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4月30日(月)

▼参加者よりも早いSFセミナー特別編レポート byロバート・J・ソウヤー。サプライズ・パーティは喜んでいただけたようでなにより。尾山則子さんが"Mr."になっているのと、パンフレットの似顔絵を描いた妻の名前が"Mami Kazno"になっているのはご愛嬌?

▼きのうに引き続き、今日もカナダである。赤坂ツインタワーで行われている「カナダ映画祭2001」を観てきました。
 まずは『アニメ&短編特集 Bプログラム』
 唯一の実写作品デイヴィッド・クローネンバーグ監督の短編映画「カメラ」は死を意識した老優の独白とカメラを回す子供たちを対比させた作品だけど、台詞が中心の作品なのに字幕がないのがつらかった……。
 アニメは、おばあちゃんとかおじいちゃんと孫の交流を描いたほのぼの作品が多かったですね。なかなかいい作品がそろってました。
 「ブリー・ダンス」は学校でのいじめを扱った作品。重いテーマのわりに軽妙な映像センスが見事。カナダにもいじめがあるんですね。
 「巣穴戦争」は、鉛筆画?を動かしたアニメーション。ちょっと道徳的なくさみがある。
 「おばあちゃんと一緒に」は、両親の旅行中におばあちゃんと二人で暮らすことになった少女の物語。なんてことのない日常風景が淡々と描かれているだけなのだけれど、叙情的でいい作品である。
 「カッコーのエドガーさん」は、なぜか森の中で暮らすカッコー時計のカッコーが主人公のCGアニメ。時を告げるだけが日課だったカッコーだったのに、落ちてきた卵から孵ったヒナを育てるはめになってしまう。ストーリーはこれがいちばん面白かったかな。
 「ラ・サラ」もCGアニメで、閉ざされた部屋の中でオタク的な遊びにふける男が主人公。外には何か面白そうなものがありそうだ、と扉を開けようとすると、首が胴体から外れてしまいひどい目に。最後には「ああ、やっぱり部屋の中がいいや」。いいのか、それで?
 「雪ネコ物語」もおばあちゃんと孫娘の物語で、あたたかみのある線に味があるけれど、物語はちょっと冗長。
 トリを飾る「ルドビック・おじいちゃんちへ行く」はテディベアが主人公のぬいぐるみアニメ。孫が帰ったあと、亡きおばあちゃんの思い出にひたるおじいちゃん。ほのぼのとした中にも情感が漂っていて、泣けます。

 続いて上映されたロベール・ルパージュ監督の『ポシブル・ワールズ』は、並行世界テーマのSF映画。
 マンションの一室で、頭蓋骨を切り取られ、脳を持ち去られたジョージという男の死体が発見される。そしてある研究所の食堂で、ジョイスという女性に声をかけるジョージ。「ぼくは無限の数の可能世界を同時に生きているんだ……」。すべての世界、さまざまなシチュエーションで、彼はジョイスとの出会いを繰り返しているのだった。ある世界ではジョイスに拒まれ、ある世界では海辺で寄り添い、そしてまたある世界では別れ話を切り出されるジョージ。一方、事件を追う刑事は、容疑者として脳科学を研究する博士に目をつけていた……。
 正直言って、オチはすぐに見当がついてしまうのだけれど、同じカナダ映画の『CUBE』同様、低予算ながらアイディアで勝負するSF映画の佳作(★★★☆)。

 続いて銀座に回り、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』を観たのだけれど、これについてはまた明日。

4月29日()

▼今日は、カナダ大使館で「SFセミナー特別編」。のださんによるロバート・J・ソウヤーさんへのインタビューのあとは、秘密のバースデイ・パーティ(今日4月29日はソウヤーさんの誕生日なのである)。普通のレセプションだと思ってソウヤーさんがスピーチを始めようとした瞬間、スタッフがクラッカーを鳴らして「Happy Birthday!」と叫ぶという段取り。
 我々が用意したのは、『アフサン』にちなんで特注の巨大な恐竜型バースデイ・ケーキ。BGMは、ソウヤーさんが好きだというスター・トレック(オリジナル版。TNG以降は好きじゃないのだそうだ)のオープニングテーマ(私がCDを買ってきました)。気に入っていただけたかな?

