チーズはどこへ消えた? 完結編
スペソサー・ジョソソソ M.D.

 第二の男は語る。

 ホーがチーズステーションNにたどりついてからすでに半年が過ぎていた。
 半年たっても大量のチーズはいっこうに減る気配を見せなかった。ホーはネズミたちと一緒に、満ち足りた生活を送っていたが、心の中には淀みのような悔いが残っていた。ヘムはいったいどうしているだろうか。ヘムを置いてきたのは間違いではなかったろうか。ホーは一日たりとも、ヘムを心配しない日はなかった。
 そんなある日のこと、いつものようにチーズをほおばりながらふと振り向いたホーは、こちらに向かって歩いてくる人影を発見した。ヘムだった。すっかりやせこけ、髭面になっているが、それは確かにヘムだった。重そうなリュックを背負い、一歩一歩近づいてくる。
 ホーはうれしさのあまりヘムに駆け寄った。
「ヘム! やっと動く気になったんだね。心配していたんだよ。古いものにしがみついていても何の得にもならないことがわかったろう」
「いや」ヘムは落ち窪んだ目をぎらぎらと輝かせて言った。「ぼくは誰がチーズを持ち去ったのかずっと考えていたんだ」
「そんなことより変化にすばやく対応して新しい何かを探す方がいいっていうのが、今回のことの教訓じゃ……」
「違う。今回君たちはたまたまチーズを見つけた。でも見つからなかったらどうするつもりだ。変化に対応しろだと? 未来は過去の上にある。無能なネズミたちのように過去は忘れて今だけに対応していればそれでいいと、君は本気で思っているのかい」
「まだそんなことを言っているのか」ホーはうんざりした。
「とことんまで過去を分析して真相を見出さないかぎり、また同じことが繰り返されるだけだ。ぼくは全員を疑ったよ。君、スニッフ、スカリー。しかし論理的に考えてこの3人ではありえない。それは今の3人の状況を見ても明らかだ。最後にたどりついた結論が、昔ぼくらが家に呼んでチーズを自慢した友だちが犯人なのではないか、というものだ。もしかしたら、ぼくらを妬んだ彼らがチーズを盗んだんじゃないか」
「ヘム……君は疲れているんだよ」
「ぼくは全力で走って彼らの巣穴にたどりつくと、穴の中に向かって大声で怒鳴った。『チーズを返せ!』とね。何度も何度も叫んだよ。声がかれるまで。あのときのぼくを見たら、君はぼくが狂ったと思っただろうね」
 今もそう見える、とはホーにはとても言えなかった。
「ヘム、チーズは傷んできていたし、だいぶ減ってきていたんだよ。そんなチーズを盗みたい奴なんているかい」
「そうだ」意外にもヘムはうなずいた。「叫び疲れて放心したぼくが思い当たったのも、それと同じ結論だよ。そこにたどりつくまでに、君より長くかかったがね。傷んだチーズなどほしがる奴はいない。しかし君も知っている通り、チーズは何者かに持ち去られた。なぜだと思う?」
「さあ……」
「チーズは傷んだからこそ持ち去られたんだ。チーズが傷んでいたこと。それが犯人がチーズを持ち去った理由なんだ」
「君の言うことはよくわからないよ」ホーは首を振った。
「おかしいとは思わないか。チーズというのは地面から生えてくるものではないだろう。これは明らかに何かを加工した食べ物だ。その何かがどんなものなのかはわからないがね。そのチーズが、なぜこの迷路の中のあちこちにあるんだ? そしてなぜぼくたちはこんな迷路の中にいる?」
「ヘム……」
「チーズは誰かが置いたからそこにあるんだ。そして傷んだから取り除いた。取り除いたあとに、その誰かは、少し離れたこの場所に新しくチーズを置いたんだ。ちょっと探しただけで都合よくチーズが見つかるなんておかしいとは思わなかったか? ここにあるチーズは、なくなったチーズの代わりにここに置かれたのさ」
「いったい誰がチーズを置いてるっていうんだ?」
 ヘムは頭上に広がる空を見上げた。
「この迷路を作った誰かだろう。〈神〉と言えば気に入るかい? ぼくとしてはむしろ〈飼い主〉と呼びたい気分だがね。いいか、ぼくらはこの迷路の中に飼われているんだ。チーズを別の場所に置いたのも、〈飼い主〉としてはちょっとした実験、でなければお遊びのつもりなんだろう。奴は、ぼくらが慌てふためくのを上から見て笑っているんだ」
「ヘム、君はちょっと休んだ方がいいよ」
 ホーには、もはやヘムが妄想にとらわれているとしか思えなかった。かわいそうに、たった一人チーズなしですごした半年がよほど辛かったのだろうか。
「いや、休むつもりはない。そんなことをしている暇はない。ぼくはこの迷路から出て〈飼い主〉に会いに行く。そしてこんな残酷な実験をやめさせてやる」
「迷路から……出るだって?」
 ホーは、その言葉を聞いただけで恐怖に体が震えるのを感じた。迷路の外の世界。そんなことは今まで考えたこともなかった。
「でも、迷路の外にはチーズがないかもしれないんだぞ」
「チーズなんかどうだっていい! チーズなどは失ってもいいから、理不尽な仕打ちには断固として抗議する。これがぼくがこの半年でたどり着いた結論だ」
「でもどうやって?」
「それも考えてある」
 そして、ヘムは大声で友だちを呼んだ。かつて二人がチーズを自慢した友だちだ。
「彼らとは仲直りしたんだ。疑ったことを詫びたら、快く許してくれたよ」
 カサカサ、と音がしたかと思うと、黒い影がわらわらと現れた。たちまち、10匹近くの「友だち」が二人のまわりに集まっていた。
「彼らは、ぼくらよりいろんなことをずっとよく知っていた。外の世界のこともね。彼らによれば、この迷路の外には〈キッチン〉と呼ばれる場所があり、そこにはここよりもずっと多くの食べ物があるそうだ。もっとも、そこには危険な罠も仕掛けられているそうだが」
 ヘムは背負った荷物の中から絨毯を取り出すと、地面に広げた。絨毯の周囲からは何本ものロープが放射状に伸びている。ヘムはそれを「友だち」たちの胴にしっかりと結びつけると、絨毯の上に乗った。
「ホー、いつまでこんな迷路の中に閉じ込められているんだ。君はチーズが食べられればそれでいいのか? チーズにとらわれた生活がそんなに大切か? 迷路の中を走りまわり、発見したチーズを食べて満足する。君の人生はチーズに支配されているんだぞ。それで悔いのない生き方といえるのか? それじゃ〈飼い主〉の思う壺じゃないか。
 ぼくは〈飼い主〉に戦いを挑む。こんな下らない世界は破壊してやる。おそらく勝ち目はないだろうが、これはぼくのプライドの問題なんだ。〈飼い主〉にひと泡だけでも吹かせてやるつもりだ。ホー、君もぼくと一緒に来ないか。ぼくは君を誘うためにここに来たんだ」
「ぼくは……」
 ホーは後ろを振り返った。チーズステーションNには、まだまだ食べきれないほどの大量のチーズ。スニッフとスカリーが、何も考えず一心にチーズにかぶりついている。下手に考えたりせず、この迷路の中でチーズを探す生活を送っていれば、豊かで安泰な毎日は約束されているのだ。ここにあるチーズがなくなれば、またネズミたちのように迷わず探しに行けばいい。チーズはどこかに必ずあるはず。それが今回の事件の教訓だったはずだ。ヘムはやはりどこかで道を間違えている。
「ここで暮らすよ」
「そうか」ヘムは少し寂しそうな目をしてうなずくと、「いいぞ」と「友だち」たちに合図をして一本のロープを引っ張った。
 「友だち」たちが一斉に羽ばたいた。ヘムを乗せた絨毯が空に浮かび上がった。
「さよなら、ホー」
 絨毯が黒い点になり、目を凝らしても見えなくなるまで、ホーは空を見つめていた。やがてホーは後ろを向き、ゆっくりとチーズステーションへと歩き始めた。
 ヘムも愚かな選択をしたものだ。ヘムがいなくなったのは寂しいが、〈飼い主〉に戦いを挑むなんて馬鹿げている。おそらくヘムはどこかでのたれ死ぬだけだろう。なぜヘムがチーズに背を向けるのか、ホーには理解できなかった。
 チーズこそ人生の目標。
 チーズこそしあわせの証し。
 チーズがあれば欲しいものは何でも手に入る。
 そして、目の前には大量のチーズ。
 ホーは幸せだった。

