▼スポーツ新聞系のニュースサイトを見て初めて知ったのだが、きのうは某高視聴率ドラマが最終回を迎えたのだそうだ。
しかし、私はその時間には「ニュー・ローズ・ホテル」を見ていたし、私の巡回しているSF系日記でも、ガルシア=マルケスを読んでいたりヴァレリーを読んでいたりスターリングを読んでいたり山形浩生トークショーに出かけていたりトイレが直ったと喜んでいたりといった人はいるものの、件の(件が出てくるわけではない)高視聴率ドラマについてふれている人は1人もいない。
おかしい。10人に3人は見ているはずではなかったのか。
このニュースサイトには、「日本中を席巻中の“HEROフィーバー”はピークに達している」とあるのだけれど、少なくとも私の周りではそんなフィーバーは起きていないようだ。
まあ、見たけど書いてないという人もいるのかもしれないけど、世間でブームになっている話題に誰もふれないあたりがいかにもSFファンらしい、というかなんというか。一過性のブームに左右されない、といえば聞こえがいいが、私も含め、ブームに乗りそこねている人が多いのかな、という気もする。だからSFなんか読んでいるんだ、と言ってしまうと言いすぎかな。
逆に、SFサイトで『かめくん』や『新世紀未来科学』が話題、といっても所詮コップの中の嵐、と思うとちょっと寂しい気もする。『マトリックス』が大ヒットしても、ASIMOが歩いても、宇多田ヒカルがPINOと共演しても、それでもSFは大ブームにはなっていない(そもそもあれが「PINO」だと認識できる人はそれほどいないだろうし、あのクリップを見てロボットの素性に興味を抱く人もそれほどいるまい)。SFが「HERO」くらい広く話題になるにはどうしたらいいのか。やっぱりキムタク主演でドラマ化するしかないのか。
かめくん……木村拓哉
ミワコさん…松たか子
とか。
ううむ、ちょっと想像してしまったよ。
▼きのう買ってきた輸入DVD『ニュー・ローズ・ホテル』を見ました。当然英語字幕くらいはついていると思っていたのだが、ついていたのはスペイン語字幕のみ。なぜにスペイン語。しかもこの映画、アクションはまったくなくて会話ばかりなので、台詞がほとんどわからなかったのはかなりの痛手。だから、一応見たとはいっても、ストーリーはほとんどわかってません(まあ原作の通りだろうな、とは思うのだけど)。
監督はアベル・フェラーラ(SFファンには「ボディ・スナッチャーズ」(いちばん新しいやつ)の監督といえば通りがいいか)。主演がウィレム・デフォー(原作の「おれ」)、クリストファー・ウォーケン(フォックス)の二人。狂犬コンビである。原作のイメージからすると、ちょっと年齢高すぎのような気がするのだが。
そこまではまあいいとして、サンディー役がアーシア・アルジェント(言うまでもなく、ダリオ・アルジェントとダリア・ニコロディの娘である)ってのはどうよ。デフォーがこんなガリガリの小娘に溺れていく理由がさっぱりわかりません。
天才科学者ヒロシ役に天野喜孝。登場シーンこそ多いものの、隠しカメラ映像ばっかりで台詞は一言もないし、他の役者とも全然からまない。はっきり言って、他の役者と比べると違いは一目瞭然。普通のむさくるしいおっさんにしか見えない。
坂本龍一がホサカの重役としてワンシーンだけ登場(胸に「ホ」と書かれた黒い服を着てるのには笑えます)してデフォー、ウォーケンと会話するのだけど、坂本龍一の顔が映っているときには2人の後ろ姿しか見えないし、2人がしゃべっているときには坂本龍一は映っていない。ほんとに一緒に撮ったのだろうか?
