップの船長たちや司令官やがいたり評議会があったりというのは、スターウォーズやスタトレでもおなじみの光景なんだけど、別にマトリックスでそんなもん見たくはないのです。乗組員とその奥さんの人情話だって、マトリックスでそんなもん以下略。だいたい、リアルワールドのザイオンが舞台じゃ非現実的なアクションはできないし。
 後半からは、ようやく派手なアクションシーンの連続になるのだけれど、これもまた微妙なところ。すべてのシーンがしびれるくらいスタイリッシュでカッコよかった前作に比べ、より凄いシーンをと求めるあまりインフレを起こして、カッコいいというよりむしろ笑ってしまうシーンが多くなってしまっているような。予告にも出てくるネオvs.スミス100人組み手はどう見ても「真・三国無双」だし、カーチェイス・シーンも、いくらなんでもあまりに非現実的すぎてまったくスリルは感じられません。ネオが片手を伸ばしたスーパーマン・ポーズで飛ぶのもどうか(これは確信犯だろうけど)。ネオもエージェント・スミスも、あまりにも強くなりすぎてます。
 『マトリックス』という映画は前作で完結していたのであり、どのような続編も蛇足でしかないのです。だいたい、主人公が弾丸を空中で止め、空を飛んだあとにいったいどんな続編が可能だというのか。つまりはもともと不可能な続編なわけで、そのわりにはうまくやっているといえるかもしれない(★★★)。
 私としては、11月の『マトリックス・レボリューションズ』より、ジェット・リーが『マトリックス』を蹴って出演した8月の『英雄』の方が楽しみですね。

2003年5月25日(日)

変質者

 私家版・精神医学用語辞典に、変質者という項目を書いてみました。けっこう長くなってしまった。「変質者」という言葉はよく知られていても、その歴史については、知っている人は少ないのでは。
 「変質者」についてはまだまだ調査途中なので、ご意見ご感想をお待ちしております。

2003年5月26日(月)

タイムラフティング

 池袋芳林堂にて「タイムラフティング1」なる小冊子を無料配布していたのでもらってくる。某宗教団体が秋に公開する映画のPR誌なのだけれど、目次がなかなか飛ばしていていい感じである。

特集 タイムマシン――タイムマシン最新情報
■江戸のタイムトラベラー
■ここまで来た!タイムマシン
■カーナビにタイムマシンの原理!?

 もう、実にムー的な懐かしさに満ちていてゾクゾクしてきます(もちろん、読んでみると大したことは書いてないのだけれど)。
 メインはさとうふみやのマンガ「タイム・ラフティング」。こちらはUFOマンガとしてありがちな展開ではあるけれど普通におもしろい。主人公が中学生の男の子で、クラスメイトに幼馴染みの女の子がいる、というパターンは、金田一少年そっくり。宗教臭さはまったくないのだけれど、逆にエル・カンターレ・ファイト!みたいなキメ台詞が出てこないのがちょっと物足りない気もします。美村あきののマンガ「愛は風の如く」も読めて、これで無料はお得というもの。
 ぜひ2号も読みたいものです。

塵理論

 どうしたわけか、今日は塵理論の検索からのヒット数が319件も。イーガン流行りですか?

文京区水道端図書館

 ハヤカワ文庫を全点購入していて、「SF・NV・FT・NF・HM・JA・JR各シリーズの1巻目からズーっと買いつづけて」いるらしい。すばらしい。今度行ってみようかな。

変質者

 ちょっと直す。

2003年5月28日(水)

[読書]三遊亭円朝『怪談牡丹燈籠』(岩波文庫)

