▼菅浩江『永遠の森』の推理作家協会賞受賞について、きのうの日記では「ぴんとこない」などと書いたが、
S澤掲示板 の
瀬名秀明さんの書き込み を見てちょっと考えが変わった。
SFセミナー取材の際、多くの文芸編集者が「乱歩賞や推協賞は読むがSF大賞受賞作は読まない」「『SFが読みたい!』ランキングには興味がない」などといった発言をされており、暗澹とした気持ちになっていたのですが、今回のご受賞はそういった従来の弊害を取り払うきっかけとなる画期的なものだったと思います。
なるほど、これはSFを盛り立てる格好のチャンスととらえるべきだったのか。確かに『永遠の森』はSFファンに限らず誰が読んでも感動するはずの名作である。それが、SFというレッテルゆえに読まれないとしたらもったいない話である。SFなのに推理作家協会賞? などと首をかしげていた私はあさはかだったようですね。
▼マツノダイスケ 『天使が降ってきた夏』 (富士見ミステリー文庫)(→
【bk1】 )読了。
著者のマツノダイスケは、元ABブラザーズで中山秀征とコンビを組み、『芸人失格』で作家に転じた松野大介ですね。なんでカタカナにしたんだろうか。これを読むとヤングアダルトを読みなれない人間にとってヤングアダルト小説を書くのがいかに難しいかがよくわかります。
女子高生が主人公で小道具はインターネット、とツボは押さえているにも関わらず、なんとも野暮ったいのだ。だいたい、愛人の元に走った父親と、失踪した母親というどろどろした展開は、どう考えてもヤングアダルトじゃなく二時間ドラマ。インターネットのチャットも登場するのだけど、これもまるで10年前のパソコン通信のようだ。顔写真入りのサイトを開いている女子高生が、アクセスが半年で3000件もあった、と喜んでいるあたりも変。いくらなんでもそれじゃ少なすぎるだろ。全体に、ヤングアダルトとしてはセンスがあまりにも古臭い。
結末にはどんでん返しがあるのだけど、どうしてもある有名映画を連想してしまうのがマイナス。しかも、伏線の張り方があまりうまくないなので早い段階でわかってしまうし、あとがきや裏表紙のあらすじを読めばだいたい想像がついてしまうのも難点。
しかし。
これだけの欠点があるにも関わらず、私はこの作品、実は嫌いではない。確かに古臭いのだけど、その古臭さが逆に新鮮に感じられるのである。この作品で描かれるインターネットは、なんだかとても懐かしい匂いがするのだ。
あれは、森岡正博や西垣通といった書き手がインターネットやパソコン通信によるまったく新しいコミュニケーションの可能性を熱っぽく語り、パソ通による恋愛を描いた『(ハル)』なんていう映画が話題になった頃(それが今じゃ出会い系サイトでの殺人が日常茶飯事だもんなあ)。IT革命なんていうちんけなお題目じゃなくて、ネットによって人間の意識や思考そのものの変化が始まるんじゃないかと、半ば本気で信じていたあの頃。
わずか数年前のことだけど、あの頃、パソコン通信には無限の可能性があり、インターネットは文字通り魔法のツールだった。インターネットは世界中の人々の意識をつなげ、拡張するメディアのはずだった。そしてその意識のつながりが大きなうねりになって世界を変えていくはずだった。それなのに、いつのまにインターネットはビジネスの道具になり、個人の日記を垂れ流す場に堕してしまったのだろう。
この小説を読んで久しぶりに思い出したのは、あの頃感じていた高揚感だ。作者は去年の夏にインターネットを始めたばかりだそうだ。たぶん、かつて私が感じていたような可能性を、今もインターネットに感じているのだろう。それが、私にはとても眩しく感じられる。
古臭いのも、悪くない。
▼東野圭吾
『秘密』 (文春文庫)(→
【bk1】 )(←文庫になったのでようやく買いました)、日下三蔵編
『城昌幸集』 (ちくま文庫)(→
【bk1】 )、大岡昇平
『成城だより』 (講談社文芸文庫)(→上
【bk1】 、下
【bk1】 )購入。
▼ ジョン・カッツ
『ギークス ビル・ゲイツの子供たち』 (飛鳥新社)(→
