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更新日: 2004/10/06


2003年 6月上旬

2003年6月1日(日)

ウェブ日記とウェブログ

 こんなものができているのを発見。むう、便利なものですね。私もいくつか反応を追加させてもらいました。
 ARTIFACT −人工事実− で書かれていた、「メガ日記は他のメガ日記の言及を禁じ手としていた」というのはなかなか興味深いところであり、さもありなん、といったところです。相互コミュニケーションではなく、独立した個人の日記の集積、というわけですね。私のウェブ日記観も、それに近いものがあります。
 ただ、

 ただ、リンクを張らない日記であっても、本やテレビなどの誰でも閲覧が可能なメディアに刺激されて書いたものは、情報元が「ネット以外だった」というだけであって、Weblogもウェブ日記も変わりません。自分に起こったことしか書かない日記が、真の「孤独なWeb日記」だと思います。

 というのはちょっと違うな、と。誰にも見せない日記帳にだってニュースに関する意見や本の感想は書くわけであって、私のイメージするウェブ日記は、「真にプライベートなことは書かない日記帳」といったところでしょうか。「独り言」を虚空に投げ、私の興味のあることに誰か興味を持ってくれたらうれしい、といったところ。コミュニケーションは「ライト点滅によるモールス信号」(見下げ果てた日々の企て)くらいがちょうどいい。ウェブログのツールやtDiaryの指向するコミュニケーションは、私にはちょっと活発すぎる(今回のコミュニケーションも、私の基準から行くと多すぎるくらい)。

 StrangeIntimacyの意見には、うなずくところが多かったです。私の意見で粗雑だった点を指摘してくれてますね。「孤独な銀河通信でない言葉があるだろうか」という意見は確かにその通り。ブログの中にも夜の言葉はあるし、日記の中にも公共性を指向する要素はある。それは承知してはいるのだけれど、違いを浮き彫りにするために、あえて二項対立の図式を描いて見せた、というところはあります。

 リンクをたどっていって、「リンク」から見るweb日記とblogも今さら拝読。どうも文化圏が違っていたのか、今まで目に止まってなかったんですが(それに対するレスポンスには、私の日記もリンクされているというのに)、「リンク」から見るweb日記とblogでも、

やはりweb日記とblogは違うものであろうと。
むしろ明確に分化していった方がいいのかもしれない。

という結論に達しておられますね。私も同意見です。
 ただし私としては、日本人のウェブ日記の「引きこもり性」、「内向き」性、「独り言」性といったものをマイナスととらえるのではなく、積極的に評価したい。書き手の側の心理については以前の日記で述べたので、今回は読み手の側の話をすれば、あるテーマについて読む(横断的)のではなく、その人の文章だから読む(縦断的)、というあり方の方が私にはしっくりくる(これは私が読書偏愛者だからかもしれないけれど)。そこにどのような情報があるか、どんなテーマについて書いてあるかよりも、その背後に透けて見える書き手の方に私は興味がある。
 たぶんこれは私だけじゃなくて、多くの人がそういう読み方をしてるんじゃないでしょうか。だからこそ日本ではこれだけ更新時刻情報を取得するアンテナが発達したんでしょう。アンテナというのは、ひとつの日記を縦断的に毎日読んでいくのに適したツールです。海外のアンテナ事情について私は何も知りませんが、これだけのアンテナが林立しているのは日本くらいのものなのでは? そして、このアンテナの存在が、日本的なウェブ日記文化と舶来のウェブログ文化の違いを端的にあらわしているような気がします。
 アンテナ文化の祖ともいえるのが"ReadMe! JAPAN"ですが、このネーミングも実に日本的です。"ReadMe!"、すなわち「私を読んで!」なわけで、書き手は「私を」読んでほしいと思っているし、読み手の方も、テーマや情報ではなく書き手個人を読む、という意識が強いのではないか(海外にも"read me"という言い方はありますが、あれはアリスの"drink me"と同じで、文書を擬人化しているわけでしょう。ちょっとGoogleで探してみたのですが、海外サイトでは"readme"ファイルと同じような意味での使われ方が多く、日本の"ReadMe!"のような使われ方は見つかりませんでした)。
 ある話題についてリンクをたどっていっていろんな人の意見を読むのなら、コメント機能やトラックバック機能などが揃っていた方が便利でしょう(私も今回の件で、これまで読んだこともなかった人の日記を読みました)。でも、何が書いてあるかに関わらず、ほかならぬその人が書いた文章だからこそ読み、少しずつその人について知っていく、という読み方の方を私は好む。Web日記に物語をみるといった読み方ですね。
 すなわち、主題志向のウェブログに対し、個人志向のウェブ日記(むろん完全な主題志向も完全な個人志向もありえないし、ウェブログを縦断的に読むことだってもちろん可能なのだけれど、あえて対立軸を設定してみます)。そして、「風野さんの日記は十分ブログ的だと思います」という意見もあるにしろ、私は個人を志向したいから、ウェブ日記という名称にこだわりたいと思うのです。