▼なんかレポートを書くには疲れたので、きのうからの流れで誤字ネタを。
 大使館69300件。大便館31件。誤字率0.044%(もっとも、ヒットした31件の中にはネタとして使っている例も含まれているが)。
 講談社のページにも「アメリカ大便館」。日本赤軍の声明にも「オランダ仏大便館」。米軍機の劣化ウラン弾射撃事件に対する抗議文の宛名も「アメリカ合衆国在日本大便館臨時代理大使 ラスト・デミング殿」。「世界青年の船」船内郵便局開設記にも「ペル一の大便館事件」(ぺるいちのだいべんかんじけん)。よくみるとこのサイトのurlはgo.jp。郵政事業庁のページの中にあるようだ。国際問題になっても知らないぞ。

 「天使/天便」もけっこうあって(誤字率0.029%)、舞踏家笠井叡は「天便館」を主催、映画「ドグマ」には「大天便メタトロン」が登場、谷山浩子は「天便のつぶやき」を歌い、ウーピー・ゴールドバーグは「天便にラブソングを2」に出演八王子には「天便病院」がある、ということになっているらしい。

4月28日(土)

▼きのうの続き。
 きのうの計算はちょっと煩雑だったので、「誤字でのヒット数÷正しい字でのヒット数」を「誤字率」と名づけて指標にすることにしよう。OCRのミスのみであれば、誤字率はほぼ一定になるはずであり、誤字率が高いということは人間の覚え間違いの可能性が高いはずだ。
 「教論」は0.24%、「議諭」は0.009%、「諭争」は0.017%。「教諭」の誤字率がひと桁違う高率だということがわかりますね。
 しかし、「教諭」よりはるかに高い誤字率の単語があった。「福沢諭吉」である。「福沢論吉」で検索してみると、51件ヒット。一方「福沢諭吉」は8600件。誤字率0.59%! 「教諭」よりもはるかに高い率である。ううむ、これは「福沢論吉」だと思っている人が多い、ということなのだろうか。そういう人は声に出すときも「ふくざわろんきち」と読むのだろうか。
 ついでに、「輪」と「輸」、「因」と「困」も。
 「輸出」122000件、「輪出」281件、誤字率0.23%。
 「輸入」327000件、「輪入」430件、誤字率0.13%。
 「三輪車」10500件、「三輸車」1件、誤字率0.010%。
 「一輪車」9280件、「一輸車」3件、誤字率0.032%。
 「大車輪」3840件、「大車輸」3件、誤字率0.078%。
 「困惑」55200件、「因惑」16件、誤字率0.028%。
 「因果」20700件、「困果」33件、誤字率0.16%。
 こうなると、誤字率が高ければ覚え間違い、という仮定があやしくなってしまう。「輸出」「輸入」を「輪出」「輪入」と覚えている人がいるとは思えないのだ。
 誤字率が高いのは、こうした単語が出てくるような硬い文章をアップロードする人は、OCR利用率が高いためかもしれない。「困果」「福沢論吉」もそうなのかも。そうすると、きのうの計算で、c1 = c2 = c3 とみなしたのは間違いだったかな。きのう、「教諭」を「教論」と間違えて覚えている人は800人以上、と結論したけれど、本当は単にOCR利用率が高いだけなのかも。
 あああ、本当はぼくはひとりだけだったのかな?(少なくとも掲示板に書き込んでくださったwithさんは私の仲間だったようだけど)

4月27日(金)