【bk1】 )読了。ギークスってのは簡単に言えばコンピュータ・オタクのこと。タイトルからして、ギークたちの生態を分析したノンフィクションかと思ったのだけれど、この予想はちょっと裏切られた。とはいってもがっかりするような裏切られ方ではないのだけど。この本は、ギーク一般を描いたものではなく、田舎町に住むコンピュータオタクの若者の成長を丹念に見守って描いたノンフィクションなのだった。
主人公のジェシーは、住民のほとんどがモルモン教徒であるアイダホの田舎町に住む少年。地域社会になじめず、「ここは自分の居場所ではない」という強い思いを胸に、コンピュータの世界を唯一の支えに生きている。ジェシーからの一通のメールをきっかけに、「ワイアード」などに寄稿するライターのジョン・カッツは、彼の取材を始めるのである。
このジェシー君、プログラミングやインターネットに通じているのはもちろんのこと、ディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』を愛読し、シカゴに移ってからは、ナノテクに夢中になってエリック・ドレクスラーの主催するフォアサイト研究所の会議に出席したりもする(訳者がドレクスラーの著書を『創造のエンジン』と訳しているのは頂けませんな)。オタクの中でもかなり優秀な方といえるだろう。
当初、カッツはジェシーの「取材者であり傍観者」だと何度も述べる。しかし、取材を進めるにつれ、著者はだんだんとジェシーのことを気に入ってしまうのですね(別にヘンな意味ではない)。結局、ジェシーは「ギークならどこでも生きていける」というカッツの何気ない一言の影響で、息苦しい町を出てシカゴで生活を始め、なんとか仕事をみつけて食いつなぎ、そしてカッツに後押しされて大学受験を志す。カッツが当初の傍観者的立場をかなぐりすて、だんだんとジェシーに入れ込んでいき、最後にはほとんど父親と息子のような関係になってしまうのがおかしい。なんせ、ジェシーがシカゴ大学に願書を出したときには、親でも親戚でもない著者が大学の担当者に会いに行ってしまうのだ!
最先端のコンピュータ・オタクを扱ったノンフィクションながら、読後感がなんだかほのぼのとしているのは、著者が主人公のジェシー君に深く入れ込み、温かい眼差しを向けているからだろう。その分、ちょっと冷静さが欠けているようにもみえるところもあるんだけどね。
ちなみに、本書によれば、コランバイン高校銃乱射事件(いわゆる「トレンチコート・マフィア」の事件)のあとアメリカでは、「コンピュータ・ゲームがあなたの子供たちを殺人者に変える!」などと、マスコミで激しいギーク・バッシングが行われたとか。これって日本で10年前の宮崎勤事件後にオタク・バッシングが行われたのと同じでは。オタクへの風当たりは洋の東西を問わない、というか、ことオタクに関しては、アメリカは日本より10年遅れているんじゃないか、という気もしないでもない。
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菅浩江『永遠の森』が日本推理作家協会賞を受賞。 推理作家協会賞? まあ小松左京や星新一も受賞した賞だからSFも対象なんだろうけど……なんだかぴんとこないなあ。
▼当直。特に何事もない穏やかな夜。
▼ ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ
『病気はなぜ、あるのか』 (新曜社)(→
【bk1】 )読了。「ダーウィン医学」という立場から、なぜ病気の遺伝子は淘汰されてこなかったのか、といった疑問を論じた本である。「病気っていったい何なんだろう」という問題は私もつねづね疑問に思ってきてまして(
このへん とかで書いたこともあります)、期待して読んだのだけれど、残念ながらこれは期待はずれ。
基本的に、著者の主張は単純である。
・感染症の「症状」と言われているものは、発熱や嘔吐など身体の防衛反応と、白血球の破壊や肝炎による肝障害など病原体による攻撃のふたつに分けられる。
・人生の前半で利益をもたらすが、人生の後半に病気を引き起こすような遺伝子は淘汰されずにそのまま残ってしまう。