全体に、室内の会話シーンばっかりの静かな映画で、アクションシーンのたぐいはまったくなし。そこそこいい俳優は使っているのだけど、その他の部分には全然金かけてませんね、この映画。だいたい、上映時間の半分くらいはオールバック中年コンビがしゃべくっているだけ、というのは映画としてどんなもんだろう。
ストーリーがわからなかったので大きなことは言えないが、少なくとも映像からはギブスンのスタイリッシュさはかけらも感じられません。
そうそう、主人公がコフィン(あんまりカプセルホテルっぽくはないけど)の中でぼんやりテレビを見ながらサンディーの銃を握りしめ、うじうじとサンディーとの日々を思い出すシーンはちゃんと出てきます。これがなきゃ「ニュー・ローズ・ホテル」じゃないよね(★☆)。
▼秋葉原へ。今の椅子があまりにもボロボロになってしまったので、パソコンチェアでも買おうかと思っていたのだけど、普通の家電量販店にあるのはちゃちな安い椅子ばかり。かといって、ヤマギワリビナ館に行ってみても、アーロンチェアとかリープチェアとか、10万円を超える高価な輸入チェアばかり並んでいるし。やっぱり家具店に行ったほうがよかったか。
妻がほしいというRPG「ボクと魔王」も売り切れだし、夕食を食べようと思っていたベトナム料理店「ドングーア」も休み。いったい何しに来たんだか。
唯一の収穫は、石丸パソコンタワーで、輸入DVDの「ニュー・ローズ・ホテル」を購入したこと。去年の6月に買わなかったことを後悔して以来探していたのだけれど、ようやく入手。「JM」に続くウィリアム・ギブスンの映画化第二弾にして、天野喜孝の俳優デビュー作、しかも坂本龍一まで出ているという日本人にはウケそうな作品なんだけど、なぜか日本では公開されなかったんだよなあ。今のところ予告編だけ見たのだけれど、予想通り日本趣味あふれる怪作の雰囲気。楽しみ楽しみ。
▼渋谷にて、新月お茶の会20周年食事会。いろいろ久しぶりの人たちに会う。今年社会人になる市川憂人くんには、紐と滑車が贈られていた。新本格者の必需品だね。
▼越澤明『東京都市計画物語』(ちくま学芸文庫)読了。東京都市論ものにハズレなし。明治から戦後に至るまでの東京の都市計画を一望した本。面白いです。
後藤新平による関東大震災後の帝都復興計画が、実施半ばで大幅に縮小された結果が、現在の混沌とした東京の基礎なのだそうだ。大戦後にも改善のチャンスがあったのだが、GHQは「敗戦国に都市計画など必要ない」と関心を示さず、結局満足な計画もないまま膨れ上がったのが今の東京の姿であるらしい。
さらに、環七、環八はあるのになぜ環三、環四がないのかとか、なぜJRの駅前には広場があるのに私鉄には駅前広場のない駅が多いのかとか、都市計画の歴史をひもとけば、いろいろなことがわかってくる。東京の見方が確実に変わる本である。もっとも、東京に住んでない人が私と同じように面白がれるかどうかはわからないけど。
ただ、都市計画の必要性は充分わかるのだが、区画整理のため立ち退かされる人々の痛みであるとか、昔ながらの細い路地の温かみなどを軽視している様子なのが気になるところ。
ちなみに、この本を読んでいちばん驚いたのは、「今日、新聞がしばしば使用する『負の遺産』という言葉は実は約10年前の私の造語である」という記述。そうか、この人が生みの親だったのか。
▼兄は無実 妹、弁護士になり、えん罪証明(CNN)。そのうちハリウッド映画化される、に1万点。
▼「室温で超電導」クロアチアの研究チームが論文。野尻ボードなどで話題になっていた室温超電導。ついに新聞にも載りましたね。本当なんだろうか、わくわく。