2003年6月2日(月)

アンテナ

 掲示板に投稿されていた、ドリフェルさんの意見を引用しておきます。きのうのアンテナについての話で抜け落ちていた部分を指摘していただいたので。


むかしは、ネット上の存在は、さまざまなリソースの制限に制約を受けていたことを忘れてはいけないと思います。特に高価な個人常時接続を使ってサイトを公開していた人などは、更新されたか否かをチェックするためだけにアクセスされるとバンド幅を食い尽くされる状況がありました。

当時において、RSS的なものでなく、一点に集約したアンテナが発達したのは、その制限があったからではないのでしょうか。「バンド幅の太い(環境にいる人の)ところにアクセスを集める」というアングラ的な方法が、さまざまな分野で行われていました。

もう一つ、テレホーダイのことを忘れてはいけないと思います。日本では、個人ユーザにとっては、インターネットとは深夜に孤独にアクセスするものだった時代が長かったのです。
アメリカでは昔から昼でも定額でしたし、blogが出て来た比較的新しい時代には、リソースの制約は桁違いに低かったでしょう。インターネットと日常との親和性が高いのです。

もともとの文化圏が持つ文化的規約の他に、それが発達したタイミングがそれの文化のコードを規定しているという面があるのではということで。

 確かに、「日本人のメンタリティ」みたいなあいまいなものではなく、技術的な制限のような形而下的なものが文化を規定しているという側面は忘れてはいけないですね。かつてのパソコン通信やインターネットで「夜の言葉」が語られがちだったのも、テレホーダイの影響が大きいのかもしれません。

誤字

 フクさん(03/05/29)が、
(正)「小川勝」約1,050件 ←→ (誤)「小川勝」226件
 など、ミステリ系の作家名や作品名の誤表記をGoogleで調査していたのだけれど、何を隠そう私はかつて「教諭」←→「教論」「大使館」←→「大便館」などをぐぐってみた男、こういうのを見ると自分でももやってみずにはいられない。
 そこで、やってみましたSF・ホラー篇(誤字でのヒット数÷全ヒット数を「誤記率」とした)。
 まずは推理作家協会賞作家のこの方から。
(正)「暮三文」1830件 ←→ (誤)「暮三文」96件(誤記率5%)
 うむ、意外に(というのは失礼か)少ない。浅暮さんは安心するように。
 続いて間違えやすいのがこの方。
(正)「倉鬼一郎」3940件 ←→ (誤)「倉鬼一郎」552件(誤記率12%)
 なお、「倉坂鬼一郎」で検索してもまっさきに倉阪氏本人のサイトが出てくるのは、「これらのキーワードは、このページにむけて張られているリンクに含まれています」という理由からである。
 しかし、ホラー界には、長らく活動している大ベテランであるにも関わらず、絶えず名前を誤記され続けている不運な作家がいる。
(正)「菊秀行」11700件 ←→ (誤)「菊秀行」4090件(誤記率26%)
 なんと26%! 確かに「菊地」と「菊池」は間違いやすい。
 ちなみに、
(正)「菊桃子」18500件 ←→ (誤)「菊桃子」2650件(誤記率13%)
 と、こちらの方は比較的正しく認識されているようだ。
 続いて誤記率が多いのは最近人気急上昇中のこの方。
(正)「方丁」849件 ←→ (誤)「方丁」228件(誤記率21%)
 さすがにこの方の名前は間違えないだろう、と思ったら……
(正)「浩江」4750件 ←→ (誤)「浩江」139件(誤記率3%)
 意外に間違われているものである。間違えている139人の人は、「くだひろえ」だと思っているのだろうか。すると、そういう人は、いつの日か「くだひろえの『五人姉妹』は感動的でしたよ」などと口にして、「え、すがひろえのこと?」と聞き返されて赤っ恥をかくことになるのだろうか。その日が来るのが楽しみでならない(意地悪)。
 ということで、人の名前は正しく書きましょう(自戒もこめて)。

『嗤う伊右衛門』映画化

 だそうです。監督は『青の炎』を撮ったばかりの蜷川幸雄。伊右衛門は唐沢寿明、岩は小雪。

御恵贈御礼

 このところ本をいただくことが多かったので、この場を借りて御礼申し上げます。

平谷美樹『約束の地』(角川春樹事務所)
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神林長平『ライトジーンの遺産』(ソノラマ文庫)
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藤崎慎吾『クリスタルサイレンス』(ソノラマ文庫)
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斎藤環『OK? ひきこもりOK!』(マガジンハウス)
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春日武彦『何をやっても 癒されない』(角川書店)
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 ありがとうございます。

2003年6月3日(火)

土砂降り

 「土砂崩れ」は土砂が崩れることだが、「土砂降り」は土砂が降ることではない。
 「土砂降り」という発音には、いかにも豪雨といった響きがあるのだけれど、「土砂のように降る」ということなのだろうか、それとも「どしゃ」という擬音に「土砂」の漢字を当てたのだろうか。
 こういうどうでもいいことが、気になる。