・ヒトの体は、何万年も暮らしてきた石器時代の狩猟採集生活に適応するように作られている。以前の環境では存在しなかったような要因にさらされているために生じる病気があるし、また石器時代よりかなり寿命が延びたため、かつては問題にならなかった人生の後半の病気が重要視されるようになってきている。
ま、ここまでは納得のいく主張ではあるのだけれど、すべてを進化で説明できる、と考えているようなのは納得がいかない。たとえば、精神分裂病についても、遺伝子がこれだけ高頻度に残っているからには、何か利益をもたらしているに違いない、などというのだけど、だいたいどんな病気にもこの論法で「何か利益があるに違いない」ばかりで、はっきりとした根拠は示されない。こんな説明では、まったく納得できない。
進化的な説明は、なぜその病気が現在まで残っているかの説明にはなっていても、「なぜ病気があるのか」という根本的な疑問の説明にはなっていないと思うのだ。
また、「なぜ痛風になるのですか?」と患者に訊かれた場合、著者たちの提唱するダーウィン医学を導入すれば、医者は患者にこういう説明ができるという。
「それはいい質問ですね。ヒトの尿酸値レベルは、他の霊長類よりもずっと高く、その種の尿酸値のレベルと寿命とはよく相関していることがわかっています。寿命が長いほど、尿酸レベルが高いのです。尿酸は、どうやら老化の原因である酸化の影響から細胞を守る働きをしているようなのです。ですから、私たちの祖先は、自然淘汰によって、高いレベルの尿酸値をもつようになったのでしょうね。そこで、このレベルが高い方が寿命の長い生物にとっては有利なので、ときどき痛風になる人が出てきても、尿酸値は高く保たれているのでしょう」
「それじゃ、尿酸値が高いと老化が防げるのですか?」
「基本的にはそのようです。しかし、今のところ、尿酸値の高い個人がとくに長生きするのかどうかはわかっていません」
これが「患者の欲しているものに近いだろう」と著者は述べているのだけど、私には、こういう説明を患者が欲しているとはあんまり思えないんだけどなあ。
▼SFセミナーでの瀬名講演について。
SFマガジンに載ったコンタクト・ジャパンの写真(ソウヤーほか参加者たちが異星人アヒストの格好をして、頭まで服をかぶってぞろぞろ歩いている写真)に違和感を感じた、と瀬名さんは言ってましたね。結局本会では時間不足のため違和感の理由が説明されなかったのだけど、これは別に彼らが端から見て恥ずかしい格好をしているからではないのだ。
瀬名さんの違和感はもっと深いところにあったようなのだ。
瀬名さんが用意した資料を改めて読んでみて、今さらながら私はそのことに気づきました(遅すぎるよ)。
なぜ彼らはこれを許容できるのに、『パラサイト・イヴ』の怪物の描写には批判的なのだろう? 宇宙人を人間が演じているという段階で、すでに宇宙人を人間に引き寄せて考えている。それは彼らの嫌う「擬人化」と根本的には同じなのでは?(中略)人間が宇宙人の知性を設定し、その通りに振る舞うこと自体が間違っているのでは? なぜこれは許容できるのか?
ということで、瀬名さんの違和感というのは、コンタクト・ジャパンの本質を問うものだったのですね。なるほど、これは理解できる立場である。ただ、ここを疑問視すると、そもそも人間にSFが書けるのか、という地点まで行き着いてしまう気もするのだけど。
そして、なぜ『パラサイト・イヴ』が「これはSFじゃない」と言われ、コンタクト・ジャパンの宇宙人の擬人化は「SFである」として許されるのか、という疑問が、後半の「スクリプト」論につながっていくのですね。
スクリプトというのは、「XXのときはXXするものだ」といった知識であり、SFやファンタジー、ホラーは「スクリプトからの逸脱」で読ませるジャンルだという。ただし、SFやミステリーでは「因果関係を構成する原理」が尊重されなければならず、それに対してファンタジーやホラーでは「因果関係の原理」を最終的に説明する態度は見られない(たぶんここまでが森下理論による)。