▼北原尚彦『霧幻帝都』(エニックスEXノベルス)読了。シャーロッキアンとしても知られる著者ならではのヴィクトリア朝幻想怪奇小説。確かに実在の人物も含むさまざまな人物を登場させて19世紀末のロンドンを活写しているのだけれど、断片的な描写が延々と続くばかりで、物語としてはどうしても物足りなさが残る。ロンドンを赤い霧が覆いさまざまな怪異が起こる、という現象の謎解きも、「黒科学」という一言で済ませるのはちょっと乱暴すぎるのではないだろうか。博覧強記の南方熊楠、というキャラクターも、残念ながらあまり生かされているとはいえないし、舞台が世紀末ロンドンで黒魔術がらみの事件ときたら、アレイスター・クロウリーとか「黄金の夜明け」もからめてほしかったなあ。
舞台やアイディアは私好みなのだけれど、物語がシンプルすぎるのと、細部の詰めが甘いのが残念。さらに完成度を高めた次作に期待したい。
▼14日の『チーズはどこへ消えた?』の解決編について、掲示板でさとのさんから、「ところで、彼らはチーズは食べているうちにいたんでいったことには気づいているのですが、いたんだチーズを盗む奇特なネズミはいるのでしょうか?」という指摘をいただいた。あれ、「いたんでいた」って記述があったっけ。
そこでこの指摘を生かして、新たな解決編を書きました。名づけて『チーズはどこへ消えた? 完結編』。今度はホラーだ! なお、これを書くために私は『チーズはどこへ消えた?』を買いました(笑)。なぜ私はこんなことに不毛な情熱を燃やしているのか、自分でも謎です。
ちなみに、私が「スペソサー・ジョソソソM.D.」を名乗っているのは間違いじゃありません。私は博士号はとってないので「医学士」だけど、これはアメリカの"M.D."にあたります。アメリカじゃ普通の大学を出てから四年制の医学部に入って医者になり、"M.D."の称号を得るわけ。だから、"M.D."がそんなにすごいわけじゃありません。アメリカの医者はみんな"M.D."です。だから"M.D."を「医学博士」と訳すのは本当は間違いだし、日本の「医学博士」は英語で表記するときには"M.D.,Ph.D."になります。
▼なぜか私のような者に招待状を送ってくれる奇特な映画会社があったので、4月下旬公開予定のフランス映画『ハリー、見知らぬ友人』の試写を観てきました。なんだか「ハリーの災難」+「見知らぬ乗客」+「アメリカの友人」みたいなタイトルだが、これが意外によくできたサスペンスの秀作。しかも、同人誌経験のある人なら身につまされる場面も多いはず。
主人公は妻と3人の幼い娘を持つ30代の平凡な男ミシェル。ヴァカンスで別荘に向かう途中のサービスエリアのトイレで、ハリーと名乗る男がにこやかに声をかけてくる。ハリーはミシェルの高校のときの友人だといい、なぜか別荘まで押しかけてくると、ミシェルが高校の頃に同人誌に書いた詩を暗誦、あれはすばらしかったよ、とうっとりと語る。でもあれはもっとすばらしかったなあ、とハリーが語るのが、猿の頭にプロペラをつける男が登場するSF「空飛ぶ猿」(どんなだよ。しかも3ページで中断。ありがち……)。そしてハリーは、ミシェルに向かって「今は書いてないのかい」と残念そうに言うのである。
どうですか。あなたが10年以上前に同人誌に書いた作品を克明に覚えている人が現れたら。不気味さとうれしさと恥ずかしさが入り混じったこの感覚。これは、同人誌経験のある人しかわからないのでは(初対面の大森英司さんに、「サイン会で藤田朋子に『いい名前ですね』って言われたって『月猫通り』に書いてましたね」と言われたときには、似たような感覚を覚えたものである)。
ハリーはその後もミシェルの創作再開に固執、ミシェルにさまざまなプレゼントを与え、そして彼の人生から創作に不要なものを次々に排除していくのである。
ちょっと『ミザリー』に似たところもあるが、あれよりもはるかに理知的な物語である。残酷で身勝手なミューズの話、といってもいいかも。