ドイツのフォークリフト教習ビデオ(WMV直リンク)

 まあ何も言わずに見てください(ほんとは、2000年に制作されたドイツのショートフィルムらしい。IMDBではなんと10点満点で8.4点の高得点!)。

 追記:リンク先のサイトからクレームが来てしまいました。ここからリンクされたせいでトラフィックが増えて追加料金を払わなきゃならなくなった、とか。サイトには「動画への直リンク禁止」とドイツ語で書いてあったそうです(といわれても読めないのだけど)。追加料金の一部を負担してもらうから、払いたくないならうちの弁護士に連絡させるから住所を教えろ、とか言ってます。うーむ。
 とりあえず直リンクはやめ、トップページにリンクを張っておきますので、フォークリフトビデオが見たい方は自分で探してください。

ここ

 自分の過去日記にリンクを張るときに、「ここ」とアンカーをつけるのはやめたほうがよい。「ここ」じゃわかりにくいし、引用したときにわけがわからなくなる――というメールをいただきました。
 今まであまり気を遣ってこなかったけれど、なるほどと思ったので5月29日の日記を一部修正。
 ただ、私としてはむしろ、日記を数年後に読んだときに意味が通るか、ということの方が気になります。たとえば外部にリンクを張った場合、外部のサイトはいつなくなるかわからない(特にニュースサイトの記事はすぐ消えますね)。だから、たとえリンクが切れても、このサイトだけを読めば意味が通じるようにしておきたい、外部に依存しない文章でありたい、と私は思っています(実際はそうなってないところもけっこうあるのだけれど。まあ、努力目標です)。
 あと、私がどうもはてなダイアリーを使う気になれないのも、それに通じる理由からです。はてながサービスをやめたときに別の場所に日記を再生できるかどうか。まあできるのだろうけれど、かなりめんどくさい気がします。それに対して、今のようにオフラインで日記を更新していれば、手元にhtmlファイルが揃っているので、niftyがぶっつぶれてもいつでも日記を再生できる。日記とは大げさなことを言えば私の人生の記録の一部なわけで、完成形が、いつ消えてなくなるかわからないオンラインにのみ存在するというのはどうも信用ならない気がする。こういう感じ方をするのは少数派でしょうか。
 これもまた、「横断性」志向と「縦断性」志向の違いなのかな?

心神喪失者処遇法案、参院法務委で強行採決

 要するに、重大な犯罪を起こした精神障害者をどうするか、という法案なわけです。いうまでもなく、池田小事件をきっかけに作られた法案ですね(もっとも宅間被告自身は、この法案でいう心神喪失者ではないのだけれど)。
 はなはだふがいない話ではあるのだけれども、私はこの法案には「消極的に反対」というぐらいしかいえません。措置入院の制度だけですべてをまかなっている現在の状況はかなり無理があるので、こうした法律が必要であること自体は認めるものの、この法案が最良とはとても思えない(だからといってどういう法案がいいかと問われれば口ごもるしかないのだけれど)。
 第一、社会復帰プログラムすら未整備な段階でこんな法律だけ作っても、病院があふれる一方でいっこうに社会復帰が進まないという状態になりかねない(とはいえ、それは現状とまったく変わらないのだけれど)。当然ながら、現在の日本には「重大犯罪を起こした精神障害者の社会復帰」の専門スタッフなんてひとりもいないので、制度がスタートしても数年は手探りの状態が続くでしょう。さらに問題は、「重大な犯罪を起こした患者」と「処遇困難で再犯のおそれの強い患者」はまったく別だということ。たとえ殺人を犯したとしてもきちんと服薬すれば安定した生活を送れる患者もいれば、今まで軽微な犯罪しか起こしていなくても、被害妄想がなかなか抜けず重大な犯罪を起こしかねない患者もいる。ゆえに、この法案が成立したとしても、精神障害者による重大犯罪が減るという保証はまったくない(私はほとんど減らないとみています)。
 ただ、「人権派」な人たちとか一部の精神障害者団体みたいに、エキセントリックに反対の声を上げる気にもなれません。それは要するに、患者の完璧な治療も、社会の完璧な安全も、どちらもありえないから。どちらも不可能な以上、ま、このへんでいいか、という社会的な妥協点を見出すしかない。どんな制度を作ろうが人権派にとっては(そして「社会の安全」重視派にとっても)不満なものになるしかないのです。おそらく、この制度ができたとしても、精神障害者による重大犯罪は起こり続けるでしょう。そして精神病院内での不祥事もまた。そしてそのたびに法律は振り子のように改正され続ける。私たちはその制度の範囲内で、良心に恥じない治療をすることしかできない。
 だから、旗幟を鮮明にせよ、などと言われると困ってしまう。なんとも頼りなく見えるかもしれないけれど、これが私の正直な意見です。

