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5月20日()

川崎市民ミュージアムで開かれている「呪いと占い」展を見てきました。このタイトル、私はてっきり「のろい」だとばっかり思っていたのだけれど、行ってみると、ポスターに振られていた振り仮名は「まじない」。そうか、「まじないとうらない」だったのか。ちょっとがっかり。
 広い公園の中にあるきれいなミュージアムに展示されているのは、ケセランパサラン、福助、仙台四郎角大師サムハラ、歓喜天立像、呪いの藁人形、憑き物落としに使われた日本オオカミの骨、セーマンドーマン、千人針、物部村のいざなぎ流御幣、「件」の刷り物(有名な件のほかにも、尼彦入道とか大神社姫とかクタヘとかほうねん亀とか、江戸時代には人面の怪獣が日本中に出現していたらしい)などなど、みごとなまでに雑多な品々。まあ、突っ込みはそれほど深くはないのだけど、広く浅く収集してありますね。なかなかおもしろい企画展です。展示は6月10日まで。

▼自由が丘に出て、妻が行きたいというアンティークショップに寄ってから、「キッチンカントリー」でハンガリー料理を食べる。この店に来たのは2年ぶりだけど、おばあちゃんは相変わらずにこにこしていました。いい店です。妻は、叶姉妹も飲んでいるというハンガリーの薬用酒、ウニクムを購入。

磁性流体を使ったインスタレーションだそうな。見に行こうかなあ。

唐沢俊一氏も5月18日の日記で書いていたけれど、どうもこのところgoogleの調子が悪いようだ。カタカナを含む言葉で検索すると、2ページ目以降が文字化けで正常に検索されなくなってしまう。なんとかならんのかなあ。

5月19日(土)

▼きのうの「猟奇」話の続き。
 きのうは「だいたい『猟奇的な彼女』ってどんなだ」と書いた「猟奇的な彼女」だが、これはどうやらこの夏公開される映画のタイトルらしい。
 KoreaNaviのジョン・ジヒョン-チャ・テヒョンが"猟奇カップル"キューという記事によれば、「99年パソコン通信で高い人気を得た同名小説をもとに、二人の男女大学生のさわやかな愛を描いているN世代(ネット世代)版青春スケッチ」なのだそうだ。「『時越愛』で清純可憐なヒロイン役を演技したジョン・ジヒョンが『猟奇的な彼女』ではあらゆる"猟奇"的な行動を見せるが、決して憎めない女性主人公としてはつらつとした姿を見せる。チャ・テヒョンはあらゆる恥と苦痛を耐え忍びながらも一心に愛を育てて行くギョンウという人物に扮する」。私ならあんまり「恥と苦痛を耐え忍び」たくはないなあ。
 ジョン・ジヒョン、「今度は"猟奇ガール"で人気者になります」なんていう記事もある。なお、ジョン・ジヒョンの前作『時越愛』はタイトル通りのジャック・フィニイ風SFファンタジーらしい。韓国映画も、超能力少女ものあり、ラストサマー風のホラーあり、時間ファンタジーあり、ワイアアクションあり、となかなかおもしろそうだ。
 さて、今年最高の流行語は'猟奇'今年の検索キーワードトップは"猟奇"という記事もあって、確かに今韓国では「猟奇」が大ブームらしい。ちなみにほかの流行語は「お父さん、私は誰ですか」「おやすみ、私の夢見てね」「愛は動くものさ」だそうなのだが、これは文脈がわからないのでどこがいいのかさっぱりわからない。まあ、「おっはー」とか「だっちゅーの」だって、どこがおもしろいのかと韓国人に訊かれたとしたらうまく答えられないだろうけど。
 「猟奇ウサギ」については、写真入りのこんな記事も。「本当の名前は西洋のお菓子マシュマロ(marshmallow)を可愛くもじった'マシマロ'だったが、可愛い外見とは違い、とんでもない乱暴者で予想外の行動をすることから猟奇ウサギという愛称で有名になってしまった」のだそうだ。