なんといってもハリーという人物が実に魅力的。狂気、といってしまえば簡単なのだけれど、彼は完璧に論理的だし理性的なのである。ただ、その論理が我々の論理とはまったくかみ合っていないので、ミシェルがなぜ自分の好意を拒むのか、彼には本当にわからないのである。この食い違いが、ほとんどファーストコンタクトSFのようにおもしろい。
別にタダで見せてもらったから言うわけではないが、見て損はない秀作。お薦めします。こういう知的なサスペンスを観てしまうと、しばらくハリウッド製サスペンスの杜撰さが耐えられなくなりそうだ(★★★★)。
▼話題の本、スペンサー・ジョンソン『チーズはどこへ消えた?』(扶桑社)を読む。といっても、本屋で立ち読みしただけだけど。立ち読みで10分少々で読める本なので、別に買う必要もない本である。
読み終えて不思議に思ったのは、謎が全然解かれていない、ということ。まがりなりにも「チーズはどこへ消えた?」というタイトルをつけているのだから、結末でどこへ消えたのか明かされるのだと思っていたのだが、結局この謎は解かれずじまい。これではミステリとしてかなり不満が残る。
そこで思い出したのが、かつて評判になった『誰がロビンズ一家を殺したか?』という作品のこと。疑問形のタイトルが『チーズはどこへ消えた?』によく似ている。しかもこの本も、ミステリでありながら解決編は付されておらず、真犯人は読者が推理しなければならなかった。似てるじゃないか。ということは、『チーズはどこへ消えた?』の真相も読者が推理できるのではないか(ちょっと強引ですか?)。
そこで今日は『チーズはどこへ消えた?』解決編を考えてみる。いったいチーズはどこへ消えたのだろうか。
まず、事件の容疑者を整理しておこう。容疑者はとりあえず4人(というか、2人と2匹)。
・小人2人(ヘムとホー)。
・ネズミ2匹(スニフとスカリー。2匹の個性の違いは不明)。
次に確認しておきたいのは、チーズは彼らが食べたからなくなったのではない、ということ。「チーズが日に日に少なくなっていった」というような記述があるため(本が手元にないので、括弧内は私のうろ覚えである)、彼らがチーズを全部食べつくしたのでなくなったのだ、と思っている人もいるかもしれないが、これはおかしい。彼らは、朝、チーズステーションに行って初めてチーズがなくなっていることに気づいたのである。もし自分で食べてしまったのなら、前日の時点で気づくはずではないか。いくらネズミ程度の知性でもこれくらいはわかるはずだ。つまり、チーズは食べつくしたのではなく、明らかに、誰かが持ち去ったためになくなったのである。ちなみに本の原題は"Who Moved My Cheese?"。チーズは誰かが"move"したのだ。
さて、以上を前提にして考えてみる。4人の容疑者の中で最も怪しいのは誰かといえば、それはどう考えてもヘムだろう。ヘムはチーズがなくなったことを嘆き、なかなかその場所を離れようとしない。ネズミ2匹は即座に別の場所に移動、ホーもしばらくヘムとともにその場にとどまったのちに移動するのだが、ヘムだけはただただ思い悩むだけで行動しようとしないのである。しかし、本当に彼は嘆いていただけなのだろうか? チーズが残り少ないことに気づいた彼は、ホーやネズミたちには黙ってひそかにチーズを隠し、残りのチーズを自分のものにしようとしたのではないだろうか。彼は嘆き悲しむふりをしてホーがその場を離れるのを待ち、その後悠々とチーズの隠し場所に向かうつもりだったのではないか。
しかし、チーズが残り少なくなっていたことは事実。たとえチーズを独り占めしたとしても、いずれはチーズはなくなり別の場所に移動しなければならない。チーズを独り占めしていた事実が発覚すれば、ホーたちと合流したとき、ヘムはチーズを分けてもらえないかもしれない。そのときのことを考えれば、ヘムがチーズを隠すのは結局は不利だということになる。頭の回るヘムがそんな危ない橋を渡るだろうか?