2003年6月4日(水)

神保町にてスマトラカレーを食す

 有里さんが「私の舌には合いませんでした」と書いていたので無性に食べたくなり(天邪鬼)、大正13年創業の老舗、神保町のスマトラカレー共栄堂へカレーを食べに行く。
 注文したのは牛タンカレー1500円也(ちょっと高い)。しばし待ったあとで出てきたのは、まるでシチューのような浅い容器に入ったカレー。ルーは黒褐色で、しかも妙にとろりとした粘り気がある。大きなタンがぜいたくに入っている上、クリームまでかかっていて、どう見てもカレーというよりはシチューである。ライスにかけて食べてみると、苦いような甘いような、なんとも表現しがたい不思議な味。辛さはほとんどない。少なくとも、私の知っているどんなカレーとも違う味である。本当にスマトラ島ではこんなカレーを食べているのか。いや、インドネシア料理は何度も食べたことがあるし、バリ島にも行ったことがあるが、こんなカレーはついぞ食べたことがない。たぶんこの店でしか食べられないオリジナルなカレーなのだろう。うまい、とも、まずい、とも断言できないのだけれど、今までのカレーの常識をくつがえす味であることは確か。難点は、ライスが大盛りぎみなので、普通に食べているとルーが足りなくなってしまうこと。
 昼食時だからか、私が食べている間にもお客がどんどん入ってきていたのだけど、注文するのが例外なく「ポークカレー」だったのが謎。結局、タンカレーを注文する人は私以外ひとりとしていなかった。ポークカレーがいちばん安いからか。それとも何か暗黙の掟があるのか。

朝日新聞見出しデータベース

 「朝日新聞見出しデータベース」というものを触る機会があったので、ちょっと調べてみたのだけれど、これはかなりおもしろいです。
 たとえば「変態」の使われ方を調べてみると、1947年8月20日には「少女専門の変態男」、1950年12月7日には「変態男を検挙」、1954年5月10日には「変態男の温床」と、いかにもおどろおどろしげな犯罪記事に使われているのだけれど、その後は犯罪記事にはまったく使われなくなり、80年代になると「“変態”進むゆらぎ社会」など、カッコつきで扱われるようになる。1999年になると、「がきデカ『変態』のみなさんへ ギャグマンガの物語」と、肯定的なイメージすら感じられる、という具合。
 続いて「狂人」。1950年代の記事には、「何せ相手は狂人 放火魔山狩り」「見舞に来た女が狂人毒殺か 武蔵野病院で怪事件」「大森に煙突男 家出してた狂人」「狂人患者大あばれ 松沢病院で一名死亡」「狂人、狂人を殺す」「狂人が人妻を刺殺」「狂人、旅客機を爆破 ベネズエラで十人死ぬ」など、狂人のオンパレード。
 事件記事の見出しに「狂人」が使われたのは、1964年の「小学校ボヤ、意外な“狂人”二百メートル離れた避雷器」(いったいどういう事件なんだろうか)で、その後は「狂人演じたゴダール」、「色川武大著『狂人日記』書評」など、文化欄の記事ばっかり。
 確かにこうした新聞記事の見出しは偏見に満ちあふれているのだけれど、一方で、なんとも江戸川乱歩的なイメージ喚起力に満ちていて、見出しを読むだけでぞくぞくしてくるのも事実ですね。偏見とは要するにイメージなのだから当然のことか。

マンギョンボン号

 舌の上で転がすと妙に心地よくて、なんとなくモダンチョキチョキズの「ボンゲンガンバンガラビンゲン」などを思い出す今日この頃。

小森健太朗

 小森健太朗さんは本名が小森健太郎なので、確か初期の翻訳書は「小森健太郎」名義だったはず(北村薫編『謎のギャラリー 謎の部屋』でも「小森健太郎」名義でした)。ということで、どっちも間違いとは言えないですね。まあ、たいがいが誤記なのでしょうけれど。

厚木淳氏死去

 火星シリーズほかバローズの諸作、銀河帝国の興亡、ニーヴンの「魔法の国」シリーズ、ディクスン・カー、そして数多くの文庫解説などなど、厚木氏の紹介で親しんだ作品は数知れません。それに、ああ、創元版ターザンの続巻を楽しみにしていたのに。
 厚木淳インタビューにリンクしておきます。

2003年6月5日(木)

The Incredibles

 ブラッド・バード監督5年ぶりの新作がついに! 引退した中年スーパーヒーローという、わりとありがちな設定のようだけど、そこは『アイアン・ジャイアント』で世界中のオタクたちの心をわしづかみにしたブラッド・バード監督のこと、ただのコメディでは終わらないはず。公開は2004年11月5日。1年半も先か……。

變態性慾心理

 ネット古書店で買った、クラフト=エビング『變態性慾心理』(大日本文明協會 大正2年)という本が届く。同じ本の別訳『変態性欲心理学』(河出書房 昭和31年)は持っているので、これで二冊目。ただし、まったく同じ本かというとそうでもなく、新しい版では省略されているところもあったりして、比較してみるとなかなかおもしろい。それ以上に、大正版は昭和版よりも訳がはるかに格調高くてよいのです。
 たとえばこんな感じ。