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 牡丹燈篭といえば有名な怪談噺。旗本の娘お露の幽霊が、恋人新三郎のもとに赤い牡丹の燈籠を下げてカランコロンと駒下駄の音を響かせ忍んでくる。お露と毎夜逢瀬を重ねたあげく、新三郎は日に日にやせ細ってついには死んでしまう……という怪異譚だと思うじゃないですか。
 違うのだ。
 確かにそういうエピソードはあるにはあるのだけれど、実際に読んでみると、新三郎とお露の話は前半1/3くらいのところで終わってしまうのですね。そのあとに続くメイン・ストーリーは、お露の父飯島平左衛門、妾お国とその愛人源次郎、そして平左衛門の使用人である孝助をめぐる仇討ち話なのである。仇討ちだからして、当然ながら怪異な出来事なんてほとんど出てこない。もうすでに怪談でも牡丹燈籠でもないよ! しかも仇討ち話に突入したら、誰一人としてお露と新三郎のカップルのことなんて思い出しもしないですよ。薄情なやつらだ。いくらなんでも、これじゃストーリーがあまりにもねじれすぎていると思うのだけど、当時の客は誰も気にしなかったんだろうか。
 さらに私は非常に驚いたのだけど、新三郎殺害の真犯人は、実はお露ではなかったのだ! なんと、牡丹燈籠に「意外な犯人」がいようとは。これには吃驚。
 まあ、予想に反して怪談とは言いがたかったものの、だからといって面白くないというわけではない。円朝の語りを速記で起こした本であるため、明治の小説にしては驚くほどリーダビリティが高く、一気に読める面白さである。
 さらに、今の視点から読むと、この作品は、二種類の倫理が衝突した場合、どちらにプライオリティを置くべきかか、というテーマをめぐる物語のように思える。
 たとえば平左衛門の使用人孝助は幼い頃に父親を亡くしているのだけれど、実はこの父親は酒乱で、因縁をつけられてやむなく斬ったのが若き日の平左衛門だったのである。孝助が探している敵が自分であることを知った平左衛門はどうするかというと、わざわざ孝助が殺そうと思っている人物(飯島家を乗っ取ろうとしている男)に化け、わざと孝助に討たれるのですね。なんでこんなめんどうなことをするかというと、普通に自分が敵だと名乗れば、孝助が敵を討つには主君殺しの大罪を犯さなければならなくなってしまい、討つことはできない。ということで、討たれるためには事故を装って討たれてやるしかない、ということのようなのである。どうも、プライオリティとしては忠>孝ということのようだ。
 さらに孝助は後半で、実の母と20年ぶりの再会を果たすのだけれど、この母が再婚した相手の家は、実は飯島家乗っ取りをたくらんでいた妾お国の実家であり、その家にはお国と源次郎が匿われていたのである(このへんの偶然の多用は現代小説の感覚ではなんだかなあ、と思うところだけれど、当時の物語はまあこんなものなのだろう)。いかに二人が悪い奴なのか孝助から聞いた母親は、あなたの敵は私の家にいますよ、と孝助に教える。しかし、母親は思い直すのである。それは再婚した夫(すでに故人)に義理を欠いた行動だったのではないか。そこで再婚先の家への義理を通すため、二人を逃がしてしまうのですね。ここでのプライオリティは、嫁ぎ先の家に対する義理>親子の愛情ということになる。
 結局最後に母親は自ら喉をかき切り、死ぬ間際になって、自分はもう死んだ人間だから、と言って二人がどこへ逃げたか孝助に教える。最初の例でもそうだったけれど、死をもってしか、プライオリティの外に逃れることはできない、ということらしい。
 そんなふうに、江戸の倫理体系の一端がうかがい知れる作品としてもなかなか興味深かったのでありました。

トキドキ

 日本好きのイタリア人シモーネ・レーニョさんのサイト。いきなり「スーパースシレース」なるゲームが始まりますが、左側からメニューに入れます。誤解まじりのジャパネスクがエキゾチックで楽しい……と思いつつ見ていたのだけれど、実はこの方かなり日本のことをよく知ってるのかも。日本人じゃとても考えつかないような大胆な発想と色遣いが新鮮です。
 同じ作者のJapan TributeというFlashアニメも。

Flash Film Festival受賞作品集

 上のトキドキもファイナリストになっているFlash Film Festivalの受賞作品集。とても全部見る暇はなかったけれど、どの作品も凝っていておもしろい。

精神医学

 で検索するとうちのページが2番目に来てしまうことに気づく。ひー、うちのような色物が2番目で本当にいいんですかGoogleさん。

2003年5月29日(木)