そこでもうひとつの解が考えられる。前の考察では小人たちの登場する部分のみを考えてきた。しかし、この物語が、入れ子形式のメタフィクションとして描かれていたことを思い出してほしい。プロローグとエピローグは、ごくふつうの人間たちがディスカッションをする場面であり、その作中作として語られるのが迷路の中に住む小人たちの物語なのだった。さて、ではこの迷路はどこにあるのだろうか。もしかしたら、人々が議論をしているその部屋の片隅に、この迷路があり、小人たちはそこにいるのではないだろうか。だとすれば、この部屋の中の誰かが迷路を上から覗き込み、アリの巣に水を垂らすように、何の気なしに迷路の中のチーズをひょいと取り上げたとすれば……。人間の気まぐれな行為が、小人たちにとっては環境の大激変になるのである。
作品のメタフィクション的構成を生かすとすればこの解決しかないだろう。また、これは、チーズステーションが袋小路で、ヘムとホーはその入り口で見張っていた、というような状況だとしても説明できる優れた解である。しかし残念ながら現場が密室状況だという記述はないし、また、人々がディスカッションしている部屋の中に迷路があるという記述もどこにもないのである。惜しいが、この解もまた捨てるしかないだろう。
そこで第三の解である。この際、前後のディスカッションは無視し、入れ子の内側の記述のみを考える。
ホーはその後の行動からみて犯人ではないし、ヘムの犯人説も否定された。ましてやネズミにはこのような犯罪は不可能である。そうすると答えは自ずからひとつに定まってしまう。チーズは4人以外の誰かが持ち去ったのである。
おいおい、いきなり容疑者以外の第三者が登場するのはアンフェアじゃないか、この物語にはこの4人以外出てこないぞ、という声が聞こえてきそうだ。しかし、物語の中に1ヶ所だけ、なんとなく違和感のある箇所があったのを覚えていないだろうか。まだチーズが大量にあったころのこと、2人の小人は「友だち」にチーズを自慢しているのだ。そう、この迷路には4人以外にも住人がいたのである! しかも、小人たちは無防備にも「友だち」にチーズを自慢している! この「友だち」の素性は明らかではないが、得意げな2人に恨みを覚えた「友だち」が、嫉妬のあまり2人が大切にしているチーズを盗んだ、という可能性は考えられないだろうか。
私としては第二の解にも惹かれるものを感じるのだけれど、やはり最も妥当なのはこの解だと思う。チーズ消失事件の犯人は、ヘムとホーの友だちだったのである。登場人物外の犯人。カーの某作品ばりのトリックである。そしてまた、この物語には「むやみに友だちに自分のものを自慢してはいけない」という奥の深いメッセージが隠されていたのである。
ということで、どうですか、みなさん(って誰よ)。
▼栗本薫『ルノリアの奇跡』(ハヤカワ文庫JA)読了。あいかわらずの冗長さ。このところのグイン・サーガは、400字で要約できる内容をわざわざ1冊かけてやっているように感じられてしまう。この巻を読まなくても、次の巻の裏表紙(このところのグイン・サーガは、普通なら「この巻の紹介」が書いてあるはずの裏表紙になぜか「前巻のあらすじ」が載っているのだ)を読めば充分でしょう(ま、そんな人はいないだろうけど)。しかし、なぜ国王軍は「ナリスが自害したよ」と言われて、ああそうですか、と素直に兵を引いてしまうんだろうか。
最近10巻くらいのグインをぱらぱらとめくっていて思うのだけれど、栗本薫の書き方には特徴がありますね。例えば「竜騎兵を全滅させてはならぬ。少なくとも最低二兵は生かしてとらえ、その素性、本性、能力などを調査するための捕虜とせよ」(本巻p.34)という台詞があれば、読者は、竜騎兵を捕虜にする、あるいは少なくとも捕虜にしようとする描写を期待するじゃないですか。でも結局それはない。
また、「さよなら、私のマルガ――私のみずうみ。この次出ていったら、私はもう戻ってこない」(59巻p.290)、「心得ております。――私も、もう、ナリスさまを、マルガへおかえしはいたしませぬ」「この次に、私たちが、マルガへ戻るときには、ともに――物言わぬ棺のなかの身となって、ね……」(70巻p.87)という台詞があれば、ああ、ナリスはもうマルガには戻らないのか、と思う。でも、本巻ではそのマルガを根拠地にしてナリスはパロ王を宣言するわけである。
また71巻にはナリスがグイン宛ての密書をしたためた、という描写があるが、これが届いたという描写は今のところ見当たらないようだ。
もちろん、未来が完全に読める人間などいないし、別にキャラクターが自分の宣言通りに行動しなければならない、という法則はないのだけれど、小説の書き方としてこれはどうだろう。これでは行き当たりばったりと批判されても仕方がないのではないだろうか。
スカールの「俺は、いつか未来にグインに会うだろう」(66巻p.200)という台詞が反故にならないことを願ってます。
▼そういえば、web本の雑誌の読書相談室に、
栗本薫さんのグイン・サーガを読もうと思っているの
ですが、どこから手をつけたらよいのやら、迷って
おります。お薦めの巻などありませんでしょうか?