 男が話し終えると、みな戸惑ったように顔を見合わせた。
「どういう意味なのかさっぱりわからないな」
「会社や家庭を破壊してでもプライドを守れ、というのかね。それはずいぶん……反社会的だよ」
「私も、さっきのマイケルの話の方がよかったわ。なんだかあなたの話は薄気味が悪いわ」
「ひねくれた物の見方しかできないんだな。不幸な男だ」
 そのとき、アンジェラがふいに悲鳴を上げた。
「どうしたんだ」いぶかしげに訊いたカーロスも、アンジェラの指差す方向を見て絶句した。
 半開きのドアの向こうから、何か黒い塊のようなものが飛んでくる。いや、そうではない。塊に見えたのは、ゴキブリだった。10匹近くのゴキブリが群れをなし、羽音をたてて彼らめがけて飛んでくるのだ。
 ジェシカが顔を覆った。マイケルは大きく目を見開き、凍りついたように動かない。
 そして彼らは見た。
 ゴキブリたちの体からは糸が伸び、ぴんと張った糸の下には襤褸切れがぶらさがっていた。その布にくるまるようにして立っているのは、ぼろぼろのジョギング・ウェアを身にまとい、悪鬼のような形相で彼らを睨みつける醜怪な矮人の姿なのだった。
(last update 01/03/17)

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