 一人の男あり。月に一回、一定の日に情婦の家に赴き、女の額に懸かれる髪を切るを例とせり。蓋し、こは本人には非常に強き淫好となれるものにて、其他に女に對して何等の要求をなせることなし。

 維也納(ウィーン)に住める一人の男ありき。多くの妓樓に赴けるも、唯、女の顔に石鹸を塗り、之に剃刀を當て、恰も髯にても剃らんとするが如き状をなし、以て強き淫好を感じ、射精を催すを常とせり。而も一度も女を傷けたることなかりき。

 なんだかまるで今昔物語か何かの一篇のようではないですか(そんなことない?)。

 一婦女の語る所に據れば、結婚の夜及び次の夜も、彼女の夫は唯、妻に接吻し、妻の餘り多からざる毛髮を撹き亂し、斯くて滿足して後就眠せり。第三夜には彼は長き髮を飾れる鬘を購ひ來り、之を妻の頭に載せんことを乞へり。而して妻が之をなすや、男は今まで躊躇せる夫婦の義務を十分に果たせり。翌朝も彼は柔和にして、先づ鬘を賞したり。彼の妻は煩はしくなりしを以て鬘を去りしに、夫に對する刺戟を失へり。妻は夫に一種の妄想のあるを覺り、夫の淫好及び淫力が鬘に關係あるを知り、夫の慾望を充たさんことに努めたり。(中略)五年後に妻は二兒を擧げ、鬘は五十二箇に達したり。

 何もオチまでつけなくても。

 男子の音聲が婦人を蠱惑すること大なるものあり。かのテノール唱歌者はバリートン若しくはバス唱歌者よりは此點に於て有利なる地位にあり。ビネーに據るに、某婦人にしてテノール唱歌者に迷ひ、夫を捨てたるものあり。

 だからなんだ、と言いたくなってくるが、「3大テノール」がいるのに「3大バリトン」がいないのはこういうわけか、と思ったり。
 続いて、こんな例も。

 マニャンの報告したる例に據れば、三兒を有する若き妻が、一日(あるひ)夫に向ひ、自分には愛する若き男あり。彼との親密なる交際に對し、夫の妨げざらんことを要求せり。斯くして燃ゆるが如き情火を以て彼は愛する男と六个月間を送り、再び夫の家に歸れるも、夫や子女は彼女の愛人に對し何等の權威も、價値もなかりき。遂に彼は遠く精神病院へ送られたり。
 斯くの如き妻の他の男に對する戀愛は、性慾病理學の領域にありて、尚十分に、之を闡明する必要あるべし。余には斯かる例證五あり、何れも重篤なる遺傳を有し變質性のものなり。而して其病的状態は發作性に現る。其一例にありては週期的にして、比較的健康なる時との境劃然たり。健康状態にある時は、非行に対し深刻なる後悔あり。されど避くべからざる精神的異常なる状態に陥れるが為めなることは感ぜざるが如し。
 病的状態の持続する間は、夫及び子女に対し、全く不管性にして、夫には寧ろ嫌悪の傾きあり。何れの例にありても、医師鑑定の以前に既に夫竝びに家人が、妻の斯かる非行をなすは精神病に因るならんと想像するは注意すべきことなり。

 長くなってしまったが、要するに「好きな人ができたから邪魔しないでね」と夫に言い残して若い男と出て行った妻が、6ヵ月後に帰ってきたときには夫も子供にも無関心だったために精神病院へ入れられてしまったという話。クラフト=エビング先生によれば、これは発作性の病気であって精神病なんだから、夫や家人は注意しとけ、とのこと。
 いや単に家庭が嫌になっただけじゃないの、と現代の私は思うのだけれど、当時はこういう妻は精神病扱いされて精神病院に入れられてしまったのですね。すごい時代である。

2003年6月6日(金)

ぐぐる
 そういえばいつから「ぐぐる」って使われだしたのだろう?
平穏無事な日々を漂う2003年6月1日)

 秋口からでしょう。

 という回答を思いついたのだけれど、それほどおもしろい答えでもないので書くのを躊躇しているうちに、もう元の日記は5日も前になり、ますます書きにくくなってしまったのだった(なら書くなよ)。
 これだけだとあんまりなので、ついでに英語の"google"について。英語では"google"はすでに動詞化していて、2002年のアメリカ流行語大賞第2位(ちなみに1位は「大量破壊兵器」で3位は「ブログ」)。The Word Spyによれば、動詞"google"は、「グーグルで検索する」ことばかりでなく、「ネットで恋人を探す」意味でも使われてるし、「靴下の片一方をぐぐる」などという人までいるそうな。それに、どうやら"google"は新聞でも使われるほど一般化しているみたいだ。
 ちょいと「ぐぐって」みると、日本で「ぐぐる」が動詞として使われるようになってきたのは、昨年あたりからのよう。ざっと探してみた範囲では、日付がわかる最古の例(いつも読んでる日記だったりする)は2002年4月。2典Plusには「ググる」で載っているので、どうやら2ちゃんねるが発祥の地のようだ。2ちゃんの過去ログを掘り返してみれば、さらに古い例が見つかるかな……と思ってたら、こんなの見つけました。