▼子供のころ、私は「教諭」のことを「教論」だと思っていた。
 あるとき、友人に何気なく「先生のことを『きょうろん』っていうんだよね」と言ったところ、
「きょうろんって何。きょうゆでしょ」
 と冷たく返されてしまい、ショックを受けたのであった。
 あのときの恥ずかしさと悔しさは今も忘れてはいない。そこで、今日は恥ずかしい思いをしているのは私だけではないことを確かめるために、「教論」で検索してみた。
 ヒット数887件。けっこうあるじゃないですか。しかも意外にちゃんとした学校や先生のプロフィールのページが多い。間違えているのは私だけじゃなかったんだ、と意地の悪い喜びにひたったところで、ふっと思った。
 別にページ制作者が教諭と教論を間違えているわけではなく、単にOCRを使ってるだけかもしれない。
 そこで今度は、「議諭」で検索。ヒット数42件。「諭争」でも16件。さすがにこれは間違えて覚えている人がいるとは思えないので、OCRを使っているページだろう。
 結果としては、教諭361000件、教論887件。議論488000件、議諭42件。論争93100件、諭争16件となった。教諭を教論と間違えている例の方がかなり多いようだが、OCRを使っている可能性も考えると、どの程度の人が「教諭」を「教論」と間違えて覚えているかはわからない。
 そこで、以上の結果をもとに、中学数学の範囲で計算してみる。
 人間が間違えて覚えている確率を 「教諭」、「議論」、「論争」の順にa1, a2, a3
 OCRが読み込みを間違える確率を b(これは常に同じと仮定していいだろう)
 OCRの使用率を c1, c2, c3
 とすれば、
c1 * 361887 * b + (1 - c1) * 361887 * a1 = 887
c2 * 488042 * b + (1 - c2) * 488042 * a2 = 42
c3 * 93116 * b + (1 - c3) * 93116 * a3 = 16
 となる。
 しかし、「議諭」「諭争」と間違える人間はまずいないので、a2, a3 = 0 とみなしていいはず。
c1 * 361887 * b + (1 - c1) * 361887 * a1 = 887
c2 * 488042 * b = 42
c3 * 93116 * b = 16
 ここで、c1 = c2 = c3 = c と仮定すれば、
c * 361887 * b + (1 - c) * 361887 * a1 = 887 ...(1)
c * 488042 * b = 42 ...(2)
c * 93116 * b = 16 ...(3)
 となる。
 「教諭」と「教論」を間違えている人の数を x とすれば、 x = (1 -c) * 361887 * a1
 である。 (2)と(3)は矛盾するけど、
(2)を使えば、x = 855
(3)を使えば、x = 824
 となり、どちらにせよ800人以上の人が「教諭」と「教論」を間違えて覚えていることがわかったのである。
 ぼくはひとりじゃなかったんだ!

4月26日(木)

4月23日のBiwaBiwa Notesに、私家版・精神医学用語辞典からの引用を発見。
>患者のフィクションと治療者のフィクション、どちらが真実という
>わけでもなく、優劣もなく、どちらも単にフィクションであるに過
>ぎない。

ただどれだけもっともらしく相手を説得できるフィクションを有しているか、ということですか。

>ただ、患者を説得するためには、自己矛盾を生じないよう、
>治療者は単一のフィクションを採用する必要があり、○○派
>の分析家というふうに呼ばれ、そのうち自分の採用したフィク
>ションを心から信奉することになる。