▼さて、きのう紹介したのと同じ「特派員リポート」の香港特派員の記事によれば、香港では手術中の医者は携帯電話を使ってもいいのだそうだ。2年前、大腸内視鏡手術中の医者が、携帯電話で車の購入など私話をしていて手術ミスを犯し、患者からの訴えにより昇給停止処分(それだけ?)となったのだけど、香港医務委員会は、手術中の携帯電話使用について「緊急連絡に欠かせない」ため「不適切な状況ではない」と裁定を下したのだとか。いくらなんでもそりゃ非常識だと思うのだがなあ。

増えるランチメート症候群(東京新聞)。「昼食を一人で取るのは耐えられず、かといって仲間を誘うことができない−。こうした悩みを抱え、精神科を訪れる若者が増えている」のだという。本当に増えているのか? そのくらいのことでわざわざ精神科に来る人がそんなにいるとは思えないのだが。少なくとも私はこんな若者を一度も診たことがないぞ。
 実際のところは「症候群」が若者に忍び寄っているのではなく、そういうネーミングをして問題視してしまう医者と、それをいかにも重大事であるかのごとく報道してしまう新聞の態度の方に問題があるんじゃないのかなあ。
 もしこういう人が病院に来たとしたら、私なら「別に会社や学校で人付き合いなんてしなくてもいいじゃん」とアドバイスしますね。必要なのはうまく人付き合いする能力ではなく、正しく孤立する能力なんじゃないかな。まあ、両者は表裏一体のものかもしれないけど。

5月18日(金)

▼今、韓国の若者の間では「猟奇」が大ブームらしい。
 嘘ではない。
 昨日の東京新聞夕刊の「特派員リポート」というコーナーにこんな記事が載っていたのだ。
「女性の心つかむ猟奇」
 なんでも、韓国では「猟奇」という言葉が大流行し、「クール」とか「かっこいい」という意味で使われているそうな。スポーツ紙やテレビの娯楽番組でも使われ、インターネットで検索される言葉の第1位。漢字は日本と同じで、発音は「ヨップキ」。ネットで人気の「マシュマロ」というマンガの主人公のウサギの人形を「猟奇ウサギ」と名づけて売り出したところ、爆発的な人気を集めて50万個売れる大ヒットになり、猟奇ウサギのキャラクター商品も売り出される計画だそうな。
 猟奇ウサギ! なんだか『かってに改蔵』の羽美ちゃんが持っている人形みたいなのを想像してしまったのだが、記事を読む限り「頭と目の大きな白いウサギの人形」だそうで、別にナイフが突き刺さっていたり脳みそが半分剥き出しになっていたりといったウサギではなさそうだ。
 いったいどんなウサギなのか。ネットで人気だそうなので調べてみると、まずKoreaNaviの記事を見つけた。「キュートなイメージとはまったくかけ離れたキャラクターで、赤くて丸い目ではなく、黒く座った目をしている」「2年ほど前に『猟奇的な彼女』を書いた当時無名の20代の男性によって考えられたもの」だとは書いてあるが、写真がないのでどんなウサギなのかはよくわからない(だいたい「猟奇的な彼女」ってどんなだ)。この日記にも猟奇ウサギへの言及があり、「実際観たが久しぶりに聲を立てて笑えた。可愛げの片鱗も見出すことのないこのウサギのシュールさは「嫌マルチ」を超えたか」だそうだが、リンク先の韓国語掲示板は残念ながらリンク切れ。こうなったら本場韓国のサイトを探すしかない。日韓翻訳サイトと韓国語サーチエンジンを駆使し、いろいろ探し回ったあげく、ついに見つけました。これが猟奇ウサギだ!
 ……これが猟奇? けっこうかわいいじゃないか。もっと凶悪な顔をしているかと思っていたのだが、なんだか笑福亭鶴瓶みたいな顔をしている。これではとても猟奇とは思えない。猟奇よりもむしろ癒し系である。そういえばどことなくたれぱんだやトロにも似ている。
 「猟奇」という言葉の響きは、かつて乱歩を愛読した者としてはこたえられないものがあるのだけど、どうやら韓国の「猟奇」は、日本で現在使う猟奇とも、もちろん乱歩の頃の文字通り「奇ヲ猟ル」ことを意味した猟奇とも違う意味になっているようだ。
 韓国では「猟奇」=「クール」だとすると、「あいつは猟奇者だ」と言うと「あいつはクールな奴だぜ」とかいう意味になり、「猟奇の果」といえば「究極のかっこよさ」を意味するのだろうか。「猟奇歌」は「クールな音楽」で、「猟奇の鉄人」は「いかした鉄人」だろうか。若い女性がふたり顔を合わせると、まるでお天気の話でもするように猟奇話に興じているのだろうか。
 しかし、日本の「たれぱんだ」みたいにヒットしているキャラクターが韓国では「猟奇ウサギ」ですか。外見はそう違うようにも見えないのだけれど、癒しではなく猟奇になってしまうのがおもしろい。どっちも同じように歪んでいる、といわれれば返す言葉もないが、歪んでいない社会などというものが今まであったろうか。