ブログ

 すでに話題が旬を過ぎた今になってこんなことを言うのもどうかと思うのだが、どうもウェブログというやつには馴染めない。何やら、あっけらかんとした亜米利加人が屈託のない笑顔を浮かべて、ヤアなどと手を振りながら日本家屋の中に土足で上がり込んできたかのような居心地の悪さを覚えるのだ。
 ウェブログはコミュニケーションを重視する。盛んに他人の記事を引用するし、たいがいコメントエリアがついている。明快で活発なコミュニケーション。実にわかりやすい。これぞ新時代のコミュニケーション! という印象だ。しかし、日本型のウェブ日記の世界には、かつてからもっと別種のコミュニケーションがあったのではないか。
 それについては2001年6月15日2001年9月7日にも書いたことがあるのだけれど、たとえばRead Me!や日記才人の一票のような、きわめて間接的で淡々としたコミュニケーション。日々誰に向けているのでもないテキストを淡々と書き、そしてどこかにそれを読んでくれる読み手がいる、ということに心を癒され、直接感想メールが来たりすると、かすかな苛立ちを感じずにはいられないような、そんな「コミュニケーション」。
 それは、アメリカ人からすればコミュニケーションの名にすら値しないようなものなのかもしれないのだけど、「それはどこか宇宙の果ての知らない星からの長距離電話」(谷山浩子「銀河通信」)であり、「誰でもない他者」からの「あなたがここにいること」への承認のメッセージなのだ。だからこそ、誰が読んでいるかはわからないけれど、「もしもし見知らぬ私の友達 私はちゃんと歩いています」(同上)と日記を書くのである。細い、細い糸で結ばれたような儚いコミュニケーション。そもそもウェブ日記にとってもっとも重要だったのは、そうしたコミュニケーションだったように思うのである。
 そしてまた、ウェブログに限らず最近のウェブの世界は光が明るくなりすぎて、沈黙、夜の闇といった、儚いコミュニケーションを受け入れる土壌が急速に失われているような気がする。真夜中ひとりで黙っていないと、銀河通信は届かない。

ブ日記

 だいたいウェブログなどという言い方はどうも気取っていて嫌いだ。ブログは尚更嫌いだ。ウェブログを略してブログだなどというのだが、頭のウェを省略するという略し方は理解に苦しむ。それじゃウェブサイトはブサイトか。マックシェークはクシェークか。否。サイトでありシェークだ。ならば単にログでどこが悪い。
 ジョブチェンジはブチェンジか。キットカットはトカットか。シャム双生児はム双生児か。ウェブ日記はブ日記か。ああ決めた。今日から私はブ日記だ。ブログに対抗して、昔ながらのウェブ日記のことをブ日記と呼んでやる。この野暮ったさが実にウェブ日記らしくていいではないか。

 このページは風野春樹のブ日記です。ブログではありません。

2003年5月30日(金)

ブログふたたび

 きのうの日記には、たくさんの「長距離電話」をいただいて感謝しております。きのう書いたことの繰り返しになってしまうのだけれど、また今日もブログについて。
 きのうも引用した谷山浩子の「銀河通信」(インターネットなどというものが普及するはるか昔に作られながら、ネット・コミュニケーションを予見していた恐るべき曲)は、「真夜中ひとりで黙っていると 遠く遠くから電話がかかる」と始まるのだけれど、この歌詞は裏を返せば「真夜中ひとりで黙って」いないと、電話はかかってこない、ということだ。すなわち、銀河通信が届くための条件は、「暗闇」と「孤独」と「沈黙」。
 「ウェブログ」や「ウェブジャーナリズム」などというものが語られるときにはまったく無視されてしまいがちなことなのだけれど、昼間の明るさの中では決して聞き取ることができず、暗闇、孤独、沈黙の中でないと届かない声というのもあると思うのだ。
 大きな声で同意を求めたり、賢しらな顔で意見を述べたり、興味深いニュースにリンクを張ったりしなくていい。別に「世界中で別々の場所で別の日常を生きている人たちの真摯な思考が、少しずつ寄り合わさって、力強い言葉になってい」かなくたっていい。むしろ力強さやジャーナリズムなどとは正反対のところにある、耳を澄まさないと聞き取れないような小さな声で語られる言葉。私にとってウェブとはまずそういう言葉が語られる場所であり、またそうした言葉をこそいとおしいと、私は感じるのですね。そして、そんな小さな囁きにも耳を傾ける人がどこかにいるということ、それこそがウェブの大きな可能性のひとつだったんじゃないか。
 たとえるなら、それは夜空の星の会話のようなものだ。漆黒の闇の中、ぽつりぽつりと星が点在していて、ときおりかすかな瞬きで会話を交わしているような光景(大気がないと星は瞬かない、などと野暮なことを言わないように)。それが、かつて私が日記を始めた頃にウェブに抱いていたイメージである。でも、今のウェブにはあちこちに巨大な太陽が輝いていて、星たちの会話は聞き取りづらくなっている。それはウェブ全体が成熟した、ということなのかもしれないのだけれど、もう夜の言葉は必要なくなった、というわけでは決してないと思うのだ。
 もう3年も前の記事だが、人気急上昇中の「ウェブログ」とはという記事には、こんな言葉がでてくる。