そして自らのフィクションだけが真実だと思い込むことが重要。
だから患者はいつまでも患者であり、キチガイはキチガイのままなのかもしれない。
僕もあなたも自分だけの受信機を所有して、日々固有の電波を受信しているのかもしれない。
 ううむ、こういう理解の仕方をされるとちょっと困ってしまうなあ。
 「キチガイ」「電波」と言われているのは、だいたいにおいて分裂病圏の障害を持った人です。そして、分裂病圏というのは、精神分析の対象外なのですね。だから、精神分析について語った文章を「キチガイ」「電波」へ拡張するのは無理があるのだ。
 そして、分裂病という病気は(実態はよくわからないにせよ)厳然として存在しているのであり、
「精神分析の治療は「患者のフィクション」を「治療者のフィクション」で置き換えること」という考えに従えば、僕たちはそれぞれが自分自身の電波を受信しているとみなすこともできるんだねぇ、ということ。つまりこの考えに従えば、他者を「電波」と呼ぶことは、自分もまた他人から「電波」と呼ばれることがありうるということでもあります。
 というように相対主義に走ってしまうのは、ちと単純化がすぎるでしょう。
 私たちはもちろん他人の心を完全に理解することなどできないけれど、こうやって言葉を連ねることにより、あるいは言葉以外のコミュニケーションによって、互いに何かを共有することができます(これを「間主観性」といいます)。でも、「電波」なひとたちは、私たちと理解しあうことができない上、「電波」なひと同士でも理解しあうことができない。私たちが当たり前だと思っている前提(たとえば「自分」が「自分」であること)が、彼らにとっては当たり前ではない。
 これはけっこう大きな違いですよ。
 もちろん自分のよって立つ立場の絶対性を疑うのは重要なことだけれども、彼らも私たちも違いがない、というのは偽善にすぎません。彼らをいじめる人は、いつか誰かにいじめられることがあるかもしれないけれど、彼らを「電波」と呼ぶ人が「電波」と呼ばれることはないでしょう。そこには厳然たる非対称性が存在するわけです。
 彼らと私たちの間には違いがある。そして、その違いは鋭敏な人であれば一瞬にして感じることもできるものです(「プレコックス感」の項を参照)。違いがあることを認めた上で、彼らの権利も認めるというのが、妥当な態度というものでしょう。

▼スティーヴ・エリクソン『真夜中に海がやってきた』(筑摩書房)(→【bk1】)購入。あ、SFマガジン買うの忘れた。

4月25日(水)

bk1ブリーダープログラムに登録してみました。

▼さて、bk1リンク第一号はこの本。
 リチャード・ハワード『囚人部隊誕生』(ハヤカワ文庫NV)(→【bk1】)読了。『スラッグス』のショーン・ハトスンが別名義で書いた、ナポレオンの時代が舞台の歴史冒険小説なのだけど、これは正直言ってつまらない。ここまで読むのがつらい小説は久しぶりである。「佐藤賢一氏推薦」と大きく書いてあるし、帯にも「血湧き肉躍る」とあるので『傭兵ピエール』みたいな冒険小説かと思ったら、これが期待はずれなのだった。主人公にも脇役にも全然魅力がないなど、キャラクターづくりは佐藤賢一の足元にも及ばないし、殺伐とした戦闘描写ばっかりでロマンスがないのもいかんなあ(女性キャラがひとりも出てこないのだ)。
 さすがホラー作家だけあって、スプラッタ小説ばりの血みどろの戦闘描写はまるで『プライベート・ライアン』のようだし、馬に乗れば尻に鞍ずれができるとか、武器や物資も足りないので村を襲って食料を調達するしかないとかいったあたりもリアルといえばリアルなのだが、「血湧き肉躍る」という形容にはほど遠い。だいたい、村を殲滅せよ、という命令に文句も言わず従い、村娘をレイプして殺した部下にも何も言わない主人公にはまったく共感できません。元貴族だという主人公がナポレオンの下で戦いつづける理由が全然わからないし、イギリス人の作者がナポレオンの物語を書く動機もよくわからない。ワーテルローをどう描くつもりなんだろう。

 しかし、こんな感想じゃbk1にリンクを張っても誰も買わないだろうなあ。

▼スパムメールが来ました。しかもhtmlメールで。
From: "carol" <carol_j@***.com>
Subject: US$5000
ここに入るために無賃な登録しなさい:
www.***.com/****/japanese/、それから、あなたはシドニーまたはハワイの7日の宿泊及び航空券を含まれてすばらしい休日か$5000現金を当たる幸運な勝者であることができる。

入るためにクリックして下さい: http://www.***.com/****/japanese/
 日本人にメールを送るのなら、もうちょっと日本語を勉強しましょう。