▼ブライアン・ステイブルフォード『地を継ぐ者』(ハヤカワ文庫SF)(→【bk1】)、貫井徳郎『誘拐症候群』(双葉文庫)(→【bk1】)、中井紀夫『モザイク I』(徳間デュアル文庫)(→【bk1】)、北野勇作『昔、火星のあった場所』(徳間デュアル文庫)(→【bk1】)購入。

5月17日(木)

▼怒られました(笑)。

▼宮田親平『「科学者の楽園」をつくった男 大河内正敏と理化学研究所』(日経ビジネス人文庫)(→【bk1】)読了。「栄光なき天才たち」理化学研究所編の元ネタとして知られる『科学者たちの自由な楽園 栄光の理化学研究所』(1983年刊)の文庫化。理研といえばこのところ遺伝子スパイ事件で取り沙汰されているけど、その理研の栄光の歴史をつづったのがこの本。科学史に興味のある人は必読の傑作ノンフィクションですね、これは。今まで文庫化されなかったことが不思議なほど、無類に面白いです。
 登場するのは、高峰譲吉、長岡半太郎、鈴木梅太郎、寺田寅彦、中谷宇吉郎、湯川秀樹、朝永振一郎、仁科芳雄などなど、綺羅星のような科学者たち。そして、こうした科学者たちに自由な研究の場を与え、理化学研究所を「科学者の自由な楽園」に育て上げたのが、貴族であり科学者でもあった所長の大河内正敏なのですね。研究テーマは自由、予算はいくら使っても自由、昼間からテニスをしていても自由、夕方から出勤してきても自由。そうした雰囲気の中から次々と生まれる発明。しかも大河内は商売にも才覚を発揮し、理研での発明を製品化して販売する会社を次々に設立することにより、一大コンツェルンを築き上げる(その会社群のひとつが「理研光学」、今の「リコー」である)。
 さらに、理研を頼って新潟から上京し、のちに土建屋となり理研関係の建設事業を引きうけることになる田中角栄、中谷宇吉郎を治療した縁から仁科研究室に入り、政財界とも強力なパイプを作っていくのちの日本医師会長武見太郎などなど、多彩な人物が次々に登場。最後には某往年の名女優の名前も出てきたりして、意外な人物の意外なつながりがわかります。
 戦前「科学者の楽園」だった理研での科学者たちの活躍、軍国主義に傾斜していく中での仁科芳雄の原爆研究、そして戦後、大河内の戦犯としての収監、財閥解体によるコンツェルンの崩壊まで、理化学研究所の興亡が描かれたこの本。「プロジェクトX」が好きな人には強力にお薦めします。

5月16日(水)

▼突如として掲示板が大盛況。お、なんだかSF関係の掲示板らしくなってきたじゃないですか(笑)。
 にじむさん安田ママさん(5/16)雪樹さん(5/16)の日記でも取り上げられてたり。なぜ女性ばかり。
 「ジャンルにこだわる」というのは確かに弊害も多いのだけど、一方では読書の参考として(あくまで参考として)有効なこともあると思います。たとえば、佐藤正午の『Y』がSFとして評価されている書評を見なかったら、おそらく私のアンテナには引っかからず、手に取ることはなかっただろうし。
 だから、ジャンル分けに問題があるのではなく、あくまで「○○というジャンルは嫌いだから読みません」とか「これは○○じゃない」とかいう偏狭な態度(どっちも偏狭さにおいては似たり寄ったりだと思う)に問題があるのではないか、と。「日本人は嫌いだからあなたとは話しません」とか「お前は非国民だ」とか言われたらイヤでしょ。「SFは難しくてつまらない」のではなく、単に「難しくてつまらないSFがある」というだけでしょう。まあ、「SFは嫌いだから読まない」という人がいても、私はただ「偏狭だなあ」と思うだけで、無理にSFを布教しようなんて思いませんが(それが恋人とかなら、自分の好きなものをなんとかしてわかってもらいたいと思うだろうけど)。