「2年前にウェブログを始めたときは、ウェブ上のリソースはあまりに多くて、どこを見るべきかを知らなければ、必要なものを見つけるのが非常に難しかった。その頃、私は自分が真っ暗な広い部屋にいるような感じをはっきりと抱き、電気を点けたいと思った。今では暗い部分はほんの少しになった」

 ウェブログは、はっきりと明るさを指向している。個人と個人をネットワークし、啓蒙(enlightment)しようする。それが、私がウェブログ(あくまで「ウェブログ論」のたぐいで語られるウェブログだが)をうさんくさく感じる理由だ。多くの人がウェブサイトを開くのは、別にウェブジャーナリズムの一翼を担うためなどではなく、「わたしがここにいること」を誰かに承認してほしいからだろう。星の数ほどある個人サイトのすべてが、「わたしはここにいます!」という叫びなのだ。
 ともすればかき消されがちなそんな叫びに耳を傾けること、暗闇、孤独、沈黙の中でしか語られないような囁きに思いをはせることこそが、現在のウェブログ論に欠けているものなのではないか、と私は思うのだ。そしてやはり、暗闇、孤独、沈黙の中で語られる囁きには「ログ」よりも「日記」という言葉の方がふさわしい。
 ブログの可能性がどうのと言っている輩は、初めてネットに接したときの初心を思い出すために、「銀河通信」を100万回聴き直してほしいものである。

2003年5月31日(土)

Cheeky Girls

 イギリスで昨年末あたりから大ブレイクしている20歳の双子姉妹アイドルだそうな。偽t.A.T.u.みたいなものか。デビュー曲は"Cheeky Song(Touch My Bum!)"(わたしのおしりにさわって!)で、ニューシングルが"Take Your Shoes Off"(靴を脱いで!)。聞いているだけで脳が発酵してきそうな歌とダンスは確信犯なんでしょうね。しかもおばかな歌詞の作詞はふたりのお母さんだ!
 なんでもふたりはルーマニアのトランシルヴァニア出身だそうで、トランシルヴァニアからイギリスにやってきた、といえば誰もが思い出すのはかのドラキュラ伯爵。実際、ふたりはイギリスで制作される「ドラキュラ」のテレビドラマに出演するそうだし、ドラキュラの居城として知られるルーマニアのブラン城の一部を買って、ホテルとテーマパークを作ろうとしているとか。やめてくれー、と言いたいのは私だけではあるまい。

[読書]高任和夫『燃える氷』(祥伝社)

 最近話題のメタンハイドレートを大きく取り扱ったディザスターノベル。『日本沈没』に挑んだ小説だそうだ。SFマガジンで書くと思うので、ここには書評は書かないけれど、正しいタイトルで検索するより、燃えるで検索した方が、ヒット数が多い(5/31現在)というのは、なんとも不遇な小説である。

またブログ

 oreniyayakoshiikotowoiunaでコメントされていたのでひとこと。
 yomoyomoさんの記事エヴァン・ウィリアムズ・インタビューとかは読んだけれど、別に私の意見を修正する必要は感じませんねえ。ウェブログの定義も「はっきりしない」ということくらいしかわからないし。そういう意味ではこの日記もウェブログだということになってしまうんでしょう。
 でも、"blogger.com"の開発者であるエヴァン・ウィリアムズは、

すでにブロッグはマスメディアにも広く取り上げられるようになっていますが、そこで登場する典型的なブロッグの定義というのは、いまだに「ブロッグ = パーソナルな日記」という図式です。そして、例に挙げるのは、たいてい16歳のティーンエイジャーが自分の個人的な生活について書いているといったものです。これらはあまり意味がなく、友人や家族くらいにしか読まれないものでしょう。

 と言ってます。この「意味がない」と切り捨てられたものことが個人ウェブサイトの本質なんじゃないか、というのが私の考えであり、そのことをはっきりさせるために「ウェブログ」(or「ブログ」)ではなく「ウェブ日記」(or「ブ日記」)という名称を私は積極的に選びたい、とそういうわけです(そしてまた、八谷和彦が「メガ日記」プロジェクトで確認しようとしたのも、そういうことでしょう)。


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Written by Haruki Kazano