183 :名無し雀 :02/01/15 16:29
 たしか師匠の本名でググると勤務先引っかかったはず。

 いや別に他意はないのだけれど、なぜにこういうサイトばかり引っかかるのか。

狂人と犯人

 一昨日の朝日新聞見出しデータベースについて、「小学校ボヤ、意外な“狂人”二百メートル離れた避雷器」という見出しの「狂人」は「犯人」の入力ミスなのでは? というメールをいただきました。
 なるほど、確かに「意外な“狂人”」より、「意外な“犯人”」の方が意味がスッキリする。これはデータベース入力時のミスという可能性が高そうですね。
 そうすると、朝日新聞の犯罪記事で最後に「狂人」が使われたのは、1961年2月8日の「狂人、二度目の殺人 長野」ということのようです。

心の闇

 ちなみに、「心の闇」が初めて見出しに登場したのは、1997年6月30日の特集記事「14歳『心の闇』」から。6月30日は、神戸の連続児童殺傷事件の犯人が逮捕された翌日で、それ以前には一度として「心の闇」という言葉は見出しには使われていない。「心の闇」という言葉は、朝日新聞の特集記事のタイトルから一般化していった、ということでよさそう。1999年には「心の闇や業描く 『大菩薩峠』」という具合に、ふつうに使われるようになっている。

2003年6月7日(土)

続・ぐぐる

 掲示板で教えていただいたのですが、きのうThe Word Spyでの動詞"google"の使い方は、グーグル社の代理人から抗議を受けたそうです。ただ、私の読んだところによると、別に動詞として"google"を使うな、ということではなく、"google"は「グーグルでサーチする」という意味だけに使うべきであって、グーグルに限らず「サーチする」こと一般に"google"を使うような用法を正当化しないでくれ、ということのようなのだけど、違うかな?
 サイト管理者は、いや確かにそれは正論なんだけど、言葉は生き物なわけで、実際「サーチする」という意味で使われてるんだからしょうがないじゃん、と答えてます。
 セロテープじゃないセロハンテープをセロテープと呼ぶな! というようなものですか。株式会社テトラ製でない消波ブロックはテトラポッドと呼ぶな、とか。

四国中央市:合併後の新市名に反対の声 「センスがない」

 確かに「四国中央」は大きく出すぎてるような気がするのだけれど、それなら青森県にも「東北町」というかなり大きく出た町があります。なんでも、「乙供」か「甲地」かどっちにしようか争っていたところ、村長が調停案として東北町を提案、このネーミングのスケールの大きさにみんな圧倒されて町名が決まったのだとか。
 その東北町を含む上北郡は、現在合併協議中らしいのだけれど、「新市名称募集結果」では、さらにさらに大きく出た「日本中央市」も候補になってます。なんで本州の果て青森で日本中央なのかといえば、東北町は日本中央の碑の出土地だから。実に由緒正しい日本中央なのだ。ぜひ、青森県上北郡は、日本中央市になってほしいものです。

T線

 T線とはテラヘルツ波のこと。サブミリ波よりちょっと波長が短い電磁波。このT線を使えば、男たちの夢、服を透視できるカメラが作れるかもしれないらしい。space.comの記事と、Technology Reviewの記事StarTiger社のサイトには、服を着た人物を透視した動画があります。
 ……しかし、なんでモデルがでっぷりと太った男なのか。

2003年6月8日(日)

blog(verb)

 "google"の動詞化についてはおととい書いたのだけれど、"blog"もすでに動詞化しています。たとえば、"Have You Blogged Today?"(今日はブログした?)みたいに。これは自動詞として使われている例だけれど、"blog"には他動詞としての使われ方もあって、例えば"The War Will Be Blogged"(戦争はブログされるだろう)とか、"Dave Winer Blogged Me!"(デーヴ・ウィナーがボクをブログしてくれたよ!)のような具合。この場合は「ネタにする」というような意味だろうか。
 しかし、最近言葉ネタばっかりですね。

[読書]古橋秀之『IX(ノウェム)』(電撃文庫)

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 金庸の武侠小説ライトノベル版。さすがに器用な作者だけあってうまいしおもしろいのだけれど、これならオリジナルの金庸を読んだ方がさらにおもしろいような気もする。気になるのは、カバー袖のあらすじにネタバレが含まれていること。それに関連して、冒頭の13、14ページである登場人物のことを「○○」と地の文で書くのはアンフェアではないのか……。別に本格ミステリじゃないから気にすることはないのか。