▼妻が食べかけのまま床にほっぽっておいた(おくなよ)菓子パン、もう10日以上たつのだが、まったくカビが生えない。これはこれで不自然で、なんだか気味が悪いような気もする。

5月15日(火)

▼なぜか最近ノンフィクションばっかり読んでます。今日は精神医学関係の新書を2冊。
 まずは、滝川一廣『「こころ」はどこで壊れるか』(洋泉社新書y)(→【bk1】)読了。キワモノっぽいタイトルだけど、非常に良心的な本です。精神科医が書いた本なのだけど、全体にひとつの理論に偏らない中庸的な立場で貫かれていて、たぶんここに書かれた著者の意見には、多くの精神科医が「激しく同意」するはず。
 「健康な状態とはこころが自由な状態ではなく、不自由さにそれなりに折り合いがついている状態」とか「行動としての異常性の度合いと、病気としての病理性の深さは別にパラレルではない」とか、別に目新しいことは言ってないのだけど、意外にこのへんのことをこれまできちんと述べた人はいなかったように思う。人格障害やDSMについての見解や、精神分析と正統的精神医学の違いについての解説も非常にクリアでわかりやすい。
 後半の少年犯罪の部分もわかりやすいですね。「ふつうの子」の犯罪が増えている、という神話を突き崩すために、1956年、成績優秀だった高校生がノイローゼで退院後、一家7人を殺した事件、1959年、おとなしい読書家の18歳の高校生が23歳の女性と16歳の女子高生を殺し、犯行を素材にした小説を新聞の懸賞に応募した事件、1964年、17歳の名門高校生がタクシー運転手を殺害、「殺しをしてみたらどうかな、とかなり前から思っていた」と供述した事件などなど、実例を次々に挙げていくくだりは圧巻。「(メディアは)そのつど騒いでは忘れ、みずからの健忘を顧みず、ことあるごとに未曾有の新事態かのように煽るのです」という批判にも説得力があります。
 少年犯罪の動機が不可解になったように見える点についても、本来動機というのは事後的な物語にすぎない、と述べた上で、わたしたちの悩みや葛藤の輪郭が不鮮明になったため、既存の典型に収まらなくなったためではないか、と説明してます。これも理解しやすい説明ですね。
 今の精神医学の実情を知るための入門書としてお薦め。

▼続いてこちらもかなり良心的な本。月崎時央『「少女監禁」と「バスジャック」』(宝島社新書)(→【bk1】)。精神科がらみの二つの事件について、精神医療に詳しいジャーナリストが改めて論じなおした本である。事件について突っ込むというより、むしろ事件について報じたマスコミ批判の側面が大きいのだけれど、新聞やニュースの報道だけでこの事件を知っている人には、新たな視点を提供する効果があるはず。保健所や病院にきちんと取材し、精神医療の現状や制度的な問題点について理解した上で書いているところも好感が持てます。バスジャック少年を外泊させた病院についても、評価すべきところは評価し、批判すべきところは批判するという、非常に妥当な立場を取っています。
 周知の通り、事件当時のマスコミでは、柏崎事件では事件発覚時に麻雀に興じていた新潟県警が、バスジャックでは少年を外泊させた病院がマスコミでは集中放火的に批判されたのだけれども、県警の不祥事と事件とはもとより直接の関連はないし、外泊決定が医学的に妥当性を欠くものかというとそうではない。著者は、社会が先送りにしている複雑な問題をわかりやすくて単純なバッシングにしてしまうマスコミの体質を批判しているのですね。これはその通りだと私も思います。
 ただ、この本にも、犯人探しめいたところがちょっとあって、柏崎事件ではマスコミを、バスジャック事件では少年の両親と町澤静夫を批判するニュアンスが濃いのだけれど。
 あとはほとんど言いがかりに近いかもしれないけど、この本ではことあるごとに「市民」という言葉が登場するのが気になりましたね。「市民」「国民」「大衆」といったマスをひとくくりにした言葉には、どうもうさんくささがつきまとう(「国民の知る権利」とか「市民感覚」とか聞いただけでイヤな感じになるのは私だけだろうか)。マスコミの想定する「国民」も、著者の想定する「市民」も、フィクションであることにはかわりあるまいに。私は、マスコミに「知る権利」とやらを託した覚えなどないし、著者を自分の代弁者として選んだ覚えもないぞ。