SFではスクリプトの逸脱は歓迎されるが、因果関係の原理は安定している必要がある。そして、関係性の原理基準に抵触した場合、「SFだと思ったらホラーだった」「これはSFではない」と感じることになる。しかし、関係性の原理基準とは絶対的なものではなく、社会状況や環境・経験によって変化するものなのではないか。そして、SFファンは自分の好む関係原理を絶対的だと感じやすいのではないか(たとえば宇宙人の知性を推察し、その行動を人間が演じることにSFファンは違和感を感じないが、これはSFファンでない第三者とは原理基準を共有していない)。「これはSFではない」と感じるのは、読み始めの段階で、読者が因果関係の原理基準を推測し間違えることが原因ではないのか……というのが、瀬名さんの本来の論旨だったようです。
まあ、瀬名さんはいずれ講演資料の増補最終版を発表されるそうなので、詳しくはそのあとで。
▼井上雅彦編
『物語の魔の物語』 (徳間文庫)(→
【bk1】 )、山田風太郎
『人間臨終図巻III』 (徳間文庫)(→
【bk1】 )、宮田親平
『「科学者の楽園」をつくった男』 (日経ビジネス人文庫)(→
【bk1】 )(←こんな恥ずかしい名前の文庫を買うとは思わなかったよ)、R.L.テイラー
『精神症状の背景にあるもの』 (培風館)(→
【bk1】 )購入。
▼夕方から妻と家を出て、谷中あたりを散歩する。
よみせ通りをぶらぶら歩き、谷中銀座に折れる。午後5時過ぎの谷中銀座は買い物客でにぎわっていて、まるで「クレヨンしんちゃん」の映画に出てきた永遠の夕暮れの商店街のよう。なんだか懐かしい匂いがする場所である。
谷中銀座を抜けると、「夕焼けだんだん」と名づけられた石段に行き当たる。石段の脇の空き地は猫たちの集会場になっているようで、何匹もの猫が寝転んでいたりぶらぶら歩いていたり。どの猫も悠然とした面持ちで、うちの近所にいる猫のように人間を警戒している様子など全然ない。ここでは、むしろそんな猫たちに遠慮しているのは人間たちのようで、猫の邪魔をしないように階段の途中で立ち止まって静かに眺めていたり、写真を撮っていたり。
谷中墓地の桜並木の下をぶらぶら歩いてひとまわりしたあとは、谷中のペルシャ・トルコ料理店「ザクロ」で食事。狭い階段を地下へと降りていけば、そこはイラン。壁一面にペルシャ絨毯が飾られており、しかも椅子の後ろの壁際には絨毯がうずたかく積まれていて(どうやら売り物らしい)、その上にはなにやらよくわからない人形が飾られている。この店、東京に住むイラン人たちの交流の場になっているらしく、腕にタトゥーを彫り込んだイラン人が水タバコを吸っていたり、ペルシャ語?が飛び交っていたりと怪しい雰囲気である。
確かに店の雰囲気はちょっと怖いのだけど、唯一日本語がしゃべれるというイラン人の方がとっても物腰柔らかで、懇切丁寧にメニューについて説明してくれるし、料理も非常に美味です。
カレーを主体にした料理はインド料理に似ているのだけど、全然辛くなくて、店名にもなっているザクロをふんだんに使っていて甘みがあります。ご飯はタイ米に似た長いインディカ米で、なんでもイラン独特の特殊な炊き方をしているらしく、風味があってこれもおいしい(例の物腰柔らかなイラン人の方は、このお米を1キロ買えるお金でタイ米なら10キロ買えまーす、だからタイ米に似てると言われるとムカツキまーす、とのたまっておりました)。片栗粉で作ったという冷たいデザートや、牛乳で作ったというヨーグルトとチーズの中間のような不思議なデザートも、なんとも表現しがたいけど、これまた美味。日本人向けに味付けを変えたりは一切していないそうで、確かに今まで食べたことのない料理ばかり。それなのになんともうまいのだ。いわば料理のセンス・オブ・ワンダー。
しかも、二人でおなかいっぱい食べて4000円かからなかった上、会計の時には30%off券までくれるという激安ぶり。おまけに無料でベリーダンスまで見られる。これで赤字にならないのか心配である。
なんでも雑誌「散歩の達人」で店が紹介されてから日本人のお客さんがどっと増えたそうで、忙しくて休む暇もない、と店の方はぼやいておりました。あんまり人が来すぎるとサービスが低下してしまうので、今後取材の話がきても断るつもりだとか。実は、かくいう我々も「散歩の達人」の紹介を見て来たんだけどね。