昭和3年の夢

 昭和3年の「神経学雑誌」第29巻第1号に、東京帝国大学の吉益修夫による「夢の心理学=精神病学的研究」という論文が掲載されている。健常者の夢、精神障害者の夢、犯罪者の夢などを比較した上で、フロイトの夢理論の批判にまで至るという長大な論文なのだけれど、現在の我々からすると、論文の趣旨よりも前半部で当時の普通の人たちの夢がいろいろと紹介されているのがおもしろい。
 なお、ひらがなだったりカタカナだったり句読点がなかったりと、えらく読みにくかったり、仮名遣いに間違いがあったりするのは、被験者の文章をそのまま掲載しているからである。

とだなのなかからおにがきて僕のくびをぐつとをさへたのでをどろいてめをさますとゆめだつた。(同伴情緒―恐シカツタ)
10歳(東京市小学♂)
きのうのしるまうちのまいおとうりながらうちの中をさがしていたのでぼくはふしぎに思つたねるとこそこそとおどかしたのでめをさますとどろぼがはいつてきたのでもくるとどろぼおがころそうとしたのでこはいというとそれはゆめなのでおかあさんがなんですかといつたのでなんでもないといいました。(同伴情緒―恐シカツタ)
10歳(東京市小学♂)
或日僕がうらえしよんべんをしに行つたら死人がおがくづの中から出てきた。僕はちやつとねどこの中にすつこむとそれはゆめであつた。(同伴情緒―恐シカツタ)
10歳(名古屋市小学♂)
僕がねてゐるとえんまがこら、てまい此馬にのれといひましたのでのるとやぶへつれていきましたので僕はなきました。(同伴情緒―恐シカツタ)
10歳(大垣市小学♂)
ある時ボクガ山ヘ一人タケトリニイツテヲニニ、ヲワレテカケリ、カケッテコケテ、カマレタヤウナ夢。
10歳(鳥取県下小学♂)
しんだおかあさんが出てきて私のことをおまいおとなしかつたかとゐいましたのでええとゐひますとそれじや又くるからえとゐつてしまつたので私はつまらなくつてないてゐるとおさむらいがきて私をころしてしまひました。(同伴情緒―不快ダツタ)
10歳(東京市小学♀)

 当時の子どもたちの夢には鬼とか閻魔とかがよく出てきたようだ。最後の例など、死んだ母親と話していたかと思うといきなりお侍に殺されてしまう唐突さが、いかにも夢らしい。
 続いて16〜18歳くらいの夢。

唯一人デ狹イ路ヲイソイデ歩イテヰタ。後カラ何カ騷イデ私ノ後ヲ附イテヰルノガ分ルガ後ヘ向フトシテモ首ガ廻ラナイ。前ヘハイクラデモ足ガ出ル、カマハズ進ンデヰクト兩側カラ幾百幾千トモナク小サナ蛇ガ屋根ノ上カラ落チテクル、後ヘマハル事モ出來ズ、又前ヘ進ムコトモ出來ナクナツテ了ツタ。誰モ助ケテクレズ自分ノ泣聲デ目ヲ明イタ(同伴情緒―恐シカツタ)
16歳(名古屋市高女)
去年亡くなつた母とお座敷でお話しをしてゐました。母は絶えずにこにこして私の顏を見て居ました。私が「母さん今どこにゐるの」ときくと母は「遠い所に」と云ひて立つて行きました。私は亡き母であると云ふ考は少しもありませんでした。(同伴情緒―何ともなかつた)
17歳(名古屋市高女)
自分は少しも學科をしらべて行かなかつた日に突然何かの試驗があつたのだ、その時は何も書くことが出來ずほんとうに恐しかつた。
18歳(大垣市中学)

 当時から、学生は試験の夢を見ていたわけですね。続いて大学生の夢。

或る女が私に迫つてきた―たしか私を戀していたそして私も惡感をいだいていなかつた女であるし名さへ云へる―彼女は一人の子供をつれて私をひきとつてくれと云ふ、私は自分の子供かと尋ねたらそうでないと云ふ、いやだと、のがれる、迫る、かくて苦しい一夜中この夢を見つゞけた。
21歳(東京市私立大学♂)
或る女に接吻してる夢を見た。その女は一面識もない者である、召使の樣な種類。
24歳(東京市私立大学♂)

 いきなり生々しくなってくる。さすがは大学生。

2003年6月9日(月)

[読書]冲方丁『マルドゥック・スクランブル The First Compression―圧縮』(ハヤカワ文庫JA)