▼高畑京一郎『Hyper Hybrid Organization 01-01 運命の日』(電撃文庫)(→【bk1】)、吉川良太郎『ペロー・ザ・キャット全仕事』(徳間書店)(→【bk1】)、谷口裕貴『ドッグファイト』(徳間書店)(→【bk1】)購入。『ハイペリオン』『ミステリ・オペラ』『ドッグファイト』を見比べて思う。生ョさんの絵って、帯に隠れるところは適当。

5月14日(月)

▼井上雅彦編『物語の魔の物語』(徳間文庫)(→【bk1】)読了。やっぱりアンソロジーはオリジナルより傑作選の方がいいなあ。当たり外れのある異形コレクションに比べ、旧作のみを集めたこのアンソロジーは傑作ぞろい。「メタ怪談」というのも珍しいくくりで目新しいし、ショートショートランドに載ったきり埋もれていた作品も収録されていたりして、けっこうお得なアンソロジーである。ただ、メタフィクションというのはやっぱり理知的な営みなのですね。「怪談」と銘打たれてはいるものの、「怖いなあ」と思う作品は全然なくて、「巧いなあ」という感想が先に立つ。井上雅彦は「牛の首」に「得体の知れぬ怕さ」があると書いているのだが、そうなのか。私はあのオチは笑うところだと思っていたのだけど、怖がるべきだったの?

▼続いて野尻抱介『ふわふわの泉』(ファミ通文庫)(→【bk1】)読了。ライトノベルの文庫でハードSFをやってしまう、というのはすごい。山本弘の『時の果てのフェブラリー』以来の快挙?かな。物語は、ひとつの架空の発明によって変わっていく世界を描く、というハードSFの王道といっていい展開なのだけど、ううむ、やっぱりこの枚数でこのネタはちょっときつい。特に後半の展開はちょっと唐突すぎます。霧子ちゃん関係だけでもあと1巻はほしかったような……。泉ちゃんの成長や「自由に生きること」についても、ところどころにほのめかされているものの、やはり書き込み不足に思えてしまう。この話はもうちょっと長く読みたかったよ。

▼秋山完『天象儀の星』(ソノラマ文庫)(→【bk1】)(←今ごろ買いました)、滝川一廣『「こころ」はどこで壊れるか』(洋泉社新書y)(→【bk1】)、月崎時央『「少女監禁」と「バスジャック」』(宝島社新書)(→【bk1】)、朝松健『[完本]黒衣伝説』(早川書房)(→【bk1】)、佐藤正午『Y』(ハルキ文庫)(→【bk1】)、チャールズ・グラント『ブラック・オーク』(祥伝社文庫)(→【bk1】)購入。

5月13日()