▼CD屋にてZABADAK『風を継ぐ者』、坂本真綾『Lucy』、アヴァロン『魔女の月』(スペインのガリシア音楽の女の子6人組バンド)、ルナサ『Lunasa』(アイルランド最強のトラッドバンド)、マドレデウス『movimento』購入。

4月24日(火)

▼当直。

▼ネタがないのでリンク。台湾の本格ミステリファンが作っている密室研究會のページ(当然、中国語フォントが必要)。桐野夏生「濡濕臉頬的雨」、藤原伊織「恐怖分子的陽傘」、加納朋子「七歳小孩」、京極夏彦「姑獲鳥的夏天」などの感想が読める(いや、中国語なので読めないのだが)。中国語では、京極堂の名台詞は「世界上沒有什麼不可思議的事[口阿],關口君」となるらしい。メンバーのひとり凌徹さんもミステリを書いていて、そのタイトルが「列車密室消失事件」「重力違反殺人事件」。なんだかおもしろそうではないですか。

4月23日(月)

中国調査船が活動再開(東京新聞)。この記事によると、中国の海洋調査船は「奮闘7号」というらしい。
 奮闘。
 勇ましい名前である。もう休む間もなく死に物狂いで調査をしているのだろう。少しでも気を抜いた調査をすれば、即座に「闘志なき者は去れ!」と船長の怒声が飛ぶ。きっとそんな船に違いない。
 それに対して日本の海洋調査船といったら「拓洋」とか「明洋」とか。「かいよう」ってのもありましたね。こちらはなんだかのんびりとクルーズ気分で調査をしているようなイメージである。甲板にはデッキチェアが備えつけてありそうだ。
 アメリカのスペースシャトルだって「努力」(エンデバー)とか「挑戦者」(チャレンジャー)とか「事業」(エンタープライズ)とか勇ましい名前なんだから、日本の船だってもっと雄雄しい名前をつけてもいいのではないだろうか。「ますらお1号」とか「おにむしゃ8号」とか。衛星だってそうだ。天気予報のお姉さんが、北朝鮮のラジオ放送のような口調で「気象衛星いかづち2号の映像をご覧下さい」と言えばなんとなく勇ましげではないか(そうか?)。
 しかし、先の記事によれば、中国の調査船だっていつも奮闘しているわけではないようだ。
 ボーリング作業をしている船が「勘407号」
 掘削リグは「勘探3号」
 これはどうだろう。
 なんせ「勘」である。たぶんこの辺なんじゃないかなー、などと適当に掘っていそうではないか。さっきまでの奮闘ぶりはどうした。こんな船では油田など絶対に見つからなさそうだ。
 たぶん「勘」の意味が日本と中国とでは違うのだろうが、私なら「勘407号」なんていう船でボーリングはしたくないと思うのである。

▼山田正紀『ミステリ・オペラ』(早川書房)購入。

4月22日()