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 まずは、虐待とトラウマという難しいテーマに、男性の身で正面から切り込んだ蛮勇に感心してしまう。どう描いても、あんたにはわかってない! と非難されそうで、逃げ腰になってしまいがちなテーマを、しかもエンタテインメントとして描くという困難さ。重いテーマを作者自身消化しきれていないような印象も残るのだけれど、少なくとも男性である私は、前半ではたいへん居心地の悪い気分を味わったことは確かです。こういう大胆なことができるのは、やっぱり若さゆえなんでしょうか。
 とはいえ、そうした重いテーマに必要以上に深入りすることなく、エンタテインメントとしての爽快さも失わないあたりが、作者のバランス感覚の巧みさなんでしょうね。後半のガンアクションは実に映像的でテンポよく痛快だし(確かに『マトリックス』を観て焦った気持ちはわかる)、卵をめぐる比喩や造語づくしの文章も嫌味にならないぎりぎりの線で持ちこたえている。後半ではスナークだのプージャム(本当は「ブージャム」だけど)だの、キャロル用語が頻出するので、一応ルイス・キャロルの「スナーク狩り」は読んどいた方がいいかも。
 ところで卵にキャロルといえば、有名なあのキャラクターが出てきてないけど、それは続巻のお楽しみなのかな?

 ところで、有里さん感想リンク集が消えてるのですが、どうしたのでしょうか?

[読書]尾崎紅葉『金色夜叉(上)』(岩波文庫)

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 このところなぜか古いものに凝ってまして、こんなものまで読んでおります。読んでみて思うのだけれど、古い時代の小説の面白さってのは、SFに通じるものがありますね。異質な世界を描いてみせるのが私の考えるSFの面白さのひとつなのだけれど、SFはあくまで現代の日本人やアメリカ人が描いている以上、その異質さにも限度がある。異世界のはずなのにアメリカ中心的な世界観が見え隠れしたりすると、もう興醒めの一言。それに対し、明治や江戸といった古い時代に書かれた小説は、まさに現代とは異質な世界の中、異質な論理で動く人々を描いた異世界小説なわけだ。ある意味SFよりSFらしい作品といえるかもしれない(もちろんSFの「サイエンス」の部分は期待できないのだけれど)。

 さて、タイトルは知っているけれど読んだことはない人の多い作品の代表格ともいえるこの『金色夜叉』、熱海の松原で貫一がお宮を蹴っ飛ばして「今月今夜のこの月を僕の涙で曇らせてみせよう!」と見栄を切る場面があまりにも有名なのだけれど、実際読んでみると、イメージとはだいぶ様子が違う。
 貫一、かなり情けないのだ。
 だいたい、この台詞を口にする場面で、貫一はお宮を蹴飛ばしていない。泣きながら取りすがっているのである。未練たっぷりに取りすがり、泣き落としたり脅したり(刺殺して一緒に死ぬとまで言っている)とさんざん口説いたあげく、それでもお宮が戻ってこないとわかるといきなり「ちええ、(はらわた)の腐った女! 姦婦!!」と奇声を発したかと思うと蹴飛ばすのである。ひどい奴だ。
 そもそも、お宮はダイヤモンドに目がくらんで愛する貫一を裏切ったのかといえば、これまたそうでもない。貫一とお宮は一応幼い頃からのいいなづけということになっていたものの、別に結婚を約束しているわけでもなんでもないのだ。それを勝手に貫一の方がお宮を女房呼ばわりしているだけ。貫一はお宮にラブラブだけれど、お宮の方は別に貫一のことをそれほど思ってるわけでもない、むしろ持って生まれた自分の美しさという能力を最大限に生かして、地位のある夫を手に入れたい(当時としては女性が自己実現するにはそれしか方法がなかったのだろう)と考えているようなのだ。どうも、既得権益の上にあぐらをかいているのは貫一の方のように思えてくる。
 さて貫一がお宮を蹴飛ばしてから4年後、貫一はクールでニヒルな高利貸し(アイス)の手代として、業界ではちょっとは知られた身になっている。彼に「あたしと組まない?」と声をかけるのが、「美女クリイム」(美女の高利貸し=氷菓子(アイスクリイム)だから美女クリイムなのである)の異名をとる同業者の女。これが、19のときに父親の借金の方に取られて禿親父金貸しの妾になるも、意外な商才を発揮して今ではすっかり事業を取り仕切っている美女、というなかなかかっこいいキャラなのだけれど、出番が少ないのが残念。
 貫一はこの美女に愛されて食事に誘われたりするものの、ひどく冷たくあしらってしまう(もったいない話だ)。貫一はあくまでお宮を愛しているのだ。だからといって金を稼いでお宮を奪いに行くのかといえばそうでもない。お宮は恋しいけれど、恋しいのは今のお宮じゃなく、5年前のお宮だ、だから金を稼いでも虚しい、と貫一は言うのである。いったい何がしたいんだ貫一。
 というわけで、上巻を読んだ限りでは、自分勝手で優柔不断な男がうじうじと悩んでいる話にしか見えない。お宮の方も性格が途中でねじれてしまい、最初はそれなりの野心をもっていて、あんまり貫一のことは好きでもなかったはずなのに、蹴飛ばされて気が変わったのか、いつのまにか貫一をひとすじに愛していることになってしまうのが不思議である。


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Written by Haruki Kazano