『ベティ・サイズモア』を観る。「♪ケーセラ・セラ〜、なるようになる〜、先のことなどわからない〜」というエンディングテーマがまさにぴったりの映画ですね、これは。
 カンザスの田舎町に住む主人公ベティは昼メロにはまっているごく普通の主婦。ところが、あるとき麻薬取引に手を出した夫が殺し屋に惨殺され、彼女はそのショックで昼メロの世界と現実の世界の区別がつかなくなってしまい、昼メロの主人公である青年医師と結婚するためロスアンゼルスに旅に出る。そして麻薬の行方を追って彼女を追う殺し屋……という冒頭から、物語は予想もつかない方向に転がっていく。
 まあ、現実とフィクションの区別がつかなくなっちゃった主人公、という設定は古くは『ドン・キホーテ』から『俺はレッド・ダイアモンド』に至るまで別に珍しくはないのだけれど、この映画では何といっても主人公ベティを演じるレニー・ゼルウィガーの演技が素晴らしい! かわいいんだけど微妙に野暮ったいあたりとか、少し泳ぎがちの目とか、もうどこからどう見ても、ちょっといっちゃった人にしか見えません。ゴールデン・グローブ賞で主演女優賞を獲得したのも納得の名演。
 さらにすごいのが、とにかく先がどうなるのかまったく予想がつかない脚本。これほど先が読めない映画というのも珍しい。半分まで観た段階でラストが予想できたらすごい。まさに、オフ・ビートという言葉がふさわしい映画。カール・ハイアセンあたりが好きな人には文句なくお薦めですね。
 実際、この映画の脚本はカンヌ映画祭で最優秀脚本賞を取ったそうだけれど、よーく考えてみればこの脚本、練られているようでいて、実はけっこうずさんなような気もする。殺し屋コンビの性格は一貫してないし、病院での銃撃戦などの展開はあまりに唐突。ま、観ているうちはそんなことは全然気にならないのだけど(★★★★☆)

▼『銀河ヒッチハイク・ガイド』のダグラス・アダムス心臓発作で死去。まだ49歳とは……。Sci-Fi Wireの記事。なるほど、"He is survived by his wife"で「故人には妻が残された」という意味になるのか。

5月12日(土)

▼ふと、SFが嫌いな人のページを読んでみたくなって、SFが嫌いで検索してみた。しかし、「SFが嫌いな人でも読めるはず」とか「SFが嫌いじゃない人にはお薦め」など、SF嫌いな読者をあらかじめ想定しての記述が多く、本当にSFが嫌いな人のSF罵倒ページは見つからない。確かに「SFが嫌い」という人もいるのが、さらりとひとこと触れているくらいで、嫌いな理由をていねいに書いてくれている人はほとんどいない。考えてみれば、嫌いなものについて延々と書いたりはしないものかもしれない。その中で、目を引いたのが、このページの「ギャラクシー・クエスト」評の中にあるこの言葉。
ワシがSF嫌いという事を除いてみても、冷静な目で見たSF作品はどこかがヘンでなにかしらマヌケだ。それは見たこともない異星人を「人間の頭で」考えヒネリ出してるからに他ならない。一生懸命作れば作るほど、壮大であればあるほどトンチンカンな方向にイッてしまう。
 これは、瀬名秀明さんのコンタクト・ジャパンへの「違和感」に通じるものだろう。ここでSFに引っかかりを感じる人はけっこう多いのかもしれない。
 かと思うと、こちらのページには、アーサー・C・クラークの言葉として「しかし、知的な人でSFを楽しめない人がいるというの理解できません。SFが嫌いだという人はどこか欠陥があるのです」なんてのが引用されてたり。言うなあ、アーサー。思っててもなかなか口にできない言葉を。

▼ジョン・サマービル『ニュースをみるとバカになる10の理由』(PHP研究所)(→【bk1】)読了。
 タイトル通り、ニュースや新聞などのマスコミを激烈に批判した本。著者はニュースの最大の問題点は「定時性」つまり「毎日同じ時間に流れること」だというのですね。確かに考えてみれば、どんな日にも同じ分量のニュースがあるってのはヘンですね。
 さらに著者は、ニュースは「世界の窓」でも「現実」でもない、という。ニュースは「ニュースになる出来事」を集めているだけであって、「ニュースになる出来事」が「ならなかった出来事」より重要だ、という保証はどこにもない。つまり、ニュースは現実ではなく、ヴァーチャル・リアリティにすぎない、というのだ。
 なるほど、ニュースは連日のように凶悪事件を報じているけど、凶悪事件ばかりが現実なわけじゃない。それはテレビから目を離してまわりを見回せばすぐわかることだ。ありふれたことはニュースにはならない。でも、現実生活がニュースの真似をするようになるにつれ、「ありふれたこと」は「ありふれたこと」ではなくなっていく、つまりニュースが世の中の平穏さを奪っていく、と著者はいうのですね。
 おまけに最後の章になると、ニュースは文化や思索とは正反対のものだ、若者が無知になったのも、道徳心が衰えたのも、全部ニュースのせいだ、と言い出す。そうか、マンガでもゲームでもなくニュースのせいだったのか。これは確かにマスコミには登場しづらい主張だなあ。
 まあ、ここまではひとつの極論として面白いのだけど、ニュースなど見ないで本を読め、宗教や道徳を大事にしろ、コミュニティの中で生きろ、という主張はどうだろう。いくらなんでも今どき古くさすぎると思うんだけど。……と思ったら、著者は英国史を専門とするフロリダ大学の教授だそうな。なるほどね。