エスニック料理店にはこれまで数々行ってるけど、ここほど居心地が良くてコストパフォーマンスがいい店はめったにないですね。これぞ東京の穴場。あんまり人に知られたくない名店である(といいつつ、もっと繁盛してほしい気持ちもあるので、ここに書いてしまっているのだけど)。
ちなみに、同じビルの2階にあるのが、宮崎学や佐野眞一なども訪れるという怪しい居酒屋「檸檬屋」。私と妻は結婚前、川又千秋先生に連れられて一度だけ行ったことがあるが、なんだか強烈な個性のオヤジがいたことだけは覚えているなあ。
▼
『トラフィック』 を観る。「全体小説」というジャンルがかつてあったけど、これはいわば「全体映画」。アメリカの直面している麻薬戦争全体を描こうとした非常に意欲的な映画である。これだけ錯綜した話をよくこれだけわかりやすく撮れたものである。
確かに密度が濃くメッセージ性の強い映画なのだけれど、「アメリカの麻薬戦争」というテーマ自体、やはり日本人にとっては「対岸の火事」みたいな印象はまぬがれない。今まさにアメリカが直面している問題を、その一部を切り取るのではなく全体を正面から描ききった力技には感嘆するし、アメリカでこれを撮るということは非常に勇気のある行為だったのだろうとは思うのだが。あと、ロシア人だろうがフランス人だろうが英語をしゃべることの多いアメリカ映画には珍しく、メキシコ人が最後までスペイン語をしゃべり続けたあたりも好感が持てる。
ベニチオ・デル・トロとキャサリン・ゼタ=ジョーンズ(太ったねえ)のパートはいいのだけれど、「やっぱり家族が大事」みたいなアメリカ的メッセージに落ち着いてしまうマイケル・ダグラスのパートはどうかと思ったよ(★★★☆)。
▼精神医学版のプチbk1を作ってみようとしたのだけれど、これがなかなか思い通りにはなりませんねえ。
本屋に行くと、精神医学の本というのは、「精神医学」と「心理学」の棚に分かれて置いてある上、それぞれの棚は階が別だったり遠く離れていたりして、なかなか探しにくいものである。
bk1でも事情は同じで、これはどう考えても精神医学だろ、という本が心理学の棚に並んでいたりする。せっかくのヴァーチャル書店なのだから、心理学の棚と精神医学の棚の間にリンクでも貼っておいてくれれば便利なのだけれど、それもないので行き来が非常に大変である(一度トップまで戻らなければならない)。
そこで、そうした不便さを補うために、精神医学と心理学にまたがった検索ページを作ろうと思ったのだけれど、これがなかなか思ったとおりのページにはならない。いわゆる「一般向け心理学書」が大量にヒットするため、専門書がマスクされてしまうのだ。
bk1で
精神医学の棚 を覗いてみると、最初のページに来るのが『催眠で治す心と体』、『本当に強い人、強そうで弱い人』だったり『本当にやりたいこと!を見つける33の方法』だったり。これではプロは使う気をなくす。こういう一般向けの本と専門書は分けておく、というわけにはいかないんだろうか。
心理学の棚 には小分類があって、さらに
「一般・読みもの」 、
「精神分析」 、
「基礎心理学」 、
「その他専門書」 の4項目に分かれているのだが、これもいいかげんというかなんというか。なにしろ「基礎心理学」の冒頭に来ているのが『ラブマップ』『夢の事典』『大人のための頭の使い方』なのだ。それが基礎心理学? 分類した人は、
「基礎心理学」 という言葉の定義について、何か根本的な勘違いをしているのではないだろうか。
「精神分析」の棚にも、どう考えても精神分析とは関係のない本が並んでいるし(『ロマンティックな狂気は存在するか』とか『正しく悩む』とか)、逆に「その他専門書」の棚に精神分析の本が並んでいる場合もある(『スーパーヴィジョンを考える』や『自己愛障害の臨床』など)。それに、「その他専門書」の棚には『女にいらだつ男男にあきれる女』や『幸運を呼ぶカラーヒーリング』『宇宙からの警鐘』が並んでいるのだが……これが専門書ですか? こういうのは「一般・読みもの」に分類するべきなのでは。いや、そもそも