▼『チーズはどこへ消えた?』については、3月14日に「真相」の推理を書き、さらに続編小説まで書いてしまったのだけれど、今日はもう一度だけこの本の話を。
 とはいっても、あれは会社側に都合のいいメッセージだ、とか、こんな当然のことを書いた本がなぜ売れるんだ、とかそういう意見はネットにあふれていて聞き飽きているので、そういう話をするつもりはありません。『チーズはどこへ消えた?』の翻訳について考える。
 ご存知の通り、この本の原題は"Who Moved My Cheese?"。これを、日本語版では「チーズはどこへ消えた?」と訳しているのだけれど、よく読めば原題とは微妙に意味が違ってきているのがわかるはず。原題の疑問は"Who?"だけど、訳では"Where?"になっているのだ。
 この微妙な違いが重要な意味を持ってくるのが、寓話部分のラスト。最後に壁に書かれたメッセージが"Move With The Cheese And Enjoy It!"なのだ。この最後のメッセージによって、この物語のキーワードは"Move"だということがわかる仕掛けになっているわけだ。
 そしてこのメッセージが、最初の問いへの答えになっている。問いは「誰が私のチーズを動かした?」であり、その答えが「(そんなことどうだっていいじゃないか)チーズとともに動け!」。もちろんよく考えれば答えになんかなっていないのだが、なんとなく説得力はある。
 しかし、日本語版では、最後のメッセージを「チーズと一緒に前進し、それを楽しもう!」と訳しているので、"Move"によるタイトルとのつながりが見えにくくなってしまっているし、"Move"を「前進」とするのは訳しすぎのような気がする。
 それから、この物語のもうひとつのキーワード、それが"Change"である。最後から二番目の壁のメッセージでは、"Change Happens","Anticipate Change","Monitor Change","Adapt To Change Quickly","Change","Enjoy Change!","Be Ready To Change Quickly And Enjoy It Again"と"Change"が大きな字で7回も繰り返される。そして、駄目押しのように、小さい字の部分には"Cheese"が8回も。
 "Change""Cheese"。発音がよく似てますね。たぶん、これは偶然ではないはず。似た発音の単語を何度も繰り返すことによって読者に強烈なイメージを与えているわけだ。このメッセージによって、なぜ「大切なもの」の象徴が、ほかの食べ物ではなくチーズでなければならなかったかがわかるだろう。
 しかしここでも、日本語版では壁のメッセージを「変わろう」「変化を楽しもう」などと訳しわけている上、「変化」と「チーズ」のつながりも当然ながら見えなくなっている(ま、これは訳しようのないところだけれど)。
 てなわけで、原書と訳を比べてみると、日本語版では作品のメッセージがちょっと見えにくくなっているのがわかるのである。ま、これだけ売れてるんだから大きなお世話かもしれないけど。

▼ネット古本屋「心願社」より『ロボトミー殺人事件』(ローレル出版)を入手。

4月21日(土)

指揮者のジュゼッペ・シノーポリ死去。『アイーダ』の演奏中に意識を失い、指揮台から崩れ落ちたのだとか。54歳。間違いなく現代を代表する指揮者のひとりだったのに、こんなふうに亡くなってしまうとは……。
 実はこのシノーポリ、私と同業者である。当然ながら、別に私が指揮者だとかそういうわけではなく、シノーポリの方が元精神科医という異色の経歴を持つ指揮者なのだった。そういうわけで、ちょっと気になってはいたのだけれど、クラシックの中で私の好きなジャンル(バロックと印象派以降)とシノーポリの守備範囲がまったく重なってないので、残念ながら彼のCDはほとんど聴いたことがない。
 唯一聴いたことがあるのが、シノーポリ自身が作曲したオペラ『ルー・サロメ』のCD。これもシノーポリだからというよりは、ルー・サロメという題材に惹かれて聴いたのだけれど。このへんの題材の選び方が、いかにも精神科医らしいな、と思ったものである。
 ルー・サロメというのは旧約聖書のサロメではなく、精神分析の歴史に名を残した実在の女性である。若い頃には哲学者のニーチェとその友人パウル・レーと3人で同棲して2人の運命を狂わせ(パウル・レーは投身自殺、ニーチェはルーと別れてから『ツァラトゥストラ』を書き上げ、狂気と孤独のうちに死ぬのである)、言語学者のフリードリッヒ・アンドレアスと結婚した後も、親子ほども年下の詩人リルケを愛人として公然とロシア旅行に出かけ、夫とはまったく夫婦関係を持たなかったという。晩年は精神分析に興味を示してフロイトと大量の書簡を交換し、フロイトの思想の発展に大きな影響を与える。夫の死後フロイトの弟子であるタウスクと婚約したが、タウスクは結婚式の一週間前に自ら去勢して自殺……、と「サロメ」の名に恥じないみごとなファム・ファタルぶり。
 『ルー・サロメ』、曲は今ひとつ私の好みじゃなくてしばらく聴いてなかったけれど、久しぶりに聴いてみようかな。

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