5月11日(金)

▼こんなリアルな似顔絵見たことないよ。前回のあまりにぞんざいな似顔絵とは大違い。レッサーパンダ男の似顔絵が役に立ったので青森県警も力をいれたんでしょうか。
 しかし、レッサーパンダ男のニュースを見ていると、犯人のあまりといえばあまりにも無防備で短絡的な行動に、キャスターも解説者も戸惑っている様子がありありとわかりますね。戸惑ったあげく、おなじみ福島章や高橋紳吾といった精神科医に助けを求めるのだけど、彼らのコメントも、これまたどうも歯切れが悪い。
 結局、彼ら精神科医たちにもよくわからないのだろう。何かの精神病なのかというとそうでもなさそうだし、人格障害、と切り捨ててしまえば簡単だけれども、それでは何も語っていないのと同じことだ。もしかすると、既存の精神医学の枠組みに当てはまらない何か、なのかもしれない。
 もちろん私にもよくわからないのだが、ニュースを見ただけの思いつきでいうなら、この犯人を一言で表す言葉は「空虚」ですね。こういう事件のときのマスコミの常套句である「心の闇」なんてものすらなく、ただただ寒々しいほどに空虚な人間。こういう人間が増えているかどうかはよくわからないけど、少なくとも最近の犯罪者のタイプとしては、こうした空虚な人間が多くなっている気がするなあ。

▼春日武彦『子供のまま大人になった人たち』(角川春樹事務所)(→【bk1】)読了。私の好きな書き手のひとりである精神科医春日武彦の新刊は、この著者らしく実にひねくれまくった本である。基本的には、現代にはびこる「イノセント」のいかがわしさについて語っているのだけど、社会問題について論じる、というよりは、むしろ著者の話芸を楽しむ本ですね、これは。
 著者の「子供のまま大人になった人たち」に対する態度は実にわかりにくい。「記憶が安直に妄想にすり変わっただけの不満屋ども」と口を極めて罵倒したかと思うと、「わたしが『子供のまま大人になった人たち』の一人であることは間違いないだろう」と来る。「子供っぽさ」を体現したような人物に対して辛辣な批判を繰り広げたあとに、共感のこもった文章が続いたりする。著者が「イノセント」や「子供」をどうとらえているのか、読めば読むほどわからなくなってしまうのだ。つまらないかというとそうではない。著者のアンビバレントな筆致は、私たちの「イノセント」に対する憧れと嫌悪感をそのまま反映していて、抜群に面白いのである。このひねくれと韜晦は、もはや芸と言ってもいいだろう。私も見習いたいものである。
 本文中には「イノセント」の豊富な実例が登場するのだけど、その中には著者自身の小学生時代の思い出や患者の話もあるものの、かなりの量を占めるのが小説やエッセイからの引用。フラナリー・オコナーやパトリシア・ハイスミス、ナンシー・A・コリンズから吉行淳之介や島尾敏雄、粕谷栄市まで、驚くほど幅広い上、これがまた、いかにも読んでみたくなってしまうようなうまい紹介なのですね。読書案内としてもなかなかよくできた本である。私はジョン・クラカワーの『荒野へ』(集英社)(→【bk1】)が読みたくなりました。
 なんでも著者はハイスミスの「すっぽん」(『11の物語』所収)を、小学6年生のときにエラリイ・クイーンズ・ミステリマガジン日本版で読んだのだとか。筋金入りのミステリマニアですな。負けたぜ。

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