『宇宙からの警鐘』 は心理学書じゃないと思うぞ。
▼今回のSFセミナーで特筆すべきなのは、うちの妻の働きぶり。
私は瀬名さんとメールのやりとりをしただけ(しかも瀬名さんは几帳面な方なのですべて自分で準備をすすめ、私はほとんどやることはなかったのだ)なのだけど、妻はといえば、ソウヤーにメールを書き(もちろん英語で)、カナダ編のパンフレットを作成し、ソウヤーの似顔絵を書き(ソウヤー本人にも好評で、「実物もこんなにかっこよかったらいいんだけどねー」と言っていたとか。トロントへ帰ったら
自分のページ に載せてくれるそうな)、レセプションの司会を務め、セミナー本会の司会も務め、さらに夜の飛び入り企画「デュアル文庫とSF Japanの部屋」も担当、と体調の悪いのをおしての活躍ぶり。
しかし、妻の功績はそんなものではない。
デュアル文庫企画に出演する浅暮三文さんに、酒を飲ませなかったこと。
これが、今年のSFセミナーへの妻の最大の功績であったことには、多くの方が同意してくれるはずだ。
▼SFセミナー。
企画レポートはみんな書いているし、瀬名企画のレポートならSFマガジンに書くことになっているので、ここは裏方日記ということで。
スタッフの集合時間は朝10時。
私は、企画のビデオ撮りと夜のアニメ企画のため、家から使ってないビデオデッキを持っていく。会場に着いたら、椅子や机を並べたり、マイクの準備をしたり。毎回のことながら、開場は12時だというのに、10時半くらいにはすでにロビーで待っている人がいたりする。以前の全逓会館に比べ、去年から使っている全電通労働会館は、ロビーが広く、ディーラーズのスペースも充分取れて便利ですね(以前は企画中に狭いロビーでだべっている人の声が中に響いたりしてたからね)。
2001年なのでオープニングに『ツァラトゥストラ』をかけよう、ということでCDを持っていったのだけど、会場にはCDデッキがないことが判明。会場の人に訊くと、借りることはできるが3500円かかる、という。オープニングのわずか2分のために3500円……迷ったのだが結局借りることに(その後、池上永一さんが『アンドロメダの異星人』のCDをかけたい、とおっしゃったので、結局借りといてよかったのだった)。
このあたりで、衝撃の事実が判明。パンフレットがない! 浜田さんが、パンフレットを自宅に忘れてしまったのである。浜田さんは、パンフレットを遠い橋本の自宅まで取りに行く。パンフレットの配布が遅れたのはそういうわけなのだった。
昼食は、近くのam-pmでまとめ買いしてきた弁当を黙々と食べる。
このへんで、司会の尾山・妻の二人が、オープニングのナレーションに渋い声の人がほしい、と言い出す。渋い声といえば、そうだ、あの人しかいない! そろそろ集まりはじめていたお客さんの中から
冬樹蛉さん を探し出して控え室に呼びつけ、いきなりナレーションを頼むことに。というわけで、オープニングのナレーションは特別出演の冬樹蛉さんによるものだったのでした。突然の無理な頼みを聞いてくださり、どうもありがとうございました>冬樹さん。
雨のせいか、お客さんの入りは少々悪かったようだけれど、企画のほうは、これはかなりの充実ぶりと言っていいんじゃないかな。池上永一さんはその強烈なキャラクターで、瀬名秀明さんも講義慣れした絶妙なトークで強い印象を残したことでしょう。アンソロジー企画も、トランスジェンダー企画もそれぞれ聞き応えのある内容でありました。
本会閉会後、椅子や机の片付けをし、タクシーでふたき旅館へ。夕食はまたもam-pmから届けてもらった弁当なのだった……。
▼明日はいよいよ
SFセミナー本会 。参加予定の皆様、会場でお会いしましょう。
▼こないだ書いた
「教諭」と「教論」 について、
「もしこの日記を読まなければ一生「教論」と思い続けていたかもしれません。感謝しています」
「教論って言うのは間違いで教諭だったの!?」
「1ヶ月で抜け毛が止まり、半年でふさふさになりました」
「テキストはバインダー式だからとても使いやすいです」
など、感謝のお便りが続々と!