という質問がありました。お薦めの巻。考えたこともなかったなあ(笑)。回答はもちろん「迷わず言います。頭っから読みなさい」。私としてはむしろ(以下略)。
▼ミステリー文学資料館編『「猟奇」傑作選』(光文社文庫)購入。光文社文庫からは、山田風太郎ミステリー傑作選も出ていて、買おうか買うまいか迷う。どうせほとんどすべてが先行の本で読めるんだろうけど……。
▼今日は大学病院の医局で定例の研究会。我が出身医局は4月で本院と統合されてしまうので、今回が最後の研究会である。最後なので大物を呼ぼう、ということで講師として招かれたのは土居健郎先生。『「甘え」の構造』の著者として有名ですね。それから、『方法としての面接』は小冊子ながら、精神科を志す医者なら必ず読む名著である。
土居先生は今年で81歳。さすがに声はかすれていて聞き取りにくいけど、至って元気でとても80代とは思えない。いったい何の話をするのだろう、と思っていたら、ゆるゆると語り始めたのは、少年時代から精神科医になるまでの自伝。まあ、老大家のみに許された講演といえよう。
かすれがちの声に、効きすぎの暖房もあいまって、ついつい意識を失いかけてしまった私なのだけど、後半になって精神科医、精神分析家としての経験を語りはじめると、さすがに長い臨床経験を持つ土居先生だけあって、その言葉のひとことひとことに深みがある。
印象に残った言葉をいくつか挙げてみよう。
「お金儲けだけのための医療はつらいし、人助けだけのための医療もつらい。そこに何か発見があることが、医者としての生きがいになる」
「治療が堂堂巡りに入ったときがいちばんおもしろい。そこをどう突破するかで勝負が決まる」
「臨床にマニュアルはない。いつも出たとこ勝負」
「治療をしていて、しまった、と思ったときがいちばん大事」
「(精神科臨床は)AはBである、という答えを出すのではない。AはBなのか!という驚きがないと治療的な意味はない。!か?があるところで治療関係が進む」
これだけ読むと誤解を招きかねない表現もあるけれど、50年の臨床経験を持つ土居先生が語る言葉だからこそ重みがあるのですね。私なぞが「出たとこ勝負」なんて言ったら噴飯ものだけど、あくまで知識と経験に裏打ちされた「出たとこ勝負」だからこそ意味があるのである。
▼『ユリョン』を観る。
韓国版『沈黙の艦隊』+『クリムゾン・タイド』の潜水艦娯楽映画かと思いきや、これがなんともいやな後味の映画で、私はずっしりと疲れました。
気になったのは、副艦長がクーデターを起こして日本に核攻撃をしようとする理由も、乗組員たちがそれについていく理由も今ひとつ不明瞭だということ。なんだか、日本が敵なのは当然でしょ、というような雰囲気が映画の全編に流れていて、それを批判する視点がまるでないのである。観てるほうとしては、まるで、ソ連が悪役のハリウッド映画を観ているロシア人のような気分。
それに、主人公がたったひとりでそれを阻止しようと立ち上がらなきゃならない理由もよくわからない。驚いたことにこの主人公、日本の各都市に核ミサイルを打ち込もうとする副艦長に「戦争を起こす気なんですか!」と、詰め寄ったあと、こういうのだ。
「まだ準備ができてないでしょう」
じゃ何か。準備ができたあとならいいのか。
『シュリ』ではまだ敵を一個の人間として見る余裕があったけど、この映画にはそれすらないのである。
純粋にアクション映画として観ても、今ひとつ緊迫感が感じられないのが残念(★★)。
▼ブライアン・ラムレイ『タイタス・クロウの事件簿』(創元推理文庫)、北原尚彦『霧幻帝都』(エニックス)購入。
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