ああ、やっぱりぼくはひとりじゃなかったんだ!
▼
エンデ『はてしない物語』創作コンクール 。岩波書店では『はてしない物語』の続編を募集しているらしい。いくら作者が死んだからって、そんなん勝手に書いていいんですか。審査員として、翻訳者の上田真而子はともかく、赤川次郎に岩崎ひろみってのはどうかと思いますが。おまけに、2002年1月には赤川次郎の書き下ろしで『はてしない物語』の続編が刊行されるらしい。
私は別にエンデに思い入れはないけれど、やめてくれー、と思う人もいるのでは。
しかし、エンデの「あなたの読みたいものを書きなさい」ってのは、なんだかラブレー/クロウリーの「汝の欲するところをなせ」みたいですね(違います)。
▼マツノダイスケ
『天使が降ってきた夏』 (富士見ミステリー文庫)(→
【bk1】 )、マイク・ハーツガード
『世界の環境危機地帯を往く』 (草思社)(→
【bk1】 )、ジョン・サマービル
『ニュースをみるとバカになる10の理由』 (PHP研究所)(→
【bk1】 )購入。
しかしPHP研究所って何を研究してるんだ? そもそもPHPって何?
調べてみると、「PHPとは・・・"PEACE and HAPPINESS through PROSPERITY"の頭文字で“物心両面の調和ある豊かさによって平和と幸福をもたらそう”という意味」(
PHP研究所会社概要 )だそうな。へえ、松下幸之助が創設したのか。出版だけじゃなく一応研究もしてるのね。
ついでにいえば、
HAL研究所 ってのは何を研究してたのかなあ。MZ-80Cを使っていた昔は真剣にPCG-8000がほしかったものである(PCGというのは、グラフィック機能がないMZ-80Cで、キャラクタをユーザ定義して擬似グラフィックを実現するための周辺機器。今でいう外字定義ですね)。結局買えなかったけど。
▼まずはきのう観た
『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』 の感想から。
おとといのSFセミナー特別編後の打ち上げで、「これを見てなきゃ本会での話題に取り残されるぞ」と言われたので素直に観に行ったのだけど、確かにこれは素晴らしい。さすが、唐沢俊一、柳下毅一郎ほか、識者(?)の方々にもやたら評判がいいだけのことはあります。
私自身は1969年生まれなので、別に万博に思い入れはないし(むしろポートピアとかつくば科学博の方が懐かしい)、夕暮れの街並みや70年代の音楽にも別に郷愁を感じたりはしないんだけど、それでも「この醜い21世紀を拒否して、もう一度あの頃からやり直そう」と企む秘密組織イエスタデイ・ワンスモアの陰謀には強く共感を抱いてしまうのですね。たぶん、SFファンならたいがい「夢見ていた2001年はこんなんじゃなかったはずなのに」と思っているはずなので、30代以上かどうかに関係なく楽しめるはずじゃないかな。
しかも、映画はそんな居心地のいい「懐かしさ」に安住することなく、それを「家族」というキーワードで乗り越えて、「ともに21世紀を生きよう」と力強いメッセージを送っている。これは、ロスト・フューチャーにとらわれがちのオタクには少々耳の痛いメッセージですね。
本来の観客である子供も楽しめるし、その上で大人の観客の琴線にも触れるという、これぞ真のファミリー映画の傑作なり(★★★★☆)。
▼
日本アダルトチルドレン協会からの抗議により、「セガガガ」一般発売延期 。こないだの
『アスペルガー 死の団欒』 みたい。まあ、申し開きようのない誤用なので発売延期も仕方がないのだけれど、確かに誤用しても無理はない語感がありますよね、
アダルトチルドレン という言葉には。
「アダルトチルドレン」という言葉につきまとういかがわしさ(「癒し」とセットになって使われることが多いところにもいかがわしさの原因があると思う)についてもいずれ書いてみたいと思うのだけど、それはまたいずれ。
▼
ウルトラマン 内臓 マンガ 女性 で検索してきた人は、いったい何を求めていたのだろうか。しかし、このキーワードで2つものページがヒットしてしまううちのサイトって……。